ノート:享徳の乱

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どうも。いつも楽しく拝見させていただいております。 僭越ながら、享徳の乱の終結年月日が「1482年(文明14年)11月27日」 と、何やらゴッチャになっているような気がいたしまして、書き込みいたしました。

もし「文明14年11月27日」でしたら、現行暦(グレゴリオ暦)に換算いたしますと、 「1483年1月6日」となってしまいますし、「1482年11月27日」でしたら、 旧暦に換算した場合には「文明14年10月17日」となってしまうと思うのですが…。

参考書やサーチエンジン検索でも、日付は11月27日のまま 年代が「文明14年」のものと「1482年」のものとが混在している状態なので、 どちらとも判別できない状態で、編集するにも手が出ない状態となっております。

ぜひともご教授いただければ幸いです。

以上の署名の無いコメントは、60.39.111.156会話履歴whois)氏が[2006年11月1日 (水) 18:40 (UTC)]に投稿したものです(ろう(Law soma)による付記)。[返信]

大変貴重なご意見、ありがとうございました。おっしゃるとおり私の不注意による乱れでした。11月27日は旧暦ですので、早速修正いたしました。今後ともご指導宜しくお願いいたします。--ろう(Law soma) 2006年11月2日 (木) 00:57 (UTC)[返信]
お返事いただけて光栄です。修正もうしわけございません&ありがとうございました。歴史年代についてまた一つ学ぶことができて有難き幸せにございます。今後とも何かございましたらよろしくお願いいたします。何卒、何卒。 p.s.利用者登録しました。--日本一弱い男 2006年11月3日 (木) 20:16 (UTC)[返信]

参戦武将の節について[編集]

閲覧していて思ったことなのですが、享徳の乱#堀越公方側の所で武蔵千葉氏とありますが、この戦いに負けたことで武蔵千葉氏になったのであり、戦いが起きていた時はまだ下総千葉氏(又はTemplate:千葉氏当主にある千葉宗家)だと思うのですがどうでしょうか。千葉胤宣ではいちよう実胤自胤からが武蔵千葉氏だという記述がみられます(ただしこの記事には出典がありません)。コメントよろしくお願いします。1週間たって何もコメントがなかった場合、異論無しとみて、修正させていただきます。--Tmv会話|投稿記録2019年8月24日 (土) 11:58 (UTC)[返信]

武蔵千葉氏は、享徳の乱の初期・康生元年(1455)8月に、千葉氏の内訌に敗れた実胤が市川城に入って成立したものです。翌年1月には市川城も落城、武蔵石浜城・赤塚城に入ったので、内訌に勝利した胤持・輔胤(下総千葉氏)と別に武蔵千葉氏と呼ばれました。なので、享徳の乱の期間全体のほとんどで、武蔵千葉氏は堀越公方側、下総千葉氏は古河公方側です。従来のままでよろしいのではありませんか? 冬扇会話2019年8月24日 (土) 12:48 (UTC)[返信]
取り下げ及び コメント 私は千野原靖方氏の『下総原氏・高城氏の歴史〈上〉第1部 原氏』を読み、上の提案を書いたのですが、今確認したところ、本書の1450年4月の江ノ島合戦を享徳の乱のはじめとする視点とWikipediaの記述が大きく異なっていました(5年差)。よって武蔵千葉氏改名の提案は取り下げます。しかし乱の初期について出典がないことから、新しく下の節で始まった年代について皆さんの意見を聞きたいと思います。--Tmv会話|投稿記録2019年8月26日 (月) 10:19 (UTC)[返信]

始まりの年について[編集]

提案 上の節で述べましたが、千野原靖方氏『下総原氏・高城氏の歴史〈上〉第1部 原氏』は乱の始まりを1450年4月の江ノ島合戦としています(p87)。現在経過の節に出典がないことから1450年としてもいいと思うのですが、どうでしょうか。ご意見よろしくお願いします。--Tmv会話|投稿記録2019年8月26日 (月) 10:19 (UTC)[返信]