日野有光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
日野有光
時代 室町時代前期
生誕 元中4年/嘉慶元年(1387年
死没 嘉吉3年9月27日1443年10月20日
改名 有光→祐光(号)
官位 従一位権大納言
主君 後小松天皇称光天皇
氏族 藤原北家真夏日野家
父母 父:日野資教
兄弟 有光秀光
資親、称光天皇妃
テンプレートを表示

日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿藤原北家真夏日野家権大納言日野資教の子。官位は従一位・権大納言。

経歴[編集]

足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。

応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。有光は所領没収となり、家督と所領は有光の弟秀光が代わって継いだが、永享4年(1432年)に彼は死去し、日野流に属する広橋家広橋兼郷の子の春龍丸が跡を継いだ。しかし春龍丸もその年のうちに死去し、結局日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。

失意の中にいた有光は南朝復興を目指す後南朝と結んで、嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後の京都の動揺に乗じ、9月23日、通蔵主金蔵主尊秀王日野資光、有光らは伊勢楠木氏楠木正威らに数百人の兵と京都に乱入(禁闕の変)、御所から三種の神器のうち神璽宝剣を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て籠った。しかし畠山持国らに攻められ、有光と金蔵主は討ち死にした。子の資親は捉えられ、六条河原で斬罪にされた。

天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野家は、これで一旦断絶する。

官歴[編集]

  • 応永18年(1411年)参議。
  • 応永21年(1414年)権中納言。
  • 応永24年(1417年)院執権。
  • 応永28年(1421年)権大納言。
  • 応永32年(1425年)従一位。権大納言と院執権を辞す。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 看聞日記』応永27年10月24日条。