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足利政知

良質な記事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
足利 政知
時代 室町時代中期 - 後期(戦国時代
生誕 永享7年7月12日1435年8月6日[1]
死没 延徳3年4月3日1491年5月11日
改名 清久(法名)→政知
別名 豆州様[2]、豆州主君[2]、鎌倉殿[3]、征東将軍[3]
戒名 勝幡院、幢勝院九山
墓所 静岡県三島市宝鏡院
官位 従三位左兵衛督
幕府 室町幕府 初代堀越公方
主君 足利義政義尚義稙
氏族 足利将軍家
父母 父:足利義教
母:斎藤朝日妹(朝日氏
兄弟 義勝政知義政義視、他
正室:不詳[注釈 1]
側室:円満院武者小路隆光の娘)[注釈 1]、他
茶々丸義澄潤童子[4][5]
花押 足利政知の花押
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足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代中期から後期にかけての武将足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。

室町幕府の第6代将軍足利義教の四男。第7代将軍・足利義勝の異母弟で、第8代将軍・足利義政足利義視の異母兄にあたる。第11代将軍・足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた[6][7]

概要

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鎌倉公方足利成氏享徳の乱を起こし、古河公方鎌倉から古河へ拠点を移したことによる)と称されると、室町幕府は成氏に代わる新たな鎌倉公方を派遣することにした。成氏討伐のため、政知は弟の足利義政の命により還俗し、幕府公認の鎌倉公方として関東に下向した。

だが、成氏の力が強大なため、政知は鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まらざるを得なかった。このため、政知は堀越公方と称された。

政知は関東において、山内上杉氏扇谷上杉氏の両上杉氏といった諸勢力と協力し、成氏の討伐にあたった。だが、成氏討伐に失敗したうえ、義政が命じた斯波氏の援軍もなかなか来ず、さらに京都応仁の乱が発生したため、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま、伊豆に留め置かれることになった。そのため、堀越公方の影響力は伊豆一国と駿河相模武蔵の一部地域に限られた。

やがて、応仁の乱の終結に伴い、幕府と成氏の和睦交渉が進められ、享徳の乱も都鄙和睦によって集結した。だが、政知はこの和睦で伊豆一国の領有を認められるにとどまり、成氏が正式な鎌倉公方とされたため、その立場を失った。

晩年、政知は京都の細川政元と連携し、次男の義澄を将軍に、三男の潤童子を堀越公方にする野望を成そうとしたが、その計画の途中で死去した。

生涯

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出家と還俗

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足利義政

永享7年(1435年)7月12日、室町幕府の6代将軍・足利義教の四男(庶子)として生まれる[1][8][9]。母は幕府奉公衆斎藤朝日の妹[1][10]。幼少期からとして育てられ、清久(せいきゅう)と名乗り、天龍寺香厳院主となった[3][11]

嘉吉3年(1443年)7月、長兄の義勝が死去すると、清久ではなく、弟の義政足利将軍家の家督を継承した[注釈 2]。清久は義政よりも年上であったが、義政が将軍家に御台所を代々輩出してきた日野家の所生であったため、こちらが家督を継承する形となった[12]

長禄元年(1457年)7月、幕府は享徳の乱における状況打開のため、清久を「関東主君」、つまり正式な鎌倉公方と決定した[2]。これは、幕府と敵対状態にあった古河公方(鎌倉公方)・足利成氏に対して、上杉氏が成氏に代わる鎌倉公方の派遣を幕府に要請したことによるものであった[11]

12月19日、清久は義政の命により還俗し、その際に義政からの偏諱を受けて、政知と名乗った[2][11][注釈 3]。政知の名を勧進したのは、日野勝光であった[3]

同日、政知は朝廷より、従五位下左馬頭に叙任されるなど[10]、鎌倉公方就任の準備が進められた[3]。一連の儀式はまた、足利基氏の先例に基づいて行われたものであった[3]

関東下向・堀越公方勢力の形成

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国清寺伊豆の国市

12月24日、政知は渋川義鏡と共に京都を出立し、近江園城寺に入った[10][2]。政知がなかなか関東に下向しなかった理由としては、下向の時期が整っていなかったという判断があったと考えられる[2]。また、下向の日取りについては、陰陽師の日時勧進の影響もあったとされる[13]

長禄2年(1458年)5月25日(6月8日とも)、政知は幕府から「天子御旗」を渡され、関東へ下向した[2][10]。政知は下向に際し、義政から関東における御料所(鎌倉公方の直轄領)、新闕所の処分権(敵方の所領を処分して味方に与える権利)、寺社領の安堵権、兵糧料所の管理権も認められた[14]。政知はまた、奉行人布施為基朝日教貞(教忠)、朝日教清富永持資(持賢)らを連れて下向した[15]。さらに、渋川義鏡や上杉教朝関東執事として、政知の補佐役とされ、同時に下向した[16][3]

だが、政知は幕府公認の鎌倉公方として派遣されたものの、成氏の勢力が強大なために鎌倉に入ることができず、伊豆に逗留した[11]。政知が伊豆に到着したのは、5月25日以降から8月13日までの間と考えられている[10]。政知は伊豆の政治的中心地であった奈古屋の国清寺に入ったが[2]、同寺は山内上杉氏菩提寺があり、伊豆の守護所であったともされる[17]。その後、政知は北条内堀越に堀越御所を構えたため、「堀越公方」と呼ばれるようになった[2][18]

かくして、関東には堀越公方という第三の勢力が形成されるに至った[19]。また、これまで関東で幕府軍として戦っていた軍勢は堀越公方の指揮下に入り、奉公衆東常縁相模駿河国人でもある)の大森氏頼実頼父子、武蔵千葉実胤自胤兄弟などは、政知の政治勢力に属す形となった[19]

幕府の関東出兵失敗・成氏方との抗争

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斯波義敏

幕府は政知の下向にあわせて、関東や奥羽、東海の大名・国人衆に動員をかけ、大規模な成氏討伐計画を進めていた[10][20]。7月24日の時点で、渋川義鏡ら諸大名に出陣が命じられている[20]。また、義政が自ら動き、8月には下総の結城直朝に数度の命令を下しているほか、信濃小笠原光康小笠原氏の一族・家臣にも命令が下されている[10][20]

そして、6月下旬に義政は政知の伊豆到着と前後して、 越前尾張遠江守護の斯波義敏に対し、関東出兵を命じた[21][22][23]。この当時、関東にいた幕府方は、上杉氏以外に、足利氏一門の渋川義鏡や吉良義真、駿河守護の今川範忠であった[24]。だが、義鏡や義真は守護ではないので軍事力が低く、範忠も関東の抑えとしての役目を担っていたため、義政は斯波氏に政知の援軍の主力となることを期待したのであった[24][25]

他方、義政は義敏と抗争する守護代の甲斐常治(将久)にも出兵を命じていたが、この常治は主君の義敏と不和な状況にあった[26][22]。義政は義敏と常治による斯波家中の内紛(長禄合戦)を収拾できず、幕府軍による関東出兵政策は事実上頓挫した[26]。また、義敏も家中統制がままならず、関東出兵ができなかったため、義政の信任を失っていった[26]

9月24日、岩松持国が上杉方に参陣すると、政知はそれを賞する御教書を出した[20]。持国は享徳の乱勃発直後から成氏方であったが、この帰参は武蔵五十子陣の上杉方が持国を懐柔し、交渉した結果であった[20][27]。また、3月27日に義政が御内書を、政知が奉行人奉書を発給し、持国や一族の岩松家純との政治折衝を行っていたことが確認できる[27]

11月(10月末とも[20])、渋川義鏡や上杉方の軍勢が利根川を越え、古河の成氏を攻撃すべく、五十子陣に集結した[20][27]。そして、成氏方に攻撃をかけたが、この戦いに敗北した(五十子の戦い[20][27]

11月10日、「京都御方が打ち負けた」との報が、京都にもたらされた[20][25]。この戦いでは、参陣を命じられていた結城直朝が蘆名盛詮との争いで参戦できず、他の奥州勢も参戦しなかったようである[25]。なにより、義政や幕府の面々が政知の援軍に期待した斯波勢が、内紛で関東に出陣しなかったことが、敗北の大きな要因であった[25]

11月17日、上杉方は成氏方と上野の佐貫庄岡山で合戦を行った[20]。このとき、政知は義政と共に、岩松家純を「信州御勢」の大将に起用したとされ、このことから信濃からも軍勢が参加していることがうかがえる[20]

長禄3年(1459年)2月、岩松持国の次男・成兼が上杉方を離反し、成氏方についた[28]。これにより、持国と成兼は親子で抗争することになった[28]

5月、斯波義敏が再三にわたる義政の督促により、関東出兵のための軍勢を集め、京都から出陣した[29][30]。だが、義敏は越前に向かって進軍し、甲斐方の金ヶ崎城敦賀城を攻めて大敗したため、義政の逆鱗に触れた[29][30]。これにより、8月に義政は義敏の斯波氏家督を剥奪し、子の義寛(松王丸)に代えた[26][31]

10月、政知や上杉氏らは、成氏方に大規模な軍事攻勢をかけようとした[25]。このとき、上杉方は一門や有力被官など動員できる勢力を全て集めており[31]、堀越公方からも渋川義鏡が軍勢を率い、五十子陣に入っている[32]。だが、奥州の伊達氏白川結城氏蘆名氏らは幕府から軍事催促を受けていたにもかかわらず、参陣していない[31]

10月14日、堀越公方及び上杉方は古河に進軍するさなか、武蔵太田荘会下(えげ)において、成氏方と合戦を行った[32][28]。このとき、堀越方は渋川義鏡が、上杉方は山内上杉房顕や扇谷上杉持朝、越後の上杉房定ら軍が率いていた[32][33]

10月15日朝、両軍は上野の海老瀬口において、夕刻には同国佐貫荘の羽継原で戦闘を行った[32]。戦場が徐々に東に移動していることから、当初は上杉氏が優勢だったとみられるが[28]、やがて成氏方に敗北した[32][33]。敗れた渋川義鏡と岩松家純は豊島郡浅草まで退いてここに陣取ったほか、上杉房定は五十子陣に後退し、上杉持朝は本拠地の河越城まで逃れた[32][2]。だが、成氏方もこの総力戦といえる合戦で疲弊し、以後は古河と五十子で両軍がにらみ合って在陣する状況が長く続いた[34]

政知は伊豆にいたが、この知らせを受け取ると、戦いに参加した武将らに感状を出している[32]。岩松持国にも感状が出され、子息の宮内少輔が負傷したことは感嘆に堪えないので、京都に注進するつもりであることを、渋川義鏡が書状で約束している[32]。宮内少輔の戦功は岩松家純が幕府に注進し、12月26日に管領の細川勝元から御教書が出されている[35]。また、堀越公方の勢力は武蔵まで進出しており、合戦後にその大将である渋川俊詮(義鏡の兄か叔父)が浅草に在陣している[2]

長禄4年(寛正元年、1460年)4月、義政の感状が上杉方の武士らに対し、数多く発給された[36]。これは、上杉房顕や上杉房定が自身に従った配下の武士らの求めにより、各人に感状を出してほしいと義政に申請し、義政が応じた結果であった[36]。義政は感状を書き終えると、政知に御内書を出し、房顕の注進に応じて武士らに感状を出したので、心得ておくようにと指示を出している[36]。幕府が関東に大軍を派遣することが困難な状況で、義政は味方となる武士の心を引き付けておこうと最大限努力し、そのために多数の感状を書くことも厭わなかったことがうかがえる[37]

堀越への移動・幕府の対応

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伝堀越御所跡(伊豆の国市)

長禄4年正月、駿河守護の今川範忠が前年の敗北を受けて[38]、自身が制圧していた鎌倉を離れ、駿河に帰還した[39]。今川氏が引き上げると、上杉氏の配下である伊豆の狩野氏や、渋川義鏡やその家臣の板倉氏が鎌倉を支配した[40]。だが、下向した勢力と現地の勢力との間には矛盾や対立があり、堀越公方の支配は安定しなかった[40]

4月(または5月[41])、政知の陣所である国清寺が成氏方によって襲撃され、焼き討ちにあった[41][42][43]。そのため、政知は同月以降、堀越へ本拠を移し[2][42]円成寺を接収する形で堀越御所を構えた[41][44]

この成氏方の攻勢は、先の堀越公方や上杉方の敗戦を受けたものとみられるほか[41]、正月に今川範忠が帰国したことで防御が手薄になり、隙ができたこともあった[42][43]。なお、国清寺を襲撃した成氏方の勢力は不明であるが、上杉氏の勢力圏である伊豆や駿河東部、相模西部にも成氏方の勢力の存在が知られている[45]。具体的には、相模西郡小田原城大森憲頼成頼父子、同西郡篠窪郷の二階堂篠窪次郎、伊豆伊東郷の伊東右馬允などである[46]。伊豆東北部から相模西部には成氏方の勢力が比較的厚く存在しており、政知が鎌倉に入れなかったのはそれらの勢力のためで、国清寺を攻めたのもまたそれらの勢力と考えられる[46]

政知は成氏討伐どころか自らの命さえ危うい状況であり、4月27日に政知や渋川義鏡の意向を受けた板倉頼資が上洛し、関東の情勢を伝えるとともに、幕府と軍事力に関して対応を協議した[42]。協議の結果、斯波勢が再編されることになり、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景甲斐敏光が関東に派遣され、堀越方の軍事力の目処は立った[47][48]。斯波氏の軍勢が動員されたのは、政知や義鏡が今川勢の帰国によって欠けた軍事力を、斯波勢によって補おうとしたからと考えられる[49]

また、政知は長禄4年の段階で、斯波氏の越前・尾張・遠江の軍事力を背景に、箱根山を越えて相模に進み、8月か9月には鎌倉に入る計画を立てていたようである[50]。その計画は、板倉頼資から義政に伝えられたとも[50]、義政に諮らなかったともされる[46]。他方、この相模への進軍計画は、政知が先の国清寺襲撃に対する敵対勢力への報復を意図した可能性もある[46]

しかし、政知が渋川義鏡と共に相模へ進軍しようとすると、両名が「箱根山を越えた」との情報を受けた義政より、8月22日に「粗忽の企て」で「一向に不忠」として強く制止された[46][48][50]。義政が政知の相模入国を許さなかったため[48]、政知の鎌倉入りは延期となった[50]。この一件は、鎌倉公方としての政知の自発的な軍事活動を否定し、室町殿である義政に軍事動員権があることを示したものであった[48]

閏9月、政知は義政から制止されたことを受けて、近臣の朝日教貞を上洛させ、義政にその窮状を訴えた[48]。これにより、10月に義政は関東や奥羽の諸将に対して、一斉に大量の御内書を発給し、関東進軍を命じている[46][48]。なお、義政が発給した御内書の数は31通にのぼり、26通は奥州探題の大崎氏や羽州探題の最上氏ら奥羽の武家、それ以外の4通は成氏方の有力者に宛てられたものであった[51]

このとき、義政が示した姿勢はこれまでに見られない大規模なものであり、成氏討伐にようやく本腰を入れた形になったが、関東や奥羽の諸将はこの出陣要請に応じなかった[52]。おそらく、諸将は前年の成氏への大規模な攻撃計画の失敗を見て、幕府の動員命令に対する信頼を失ったと考えられる[38]

寛正2年(1461年)5月、上杉方であった岩松持国・宮内少輔父子が成氏に内通し、その露見を受けて、岩松家純が両者を殺害するに至った[52]。おそらく、持国父子は家純の下に位置することに耐えかねたようであるが、両者の死によって、岩松氏は家純に一本化された[52]

8月、渋川義鏡の家臣・板倉頼資が、鎌倉の鶴岡八幡宮社頭の掃除を町人百余人に命じており、鎌倉を支配下に置いたと思しき権限を行使している[17]。政知の下向以降、鎌倉には堀越公方の指揮下にある駿河の今川氏や相模の扇谷上杉氏の兵力が展開していたと思われるが、政知や義鏡は斯波氏の軍事力を背景に、長禄4年3月から8月の間に鎌倉の支配権を移行させたと推測される[53][注釈 4]

9月、義政は斯波氏の家督を、斯波義寛から斯波義廉に代えた[43][54]。義廉の父は渋川義鏡であり、政知の側近でもあったことから、この家督交代は義鏡の働きかけもあったとみられ[54]、一度頓挫していた斯波氏の関東出兵と無関係ではないと思われる[43]。また、義鏡が斯波氏の越前・尾張・遠江の軍事力を以て、堀国公方の軍事力を増強する意図もあったとみられる[54]。義鏡は引き続き関東に在陣し、堀越公方を支えた[29]

10月、遠江において「国忩劇」と呼ばれる大規模な騒乱が発生したが、これは斯波氏の家督や遠江の守護職が義敏から義廉に変更されたことに対して、国人衆が反発したものだとみられる[55]。斯波氏の遠江勢は前年の秋以降、越前勢や尾張勢と共に鎌倉に出陣していたが、この混乱によって遠江に帰還した[55]。また、渋川義鏡も板倉頼資を遠江に送った[55]

12月19日、義政は帰国した斯波氏の遠江勢の兵力を補うため、駿河守護の今川義忠(範忠の嫡子)に対し、政知が無勢なので伊豆に赴くように命じた[56]

寛正3年(1462年)3月14日、幕府は遠江の「国忩劇」収拾のため、瑞智西堂と梵伊西堂の2人を派遣し、これによって和睦が成立したとみられる[57]。その後、4月中旬に板倉頼資が遠江から相模一宮に戻っていることから、斯波氏の遠江勢も鎌倉に帰還したとみられる[57]

扇谷上杉氏との対立・渋川義鏡の失脚

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寛正2年10月、政知のもう1人の補佐役である関東執事の上杉教朝が、「心中に決し難きことあり」として、伊豆の国清寺で自害した[58][55]。当時、政知は御料所や新闕所の処分権を与えられていたことで、相模や武蔵東部といった扇谷上杉氏の勢力圏において、両国の御料所や闕所地を収公し、それらを自身の近臣に与えていた[59]。その中には、扇谷上杉氏が武蔵における本拠としていた河越荘も含まれていた[59]。教朝が自害したのはその事態解決に苦慮したからと考えられるが、扇谷上杉氏の側でもまた、太田道真(資清)が家宰を辞して隠居していることから、両者の間で均衡がとられたものとする見方がある[58]

10月23日、義政がこれを受け、政知と渋川義鏡に宛てて、事々に諷諫し、扶持を加えるように指示している[55]。また、上杉政憲(教朝の長男)が新たな関東執事として、京都から伊豆に派遣された[55][60]

寛正3年3月、扇谷上杉氏当主の上杉持朝が政知と対立したことより、成氏方に離反したとする「雑説」が流れた[57][58][61]。義政はこの報に接すると、政知に「非常に驚愕している」と伝え、持朝が「代々の忠節者」であるとし、その分国や所領に関して保障するよう要求した[58]

だが、堀越公方と扇谷上杉氏の対立は深刻で、その余波を受けてか、3月に相模の三浦時高が、4月に千葉実胤らが隠居する事態に発展した[57][58]。二人はともに両勢力の板挟みにあい、そのために進退窮し、隠居せざるを得なかったと考えられる[62]

上杉教朝の自害や上杉持朝の「雑説」をはじめ、太田氏三浦氏千葉氏の隠居は全て一連のものであり、政知ら堀越公方が関わった政争であったとみられる[63]。この結果、政知は持朝の相模守護職を罷免したとされる[63]。また、渋川義鏡が一連の事件に深くかかわり、持朝の守護職罷免も義鏡によるものとする見方もある[33][64]

11月初旬、堀越公方と扇谷上杉氏との間で和解が成立した[60]。堀越方は持朝の離反が事実でないと幕府に報告し、扇谷上杉氏の分国や所領の維持を容認した[60]。これを受け、同月19日に義政は上杉政憲に宛てて、そのことを賞している[60]

12月、義政は政知や上杉持朝らに御内書を下し、持朝の地位を保障するとともに、河越荘など扇谷上杉氏が領有する御料地や闕所地、家臣の所領で発生した闕所地に関しても、従来の領有権や進退権を保証した[63][60]。また、政知に対しては、扇谷上杉氏から収公した兵糧料所を元に戻すことも命じている[60]

この混乱の収拾のためか、寛正3年頃に渋川義鏡が幕府によって、関東執事から解任された[33][65][64]。義鏡が失脚した理由は明確ではないものの、堀越公方と扇谷上杉氏の政争による影響とされ、扇谷上杉氏が復権したことに伴うものとみられる[65]。また、義鏡が京都から下向した面々を重用したことによる在地勢力の反発のほか、相模の諸将からの反発も理由とされる[33]。いずれにせよ、義鏡の失脚により、その勢力が堀越公方から消滅するに至った[65]

山内上杉氏との対立

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鹿王院

寛正3年11月23日、政知は奉行人奉書を出し、山内上杉房顕の家宰・長尾景信に対して、武蔵の千葉実胤が兵糧料所とする豊島郡赤塚郷を領主の京都鹿王院に引き渡させるように命令するとともに、実胤に与える替地を連絡するように命じた[66]。この地は実胤が山内上杉氏(または扇谷上杉氏)から兵糧料所として与えられていたが、政知の関東下向により、渋川義鏡とその家宰の板倉頼資によって御料所や新闕所の調査が行われた際、その斡旋によって、政知が改めて認めたようである[66]。だが、鹿王院から幕府に赤塚郷の返還申請が出され、この地が鹿王院にとって極めて重要な寺領であったことや、渋川幸子足利義詮の正室)が寄進した地でもあったため、幕府も要求を飲まざるを得なかったとみられる[66]

寛正4年(1463年)2月、政知は千葉実胤に対して、山内上杉氏を介さずに奉行人奉書を直接出し、実胤に幕府の命に従い、赤塚郷を鹿王院に引き渡すことを命じている[66]

4月15日、政知は奉行人奉書を出して、赤塚郷の鹿王院雑掌に対し、堀越公方の御料所となった武蔵入東郡宗岡郷の仙波対馬守分(闕所地として収公された地)について、代官となった長岡清仲が自身の被官を入部させようとしたところ妨害を受けたので、その被官への支援を要請している[66]。宗岡郷が御料所となったのは、義鏡と板倉頼資の調査の結果と思われるが、実際にはすでに上杉方の人物の所領になっていたようで、代官から派遣された被官の入部を妨害した者はその当知行人であったとみられる[66]。また、政知が鹿王院に支援を要請したのは、赤塚郷の返還問題に堀越公方が尽力した見返りとみられ、一種の利益交換であったと考えられる[66]

12月、上杉房顕が幕府に関東管領を辞職することを申請したが、同月26日に義政は辞職を認めず、引き続き関東管領として政知を補佐するように命じる御内書を下した[67]。また、同月28日に政知も房顕に対して、辞職が認められない以上は当職にあるのと同じなので、改めて先の命令を執行するよう要請した[67]。山内上杉氏が房顕の辞職申請直前に抱えていた問題は、鹿王院領赤塚郷の問題しか確認されておらず、辞職申請もそれが理由となった可能性が高い[67]。幕府や堀越公方の命令であっても、当地を知行する上杉方の武家の立場を考えると簡単に実行できるものではなく、この問題がその後どう帰結したかは不明である[68][注釈 5]

堀越公方の武蔵進軍

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寛正4年11月7日、成氏方が上杉氏に攻撃を仕掛けようとする状況があったとみられる[70]。このとき、義政は政知の軍事力が少ないことから、駿河守護の今川義忠に伊豆への参陣を命じた[70][注釈 6]

寛正5年(1464年)5月、堀越公方の有力者である大森実頼が隠居を表明し、義政がこれを強く慰留した[65]。このとき、大森氏の進退をめぐって何らかの問題が発生しており、その問題は政知との関係によるものと推測される[65]。この問題がどう解決したかは定かではないが、実頼はその後も大森氏の当主であり続けたことから、その意向に沿った解決が図られたとみられる[65]

8月、義政は下野の小山持政とその重臣の水谷壱岐守、常陸鹿島実幹に対し、上杉方への参向を命じたほか、佐竹実定江戸通房にも早急に成氏討伐を行うように命じた[65]。なお、定実には前年から成氏討伐を命じており、改めて要請する形となった[65]

12月、政知や義政の弟である足利義視が還俗し、義政の養子として、その後継者となった[71]。数多くいた義教の息子(政知の兄弟)も長男の義勝をはじめ多くが夭折し、この時点で四男の政知、五男の義政、十男の義視を含め3人しか生存していなかった[72]。政知は堀越公方として伊豆に在国していたうえ、義政が兄の政知を養子にするのはそもそも無理があったので、在京していた弟の義視が後継者として選ばれた[73]

寛正6年(1465年)5月19日、管領の畠山政長は南陸奥の石川治部少輔(陸奥石川氏)に対し、大崎教兼葛西氏の被官である富沢河内守を休戦させ、大崎氏と葛西氏が関東に出陣できるように命じた[74]。このころ、上杉顕定は幕府に対し、成氏方から五十子陣に降参者が出たことを報告している[75]。政知はこれを受けてか、家宰の上杉政憲に出陣の準備を命じた[75]

6月、上杉政憲が大将として、成氏追討の「天子御旗」を掲げ、相模に進軍した[65][75][76]。政憲は武蔵世良田の吉良成高、駿河今川氏の小鹿範満宅間上杉氏上杉憲能らを率いて、上杉方の本陣である五十子陣に入った[75][77]。堀越公方軍の五十子着陣により、上杉方の主力が五十子陣に集結する形となった[39]。堀越公方の主力が武蔵に進軍したのはこれが初めてであり、政知が成氏討伐に本気を示したとみることができ、また義政の度重なる催促の結果でもあった[78]

同月、成氏方の千葉輔胤の重臣で、下総松渡城主の原朗意・八郎父子が上杉方に転じた[65]。この離反は、堀越方の進軍により、武蔵東部と下総西部で上杉方の攻勢が強まった結果とされる[78]

9月、成氏が政知らの攻勢を受けて、自ら軍勢を率い、武蔵太田荘に出陣した[39][79]。成氏が五十子陣に向けて進軍したため、上杉方と崎西郡荒木要害で合戦になった[39]

12月8日、義政が駿河守護の今川義忠と甲斐守護の武田信昌に対し、関東への出陣を命じた[39]。すでに、成氏が出陣したことを受けて、義政は両者に出陣を命じていたが、これに応じようとしなかったので、あらためて命が出された[39]

文正元年(1466年)2月12日、上杉方の総帥であった山内上杉氏当主の上杉房顕が死去した[39][80]。このため、上杉房定の次男・顕定が養子として、同氏を継承した[39]

6月3日、義政は上野桐生の佐野直綱が成氏方から上杉方に転じたことを受けて、成氏方の有力武将らに対し、上杉方への参向を命じているほか、陸奥の伊達持宗や蘆名盛詮に関東出兵を命じている[81]。また、義政は上杉政憲に従軍していた吉良成高や小鹿範満、上杉憲能の五十子進軍を賞しており、その文面を見る限りでは、堀越公方軍が五十子陣に在陣していたことがわかる[81]。ただし、堀越方が五十子陣にいつまで在陣したかは定かではない[81]

7月、義政は斯波氏の家督を、斯波義廉から斯波義敏に交代させた[82]。この家督交代は、義廉の父であり、政知の執事だった渋川義鏡が失脚したことに関連している[83]。堀越公方の援軍として斯波勢を動員するため、義鏡の息子である義廉が家督に据えられたものの、義鏡の政治手法は堀越方と上杉方の軋轢を大きくするだけに終わり、義鏡が失脚したことで同時に成氏討伐における義廉の必要性もなくなったことで、義敏の復権に繋がったとみられる[83]。他方、義廉はこの家督交代に納得せず、母が山名氏の娘であったことから[84]、その惣領である山名宗全を頼った[83]

応仁の乱の勃発・関東での戦い

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斯波義廉

応仁元年(1467年)5月、上杉方と成氏方が武蔵でにらみ合う最中[81]、京都では細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が衝突したことで、応仁の乱が勃発した[85]。これにより、幕府は関東に軍勢を送ることが不可能となった。

9月7日、上杉方の長老であった扇谷上杉氏の当主・上杉持朝が死去し、孫の政真が家督を継承した[81]。これにより、山内上杉氏と扇谷上杉氏はともに若年の当主となり、山内上杉氏では家宰の長尾景信が、扇谷上杉氏では太田道真・道灌父子がそれぞれの当主を支えた[81]

応仁2年(1468年)4月、成氏が西軍の斯波義廉から返事を受けた[81]。その内容は、成氏が申請した和睦に関して、義廉や山名宗全、畠山義就が了承したというものであった[86]。だが、これは和睦ではなく、軍事同盟であったとする見方もある[87]

10月8日、上杉方は上野西庄に進軍し、成氏方と毛呂島・網取原で合戦を行い、これに勝利した[88][89]。このとき、義政から山内上杉配下の上野武士らに対し、感状が出されている[88]。その後、閏10月29日に成氏は下野足利荘小曾根に進み、12月24日には上杉方の勧農城攻略を目指すも、これを実行せず、古河に帰還した[90][91]

11月、政知や義政の弟・義視が西軍諸将によって、事実上の将軍として擁立された[92]。義視は西軍の盟主として、独自の外交を展開し、政知が対峙する成氏とも和睦交渉したとみられる[93][注釈 7]

文明1469年)2月、上杉方の岩松家純が新田荘に進出すると、同地とその周辺を確保し、8月には金山城に入った[95][89]。これにより、成氏方の岩松成兼は没落し、岩松氏の一門や家臣は家純の下で統合された[95][89]。また、新田荘が上杉氏の勢力圏に入ったことで、上野における成氏方の勢力は最東部の佐貫荘のみとなった[95]

文明2年(1470年)に入ると、義政は成氏方の有力武家に対し、上杉方への転向を促す御内書を発給した[96]。また、5月に関東や陸奥の諸氏らに対して、一斉に御内書を発給した[96]。その結果、小山持政や小田成治らが上杉方に与した[96]

こうした情勢を受け、4月に上杉方は成氏方に大規模な攻勢をかけ、同月15日には足利荘赤見城を、5月13日に佐貫荘立林城を攻略した[97]。義政は上杉顕定や家宰の長尾景信、岩松家純らに対し、感状を出している[97]

文明3年(1471年)3月、千葉氏や小山氏結城氏といった成氏方の軍勢が大挙して南に向かい、箱根山を越え、伊豆の三島に攻め込んだ[90][98]。その標的は政知であったとされ、堀越公方の軍勢は劣勢だったが、上杉氏被官の矢野安芸入道らが加勢して成氏方に攻めかかり、これを相模に撃退した[90][98]。成氏方は相模に退くと、上杉顕定の家臣・宇佐美孝忠との戦いに敗れ、成氏方は古河に逃げた[90]。この成氏方の軍事行動は、かえって上杉方を勢いづかせる結果となった[99][98]

5月30日、義政は越後に帰国していた上杉房定に関東出陣を命じ、在京中の岩松明純(家純の子)にも関東下向を命じた[100]。また、同日までに義政は宇都宮正綱結城氏広簗田持助大掾清幹佐竹義治、鹿島実幹、宍戸持久真壁久幹那須持資らに対し、上杉方への参向を命じた[100]

6月24日、上杉方は成氏の本拠・古河城に大軍で押し寄せ、城を陥落させた[100][101]。成氏は古河城から脱出し、下総本佐倉の千葉孝胤を頼って落ちのびている[102][101]。だが、成氏方がこれで壊滅したわけでもなく、関東での戦乱は収束しなかった[102]。他方、斯波氏の軍勢なしに上杉方が勝利したことは、斯波義廉の存在意義を減らし、義廉ら西軍諸将に動揺を与えた[98]

文明4年(1472年)2月、成氏が反撃を開始し、25日までに古河城を奪い返した[103]。成氏が古河城に帰還すると、宇都宮氏真壁氏、小山氏が相次いで帰参した[103]。成氏と与同する勢力の力量は尋常ではなく、上杉側も幕府の権威をもってしても殲滅は不可能であると認識しだすようになった[101]

文明5年(1473年)6月23日、山内上杉氏家宰の長尾景信が死去した[104]。当主の上杉顕定が若年であったことから、景信が実質的な上杉方の総帥であった[104]。また、顕定が後継の家宰に景信の弟・忠景を任命しようとしたため、景信の嫡子・景春がこれに反発し、山内上杉氏に分裂が生じた[104]

11月14日、成氏方が上杉氏の本陣である五十子陣を攻撃し、扇谷上杉氏当主の上杉政真が戦死した[104]。五十子陣が成氏方の攻撃を受けたのは、これが最初で最後であり、上杉氏がいかに動揺していたかがわかる[104]。扇谷上杉氏では、当主の政真の戦死を受け、叔父の定正が新たな当主となり、太田道灌が家宰として支えた[104]

今川氏への介入

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太田道灌

文明8年(1476年)2月、駿河守護の今川義忠が遠江で戦死した[105]。だが、義忠の嫡子・龍王丸(後の今川氏親)がまだ幼く、今川氏の内部では義忠の従兄弟・小鹿範満を当主に擁立する動きがみられた[105]

6月、扇谷上杉氏家宰の太田道灌が上杉定正の名代として駿河に進軍すると、政知も上杉政憲を駿河へ派遣して、この問題に介入した[106][101]。両者が共に今川氏の本拠たる駿府に進軍していることから、この動きは堀越公方と扇谷上杉氏との連携のためであったと推測される[105]。また、今川氏は有力な幕府方勢力であり、同氏の内乱が続くと、堀越公方や上杉方の軍事行動に影響が出る可能性もあった[105]

なお、堀越公方や扇谷上杉方は範満の支援で一致していた[105]。堀越方が範満を支援したのは、範満がかつて政知のために参陣し、五十子陣まで出陣していたことがあげられる[105]。他方、義忠は義政からの数度にわたる出陣命令に対し、一度も応じることがなかったため、政知らは義忠の系統を支持しなかったと考えられる[105]

6月から8月にかけて、龍王丸と範満の間で激しい抗争が展開された[106]。政憲と道灌は狐ヶ崎・八幡山に在陣し、両勢力に仲裁を働きかけた[105]

9月、政憲と道灌による仲裁や、龍王丸の叔父・伊勢盛時 (宗瑞、北条早雲)の調停により、範満が龍王丸の成人まで家督を代行することで和談したとされる[107][18]。ただし、実際のところは、範満が当主となることで決着したとするのが事実との見方もある[108]。その後、同月末に道灌は堀越御所に参向して、政知に事態が解決したことを報告し、10月に武蔵江戸城に帰還した[101][109]

長尾景春の乱・成氏と両上杉氏の和睦

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足利義視

文明9年(1477年)正月18日、長尾景春が反乱を起こして、五十子陣を攻撃し、これを陥落させた(長尾景春の乱[110][111][112]。そのため、在陣していた山内上杉顕定と家宰の長尾景忠、扇谷上杉定正とその前家宰の太田道真、越後上杉氏の上杉定昌らは、東上野に逃れざるを得なかった[110]。このとき、道灌は五十子陣におらず、その隙をついて攻撃が行われたとみられる[110]。これにより、関東における幕府方の拠点が崩壊した[113]

5月、景春が成氏に従った[110]。これにより、景春の反乱は成氏方と上杉方の争いの一環として展開されるようになった[110]

7月、上野新田荘の岩松家純が上杉方から離反し、成氏方となった[114]。だが、嫡子の明純はこれに従わず、家純から義絶されたため、山内上杉氏の陣中に加わった[114]

11月10日、京都では、政知の弟・義視が美濃に下向したほか、大内政弘ら西軍諸将もそれぞれの領国に下向したことにより、応仁の乱が終結した[115]。乱の終結に関しては、長尾景春の乱による関東の情勢変化が京都に伝わり、義政と義視の和平交渉が開始されたとする見方もある[98]

12月27日、上杉方と成氏方が上野の広馬場で対陣し、決戦を行おうとしたが、大雪が降ったために行われなかった[116]。これにより、両軍の間で和睦の機運が高まった[117]

文明10年(1478年)正月1日、上杉顕定が成氏方の宿老・簗田持助に対し、成氏と幕府との和睦の仲介を約束することを条件として、和睦を提案した[117]。その結果、翌2日に成氏と両上杉氏との間に和睦が成立し、その日のうちに成氏は退陣した[118][119][120]

細川政元との連携・都鄙和睦の成立

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細川政元

文明11年(1479年)12月21日、義政から御教書が出され、今川氏の当主として小鹿範満が存在しているにもかかわらず、龍王丸が義忠の後継者として認められた[121]。政知は義政の判断を認めたが、その背景には両上杉氏が成氏と和睦したことで、これに反発した政知が範満への支援を停止した可能性があり、今川氏の当主は龍王丸でも範満でもどちらでもよいという考えに至ったとする見方がある[122]。あるいは、堀越公方の勢力が駿河の駿東郡にまで及び、範満の勢力と衝突していた可能性もあり、政知には範満と対立する積極的な理由があったとする見方もある[123]

また、同年までに政知が幕府の最有力者である管領の細川政元と連携するようになっていたことも、義政の判断を支持する理由に至ったと考えられる[124]。政知と政元との連携は、政知と義政の協調にもつながり、ひいては小鹿範満の支援を停止することになったと推測される[124]。その前後より、政知の執事・上杉政憲の弟である一色政熙政具父子が、義政や将軍の義尚の側近になっていることからも、義政との協調強化がうかがえ、政知と範満が疎遠になっていた状況が推測できる[124]

文明12年(1480年)3月、幕府との和睦を望む成氏に依頼された長尾景春が、政知の執事・上杉政憲と、政憲に匹敵する地位にあったとみられる沙弥信照に対し、和睦の仲介を依頼した[125]。景春の依頼を受け、同月20日に政憲と沙弥信照が政元に書状を出したが、幕府中枢にはすぐさま取り次がれなかった[125]

文明13年(1481年)7月19日、政元の有力な一族である細川政国が幕府中枢に取り次いだことにより、幕府と成氏方との和睦交渉が開始された[126]。だが、和睦交渉における最大の争点となったのは、鎌倉公方の地位が成氏と競合する政知の存在であった[127]。和睦決定までの具体的な過程は不明であるが、越後の上杉房定によって、政知ら堀越公方や、上杉顕定や上杉定正ら両上杉氏との交渉が行われたと推測される[126]。堀越公方では、執事の上杉政憲や堀越公方奉行人らが交渉を担当したとみられる[128][129]

文明14年(1483年)11月27日、幕府と成氏ら古河公方との間に都鄙和睦が成立し、政知は義政から御内書を受けた[126]。幕府が決定した和睦の内容としては、成氏に鎌倉公方としての地位を認めて関東を支配させる一方、政知には「豆州主君」として伊豆一国の支配が認められる形となった[126][130]

これにより、およそ28年続いた享徳の乱は終結した[129]。だが、都鄙和睦に至るまで、政知は成氏ら古河公方勢力と二十余年にわたる抗争を繰り広げたが、幕府から満足な軍事力を付与してもらうことができず、関東一円を制することは叶わなかった[131]。最終的に堀越公方はこの和睦で伊豆一国のみの支配者となり[132]、政知は和睦交渉を進めた政憲とそれに同調した伊豆国人衆に不満を抱くようになった[133][134]

晩年

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足利義尚

文明17年(1485年)7月、義政は政知に御内書を出し、政知の子息を天龍寺香厳院に入室させるよう命じた[135]。義政が政知の子息を求めた理由は、文明15年(1483年)3月に香厳院主の等賢同山(義政の四男)が死去したためであり、また政知もかつて香厳院主を務めていたからと考えられる[12]

政知は義政の命を受け、側室(正室とも[注釈 1])の円満院武者小路隆光の娘)との間に生まれた次男の清晃(後の足利義澄)を、長享元年(1487年)3月に香厳院に入室させるために上洛させた[4]。そして、5月に清晃は京都に到着し[135]、6月に香厳院に入室した[136]

これは、政知がすでに長男の茶々丸を後継者としており、次男の清晃に堀越公方家を継承させることができなかったためである[136]。だが、政知はこのとき、細川政元との連携によって、清晃を次期将軍にすべく上洛させたとする見方もある[4]。すでにこの頃、将軍の義尚が病弱なことで後継問題が取りざたされており、清晃はその有力な候補でもあった[4][137]

その後、政知は茶々丸を廃嫡し、三男(清晃の同母弟)の潤童子を後継者に定めた[138]。また、上杉政憲が政知に対し、茶々丸の廃嫡を諌めたものの聞き入れられず、自害に至ったとする話が伝わる[139]

同年11月、政憲によって今川氏の当主として擁立された小鹿範満が、龍王丸の叔父・伊勢盛時に滅ぼされる事件が起こったものの、政知はこれを黙認している[140]。このとき、堀越公方の勢力が駿河の駿東郡に及んでいたと推測されることから、政知と龍王丸は連携関係にあったとみられる[141]。また、盛時は駿河在国中に政知の奉公衆となって、伊豆の田中郷と桑原郷を所領として与えられたようであり、盛時による範満追討や、その後の龍王丸による駿河領国化は、政知の了解のもと、連携して行われたと考えられる[142]

延徳元年(1489年)3月、義尚が死去すると、細川政元らを中心に在京している清晃を新将軍に擁立する動きが見えた[4]。政元は西軍の盟主であった義視の復権を防ぐため、清晃の擁立に動くも[137]、義視が嫡子の義材(義稙)ともにすぐさま美濃から帰洛し、日野富子(義政の正室)らの支持を受けた[143]。だが、4月に義政が義尚亡き後の政務は自分が執り行うことを宣言し、将軍継嗣問題を勝手に進めることに釘を刺したため、後継問題はうやむやになった[143][144]

延徳2年(1490年)1月、前将軍の義政が死去したが、誰を後継者にするか明確に意思表示していなかったこともあり[137]、将軍継嗣問題が再燃した[145]。だが、日野富子の主導により、義材の将軍継承が義政死後の既定路線として進められたため、政元もこの時はあまり動かず、義材が新たな将軍として選ばれた[4][12]。清晃はこの候補争いに敗れたものの、4月に富子から将軍御所である小川御所(小川殿)を与えられたため、富子と政元が清晃を次期将軍に立てるとの噂が流れ、これに激怒した義視が5月に御所を破却する事件を起こしている[146][147]

延徳3年(1491年)1月、将軍の義材を後見する義視が死去すると、政知は政元と共に清晃の擁立に動き始めた[148]。なお、伊勢盛時は義材の将軍就任後に帰京したとされ、同年5月に義材の申次衆となったが[149]、清晃を新将軍に画策していた政知の奉公衆でもあったことから、その目的達成のため、あえて義材に近侍したとする見方がある[148]

3月3日、政元が25人ほどを引き連れ、東国巡礼の旅に出た[150]。その直前の2月13日、政元は九条家出身の細川澄之九条政基の次男)を養子としており、澄之の母が清晃や潤童子の母・円満院と姉妹であったことから、政知との連携を深める意図があった[150][151]。そして、政元の東国巡礼は山内上杉氏との関係強化や、政知との対面が目的だったとされる[150][注釈 8]

政知の一連の動きは、政元と協力して義材を廃し、次男の清晃を次の将軍に、三男の潤童子を堀越公方として、成氏の討伐を再開させ、古河公方に代わる関東の主となる狙いがあったとする見方がある[4][137][152][注釈 9]。他方、政元も政知との連携によって、京都と関東、朝廷と幕府の合体による新政権を構想していたとされる[151]

4月3日、政知は病により、自身の野望の実現を見ぬまま、堀越御所で死去した[155][156]享年57(満55歳没)。

政知の死により、政元と進めていた清晃の擁立計画は、一時頓挫するに至った[156]。また、その死によって、伊豆やその周辺諸国の情勢は大きく変化することになった[4]

没後

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足利義澄

政知の死後、円満院が家政を差配し、潤童子による家督継承が図られた[148]。だが、7月1日に茶々丸が潤童子と円満院を殺害して、新たな堀越公方になった[155][157]

だが、茶々丸の行動は全ての堀越公方家臣から賛同を得たわけではなく、茶々丸が奸臣の讒言で重臣らを成敗するなどしたため、旧政知派との抗争が起き、伊豆国内は争乱状態となった[158]。また、このクーデターを受けて、8月に伊勢盛時が京都から駿河に下向しているが、それは堀越公方の勢力が駿河の駿東郡に及んでいたとされることから、今川氏の領国維持のためであったと考えられる[159]

明応2年(1493年)4月、細川政元が明応の政変で義材を廃して、清晃を将軍に擁立すると、清晃は義遐(のち義高・義澄に改名)と名乗り、盛時に生母と実弟を殺害した茶々丸の討伐を命じた[151][152]。これにより、盛時が伊豆に攻め入り、茶々丸は堀越御所から放逐された(伊豆討ち入り[157]。茶々丸は数年抵抗をつづけるも、やがて伊勢方に敗れて自害した[160]

結果として、堀越公方はわずか二代(実質的には政知一代)で終わったが、義澄以降の室町幕府の将軍は全て堀越公方の血筋であり、15代将軍の足利義昭に至るまで(義稙の再任を除き)政知の子孫が就任している[6][7]。また、政知の血筋は阿波平島公方を通じて、現代に続いている[161]

人物・評価

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  • 政知はもう一人の弟である足利義視と同様、その人生を足利義政に大きく左右された人物である[162][150]。義政は政知を正式な鎌倉公方として、義視を次期将軍候補としてそれぞれ扱ったものの、自らがほとんどの権限を掌握し続け、彼らに多くの権限を与えることはしなかった[131]。また、義視が将軍の父、つまり大御所として生涯を終えたのに対し、政知は鎌倉に入ることなく伊豆の地に留まり、その存在を中央の人々からほとんど忘れ去られていた[162]
  • 政知は弟の義政より年上であるが、時に義政の弟として扱われることがある[注釈 10]。政知が義政の兄であることは事実であり、当時の将軍家の「御系図」においても、政知は義政の兄と位置付けられている(『宗賢卿記』長禄2年正月14日条・18日条)[135]。この事実は、政知の次男・義澄が将軍を継承する際にも大きな影響があったとみられる[135]
  • 政知は鎌倉公方を指す「鎌倉殿」と呼ばれたが、一部からは「征東将軍」と呼ばれていた(『碧山日録』寛正5年5月5日条)[3]
  • 政知は正式な鎌倉公方として下向したにもかかわらず、その政治的自立をおおよそ否定されていた[48]。政知には軍事動員権がなく、将軍である弟の義政が関東や奥羽の諸勢力に出陣を命じ、動員をかけていた[163]。そのため、堀越公方の軍事力は脆弱で、駿河今川氏らが近隣の守護が幕府の命を受け、救援するようになっていた[16]。また、政知が伊豆堀越に整備した居館である堀越御所周辺への関東武家の集住、すなわち在倉制に代わる「在伊豆制度」と呼ぶべき制度を確立できなかったことも、堀越公方の関東統治権力としての成立を妨げることになった[164]
  • 政知は「関東の統治者」という立ち位置は一応持っており、扇谷上杉氏ら近隣の諸勢力は何か問題が発生すれば、政知の判断を仰ぐという形になっていたようである[165]。だが、政知の影響力は関東中心部の五十子陣にまでは及ばなかったようで、堀越公方と五十子陣の上杉方の関係は疎遠だったとみられる[165]
  • 政知は鎌倉公方として振る舞ったが、それが堀越公方と両上杉氏との間で権益を巡る対立をしばしば生じさせることもあり、両者の関係は決して良好とはいえなかった[122]。また、政知の下向した伊豆はもともと、関東管領である山内上杉氏の守護国であり、関東管領と政知の補佐役である関東執事との職務権限の分担が明らかになっていないことからも、政知の下向直後から両者の間に対立が生じていたとする見方もある[17]
  • 政知は下向に際して、朝日教貞布施為基らを義政から奉行人として付された[3][48]。教貞は政知の生母(斎藤朝日妹)の近親者であり、また幕府奉公衆でもあった[3]。他方、為基は幕府奉行人であり、政知の下では幕府の意向に沿いながら活動していた[48]
  • 政知やその近臣らは伊豆に下向すると、経済基盤を固めるために自らの所領を獲得し、その支配を目指した[166][164]。政知の近臣らが伊豆国内などで押領を進めたことは、堀越公方と現地の勢力との間で軋轢を生じさせた[43][注釈 11]。そのため、政知は堀越公方の経済基盤を固めることはできたが、関東の在地秩序が混乱したことで、堀越公方への支持は限定的なものとなった[164]
  • 政知も近臣らと同様、公方としての立場を示すためか、寛正3年(1462年)に松田左衛門尉の所領である相模の東大友(小田原市)の半分を没収し、鶴岡八幡宮に寄進している[167]。だが、この時代は戦乱で没落した武士も多く、彼らの所領支配も同様に不安定となっており、政知や近臣らの行為は在地勢力にとって敵対行為でしかなかった[167]。そのため、政知ら堀越公方の存在は、伊豆や関東の人々には歓迎されていなかったと考えられる[167]
  • とはいえ、京都の人々の中には、政知に従い、関東に活躍の場を求めようとした者もいた[48]。例えば、幕府奉公衆の高帥長(当時、自身の所領を事実上失っていた)が佐渡守護職を求めると同時に、関東に先祖勲功の地があるという理由で、政知の御供として、関東に下向しようとした[163]。だが、これは義政に制止されたばかりか、管領の細川勝元からも黙殺された[168]
  • 都鄙和睦の際、成氏が幕府から唯一の鎌倉公方として公認されたことで、政知の鎌倉公方としての地位は否定された[135]。だが、和睦交渉の際に堀越公方より、政知の重臣であるはずの上杉政憲が交渉に関わっていることから、政知の地位はこの時点で「風前の灯火」であった[129]。都鄙和睦による関東の戦乱終結は、政知という犠牲の上に成し得たといえる[129]
  • 京都と関東の問題は、足利尊氏と弟の足利直義の対立が、次代の足利義詮足利基氏に引き継がれ、室町幕府と鎌倉公方の対立につながった根深い問題でもある[169]。享徳の乱における政知と成氏の争いもまた、この問題の延長線上にあった[169]。だが、この享徳の乱は義政の誤算や、稚拙な対応がもたらしたものともいえる[169]

年譜

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※日付=旧暦

系譜

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小田政治を政知の男子の一人とする場合があるが、政治は明応2年(1493年)生まれで、さらに小田氏は享徳の乱を通して長らく古河公方に属している経緯から、古河公方と敵対する堀越公方と養子縁組を行うとは考えにくい[170]。また、『江源武鑑』には六角氏綱の正室が政知の娘と記されているが、同書は偽書であることが確認されているので、これは事実ではない[171]

墓所

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b c d e 黒田基樹は、他に政知の正室が確認できないことから、円満院が正室ではないかとしている。『戦国大名・伊勢宗瑞』2019年 角川選書
  2. ^ 義政は永享8年(1436年)1月2日生まれ。なお、義政の将軍就任は文安6年(1449年)4月29日。
  3. ^ 兄(政知)が弟(義政)から偏諱を受けた形になっているが、これは法体であった清久(政知)が還俗した際に初めて元服したからであり(それまで清久は俗諱を持ち得なかったために、元服の際に将軍の偏諱を受けた)、矛盾はない。
  4. ^ 当時、相模守護の上杉持朝は武蔵の河越城を拠点としていたが、前年の長禄4年3月までは持朝と家宰の太田資清(道真)が鶴岡八幡宮の警固を行い、窃盗を行った同宮社人を検断するなど、鎌倉での支配権を行使していたことが確認されている[17]
  5. ^ 文明18年(1486年)の時点で、赤塚郷が鹿王院の不知行になっていることや、その後も武蔵千葉氏による知行が続いていることから、山内上杉氏は命令を実行に移さなかったようである[69]。山内上杉氏は成氏との対抗上、幕府や堀越公方との関係よりも、当地を知行する武家との関係を重視したといえる[69]
  6. ^ 今川氏は享徳の乱の初期において、鎌倉の守備を担っていたが、寛正元年(1460年)正月に義忠の父・今川範忠らが帰国していた[70]
  7. ^ だが、成氏が義政ではなく義視と和睦交渉していたかに関しては、容易に判断できないとする指摘もあり、仮に義視との和睦が成立したとしても、義政との和睦が成立したわけではないため、成氏と義政及び上杉氏との対立が解消されるわけではなかった[94]
  8. ^ 政元は北陸路から越後に入ると、3月20日に上杉房定・房能父子と会った[150]。だがこの直前、政元に義材から六角氏を討伐すべく近江に出陣する命が届いたため、政元は奥州の結城政朝の下へと向かうはずだった予定を中止している[150]。結局、4月3日に政知が死去したこともあり、10日に政元は越後の国府を離れ、28日に京都に帰還した[150]
  9. ^ 家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麓記』の記述により、政知が晩年に古河公方に取って代わることを意図して、足利氏ゆかりの「氏」を含んだ「氏満」と改名し、折しも元服が遅れていた今川龍王丸を元服させて偏諱を与え、「(今川)氏親」と名乗らせた、という説を唱えている[153]。だが、「氏満」の署名のある文書や『富麓記』以外の記録による史料上の裏付けは存在しておらず、政知の改名は事実として認められないとする黒田基樹の反論がある[154]
  10. ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』『山川 日本史小辞典 改訂新版』『改訂新版 世界大百科事典』等の「足利政知」の項目には、義政の弟と記されている。
  11. ^ 寛正3年(1461年)7月、堀越公方奉行人の布施為基が相模小田原において、大森氏の所領や寺社領を支配すべく入部を企てた際、大森氏の抗議によってこれが中止となっている[167]。また、8月に為基は伊豆の安久郷(京都・真如寺正脉院領)や加納郷(鎌倉・浄智寺領)を押領したとして、在地勢力に訴えられている[167][164]。このほか、奉行人の朝日教貞も伊豆の宇加賀郷・下田郷(ともに京都・醍醐寺地蔵院領)を押領している[164]

出典

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参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
先代
-
堀越公方
初代
次代
足利茶々丸