小瀬浩之
2008年7月2日、舞洲ベースボールスタジアム
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大東市 |
| 生年月日 | 1985年9月2日 |
| 没年月日 | 2010年2月5日(満24歳没) |
| 身長 体重 |
180cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 2007年 大学生・社会人ドラフト3巡目 |
| 初出場 | 2008年7月15日 |
| 最終出場 | 2009年10月9日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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小瀬 浩之(おぜ ひろゆき、1985年9月2日 - 2010年2月5日[1][2][3])は、大阪府大東市出身のプロ野球選手(外野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
ボーイズリーグの鴻池オーシャンに所属して当時の橋本コーチに見出され、全国大会の出場はなかったが、最終学年時には大会打率が5割を超える活躍を見せた。尽誠学園高等学校では2年時に第74回選抜高等学校野球大会に出場し、準々決勝で宮本賢を擁する関西高校に敗れたが8強入りに貢献した。関西学生野球連盟所属の近畿大学に進学後は1年時からベンチ入りし2年時には第34回日米大学野球選手権大会日本代表に、3年時には第35回世界大学野球選手権大会日本代表に選出された。リーグ戦通算72試合出場、297打数104安打、打率.350, 1本塁打、17打点。4年時の秋季リーグで最優秀選手に選ばれた。首位打者2回、ベストナイン3回受賞。
大学1年の冬に一番の応援者であった母を亡くし、そのショックから一時は野球を止めようとすら考えていたが、近大野球部監督の榎本保に説得され、「プロに入って立派な墓を建ててあげたい」と決意した。
2007年の大学生・社会人ドラフトで、オリックス・バファローズから3巡目指名を受け入団。スカウトに転身した藤井康雄が初めて担当した選手である。
[編集] プロ入り後
2008年はウエスタン・リーグで3割以上の打率を残し、7月15日に初めて一軍昇格。同日の対千葉ロッテマリーンズ戦においてスタメンで初出場し、小林宏之から初安打となる遊撃内野安打を放ち、すかさず初盗塁を記録、翌日には初打点を挙げた。その後、主に9番左翼手として一軍に定着し、8月5日の対福岡ソフトバンクホークス戦で久米勇紀からプロ入り初本塁打を放ち、8月27日の対福岡ソフトバンクホークス戦では馬原孝浩から決勝スクイズを決めた。
9月29日の対埼玉西武ライオンズ戦では、延長10回表にまたも決勝スクイズを決め、この試合の勝利によりチームは9年ぶりにAクラス入りを果たした。その後、北海道日本ハムファイターズとのクライマックスシリーズでは、第1戦で8番左翼手として出場し、チームは敗れたものの、ダルビッシュ有からチームで唯一猛打賞を記録。続く第2戦は相手の先発が左投手の藤井秀悟だったためスタメンから外れるも、最終回に代打出場しマイケル中村から四球を選んだ。一時は3割前後だった打率は9月中旬以降落ちていき、最終的に.262に終わったが、58試合に出場して出塁率.342, チーム3位の7盗塁を記録するなど持ち味の俊足巧打を生かしてまずまずの成績を残した。オフには、2年間交際していた一般の女性と入籍した。
2009年、1月にはスカイマークスタジアムでイチローとともに合同自主トレを行った。シーズン序盤は大村直之の加入とタフィ・ローズの外野守備復帰により出場機会が少なく、打率も1割台前半に留まった。しかし6月に準レギュラーを獲得すると6月:.275, 7月:.317, 8月:.362, 9月:.417とシーズン後半になるに連れ一気に打率を上げた。7月16日の対千葉ロッテマリーンズ戦では渡辺俊介から逆転打となるプロ初の三塁打を打った。規定打席には到達しなかったものの打率.303, チーム4位の7盗塁をマークした。公式戦における現役最終出場は10月9日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(Kスタ宮城)で、2番・左翼手で先発出場し、第3打席で藤原紘通から安打を放ったが、最終打席となった8回の第4打席は同じく藤原に対し見逃し三振だった。オフにはフェニックスリーグに派遣され[4]、また前年に入籍していた夫人と結婚式を挙げていた。
[編集] 突然の死
2010年2月5日、春季キャンプで滞在していた沖縄県宮古島市のホテルで、10階の自室から2階部分屋上に転落死しているところを発見された。警察は自殺と事故の両面から捜査した[2][3]が、2月7日に球団本部長の村山良雄は、事件性がなく死因や遺書の有無についても警察から報告がなかったと述べ、球団としてこれ以上調査はしないと発表した[5]。
「外野にエエのがおるんよ!」と大きな期待を寄せていたオリックス監督の岡田彰布は小瀬の死について「訳が分からへん!昨日まで、元気にグラウンドでやってたんやから…。そんなの、考えられへん!」とコメントした。事実、小瀬はシュアプレイ社製のバットを使用していたが、岡田が小瀬にバット変更を打診し、岡田自ら小瀬のためにSSK社製のバットを特注するほど期待されていた[6]。しかし、亡くなる前日のトレーニング室では元気がなく、帰りのバス車内では頭からタオルを被って座席に身を沈めている姿が目撃されていた[7]。母校・近大監督の榎本も「衝撃的です。大学へ自主トレに来た時は“今年はやります!”と言っていたのに…。あんな“痛がりで怖がり”なヤツが何で…」と涙ながらに語った[8]。近大野球部では小瀬の大学時代の背番号「7」が1年間欠番になることとなった[9]。また、小瀬がオリックスで付けていた「41」は、2011年も欠番となっている。
小瀬の訃報を聞いたダルビッシュ有や斉藤和巳など、他球団の選手も各々のブログで小瀬を偲んだ[10][11]。
小瀬の死去に伴い、2010年度版の選手名鑑には小瀬のデータが除外される形で発売された。しかし、あまりにも急な死去であったため、死亡直後の2月8日発売の「週刊ベースボール2月25日号増刊 2010プロ野球全選手写真名鑑」は小瀬のデータが記載されており、「2010スポニチプロ野球選手名鑑」のように、本文からは削除したものの索引には小瀬の名が残っているという事例もある。
[編集] プレースタイル
1年目は早いカウントでは高打率を記録した反面、2ストライクに追い込まれた時と対左投手では打率1割台と課題も残したが、2年目はファーストストライクの打率は.359, 2ストライク後の打率も.284と安定感を見せた。右投手に強い一方で左投手を苦手にしており(2009年は右投手に.325, 左投手に.211)、そのため2009年は左投手キラーの下山真二と併用されていた。
俊足巧打で強肩の外野手というプレースタイル、広角に打ち分けるバットコントロールの良さ、イチローがかつての所属していた球団という共通点の多さもあって生前から一部では「イチロー二世」と称されていた。かつて共にプレーした清原和博からも「いいバッティングセンスしてる。イチローの出始めに似てるよね」と評されていた[12]。
2008年12月6日に行われたオリックスOB総会に、現役選手でただ一人乗りこみ、福本豊に技術面での教えを乞うたところ「プレーがいいね」と評価を受けた。
[編集] 人物
試合後のヒーローインタビューなどではノリの良さが垣間見られ、ユニークな発言を連発していた。アレックス・カブレラが後ろにいたのに気が付かず、突然もみあげを引っ張られ、「痛っ!」と叫んでチームメイトらに大笑いされるなど、オリックスの選手たちの間ではいじられキャラとしてよく登場していた。特に、年の近い大引啓次・坂口智隆と仲が良く、ファン感謝祭では3人で羞恥心のパロディとして「Bs羞恥心」を結成し、踊りを披露していた。
イチローと共に自主トレをした際には「愛すべきキャラ。僕はちょっと好きなタイプ。どんな舞台でもできそう。すっとぼけてたしね」と評され、前述の「ホゼ」というニックネームを与えられている。しかし、その反面で真面目で繊細な性格の持ち主であったと言われている。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2008 | オリックス | 58 | 156 | 130 | 15 | 34 | 8 | 0 | 1 | 45 | 19 | 7 | 3 | 7 | 2 | 16 | 0 | 1 | 31 | 1 | .262 | .342 | .346 | .688 |
| 2009 | 78 | 216 | 198 | 24 | 60 | 9 | 1 | 0 | 71 | 11 | 7 | 3 | 4 | 3 | 11 | 0 | 0 | 40 | 0 | .303 | .335 | .359 | .693 | |
| 通算:2年 | 136 | 372 | 328 | 39 | 94 | 17 | 1 | 1 | 116 | 30 | 14 | 6 | 11 | 5 | 27 | 0 | 1 | 71 | 1 | .287 | .338 | .354 | .692 | |
[編集] 年度別守備成績
| 年 度 |
外野 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 2008 | 58 | 82 | 0 | 1 | 0 | .988 |
| 2009 | 72 | 101 | 1 | 1 | 0 | .990 |
| 通算 | 130 | 183 | 1 | 2 | 0 | .989 |
[編集] 記録
- 初出場・初先発出場:2008年7月15日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、9番・左翼手として出場
- 初打席・初安打:同上、3回表に小林宏之から遊撃内野安打
- 初盗塁:同上、5回表に二盗(投手:小林宏之、捕手:里崎智也)
- 初打点:2008年7月16日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、3回表に清水直行から中犠飛
- 初本塁打:2008年8月5日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(スカイマークスタジアム)、8回裏に久米勇紀から右越2ラン
[編集] 背番号
- 41 (2008年 - 2010年2月5日)
[編集] 脚注
- ^ 小瀬浩之外野手の訃報について - オリックス・バファローズ公式サイト
- ^ a b 日テレNEWS24 (2010年2月2003日). “オリックス・小瀬浩之選手が転落死、自殺か”. 日本テレビ放送網. 2010年2月5日閲覧。
- ^ a b 毎日新聞、2010年2月5日
- ^ みやざきフェニックスリーグ2009: オリックス・バファローズ アーカイブ
- ^ 毎日新聞、2010年2月7日
- ^ 小瀬「よければそれを使う」岡田バット導入を検討 スポーツニッポン、2009年12月3日。
- ^ オリ小瀬選手自殺か キャンプ宿舎飛び降り 日刊スポーツ、2010年2月6日。
- ^ 近大・榎本監督 教え子・小瀬の死に絶句 デイリースポーツ、2010年2月5日。
- ^ 小瀬さんの近大背番号「7」今年は欠番 日刊スポーツ、2010年2月7日。
- ^ イルカ→ヨッピ→買い物。 ダルビッシュ有オフィシャルブログ「Thoughts of Yu」
- ^ 訃報。 斉藤和巳オフィシャルブログ「ROUTE 66」
- ^ 復刻:清原ひと目惚れ!小瀬はイチローや 日刊スポーツ、2010年2月5日。
[編集] 関連項目
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