ハナ肇とクレージーキャッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ハナ肇とクレージーキャッツ
Hajime Hana&The Crazy Cats
基本情報
出身地 日本の旗 日本
ジャンル ジャズお笑い
活動期間 1955年 - 2006年(但し現在も正式な解散、活動休止は宣言せず)
レーベル EMIミュージック・ジャパン
(旧東芝EMI)
事務所 渡辺プロダクション
共同作業者 渡辺晋青島幸男萩原哲昌宮川泰
メンバー
※ 太字の人物は存命中
ハナ肇
谷啓
植木等
犬塚弘
桜井センリ
安田伸
旧メンバー
石橋エータロー

ハナ肇とクレージーキャッツ(ハナはじめとクレージーキャッツ)は、日本ジャズバンドお笑いタレント歌手グループ。クレイジーキャッツと表記される場合もある。

元々は「キューバン・キャッツ」の名で活動を開始したが、進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、“You, crazy!”と言われたことから「クレージーキャッツ」に改名したとされている。渡辺プロダクション所属。数多くのバラエティ番組に出演し、コントを演じるようになってからコントグループと見られるようになってしまった。しかしながら、下記の通り各人は音楽の経験やテクニックという点で卓越した点を持っており、単なるコントグループ、コミックバンドとは全く違う、「音楽の質の高さ」を兼ね備えた異色のバンドともいえる。略称「クレージー」。音楽+コメディという芸能活動を広めた第一人者である。

概要[編集]

1960年代に一世を風靡したコミックバンド。バンド結成時にその資金を出したのが渡辺晋であり、そのため、結成当初から渡辺プロダクションに所属した。

1955年の結成後、ジャズ喫茶での音楽ギャグで人気を博し、『おとなの漫画』(フジテレビ)、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)などのテレビ出演をきっかけに人気が爆発した。映画でもクレージーの出演作は東宝のドル箱シリーズとなり(東宝クレージー映画)、挿入歌として発表されたシングル『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『ドント節』なども軒並み大ヒットを記録する。

しかし、1965年を過ぎた頃から、植木・ハナ・谷・犬塚ら主要メンバーの個人活動が多くなっていく。1971年1月に石橋エータローが脱退後、4月 - 9月末に諸事情から『8時だョ!全員集合』のつなぎとして企画された『8時だョ!出発進行』(TBS)へのレギュラー出演を最後に、グループとしての活動機会は目に見えて激減した。1980年代以降は、コメディアンというよりは各メンバーとも俳優としての性格が濃くなり、グループとしては実質的な解散状態を迎えていた。

その後、1993年9月にリーダーのハナ肇が死去し、以後他のメンバーも順次鬼籍に入り始める。それでも、1997年から2006年にかけてはメンバーの半分以上は存命で、2006年には新曲も発表しているが、2007年以降メンバーの他界が相次ぎ、現在存命のメンバーは犬塚弘ただ一人となっている[1]。このため、グループとしての活動は前述の新曲発表を最後に行われていない。幾つかの文献で「既に解散したグループ」として扱われているが、正式な解散をしているわけではない。

所属事務所、渡辺プロダクションの後輩にはザ・ドリフターズザ・ピーナッツ(クレージーを含めたこの3グループで「ナベプロ3大タレント」と言われることもある)がいる。ザ・ドリフターズが1964年に再結成した際に、メンバー全員の名付け親となったのはハナ肇である。また、ザ・ピーナッツとは映画や番組での共演が多数あった。なお、渡辺プロダクションは、1960年代に数多くの人気タレントを抱えていたことで、反発を買うケースも多かったようだが、事務所の黎明期から在籍し、才人ぞろいのクレージーキャッツとザ・ピーナッツが同プロダクションの看板タレントであったことが、その反感をやわらげる上で大きく役立った面もあったようである。

クレージーは多数のコミックソングを世に送り出している。グループ名義の楽曲は、大半は植木の独唱であるが、サビの部分のみメンバー全員で合唱する場合もある。デビューシングルの「こりゃシャクだった」にはメンバーによる寸劇が挿入されている。「五万節」「ホンダラ行進曲」」「悲しきわがこころ」「新五万節」は植木を含む全メンバーが1コーラスずつ歌っている。また「実年行進曲」は全員の合唱・谷・ハナ・植木の順で1コーラスを4小節ずつ歌い継ぐ構成になっている。

なお、無名時代からクレージーファンで、一時期はクレージーのブレーン役でもあった小林信彦は、「クレージーで一番面白いのは『生』、次が『テレビ』、一番面白くないのが『映画』」と語っている。

この際カアちゃんと別れよう」というオリジナル曲もあるが、実際のメンバーは全員良き家庭人であり、スキャンダルや人格批判にはほとんど無縁というグループでもあった。

著名なファンに「実年行進曲」を作曲した大瀧詠一とメンバーの植木等とドラマで共演したこともある所ジョージがいる。声優の関智一、シンガーソングライターの星野源SAKEROCK)も好きな音楽にクレージーキャッツを挙げている。

略歴[編集]

  • 1964年12月31日 - 『おとなの漫画』放送終了(全1835回)。
  • 1965年 - 結成10周年記念の舞台として、5月に『クレージーの太閤記』、7月には『10年だよ!!クレージーキャッツ』を公演。10月31日には同記念映画『大冒険』も封切られる。
  • 1971年 - 1月に石橋エータローが脱退(料理研究家に転身)。以降、6人のメンバーでの活動となる。
  • 1971年12月31日 - 東宝クレージー映画としては最終作となる『日本一のショック男』が公開。
  • 1972年10月1日 - 『シャボン玉ホリデー』放送終了(全591回)。以降、メンバーの個人活動が多くなる。
  • 1979年 - 5月、結成25周年記念の舞台『ハナ肇とクレージーキャッツ結成25周年記念公演~これで日本も安心だ!!』を公演。
  • 1985年10月22日 - 結成30周年記念番組『アッと驚く!無責任』(フジテレビ)放送。
  • 1986年3月6日 - 『シャボン玉ホリデー』が『シャボン玉ホリデースペシャル』として一夜限りの復活。石橋エータローも出演。
  • 1991年8月9日 - 金曜テレビの星!『植木等スーダラ90分!アッと驚くクレージーキャッツ大集合!!』」(TBS)放送。クレージー全員が出演するものとしては最後の仕事になる。
  • 1993年9月10日 - ハナ肇死去。告別式で植木等は涙ながらにクレージーの解散を発表した(翌日撤回)。

メンバー[編集]

ハナ肇[編集]

詳細は本人の項目を参照
東京府北豊島郡長崎町(現:東京都豊島区)生まれ。本名、野々山定夫(ののやま・さだお)。山手通り沿い要町交差点付近の実家(水道屋)で育った。工学院大学卒。芸名は、姓=興奮すると鼻の穴が大きく開くクセから、名=ハナが敬愛したジャズ・ピアニスト和田肇(俳優和田浩治の実父、歌手淡谷のり子の前夫)に由来する。最初はギタリストを志していたが、途中でドラマーに転向し、1946年に「内藤タンゴ・アンサンブル」、1947年に「伊沢一郎カルテット」、1948年に「南里文雄とホットペッパーズ」、1949年に「萩原哲晶とデューク・オクテット」、1952年に「アフロ・クパーノ・ジュニア」などのバンド遍歴を経る。そして、犬塚弘、萩原哲晶らと、クレージーキャッツの前身となる「キューバン・キャッツ」を1955年に結成。その後、1956年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」にバンド名を改め、バンドマスターとなる。『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』でのヒッピー姿で叫ぶ「アッと驚く為五郎」と言うギャグや『新春かくし芸大会』での銅像役はよく知られている。俳優ナレーターとしての評価も高かったが、音楽への情熱は捨てがたく、1985年に谷啓や「キューバン・キャッツ」時代のメンバーであった稲垣次郎らなどと「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」を結成し、ジャズクラブでの演奏活動も行っていた。1993年肝臓ガンのため死去。

植木等[編集]

詳細は本人の項目を参照
三重県多気郡宮川村大字栗谷(現:多気郡大台町)、浄土真宗・常念寺住職の三男として生まれる。本名同じ。東洋大学卒業。いくつかのバンドを経て、1957年3月に渡辺晋とハナ肇によってシティ・スリッカーズからクレージーキャッツに引き抜かれた。1962年に公開された映画『ニッポン無責任時代』以降は、「無責任男」が植木のキャッチフレーズとなり、以降数多くの映画に主演する。ボーカルとして数々のコミックソングがヒットし、テレビでも「お呼びでない?」など、後世に残るギャグで爆発的な人気を得る。1970年代以降は俳優としての活動の場が多くなったが、演技に対する評価は高く、多くの賞を獲得している。1990年には自身のヒット曲メドレー「スーダラ伝説」で人気が再燃し、23年ぶりに第41回NHK紅白歌合戦にも出場(この年の歌手別最高視聴率を獲得)した。翌年の1991年には、自身初となる全国ソロコンサートツアーも行っている。晩年は前立腺癌肺気腫と闘病しながら活動を継続していたが、2007年、肺気腫による呼吸不全で死去。

谷啓[編集]

詳細は本人の項目を参照
東京府荏原郡東調布町(現:東京都大田区田園調布)生まれ。広島横浜で育つ。本名、渡部泰雄(わたべ・やすお)。芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイに敬意を表し、その名前をもじったもの。中央大学中退。大学在学中からトロンボーン奏者として名を馳せ、1952年に原信夫とシャープスアンドフラッツ、1953年にシティ・スリッカーズ、1956年2月からクレージーキャッツへ参加している。「ガチョン」(現在は「ガチョーン」)や「ビローン」、「あんた誰?」、「谷ダァー」といったギャグが流行を博したが、「譜面にギャグを書き込む」スタイルで数多くの音楽ギャグを作り、その才能を活かして『シャボン玉ホリデー』では自身が番組構成を行った回(1966年1月9日放送、「タニー・ケイだよピーナッツ」)もある。トロンボーン奏者としても、「スイングジャーナル」紙の人気投票では、1959年から1965年まで連続してトロンボーン部門のベスト5に入っていたほどの実力者である。ナレーターや俳優としても活躍し、映画『釣りバカ日誌』シリーズの佐々木課長役は当たり役である。クレイジーのメンバーとしてはメディアへの露出が多く、若年層にも知名度が高かった。また、「谷啓とスーパー・マーケット」というバンドを率いており、不定期ながらも音楽活動を行っていた。その後も『美の壺』(NHK教育テレビジョン)の主人などで飄々としたところを見せていたが、晩年は認知症状が顕著になっていたと言う。2010年9月11日、私邸の階段からの転落による脳挫傷のため急死。

犬塚弘[編集]

詳細は本人の項目を参照
東京府荏原郡(現:東京都大田区大森)の生まれ。本名、犬塚弘(いぬづか・ひろむ)。1949年文化学院社会学部卒。同校卒業後、日本ワットソン統計会計機械(現日本アイ・ビー・エム)に入社したが、1951年に退職。実兄が組んだハワイアン・バンド(グリーン・グラス・キャップ・ボーイズ)に入り、ベースを担当したのが演奏活動を開始するきっかけとなる。その後、1952年に「萩原哲晶とデューク・セプテット」に参加し、1955年に「キューバン・キャッツ」の創立メンバーとして参加。なお、グループ初期にうけた「クレージーののど自慢」というコントは、犬塚と谷啓の作である。クレージーの一員としては「ワンちゃん」の愛称で親しまれ、1964年12月公開のハナ肇主演映画『馬鹿が戦車でやってくる』での演技により、植木等、ハナ肇、谷啓に次ぐクレージー『第4の男』として評価され、1965年7月に公開された『素敵な今晩わ』では初の主演を獲得している。1970年代からは性格俳優として映画、テレビドラマ、舞台などで脇を固めることも多く、最近でも『春よこい』、『少年メリケンサック』などの映画に出演し、精力的な活動を続けている。

安田伸[編集]

詳細は本人の項目を参照
東京府豊多摩郡(現:東京都中野区)生まれ。本名、安田秀峰(やすだ・ひでみ)。1953年東京芸術大学卒。同年「フォー・デパーズ」に参加以降、1954年には石橋エータローらと「ザ・ファイブ」を結成し、1955年には「ハッピー・フーリナンス」に参加。その後、1957年9月に石橋エータローの紹介でクレージーに参加する。ブリッジしながらサックスを吹く芸が有名であった。1966年に体操家の竹腰美代子と結婚。愛妻家で知られ、そこから「ミヨコー!」というギャグが生まれた。『シャボン玉ホリデー』後期のコント「キントト映画」では、なべおさみ扮する監督に、安田扮する助監督が「ヤスダーッ!」と怒鳴られ、なべにメガホンで頭を連打されるギャグも有名となった。俳優として映画や舞台などで活躍したが、晩年はガンとの闘病が続いた。1996年に急性心筋梗塞で死去。

石橋エータロー[編集]

詳細は本人の項目を参照
東京府東京市芝区新橋(現:東京都港区)の生まれ。本名、石橋英市(いしばし・えいいち)。父親は、作曲家尺八奏者の福田蘭童。祖父は洋画家の青木繁。東洋音楽大学(現東京音楽大学)卒。安田伸らとバンド活動後、1956年に世良譲の紹介でクレージーに参加する。1960年結核で一時離脱。代わりに、ピアノ奏者として桜井センリが加わる。その後、クレージーに復帰するも、1971年に引退。料理研究家に転身、渋谷で「三漁洞」という小料理屋を経営していた。かつて声楽を専攻していたこともあり、メンバーの中では植木と並ぶ美声である。1994年に胃ガンのため死去。

桜井センリ[編集]

詳細は本人の項目を参照
1926年(公称は1930年)ロンドンの生まれ。本名、桜井千里(さくらい・せんり)。早稲田大学第一政治経済学部に学ぶ。植木等らとバンドのピアノ奏者として活躍。石橋エータローの結核療養による活動休止を受けてクレージーに参加。早くからピアノの実力と共に編曲者としての才を発揮、様々なバンドで活動した。クレージー加入前、通常のバンドマンが月給4万円のところ、桜井は18万円を支給される高給取りだった。そのため、石橋の代役選びが難航する中、ハナは植木と谷に「元・シティ・スリッカーズのよしみで桜井はどうか」と尋ねたところ、植木らは即座に「桜井千里は絶対無理!」と答えたという。それでも懇願するハナに根負けし、植木は殆ど諦めながらも念のため自宅へ交渉に行ったところ、「実はああいうことを一度やってみたかったんですよ。よろしくお願いします。」と快諾を受け、拍子抜けしたという。石橋エータロー復帰後もメンバーとして活躍。ピアノの連弾はクレージーのステージの名物となった。金鳥の殺虫剤「キンチョール」のCMに出演した際、「ルーチョンキ」のギャグを披露。コントでは石橋に替わり「女性役」などを起用にこなし、CMで披露した「センリばあさん」役は当時一世を風靡した。2012年11月、自宅で倒れているのを発見されたが、既に死亡していた。『孤独死』とされる。

旧メンバー[編集]

  • 萩原哲晶(1925年 - 1984年、クラリネット)脱退後は、作曲家に転身。クレージーキャッツのヒット曲をてがける。萩原と入れ替わる形で、谷啓が参加。
  • 柴田昌彦(初代テナーサックス
  • 稲垣次郎(1933年 - 、二代目テナーサックス
  • 石田正弘(三代目テナーサックス
  • 橋本光雄(初代ピアノ
  • 河原義和(二代目ピアノ
  • 南晴子ボーカル
  • 筑波礼子ボーカル)ミュージカル女優島田歌穂の母

出演作品[編集]

参考文献[編集]

  • テレビの黄金時代(小林信彦(編) キネマ旬報社)
  • テレビの黄金時代(小林信彦著 文藝春秋)
  • ハナ肇とクレージーキャッツ物語(著:山下勝利朝日新聞社
  • あっと驚くリーダー論(著:ハナ肇、主婦と生活社
  • ジ・オフィシャル・クレージーキャッツ・グラフィティ(トレヴィル)
  • クレージー映画大全―無責任グラフィティ(佐藤利明、鈴木啓之、町田心乱(編) フィルムアート社)
  • シャボン玉ホリデー スターダストをもう一度(著:五歩一勇、日本テレビ

脚注[編集]

  1. ^ 旧メンバーの殆どは現在の動向が不明であるため。
  2. ^ NHKアーカイブスの番組表検索によると、NHKテレビには、1956年2月7日の「ボンゴのひびき」に「ハナ・ハジメとキューバンキャッツ」、翌1957年7月5日の「花の星座」に「ハナ・肇とクレージー・キャッツ」として出演している。
  3. ^ “桜井センリさん 孤独死か 「クレージーキャッツ」は1人だけに”. Sponichi Annex. (2012年11月12日). オリジナル2014年2月25日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140225043551/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/11/12/kiji/K20121112004538700.html 2014年2月25日閲覧。 

関連項目[編集]