上杉持朝
| 時代 | 室町時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 応永23年(1416年) |
| 死没 | 応仁元年9月6日(1467年10月4日) |
| 改名 | 竹寿丸(幼名)→持朝→道朝(号) |
| 戒名 | 広感院道朝 |
| 官位 | 弾正少弼、修理大夫 |
| 幕府 | 室町幕府 相模守護 |
| 氏族 | 扇谷上杉氏 |
| 父母 | 父:上杉氏定 |
| 兄弟 | 持定、持朝、今川範政室 |
| 子 |
顕房、三浦高救、上杉憲忠正室、定正、叔彭梵寿、朝昌、吉良成高正室、 大石房重正室[1] |
| 花押 |
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生涯
[編集]応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱において、父・氏定が戦死し、跡を継いだ兄・持定もまもなく亡くなったため、従弟で小山田上杉氏の上杉定頼の補佐を受ける形で家督を継承する。
史料上の初見は、永享5年(1433年)に扇谷上杉氏の所領内の武蔵国久良岐郡にあった徳恩寺本地堂の棟札(「藤原朝臣持朝」)であり、当時元服から程ない17歳であった。なお、扇谷上杉氏の当主は通字である「定」と鎌倉公方(当時の公方は足利持氏)の一字を受けて実名としていたが、既に兄の持定が既にその名乗りを用いていたため、通字である「定」の代わりに祖先である上杉朝定の「朝」を用いて、「持朝」と名乗った[2]。
永享11年(1439年)の永享の乱では、持朝は関東管領・上杉憲実に従って持氏討伐に功績を挙げた。
永享12年(1440年)の結城合戦でも、持朝は幕府軍の副将を務めて武功を挙げている。結城合戦後、憲実は隠退を表明し、後継者に指名された弟・清方の力量に不安を覚えた幕府は憲実の復帰を説得する一方で、清方の補佐として持朝の協力を期待した。永享の乱後に持朝は修理大夫に任ぜられ[3]、続いて結城合戦後、遅くとも文安4年(1447年)までには相模守護に任ぜられた[4]。さらに、清方が急死して、憲実の子である憲忠が関東管領に就任すると、娘を憲忠に嫁がせたことにより、持朝は実力者として認められることになる。
文安6年(1449年)、持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、持朝はかつて持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男・顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。
享徳3年(1454年)、憲忠が成氏に暗殺されると(享徳の乱)、持朝は憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳った。一方で、康正元年(1455年)の分倍河原の戦いにおいて顕房が成氏軍に討たれると、それ以降は持朝が再び当主として活動している。
これにより、古河公方となった成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために長禄元年(1457年)には家宰の太田道真(資清)・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた[5]。
寛正2年(1461年)10月、堀越公方・足利政知の関東執事である上杉教朝が自害した[6][7]。当時、相模や武蔵東部といった扇谷上杉氏の勢力圏において、堀越公方が行使する御料所や新闕所の処分権による問題が生じており、それは扇谷上杉氏が武蔵における本拠としていた河越荘も含まれていた[8]。教朝が自害したのはその事態解決に苦慮したからと考えられるが、扇谷上杉氏の側でもまた、太田道真が家宰を辞して隠居していることから、両者の間で均衡がとられたものとする見方がある[6]。
寛正3年(1462年)3月、持朝が政知と対立したことで、成氏方に離反したとする「雑説」が流れた[9][6][10]。室町幕府の将軍・足利義政はこの報に接すると、政知に「非常に驚愕している」と伝え、持朝が「代々の忠節者」であるとし、その分国や所領に関して保障するよう要求した[6]。
だが、堀越公方と扇谷上杉氏の対立は深刻で、その余波を受けてか、3月に相模の三浦時高が、4月に千葉実胤らが隠居する事態に発展した[9][6]。二人はともに両勢力の板挟みにあい、そのために進退窮し、隠居せざるを得なかったと考えられる[11]。
持朝の「雑説」や上杉教朝の自害をはじめ、太田氏・三浦氏・千葉氏の隠居は全て一連のものであり、政知ら堀越公方が関わった政争であったとみられる[12]。この結果、政知は持朝の相模守護職を罷免したとされる[12]。また、関東執事の渋川義鏡が一連の事件に深くかかわり、持朝の守護職罷免も義鏡によるものとする見方もある[13][14]。
11月初旬、扇谷上杉氏と堀越公方との間で和解が成立した[15]。堀越方は持朝の離反が事実でないと幕府に報告し、扇谷上杉氏の分国や所領の維持を容認した[15]。これを受け、同月19日に義政は上杉政憲に宛てて、そのことを賞している[15]。
12月、義政は政知や上杉持朝らに御内書を下し、持朝の地位を保障するとともに、河越荘など扇谷上杉氏が領有する御料地や闕所地、家臣の所領で発生した闕所地に関しても、従来の領有権や進退権を保証した[12][15]。また、政知に対しては、扇谷上杉氏から収公した兵糧料所を元に戻すことも命じている[15]。この混乱の収拾のためか、寛正3年頃に渋川義鏡が幕府によって、関東執事から解任された[13][16][14]。
応仁元年(1467年)9月6日、持朝は52歳で死去した[17]。
持朝の死後、跡を顕房の遺児である孫の政真が継いだ。だが、文明5年(1473年)に政真は武蔵五十子の戦いにおいて戦死したため、その跡を持朝の三男で顕房の弟の定正が継いだ。また、次男・三浦高救とその嫡男・義同は相模三浦氏の三浦時高の養子となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 関東武士研究叢書 大石氏の研究(1975年、杉山博、栗原仲道 名著出版)
- ↑ 黒田基樹「扇谷上杉氏の政治的位置」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1)
- ↑ 『薩戒記目録』永享11年12月4日条。
- ↑ 木下聡「結城合戦前後の扇谷上杉氏-新出史料の紹介と検討を通じて-」(初出:『千葉史学』55号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1)
- ↑ 道灌によって築かれたとされていた岩槻城は成氏方の成田正等の築城説が現在は主流である。
- 1 2 3 4 5 黒田 2021, p. 60.
- ↑ 石田 2008, p. 171.
- ↑ 黒田 2021, pp. 58–59.
- 1 2 石田 2008, p. 172.
- ↑ 峰岸 2017, pp. 102–103.
- ↑ 黒田 2021, pp. 60–61.
- 1 2 3 石田 2008, p. 173.
- 1 2 峰岸 2017, p. 87.
- 1 2 石田 2008, p. 174.
- 1 2 3 4 5 黒田 2021, p. 61.
- ↑ 黒田 2021, p. 69.
- ↑ 東京帝国大学文科大学史料編纂掛編『大日本史料 第8編之1』東京帝国大学、1913年、pp.392-394