大滝秀治

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おおたき ひでじ
大滝 秀治
大滝 秀治
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
本名 大滝 秀治(おおたき ひでじ)
生年月日 (1925-06-06) 1925年6月6日
没年月日 (2012-10-02) 2012年10月2日(87歳没)
出生地 日本の旗 新潟県上越市
出身地 日本の旗 東京都[1]文京区本郷
死没地 日本の旗 東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 俳優ナレーター
ジャンル 舞台・テレビドラマ・映画・CM・ナレーション
活動期間 1950年 - 2012年
配偶者 あり
主な作品
テレビドラマ
うちのホンカン
特捜最前線
北の国から
独眼竜政宗
さくら
映画
男はつらいよ 葛飾立志篇
不毛地帯
犬神家の一族
悪魔の手毬唄
あにいもうと
影武者
瀬戸内少年野球団
お葬式
あなたへ
舞台
『審判』
『巨匠』
『浅草物語』
『らくだ』
CM
大日本除虫菊
 
受賞
日本アカデミー賞
ブルーリボン賞
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
助演男優賞
1976年『あにいもうと』
報知映画賞
助演男優賞
1976年『あにいもうと』
紀伊國屋演劇賞
個人賞
1970年『審判』
名古屋ペンクラブ賞年間賞
1973年
読売演劇大賞
最優秀男優賞
2005年『巨匠』『浅草物語』
文化庁芸術祭
大賞(演劇部門・関東参加公演の部)
2009年『らくだ』

紫綬褒章
1988年
勲四等旭日小綬章
1995年
文化功労者
2011年 多年に亘る演劇活動に対する功績を評して
備考
劇団民藝所属
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大滝 秀治(おおたき ひでじ[注釈 1]1925年大正14年〉6月6日[2] - 2012年平成24年〉10月2日)は、日本俳優ナレーター実業家位階正四位勲等旭日重光章文化功労者

株式会社劇団民藝代表取締役などを歴任した。

概要[編集]

本名同じ[3]。身長167cm[4]体重63kg[要出典]、血液型O型[4]。母親が里帰りしたため出生地は新潟県上越市[1]であるが、生まれてすぐ戻ったため出身地は東京・本郷[2]2011年(平成23年)に文化功労者として顕彰された。名優の一人として舞台・テレビドラマ・映画・テレビコマーシャルと60年以上にわたり幅広く活躍。劇団民藝に所属し、宇野重吉没後には奈良岡朋子と共に代表を担っていた[注釈 2]。1987年から1988年にかけて活動した女優の大滝久美は次女[5][6]。同期には奈良岡・内藤武敏がいる。

来歴[編集]

舞台俳優へ[編集]

4人兄弟の末っ子として生まれた[7]1943年(昭和18年)に旧制私立駒込中学校(駒込高等学校)を卒業して、三田の電話局に勤務した。1945年(昭和20年)に通信兵として召集される。戦後は大手町の電話局で、進駐軍を担当した。

帝国劇場で研究生募集のチラシを見たのがきっかけとなり(「23歳の頃に観たトルストイの舞台劇『復活』に感銘を受けたことがきっかけ」とも言われている[8])、1948年(昭和23年)に東京民衆芸術劇場附属俳優養成所に1期生で入所[2]後、1949年(昭和24年)に『風の吹く一幕』で初舞台を踏む[9]。しかし同劇団の創設者である宇野重吉から、大滝の甲高く、かすれた独特の声を指して「おまえの声は壊れたハーモニカのようだから、演劇には向かないと思う」と評され、演出部へ移った[9]

1950年(昭和25年)の民藝創設に参加し、旗揚げ公演のチェーホフの『かもめ』に出演[10]する。1952年(昭和27年)には『冒した者』の代役に起用されたことがきっかけで俳優に転じ[9]、正式に劇団員となったが長年裏方ばかりの不遇時代が続く。

1970年(昭和45年)の舞台『審判』で初主演に抜擢され[8]、作品のテーマである東京裁判に関する文献を買い込み必死に勉強した。この演技で第5回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。時に45歳での受賞であった。これが転機となり、以来民藝の看板俳優のひとりとして数多くの舞台に出演した。『巨匠』『浅草物語』『らくだ』などが舞台の代表作であり、演劇賞も多く受賞している(下述)。2011年(平成23年)には多年に亘る演劇活動に対する功績を評価され、文化功労者に推挙された[11]

映画・テレビドラマなどでの活躍[編集]

映画では1952年(昭和27年)に公開した新藤兼人監督の『原爆の子』など民藝がユニット出演した作品などに端役で出演していたが、1955年(昭和30年)の『ここに泉あり』でまともな役を演じた。当時、民藝が日活と提携契約していた関係で1960年代は日活のアクション映画などに、主に悪役で出演した。

1970年代以降も巨悪や黒幕役を数多く演じ、山本薩夫監督の社会派映画『華麗なる一族』『金環蝕』『不毛地帯』で大物政治家を演じる一方、今井正監督の『あにいもうと』では、主人公の父親役でブルーリボン賞の助演男優賞[2](『不毛地帯』の演技と共に受賞)、キネマ旬報賞の助演男優賞、第1回報知映画賞の助演男優賞を受賞。

映画では市川崑伊丹十三篠田正浩作品に常連として出演。特に市川作品では「金田一耕助シリーズ」全5作に皆勤出演した(2006年のリメイク版『犬神家の一族』にも出演している)、伊丹作品ではコミカルな役に起用されていた。1970年代半ばの大作ブームでは引っ張りだことなり、1977年から1979年の3年間で全国公開された大作の8割近くに出演した。

テレビドラマでは、悪役を経て、1970年のドラマ「わが青春のとき」(日本テレビ)で倉本聰作品に初出演[7]。以降、1975年から1981年にかけて地方の巡査を演じた『うちのホンカン』での主演(第1作は第23回日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞した)を筆頭に、倉本作品にも多く起用された。1977年からの8年間にわたっては『特捜最前線』でたたき上げの刑事・船村一平役でレギュラー出演[注釈 3]し、認知度が上がり人気を博した[7]。その後は、徹底した役柄の人物造形に年齢による渋みが加わった[4]

飄々ひょうひょうとしつつも時には激昂する」という独特の芸風が人気を集め、関根勤のモノマネレパートリーの1人としても知られるようになる。モノマネは大滝公認であり(大滝のファンの一部には、「関根は大滝先生を愚弄している」という者もいたが、大滝はこれに対し「あれは演じているのだから良い」と答えたという)、1999年には「真似(まね)して真似され二人旅」で関根との共演を果たしている。

江口隆哉の考案した体操でハップという掛け声を云わされたことからあだ名はハップで、奈良岡朋子などの仕事仲間から長年に渡りこの名前で呼び慕われていた[7]

2002年(平成14年)から俳優の岸部一徳と共演している大日本除虫菊(金鳥)のCMでは、迫真かつユーモラスな演技を見せ[4]、このCMは2004年(平成16年)に東京コピーライターズクラブ賞のグランプリを受賞した。先述のモノマネも、このCMのセリフが使用されることが多い。

やずやのCMの中では宇野に自らの声を「壊れたハーモニカ」と評された先述のエピソードを吐露している。これは暗に舞台演出家への転向を促されたものであった。大滝自身も自分は声も顔も悪く、若い頃より老け役を演じることが多かったと振り返っており[12]、様々な老人役を演じた。

死去[編集]

2011年(平成23年)暮れから体調不良になり、その後病院の診断を受けて2012年(平成24年)2月27日に右肺にがんが見つかった[4][8]。同年6月の舞台『うしろ姿のしぐれてゆくか』への出演を取りやめたため、2011年6月から7月にかけて行われた舞台『帰還』が、最後の舞台出演となった[10]

主治医から手術や放射線治療を勧められたが、本人は「体へのダメージが大きく、役者復帰に支障が出るから」と拒否し[8]、その後は抗がん剤治療に専念[注釈 4]。入院中は本を読み漁るようになり、次女の勧めで最後に読んだ漫画家・赤塚不二夫のエッセイ本『これでいいのだ』を気に入った[注釈 5]。2012年6月末に間質性肺炎を併発したが病状が安定した9月7日に退院し、自宅療養となった[8]

がんになる前は60kgあった体重が42kgにまで減っていた[8]。入院中にドラマ出演の依頼があり、その後の生活では「12月と来年1月にはロケだから体力をつけないと」と言ってカツ丼やステーキを食べるなど自分を奮い立たせていた[4]

しかし10月2日に容態が急変し、同日午後3時17分、肺扁平上皮がんのため東京都内の自宅で死去した[13]。87歳没。大滝の棺には、生前愛用していたセーターや鉛筆、同期女優の奈良岡朋子の手編みのマフラー、代表作『審判』・『巨匠』及び生前いつか演じたいと思い続けていた『なよたけ』の台本、上記の『これでいいのだ』の本が納められた[4]

同年10月22日港区の青山葬儀所でお別れの会が行われた[4]。この会には倉本聰、八千草薫など仕事関係者[注釈 6]や一般参列者を含む約980人が駆けつけた[14]。奈良岡朋子が葬儀委員長を務め、後輩女優の樫山文枝が司会を担当し、日色ともゑが弔電を紹介した。祭壇は故人の遺志で「シンプル」をテーマに、劇団民藝演出部が製作した[注釈 7]戒名は「瑞藝院秀聲居士(ずいげいいんしゅうせいこじ)」[14]。当時の天皇(現:上皇明仁)から、一般の香典にあたる祭粢料が贈られた[14]

また、最後の作品となった映画『あなたへ』で共演した高倉健[注釈 8]は、大滝との共演シーンで涙を流したと語っており、「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かった、と思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ(「久しぶりに、きれいな海ば見た」)の中に、監督の思いも、脚本家の思いも、みんな入ってるんですよね」と振り返っている[15]

人物[編集]

役者としての考え方[編集]

役者としてのモットーは、「役にふける、浸る、込める」。演じる役柄の人生を深く追求して[注釈 9]役作りをしていくスタイルだった。周りからは役を突き詰めているように見えたが、本人は多くの場合満足感を得ることはなかったという[7]

味わいのある庶民的な役柄でお茶の間を和ませたことから、視聴者からは「好々爺」という印象を持たれることがよくあった[7]。しかし意外にも大滝の演技の根源にあるのは実は狂気で、本人は「役者ってのは、心の中に何かしらの“狂気”というものを持っていないと表現できる分野を超えることができない」との考えを持っていた[7]

また、演じることの難しさに悩み多き役者人生を送っており、生前「今までどんな役でも、やって楽しいと思えたことは一度もないです」と語ったことがある [注釈 10]

「服(衣装)はその人物の歴史を表しているから、土地や仕事の匂いまで感じさせなくてはいけない」との考えを持っていた。『北の国から』ではリアリティを出すため、用意された衣装ではなく地元住民からジャンパーや帽子などを半ば強引に借りて撮影に臨んだ。このため撮影期間中は、周りから「追いはぎの大滝」と呼ばれていた[7]

周りからの評価など[編集]

倉本聰は、「大滝さんは役者としては大変な奇人。役の中に入り込むと他のことが全く見えなくなるヘンテコな人なんです」と評している[7]。倉本が自身の作品の中で特に大滝の演技が優れている役として、『北の国から』の北村清吉役と『前略おふくろ様』の岡野次郎兵衛役を挙げている[7]

倉本によると『北の国から』で大滝が演じる北村清吉の設定は、当初の脚本では「牧場経営者で、元は満州からの引揚者」という大雑把なことだけ書いていた。“引揚者の清吉がどういう理由で北海道の開拓に入ったか”を考えた大滝は、倉本との話し合いで台本にない過去を創作することで役柄に説得力を持たせた[7]。また、撮影期間中は一日の撮影が全て終わるまでは、カメラが回っていない休憩時間も大滝秀治ではなく清吉として過ごしていた[7]

北海道放送時代に倉本作品でプロデューサーを務めた長沼修は、「大滝さんは必ず撮影の数日前にはスタジオに入り、セットの中でセリフをブツブツと呟きながら身体に覚え込ませていました。大滝さんの佇まいは、まるでそこで何十年も暮らしてきたかのように溶け込んでいました」[注釈 11]と回想している。

劇団民藝の劇団員である内藤安彦[16]は、「芝居になると、日常とは違う次元に行ってしまうような人でした。大滝さんは『台本を手放したら俺はその役から遠くなる(気持ちが離れる)』と言って、台本をいつも持ち歩いてました」[7]と語っている。

その他[編集]

  • 生まれたときから髪が白に近い灰色で、眉も白かった。このため、中学受験時の保護者同伴の面接試験の前にはトイレへ母と入り、マッチを擦って消し炭にして眉を書いて臨んだ。しかし、面接官に「その眉はどうしたのかね」と尋ねられたことで途端に母に手を引かれ学校を出た。本人は「その晩、母は泣いていた」と書いている。
  • 若い頃に胸の持病があり、30歳の頃に左肺を切除している[8]
  • 奥村公延とは将棋仲間だった[17]
  • 倉本聰とは飲み友達。また倉本にとって、大滝は“芝居作りの師匠”と呼べる存在でもあった[7]
  • 奈良岡朋子とは、1948年に劇団民藝養成所の1期生として入団した同期生で、それ以来大滝が亡くなるまでの長年に渡り交流があった[7]
  • 好きな俳優は勝新太郎で、役を演じる時の迫力に惹かれていた[7]
  • 趣味は将棋のほか、クラシック音楽の鑑賞、落語浪曲を聞くこと。
  • 一般人からサインを頼まれた時はサインに加えて、時間がある時は自身の似顔絵や演じた役の印象的なセリフも一緒に書いていた[注釈 12]
  • 子供の頃から母親に大変可愛がられて育ったため、人見知りで知らない人と打ち解けるのに時間がかかった。普段は気が小さく心配症な性格で繊細な一面を持っていた[7]
  • 1955年に結婚し、世田谷区池尻の都営アパートで新婚生活を送った[7]。妻との間に長女と次女が生まれた。長女の夫は、舞台演出家の山下悟[4]

受賞[編集]

栄典[編集]

出演作品[編集]

舞台[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

劇場アニメ[編集]

  • チスト みどりのおやゆび(1990年、東映) - ムスタッシュ
  • カッタ君物語(1995年) - 長老
  • いのち輝く灯(1999年、北九州市&教育委員会&同和問題啓発推進協議会) - 盲目の老人・昭吉

ゲーム[編集]

  • 大玉(2006年) - ナレーション、家老

吹き替え[編集]

ドキュメンタリー[編集]

ナレーション[編集]

  • JOCX-TV+「ねこに、こんばんは。」(1990年10月 - 1991年9月、CX
  • 人間劇場「37歳序二段力士奮闘記あきらめてたまるか!」(1998年、テレビ東京)
  • ハイビジョンSL物語 走れ!鉄路の巨人 (2002年、NHK-BShi)
  • 体操の時間。(2007年 - 2009年、CX)
  • 街道物語(2008年 - 2009年、テレビ朝日・BS朝日)

CM[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 資料によっては、「おおたき しゅうじ」と表記している[2]
  2. ^ 法人の代表権は大滝が持つ形となり、奈良岡は取締役であった。
  3. ^ 黒澤明監督の映画『影武者』に出演した際には、撮影日程の都合から『特捜最前線』を離脱していた時期があった。
  4. ^ 長女の夫・山下悟は、この頃の大滝について「病気に体を蝕まれる怖さより、仕事ができないことが何よりも辛そうだった」と回想している[4]
  5. ^ 赤塚の本は、演技に自問自答してきた大滝にとって真逆のような内容だったが、「面白いね。これでいいんだね」と言っていたという[4]
  6. ^ その他主な参列者は、萬田久子夏木マリ阿部寛浅野忠信ガッツ石松小林亜星佐々木すみ江イッセー尾形多岐川裕美浅香光代白川由美降旗康男藤岡弘、
  7. ^ 白いユリやランなど1万本の花で飾られ、中央には白いカーネーションを使い劇団民藝のマークがかたどられた。遺影は、2010年の舞台『巨匠』のパンフレットで使用されたものが用いられた[14]
  8. ^ 本作は2012年に公開された後、映画出演がないまま高倉も2014年11月10日午前3時49分に亡くなったため、高倉にとっても遺作映画となった。
  9. ^ 生まれ育った環境や台本に書かれていない過去などを想像して。
  10. ^ 加えて、「私は不器用だから必死に役になり切ろうと努力するしかない。僕の場合はほとんどの芝居に実感を持てたことがなく、本番を終えると自分の演技に後悔ばかりしている。役をどう演じるかを考えると、いつも切羽詰まって追い詰められる」とも語っていた[7]
  11. ^ また、「ある日撮影所の守衛から『ロビーで独り言を言う人相の悪い男がいる』とドラマ班に電話が入った。恐る恐るロビーに行くと、それは集中するあまり険しい表情で黙々とセリフを練習する大滝の姿だった」とのエピソードも明かしている[7]
  12. ^ 亡くなる5日前にもファンにサインを書いていた[7]
  13. ^ ノンクレジット。
  14. ^ 映画遺作。
  15. ^ テレビドラマ遺作。

出典[編集]

  1. ^ a b 大滝秀治、谷古宇正彦(写真)『長生きは三百文の得 大滝秀治写文集』集英社クリエイティブ、2013年、5頁。ISBN 978-4-420-31066-6 
  2. ^ a b c d e f 東宝特撮映画全史 1983, p. 528, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ 平成23年度 文化功労者:文部科学省”. 文部科学省. 2011年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月12日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 大滝秀治さんの最期は「これでいいのだ」”. 日刊スポーツのネット記事 (2012年10月6日). 2022年2月24日閲覧。
  5. ^ 「2世タレント 華麗な身上書 目標は樹木希林さん 大滝久美」『週刊女性』7月26日号、主婦と生活社、1988年、53頁。 
  6. ^ 立木義浩写真館 家族の肖像 83回 大滝秀治一家」『週刊文春』5月24日号、文藝春秋、1990年。 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 週刊現代2022年2月19・26日号脇役稼業第3回・大滝秀治「狂気と裏腹な好々爺」p25-32
  8. ^ a b c d e f g 大滝秀治さん 死の直前、60kgだった体重が42kgになっていた”. 女性セブンのネット記事 (2012年10月12日). 2022年2月25日閲覧。
  9. ^ a b c “俳優・大滝秀治さん死去…枯れた老人役で存在感”. YOMIURI ONLINE. (2012年10月5日). オリジナルの2012年10月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121008024914/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121005-OYT1T00768.htm 2014年6月4日閲覧。 
  10. ^ a b “高倉健 : 大滝秀治さん死去にコメント「静かなお別れができました」”. MANTANWEB 毎日新聞デジタル. (2012年10月5日). オリジナルの2012年10月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121008062602/http://mantan-web.jp/2012/10/05/20121005dog00m200038000c.html 2014年6月4日閲覧。 
  11. ^ “文化勲章に丸谷才一さん、大滝秀治さんら功労者”. YOMIURI ONLINE. (2011年10月25日). オリジナルの2011年10月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111027224814/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20111025-OYT1T00329.htm 2014年6月4日閲覧。 
  12. ^ “俳優の大滝秀治さん死去 87歳、名脇役として活躍”. 朝日新聞DIGITAL. (2012年10月5日). オリジナルの2013年4月25日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130425015100/http://www.asahi.com/showbiz/news_entertainment/TKY201210050212.html 2014年6月4日閲覧。 
  13. ^ “俳優・大滝秀治さん死去…87歳”. デイリースポーツONLINE. (2012年10月5日). オリジナルの2012年10月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121028110933/http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2012/10/05/0005428425.shtml 2014年6月4日閲覧。 
  14. ^ a b c d 大滝秀治さんお別れの会に980人…倉本聰氏が別れの言葉”. スポニチアネックス (2012年10月23日). 2022年2月25日閲覧。
  15. ^ “【追悼】名優・大滝秀治を高倉健、降旗康男監督、三浦貴大が偲ぶ”. Walker plus. (2012年10月5日). https://moviewalker.jp/news/article/33704/ 2021年10月14日閲覧。 
  16. ^ [1]「劇団民藝」のウェブサイトより本人のプロフィール。
  17. ^ 「SPECIAL Interview 杉下竜之介役 奥村公延」『東映ヒーローMAX』Vol.5、辰巳出版、2003年、37頁、ISBN 978-4886418753 
  18. ^ 「秋の叙勲 俳優・大滝秀治さんと元プロボクサー・白井義男さんが喜びを語る」『読売新聞』1995年11月3日朝刊
  19. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 145, 「『呪いの館 血を吸う眼』作品解説/俳優名鑑」
  20. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 538, 「主要特撮作品配役リスト」
  21. ^ 大滝秀治 - オリコンCM出演情報

参考文献[編集]

外部リンク[編集]