嘉吉の乱

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嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代嘉吉元年(1441年)に播磨備前美作守護赤松満祐室町幕府6代将軍足利義教暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる。

この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。

前史[編集]

赤松氏の隆盛[編集]

赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。

応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。

義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。

万人恐怖[編集]

足利義教肖像

義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。

当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝院満済山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになった。

義教は将軍の権力強化をねらって、斯波氏畠山氏山名氏京極氏富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。

足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。

満祐の隠居[編集]

この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

同年5月、大和出陣中の一色義貫土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱)。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居した。

嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝結城城が陥落(結城合戦)した。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。

6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継いだ。23日には吉良持助が出奔している。

乱の経過[編集]

将軍暗殺[編集]

6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」[1]と招いたという。

この宴に相伴した大名は管領細川持之畠山持永山名持豊一色教親細川持常大内持世京極高数山名熙貴細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかにが放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。

酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う[2]。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。

暗殺後の対応[編集]

管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていた。実際には、義教暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。

突然独裁者である義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまった。翌25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定した。26日に義勝を政所執事伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移している。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。

将軍が殺された時に管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れたが、実際こうした幕府の対応の遅さに、赤松氏に有利に事態を収拾しようとした持之の明確な意図を読み取る見方もある[3]

本拠地の播磨坂本城に帰った満祐は、足利直冬足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。

7月1日季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、6日等持院で義教の葬儀が行われた。

嘉吉の乱.png

赤松氏討伐[編集]

その後細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉質屋を襲撃して財物を強奪した。これには管領細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件が起こっている。

7月初旬に山名教清が伯耆から美作へ侵入した。同地の国人はほとんど抵抗せず、美作は山名勢に制圧された。

細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。

持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬へ向かった。

8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを認め、三条実雅を介して公人奉行である飯尾為種に手渡された(『建内記』)。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もあったとされる。また、村上源氏久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をしていたが、幕府は何の対策を打ち出せなかった(11月2日に清通は源氏長者に補任される(『公卿補任』)。

8月19日、摂津の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親細川成春の父)は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した(人丸塚の戦い)。

8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。

9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城兵庫県たつの市)へ移る。赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。

戦後[編集]

守護大名の復権[編集]

山名持豊は満祐を討ち果たしたことによって播磨守護職を与えられ、備前守護は山名教之、美作守護は山名教清が任ぜられた。また摂津の中島郡と播磨の明石加東美嚢三郡は御料所となり、中島郡は細川持賢、播磨三郡は赤松満政が分郡守護となった。しかし持豊は軍功として播磨一国支配を要求し、文安元年(1444年)1月に満政は失脚して三郡も持豊の支配下となった。満政はこれを不服として播磨で挙兵したが、文安2年(1445年)に殺害された。足利義満時代の明徳の乱で敗れて低下した山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる。

将軍家はこの一連の出来事で権威を大きく失墜させ、代わりに守護大名の合議制が復活した。8月、討伐軍が西国へ出征している隙を突いて嘉吉の土一揆が発生、要求を認めて徳政令を発布したこともその一環といえる。また、持之は6月25日の評定で義教に処罰された人々の赦免を決定したが、義教に更迭された畠山持国が上洛し、逆に義教に当主とされた持国の弟持永が逃亡して殺され、持之の管領辞任後に持国が管領に就任した。持国は自分と同じく義教に処罰された人々の復権を図り、反発した細川氏と対立、大名家のお家騒動を引き起こしていった。

赤松氏のその後[編集]

脱出した教康は義父の大河内顕雅を頼るが拒まれて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。満祐の弟の義雅は一族である満政の陣に出頭して切腹し、息子千代丸(後の赤松時勝)の育成を託した。またもう一人の弟である則繁は九州に逃亡し、一時は朝鮮に渡るなど活躍したが文安5年(1448年)に河内で討たれている。享徳3年(1454年)に満祐の甥の赤松則尚が赤松氏再興を掲げて播磨に侵入したが、敗れて持豊に討ち取られた。分家の有馬氏出身の有馬持家元家父子は8代将軍足利義政の側近として活動していたが、それぞれ満政、則尚の反乱に連座して隠居に追い込まれた。

嘉吉3年(1443年)、三種の神器のうちの神璽後南朝勢力に奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。

脚注[編集]

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  1. ^ 野生の鴨は日本では産卵しないので、その子というのは大変珍奇ものであった。ただしこれが事実として、教康がどういう手段で鴨の子を入手したのかは不明である。海音寺潮五郎は鴨の卵を入手して、鶏に抱かせて孵化させたと推測している(現代でアヒルの卵を孵化させる方法のひとつとして、普通に行われている)。井沢元彦は実はアヒルであったかもしれないが、それでも当時は珍奇なものに違い無いとしている。
  2. ^ 当時、武士が他人の屋敷を訪問する際には腰刀のみの携行もしくは丸腰が原則であった。通常は家臣が主君の館に出仕するケースが多く、太田道灌のように出仕中に主君に殺害される事例は決して珍しくなかった。反対に主君が家臣の館の御成するケースは少なく、今回の将軍御成の場合でも訪問者の腰刀のみもしくは丸腰の原則は守られていたことがうかがえる(久保賢司「〈戦国〉期 上克下論」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3) )。
  3. ^ 赤松氏と細川氏は伝統的に同盟関係に近いものがあったため。(本郷和人『人物を読む日本中世史』講談社)

参考文献[編集]

関連項目[編集]