亀田郡

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亀田郡(かめだぐん)は、北海道渡島国の人口28,955人、面積216.61km²、人口密度134人/km²。(2011年12月31日、住民基本台帳人口)

現在は以下の1町を含む。

[編集] 沿革

平安時代保延元年(崇徳天皇のころ)に人々は海上安全を願って神社を祀った。古くは観音堂と呼ばれ、これは江戸時代以降の船魂大明神の前身である。

室町時代までに道南十二館のうち宇須岸館と志苔館が築かれていた。宇須岸館はその形から箱館とも呼ばれ、函館(箱館)という地名の由来となっている。応仁の乱のちょうど10年前の1457年康正3年、長禄元年)に起きたコシャマインの蜂起は志濃里(志海苔)で戦端が開かれた。

江戸時代の亀田郡は和人地となっており、箱館には北前船も寄港していた。陸上交通は、箱館と津軽郡松前を結ぶ奥州街道松前道)や、茅部峠を経て茅部郡鷲ノ木方面に至る道が通じていた。宝永7年、真宗大谷派函館別院の前身の阿弥陀堂が上磯郡木古内村より箱館に移転している。亀田郡域は当初松前藩領となっていたが、江戸時代後期文化4年、亀田郡域を含む渡島国域が天領とされ箱館奉行が置かれた。文政4年いったん松前藩領に復したが、安政2年、亀田郡域は再び天領とされ箱館奉行もおかれている。同4年、幕命により箱館の阿弥陀堂を本願寺箱館御坊浄玄寺として、本願寺の掛所とされた。安政年間には茅部峠よりも距離の短い藤山-軍川間の軍川新道や、箱館方面と檜山郡江差方面を結ぶ鶉山道(大野越)が開削されている。元治元年には箱館奉行所が五稜郭に移転。戊辰戦争箱館戦争)は蝦夷共和国(旧幕府軍)と官軍によって戦われ、亀田郡域では二股口の戦いなどの激戦が繰り広げられた。箱館戦争終結直後の1869年大宝律令国郡里制に倣い亀田郡が置かれる。北海道渡島国に含まれた。

[編集] 参考文献

  • 内務省衛生局保健衛生調査室編『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』1919年(大正8年)発行(2008年1月21日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)

[編集] 関連項目


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