標津郡

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北海道標津郡の位置(1.中標津町 2.標津町 薄緑:後に他郡から編入された区域 薄黄:後に他郡に編入した区域)[1]

標津郡(しべつぐん)は、北海道根室国根室振興局

人口29,669人、面積1,309.52km²、人口密度22.7人/km²。(2014年9月30日、住民基本台帳人口)

以下の2町を含む。

郡域[編集]

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町から標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類[2]・茶志骨[3])、中標津町の一部(協和・豊岡[4]および俵橋の一部[3])除いた区域にあたる。

歴史[編集]

郡発足までの沿革[編集]

江戸時代の標津郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。標津神社天明年間に創建されたと伝わる。いまから300年ほど前には養老牛温泉が発見されている。

江戸時代後期、標津郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え寛政11年標津郡域は天領とされた。文化年間にはそれまで蝦夷の人々が利用していた道を根室釧路など三場所の蝦夷に請負わせ改修した斜里越も開削されている。斜里越は標津からチライワツタリに至る8里(31.4km)、チライワツタリから根北国境のルチシ峠を越え北見国斜里郡のワツカオイに至る8里32町(34.9km)など3区間にわたる道である。当時、最も権力の強かった釧路の蝦夷は自己の負担をできるだけ軽くするため、オタウニ(ルチシ峠の南方)にある斜里蝦夷と釧路蝦夷の境を本来より南東約20町(2.2km)のケネカワツカオイに移して開削したと言われている。

文政4年に一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩がホニコイに陣屋を置き警固をおこなった。安政6年には会津藩領となっている(6藩分領)。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して標津郡が置かれた。

郡発足以降の沿革[編集]

北海道標津郡の町村(3.中標津町 4.標津町)

脚注[編集]

  1. ^ 境界線は明治20年内務省発行「改正北海道全図」によるが、下記の沿革と若干異なる部分がある。
  2. ^ 1923年目梨郡から編入。
  3. ^ a b 1923年に野付郡から編入。
  4. ^ 1955年に野付郡から編入。

参考文献[編集]

関連項目[編集]