8時だョ!全員集合の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

8時だョ!全員集合の歴史(はちじだョ!ぜんいんしゅうごうのれきし)では、TBS系列で放送されたバラエティ番組8時だョ!全員集合』の歴史について触れる。

制作背景[編集]

立ち上げまでの経緯[編集]

TBS系土曜20時枠はそれまで『逃亡者』などのドラマを放送していたが、やがて裏番組『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)の影響で視聴率が低迷し『全員集合』開始前は3 - 5%にまで落ち込んでいた。そこで、この枠で視聴率の取れる番組を制作すべく、前枠番組『お笑い頭の体操[1]を成功させていたTBSプロデューサー・居作昌果に白羽の矢が立った。居作は新番組制作に専念するため、『お笑い頭の体操』のプロデューサーを降りようとしたが、これに『お笑い頭の体操』のスポンサーだったロート製薬が猛抗議。ロートは「居作を『お笑い頭の体操』の専属にしてほしい」「他番組との掛け持ちは認めない」という姿勢だったが、居作の意志は固く、最終的にはロート側が折れて同社としては異例だった「番組掛け持ち」を容認させることとなった。

企画[編集]

居作は企画作成の際に、まず裏番組に出演するコント55号の事を考えた。コント55号の持ち味であるスピード感と即興力に対抗するには、「時間をかけて練りに練り上げた笑い」しかないと考え、レギュラー出演者にザ・ドリフターズの起用を決めた。ドリフを起用したのは、「リーダーのいかりや長介は(アドリブに長けたコント55号に比べて)不器用で口下手だが、ギャグを考えるのが大好き」だったからだという。ところが、当時のTBS社内でのドリフの評価は低く、編成から反対の声が多数上がった。その中には「クレージーキャッツを起用すべきだ」という意見があり、ドリフとクレージーの所属事務所・渡辺プロダクションからも「そういう番組であればクレージーの方が向いているのでは?」と言われた。しかし、当時のクレージーはグループとしての活動をほとんど行っておらず、居作は「(クレージーでは)メンバーそれぞれのスケジュールの調整つかなくなる」としてドリフ起用の姿勢を曲げなかった。その後、「ドリフがジャズ喫茶時代から客前でネタをやるのに慣れている」「会場にいる観客を笑わせられなくて、視聴者を笑わせられるはずがない」として収録を劇場・ホールでの公開形式とすること、「視聴者に『番組が今、実際に行われている』という臨場感を持ってほしい」「出演者にNGが効かない緊張感を味わってほしい」という理由から生放送で行うことをそれぞれ決定、「ドリフをメインとする生放送の公開バラエティ番組」という骨組みを作り上げていった。

そして居作は、赤坂のTBSに程近い寿司屋にドリフの面々を呼び、顔合わせを兼ねて会食を行うことになった。その席上でいかりやが「今のコント55号は日の出の勢い。その裏でいくら頑張っても勝ち目はないんじゃないの?」と、新番組に対して消極的な発言をすると、居作は「確かに55号とドリフじゃ、今は月とスッポンかもしれない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」と返した。これを受けたいかりやは驚き、「この男をギャフンと言わせてやろう」と新番組のオファーを受諾。こうして番組開始が決定した。

番組タイトルの『8時だョ!全員集合』は、スポンサーを交えての企画説明会議で、スポンサーのライオン油脂(現・ライオン)の広告部長が、「8時になったら、テレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」と発言し、それを聞いた居作がその場で思い付いたものである[2]

放送開始から人気上昇まで[編集]

1969年10月4日、番組はスタートを切った。この年の10月はドリフが新宿コマ劇場で公演を行っていたことから、初回から10月25日放送分までの4回分は、9月に事前録画となった。開始当初はドリフによるコントだけでなく、作曲家の山本直純を起用しての音楽コーナーやゲストを招いてのトークコーナー、巨大滑り台セットを使用してのクイズコーナー「ドリフでドボン」があった。

こうして10月に放送された4回分の平均視聴率は約14%で、これまでの番組と比べればまずまずの結果を収めた。しかし、VTRをチェックしていく中でドリフが苦手としているコーナーが多かったことがわかり、コント以外のコーナーを年内一杯で廃止。特に「ドリフでドボン」のセットに使われた巨大滑り台は制作費が高く、3ヶ月で終わらせることにTBS社内から顰蹙を買ったという。

視聴率は悪くなく、観客からの受けも良かったものの、裏番組の『コント55号の世界は笑う』は依然として視聴率が高く、居作はその打開策を考えていた。その中で「視聴率に繋がらないのは、チャンネル選びの習慣性によるものだ」という意見を聞く。そこで居作は、視聴率が習慣によるものなのか、あるいは番組が非力なのかを実験すべく、当時のTBSの人気番組の出演者をゲストに呼び、コントに参加させることを思いつく。その手始めとして、1970年1月24日に『サインはV』のメンバー(岡田可愛中山麻理范文雀岸ユキなど)がゲスト出演。するとこの回の視聴率は一気に27%に上昇。さらに、翌1月31日に『柔道一直線』の主演・桜木健一を、その翌々週2月14日は『キイハンター』から丹波哲郎野際陽子らをゲストに招いた。しかしこの中の空いた1週(2月7日)、つまり人気番組のゲストのいない回こそが居作の狙い目であり、この回の視聴率が良ければ視聴者が視聴習慣を変えたことになり、逆に悪ければ失敗と踏んでいた。結果、視聴率は25%を記録し実験は成功。こうして当番組は「お化け番組」と呼ばれるまでの人気を獲得していくことになった[3]

年表[編集]

1969年[編集]

  • 10月4日、放送開始。第1回の三鷹市公会堂からの公開放送は録画(9月24日収録)である。開始時は当時アメリカ管理下に置かれていた沖縄での琉球放送を含めた19局同時ネット。前述の通り10月末までは録画放送であり、翌週11月1日より生放送開始。

1970年[編集]

  • 4月、テレビ山梨テレビ高知の開局に伴い、山梨県・高知県でも『全員集合』の放送を同月4日から開始。21局同時ネット。
  • 7月、加藤茶が自動車で人身事故を起こし入院。療養と謹慎のため1ヶ月間出演を見合わせる。
  • 12月26日、視聴率が45.7%を記録する。

1971年[編集]

1972年[編集]

1973年[編集]

  • 4月7日、最高視聴率50.5%(関東地区)を記録する。この回は前半コントがボクシングジムをネタにしたものであり、当時世界チャンピオンの輪島功一がゲスト出演した。
  • 12月8日志村けんがドリフターズ見習いとして出演し始め、初の6人ドリフになる。全員集合での志村の初舞台は福引コントでの5等賞であるお釜(女装したおかま)で、当てた荒井注を追いかけ回す役であった。
    視聴率としての最盛期は1973年であり、この頃は「ジャンボマックス」、「加藤のちょっとだけよ」、「加藤の東北弁のお巡りさん」、「加藤vsすわしんじのブルースリー」、「荒井の『This is a pen!』」と日本のテレビ史に残るギャグの前期黄金期。同時に、荒井の脱退宣言、志村の加入と全員集合の節目の年でもあった。

1974年[編集]

  • 3月30日、荒井がドリフターズメンバーとして最後の出演。翌週から志村がドリフターズの正式メンバーになる。しかし、荒井が脱退し、志村が登場後2年間はギャグがあまりウケないスランプ状態にあった。
  • 10月5日、当時NETテレビ系列(現:テレビ朝日系列)とのクロスネット局だった青森テレビが『全員集合』の放送を開始。青森テレビは、NETテレビ系列とのクロスネット時代は、土曜ゴールデンタイムがNET番組枠(現代劇または時代劇。特撮+アニメ2本立ての時期もあり)のだったためネットできなかった。23局同時ネット。

1975年[編集]

  • 4月5日の放送から、関西地区の放映ネット局が朝日放送から毎日放送に変更された(ただしこの日はドリフターズは渋谷のNHKホールで行われたザ・ピーナッツ さよなら公演に出向いたため生放送ではなく録画放送であった)。腸捻転解消によるネットチェンジで、毎日放送はネットチェンジのPRキャラクターとしてドリフターズを起用。「4月から、4チャンネル(毎日放送のアナログチャンネル番号)だョ!全員集合」と、TBS系列になる毎日放送をアピールした。また、ネットチェンジ以降、当時、毎日放送の看板番組だった『アップダウンクイズ』のパロディコントも作られた。しかしドリフターズは「修行」と言う理由で7月5日から9月13日まで休むことになる。この間は「夏休み傑作特集」と銘打ち、過去のコントを再放送して間に合わせた。
  • また、当時フジテレビ系列(FNSのみ加盟)・NETテレビ(現:テレビ朝日系列)とのトリプルネット局だったテレビ山口は1975年3月まではフジテレビ系列の番組(『フジテレビ土曜8時枠の連続ドラマ』【同時ネット】→『座頭市物語』【遅れネット】)を放送していたが、当時のフジテレビ系土曜20:00枠が不振だったことから、毎日放送と同日にネットを開始した。JNN24局同時ネット。

1976年[編集]

  • 志村の「東村山音頭」が大ウケし、一躍人気者となる。

1977年[編集]

1978年[編集]

  • 1月1日(日曜)、前日休止の振り替えとして、初の90分特番『お正月だョ!全員集合』を放送(この関係で同じドリフターズがメインのフジテレビ元日恒例『第15回新春スターかくし芸大会』は翌1月2日に放送)。
  • 8月12日、『JNN報道特別番組・日中平和友好条約締結』放送のため番組休止(緊急報道特番による唯一の休止)。この日予定されていた放送(8月2日に埼玉県の行田産業文化会館で録画)は、翌々週8月26日に放送された。

1979年[編集]

  • 加藤&志村のヒゲダンスが誕生。翌年9月20日まで行われた。
  • ドリフターズ全員参加及びゲストが行う体操コーナーが終了へ。

1980年[編集]

  • 2月23日、視聴率が41.0%を記録する。
  • 5月3日、第522回目の放送で番組初のステレオ放送が行われた。この回の前半コントは、お化け屋敷が歌を歌い出す内容のもので、志村がベストテン形式で当時のヒット曲を次々と紹介し、建物のあちこちから顔や口が出てきて歌い、最後の大オチは観客およびドリフターズ全員と一緒に「カラスの勝手でしょ」を大合唱するという内容のものであった。後に同じコントを再演した回がステレオ音声で放送され、1982年1月2日の放送からは毎回ステレオ放送となった[6]
ステレオ放送が実施された回と前半コントの内容
  • 第522回(1980年5月3日、歌うお化け屋敷)
  • 第575回(1981年5月9日、歌うお化け屋敷)
  • 第609回(1982年1月2日)以降、総集編放送時を除く最終回まで

1981年[編集]

  • 2月の志村・仲本工事の「ノミ行為事件」、6月の「ギロチン事件」。
  • 2月21日、昭和50年代以降での最高視聴率47.6%を記録する。志村&仲本が不在の間は、視聴率が40%台をキープ。
  • 5月16日よりフジテレビ系列で『オレたちひょうきん族』スタート(当初はナイター中継がない時のみの不定期放送。10月10日よりレギュラー化)。徐々に『全員集合』を脅かす存在となる。

1982年[編集]

  • 1月30日、視聴率37.1%を記録する。この日以降、視聴率30%後半を超える事はなかった。さらに7月以降は視聴率が30%を超える事もなくなり、20%台に落ち込む。
  • 8月末で番組の生みの親の居作が異動で番組を離れる(後任プロデューサーは高橋利明、プロデューサー就任後も演出を兼任)。
  • 8月7日、演奏がいつもの岡本章生とゲイスターズではなく、第1回目を演奏を担当した高橋達也と東京ユニオンが担当。しかし、オープニングのテロップが変更されず通常通りの岡本章生とゲイスターズを表示される。
  • 10月2日の放送からTBSの夜のスポットタイムが6分に拡大し[7]、『フラッシュニュース』開始が20:54に変更されたため、終了時刻を20:54に再変更(さらに1分縮小)。
  • この年の平均視聴率は23.6%。10月2日放送分で初めて『ひょうきん族』に視聴率で敗退した。この年に限れば視聴率で負けたのは2回だけであったが、前述の通り視聴率の低下傾向が見られるようになる。

1983年[編集]

  • 1月1日、1972年6月から開始した少年少女合唱隊が休止へこの回から合唱隊は隔週で披露に切り替わる。
  • 2月12日、この回をもって少年少女合唱隊が終了。
  • 2月19日、この回よりオープニングの3番がカットされる。
  • 4月、それまで岡山県のみを放送エリアにしていた山陽放送が、岡山・香川の電波相互乗り入れに伴い、香川県でも『全員集合』の放送を同月2日より開始。
  • 夏頃、いかりやが元当番組プロデューサーで当時TBS制作局長となっていた居作の元を訪ね「全員集合をやめようと思う。」と言う意志を伝える。[8]
  • 8月13日の放送で初めて番組の視聴率が10%を下回る(9.2%)。この日はお盆の真っ最中で、関東地区の視聴率が全体的に落ち込んだ日でもあった(裏番組の「ひょうきん族」も10%そこそこと伸び悩んだ)。
  • 9月24日、加藤の出身地である福島県のネット局で、唯一の系列外ネット局だった福島テレビが10月1日からのフジテレビ系マストバイ化に伴い、1972年4月1日から続けてきた放送を打ち切り。同局は1983年4月にフジテレビ系列に再ネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)されていたが、1983年4月2日から9月24日までは本来の系列番組である『ひょうきん族』にすぐさま切り替えずに、視聴者保護のため番販扱いで放送していた(福島テレビは本番組打ち切り後『ひょうきん族』を遅れネットから同時ネットへ変更)。同年10月・11月はJNN23局同時ネット。同年12月4日にTBS系新局として開局したテレビユー福島にて、福島県でのこの番組のネットが2ヶ月ぶりに復活した[9]。同時にJNN24局同時ネット。
  • 9月24日700回目スペシャル①を放送し、昨年6月以来の視聴率30%超えを記録。しかし、以降最終回まで視聴率が30%台に乗ることはなかった。
  • 12月31日、『第25回輝く!日本レコード大賞』放送のため番組休止。しかし1977→1978年の時のような、元日の振り替え放送はされなかった。
  • この年の年間平均視聴率は20.8%[10]と、前年の23%台よりさらに下落。一方、『ひょうきん族』が年間平均視聴率19.0%と猛追を見せる。
  • 1976年に開始した金田一探偵シリーズが、この年をもって終了。
  • この年をもって、神奈川県・茨城県での中継が終了。

1984年[編集]

  • 3月 1984年に突入してからも視聴率20%前半はキープできていたが、3月下旬以降は視聴率が20%を切ることが多くなった。
  • 4月、長崎放送での放送が開始された。それまでは14年半の間、プロ野球中継や『全日本プロレス中継』を行うため日本テレビ系同時ネットを組み、『土曜トップスペシャル』を打ち切って放送を同月7日より開始した。同時にJNN全局ネット化達成。25局同時ネット。
  • 6月16日、生中継直前に停電。後半コントでも加藤と志村のコンビが手違いでセットを壊すハプニング尽くし。この回は『ひょうきん族』が野球中継のため放送がなかったこともあり、視聴率26.2%を記録。前年の10月15日以来の20%後半台の視聴率を記録。
  • 7月28日と8月25日に9年半ぶりにGスタジオからの放送を実施。
  • 9月14日、高木がアキレス腱を断裂。療養の為に9月15日~12月29日まで番組を休む。
  • 9月29日に30分放送時間を延長したスペシャル版「15周年だョ!全員集合」が放送される。1日限定で「少年少女合唱隊」が復活。視聴率は1984年度の最高視聴率26.4%を記録。
  • 10月6日の放送から、最終回までのメイン収録会場がGスタジオに切り替わった影響でオープニングの入場行進が正式に廃止され、タイトルロゴも動きのあるものから、ロゴが画面いっぱいにズームされるものに簡略された(ただし、この放送より前も、時間が押している場合はオープニングテーマが短縮されていた)。またこの日は、前に放送されている『クイズダービー』にもドリフターズが出演した(いかりやは解答者。加藤・仲本・志村は出場者。高木は脚のケガの治療のため不参加)。しかし、同番組は収録扱いのため、ドリフターズは定刻通りに会場でスタンバイしていた。スタジオ収録に切り替え後は、大仕掛けの屋台崩しは大幅に減少。ゲストにも変化があり、15周年スペシャルを区切りに常連の郷ひろみ(最終回は出演)、沢田研二、細川たかしなどの大物ゲストの出演が大幅に減り、若手アイドルのゲスト出演が増加する。Gスタジオでは、回り舞台は一度も使用される事はなかった。
  • 12月1日、入間市民会館から生中継。2ヶ月ぶりのスタジオ以外の会場からの生中継となったこの日を最後に東京以外での生中継が完全に終了。これ以後月に1回のみ日本青年館ホールでの放送(4月のみ渋谷公会堂)、それ以外はTBSのGスタジオからの放送になる。この件については、6月16日放送回の停電事件の影響の他にTBSのドラマ撮影の多くがGスタジオから緑山スタジオへ移行し、スタジオの有効活用をする為に、全員集合をスタジオ収録に切り替えた見方、又はドリフの体力を配慮して公会堂より狭いスタジオ収録に切り替えたとの見方がある。
  • 長年続いた、オフィスを舞台にした会社コントがこの年をもって終了。
  • この年の年間平均視聴率は18.2%と遂に20%台を割り込み、同じく19.5%を記録した『ひょうきん族』に遂に抜かれてしまった。

1985年[編集]

  • 1月5日の放送からケガの療養のため休んでいた高木が正式に復帰。またこの回は、全803回の放送の中で唯一のゲスト出演者がいない回となった。
  • 2月以降の視聴率は12%~23.6%の間を推移し、常に『ひょうきん族』の後塵を拝す状況となった。
  • 6月1日の放送で、全員集合最後の回り舞台を使用。
  • 7月19日、ついにTBSが「1985年9月限りで番組を終了する」と正式に発表。TBSは番組終了発表の中で「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた[11]
  • 7月27日8月31日、6週間に渡り、メンバーが選んだ夏休み傑作特集を放送。1週目には、生放送の舞台裏を特集。
  • 9月7日、全員集合最後のスタジオ以外の公会堂での生中継になる。
  • 9月21日、16年間のゲスト歌手の歌い納めは、岩崎良美の「愛がひとりぼっち」であった。
  • 9月28日、最終回を迎える(この日はTBS・Gスタジオからの生放送)。荒井も出演。後半は総集編を行った後、ゲスト出演者からドリフターズに花束が贈られた。そしてフィナーレでは天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降り、観客がスタンディングオベーション状態になり番組終了。最後に「長い間ありがとうございました 8時だョ!全員集合」の字幕スーパーが出て16年間・803回の歴史に幕を閉じた。34.0%の高視聴率を記録し、有終の美を飾った。そして最終回のコントは母ちゃんコントだった。

番組終了後[編集]

  • 1985年10月5日には、一般視聴者が見たい名場面を電話リクエストで受け付けるという2時間の特別番組『電リクだョ!全員集合』(司会:生島ヒロシ)が生放送され、翌週の10月12日から12月28日にかけて、総集編『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』が毎週・計12回放送された(一部系列局は翌年以降に再放送されている)。番組枠はその後、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に引き継がれ、ドリフメンバーによる番組シリーズは『KATO&KENテレビバスターズ』の最終回が放映された1992年9月26日まで続くことになる。
  • 1989年4月1日・10月・1990年4月4日・10月5日1991年4月3日の計5回、『全員集合スペシャル』として過去の名場面集が放送された。1989年10月の放送(このときは『全員集合スペシャル2』というタイトルだった)ではいかりやと生島ヒロシ(『全員集合スペシャル』のナレーションも担当)のトークを交えて放送された。なお、1989年10月の放送の第2弾は当初、プロ野球中継中止の際のレインコート番組として組まれていたが、最初の週(10月4日)は予定通りプロ野球中継が行われたため放送延期。その翌週(10月11日)も当初はプロ野球中継(このときはパ・リーグの優勝争いに絡む試合があったため)が放送される予定だったが、雨天中止となったため放送された。
  • 2001年
    • 8月11日にはNHK『思い出のメロディー』で、すわを含めたドリフメンバーによる全員集合が再現された。「学校コント」の後、「ゴー・ウエスト」を歌った。
    • 12月31日には『第52回NHK紅白歌合戦』で、この回の出場歌手(ドリフのヒットメドレーを歌った)でもあるドリフ主演のアトラクションコーナーで少年少女合唱隊(番組では少年少女聖歌隊)が復活し、松田聖子西城秀樹などリアルタイムのゲストからモーニング娘。氷川きよしなど現代のアイドルが参加した早口ことばが放送された。紅白対抗ということで、衣装は通常の白から紅組(女性歌手)は赤のベレー帽に赤いスモックといういでたちだった。この時の視聴率は51.5%で歌手別、コーナー別視聴率では2番目の高さだった。
  • 2004年3月20日にリーダーのいかりやが死去した際、1週間後の3月27日にスタジオ追悼番組として『追悼緊急企画 長さんだョ!全員集合』を19時から約2時間放送。司会はTBSの斎藤哲也アナウンサーが務め、ドリフターズのメンバー(仲本はスケジュールの都合により番組前半はVTR、終盤は電話での出演となった)を迎えて放送され、20.1%の高視聴率をマークした。TBSの追悼番組はキー局の中で最も遅かったが、『全員集合』のあった土曜日に合わせたためとみられ、番組内でも20時(午後8時)ちょうどに『全員集合』のオープニングVTRを流した。当時放送されなかった、山形県、沖縄県の宮古島石垣島などの先島諸島大東諸島、東京都の小笠原諸島でも放送された。この他、前半コントの舞台裏の映像も公開された。この映像は、1985年7月20日に夏休み傑作特集の1つのコーナーで放送されたものをそのまま使用した。
  • 2003年にドリフターズのメンバーが全員集合してドリフ結成40周年を記念し、一度だけ『全員集合』を復活したいとの声があったが、翌年にリーダーのいかりやが死去したことに伴い実現不可能かと思われた。しかし、のちに『全員集合』のDVDの売上げが好調であったため、2005年10月2日にTBSテレビ放送50周年特別番組として放送された『中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル』の目玉企画として復活した。この回はTBS・Bスタジオからの生放送となった。
  • 2008年
    • 6月25日には『水トク!』で「番組発生40周年記念!!8時だョ!全員集合SP」と題した特別番組を放送。この日は同番組のDVD第3弾が発売される3週間前であった(一部系列局では翌年に再放送が行なわれたところがある)。
    • 12月26日には『バラエティー番組誕生50年記念!8時だョ!全員集合年末スペシャル』と題した特別番組を4時間にわたり放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面もあわせて放送された。
  • 2009年
    • 4月1日には『ザ・ドリフターズ結成45周年記念!!8時だョ!全員集合SP』と題した特別番組を3時間半にわたり放送。この年は番組誕生から40周年を迎える節目の年となる。前回の年末の放送に続き、『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の名場面(探偵物語・おもしろビデオコーナー)もあわせて放送。本番30秒前時点での放送当時のリハーサルも放送された(本番開始数分前から本番終了後数分までノーカットでVTRテープを回していたため)。
    • 9月23日には『JNN50周年記念 8時だョ!全員集合SP』と題し、19:50~22:54で放送。首都圏以外の地方会場での回を中心に放送した。
  • 2010年
    • 3月18日には『懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!』として、フジテレビ(映像提供:TBS)で、オープニング・公開コント(忍者)・最終回のフィナーレを放送した。
    • 3月31日には『ドリフ伝説最終章 8時だョ!全員集合 大笑いの4時間SP!』と題し、19:00~23:00で放送。
    • 12月31日にはTBS開局60周年記念の一環として『大晦日だョ!全員集合』と題した特別番組を17:30~20:54に放送。『全員集合』の名場面だけでなく、後継番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に加え、人形劇『飛べ!孫悟空』の名場面も合わせて放送された。ところが加藤は裏番組の『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京系列。17:00~21:30)にも出演。
  • 2011年8月25日には読売テレビ日本テレビ系で放送された『ダウンタウンDX』で加藤がゲストに出演した関係で1977年5月14日放送(セットが火災・取手市民会館)と1984年6月16日放送(会場が停電・入間市市民会館)の各一部が放送された。

トラブル史[編集]

この番組については、本質的には舞台コントとして入念に練り込まれた笑いこそが最大の売りであり、アドリブや出演者に起きるアクシデントの演出で笑いを取る事は一貫して是としなかった。

ただし、16年間という長期間に渡り生放送公開放送で続けられた番組であったため、コントやコント以外でも、放送中のトラブル・アクシデントや出演者を巡る出来事は数多く発生している。本項ではこれらについて記述する。

  • 1970年7月2日、加藤が交通事故を起こし、約1か月の謹慎。この間、仲本が加藤のいじめられ役を代行。
  • 1977年5月14日、探検隊コント(サブタイトルは「ドリフの地上最悪の山」)の途中、ピストルの火花が小道具の蛇に着火し炎上。すぐに消し止められ負傷者も無かったが、場内(取手市民会館)の非常ベルが鳴り、その時点でコントは中止となった。蛇のスプレー塗装を本番直前にしたため、ピストルの火花がまだ乾燥しきっていない塗料に引火したのが原因であった。
  • 1980年9月、いかりやが声帯ポリープの手術を受けた都合で、13日20日の放送に声を出さずに出演した。13日放送のオープニングで、仲本が鉄琴で「ピンポンパンポーン」と鳴らした後、「長らく世間に迷惑をかけたいかりやが声を出せない」旨を知らせた。「8時だョ!」のかけ声は加藤、「おいっすー!」のかけ声と前半コントのツッコミ役は志村、少年少女合唱隊の司会は仲本、後半の進行役は高木と他メンバーが持ち回りでいかりや役を代行した。
  • 1981年
    • 2月18日、仲本と志村が番組プロデューサーの居作と共に競馬のノミ行為で任意の事情聴取を受け書類送検されたことが発覚、約1か月に渡り謹慎。仲本と居作は略式起訴され罰金刑となる(志村は賭け金が小額だったこともあり起訴猶予処分)。この期間中、いかりや、加藤、高木の3人で番組やコントを進行した。仲本と志村の代わりに椅子などを使う形でコントを進行し、場がしらけると加藤が松村和子の『帰ってこいよ』を歌っていた。また、この間に新しいギャグ、加藤の「5秒前、4、3、2、1、デーン」と高木の「ピップエレキバン」が生まれた。この間、視聴率が平常に比べ10%アップしていた(不祥事発覚後初放送の同年2月21日の放送時は47.6%であった)。また仲本・志村復帰後、学校コントで「英語で“馬”は?」と聞かれた仲本が「もうやってません」と答え、志村が突っ込む自虐ネタもあった。
    • 3月14日、ゲストが坂道の上にある一軒家に駆け上がるコント「日の当たる急な坂道」で、細川たかしがアキレス腱を切断し、長期入院を余儀なくされた。後に復帰したものの仕事量が激減した細川は後日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演した際、萩本欽一に「仕事ないの?じゃあ毎回来る?」といわれ、同番組にレギュラー出演することとなった。このことがきっかけで、当時のシングル曲「北酒場」を『欽どこ』で毎回歌うこととなり、それにより大ヒットとなった。
    • 6月27日、前半コントの「脱獄コント」の際、大根と志村そっくりの人形をギロチンで切るギャグを放送したが、「残酷すぎる」との理由で、TBSや系列各局に抗議電話が殺到。翌日の新聞の社会面で報道された。
  • 1983年6月4日、前半コントの「民宿コント」で、爺さん役の加藤がふすまを勢いよく閉めると、隣のトイレのセットがガタンと傾き、中に入っている婆さん役の志村がその弾みで壁を突き破って外へ飛び出すという手順のコントで、本来なら傾いただけで途中で止まるはずのトイレのセットそのものが予定外に転倒し、志村がセットの下敷きになった。うつぶせに倒れている志村に直撃する形で倒れた。志村はしばらく沈黙していたが、奇跡的にほぼ無傷で済んでおり、やがてセットの下から抜け出した。その際、加藤は「全員集合始まって以来の死人が出たかなと思った」とアドリブを入れ、志村が加藤を突き飛ばしてツッコミを入れた。コントは続行されたが、縁側が落ちるタイミングが遅れるなど、スタッフの段取りの悪さが目立った。
  • 1984年
    • 6月16日、生放送の開始時刻直前(2、3秒前)に、その日の会場ホール(入間市市民会館)が突然停電になり会場内の照明が消えるという事態が起きた。原因は、ブレーカーが落ちていたことによる。停電中は真っ暗な中で懐中電灯を点灯させゲストを紹介した(実際に停電になったのは会場内の照明のみで、テレビカメラやマイクロフォンなど放送機材には会場外の中継用電源車から電力が供給されていたため、完全に放送不能となる事態だけは回避された)。番組冒頭で真っ暗になった会場を映し、「8時だョ!おっ!」の掛け声の後、通常通りタイトルロゴを出した。いったん電気は復旧して、いかりやの「8時だョ!ちょっと遅れたかな?」と掛け声を行った後にまた停電となった。その時にバックバンドの一部のファンファーレが鳴り、他メンバーはようやくステージに上ることができた。その後、各局ごとのID画像や番組開始の遅れによるテロップを出し、その間やむを得ずスポットライトでステージを照らし、いかりやが「8時9分半だョ!」の掛け声を掛けた後、通常の出演者・スタッフロールを出した。その後、歌やコントを相当の速さで行った。エンディング時では会場の電源の不備によるお詫びとテロップを出した。視聴率は通常より10%アップした(26.2%)。この日の『オレたちひょうきん族』はプロ野球中継のために休止しており、普段はひょうきん族に流れていた視聴者層がたまたまチャンネルを合わせていた視聴者も多かった。また、後半コントで加藤が家のセットに寄り掛かって家が崩れるハプニングが起こる。コントは続行不能になりいかりやに怒られる。この停電が安全・セキュリティに危惧を及ぼし、後に同番組の放送がTBSのGスタジオのメインになったことについて影響したといわれる。
    • 9月14日、高木がリハーサル中にアキレス腱を断裂し、その後約4か月間活動休止(負傷翌日の放送には番組冒頭でラジカセから再生された録音メッセージが放送された)。
  • スタッフの細かいミスもよくあり、公開放送ゆえにそれもそのまま放送されていた。
    • 1972年6月24日広島県の東洋工業(現・マツダ)体育館からの公開生放送のエンディングが、タイムキーパーが進行表を読み違えたために混乱した。
    • 1984年10月27日の放送で、前半コント終了の音楽が鳴っているにもかかわらず、なかなかセットが撤収されずやっとセットが撤収しはじめた時にバンドのゲイスターズのメンバーが走っている姿が放映された(スタッフのミスで、終了数分前には座っていなくてはいけないのだが、連絡ミスでメンバーの9割が遅刻。しかし、演奏開始には間に合う)。
    • また、セット転換時のミスや仕掛けの不具合については、高木、仲本、加藤、志村がアドリブでギャグにして処理することも見られたが、生放送のため時間を切迫させる要因になった。

このほか、過激な内容のコントPTAが問題視して番組に抗議する事態が度々発生した。上記の火事騒動、停電騒動、仲本と志村の謹慎は三大事件と呼ばれている。またDVD『TBSテレビ放送50周年記念盤 8時だョ!全員集合 2005』の特典映像として火事騒動・停電騒動・1983年6月の「民宿コント」でのハプニング時のハイライト映像が収録されている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ただし、1975年3月まで同番組をネットしていた朝日放送は、『お笑い頭の体操』ではなく、関西ローカル刑事ドラマ部長刑事』を放送していた。そのため『お笑い頭の体操』は火曜19:30に遅れネットで放送していた。
  2. ^ なお「全員集合」というフレーズは、ドリフのネタでいかりやがメンバーを舞台上に招集するために用いられており、当番組開始以前にもドリフ出演の映画シリーズや、テレビの単発番組(日本テレビ『サンデープレゼント』「全員集合! ザ・ドリフターズ」1967年4月23日放送)等でタイトルに使用されていた。
  3. ^ 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』(双葉社・ISBN 4575711950)
  4. ^ 山陰放送の本社は鳥取県米子市にあるが、相互乗り入れ前は島根県のみをテレビの放送対象地域としていた。なお同局のラジオ事業は開局当初から鳥取・島根両県を放送対象地域としている。
  5. ^ 2日に放送出来なかったのは、『UFOロボ グレンダイザー』『世界名作劇場』(この年は『あらいぐまラスカル』)『オールスター家族対抗歌合戦』といった人気番組が編成されていたため。
  6. ^ ただし第522回・575回放送分のマスターテープはモノラル音源で残されているため、当時のステレオ音声での再生は不可能となっている。
  7. ^ TBSを除く在京キー局の夜のスポットタイムは、1975年秋からすでに6分に変更されたが、TBSは5分のままだった。
  8. ^ 「8時だョ!全員集合 伝説」 双葉社刊
  9. ^ 放送再開は1983年12月10日放送分からであり、当日はテレビユー福島開局記念として福島市市民会館から公開生放送された。
  10. ^ 白夜書房「笑芸人」1999年冬号のデータより。以下の視聴率記述についても同様。
  11. ^ 『朝日年鑑1986』p.331。