北川殿

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北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親栄保正親町三条実望室、北向殿)[1]

生涯[編集]

出自については、弟である伊勢盛時(北条早雲)と共に諸説あるが[注釈 1]、父は伊勢盛定、母は伊勢貞国の娘とみられている[1]。父盛定が室町幕府において今川義忠の申次衆を務めていた関係から、応仁元年(1467年)頃に義忠の正室となって駿河駿府館(静岡市)に在り、長女栄保に続いて、文明3年(1471年)には嫡男龍王丸(今川氏親)を生むが、文明8年(1476年)4月に夫義忠は遠江国衆である横地四郎兵衛勝間田修理亮を攻略しての帰国途中に残党に襲撃され討死してしまい、当時6歳であった嫡男龍王丸と、義忠の従兄弟で小鹿範頼の子小鹿範満との間に家督を巡っての紛争が勃発したため、龍王丸を連れて小山城焼津市)城主長谷川正宣(法永長者)の元に逃れている。[1]

このお家騒動には、堀越公方足利政知やその補佐である関東執事上杉政憲までもが関与して小鹿範満を推す動きに出ており、北川殿は9代将軍足利義尚の申次衆であった弟の盛時に頼り、さらに幕府の命令も受けた盛時の調停により、龍王丸が成人するまでは、範満に駿府館で家督を代行させることになった[1]。この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に斉藤氏居城丸子城静岡市)に移っている。

文明11年(1479年)には前将軍足利義政から龍王丸の家督相続が認可されたが、範満は家督代行を退かず、文明19年(長享元年(1487年))、龍王丸が諸公事免状の発給等を遂行する独立状態になると北川殿は再び弟に要請し、これを受けた宗瑞が駿府館の範満を討ち滅ぼしたことにより、龍王丸(氏親)は駿府館に帰還し名実ともに今川家当主となることができた。北川殿も共に帰り、駿府館付近の阿部川支流北川沿いに別荘を建て移り住んだため北川殿と呼ばれるようになる[1]。この別荘跡は死後に善徳院、後には臨済寺となった。文亀元年(1501年)頃の寄進状(「沼津市西光寺文書」[2])によると、「大上様」と呼ばれるようになっている。

伊勢宗瑞による今川氏親の家督相続への介入は、この後の伊豆相模への侵出につながっていくことになる[3]

長享元年には長女栄保が正親町三条実望と結婚、永正2年(1505年)には嫡男氏親の正室に、羽林家権大納言正二位中御門宣胤の娘寿桂尼を迎えるなど、今川家は北川殿の京都の幕府に近い出自による環境や、今川家で育った足利清晃(後の11代将軍足利義澄)の細川政元による将軍擁立の動きなどから、公家社会と深く結びついていくことになった。北川殿や氏親、宗瑞は連歌師宗長冷泉為和などとも親しく交わり、その様子は『宗長日記』でも描かれている[1]

大永6年(1526年)6月に氏親を先んじて亡くし、享禄2年(1529年)5月26日に死去した。戒名は徳願寺殿慈雲妙愛大姉。菩提寺は得願寺(静岡市)と桃源院(沼津市)の二ヶ所[1]

俗説[編集]

兄弟である伊勢新九郎こと北条早雲が、長寿で伊勢の素浪人からの下克上の端緒の大器晩成型の戦国大名と見られていた時代には、北川殿は、宗瑞の妹であり今川義忠の側室と伝えられていたが、近年研究により出自が室町幕府の申次衆・奉公衆をつとめる伊勢氏であって、今川氏と婚姻する家格としては釣り合いが取れていることと、義忠に他に正室にあたる女性の記録がないことから正室であり、早雲の生年が永享4年(1432年)よりも康正2年(1456年)が有力になってきたことから姉と見なされるようになった[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 江戸時代の諸系図では伊豆韮山城主・北条行長の子とするものが多い。『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『系図纂要』の北条氏系譜では父を北条行長とし、早雲と血のつながりがないと書かれている。ところが、前述の諸資料に収める伊勢氏の系譜では、北川殿は早雲の実の姉妹だとするのである。佐藤良雄は、「早雲と北川殿が実の姉妹だったことは今川家資料から見てほぼ確実であろう」と述べている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 下山治久 『後北条氏家臣団人名辞典』 東京堂出版2006年、pp549-551。ISBN 4-490-10696-3
  2. ^ 『静岡県史資料編7』pp31-32
  3. ^ 小和田『北条早雲とその子孫』
  4. ^ 黒田『戦国 北条一族』

参考文献[編集]