品川県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

品川県(しながわけん)は、1869年明治2年)に武蔵国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された。おおむね現在の東京都練馬区杉並区中野区新宿区渋谷区目黒区品川区大田区世田谷区および多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県神奈川県の一部を管轄した。

概要[編集]

1869年(明治2年)2月9日武蔵知県事古賀定雄の管轄区域をもって品川県が設置された。県名は、県庁を荏原郡北品川宿東海寺境内(現品川区北品川三丁目11番9号)に置く予定だったことによるが、実際には暫定的に東京府浜町の旧旗本・小笠原弥八郎邸(現東京都中央区日本橋浜町二丁目9番付近)に置かれ、品川への移転準備が完了する前に県が廃止された。東京府(第1次)や韮山県川越藩などとの管轄区域の交換を経て、主に東京の南郊から西郊を管轄した。

廃藩置県を経た第1次府県統合において廃止される。荏原郡豊島郡内、および多摩郡東部の管轄区域は東京府(第2次)が占め、新座郡入間郡内の管轄区域は入間県が占めた。なお多摩郡内の大部分の管轄区域に関しては、太政官布告では入間県に移管するとされたものの、横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるとの上申によりまもなく神奈川県に移管されている。

沿革[編集]

  • 明治2年
    • 2月9日(1869年3月21日) - 武蔵知県事・古賀定雄の管轄区域に品川県を設置[1]
    • 4月10日(1869年5月21日) - 入間郡高麗郡比企郡内の管轄地域を韮山県に移管。このほか多摩郡において韮山県との間で数次にわたり管轄の整理が行われた。
    • 12月18日(1870年1月19日) - 寄場組合を廃止し24の番組を設置。
  • 明治3年
    • 1月10日(1870年2月10日) - 社倉制度に反対する、旧関前村新田を中心とした武蔵野12村の農民数百名が品川県庁へ門訴を決行。武力を伴わない訴えであったが、知事古賀定雄はこれを武力で鎮圧し、首謀者を投獄した。(御門訴事件
  • 明治4年
    • 11月14日(1871年12月25日) - 品川県を廃止する。品川県の管轄した区域は主に入間県東京府が占めることとされた(第1次府県統合)[2]
    • 11月23日(1872年1月3日) - 多摩郡全域は神奈川県が占めることとされ、翌年5月22日(1872年6月27日)に実施された。
    • 12月5日(1872年1月14日) - 荏原郡豊島郡、および多摩郡の一部の東京府への編入成る。各区は品川口と新宿口に区分された。

管轄地域[編集]

戸口34,511戸188,650人(府藩県別人員表)。●の地域の詳細は錯綜をきわめるため各郡の項目を参照。

なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。

歴代知事[編集]

  • 明治2年2月9日(1869年3月21日) - 明治2年7月8日(1871年8月15日):知県事・古賀定雄(前武蔵知県事、元佐賀藩士
  • 明治2年7月8日(1871年8月15日) - 明治4年5月17日(1871年7月4日):権知事・古賀定雄[3]
  • 明治4年5月17日(1871年7月4日) - 明治4年5月19日(1871年7月6日):知事・古賀定雄[4]
  • 明治4年5月20日(1871年7月7日) - 明治4年11月13日(1871年12月24日):大参事・牟田口通照

参考文献[編集]

  1. ^ 明治2年行政官布告第142号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
  2. ^ 明治4年太政官布告第594号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
  3. ^ 百官履歴 67 古賀定雄 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
  4. ^ 維新史料綱要 明治4年5月17日・19日 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー

関連項目[編集]

先代:
武蔵国の一部の
幕府領旗本領など)
韮山県の一部
多摩郡の一部)
行政区の変遷
1869年 - 1871年
次代:
東京府荏原郡豊島郡多摩郡
神奈川県(多摩郡)
入間県新座郡
韮山県(入間郡高麗郡比企郡