金蔵主

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金蔵主(こんぞうす、応永18年(1411年)? - 嘉吉3年9月26日1443年10月19日[1][2])は、後南朝初代の象徴的指導者。室町時代の万寿寺(あるいは相国寺鹿苑院)の僧であった[1]

別名「尊義王」、「空因」ともいうが、後世の系図類によるもので信ずるにたりない。なお、「中興天皇」と称して嘉吉3年9月に即位、後南朝の初代天皇となったという説もあるが、この事は同時代史料では確認できない。

父は護聖院宮惟成親王の皇子世明王とされ[2]、兄弟に通蔵主[1][2]、息子に尊秀王忠義王がいたとされる。

生涯[編集]

出自についてはよくわかっておらず、護聖院宮惟成親王(後亀山天皇の弟)の孫、もしくは小倉宮良泰親王後亀山天皇の子)の子ともされる。また、後亀山天皇皇子とする説もあるが[1][2]、いずれにせよ確実な資料はない[1]。兄に通蔵主がいたとされるが[1][2]、金蔵主が応永18年(1411年)に誕生し、永享元年(1429年)9月に万寿院に入室したとする資料もあるため、どちらが兄でどちらが弟であったのかは不明。ただし、金蔵主が出家した永享元年は通蔵主が誕生した年であり、このことから嫡子である通蔵主が誕生したために庶子の金蔵主が出家させられ、「弟」とされたとも考えられている。だが、別の記録では永享6年(1434年)の通蔵主の出家と同時に相国寺に入れられたとする記録もある。

嘉吉3年(1443年9月23日通蔵主源尊秀(=金蔵主の子・尊秀王?)、日野有光日野資光らは三種の神器の奪還を目指し 京都御所に乱入した(禁闕の変)。このとき、金蔵主は兄の通蔵主、日野有光ら後南朝勢によって王に奉じられたとされる。

金蔵主らは内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇左大臣近衛忠嗣の邸に避難した。金蔵主らと幕府側との戦闘も行われている。金蔵主らは三種の神器の神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もる[3]

同日、朝廷から追討令が出ると、幕府軍や協力を拒んだ山徒により、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[3]。このときに金蔵主は日野有光とともに討たれた[3]。通蔵主らは逮捕されて処刑・流罪、また行方不明となったものもいた[3]。しかし後世、金蔵主は討死にせず吉野北山で崩御したという伝説もとなえられた。

金蔵主は禁闕の変において山名氏細川氏の支援を受けていたという説がある(山名氏・細川氏の関与が疑われた記録が残っている)。

禁闕の変で奪った神器のうち、剣は清水寺で発見され北朝の元に戻るが、神璽はそのまま後南朝のもとにあった。約15年後の1457年(長禄元年)、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が長禄の変で神璽を奪い返し、翌年には神璽は北朝の手に戻っている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 朝日日本歴史人物事典「金蔵主」
  2. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus「金蔵主」
  3. ^ a b c d 禁闕の変

参考文献[編集]

  • 朝日日本歴史人物事典「金蔵主」
  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus「金蔵主」

関連項目[編集]