廃藩置県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Orichalcum (会話 | 投稿記録) による 2016年3月8日 (火) 14:53個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎実行: 宮武外骨の節をコメントアウト これらは都道府県の項でまとめられており、改名も第一次府県統合以降のこと)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日1871年8月29日)に、明治政府がそれまでのを廃止して地方統治を中央管下のに一元化した行政改革である。

各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。

背景

慶応3年12月9日1868年1月3日)に勃発した王政復古の政変は事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領()の存在をどうするかが問題であった。

明治2年6月17日1869年7月25日)、274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状はほとんど江戸時代と同様であった。

一方、旧天領旗本支配地等は政府直轄地としてが置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の正式な制度として「藩」という呼称はない。したがって、公式には「藩」とは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。

当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていた(池田慶徳鳥取藩)、徳川慶勝名古屋藩)、細川護久熊本藩)、南部藩など)。

明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。

紀州藩(和歌山藩)の藩政改革

明治元年11月(1868年12月)、紀州藩第14代藩主・徳川茂承より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還 廃藩置県)、徴兵令の構想を伝える。

明治2年7月(1869年8月)、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する[1][2][3]。紀州藩の藩政改革は、郡県制の実施、無益高(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施、カール・ケッペンらによりプロシア式の洋式軍隊を創設し、四民皆兵の徴兵制度と満20才以上の男子に徴兵検査を義務を実施した。また、藩主の下に執政を1人置き藩全体を統轄させた。執政の下に参政公議人を置き、執政の補佐や藩と中央政府との連絡を行った。また政治府と公用局、軍務局、会計局、刑法局、民政局の5局、教育を掌る所として学習館(後の和歌山大学)を設置した。それに加え、藩主の家計事務一切を藩政から分離する「藩治職制」を新設し、設置した。最低生活を保障する給与である無役高で禄高を10分の1に減額されたが、それぞれの官職についた者ついては文武役料が追加され、人材抜擢が行われた。この際、無役高のみの者に対しては、城下以外の移住、副業や内職のために農工商を営むことが許され、紀州藩での封建制度は崩壊した。なお、長州藩鳥尾小弥太は、この改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道西郷隆盛の代理で村田新八山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家のモデルケースとなり、明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の徴兵令に影響を与えた。

実行前夜

だが、その実現には紆余曲折があった。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置県の必要があることは政府内の共通認識となっていたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていた。また木戸が能力を重視して大隈とともに旧幕臣郷純造渋沢栄一らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保には理解できなかった。

大久保は薩摩藩藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも山縣有朋御親兵設置構想が浮上すると大久保は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。

ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する伊藤博文井上馨ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。

大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年1月(1871年2月)に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。

また、長州藩の大楽源太郎による反乱やその支持者によると言われる広沢真臣暗殺公家愛宕通旭外山光輔による新政府転覆計画発覚(二卿事件)など新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めた。

大久保は6月25日8月11日)に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとした。しかし、西郷によって推挙された大蔵大丞安場保和が大隈弾劾の意見書を提出したために大隈やこれを支持する江藤新平後藤象二郎らが結束してこれに対抗した。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。

7月4日8月19日)、山縣の下に居合わせた鳥尾小弥太野村靖(いずれも木戸派に相当する)が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もあった。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。

翌日には2人は井上を味方に引き入れ7月6日8月21日)、井上は木戸を、山縣は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを望んだのである。かくして9日24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は三条実美岩倉具視板垣退助・大隈らの賛成を得たのである。

実行

明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。王政復古に次ぐ第2のクーデターであった。

10時に鹿児島藩知事島津忠義山口藩知事・毛利元徳佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅[4]を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝熊本藩知事・細川護久鳥取藩知事・池田慶徳徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。

藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10〜11月には3府72県に統合された。その後12月に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは明治政府が開港地を重要視していたためである[5]


その後、県の数は明治5年(1872年)69県、明治6年(1873年)60県、明治8年(1875年)59県、明治9年(1876年)35県と合併が進み(府の数は3のままである)、明治14年(1881年)の堺県大阪府への合併をもって完了した。だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治22年(1889年)には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。

統合によってできた府県境は、令制国のものと重なる部分も多い。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。

また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令の大山綱良のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。

一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。尚、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いた。

同県人の知事起用

影響

廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。

だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。

琉球藩

戦国時代、国と冊封関係を利用し勢力を拡大していた琉球慶長14年(1609年万暦37年)、薩摩藩に破れ降伏し、1451年に日本本土からの技術援助によって建てられた首里城は落城した。江戸時代において、清への朝貢を装う行き来が盛んであったが、実体は薩摩藩による密貿易である。明治政府は明治5年9月14日(1872年10月16日)、琉球王国を「琉球藩」とし、明治12年(1879年3月11日沖縄県として実質的国内化を図った。「琉球藩」は、この間の琉球の公称である。

旧藩債務の問題

既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった[6]

これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。

廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。

そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを理由に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。
(なお新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)

その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。

だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。

旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。

廃藩置県当初に設置された県

明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施された当初、府県名は都市名(府県庁所在地)を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの飛地を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。太字は廃藩置県以前から存在した府県。

北海道地方

東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

四国地方

九州地方

第1次府県統合

明治4年10月28日(1871年12月10日)から11月22日(1872年1月2日)に行われた第1次府県統合によって、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編された。

以下、法令全書所収の太政官布告により明治4年(1871年)末の段階の府県とそのエリアを示す(布告日は旧暦)。ただし太政官布告に記載されたエリアと実際のエリアには若干の異同があり、飛地領の管轄に対する指示も日付が前後している部分がある。また合併の期日も、資料によってはこれと異なるものもある。

群馬県

明治4年10月28日(1871年12月10日)布告[7]

姫路県・豊岡県

明治4年11月2日(1871年12月13日)布告[8]

北海・東北地方

明治4年11月2日(1871年12月13日)布告[9]

関東地方・伊豆

明治4年11月14日(1871年12月25日)布告[10]。すでに県の設置を終えている群馬県を除く。

  • 茨城県 - 常陸国のうち多賀郡久慈郡・那賀郡(那珂郡)・茨城郡真壁郡
    • 元下館県管轄の河内国古市郡・石川郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 豊岡県(元峰山県)管轄の常陸国真壁郡、淀県管轄の常陸国真壁郡の飛地領を編入。
  • 新治県 - 常陸国のうち新治郡筑波郡河内郡信太郡行方郡鹿島郡下総国のうち香取郡匝瑳郡海上郡
    • 群馬県(元前橋県)管轄の常陸国河内郡・筑波郡、同(元安中県)管轄の下総国香取郡・海上郡、同(元高崎県)管轄の下総国海上郡、額田県(元西端県)管轄の下総国香取郡・匝瑳郡、淀県管轄の下総国香取郡、津県管轄の下総国香取郡の飛地領を編入。
  • 印旛県 - 下総国のうち結城郡猿島郡葛飾郡相馬郡岡田郡豊田郡千葉郡埴生郡印旛郡
    • 元古河県管轄の美作国久米南条郡、摂津国島下郡・兎原郡・西成郡・住吉郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 豊岡県(元峰山県)管轄の下総国猿島郡、淀県管轄の下総国相馬郡・印旛郡・埴生郡の飛地領を編入。
  • 木更津県 - 安房国一円、上総国一円
    • 元鶴牧県管轄の丹波国船井郡、元加知山県管轄の越前国敦賀郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 額田県(元西端県)管轄の上総国武射郡、同(元豊橋県)管轄の同望陀郡、吉見県管轄の上総国望陀郡の飛地領を編入。
  • 宇都宮県 - 下野国のうち芳賀郡塩谷郡那須郡河内郡
    • 秋田県管轄の下野国河内郡の飛地領を編入。
  • 栃木県 - 下野国のうち足利郡・簗田郡(梁田郡)・寒川郡安蘇郡都賀郡上野国のうち邑楽郡新田郡山田郡
    • 元館林県管轄の河内国八上郡・丹南郡・丹北郡、元壬生県管轄の大和国葛下郡、元佐野県管轄の近江国滋賀郡、元吹上県管轄の伊勢国三重郡・河曲郡・多芸郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 群馬県(元前橋県)管轄の上野国邑楽郡・新田郡・山田郡、同下野国安蘇郡・足利郡、同(元岩鼻県)管轄の上野国新田郡・山田郡、秋田県管轄の下野国都賀郡、額田県(元西端県)管轄の上野国邑楽郡・新田郡、同下野国安蘇郡、同(元半原県)管轄の上野国新田郡、彦根県管轄の下野国安蘇郡、高富県管轄の下野国足利郡、丹南県管轄の下野国足利郡の飛地領を編入。
  • 入間県 - 武蔵国のうち横見郡入間郡秩父郡男衾郡大里郡榛沢郡賀美郡幡羅郡比企郡新座郡那賀郡児玉郡高麗郡多摩郡(一部)
    • 太政官布告では多摩郡を入間県と東京府に分けて管轄するものとしているが、東多摩郡(後の豊多摩郡の一部)が東京府の管轄となり、残りの区域(後の西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡)は翌年に入間県から神奈川県の管轄となった。
    • 元川越県管轄の近江国甲賀郡・蒲生郡・野洲郡・高島郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 群馬県(元前橋県)管轄の武蔵国入間郡・高麗郡・秩父郡・大里郡・比企郡・榛沢郡・那賀郡・児玉郡・多摩郡、同(元岩鼻県)管轄の同賀美郡・秩父郡・幡羅郡・榛沢郡・那賀郡・児玉郡、同(元高崎県)管轄の同新座郡、額田県(元西端県)管轄の武蔵国多摩郡、同(元半原県)管轄の同榛沢郡の飛地領を編入。
  • 埼玉県 - 武蔵国のうち埼玉郡葛飾郡(一部)・足立郡(一部)
    • 元忍県管轄の伊勢国員弁郡・朝明郡・三重郡の飛地領も当面の間は管轄。
    • 群馬県(元前橋県)管轄の武蔵国埼玉郡、泉県管轄の武蔵国埼玉郡の飛地領を編入。
  • 東京府 - 武蔵国のうち荏原郡豊島郡・多摩郡(一部)・足立郡(一部)・葛飾郡(一部)
    • 東京府 - 彦根県管轄の武蔵国荏原郡・多摩郡の飛地領を編入。
  • 神奈川県 - 相模国のうち三浦郡鎌倉郡、武蔵国のうち橘樹郡久良岐郡都筑郡
  • 足柄県 - 相模国のうち足柄上郡足柄下郡高座郡愛甲郡淘綾郡津久井郡伊豆国一円
    • 太政官布告では高座郡を足柄県管轄としているが、実際には神奈川県の管轄とされた。
    • 額田県(元西端県)管轄の伊豆国田方郡加茂郡、同(元西大平県)管轄の相模国高座郡の飛地領を編入。

九州地方

明治4年11月14日(1871年12月25日)布告[11]

四国地方

明治4年11月15日(1871年12月26日)布告[12]

中国地方

明治4年11月15日(1871年12月26日)布告[13]

東海地方

明治4年11月15日(1871年12月26日)布告[14]

  • 静岡県 - 駿河国一円
  • 浜松県 - 遠江国一円
  • 額田県 - 三河国一円、尾張国のうち知多郡
    • 元挙母県管轄の美作国久米北条郡、元西大平県管轄の相摸国高座郡、元西端県管轄の上総国武射郡、同下総国匝瑳郡・香取郡、同伊豆国田方郡・加茂郡、同上野国新田郡・邑楽郡、同下野国安蘇郡、同武蔵国多摩郡、元西尾県管轄の越前国丹生郡・南条郡・阪井郡、同安房国平郡、元半原県管轄の武蔵国榛沢郡、同摂津国豊島郡・川辺郡・能勢郡・有馬郡、同上野国新田郡、同丹波国何鹿郡、元豊橋県管轄の近江国浅井郡・伊香郡・高島郡、同上総国望陀郡の飛地領も当面の間は管轄。

北陸・甲信越地方

明治4年11月20日(1871年12月31日)布告[15]

大阪府・兵庫県

明治4年11月20日(1871年12月31日)布告[16]

近畿および隣接各府県

明治4年11月22日(1872年1月2日)布告[17]

府県の配列

明治4年12月27日(1872年2月14日)付の太政官布告による府県の配列は、以下の通りである。

  • 1 - 7(三大都市、開港地):東京府、京都府、大阪府、神奈川県、兵庫県、長崎県、新潟県
  • 8 - 17(関東地方):埼玉県、入間県、足柄県、木更津県、印旛県、新治県、茨城県、群馬県、橡木(栃木)県、宇都宮県
  • 18 - 21(近畿地方):奈良県、堺県、安濃津県、度会県
  • 22 - 31(東海・甲信地方):名古屋県、額田県、浜松県、静岡県、山梨県、大津県、長浜県、岐阜県、筑摩県、長野県
  • 32 - 42(東北地方):仙台県、福島県、磐前県、若松県、一関県、盛岡県、青森県、山形県、置賜県、酒田県、秋田県
  • 43 - 49(北陸地方):敦賀県、福井県、金沢県、七尾県、新川県、柏崎県、相川県
  • 50 - 53 (山陰地方):豊岡県、鳥取県、島根県、浜田県
  • 54 - 59 (山陽地方):飾磨県、北条県、岡山県、深津県、広島県、山口県
  • 60 - 65 (和歌山・四国地方):和歌山県、名東県、香川県、松山県、宇和島県、高知県
  • 66 - 75 (九州地方):福岡県、三潴県、小倉県、大分県、伊万里県、熊本県、八代県、都城県、美々津県、鹿児島県

第1次府県統合から第2次府県統合までの異動

以下の節ではカッコ内が新しい県の名称を示す。

改称

人心一新のため、旧藩名から郡名等に改称されたとされている。

分立

編入

分割編入

  • 明治5年9月27日(1872年10月29日) - 七尾県のうち能登国(石川県)、越中国(新川県)
  • 明治8年(1875年)5月7日 - 新治県のうち下総国(千葉県)、常陸国(茨城県)

統合

  • 明治6年(1873年)
    • 1月15日 - 美々津県・都城県(宮崎県
    • 2月20日 - 石鉄県・神山県(愛媛県
    • 6月15日 - 印旛県・木更津県(千葉県)、群馬県・入間県(熊谷県

境界変更

  • 明治4年12月17日(1872年1月26日) - 島根県のうち隠岐国(鳥取県)
  • 明治5年(1872年)
    • 5月15日6月20日) - 都城県のうち大隅国菱刈郡・姶良郡および桑原郡栗野郷・横川郷(鹿児島県)、美々津県のうち日向国諸県郡須木郷・野尻郷および小林郷のうち東方村(都城県)
    • 8月17日9月19日) - 佐賀県のうち対馬国(長崎県)
    • 9月20日10月22日) - 青森県のうち渡島国(開拓使)
  • 明治6年(1873年)1月15日 - 都城県のうち大隅国(鹿児島県)
  • 明治8年(1875年)5月7日 - 千葉県のうち下総国結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡および相馬郡・葛飾郡の各一部[18](茨城県)

第2次府県統合

すべて明治9年(1876年)。この統合で発足した県の中には、現在でも地域間対立や地理的要件の不一致などの問題を孕んでおり、名目上は一つの県でありながら実質上は別の県という地域が少なくない。

分立

  • 8月21日 - 熊谷県のうち上野国(群馬県)

編入

  • 4月18日 - 相川県(新潟県)、新川県(石川県)、度会県(三重県)、奈良県(堺県)、浜田県(島根県)、北条県(岡山県)、小倉県(福岡県)、佐賀県(三潴県)
  • 8月21日 - 若松県(福島県)、置賜県・鶴岡県(山形県)、熊谷県(埼玉県)、浜松県(静岡県)、飾磨県(兵庫県)、鳥取県(島根県)、香川県(愛媛県)、名東県(高知県)、宮崎県(鹿児島県)

分割編入

  • 4月18日
    • 磐井県のうち陸中国(岩手県)、陸前国(宮城県)
    • 足柄県のうち相模国(神奈川県)、伊豆国(静岡県)
  • 8月21日
    • 磐前県のうち磐城国刈田郡・伊具郡・亘理郡(宮城県)、残部(福島県)
    • 筑摩県のうち信濃国(長野県)、飛騨国(岐阜県)
    • 敦賀県のうち若狭国および越前国敦賀郡(滋賀県)、残部(石川県)
    • 豊岡県のうち丹後国および丹波国天田郡(京都府)、但馬国および丹波国氷上郡・多紀郡(兵庫県)
    • 三潴県のうち筑後国(福岡県)、肥前国(長崎県)

境界変更

  • 4月18日 - 宮城県のうち磐城国(磐前県)、岡山県のうち備後国(広島県)
  • 5月24日 - 三潴県のうち肥前国杵島郡および松浦郡の一部[19](長崎県)
  • 5月25日 - 青森県のうち陸奥国二戸郡、宮城県のうち陸前国気仙郡(岩手県)
  • 6月21日 - 三潴県のうち肥前国藤津郡(長崎県)
  • 8月21日 - 栃木県のうち上野国(群馬県)、千葉県のうち下総国葛飾郡の一部[20](埼玉県)、名東県のうち淡路国(兵庫県)、福岡県のうち豊前国下毛郡・中津郡(大分県)

第2次府県統合以降の異動

分立

  • 明治13年(1880年3月2日 - 高知県のうち阿波国(徳島県)
  • 明治14年(1881年
    • 2月7日 - 石川県のうち越前国(福井県)
    • 9月12日 - 島根県のうち因幡国・伯耆国(鳥取県)
  • 明治16年(1883年5月9日 - 石川県のうち越中国(富山県)、長崎県のうち肥前国藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部[19](佐賀県)、鹿児島県のうち日向国(宮崎県)
  • 明治20年(1887年11月4日 - 大阪府のうち大和国(奈良県)※大和国は明治14年に堺県から編入
  • 明治21年(1888年12月3日 - 愛媛県のうち讃岐国(香川県)

編入

  • 明治14年(1881年)2月7日 - 堺県(大阪府)

境界変更

その他の異動

参考文献・関連書籍

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]
  3. ^ [3]
  4. ^ 中村定吉 編、「廢藩置縣ノ詔」『明治詔勅輯』、p18、1893年、中村定吉。[4]
  5. ^ 勝田政治 『廃藩置県 近代国家誕生の舞台裏角川ソフィア文庫 [I-123-1] ISBN 978-4044092153、10-11p
  6. ^ 盛岡藩
  7. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第559
  8. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第565
  9. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第566
  10. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第594
  11. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第595
  12. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第600
  13. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第601
  14. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第602
  15. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第608
  16. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第609
  17. ^ 「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第614
  18. ^ 後の北相馬郡西葛飾郡
  19. ^ a b 後の東松浦郡西松浦郡
  20. ^ 後の中葛飾郡

関連項目

外部リンク