大崎教兼

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大崎教兼
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 彦三郎(幼名)→教兼
別名 持兼(初名?)
官位 左衛門佐陸奥守従四位
幕府 室町幕府 奥州探題
氏族 大崎氏
父母 父:大崎持詮
兄弟 教兼内崎兼宜?、成兼[1]?
政兼百々高詮、慧厳院(伊達成宗正室)、内﨑兼宣斯波詮高高清水定家

大崎 教兼(おおさき のりかね)は、室町時代守護大名奥州探題大崎氏の第7代当主。父持詮と同じく、教兼についても諸説紛糾しているが、以下、通説に従う。

通説[編集]

初名は彦三郎。応永31年(1424年)に左衛門佐に任官。第6代将軍足利義教偏諱を受け、教兼に改名。寛正文明年間に精力的に文書を発給しているといい、探題大崎氏最後の栄光を現出させている。しかし、葛西氏との領界上の競り合いが始まり大崎氏の退潮が始まった。多数の子女に恵まれ、嫡男政兼[1](まさかね)や百々高詮以外にも一迫氏内ヶ崎氏中新田氏古川氏師山氏平柳氏の他、高清水氏黒川氏中野氏にも入嗣させている。娘の慧厳院は伊達成宗に嫁いで尚宗を生んでいる。

異説[編集]

なお、『系図纂要大崎系図』等では持詮の子を持兼、さらにその子を教兼とするが、遠藤厳「斯波氏」今谷明藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 上下巻』(新人物往来社、1988年)では、「この説は時代・時期的に妥当ではない」とし、遠藤巌は「教兼は第5代当主。初名は大崎持兼。1450年から1477年頃まで文書を発給し、法名昌朔(又は、朔日)、号は修心院とし、法名にちなみ「大崎六代朔の殿」。大崎長岡郡洲賀に居城して「洲賀殿」と称された。」と唱える。しかし『系図纂要』説も、遠藤説も少数説に留まっている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 室町幕府第8代将軍・足利義成(義政)より偏諱の授与を受けたと考えられる。このことから兄弟とされる成兼(しげかね)は教兼より年少で弟とみられる。