長禄の変

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長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代長禄元年12月2日1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って、神璽を持ち去った事件。

経過[編集]

嘉吉3年(1443年)9月の禁闕の変で、三種の神器の1つ「神璽」は後南朝に持ち去られたままだった[1]嘉吉の乱で取り潰された守護大名赤松氏の再興を目指す赤松氏の遺臣達(上月満吉・石見太郎・丹生谷帯刀左衛門と四郎左衛門の兄弟など)はこの点に着目した。旧赤松領は山名領となり、赤松氏の旧臣らは追い出され、落ちぶれて浪人となっていた彼らにとって赤松氏再興は悲願であった[2]。また、朝廷や幕府とは神璽を後南朝から取り戻すことを条件として、成功の暁には赤松氏の再興を約していた[3][1]

赤松遺臣らは後南朝に接近するために策略を練った。彼らは「自分たちは(嘉吉の乱以降)どこにも仕える場所がなく、これ以上は耐えられないので吉野の朝廷に参上し、ともに京を奪還したい」、と後南朝に申し入れた[4]。そして、後南朝は赤松遺臣らを受け入れ、康正2年(1456年)12月20日に遺臣ら30人は吉野に向かった[3][1]

赤松遺臣らは吉野に入ってもすぐに行動には移さなかった。彼らは神璽のありかをさぐり、その調査にはおよそ1年の歳月を要した[2]。調査の結果、神璽は後南朝が行宮を置いていた奥吉野の北山(あるいは三之公)にあることが分かった。

長禄元年(1457年12月2日の子の刻(午前0時頃)、赤松遺臣らは二手に分かれて、南朝の皇胤である自天王(北山宮、一の宮とも)と忠義王(河野宮、二の宮とも)の兄弟を襲撃した[1]。北山にいた自天王は丹生谷兄弟の兄によって討たれ、彼らはその神璽を強奪した[1]。河野郷にいた忠義王も同じころ、上月満吉によって討たれている[5][1]。後南朝に仕えていた野長瀬盛高盛実兄弟、楠木正理らは尊雅王(南天皇)を擁して奥吉野の山中を逃走したが、やがて十津川にて討たれた。

赤松遺臣らは神璽をいったん持ち去ることに成功するが、後南朝を支持する吉野の民にこの襲撃を察知されてしまう[1]。吉野の民の反撃によって、神璽を持っていた丹生谷兄弟は伯母谷で殺害され、神璽は自天王の首とともに奪還された[1]。このため、赤松遺臣らは吉野から一旦引き上げた。

翌年の長禄2年(1458年)3月末、赤松遺臣らは大和の豪族小川弘光、さらに越智家栄の協力を得て、吉野の民によって戻されていた神璽がある自天王の母の屋敷を襲い、再度神璽を持ち去った[1]。この作戦もまた周到に計画されたものであった[1]。その後、同年8月30日に神璽は京へと戻り、朝廷へ返還された[5][1]

室町幕府は後南朝によって約15年もの間京都から持ち去られていた神璽の奪還成功の功績を認め、赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督相続をさせた[5]。 また、その勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘伊勢高宮保が与えられた[6]。 赤松氏再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与している事も確認されており[7]、赤松氏を取り立てる事で山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 長禄の変
  2. ^ a b 渡邊大門『赤松氏五代』P260
  3. ^ a b 上月文書
  4. ^ 赤松記
  5. ^ a b c 渡邊大門『赤松氏五代』P263
  6. ^ a b 渡邊大門『赤松氏五代』P264
  7. ^ 『蔭凉軒日録』

参考文献[編集]

  • 渡邊大門『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史―』講談社、2009年
  • 渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院、2010年。
  • 渡邊大門『中世後期の赤松氏―政治・史料・文化の視点から―』日本史史料研究会、2011年。
  • 渡邊大門『赤松氏五代』ミネルヴァ書房2012年

関連項目[編集]