野球界の永久欠番
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野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、野球の競技者・関係者などに対して適用される永久欠番について述べる。
日本プロ野球(NPB)の永久欠番
球団設立順。人物名の後にある日付は制定日。
- 1:王貞治(一塁手) 1989年3月16日
- 3:長嶋茂雄(三塁手) 1974年11月21日
- 4:黒沢俊夫(外野手) 1947年7月9日
- 14:沢村栄治(投手) 1947年7月9日
- 16:川上哲治(一塁手) 1965年1月18日
- 34:金田正一(投手) 1970年4月2日
- 巨人移籍前に在籍した国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の34は欠番となっていない。
- 10:藤村富美男(三塁手) 1958年11月30日
- 球団創設以来、阪神で10をつけた選手は藤村のみ。これは選手に対する永久欠番で唯一の事例である。
- 11:村山実(投手) 1972年11月2日
- 23:吉田義男(遊撃手) 1987年10月13日
- 1969年の引退以降、ふさわしい人物の入団まで欠番とされたが、使用した選手はいなかった。日本一となった第2期監督退任に合わせて永久欠番とされた。
服部と西沢の欠番は、両選手を辞めさせる時の「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている[1]。
- 100:大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 2009年2月1日
2人とも広島新入団時の背番号(衣笠は28、山本は27)から変更を経験している。
- 24:稲尾和久(投手) 2012年7月4日(決定発表は5月1日)
- 引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社(太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ)への売却時に稲尾が背番号を81に変更したことから欠番となった。当時稲尾が固辞したため球団は永久欠番とせず、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」として暫く欠番とした後、1976年に古賀正明が使用した。
- その後、秋山幸二、平野謙、金村義明、眞山龍、松永浩典等様々な選手が使用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年はライアン・マルハーンの退団により当初より欠番となっていた)。西武は7月1日のホームゲームと7月4日の福岡での試合において全選手・コーチが背番号「24」の西鉄・復刻ユニフォームを着用し、福岡での試合終了をもって永久欠番とした[2]。
- 10:イーグルス・ファン 2004年12月17日
- スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人の意味。球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。
- なお、球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチはいない。
- 球団マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの代表として、背番号10を着用している。
失効・消滅となった永久欠番
球団設立順。
- 100:球団に対して貢献のある複数の著名人 1997年11月11日
- 1:鈴木啓示(投手) 1985年7月31日制定
- 近鉄消滅時点でパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、2004年11月10日、オリックス野球クラブ株式会社への営業譲渡により消滅した引用エラー:
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タグ内の引数が無効です。 - 合併前のオリックス時代から後藤光尊が使用していたことと、鈴木本人が永久欠番を継続しないことを了承したため。
- 近鉄最後の監督となった梨田昌孝は選手に向けて「お前たちが付けている背番号は、全て近鉄バファローズの永久欠番だ」との言葉を残している。
- 近鉄消滅時点でパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、2004年11月10日、オリックス野球クラブ株式会社への営業譲渡により消滅した引用エラー:
準永久欠番
偉大な功績をあげた前任者を讃えた「名誉番号」「準永久欠番」を指定し、一定の期間空き番号としておく、前任者の「預かり」としておく球団もある。これは、米国でHono(u)red Numberと称されているものである。なお、これ以外にも特定の番号を「ふさわしい」選手が現れるまで空き番号とするケースがある。現在、欠番でないものも含まれる。
球団創立順。球団で「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」の類の公式発表がなされ、尚且つ1年以上の欠番があった場合のみ記載。
- 読売ジャイアンツ
- 55:松井秀喜(外野手)2003年 - 08年、14年 -
- ニューヨーク・ヤンキースに移籍した2003年から2008年まで準永久欠番だったが、2009年にドラフト1位で入団した大田泰示に継承された。2012年限りで現役引退した松井が翌年、長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を授与されたことを機に55番を永久欠番にする説もあったが、見送りとなった。しかし大田が2014年から背番号を44に変更したため、再び欠番となっている。
- 阪神タイガース
- 6:金本知憲(外野手)2013年 - 15年
- 31:掛布雅之(三塁手)1989年 - 91年、2014年 - 15年
- 3:長池徳士(外野手) 1983年 - 84年、86年 - 87年
- 7:福本豊(外野手) 1991年 - 2000年
- 41:小瀬浩之(外野手)2010年 -
- 2010年の春季キャンプ中に宿舎から転落死。それ以来、今日に至るまでオリックスで41を着用した選手はいない。
- 51:イチロー(外野手) 2001年 -
- イチローのメジャー移籍後、「51」を誰も使用しないまま現在も欠番となっており、本人も「誰も僕の番号を付けたがる選手はいないでしょうね」と語っている。2005年にオリックスの監督に復帰した仰木彬監督に51番をつけるように勧めたが「そんな番号は恐れ多くてつけられん」と拒否された。
- 9:小久保裕紀(内野手) 2004年 - 06年、13年 - 14年
- 15:藤井将雄(投手) 2001年 -
- 1999年に「炎の中継ぎ」としてダイエーホークス初の日本一に貢献するも、翌年10月に現役のまま病死。藤井以降に15を使用した選手はおらず、現在も欠番が引き継がれている[4]。
- 30:鶴岡一人(監督)1966 - 1979年
- 1947年より、一旦監督を辞任した1965年まで着用し、1966年以降は後任監督の蔭山和夫に禅譲する予定だったが、蔭山が就任して5日後に急死したため(南海蔭山新監督急死騒動)、球団挙げての復帰要請で急遽監督に復帰した鶴岡は1968年に再度辞任するまで31を着用した。その後は長期に渡って空き番だったが、1980年に台湾出身の高英傑が着用し、14年振りに復活した。
- 52:川崎宗則(遊撃手)2012年 -
- 川崎のMLB移籍後、現在も欠番となっている。
- 89:王貞治(監督) 2009年 -
- 福岡移転後の監督としては最多の、3度のリーグ優勝と2度の首位、2度の日本一達成。
- 90:景浦安武(外野手) 1973年 - 2015年
- 北海道日本ハムファイターズ
- 86:大沢啓二(監督)1985年 - 92年、95年 -
- 監督としてファイターズ初のリーグ優勝を達成。球団史上、86番を着用したのは大沢のみである。
- 8:有藤通世(三塁手) 1987年 - 91年
- 26:マリーンズファン 2005年 -
- ベンチ入り25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味[6]。試合中、ベンチには26番のユニフォームが飾られている。
- 29:村田兆治(投手) 1991年 - 94年
- 引退後欠番となっていたが、村田の福岡ダイエーホークス投手コーチ就任により内藤尚行が着用し、欠番でなくなった。その後も近藤芳久、小野晋吾、西野勇士などが着用している。
- 広島東洋カープ
- 1:前田智徳(外野手) 2014年 -
- 引退を機に欠番となる。次の着用者を選定する時は前田に決定権がある[7]。
- 7:野村謙二郎(遊撃手) 2006年 - 12年
- 野村の「預かり番号」とされていたが、2013年より堂林翔太に継承された。
- 15:黒田博樹(投手) 2008年 - 14年
- MLBへ移籍した黒田が帰って来る時に備えて欠番となっていたが[8]、2015年に復帰により再び着用することになった。
- 20:北別府学(投手) 1995年 - 2002年
- 北別府の推薦する選手が出るまで欠番とされていたが、2002年に永川勝浩に継承された。
- 埼玉西武ライオンズ
- 3:大下弘(外野手) 1960年 - 67年
- 6:中西太(三塁手) 1970年 - 72年
- 引退後、相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、福岡野球株式会社への売却後に「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾和久の推薦で菊川昭二郎(33から変更)が使用した。
- 27:伊東勤(捕手) 2004年 - 06年
- 伊東の引退と監督就任に伴い、自らが後継者として認める正捕手が出るまで欠番とされた。2006年に細川亨(現・福岡ソフトバンクホークス)が継承。
- 1:若松勉(外野手) 1990年 - 91年、2000年、2007年 - 09年、2012年 - 2015年
- 原則として球団生え抜きで、なおかつそれに見合う実績を挙げた選手にのみ使用させる「準永久欠番」。背番号1は「ミスタースワローズ」という称号とワンセットになっている。自身が使用を熱望し、若松の推薦もあったことから池山隆寛(36から変更)が使用していたが、若松が監督に就任した際、池山が返上して36番に戻したため1年間欠番となった後、2001年からは岩村明憲が使用。岩村のメジャー移籍後に再び欠番となり(ヤクルト復帰時は入団時と同じ48を着用)、2010年から青木宣親が使用したが、2011年限りでメジャー移籍したため、再度欠番となっている。2015年には日本ハムから移籍してきた大引啓次に提示されたが、本人は辞退して2を選択した[11][12]。そして、2015年にトリプルスリーを達成した山田哲人が2016年から着用することになった。
- 6:宮本慎也(遊撃手・三塁手) 2014年 -
- 8:大杉勝男(一塁手) 1984年
- 27:古田敦也(捕手) 2008年 -
- 東北楽天ゴールデンイーグルス
期間限定の欠番
上記の藤井のように、在籍中に不慮の事故や病などで急逝した人物への哀悼の念をこめて一時的に使用を見合わせる場合もある。球団創立順。
- 中日ドラゴンズ
- 阪神タイガース
- 福岡ソフトバンクホークス
- 7:久保寺雄二(三塁手)1985年 - 86年
- 北海道日本ハムファイターズ
- 79:小林繁(コーチ)2010年 - 2011年
- 埼玉西武ライオンズ
- 32:ミゲール・デルトロ(投手) 2002年
- 2001年オフに交通事故で急逝。同年限りでの退団が決定していたが、正式発表前の事故死であったため「所属選手」とし1年間限定で欠番に制定。翌2003年に細見和史が着用した。
- 59:板沢峰生(遊撃手) 1981年 - 89年
日本の独立リーグの永久欠番
- 12:木田優夫(投手)
- プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
- 0:梶田宙(外野手)[18][19]
- 四国アイランドリーグplus発足時の選手で最後まで残り、実働10年でリーグ公式戦最多出場を記録[20]。
審判員の欠番
審判員が使用する肩番号(審判番号)はパ・リーグが1977年に、セ・リーグが1988年に制定したが、該当審判の退職以降に他の審判に引き継がれることがない番号が存在したため、これらは事実上の永久欠番となっていた。しかし2011年シーズンにセ・リーグとパ・リーグの審判部が統合された際、統合後の全審判員が一意になるように審判番号が振り直されたことにより、下記の番号全てが事実上の永久欠番ではなくなった[21]。
- 13:露崎元弥(東京審判部所属)1978年
アメリカ・メジャーリーグベースボールの永久欠番
メジャーリーグベースボールにおける永久欠番の歴史は1939年、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースでルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされる筋萎縮性側索硬化症(ALS・「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれる)で引退を余儀なくされたが、永久欠番とすることでチームに居続けることができることに歓喜した。引退の際、 "Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth."(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している。
ナショナルリーグではニューヨーク・ジャイアンツが1947年にカール・ハッベルの11を永久欠番に指定し、ナ・リーグ初の永久欠番となる。ドジャース、レッドソックス、マリナーズ、アスレチックスの4球団は、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。
日本プロ野球には存在しない全球団共通の永久欠番、複数球団にまたがる一競技者の永久欠番、複数の競技者を称えた永久欠番がある。
- 全球団共通永久欠番
- 42:ジャッキー・ロビンソン(二塁手)
- 黒人選手第1号であるロビンソンを顕彰し、1997年4月15日に制定。ただし、制定される以前から42番を使っていた選手は、特例として継続して使用することが認められた。これは、数字を統一する事で黒人と白人を区別をさせないという意味も含まれていると言われている。制定当時は後述のブルース・スーターやマリアノ・リベラを含めて該当者が20人前後いた(選手・コーチなどを含む)が、移籍やマイナー行きなどの理由でその数は徐々に減っていった。
- メジャーリーグで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった。リベラの背番号も同時に欠番に指定された。カージナルスのブルース・スーターも現役時代の背番号が42で、2006年に殿堂入りを果たして欠番に指定されている。
- リベラとスーターの背番号は各々の球団でロビンソンの背番号と並立して称えられている。
- 日本のプロ野球で、特に外国人選手が42番を着けることが多いのは、42が「死に」につながり日本人選手が敬遠することが多いためだが、現在ではMLBでは着けることのできない番号だからという理由もある(日本のプロ野球で42番が永久欠番になっている球団はない)。
- 複数球団にまたがる一競技者の永久欠番
現在までに10名が存在する。
- ノーラン・ライアン(エンゼルスの30、アストロズ・レンジャースの34)
- ハンク・アーロン(ブレーブス、ブルワーズの44)
- ケーシー・ステンゲル(ヤンキース、メッツの37)
- フランク・ロビンソン(レッズ、オリオールズの20)
- カールトン・フィスク(レッドソックスの27・ホワイトソックスの72)
- ロッド・カルー(ツインズ、エンゼルスの29)
- ローリー・フィンガース(アスレチックス・ブルワーズの34)
- レジー・ジャクソン(ヤンキースの44・アスレチックスの9)
- グレッグ・マダックス(カブス、ブレーブスの31)
- スパーキー・アンダーソン(レッズの10、タイガースの11)
- 複数の競技者を称えた永久欠番
現在までに5つのケースがある。
- ヤンキースの8(ビル・ディッキーとヨギ・ベラ)
- ヤンキースの42(マリアノ・リベラとジャッキー・ロビンソン)
- カージナルスの42(ブルース・スーターとジャッキー・ロビンソン)
- カブスの31(ファーガソン・ジェンキンスとグレッグ・マダックス)
- ナショナルズの10(アンドレ・ドーソンとラスティ・スタウブ)
各球団の永久欠番
球団創立順(ジャッキー・ロビンソンの42を除いた番号)
- 3:デール・マーフィー(外野手)
- 6:ボビー・コックス(監督)
- 10:チッパー・ジョーンズ(三塁手)
- 21:ウォーレン・スパーン(投手)
- 29:ジョン・スモルツ(投手)
- 31:グレッグ・マダックス(投手)
- 35:フィル・ニークロ(投手)
- 41:エディ・マシューズ(三塁手)
- 44:ハンク・アーロン(外野手)
- 47:トム・グラビン(投手)
- 10:ロン・サント(三塁手)
- 14:アーニー・バンクス(遊撃手)
- 23:ライン・サンドバーグ(二塁手)
- 26:ビリー・ウィリアムズ(外野手)
- 31:ファーガソン・ジェンキンス(投手)
- 31:グレッグ・マダックス(投手)
- 欠番扱い:ロジャース・ホーンスビー(内野手)
- ホーンスビーは背番号が定着する以前の選手。
- 欠番扱い:ジャック・バック(アナウンサー)
- 1:オジー・スミス(遊撃手)
- 2:レッド・ショーエンディーンスト(二塁手・監督)
- 6:スタン・ミュージアル(外野手)
- 9:イーノス・スローター(外野手)
- 10:トニー・ラルーサ(監督)
- 14:ケン・ボイヤー(三塁手)
- 17:ディジー・ディーン(投手)
- 20:ルー・ブロック(外野手)
- 24:ホワイティ・ハーゾグ(監督)
- 42:ブルース・スーター(投手)
- 45:ボブ・ギブソン(投手)
- 85:オーガスト・ブッシュ(オーナー)
- 1:フレッド・ハッチンソン(監督)
- 5:ジョニー・ベンチ(捕手)
- 8:ジョー・モーガン(二塁手)
- 10:スパーキー・アンダーソン(監督)
- 11:バリー・ラーキン(遊撃手)
- 13:デーブ・コンセプシオン(遊撃手)
- 14:ピート・ローズ(内野手)
- 1989年に野球賭博に関わったとして球界からの永久追放処分。以後、使用したのはローズの息子であるピート・ローズ・ジュニアのみだったが、2016年、ローズのシンシナティ・レッズ球団殿堂入り発表とともに欠番に指定[22]。
- 18:テッド・クルズースキー(一塁手)
- 20:フランク・ロビンソン(外野手)
- 24:トニー・ペレス(一塁手)
- 欠番扱い:ピート・アレクサンダー(投手)
- アレクサンダーは背番号が定着する以前の選手。
- 欠番扱い:チャック・クライン(外野手)
- クラインは背番号定着後に活躍した選手だが、毎シーズン背番号を変えていたため、最初の数年間の背番号がない時代のチームの花文字を欠番代わりにしている。
- 1:リッチー・アシュバーン(外野手)
- 14:ジム・バニング(投手)
- 20:マイク・シュミット(三塁手)
- 32:スティーブ・カールトン(投手)
- 36:ロビン・ロバーツ(投手)
- 欠番扱い:クリスティ・マシューソン(投手)
- 欠番扱い:ジョン・マグロー(監督)
- マシューソンとマグローは、いずれも背番号が定着する以前の選手。
- 欠番扱い:ロン・シモンズ(アナウンサー)
- 欠番扱い:ルース・ホッジス(アナウンサー)
- 3:ビル・テリー(一塁手)
- 4:メル・オット(外野手)
- 11:カール・ハッベル(投手)
- 20:モンテ・アーヴィン(外野手)
- 24:ウィリー・メイズ(外野手)
- 27:フアン・マリシャル(投手)
- 30:オーランド・セペダ(一塁手)
- 36:ゲイロード・ペリー(投手)
- 44:ウィリー・マッコビー(一塁手)
- 1:ビリー・メイヤー(監督)
- 4:ラルフ・カイナー(外野手)
- 8:ウィリー・スタージェル(一塁手)
- 9:ビル・マゼロスキー(二塁手)
- 11:ポール・ウェイナー(外野手)
- 20:パイ・トレイナー(三塁手)
- 21:ロベルト・クレメンテ(外野手)
- 33:ホーナス・ワグナー(遊撃手)
- 40:ダニー・マートー(監督)
- 1:ピー・ウィー・リース(遊撃手)
- 2:トミー・ラソーダ(監督)
- 4:デューク・スナイダー(外野手)
- 19:ジム・ギリアム(二塁手)
- 20:ドン・サットン(投手)
- 24:ウォルター・オルストン(監督)
- 32:サンディー・コーファックス(投手)
- 39:ロイ・キャンパネラ(捕手)
- 42:ジャッキー・ロビンソン(二塁手)※1997年以降、全球団共通で42を永久欠番に指定。
- 53:ドン・ドライスデール(投手)
- 欠番扱い:タイ・カッブ(外野手)
- カッブは背番号が定着する以前の選手。
- 欠番扱い:アーニー・ハーウェル(アナウンサー)
- 2:チャーリー・ゲーリンジャー(二塁手)
- 5:ハンク・グリーンバーグ(一塁手)
- 6:アル・ケーライン(外野手)
- 11:スパーキー・アンダーソン(監督)
- 16:ハル・ニューハウザー(投手)
- 23:ウィリー・ホートン(外野手)
- 2:ネリー・フォックス(二塁手)
- 3:ハロルド・ベインズ(外野手)
- 4:ルーク・アップリング(遊撃手)
- 9:ミニー・ミノーソ(外野手)
- 11:ルイス・アパリシオ(遊撃手)
- 14:ポール・コネルコ(一塁手)
- 16:テッド・ライオンズ(投手)
- 19:ビリー・ピアース(投手)
- 35:フランク・トーマス(内野手)
- 72:カールトン・フィスク(捕手)
- 1:ボビー・ドーア(二塁手)
- 4:ジョー・クローニン(遊撃手・監督)
- 6:ジョニー・ペスキー(遊撃手・監督)
- 8:カール・ヤストレムスキー(外野手)
- 9:テッド・ウィリアムズ(外野手)
- 14:ジム・ライス(外野手)
- 26:ウェイド・ボッグス(三塁手)
- 27:カールトン・フィスク(捕手)
- 45:ペドロ・マルティネス(投手)
- 1:ビリー・マーチン(二塁手・監督)
- 3:ベーブ・ルース(外野手)
- 4:ルー・ゲーリッグ(一塁手)
- 5:ジョー・ディマジオ(外野手)
- 6:ジョー・トーリ(監督)
- 7:ミッキー・マントル(外野手)
- 8:ビル・ディッキー(捕手)
- 8:ヨギ・ベラ(捕手)
- 9:ロジャー・マリス(外野手)
- 10:フィル・リズート(遊撃手)
- 15:サーマン・マンソン(捕手)
- 16:ホワイティー・フォード(投手)
- 20:ホルヘ・ポサダ(捕手)
- 23:ドン・マッティングリー(一塁手)
- 32:エルストン・ハワード(捕手)
- 37:ケーシー・ステンゲル(監督)
- 42:マリアノ・リベラ(投手)
- 44:レジー・ジャクソン(外野手)
- 46:アンディ・ペティット(投手)
- 49:ロン・ギドリー(投手)
- 51:バーニー・ウィリアムス(外野手)
- 3:アール・アベリル(外野手)
- 5:ルー・ブードロー(遊撃手・監督)
- 14:ラリー・ドビー(外野手)
- 中日ドラゴンズにも在籍した。永久欠番が制定された初の日本球界在籍経験者。
- 18:メル・ハーダー(投手)
- 19:ボブ・フェラー(投手)
- 21:ボブ・レモン(投手)
- 455:ザ・ファン・オブ・インディアンス
- ホームゲームが455戦連続で満員になったことを記念した「ファンのための背番号」。
- 4:アール・ウィーバー(監督)
- 5:ブルックス・ロビンソン(三塁手)
- 8:カル・リプケン(遊撃手)
- 20:フランク・ロビンソン(外野手)
- 22:ジム・パーマー(投手)
- 33:エディ・マレー(一塁手)
- 3:ハーモン・キルブルー(一塁手)
- 6:トニー・オリバ(外野手)
- 10:トム・ケリー(監督)
- 14:ケント・ハーベック(一塁手)
- 28:バート・ブライレブン(投手)
- 29:ロッド・カルー(二塁手)
- 34:カービー・パケット(外野手)
- 欠番扱い:ウォルター・ハース・ジュニア(オーナー)
- 9:レジー・ジャクソン(外野手)
- 24:リッキー・ヘンダーソン(外野手)
- 27:キャットフィッシュ・ハンター(投手)
- 34:ローリー・フィンガース(投手)
- 43:デニス・エカーズリー(投手)
- 11:ジム・フレゴシ(遊撃手・監督)
- 26:ジーン・オートリー(オーナー・俳優)
- 26は、ベンチ入りを許される25人の次の選手になりたいというオートリーの希望によるといわれている。
- 29:ロッド・カルー(一塁手)
- 30:ノーラン・ライアン(投手)
- 50:ジミー・リース(コーチ)
- 欠番扱い:ウィリアム・シェイ(弁護士)
- メッツ創設のために尽力した弁護士。旧本拠地シェイ・スタジアムはシェイの名からとられた。
- 14:ギル・ホッジス(監督)
- 31:マイク・ピアッツァ(捕手)[23]
- 37:ケーシー・ステンゲル(監督)
- 41:トム・シーバー(投手)
- 5:ジェフ・バグウェル(一塁手)
- 7:クレイグ・ビジオ(二塁手)
- 24:ジミー・ウィン(外野手)
- 25:ホセ・クルーズ(外野手)
- 32:ジム・アンブリット(投手)
- 33:マイク・スコット(投手)
- 34:ノーラン・ライアン(投手)
- 40:ドン・ウィルソン(投手)
- 49:ラリー・ダーカー(投手・監督)
- 球団のワシントン移転により一旦は消滅したが、2011年より再び永久欠番となった。
- 欠番扱い:レイ・クロック(オーナー)
- 財政難による球団の危機を救ったことを称える。
- 欠番扱い:ジェリー・コールマン(アナウンサー・監督)
- 6:スティーブ・ガービー(一塁手)
- 19:トニー・グウィン(外野手)
- 31:デーブ・ウィンフィールド(外野手)
- 35:ランディ・ジョーンズ(投手)
- 51:トレバー・ホフマン(投手)
- 1:バド・セリグ(オーナー)
- 4:ポール・モリター(二塁手)
- 19:ロビン・ヨーント(遊撃手・外野手)
- 34:ローリー・フィンガース(投手)
- 44:ハンク・アーロン(外野手)
- 24:ケン・グリフィー・ジュニア(外野手)[24]
- 12:ロベルト・アロマー(二塁手)
- 17:トッド・ヘルトン(一塁手)
- なし
- 20:ルイス・ゴンザレス(外野手)
- 51:ランディ・ジョンソン(投手)
準永久欠番および期間限定の欠番
球団創立順。
- 欠番扱い:キャップ・アンソン(一塁手・監督)
- 欠番扱い:ハック・ウィルソン(外野手)
- 3:フィル・キャバレッタ(一塁手・監督)
- 8:アンドレ・ドーソン(外野手)
- 17:マーク・グレース(一塁手)
- 21:サミー・ソーサ(外野手)
- 34:ケリー・ウッド(投手)
- 5:アルバート・プホルス(一塁手)
- 25:マーク・マグワイア(一塁手)
- 29:クリス・カーペンター(投手)
- 51:ウィリー・マギー(外野手)
- 57:ダリル・カイル(投手)
- 10:ラリー・ボーワ(遊撃手・監督)1982年 - 2008年
- 25:バリー・ボンズ(外野手)
- 34:フェルナンド・バレンズエラ(投手)
- 欠番扱い:ハリー・ハイルマン(外野手)
- 欠番扱い:ヘイニー・マナシュ(外野手)
- 欠番扱い:ヒューイー・ジェニングス(遊撃手・監督)
- 欠番扱い:サム・クロフォード(外野手)
- 欠番扱い:ミッキー・カクレーン(捕手)
- 欠番扱い:ジョージ・ケル(三塁手)
- 1:ルー・ウィテカー(二塁手)1996年 -
- 3:アラン・トランメル(遊撃手・監督)1996年 - 2006年、2009年 -
- 2007-08年はゲーリー・シェフィールドが使用。シェフィールドのタイガース移籍に際し、シェフィールドが過去に使用した背番号が全て使用不可能(1、5、11が永久欠番・準永久欠番、10がジム・リーランド監督)であったため、シェフィールドから相談を受けたトランメルが自らの背番号を与えた。
- 47:ジャック・モリス(投手)1994年 -
- 21:ロジャー・クレメンス(投手)1997年 -
- 33:ジェイソン・バリテック(捕手)2012年 -
- 49:ティム・ウェイクフィールド(投手)2012年 -
- 2:デレク・ジーター(遊撃手)2015年 -
- 21:ポール・オニール(外野手)2002年 -
- 2008年シーズンに移籍してきたラトロイ・ホーキンスが使用するも、ヤンキースファンの猛反対に遭い22に変更、再び準欠番となる。
- 7:カル・リプケン・シニア(監督・コーチ)
- 44:エルロッド・ヘンドリクス(捕手)
- 46:マイク・フラナガン(投手)
- 15:ティム・サーモン(外野手)2006年 -
- 31:チャック・フィンリー(投手)
- 34:ニック・エイデンハート(投手)
- 8:ゲーリー・カーター(捕手)
- 17:キース・ヘルナンデス(一塁手)
- 24:ウィリー・メイズ(外野手)
- メイズ引退時、当時のメッツのオーナーが24を空き番と声明するが、1990年にケルビン・トーベがわずかな期間だけつけ(その後39に変更)、その後リッキー・ヘンダーソンが1999年から2年間野手として、2007年にコーチとしてメッツに在籍したときに24をつけている。
- 11:エドガー・マルティネス(指名打者)
- 14:ルー・ピネラ(監督)
- 19:ジェイ・ビューナー(外野手)
- 51:ランディ・ジョンソン(投手)
- 51:イチロー(外野手)
- 51は、イチローの引退もしくは野球殿堂入りを待ってジョンソン(2015年に野球殿堂入り)と連名で永久欠番になると見られている[26]。
- トロント・ブルージェイズ(レベル・オブ・エクセレンス)
- 欠番扱い:パット・ギリック(ゼネラルマネージャー)2002年
- 欠番扱い:ポール・ビーストン(球団社長)2008年
- 1:トニー・フェルナンデス(遊撃手)2002年
- 11:ジョージ・ベル(外野手)1996年
- 25:カルロス・デルガド(一塁手)2014年
- 29:ジョー・カーター(外野手)1999年
- 37:デーブ・スティーブ(投手)1996年
- 43:シト・ガストン(監督)1999年
- 4306:トム・チーク(アナウンサー)2004年
- 33:ラリー・ウォーカー(外野手)
韓国プロ野球界の永久欠番
韓国では、1986年にOBベアーズ(現・斗山ベアーズ)に捕手として在籍していた金栄伸の54を制定したことに始まる。
- 10:梁埈赫(ヤン・ジュンヒョク、一塁手・外野手・指名打者)2010年 -
- 韓国野球界の打撃記録のほとんどを保持。
- 22:李萬洙(イ・マンス、捕手)2003年 -
- チーム一筋の捕手で韓国史上に残るスラッガー。三星ライオンズで22を使用した唯一の人物である。
- 36:李承燁(イ・スンヨプ、一塁手)2004年 - 2011年
- 韓国最年少で300本塁打とシーズン56本塁打のアジア記録(当時)を樹立。2004年に千葉ロッテマリーンズ移籍により指定。2012年、チーム復帰により再使用。
- 11:崔東原(チェ・ドンウォン、投手)2011年 -
- 1983年 - 1990年に韓国プロ野球で活動。1984年韓国プロ野球最優秀選手、韓国シリーズ4勝記録。通算103勝26セーブ、1019奪三振記録。2011年9月14日に大腸癌のため53歳で逝去。同月30日に指定。
- 41:金龍洙(キム・ヨンス、投手)1999年 -
- 通算227セーブ、251セーブポイントはともに当時の韓国記録。
- 7:李鍾範(イ・ジョンボム、外野手)2012年 -
- 18:宣銅烈(ソン・ドンヨル、投手)2002年 -
- 韓国史上最高投手と呼ばれ、1995年の中日ドラゴンズ移籍後も1999年の引退後も欠番となっていた。2001年途中のヘテからの身売りの際に「宣銅烈の18を返上、新人投手に与える」と発表したが、韓国球界・マスコミなどで猛反発を招き、元通り欠番に。2002年1月28日に正式に永久欠番に指定。
- 21:宋津宇(ソン・ジヌ、投手)2009年 -
- 21年間韓国プロ野球で活動。通算最多である3003イニング、210勝、2048奪三振記録。2009年9月22日に指定。
- 23:鄭珉哲(チョン・ミンチョル、投手)2009年 -
- 宋津宇に次ぐ通算記録2位の161勝を挙げる。読売ジャイアンツにも在籍。引退と同時に宋津宇と共に指定。
- 35:張鍾勲(チャン・ジョンフン、遊撃手)2005年 -
- 3シーズン連続本塁打王(1990 - 1992)、通算340本塁打を記録。テスト生から這い上がったその生い立ちは「練習生神話」と呼ばれた。2005年9月15日の引退試合と共に指定。
- 26:朴勍完(パク・キョンワン、捕手)2014年 -
- サンバンウル・レイダース、現代ユニコーンズ、そしてSKワイバーンズの正捕手として韓国球界最長の23年間選手生活を続けた。2014年4月、引退を機に指定。
準永久欠番
- 20:鄭珉台(チョン・ミンテ、投手)2007年 - 2012年
- 事実上の前身である太平洋ドルフィンズ・現代ユニコーンズを支えたエース。読売ジャイアンツにも在籍。2007年、引退を機に欠番となり、2009年の引退セレモニーで準永久欠番扱いとなるが、2013年、ロッテ・ジャイアンツのコーチに就任したこともあり、現在は金成泰が着用している。
台湾プロ野球界の永久欠番
- 4:林易増(外野手)2001年 - 2011年、2013年 -
- 盗塁王を5度受賞する名手。監督としても台湾シリーズ2連覇を果たしている。2012年の1年間のみ内野手の徐睿擇が使用。
- 26:王光輝(二塁手・三塁手)2008年 - 2011年
- 球団史上に残る中心選手。コーチ・監督を務めた。2008年、退団をもって指定。2012年から捕手の黄鈞聲が使用。
- 67:曽紀恩(監督)2012年 -
- 初代監督。球団社長も務めた。2012年3月25日指定。
- 99:エレファンツ・ファン 2006年 - 2012年
- 2012年から投手の陳鴻文が使用。
- 10:ライノズ・ファン
- 17:黄忠義(二塁手)2009年 -
- 球団、台湾球界を代表する二塁手。2009年制定。
- 85:徐生明(監督)2013年 -
- 台湾史上初の700勝を挙げる名監督であったが、2013年前期優勝の後、後期の試合後に心筋梗塞で急逝。
なし
野球ナショナルチームの永久欠番
- 13:東門明(三塁手)1972年 -
- 元早稲田大学野球部三塁手。第1回日米大学野球選手権大会で送球を頭部に受けて急死。
- 41:マーク・マグワイア(一塁手)
- 21:ロベルト・クレメンテ(外野手)
- 22:ルーベン・ゴメス(投手)
- 30:オーランド・セペダ(一塁手)
脚注
- ^ 中日新聞社『中日ドラゴンズ70年史』中日新聞社、2006年。ISBN 4-8062.-0514-1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。32頁
- ^ 西武の全選手、背番号24 故稲尾氏、球団初の永久欠番2012年7月4日 朝日新聞デジタル
- ^ 【阪神】背番「31」15年ぶり欠番! 掛布DC自ら「2世」育てる - スポーツ報知、2013年11月11日付
- ^ a b 西日本スポーツ2005年1月30日付、スポーツ報知2005年1月30日付
- ^ 【ソフトB】新助っ人スアレス、球団初あぶさんの「90」背負う! - スポーツ報知、2015年11月4日。
- ^ 26番目の戦士たち | 千葉ロッテマリーンズ
- ^ 中日、山本昌の背番号「34」を準永久欠番扱いしなかったことの是非 - THE PAGE(2015.12.12 12:00)
- ^ “広島が黒田背番号「15」半永久欠番に”. ニッカンスポーツ. (2007年12月1日) 2012年7月13日閲覧。
- ^ 西日本スポーツ(野口正明『大下君ご苦労さん』)・西日本新聞・読売新聞。1960年3月2日。
- ^ 当時の西日本スポーツ(1968年1月21日)は、「広野の背番号は大型打者にふさわしく、大下弘選手(現東映監督)が(昭和)36年に引退してから、長い間欠番になっていた『3』に決まった」と報じているが、前述の大下の同意があったかは不明。
- ^ 大引、“ミスタースワローズ”背番号1を固辞「重みを尊重したい」 - サンケイスポーツ・2014年11月22日。
- ^ ヤクルト入りの大引 背番号は「2」 - スポニチアネックス・2014年11月23日。
- ^ サンケイスポーツ・1983年11月10日。
- ^ 国鉄スワローズ時代の根来広光以後、捕手以外の27番はロン・デービス投手(1989年)のみである。
- ^ 【楽天】マー背番「18」“永久”欠番
- ^ 松井背番号は「1」「12」「19」から本人選ぶ - スポニチアネックス、2013年11月1日。
- ^ 小林繁氏通夜:日本ハム 背番号「79」を当面“欠番”に 2010年1月20日 毎日新聞
- ^ 梶田主将「幸せな10年間」 - 読売新聞高知版2014年9月14日
- ^ FD・梶田宙選手の引退式にファン続々 - 高知新聞2014年9月14日
- ^ 10年目梶田が今季で引退 - 高知新聞2014年9月7日
- ^ 統合後、3は敷田直人、6は東利夫、13は杉本大成、26は飯塚富司が使用している。敷田は栄村孝康の2と、杉本は橘高淳の9と番号が重複したことにより現番号に変更されており(栄村と橘高は統合前の番号を統合後もそのまま使用)、東と飯塚は統合前の番号をそのまま使用している。
- ^ レッズ、ローズ氏背番号14を永久欠番に毎日.jp 2016年1月20日付
- ^ メッツ ピアザ氏背番「31」永久欠番に 殿堂入りに続く「名誉」スポニチアネックス 2016年1月27日付
- ^ グリフィーの「24」永久欠番=米大リーグ・マリナーズ 時事ドットコム、2016年1月9日付
- ^ レイズ、ドン・ジマー氏の「66」が永久欠番に 日刊スポーツ 2015年3月25日閲覧
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/9678349/