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足利茶々丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
足利 茶々丸
時代 室町時代後期
生誕 文明年間(1469年 - 1481年[注釈 1]
死没 明応7年(1498年)8月[注釈 2]
戒名 成就院福山広徳
墓所 静岡県伊豆の国市願成就院の本堂裏手
幕府 室町幕府
氏族 足利氏堀越公方家)
父母 父:足利政知、母:不詳
兄弟 茶々丸義澄潤童子[1]
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足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる)は、室町時代後期の武将。2代目堀越公方

初代堀越公方・足利政知の長子。異母弟に室町幕府の11代将軍足利義澄(清晃)、潤童子がいる[1]

父の死後、後継者に定められていた弟とその母を殺害し、家督を相続した。だが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、各地を転戦した果てに自害し、堀越公方家は滅亡した。

実名に関して

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「茶々丸」は幼名であり、成人としての実名であるは伝わっていない[2]。また、元服したことを示す史料も見つかっていない[3]

近世後期に高松松平家が編纂した『歴朝要紀』では、茶々丸の諱を政綱(まさつな)とするが、その出典・根拠は明らかでない。

木下聡は、茶々丸が年齢的に元服していなかったとは考えにくく、足利義澄には生母や実弟の仇と見做されて接触できなかったことを踏まえて、その実名は足利義稙(当時は義材)から偏諱を受けた「材○」のような名ではないかと推測している[4]

生涯

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文明年間(1469年 - 1481年[注釈 1])、堀越公方足利政知の長子として、伊豆で誕生した[1][5][注釈 3]。母は不詳[1]

茶々丸は嫡男であったが、政知の命により廃嫡され(牢に幽閉されたとも伝わる[6])、代わりに異母弟の潤童子が後嗣とされた[7][8]。一説には、潤童子の母(茶々丸にとっては継母)・円満院が我が子を後嗣とするべく、政知に讒言したためとされる[8]。また、執事上杉政憲が政知に対し、茶々丸の廃嫡を諌めたものの聞き入れられず、自害に至ったとする話も伝わる[8]

なお、茶々丸のもう一人の異母弟(潤童子の同母兄)・清晃(のち足利義澄)は、長享元年(1487年)3月に天龍寺香厳院(政知が還俗前に院主をしていた)の後継者となるべく上洛し、出家していた[1]。この時点では、茶々丸がまだ廃嫡されておらず、清晃は堀越公方家を継承することができなかったため、出家させられたとみられる[9]。他方、政知が細川政元との連携によって、清晃を将軍後継者候補にするためであったとの見方もある[1]

延徳3年(1491年)4月、政知が死去すると、円満院が家政を差配し、潤童子による家督継承が図られた[3]。だが、茶々丸はこれに対し、実力での家督継承を計画した[10]

7月1日、茶々丸は潤童子と円満院を堀越御所で殺害すると、自ら家督を継承し、事実上の公方となった[10][11][注釈 4]。このクーデターに関しては、 関東管領(伊豆守護でもある)の山内上杉氏が茶々丸と結んで関与した可能性も指摘されている[13][14]。実力による家督継承後、茶々丸は元服したとされるが、その実名である諱は伝わっていない[2]

しかし、茶々丸の行動は全ての堀越公方家臣から賛同を得たわけではなく、茶々丸が奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守[注釈 5]、秋山新蔵人といった重臣らを成敗するなどしたことから、政知旧臣の支持を失い、伊豆国内に争乱が波及した[12]。また、堀越公方の勢力が駿河駿東郡に及んでいたとされることから、政知は今川氏の当主・今川氏親(当時は龍王丸)と連携関係にあったが、茶々丸はそれと対抗する立場となり、今川氏との間で対立が生じるようになった[16]

明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が今川氏扇谷上杉氏の支援を得て、駿河の興国寺城から伊豆国内に侵攻し、さらには鈴木繁宗といった伊豆の国人や土豪らを従えながら、堀越御所に攻め入った[17]。この宗瑞の伊豆討ち入りは従来、宗瑞の野心によるもので、下剋上の先駆けといわれていた。だが近年は、同年4月の明応の政変によって11代将軍に就任した義澄(清晃)が、幕臣であった宗瑞に生母と実弟の仇討ちを命じて、茶々丸を討伐させたというのが定説になっている[14][18]

従来の説では、茶々丸はこの時点で宗瑞に敵せず、10月に堀越御所を捨て、逃れた先の韮山願成就院で自刃したとされてきた[6][15][19][注釈 2]。しかし、最近の史料の確認により、茶々丸が山内上杉氏や伊豆中央部の狩野氏、奥伊豆の関戸氏らによる支援を受け、明応4年(1495年)まで伊豆国内で伊勢方に抵抗を続けていたことが確認されており[21]、伊豆を離れたのちは甲斐国において、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが近年の研究で明らかとなっている[22]。また、堀越公方の基盤が伊豆北部にあったのに対して、茶々丸は宗瑞の侵攻後も伊豆中南部の在地領主の支援を受けて抵抗していることから、政知没後の混乱を、潤童子を推す堀越公方家臣団と、茶々丸を推す伊豆の在地領主、さらにその背後にいたとみられる山内上杉氏との対立とみる説もある[23]

このころ、甲斐国では守護家である武田宗家において内訌が生じており、当主の武田信昌信恵方は駿河今川氏伊勢氏と、対する信縄方は山内上杉氏と結んでいた。茶々丸が明応4年8月以前に伊豆大島に退去すると[22]、今川氏・伊勢氏は甲斐へ侵攻しており、明応5年(1496年)に茶々丸は武蔵から甲斐吉田の正覚庵(富士吉田市上吉田)に移って、駿河御厨地方へ進出したといわれ(ともに『勝山記』に拠る)[15][24]、信縄方の勢力を結集して伊勢氏に対抗したとも考えられている[22][25]

明応7年(1498年)8月25日、甲斐・駿河地方をはじめ太平洋岸一帯に被害を及ぼした明応の大地震が発生し、地震後に武田宗家の内訌が一時的に和睦に至っている。8月中には、見捨てられた茶々丸が武田方から伊勢方に引き渡されて切腹しており(『王代記』に拠る[注釈 6])、明応7年の武田宗家の和睦に際して、駿河今川氏・伊勢氏と信縄方が結んだ条件に茶々丸の引き渡しがあったとも考えられている[27]。ただし、茶々丸の自害した場所が、伊豆なのか甲斐なのかは定かでない[26]

他方、茶々丸の終焉の地を、伊豆国最南部の深根城とする説もある。その説では、伊勢氏は茶々丸討伐のための準備を進めていたが、8月の明応の大地震と津波による混乱によって自軍に不利になることを恐れた宗瑞が、動員できる兵力で奇襲を行い、同月のうちに茶々丸を討ち取ったとする[28]

このとき、大地震と津波で深根城一帯も含まれる豆駿両国は甚だしき被害を受けており、抵抗不能となっていた茶々丸を宗瑞は動員可能な少数の手勢で討ち取ったとみられており、茶々丸を擁していた城主関戸吉信らも皆殺しにしている[29]

墓所

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足利茶々丸公方御墓(願成就院

関連作品

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小説
漫画
  • ゆうきまさみ新九郎、奔る!』 - 登場人物の1人として登場する。茶々丸と寿王(のちの足利義澄)は双子であり、共に正室の子であったが、双子を忌み嫌った政知により、茶々丸は狩野一族出身の妾の子として先に生まれたことにされる。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 異母弟である義澄の誕生が文明12年12月15日(1481年1月15日)であり、それ以前となる。
  2. ^ a b 願成就院の寺伝では、明応2年(1493年)10月11日が茶々丸の忌日とされている[20]
  3. ^ 茶々丸がいつ誕生したのかは不明である[1][4]黒田基樹は、父の政知が死去した延徳3年(1491年)に弟の義澄(当時は清晃)が12歳であったことから、茶々丸はこの時点で14、15歳ぐらいであったと推測している[1]木下聡は、茶々丸が弟や義母の殺害を幼少の段階で行ったとは考えにくいとし、事件を起こした際には元服できる年齢に達していたとする[4]
  4. ^ 後世に記された『今川記』では、「いかなる野心のものか籠(牢)の中の若君(茶々丸)へ小刀を奉りしかは小刀にて夜の中に籠の番衆のふえを切て番衆の刀をうはひ取り御所へ乱入り御まヽ母(円満院)も生害し奉り」と、何者かが牢の中の茶々丸に小刀を渡したことで、茶々丸はその小刀で牢番を殺し、牢番の刀を奪って御所に乱入、円満院も殺したことが記されている。同記ではまた、「茶々丸殿父(政知)を討捕り豆州(伊豆)を押領被成ける」とあり、茶々丸がその後に政知も殺害したとも記されている[12]黒田基樹は、政知が病死したことは確実であることから、同記の記述が事実にそぐわないとしつつも、上杉政憲の自害はありえない話ではないとする[12]
  5. ^ 外山(とやま)は、「富山」[12]、「戸山」[15]とも表記される。
  6. ^ 王代記』には、「伊豆の御所(茶々丸)腹切り給へり、伊勢早雲(宗瑞)御敵にて」と記されている[26]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 黒田 2019, p. 72.
  2. ^ a b 黒田 2019, p. 78.
  3. ^ a b 黒田 2019, p. 73.
  4. ^ a b c 木下聡『山内上杉氏と扇谷上杉氏』(対決の東国史 5) 、2022年
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 30頁。
  6. ^ a b 峰岸 2017, p. 187.
  7. ^ 石田 2008, p. 287.
  8. ^ a b c 『静岡県史』(静岡県1994年
  9. ^ 浜口 2017, p. 290.
  10. ^ a b 黒田 2019, p. 74.
  11. ^ 下山 2014, pp. 10–11.
  12. ^ a b c d 黒田 2019, p. 75.
  13. ^ 下山 2014, p. 10.
  14. ^ a b 市村 2009, p. 15.
  15. ^ a b c 池上 2017, p. 27.
  16. ^ 黒田 2019, pp. 74–75.
  17. ^ 下山 2014, p. 11.
  18. ^ 天野 2021, p. 13.
  19. ^ 渡邊 2024, p. 103.
  20. ^ 「足利茶々丸」『日本大百科全書(ニッポニカ)』
  21. ^ 市村 2009, pp. 15–16.
  22. ^ a b c 黒田 2019, p. 95.
  23. ^ 杉山一弥「堀越公方の存立基盤」『國學院大學紀要』46号、2008年。
  24. ^ 黒田 2019, p. 104.
  25. ^ 黒田 2019, pp. 107–108.
  26. ^ a b 黒田 2019, p. 106.
  27. ^ 黒田基樹「武田宗家の内訌」『山梨県史 通史編2 中世』第七章第一節一。
  28. ^ 家永遵嗣「北条早雲の伊豆征服」『伊豆の郷土研究』24集、1999年
  29. ^ 家永(黒田2013),pp.268-271.・黒田(2013),p.27.

参考文献

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  • 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社中公新書 2665〉、2021年10月25日。ISBN 978-4-12-102665-1 
  • 池上裕子『北条早雲 新しい時代の扉を押し開けた人』山川出版社、2017年7月。 
  • 石田晴男『応仁・文明の乱』吉川弘文館〈戦争の日本史9〉、2008年。 
  • 市村高男『東国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史10〉、2009年。ISBN 978-4642063203 
  • 黒田基樹「伊勢宗瑞論」『第一〇巻 伊勢宗瑞』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究〉、2013年。ISBN 9784864030717 
    • 家永遵嗣「伊勢宗瑞(北条早雲)の出自について」「北条早雲の伊豆征服」(黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7
  • 黒田基樹『今川氏親と伊勢宗瑞 戦国大名誕生の条件』平凡社〈中世から近世へ〉、2019年1月。ISBN 978-4-582-47743-6 
  • 下山治久『戦国北条氏五大の盛衰』東京堂出版、2014年2月。 
  • 浜口誠至 著「第十一代 足利義澄 ―戦国と向き合った将軍」、榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年10月10日、287-312頁。 
  • 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』講談社講談社選書メチエ〉、2017年10月11日。ISBN 978-4062586641 
  • 渡邊大門『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、2024年1月10日。 

関連項目

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先代
足利政知
堀越公方
第2代
次代
滅亡