石橋エータロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
石橋 エータロー
出生名 福田 英市
別名 ジョージ石橋
石橋暎太郎
出生 1927年9月30日
出身地 日本の旗 日本 東京都港区
死没 1994年6月22日(満66歳没)
東京都
学歴 東洋音楽学校
職業 ピアニストタレント料理研究家
担当楽器 ピアノ
活動期間 1947年 - 1994年
事務所 渡辺プロダクション

石橋 エータロー(いしばし エータロー、1927年9月30日 - 1994年6月22日)は、元ハナ肇とクレージーキャッツメンバー(ピアニスト)で料理研究家石橋 暎太郎と表記していた時期もある[1][2]。本名は石橋 英市[3](通称・瑛市)。愛称はエーちゃん

来歴[編集]

音楽家の福田蘭童の息子として、画家青木繁の孫として東京新橋に生まれ、3歳まで大井町に育つ[4]。母千代は資産家石橋家の8人兄弟[5]の5番目として生まれた。

エータローが3歳のときに、父の蘭童が映画撮影のために出かけたロケーション先で女優川崎弘子強姦するという事件を起こした。蘭堂は責任を取って、エータローの母と別れて川崎と再婚。このためエータローは母と共に母の実家へ戻り、石橋姓となった[4]。母が子連れの出戻りとして実家から差別を受けたため、英市も事あるごとに「居候ガキ」と呼ばれていじめを受けたが、その反面、金に糸目をつけぬ猫可愛がりを受けるといった複雑な環境に育った[6]。当時の石橋家は汐留駅の労務者400~500人をたばねて運輸業を営む仁藤組の看板を掲げており、「景気がよかったんでしょうね。ドイツ製のバーンシュタインのスペシャルなんて、日本に何台もないようなピアノがありましたし、飛行機まであったんですから」とエータローは語っている[7](ただしBernsteinは実際にはドイツ製ではなく日本の天竜楽器製造のブランド名)。母方の長兄の石橋勝浪はフランス空軍のパイロットで、第一次大戦の戦勝パレードでパリの凱旋門の下を飛行機でくぐり抜けた飛行家である[7]

5歳からピアノを習うと共に、長唄三味線を母から教わり、日本舞踊も習う[4]。京橋の文海尋常小学校を経て、1939年暁星小学校に転校[4]暁星中学校には先輩に桜井センリ、後輩に犬塚弘がいた。1944年空襲の激化に伴い、母や母方の祖父と共に世田谷九品仏へ転居し、同年、それまで死んだと聞かされていた父蘭童の存命なることを初めて知る[6]

1945年東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)入学。ピアノ科でクラシックピアノを学んだ後、声楽科に転じる[8](このとき3期下に黒柳徹子がいた)[4]。このころ、母に隠れて湯河原に父を訪問[6]。この時は父から厚いもてなしを受けたが、その後まもなく母が英市の名義で父を相手取って小田原裁判所慰謝料請求訴訟を起こしたため、英市は父から憎しみを受けるようになる[6]

1949年、東洋音楽学校卒業。当時クラシック界で生計を立てることが難しかったため、新橋のクラブで演奏したり、近所の子供にピアノを教えたりして生活[4]1947年には長門美保歌劇団の第1回公演『蝶々夫人』にコーラスの一員として出演[4]。やがて進駐軍クラブ専用バンド「ハニー・ジョーカーズ」のピアニストが急性肺炎で倒れたことから、マネージャーに拝み倒されて欠員の穴埋めとしてオーディションに参加し[9]、ジャズマンとしてデビュー[4]。それまでクラシック一辺倒でジャズは嫌いだったが、進駐軍クラブの豪勢な食事に釣られてジャズ好きに転じる[10]。ジョージ石橋と名乗り、朝鮮戦争時代に駐留軍慰問バンドの一員として活動した[4]。ジャズ修行のため渡米を周囲に勧められて募金が行われたこともあるが、当時日本人はドルが持てなかったため、米軍下士官の銀行口座を募金のプール先にしておいたところ、この下士官が墜落死したため遺族に口座を押さえられてしまい、渡米計画が頓挫したこともある[11]。このころ胸を患い、闘病のかたわら演奏活動をおこなう[12]

やがて自らのバンド「ザ・ファイブ」を結成[4]。「植木等とニュー・サウンズ・トリオ」での活動を経て[4]、1956年3月、ピアニストとして「ハナ肇とクレージーキャッツ」に参加する。当初は演奏だけしていればいいと思っていたが、初日から洗面器を投げつけられたり女形をやらされたりしたため、たびたび自殺を考えた時期もある[13]

1960年6月、結核で肋骨を6本整形する手術を受けたために一度芸能活動を中断するも1961年8月には復帰、以降は彼の代役としてメンバーに加わっていた桜井センリと共にピアノを演奏することとなる。この結核の手術を機に父蘭童と和解する[6]

1970年12月31日、心臓病が原因で[14]クレージーキャッツを脱退。「クレージーをやめて、また芸能界の仕事をすれば、なにか不満があったのだろうと言われますから。それだけはいやだった」と理由で芸能界を引退し[15]、同年から料理研究家として活動すると共に東京渋谷で酒と肴の店「三漁洞」を経営していたが[4]、1994年、胃癌が原因の心不全のため東京都品川区の昭和大学病院で死去。66歳。酒豪で知られ、賭けに乗って一升瓶の酒を飲み干したこともあるという。

主な出演[編集]

太字は役名

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

バラエティ他[編集]

作中ではワイドショーなどのテレビレギュラー出演を抱えるタレント兼料理研究家として登場。味平の料理勝負をテレビ中継で実況する。

脚注[編集]

  1. ^ 『笑の泉』1960年12月号、p.198。
  2. ^ 小林信彦『日本の喜劇人』p.140。
  3. ^ 「本名石橋暎一」とする資料もある。軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.117。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル2007年)p.320
  5. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.142には「母親の兄弟は11人いた」とある。
  6. ^ a b c d e 青木繁・福田蘭童・石橋エータロー『画家の後裔』所収、石橋エータロー『放浪三代』p.77-100(講談社文庫1979年
  7. ^ a b 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.142
  8. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.144には、ピアノ科と声楽科をかけもちしていたとある。
  9. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.145-146
  10. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.146
  11. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.147
  12. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.147-148
  13. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.148
  14. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.179
  15. ^ 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.180

関連項目[編集]