爾志郡
爾志郡(にしぐん)は、北海道渡島国の郡。人口4,355人、面積162.56km²、人口密度26.8人/km²。(2011年12月31日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
- 乙部町(おとべちょう)
[編集] 沿革
和人が定着し始めたのは室町時代の嘉吉年間までさかのぼると言われ、後に越後・佐渡・能登方面から移住者が増える。
江戸時代の爾志郡域は和人地となっており、北前船も熊石に寄航していた。また、江戸時代の陸上交通は南の檜山郡方面から北の後志や石狩を経て天塩の増毛方面に至る道(国道229号の前身)が通じていた。延宝5年越山を命ぜられた柏巌和尚が門昌庵を開く。元禄4年には「熊石番所」が設けられ、後に和人地が後志国に拡大されるまで蝦夷地との往来を取り締まった。享保6年5月法蔵寺境内に「山海漁猟群萠下種結縁為菩提也」という供養碑が建立される。寛保元年7月19日の午前5時ころ松前方面から熊石にかけて、渡島大島の噴火に伴う推定波高約10メートルの大津浪が押し寄せ、相沼、泊川地区の死亡者だけで110名に達し、推定では住民の三分の一程度が死亡するという壊滅的な大打撃を与えた。この津波の被害を記載した『相沼無量寺過去帳』は現在、寛保津波の碑も建立された熊石の無量寺が所管している。天明年間の乙部はニシンの千石場所として発展。天明・天保の飢饉時には南部、青森、秋田方面から移住者が増加した。
爾志郡は当初松前藩領とされていたが、江戸時代後期の文化4年、爾志郡域を含む渡島国域が天領とされた。文政4年いったん松前藩領となったが、安政2年、乙部村以北は再び天領とされ津軽藩が警固をおこなった。文久元年乙部に大火発生、170余戸の人家と寺社殿を焼失。幕末、熊石で見市温泉が見つかる。箱館戦争の際は乙部に新政府軍1,500名が上陸している。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制に倣い爾志郡が置かれる。北海道渡島国に含まれた。
- 1871年7月14日 - 廃藩置県に伴い爾志郡は館県の所管となる。
- 1871年9月 - 館県は道外の弘前県などと合併、これにともない爾志郡は弘前県(後の青森県)の一部となる。
- 1872年10月 - 旧館県地域が青森県から開拓使に移管。これにより爾志郡が開拓史の所管となる。
- 1882年2月8日 - 廃使置県にともない函館県の所管となる。
- 1902年4月1日 - 北海道二級町村制施行に伴い、爾志郡に乙部村・熊石村が置かれる。(2村)
- 1943年6月1日 - 北海道二級町村制廃止。乙部村・熊石村が内務省指定村に移行。
- 1946年10月5日 - 指定町村制廃止。
- 1962年5月1日 - 熊石村が町制施行し熊石町となる。(1町1村)
- 1965年10月1日 - 乙部村が町制施行し乙部町となる。(2町)
- 2005年10月1日 - 熊石町が渡島支庁管内の山越郡八雲町と合併し、二海郡八雲町が発足、郡より離脱。(1町)
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
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