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「ミッドウェー海戦」の版間の差分

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|strength1=航空母艦4<br />戦艦11<br />重巡洋艦10<br />軽巡洋艦6<br />駆逐艦53他<br />参加兵力10万
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|strength2=航空母艦3<br />重巡洋艦7<br />軽巡洋艦1<br />駆逐艦15<br />ミッドウェー島の基地航空隊
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|casualties1=航空母艦4、重巡洋艦1沈没<br />重巡洋艦1大破<br />駆逐艦1中破<br />戦死3,057(航空機搭乗員の戦死者は110名)
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== 日本の作戦決定の背景 ==
== 日本の作戦決定の背景 ==
=== 山本長官の作戦思想 ===
=== 山本長官の作戦思想 ===
日本海軍対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていたが、連合艦隊の司令長官であった[[山本五十六]]大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた<ref>大島一太郎大尉(後に大佐、昭和三年[[海軍水雷学校]]高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。</ref>。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している<ref>及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェ作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。</ref>。すなわち相当の危険性を承知の上でも、米国に対し、戦争で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。
日本海軍は、対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた<ref>[[#亀井戦記]]72頁</ref>。連合艦隊の司令長官であった[[山本五十六]]大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた<ref>[[#亀井戦記]]73頁</ref>。大島一太郎大尉(後に大佐、昭和三年[[海軍水雷学校]]高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェ作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知の上でも、米国に対し、戦争で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。


=== ミッドウェー作戦の着想 ===
=== ミッドウェー作戦の着想 ===
長官が懸念ていた通り昭和17年なってから米空母部隊はハワイを出撃し、その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされそのため、日本軍は[[マーシャル諸島]]、[[ウェーク島]]、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲は技量が低かったために被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。また、連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、[[黒島亀人]][[連合艦隊]]先任参謀を中心に作戦計画を立案した。
海軍は{{和暦|1941}}12月の[[真珠湾攻撃]]で米軍太平洋艦隊を行動不能とし、南方作戦に空母機動部隊を投入した。一方、米軍稼動状態にあった米機動部隊中部太平洋方面に出撃させた。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされる<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.9-10</ref>。日本軍は[[マーシャル諸島]]、[[ウェーク島]]、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。また、連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、[[黒島亀人]][[連合艦隊]]先任参謀を中心に作戦計画を立案した。


このミッドウェー作戦は空母の捕捉撃滅を主眼とし。それにはミッドウェ島を攻略し、米艦隊、特に空母部隊を誘い出すことが必要であった。日本軍が米軍の要点であるミッドウェ島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり、米空母部隊もまた出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。しかし日本軍は、ミッドウェイ島を占領してから確保は極めて困難であると考えていた。連合艦隊はあくまでこの作戦は米空母を撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、敵にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作までミッドウェイ島確保できると考えた。すなわち、こミッドウェイ島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の捕捉撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割定したであった
このミッドウェー作戦は米軍空母の捕捉撃滅を主眼としている。それにはミッドウェ島を攻略し、米艦隊、特に空母機動部隊を誘い出すことが必要であった。日本軍が米軍の要点であるミッドウェ<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.10-11</ref>を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.14-15</ref>現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。日本軍は情報分析の結果米軍の空母戦以下よう定した<ref name="一1航空艦隊13">「第1航空艦隊闘詳報(1)」pp.13</ref><ref name="草鹿回想126">[[#草鹿回想]]126頁</ref>


#空母レンジャーは大西洋で活動中。
[[大本営]]と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立し、黒島参謀は山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝したが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。山本長官は工業力で圧倒的に劣る日本がアメリカと講和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後[[ハワイ]]を占領し、アメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていた。それには、[[真珠湾]]攻撃で取り逃がし、その後の数回の空襲で捕捉、撃滅できずにいた米空母部隊を誘い出して決戦し、これを壊滅させることが絶対的に不可欠であると考えた。海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は伊藤次長に直接連合艦隊のミッドウェイ作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。そこで伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定し、ミッドウェイ諸島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。さらに後日アリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェイ作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意し、ミッドウェイ作戦の全体像が固まった。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。
#捕虜の言に依ればレキシントンは撃沈せられたる如きも西岸にて修理中と言へるものあり。
#エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。
#ワスプの存否については確証を得ず。
#特設空母6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の算あるも劣速にして積極的作戦に使用し得ず。


これをふまえ、日本軍はミッドウェー攻撃を行った場合出現する米軍規模を「空母2-3隻、特空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.13-14、「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」pp.8</ref>。米軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.18-19「軍令部所報に依るミッドウェー島所在敵航空兵力左の如し」</ref>、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もありえるとしている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.11、13</ref>。日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの確保は極めて困難であると考えていた。あくまでこの作戦は米空母を誘い出して撃滅することを目的とし<ref>「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」pp.10</ref>、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えた。すなわち、このミッドウェー島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の捕捉撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割に限定した作戦であった。同島占領の際には米軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.15</ref><ref name="澤地記録26">[[#澤地記録]]26頁</ref>。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.21-23</ref>。
[[5月5日]]に、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ[[大日本帝国陸軍|陸軍]]ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、[[宇垣纏]]参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された<ref>戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。</ref>。

当初珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月を要し、また瑞鶴も無傷であるものの参加した搭乗員の損耗が激しく、[[チューク島|トラック島]]に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(ただし日本側は先の珊瑚海海戦の結果4対2と認識)と、米軍より優勢であった<ref>しかしながらこの翔鶴・瑞鶴の2隻の運用については、後述のヨークタウンの事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。</ref>。
[[大本営]]と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立し、黒島参謀は山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝した<ref>[[#亀井戦記]]73頁</ref>。だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的に同盟国ナチスドイツを支援することを構想していたのである<ref>[[#川崎戦歴]]120頁</ref>。対する山本長官は、日本がアメリカと講和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後[[ハワイ]]を占領し、アメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていた。海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉安次参謀は伊藤次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。そこで伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定し、[[永野修身]]軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー諸島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった<ref>[[#亀井戦記]]74頁</ref>。さらに[[ドーリットル空襲]]を受けて軍令部も本作戦に本気となる<ref>[[#亀井戦記]]75頁</ref>。アリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェー作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意し、ミッドウェー作戦の全体像が固まった。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。

[[5月5日]]、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ[[大日本帝国陸軍|陸軍]]ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、[[宇垣纏]]参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。[[源田実]]第一航空艦隊航空参謀は[[渕田美津雄]]中佐に対し「第一段階作戦の後始末とこんがらがって、この作戦を検討する暇も無かった」と打ち明け、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという<ref>[[#淵田自叙伝]]195-196頁、[[#草鹿回想]]115-116頁</ref>。

当初、[[珊瑚海海戦]]の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」をミッドウェーに、大破した「[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]」を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし「翔鶴」の修理には3ヶ月を要し、また「瑞鶴」も無傷であるものの参加した搭乗員の損耗が激しく、[[チューク島|トラック島]]に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった<ref>[[#ヨークタウン]]146頁</ref>。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、米軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機150機を戦力にいれると、航空戦力比は米軍有利となる。この「翔鶴」・「瑞鶴」の2隻の運用については、後述のヨークタウンの事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。また米軍歴史学者[[ゴードン・ウィリアム・プランゲ]]博士はアリューシャン方面に空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」、「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」を投入したことが、[[山本五十六]]最大の失策だったと指摘している<ref>[[#プランゲ下]]226-227頁</ref>。


=== ドーリットル空襲 ===
=== ドーリットル空襲 ===
{{main|ドーリットル空襲}}
{{main|ドーリットル空襲}}
1942年[[4月18日]]ホーネットはミッドウェーで[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]](''USS Enterprise, CV-6'')と合流し、第16機動部隊は日本に向けて回頭した。エンタープライズは航空支援を担当し、ホーネットは敵水域に(日本近海まで)深く進入し、[[ジミー・ドーリットル|ドーリットル]]中佐率いる双発爆撃機B-25で編成された[[爆撃機|爆撃隊]]が[[東京]]を始めとする日本の主要都市を攻撃する予定であった。双発爆撃機を艦上から発艦させることは当時の戦術上、常識外のことであったが、合成風力を計算した結果、発艦可能であり、彼らはこの冒険を採用したのであった。また発艦は行い得ても着艦は不可能であった。これに関し、ドーリットル隊は空母へ戻らず、日本上空を突きぬけ、中国大陸の基地へ着陸する作戦を採った。当初の予定では機動部隊は日本の沿岸から400マイル以内まで進む予定であったが、4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇[[第二十三日東丸|第23日東丸]]に発見されている。[[巡洋艦]][[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュヴィル]](''USS Nashville, CL-43'')が日東丸を撃沈するが日東丸は米艦隊発見を報告しており、機動部隊の存在と位置は[[大日本帝国海軍|日本海軍]]に察知された。日本沿岸から600マイルの地点であったが、日東丸による発見は[[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将に、08:00に攻撃隊発艦を決意させた。
1942年[[4月18日]]、空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」はミッドウェーで空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]](''USS Enterprise, CV-6'')と合流し、[[第16任務部隊]]は日本に向けて進撃するエンタープライズは航空支援を担当し、ホーネットは日本本土に接近し、[[ジミー・ドーリットル]]中佐率いる[[B-25 (航空機)|B-25ミッチェル双発爆撃機]]で編成された[[爆撃機|爆撃隊]]が[[東京]]を始めとする日本の主要都市を攻撃する予定であった。4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇[[第二十三日東丸]]に発見され、[[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、「ホーネット」は大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。


B-25爆撃隊は、[[東京]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[大阪]]を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。[[セイロン沖海戦]]で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった<ref>[[#草鹿回想]]112-113頁</ref>。空襲による被害は微小であったが、日本上空に米軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。また米軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった<ref>三和義勇大佐(連合艦隊参謀)『三和日誌』、宇垣連合艦隊参謀長の日誌『戦藻録』</ref>。山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。[[渕田美津雄]]は、[[昭和天皇]]の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している<ref>[[#淵田自叙伝]]177-178頁</ref>。
爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、艦は猛烈に揺れ艦首からの波は[[飛行甲板]]と乗員達を濡らした。ドーリットル中佐に率いられた爆撃隊は、467フィートに及ぶ飛行甲板に固定されていたが、最後尾のB-25は扇形に搭載された。09:20までに日本の心臓部へ初の空襲を行う部隊として16機のB-25は全て発艦した。


=== 図上演習 ===
爆撃隊は、[[東京]][[名古屋市|名古屋]][[大阪]]を12時間かけて散発的に爆撃、中国の[[麗水]]の畑に燃料切れで不時着した。着陸予定地は中国領地の奥地だったが、予定より200マイル手前から発艦したため燃料切れが生じた。また、1機だけ[[ウラジオストク]]へ着陸したが、搭乗員は抑留された。
[[山本五十六]]の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った[[第一航空艦隊]](南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた<ref>[[#飛龍生涯]]290頁、[[#亀井戦記]]84-85頁、[[#草鹿回想]]120-122頁</ref>。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため<ref name="一1航空艦隊21">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.21</ref>、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していたのである<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.25「各艦は補充交替により個艦戦闘能力相当低下せるに加えて、各母港に於いて出撃の数日前まで整備しやりて、その技量低下は相当大なるものあり」</ref><ref>[[#亀井戦記]]85、91-92頁</ref>。[[山口多聞]]少将や[[源田実]]航空参謀をはじめとする南雲司令部は作戦延長求めたが、山本五十六以下連合艦隊司令部は却下した<ref>[[#草鹿回想]]121頁、[[#海軍功罪]]303頁</ref>。ミッドウェー海戦後の[[戦闘詳報]]では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している<ref name="一1航空艦隊21"/>。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評される程度<ref name="一1航空艦隊22">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.22-25</ref>。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.23-24「所謂基礎訓練を実施せるに過ぎず。編隊空戦は一部旧搭乗員をして3機程度のものを実施せり」</ref>。着艦訓練は訓練使用可能空母が「加賀」のみだけだった為、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分しかいなかった。[[戦闘詳報]]は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている<ref name="一1航空艦隊22"/>。


さらに4月28日から戦艦「大和」で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」における図上演習では、日本軍にとって不安な結果が出た<ref>[[#亀井戦記]]79頁</ref>。ミッドウェー基地の攻略に成功したものの、米軍基地航空隊の反撃によって空母「加賀」は爆弾9発命中判定で沈没判定となる<ref name="川崎母艦戦歴121">[[#川崎戦歴]]</ref>。[[宇垣纏]]参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、「加賀」を復活させた<ref name="川崎母艦戦歴121"/> 。こうして図上演習は続行となったが、今度は攻略部隊の燃料が不足し、艦隊がミッドウェー島に座礁する<ref>[[#亀井戦記]]82頁</ref>。アリューシャン方面では、空母「隼鷹」「龍驤」が濃霧の中、米軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となる<ref name="川崎母艦戦歴121"/>。図上演習は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母補足撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は山本五十六長官を含めて問題点を確認することなく作戦を発動した<ref name="川崎母艦戦歴121"/>。[[源田実]]は[[野中郁次郎]]との対談に於いて、作戦目標が米軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であることを指摘し、「山本五十六は大変立派な人物だが、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があった。その上、航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、なぜ大和と山本が後ろからついてくるのだ」と述べた<ref>[[#海軍功罪]]302-304頁</ref>。この事について草鹿はミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している<ref>[[#草鹿回想]]130頁</ref>。もっとも、多少の不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた<ref>[[#亀井戦記]]87頁、[[#草鹿回想]]122頁</ref>。坂上五郎(機動部隊機関参謀)によれば、ミッドウェー以降の作戦行動まで予定されていたという<ref>[[#亀井戦記]]88頁</ref>。
ホーネットは自艦の艦載機を飛行甲板に待機させ、全速力で[[真珠湾]]に向かった。日本語および英語両方の[[ラジオ放送]]を傍受し、空襲の成功は14:46に確認される。B-25を搭載してからちょうど一週間後にホーネットは真珠湾に帰港した。[[ドーリットル空襲]]による被害は微小であったが、日本上空にやすやすと敵機の侵入を許してしまったことは日本にとって大きな衝撃を与えた。また敵が航続距離の大きいB-25を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった<ref>このことは当時連合艦隊参謀であった三和義勇大佐の『三和日誌』、宇垣連合艦隊参謀長の日誌『戦藻録』より窺える。</ref>。山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。

5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令される<ref>[[#亀井戦記]]78頁</ref>。
#連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
#細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。


== アメリカ軍の対応 ==
== アメリカ軍の対応 ==
=== 情報収集と分析 ===
=== 情報収集と分析 ===
米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェ作戦に準備していた。昭和17年3月4日、太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]はオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い、同月11日にはミッドウェに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。(ただし実際には攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェ、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響した)
米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェ作戦に準備していた。昭和17年3月4日、太平洋艦隊司令長官[[チェスター・ニミッツ]]はオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い、同月11日にはミッドウェに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。実際には、日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェ、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。


[[真珠湾攻撃]]直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。昭和17年(1942年)4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に[[暗号解読|解読]]し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。しかし、その時点では時期・場所などの詳細が不明であった。5月ごろから暗号解読を進めるにつれて 通信解析の資料が増え、検討を繰り返し、作戦計画の全体像が明らかになると、解読文中に登場する略式符号「AF」という場所が、主要攻撃目標であることはわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。しかし、アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
[[真珠湾攻撃]]直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。昭和17年(1942年)4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に[[暗号解読|解読]]し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。しかし、その時点では時期・場所などの詳細が不明であった。5月ごろから暗号解読を進めるにつれて 通信解析の資料が増え、検討を繰り返し、作戦計画の全体像が明らかになると、解読文中に登場する略式符号「AF」という場所が、主要攻撃目標であることはわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。しかし、アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
[[Image:Japanese Attack at Dutch Harbor.jpg|thumb|250px|<small>爆撃されたダッチハーバー(6月3日)。</small>]]
[[Image:Japanese Attack at Dutch Harbor.jpg|thumb|250px|{{small|爆撃されたダッチハーバー(6月3日)。}}]]
[[ワシントンD.C.|ワシントン]]は攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊では[[サンフランシスコ]]だと考え、また[[アラスカ]]、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても、米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェが目標であるとの各種情報と戦略的な観点から予想し、ハワイ情報関係者(レイトン情報主任参謀)らも次第にミッドウェが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェ島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた(オアフ島、ミッドウェの間には海底電信もある)。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クワジェリン環礁の在第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェ島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された<ref>なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。[[半藤一利]]らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。</ref>。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェイの部隊に伝えたが、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]ではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の[[偽情報]]ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読はできなくなった。
[[ワシントンD.C.|ワシントン]]は攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊では[[サンフランシスコ]]だと考え、また[[アラスカ]]、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても、米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェが目標であるとの各種情報と戦略的な観点から予想し、ハワイ情報関係者(レイトン情報主任参謀)らも次第にミッドウェが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェ島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた(オアフ島、ミッドウェの間には海底電信もある)。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クワジェリン環礁の在第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェ島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。


なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。たとえば、沈没する空母「飛龍」から脱出後、米軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、米軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの[[飛鷹型航空母艦]]「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」の写真を見せられて仰天している<ref>[[#飛龍生涯]]308頁</ref>。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている<ref>[[#飛龍生涯]]309頁</ref>。
一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母「飛龍」では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997)21頁<br>。「空母『飛龍』の機関室 <small>真珠湾からミッドウェーへ</small>」 萬代久男「飛龍」機関長付少尉。</ref>。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「[[加古 (重巡洋艦)|加古]]」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑したと述べている<ref>高橋雄次『鉄底海峡<small>重巡「加古」艦長回想記</small>』(光人、1994)76頁</ref>。


また[[半藤一利]]らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェーの部隊に伝えたが、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]ではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の[[偽情報]]ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読はできなくなった。
=== 作戦準備 ===
ハワイ諸島とは、米国にとり太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェイはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェイを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。シマード中佐は、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は3027人に達した。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。


一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母「飛龍」では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997)21頁</ref>。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶したこともある<ref>[[#飛龍生涯]]277頁、浅川(飛龍主計長)談。</ref>。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、ある艦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという<ref>[[#亀井戦記]]93頁</ref>。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「[[加古 (重巡洋艦)|加古]]」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた<ref>高橋雄次『鉄底海峡{{small|重巡「加古」艦長回想記}}』76頁</ref>。[[白石萬]](第二艦隊参謀長)に至っては「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている<ref>[[#亀井戦記]]95頁</ref>。
日本海軍のミッドウェイへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」、「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、[[アッツ島]]、[[キスカ島]]などを占領、[[ダッチハーバー]]などを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェイに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第一に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第二に空母を撃破してミッドウェイ空襲を阻止、第三に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェイ守備隊は同島を死守などを述べた。しかし本作戦において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。

=== 作戦準備 ===
ハワイ諸島とは、米国にとり太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェーはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。シマード中佐は、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名を撃退するには十分な兵力だった<ref>[[#ヨークタウン]]163頁</ref>。


日本海軍のミッドウェーへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」、「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、[[アッツ島]]、[[キスカ島]]などを占領、[[ダッチハーバー]]などを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェーに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェー守備隊は同島を死守などを述べた。しかし本作戦において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。
[[Image:G13065 USS Yorktown Pearl Harbor May 1942.jpg|thumb|250px|<small>真珠湾のドックに入る空母「ヨークタウン」。</small>]]


[[Image:G13065 USS Yorktown Pearl Harbor May 1942.jpg|thumb|250px|{{small|真珠湾のドックに入る空母「ヨークタウン」。}}]]
第17任務部隊(TF-17)の[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、敵主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」を失い、「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」も中破するという犠牲を払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けていた(機関からの燃焼煙を正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せず、速力が低下していた)。また2発の至近弾により燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海で油槽船「ネオショー」をも失っていたため、この燃料漏れは重大な結果(海上で立ち往生)を招きかねなかった。


第17任務部隊(TF-17)の[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、日本海軍主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」を失い、「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」も中破するという犠牲を払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けていた。機関からの燃焼煙を正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せず、速力が24ノットに低下したのである<ref>[[#ヨークタウン]]137-141頁</ref>。また2発の至近弾により左舷燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海で油槽船「ネオショー」をも失っていたため、この燃料漏れは海上で立ち往生するという重大な結果を招きかねなかった<ref>[[#ヨークタウン]]141頁</ref>。
ニミッツ大将は、来たるべき侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに[[乾ドック]]に入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸の[[ワシントン州]]ブレマートン港で長期の修理を行う必要があるだろうとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、なんとか戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」が真珠湾を出撃した。そして「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。出航時、艦には修理工が乗ったままであり、航行中も修理が続けられた。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」(雷撃の損傷修理のため本国へ戻るときに飛行隊は降ろしていた)の隊と取り替えて乗船させるなど、ニミッツ大将の持ちうるすべての戦力を日本軍に向けさせるという信念と豪腕により、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。


ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに[[乾ドック]]に入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸の[[ワシントン州]]ブレマートン港で長期の修理を行う必要があるだろうとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」が真珠湾を出撃した。そしてヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。出航時、艦には修理工が乗ったままであり、航行中も修理が続けられた。乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している<ref>[[#ヨークタウン]]156頁</ref>。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は修理のため本国に戻る「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」の隊と取り替えて乗船させることで、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。
もしもニミッツ大将が準備できた空母が、(入院した[[ウィリアム・ハルゼー|ハルゼー]]中将に代わった)[[レイモンド・スプルーアンス|スプルーアンス]]少将の第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い<ref>後述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の戦闘可能空母をこの時点で2隻と見積もっており、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うとは夢にも思わなかった。</ref>。


もしもニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、「ワスプ」や軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うことを考慮していなかった<ref name="一1航空艦隊13"/>。
6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。


== 戦闘の経過 ==
== 戦闘の経過 ==
=== 日本軍のミッドウェー海域進出 ===
=== 前哨戦 ===
{{和暦|1942}}[[5月27日]]([[海軍記念日]])、[[南雲忠一]]海軍中将率いる第一航空戦隊([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]])、第二航空戦隊([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が[[広島湾]][[柱島]]から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.27</ref>。主力部隊他も2日後に同島を出撃している。三和義武(連合艦隊司令部次席参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる』と日記にしたためている<ref>[[#亀井戦記]]119頁</ref>。
5月26日、ミッドウェー島占領部隊輸送船がサイパンを出航した。海軍陸戦隊([[大田実]]海軍少将)と設営部隊、陸軍からは[[一木清直]]陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])他に護衛され、北上した。船団は6月5日には、ミッドウェー島から300海里の地点にいた。


5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦「[[千歳型水上機母艦|千歳]]」、駆逐艦「[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]」、「[[荒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」と共にサイパンを出航した<ref>「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」pp.4、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.29</ref>。海軍陸戦隊([[太田実]]海軍少将)と設営部隊、陸軍からは[[一木清直]]陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])他に護衛され、北上した。
海軍記念日でもある[[5月27日]]午前5時、日本の[[南雲忠一]]中将率いる第一航空戦隊([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]])、第二航空戦隊([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])を中心とする南雲機動部隊(第一機動艦隊)が[[広島湾]][[柱島]]から出撃、主力部隊他も2日後に同島を出撃した。


作戦では日本側の事前索敵計画として[[6月2日]]までに2個潜水戦隊で哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する[[第六艦隊]](潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第2潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第8潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第1潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。
作戦では日本側の事前索敵計画として[[6月2日]]までに2個潜水戦隊で哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する[[第六艦隊]](潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第2潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第8潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第1潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。


この為「海大型」で構成される第3・5潜水戦隊が担当する事になったが5潜戦は日本から[[クウェゼリン]]への回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された[[5月19日]]時点)予定期日に間に合うのは不可能、3潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは[[6月4日]]になってしまった。
この為「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが5潜戦は日本から[[クウェゼリン]]への回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された[[5月19日]]時点)予定期日に間に合うのは不可能、潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは[[6月4日]]になってしまった。特に第16任務部隊が[[6月2日]]に5潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。


次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。しかし[[二式大艇]]による[[ウェーク]]島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地が[[ウォッゼ環礁]]に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
特に第16任務部隊が[[6月2日]]に5潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。


最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である<ref>[[#飛龍生涯]]305頁</ref>。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、米軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した[[伊123潜]]は「見込み無し」という報告を送る<ref>[[#飛龍生涯]]306頁</ref>。これを受け[[第十一航空艦隊]]は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この作戦も、もし実施されていたらオアフ島に米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戦中止を連絡しなかった<ref>[[#飛龍生涯]]307頁</ref>。
次に予定されていたのは第24航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。しかし[[二式大艇]]による[[ウェーク]]島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地が[[ウォッゼ環礁]]に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。


6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符号を傍受した<ref>[[#亀井戦記]]177頁</ref>。腹痛に悩まされていた山本長官だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた<ref>[[#亀井戦記]]176頁</ref>。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた<ref>[[#亀井戦記]]179頁</ref>。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した[[亀井宏]]によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという<ref>[[#亀井戦記]]184頁</ref>。土井美二(第八戦隊首席参謀)は、[[草鹿龍之介]]参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し<ref>[[#亀井戦記]]39頁。亀井の取材に。</ref>、草鹿の回顧録にも同様の記述がある<ref>[[#草鹿回想]]123-124頁</ref>。
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦はオアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた24航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。(第1次は3月に実施)しかしこれは米側の暗号解読で察知され海域一帯に警戒艦艇が配置された為、潜入した[[伊123潜]]から「見込み無し」の連絡を受け[[第十一航空艦隊]]は5月31日21時23分に作戦中止を24航戦に指示した。この作戦ももし実施されていたらオアフ島に米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。


日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦「赤城」は「飛龍」、「蒼龍」、「榛名」、「霧島」の艦影を見失った<ref>[[#亀井戦記]]168頁</ref>。「飛龍」と「霧島」は衝突しかけたほどである。司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.28</ref><ref>[[#亀井戦記]]173-175頁、[[#草鹿回想]]133頁</ref>。無線の使用により米軍が南雲部隊の行動を察知したという批判が日本側にあるが、米軍側にこの通信を傍受した記録はない<ref>[[#プランゲ下]]216頁</ref>。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」を分離した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3</ref>。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.4「機動部隊信令第100号」</ref>。午後4時30分、「赤城」と「利根」が米軍機らしき機影を発見すると、「赤城」から3機の零戦が発進して迎撃に向かった<ref>[[#亀井戦記]]205頁、[[#澤地記録]]233頁</ref>。南雲部隊は、誤認の可能性が高いと判断している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.29</ref>。午後11時30分、「赤城」は雲間に米軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.5、[[#澤地記録]]234頁</ref>。「赤城」では日本軍輸送船団が爆撃を受けたことを知り、また米軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米軍空母に関しては無警戒であった<ref>[[#炎の海]]228-229頁、[[#草鹿回想]]133頁</ref>。
一方の米側は5月30日以降、ミッドウェー島の32機の[[PBYカタリナ]]飛行艇による哨戒が行われていたが6月3日9時頃(現地時間)1機が輸送船団と護衛の[[第二水雷戦隊]]を発見する。12時30分、ミッドウェー島から[[B-17]]爆撃機9機が発進、攻撃に向った。
16時23分、船団を発見した攻撃隊は爆撃を開始するが輸送船2隻が至近弾を受けたのみで損害も無かった。


=== 米軍の哨戒と日本軍輸送船団攻撃 ===
21時30分、オアフ島より増援されたPBY4機による雷撃隊が出撃。翌4日1時15分レーダーで船団を発見し1時43分雷撃を開始した。夜間だった事もあり完全な奇襲になり輸送船1隻に1本が命中したが航行に支障なくそのまま続行した。
米軍は5月30日以降、ミッドウェー島の32機の[[PBYカタリナ]]飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊と[[レイモンド・スプルーアンス|スプルーアンス]]少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の[[第二水雷戦隊]]を発見する<ref>[[#ヨークタウン]]168頁、[[#亀井戦記]]186頁</ref>。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊の[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]9機(ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った<ref>[[#亀井戦記]]190頁</ref>。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した<ref>[[#ヨークタウン]]168頁、[[#亀井戦記]]193頁</ref>。実際は輸送船「あるぜんちな丸」「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.3、「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」pp.22、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.36-37、[[#亀井戦記]]194頁</ref>。


(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見し(1:43)雷撃を開始した。夜間だった事もあり完全な奇襲になり、輸送船「清澄丸」が機銃掃射され、「あけぼの丸」に1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.4「月明かりを利用して来攻せる敵飛行機1機の雷撃により"あけぼの丸"艦首に若干の被害あり」、[[#亀井戦記]]197-198頁</ref>。この時、船団を護衛すべき第七戦隊([[栗田健男]]少将)の重巡洋艦4隻([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]])は船団を見失い、離れた地点にいた。これは栗田のミスではなく、[[田中頼三]]少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100浬地点を航行していたからである<ref>[[#亀井戦記]]198頁</ref>。
基地からの艦隊発見の報を受けた[[太平洋艦隊司令部]]では主力の機動部隊ではないと判断し第16・17両任務部隊に機動部隊と間違えて向わないよう緊急電を打つが司令官[[フランク・J・フレッチャー]]自身もそう判断して軽卒な行動は慎んでいた。19時50分には予想迎撃地点に向けて進路を変更している。


ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受けた[[太平洋艦隊司令部]]は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて向わないよう緊急電を打った。[[フランク・J・フレッチャー]]司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している<ref name="朝日ヨーク169">[[#ヨークタウン]]169頁</ref>。この段階では、フレッチャーも南雲機動部隊の位置を把握していなかった<ref name="朝日ヨーク169"/>。
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦[[大和]]に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符号を傍受した。夜に報告を受けた山本長官は直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えたが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。


=== 日本軍のミッドウェー島空襲 ===
=== 作戦開始 ===
[[Image:G17056 Oil tanks burn at Midway after japanese attack 4 june 1942.jpg|thumb|250px|<small>炎上するミッドウェー基地。</small>]]
[[Image:G17056 Oil tanks burn at Midway after japanese attack 4 june 1942.jpg|thumb|250px|{{small|炎上するミッドウェー基地。}}]]
[[Image:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|<small>B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「赤城」。</small>]]
[[Image:VT-6TBDs.jpg|thumb|250px|{{small|空母「エンタープライズ艦上のTBD雷撃隊}}]]
[[Image:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|{{small|B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「赤城」。}}]]
ミッドウェー作戦では、二つの時間が存在する<ref name="朝日ヨーク155">[[#ヨークタウン]]153頁</ref>。米軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらに米軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている<ref name="朝日ヨーク155"/>。日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。従って日本軍各艦各隊の[[戦闘詳報]]も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる<ref name="朝日ヨーク155"/>。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戦闘詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.7</ref>。


6月41時30分(現地時間米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った。同じ頃南雲機動部隊でも航空機搭乗員に対して朝食が出され、2時45分には搭乗員整列が下令、艦長や飛行長からの指示や注意事項が通達された。
日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った<ref>[[#ヨークタウン]]170頁</ref>一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や飛行長からの指示や注意事項が通達された。日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェーからPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンから[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス爆撃機]]からなる偵察隊が航空偵察に出撃した<ref name="朝日ヨーク171">[[#ヨークタウン]]171頁</ref>。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した<ref name="朝日ヨーク171"/>。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している<ref name="朝日ヨーク171"/>
4時15分、ミッドウェーからPBYによる哨戒隊、30分には第17任務部隊の[[ヨークタウン]]から[[SBDドーントレス]]からなる偵察隊が航空偵察に出撃した。


日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊([[友永丈市]]大尉指揮:[[零式艦上戦闘機]]36機、[[九九式艦上爆撃機]]36機、[[九七式艦上攻撃機]]36機、合計108機)を発進させた<ref name="一2航空艦隊6">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6</ref><ref name="亀井223">[[#亀井戦記]]223頁</ref>。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は盲腸手術を行ったばかりなので出撃できなかった<ref>渕田『渕田美津雄自叙伝』198頁</ref>。[[源田実]]航空参謀も風邪により熱を出していた<ref>[[#亀井戦記]]217頁</ref>。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始した<ref name="澤地記録26"/>。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日であり、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった<ref name="草鹿回想126"/>。
4時20分、準備の終えた南雲機動部隊は攻撃隊を発艦させる為に針路を風上にかえ空襲隊([[友永丈市]]大尉指揮:[[零式艦上戦闘機|零戦]]36機、[[九九式艦上爆撃機|九九艦爆]]36機、[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]36機、合計108機)が出撃した。


各空母からの発艦機数は、「赤城」から零戦9機、九九艦爆18機、「加賀」から零戦9機、九九艦爆18機、「蒼龍」から零戦9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、「飛龍」から零戦9機、艦攻18機である<ref name="亀井223"/>。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、pp.60、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.56</ref>。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった<ref>[[#亀井戦記]]224頁</ref>。艦爆には250kg通常爆弾、艦攻には航空機用魚雷が装着され、各空母甲板に並べられた<ref>[[#亀井戦記]]225頁</ref>。
また偵察機として空母[[赤城]]、[[加賀]]からそれぞれ1機、巡洋艦[[利根]]、[[筑摩]]から2機ずつ、戦艦[[榛名]]から1機索敵機が発進した。だが[[第八戦隊]]司令官[[阿部弘毅]]少将の判断で利根、筑摩は対潜哨戒につく[[二座水偵]]の発艦が優先された為、筑摩機は5分から8分発艦が遅れ利根機は1号機が12分、4号機は30分の遅れとなった。


また偵察機として空母「[[赤城 (空母)|赤城]]」 、「[[加賀 (空母)|加賀]]」から九七式艦攻各1機、重巡洋艦「[[利根 (重巡洋艦)|利根]]」、「[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]」から[[零式水上偵察機]]各2機、戦艦「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」から[[九五式水上偵察機]]が発進した<ref name="一1航空艦隊19">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.19「偵察隊編成。右の他、第8戦隊、2D/3S、十三試艦爆偵察あり」</ref><ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.29</ref>。だが[[第八戦隊]]司令官[[阿部弘毅]]少将の判断で「利根」は対潜哨戒につく[[九五式水上偵察機]]の発艦が優先された<ref>[[#橋本信号員]]119頁</ref>。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に[[零式水上偵察機]]が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進<ref name="一2航空偵察図">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.24</ref><ref name="澤地記録235">[[#澤地記録]]235頁</ref>。「利根」は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した<ref name="一2航空偵察図"/><ref>[[#澤地記録]]235頁、[[#亀井戦記]]229頁</ref>。[[戦闘詳報]]には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある<ref name="一1航空艦隊19"/><ref name="一2航空艦隊7">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.7</ref>。
最後に各空母より零戦1個小隊が直掩の為出撃した。(但し加賀の1機が故障のため飛び立てず合計11機となる)そして艦隊は針路を再びミッドウェーに向け進撃を開始する。この時点で空母には赤城、加賀は艦攻隊が雷装で待機。蒼龍、飛龍は艦爆隊が無装備で待機していた<ref>最近の調査で艦攻隊は連合艦隊の指導に基づき雷装状態、艦爆隊はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえどちらでも対応できるよう未装備状態で待機だった事が判っている。</ref>。 5時20分、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成をもって本日実施の予定」という信号が送られた。これは敵艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更してミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものだった。


最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩のため出撃した。このうち、「加賀」の零戦1機が故障のため飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。この時点で第一航空戦隊(赤城、加賀)は九七艦攻隊が雷装で待機、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は九九艦爆隊が待機していた。最近の調査で一航戦・艦攻隊は連合艦隊の指導に基づき雷装状態。二航戦・艦爆隊は[[セイロン沖海戦]]の戦訓を踏まえ陸上攻撃、艦船攻撃どちらでも対応できるよう未装備状態で待機だった事が判っている。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた<ref name="一2航空艦隊6"/><ref name="澤地記録237">[[#澤地記録]]237頁</ref>。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった<ref>[[#亀井戦記]]232頁</ref>。
5時15分ごろ、アディ大尉が操縦するPBYは日本軍水上機(利根1号機)を発見する。近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、5時30分頃南雲部隊を発見する。日本側もPBYを発見し5時32分、警戒隊の軽巡洋艦[[長良]]から、続けて支援隊の戦艦[[霧島]]から敵機発見の煙幕があがった。5時40分、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉が操縦する別のPBYもミッドウェー空襲隊を発見し報告している<ref>これらの発見を通報する無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが肝心の第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元に6時03にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受したからである</ref>。


午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍[[零式水上偵察機]] (利根4号機)を発見する<ref>[[#亀井戦記]]238頁</ref>。近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した<ref name="朝日ヨーク172">[[#ヨークタウン]]172頁</ref>。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」から、続けて戦艦「[[霧島 (戦艦)|霧島]]」から敵機発見の煙幕があがった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、[[#澤地記録]]237頁</ref>。南雲機動部隊は直掩零戦隊を発進させはじめたが、米軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉機を撃墜できなかった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6「0243:各艦戦闘機を発進」、[[#亀井戦記]]263頁</ref>。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいた別のPBY飛行艇(チェイス大尉機)もミッドウェー空襲隊を発見・報告した<ref>[[#ヨークタウン]]172頁、[[#亀井戦記]]239頁</ref>。米軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元に(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は「赤城」でも傍受している<ref>[[#橋本信号員]]121頁</ref>。
6時07分、ミッドウェー基地経由で敵空母発見の報告を受けたフレッチャーは直ちに行動を開始。[[エンタープライズ]]の[[スプルーアンス]]宛てに攻撃の指示を出した。3空母は直ちに準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズと[[ホーネット]]の攻撃隊発進を7時とした。


空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いて、[[TBF (航空機)|TBFアベンジャー雷撃機]]6機、[[B-26 (航空機)|B-26マローダー爆撃機]]4機、 [[SB2U (航空機)|SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機]]12機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]16機という混成攻撃隊が南雲部隊に向け発進した<ref>[[#ヨークタウン]]173頁、[[#亀井戦記]]240頁</ref>。午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」のスプルーアンスに対し攻撃を命令した<ref name="朝日ヨーク173">[[#ヨークタウン]]173頁</ref>。3空母は直ちに準備を開始、スプルーアンスは「エンタープライズ」と「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」の攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した<ref name="朝日ヨーク173"/>。
空襲が予想されるミッドウェー基地では6時、迎撃の戦闘機25機が出撃し、続いて6時04分以降各種航空機による攻撃隊が南雲機動部隊に向け発進した。


午前3時16分(06:16)、ミッドウェー上空の米軍戦闘機隊は接近する日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、直後に零戦隊が逆襲に転じて空中戦となった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30</ref>。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃した[[F2A (航空機) |F2Aブリュースター・バッファロー戦闘機]]20機のうち13機が撃墜され、[[F4F (航空機) |F4Fワイルドキャット戦闘機]]6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。米軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.20</ref>。映像撮影の為派遣されていた映画監督の[[ジョン・フォード]]などが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった<ref>[[#ヨークタウン]]174頁、[[#プランゲ上]]257頁</ref>。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している<ref>[[#川崎戦歴]]121-122頁。古田清人(赤城爆撃隊、千早大尉機操縦士)</ref>。日本軍攻撃隊は、米軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った<ref name="プランゲ上255">[[#プランゲ上]]255-256頁</ref>。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した<ref name="プランゲ上255"/>。友永大尉機も被弾して無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている<ref>[[#飛龍生涯]]349頁</ref>。米軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった<ref name="プランゲ上255"/>。
6時16分、ミッドウェー上空の直衛戦闘機隊が接近する日本軍空襲隊を発見。突撃体形を作る空襲隊を奇襲攻撃した。奇襲を受けた2航戦の艦攻隊は3機を落とされ3機が被弾したが直後に零戦隊が襲いかかり空中戦となった。約15分の空戦後制空権は完全に日本側となり空襲を開始、映像撮影の為派遣されていた映画監督の[[ジョン・フォード]]などが見守る中、日本軍は重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、対空砲台を破壊し基地施設に大打撃を与えた。米直掩機は10機が帰還するも8機は使用不能となり壊滅した。


攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し『カワ・カワ・カワ('''第二次攻撃の要あり''')』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.7、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31、[[#ヨークタウン]]174頁、[[#澤地記録]]240頁</ref>。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(07:49)、筑摩4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)<ref name="一2航空艦隊7"/><ref>[[#澤地記録]]239頁</ref>。午前5時55分、利根1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。米軍側記録によれば、「ヨークタウン」から発進した10機の索敵機である<ref>[[#プランゲ下]]12頁</ref>。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった<ref>[[#炎の海]]252頁、MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.10-13、pp.69(蒼龍戦闘概要)等参照。</ref>。日本軍主力戦闘機[[零式艦上戦闘機]]の主武装である「[[九九式二〇ミリ機銃]]」(20㎜機銃×2門)は1門あたり装填数60発しかない。頑丈な米軍機にも効果を発揮した20㎜機銃だが、携帯弾数の少なさは南雲部隊でも問題視されている<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.8</ref>。
攻撃の成果が不十分と判断した友永丈市大尉は7時、南雲機動部隊の旗艦である「赤城」に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。
南雲機動部隊では敵機に発見された事を受け5時32分前後より直掩機を増強(赤城・飛龍より計6機)直掩機は23機となる。5時55分、利根1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け更に6機を直掩に加えた。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。7時10分には利根からの報告を受け六空機の2機を含む16機が追加で直掩に加わっている。(同じく直掩の5機が補給の為帰還し1機が事故で失われたので直掩機は33機となる)


=== 日本軍の兵装転換と米軍基地航空隊の空襲 ===
そして友永機からの通報を受けた直後の7時05分、利根が接近する[[TBFアヴェンジャー]]6機と雷装した[[B-26]]爆撃機4機(共にミッドウェー基地所属機)を発見し警告射撃を実施。それに気付いた直掩の零戦3機が迎撃した。TBF6機は3機が直掩機により撃墜され残り2機も投下後に撃墜、狙われた飛龍は魚雷を全て回避した。赤城を狙ったB-26は1機を撃墜されるも3機が投下に成功、しかし此方も全てかわされた挙句更に1機を撃墜されてしまった。
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というように米軍機の継続的な空襲に悩まされていた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.24(蒼龍戦闘詳報)、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.22(飛龍戦闘詳報)</ref>。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦「[[利根 (重巡洋艦)|利根]]」は米軍重爆撃機10機を発見する<ref>[[#澤地記録]]241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8</ref>。米軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進した[[TBF (航空機)|TBF アベンジャー雷撃機]]6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えた[[B-26 (航空機)|B-26マローダー双発爆撃機]]4機(コリンズ大尉)だった<ref>[[#ヨークタウン]]175頁</ref>。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである<ref>[[#プランゲ下]]2頁</ref>。「赤城」と「利根」が発砲し、直掩の[[零式艦上戦闘機|零戦]]10機が迎撃する<ref>[[#澤地記録]]241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8</ref>。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した<ref>[[#プランゲ下]]5頁</ref>。空母「赤城」は米軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で「赤城」三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、「赤城」(旗艦)の通信能力に支障が生じた<ref>[[#澤地記録]]242頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8「0412:敵飛行機の機銃掃射を受け(中略)両舷送信用空中線切断、左舷使用不能」</ref>。「赤城」を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている<ref>[[#プランゲ下]]8頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.9</ref>。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。


ミッドウェー基地から陸上機による空襲友永大尉の報告をまえ南雲官はミッドウェーへの再空襲を決定。7時15分、艦隊に対し「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換と通知した。ただし2航戦には指示は出されおらず爆装せず待機のままだっ<ref>米側の2航戦の資料より。こ雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるので海戦前に飛龍で行われた実験では魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている)その後から艦爆の準備ても間に合う事と帰投する空襲隊の収容しなばならなかった為ある。</ref>。
ミッドウェー基地から発進した米軍陸上機による空襲は、同島基地戦力が健在である証拠であった<ref>[[#プランゲ下]]9頁</ref>。友永の報告をまえ、[[南雲忠一|南雲]]司令官はミッドウェー島基地への再空襲を決定する[[近藤信竹]]中将の率いるミッドウェー攻略部隊([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]])が6月7日に上陸を開始する前に、米軍基地航空戦力を壊滅させる必要に迫られたからである<ref>[[#淵田自叙伝]]202頁、[[#草鹿回想]]126頁</ref>。午前4時15分(07:15)南雲司令部は攻に魚雷を装備していた第一航空戦([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]])に対し<ref>第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31「(ミッドウェー)攻撃隊発進後、艦隊は第四編成(艦攻雷撃)にて水上艦艇に備えて居りしが」</ref>、『'''本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換'''』と通知した<ref>[[#澤地記録]]243頁、「第1空艦隊闘詳報(1)」pp.33「0415の発令より艦攻既に雷を80番陸に変更中」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.9「0415:第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装にえ」</ref>。搭載する九七艦攻のほとんどがミッドウェー空襲隊に加わり、[[九九式艦上爆撃機]]しか残っいない第二航空戦隊([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])に対しては、爆装せず待機が命じられ。{{要出典範囲|米側の航戦の資料よれば}}、雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるため、そ後から艦爆の準備を始めても間に合う事と、帰投する空襲隊の収容をしなければならなかった為ある。海戦前に飛龍で行われた実験では魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている<ref>[[#飛龍生涯]]347頁</ref>。燃料補給と弾薬補給る直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板ばならず、兵装転換作業は各空母格納庫行われた<ref>[[#亀井戦記]]273頁</ref>。


その頃、アメリカ海軍機動部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって、日本側より先に南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。スプルーアンス少将は7時過ぎ、指揮下の空母エンタープライズから[[F4Fワイルドキャット]]戦闘機10機(VF-6)、[[SBDドーントレス]]爆撃機33機(VB-6, VS-6)、[[TBD (航空機)|TBD デバステイター]]雷撃機14機(VT-6)、および空母ホーネットからF4F戦闘機10機(VF-8)、SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機、ほぼ全力の発進を開始した。しかし、7時28分に日本軍の偵察機(利根4号機)が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認したフレッチャー少将も、警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当だった)の収容を終えた後の8時30分に、空母ヨークタウンからF4F戦闘機6機(VF-3)、SBD爆撃機17機(VB-3)、TBD雷撃機12機(VT-3)の35機を発進させた。結果的にこのスプルス少将の決断が勝因の一つになる<ref>ヨークタウン攻撃隊だけは戦闘機爆撃機数が少ないのはつい一か月前の珊瑚海海戦の教訓から母艦を守る戦闘機の数増やすためとSBD装の偵察機隊(VS-5)用心のめ残ていからである</ref>。
その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官[[フランク・J・フレッチャー|フレッチャー]]少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャーはスプルーアンスに「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じた<ref>[[#プランゲ下]]40頁</ref>。スプルーアンス少将は午前4(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令。第16任務部隊の空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」から[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]10機(VF-6)、[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス急降下爆撃機]]33機(VB-6, VS-6)、[[TBD (航空機)|TBD デバステイター雷撃機]]14機(VT-6)、および空母ホーネットからF4F戦闘機10機(VF-8)、SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機発進した。しかし、午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機(利根4号機)が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンスは発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである。結果的に、このスプルーアンスの決断が勝因の一つになる。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将も、警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、空母「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」からF4F戦闘機6機(VF-3、指揮官ジョン・サッチ少佐)、SBD爆撃機17機(VB-3、マックス・レスリー少佐)、TBD雷撃機12機(VT-3、ランス・マッセイ少佐)の35機を発進させた<ref name="朝日ヨク185">[[#ヨークタウ]]185頁</ref>。「ヨークタウン」は(09:05)に攻撃隊を発進させる、すぐにウォリー・ショート大尉第5偵察隊(SBD17)、戦闘機6甲板に並べ発進準備を行っ<ref name="朝日ヨーク185"/>。また潜水艦「ノーチラス」は日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦「嵐」を雷撃すも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった<ref>[[#プランゲ下]]45頁</ref>。


740分、南雲機動部隊司令部に7時28分発利根4号「敵らしきもの10隻ゆ」の報告を受けた45分に南雲は「艦攻の装そまま」を下令し兵装転換を一時中断せ、47分は「接触維持せよ」と利根4号機に指示ている<ref>これについて生存者に南雲司令部に敵艦隊発見の報が届いたのは8時という証言が多いので以後の下令は戦闘詳報が作られた際の作文であるという説もある47分の命令は米側の戦闘情報班で傍受され記録が残っているので戦闘詳報の方が正しいと思われる</ref>。7時53分霧島から敵機発見を意味す煙幕が展開、[[ヘンダソン]]少佐指揮するミッドウェー所属SBD16機が襲来した。7時55分、同隊は直掩機の迎撃少佐機以下6機が撃墜、飛龍を空襲すも命中弾を得られず更に2機を失った
午前428(7:28)利根4号機は「[[赤城 (空母)|赤城]]」の南雲機動部隊司令部に対し、『'''敵らしきも10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬''' (南雲動部隊から200浬)』と発信した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.100428電信:敵らしきもの10隻、ミッドウェーより方位10度、240浬、針路150度、速力20節以上</ref><ref>[[#澤地記録]]24-25頁、244頁、246頁[[#ヨークタウン]]177頁、[[#プランゲ下]]13頁</ref>。約10受信した南雲部隊、午前4時45分(7:45)、魚から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.10「0445:敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装、其の侭」</ref><ref>[[#澤地記録]]24-25頁、[[#プランゲ下]]14頁</ref>。これについて草鹿参謀長は午前5時ちょうどに利根4号機報告を知ったと著作で述べているが<ref>[[#草鹿回想]]137-138頁</ref>、「赤城」の通信記録とは矛盾している。予期ぬ米艦隊発見報告に南雲司令部は興奮した<ref>[[#淵田自叙伝]]204頁</ref>。一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある<ref>[[#亀井戦記]]吉岡忠一(南雲機動部隊航空参謀)談。</ref>。午前4時47分、南雲司令部は「艦種確かめ触接せよ」と利根4号機に命令<ref>[[#澤地記録]]24-25頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.10</ref>。これについて生存者に南雲司令部に敵艦隊発見の報が届いたのは午前8時という証言が多いので以後の下令は戦闘詳報が作られた際の作文であるという説もある{{誰2|date=2011年6月}}。実際には午前4時47分の命令は米側の戦闘情報班で傍受され記録が残っているので戦闘詳報の方が正しいと思われる。<!-- また日本軍戦闘詳報とミッドウェー時間は約21時間ずれているので<ref name="朝日ヨーク155"/>、ミッドウェー現地時間6月4日午前8時は日本軍記録6月5日午前5時とな。両軍の戦闘レポト(戦闘詳報)に記入された日付時刻異なことは、ミッドウェー海戦研究混乱させ続てい<ref name="朝日ヨーク155"/>-->


利根4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たな米軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(現地時間7:53)、戦艦「[[霧島 (戦艦)|霧島]]」から敵機発見を意味する煙幕が展開され、[[ヘンダーソン]]少佐が指揮するミッドウェー基地所属の[[SBD (航空機)|SBD ドーントレス爆撃機]]16機が艦隊上空に到達した<ref>[[#澤地記録]]247頁、[[#プランゲ下]]15-16頁</ref>。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母「飛龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られず、合計8機を失った<ref name="プランゲ下17">[[#プランゲ下]]17-18頁</ref>。米軍側は「飛龍」に命中弾2、「加賀」に命中弾3を主張している<ref name="プランゲ下17"/>。米軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」が狙われたが、損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している<ref>[[#プランゲ下]]23頁</ref>。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した<ref name="朝日ヨーク177">[[#ヨークタウン]]177頁</ref>。最後に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の[[SB2U (航空機)|SB2Uビンディケーター爆撃機]]11機(ノリス少佐)による空襲が行われた<ref name="朝日ヨーク177"/>。この隊は零戦の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し、戦艦「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」を狙った<ref name="プランゲ下25">[[#ヨークタウン]]177頁、[[#プランゲ下]]25頁</ref>。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった<ref name="プランゲ下25"/>。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13-15</ref>。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した<ref>[[#プランゲ下]]27頁</ref>。
空襲は更に続き8時10分、B-17爆撃機14機による空襲が行われ赤城、蒼龍、飛龍が狙われるが損害は無かった。(B-17側も損害なし)最後に[[SB2U]]11機による空襲が8時17分より行われる。この隊は戦艦榛名を狙うが直掩機の迎撃で2機を失い命中弾もなかった。


===米軍機動部隊発見と2度目の兵装転換 ===
これら一連の空襲の最中、一向に連絡を寄こさない利根4号機に対し8時、南雲は「敵艦隊の艦種知らせ」と命じる。8時05分にはミッドウェー空襲隊が帰投してくるが空襲中であった為上空待機となった。
日本時間午前5時から午前5時30分(08:00から08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.21、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.8、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2</ref>。ちょうど米軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。「赤城」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している<ref>[[#炎の海]]248頁</ref>。混乱した状況下、南雲は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた<ref>[[#澤地記録]]249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32</ref>。すると午前5時20分ごろ、『'''敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻'''(0509発信)』という報告があった<ref>[[#澤地記録]]249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13</ref>。この段階での南雲司令部は、米軍空母が存在するという確証を持っていない<ref>[[#プランゲ下]]22頁</ref>。しかし、午前5時30分(08:30)、『'''敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬'''(発午前5時20分)』との打電が入った<ref>[[#澤地記録]]251頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32 、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14</ref>。この空母は「ホーネット」である<ref>[[#プランゲ下]]43頁</ref>。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。


[[草鹿龍之介]]参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている<ref>[[#草鹿回想]]138頁、[[#亀井戦記]]295頁、[[#プランゲ下]]28頁</ref>。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。午前5時30分(08:30)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾を揚弾する<ref name="澤地記録252">[[#澤地記録]]252頁</ref>。同時刻、南雲は山口に対し、空母「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」に2機だけ配備されていた試作高速偵察機[[彗星 (航空機)# 試作機による審査と実戦投入|十三試艦上爆撃機]]の投入を命じ、同機はただちに発進した<ref>[[#亀井戦記]]298頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.66</ref>。この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。利根4号機などの[[零式水上偵察機]]は最高速度367km/h、米軍主力戦闘機[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット]]の最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時の米軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち帰ることができた。
=== 急降下爆撃 ===
[[Image:VT-6TBDs.jpg|thumb|250px|<small>空母「エンタープライズ」艦上のTBD雷撃隊。</small>]]
8時9分になって利根4号偵察機から、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻なり」といった続報がようやく届き危急性はないと判断された。しかし、8時20分に、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う」との打電が入った。
[[Image:SBDs and Mikuma.jpg|thumb|250px|<small>[[重巡洋艦]] [[三隈]]に急降下爆撃を行う[[SBD ドーントレス]]</small>]]
ただ偵察機の報告によれば敵までの距離はまだ遠い(実際は敵はもっと近くにいた)のと兵装転換自体7時15分の転換開始から45分の一時中止まで30分しかたっておらず殆どしていなかった(赤城で6機、加賀で9機が済んでいたのみ)ので再変更及び2航戦の爆装は短時間で済む事、上空待機中の空襲隊の燃料がつき掛けておりこれ以上待たせる事は出来ない事、飛行甲板はこの時点でクリアーであり着艦作業はすぐ行えた事、などを考慮し首脳部は間に合うと判断、8時30分に空襲隊を収容し攻撃隊を準備、2航戦に爆装指示と準備が出来るまで艦隊を北上させるという命令を下した。


午前5時30分(08:30)、偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が帰還した。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する<ref name="一2航空艦隊15">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15</ref>。さらに直衛戦闘機の燃料補給、弾薬補給も絡み、第二次攻撃隊の発進は遅れていった<ref>[[#橋本信号員]]133頁</ref>。午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る<ref>[[#澤地記録]]252頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14、pp.16</ref>。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた<ref>[[#澤地記録]]256頁、[[#亀井戦記]]298頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15-16</ref>。阿部少将は第八戦隊([[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]])に交代の偵察機発進を命じると<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15「タナ2、零式水偵を発進、利根4号機の発見せし敵に触接せしめよ」</ref>、利根4号機に「帰投まて」を命じた<ref>[[#澤地記録]]257頁、[[#亀井戦記]]298頁</ref>。[[零式水上偵察機]]の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を利根4号機に命じた<ref>[[#澤地記録]]256頁、[[#亀井戦記]]299頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16</ref>。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった<ref>[[#プランゲ下]]37頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16</ref>。
直後、第二航空戦隊を率いていた[[山口多聞]]少将は、「現状況は一分一秒を争う。空襲隊を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ用意でき次第攻撃隊を出すべき」との考えから、信号で駆逐艦[[野分]]を中継して「直ちに発艦の要ありと認む」と進言したが却下された<ref>通説ではこの進言時点で各空母は兵装転換を終え飛行甲板に並んでいたかのようにされているがJ・パーシャルやA・タリーの調査によりこの直前のBー17の空襲で撮影された蒼龍と飛龍の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能だという事がわかっている。又仮に出撃させたとしても相次ぐ直掩機の増強で艦内に戦闘機がなく護衛が付けられないので米迎撃機によって攻撃前に大損害を蒙った可能性が高い。また米軍の高いダメージコントロール能力により陸用爆弾でどこまで米空母を無力化できたかは疑問である</ref>。
8時37分、各空母は空襲隊の収容を開始する。


ただ偵察機の報告によれば米軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際の米軍機動部隊はもっと近くにいた)のと兵装転換自体、午前4時15分の転換開始から午前4時45分の一時中止まで30分しかたっておらず、殆どしていなかった。これについて[[淵田美津雄]]は敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたと述べている<ref>[[#淵田自叙伝]]203頁</ref>。実際は「赤城」で6機、「加賀」で9機が済んでいただけだという。南雲司令部は幾つかの条件を検討した<ref name="淵田自叙206">[[#淵田自叙伝]]206頁</ref><ref name="亀井296">[[#亀井戦記]]296-297頁</ref><ref name="プランゲ下30">[[#プランゲ下]]30-31頁</ref>。
収容中の8時45分、利根4号機から「われ帰途に着く」という電報が届く。第八戦隊の阿部司令は交代の偵察機発進を筑摩に命じると共に「帰投まて」を命じ、南雲も無線方位測定ので位置を把握する為長波の輻射を利根4号機に命じるが同機は8時55分に雷撃機発見の報のみを行い輻射は行わなかった。


#九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である<ref name="プランゲ下30"/>。
空襲隊を収容した各空母は直ちに敵空母攻撃へ向け準備を開始する。南雲の元には1航戦で10時半、2航戦で11時には準備が終了すると報告が入る。この状況下、9時20分頃にウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊15機が日本の機動部隊上空に襲来する。この時点で直掩機は18機に減少していたが直ちに加賀6機、蒼龍3機が迎撃に上がる。部隊毎に進撃したので連携が取れず戦闘機隊とはぐれていたホーネット雷撃隊は護衛の無いまま蒼龍を狙うが対空砲火と直掩機により全機が撃墜され不時着水した機体から負傷しつつも脱出したゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した<ref>ホーネットの戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い8時25分の雷撃隊の針路変更に気付かず、南雲部隊も発見できなかったので帰投を決意、燃料不足の為戦闘機隊とSBD13機はミッドウェー基地へ向うが燃料切れで戦闘機全機とSBD2機が不時着水する。残りのSBD20機はかろうじでホーネットに帰艦した。</ref>。
#第二航空戦隊([[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])の[[九九式艦上爆撃機|九九艦爆]]の爆装は短時間で行える。
#上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料がつき掛けており、これ以上待たせる事は出来ない<ref name="亀井296"/>。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である<ref name="プランゲ下30"/>。
#敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るために殆ど発進しており、一度着艦して補給する必要がある<ref name="亀井296"/>。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない<ref name="プランゲ下30"/>。
#戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを[[珊瑚海海戦]]や米軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない<ref name="淵田自叙206"/><ref name="プランゲ下30"/>。


零戦の護衛をつけずに攻撃隊を出すこと、第一次攻撃隊を見捨てることについて、南雲機動部隊参謀達の悩みは大きかった。[[草鹿龍之介]]参謀長は「一切の人情を放棄して第二次攻撃隊を発進させねばならなかったが、出来なかった」と述べている<ref>[[#草鹿回想]]138頁</ref>。[[源田実]]航空参謀は「機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになる。歴戦の搭乗員達の回収を優先させる」と判断し<ref>[[#海軍功罪]]123頁</ref>、後に「部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わった」と後悔している<ref>[[#海軍功罪]]124頁</ref>。図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えなかったという<ref>[[#海軍功罪]]307頁</ref>。
その間利根4号機から再度「帰投する」と連絡が入り阿部司令は「交代機のつく10時まで待て」と命じるが「我できず」との返答を受けたので帰還を許可した。その為一時的に米艦隊の接敵を中断する事になる。(現場に向かった蒼龍搭載の彗星試作機が再接敵するのは11時半頃)


上記の項目を考慮した南雲司令部は、米艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行えると判断した<ref name="プランゲ下30"/>。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた<ref name="一2航空艦隊16">[[#澤地記録]]257頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16「午前5時55分:タナ10収容終わらば一旦北に向へ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」→KDB(午前6時13分受信)、第二艦隊・連合艦隊(午前6時30分受信)</ref>。同時刻、重巡洋艦「[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]」から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16「筑摩艦長→8S(午前6時20分光):午前6時30分発進の予定。(午前6時53分光)タナ5、5号機発艦(午前6時35分)」</ref>。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.33、[[#橋本信号員]]135頁</ref>。
9時40分、リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が来襲。通信不良や連係ミスで戦闘機隊の援護が受けられなかった同隊は加賀を目標にするが30機もの直掩機の迎撃で10機を失い29名が戦死し命中弾も得られなかった<ref>戦闘機隊の連係ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。</ref>。(但し直掩の零戦1機を撃墜している)


直後、第二航空戦隊を率いていた[[山口多聞]]少将は、「現状況は一分一秒を争う。第一次空襲隊100機を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ、用意出来次第攻撃隊を出すべき」との考えから、駆逐艦「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」を中継して『'''直ちに攻撃隊発進の要ありと認む'''』と進言した<ref>[[#草鹿回想]]138頁、[[#橋本信号員]]132頁、[[#飛龍生涯]]362頁</ref>。だが、山口の提案は前述の南雲司令部の検討により却下された。[[源田実]]の証言や[[淵田美津雄]]の著作では、この進言時点で第二次攻撃隊の準備は完成し、空母「赤城」と「加賀」の甲板に[[九七式艦上攻撃機]]、空母「飛龍」と「蒼龍」の甲板に[[九九式艦上爆撃機]]が並んでいたかのように述べている<ref>[[#海軍功罪]]123頁(源田実「心を鬼にした理由」)、[[#淵田自叙伝]]206頁</ref>。実際にはJ・パーシャルやA・タリーの調査により、この直前のBー17の空襲で撮影された「蒼龍」と「飛龍」の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能だという事がわかっている。また仮に出撃させたとしても相次ぐ直掩機の増強で艦内に戦闘機がなく護衛が付けられないので米軍迎撃機によって攻撃前に大損害を蒙り、[[珊瑚海海戦]]の二の舞だった可能性が高い。また米軍の高いダメージコントロール能力により陸用爆弾でどこまで米空母を無力化できたかは疑問である。
10時10分頃に襲来したマッセイ少佐指揮のヨークタウンの雷撃機隊12機が、飛龍を攻撃する。唯一戦闘機隊の護衛がつく事が出来ていた同隊では戦闘機隊指揮官[[ジョン・S・サッチ]]少佐の発案した対ゼロ戦空戦戦術「サッチ・ウィーブ」が初めて試され、5機を撃墜する成果を挙げたが数の差が歴然としていた(この時点での直掩機は30機以上でその内の20数機が襲いかかってきたがヨークタウン戦闘機隊は6機だけだった)ので雷撃隊全てを護衛できず10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名が戦死した。戦闘機隊も1機を失っている<ref>20機以上の零戦に6機で挑み5機を撃墜し損害1という結果はこの戦法の有効性を証明し米戦闘機隊隊員に自信を持たせた。サッチ・ウィーブが浸透していくにつれ米戦闘機隊は無敵零戦と互角に渡り合うようになっていく。</ref>。


=== 米軍艦載機の攻撃(雷撃) ===
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.21、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.17、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2</ref>、「蒼龍」では午前6時50分頃までかかっている<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.50、57、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.55、57</ref>。南雲は連合艦隊([[山本五十六]]長官)に米軍空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する<ref>[[#プランゲ下]]36頁</ref>。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊[[TBD (航空機)|TBD デバステイター雷撃機]]14機が日本の機動部隊上空に到達<ref>[[#プランゲ下]]48頁</ref>、日本側では「赤城」や「筑摩」が確認した<ref name="一2航空艦隊敵機17">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.17-18</ref>。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19-20</ref>。米軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま「赤城」を狙った。一機の雷撃機は「赤城」の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は「(敵機が)体当たりするかと思い、もう駄目だと思った」と述べている<ref>[[#プランゲ下]]49頁</ref>。デバステーター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した<ref name="朝日ヨーク182">[[#ヨークタウン]]182頁、[[#プランゲ下]]46頁</ref>。ゲイ機は「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる<ref>[[#プランゲ下]]50頁</ref>。戦闘後の[[名誉勲章]]推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる<ref>[[#プランゲ下]]51頁</ref>。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった<ref name="朝日ヨーク182"/>。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機は「ホーネット」に帰艦した<ref name="朝日ヨーク182"/>。


午前6時37分(09:37)、利根4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入り<ref>[[#澤地記録]]264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19、20</ref>、阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した<ref name="一2航空艦隊20">[[#澤地記録]]264頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.20、21</ref>。同時刻、利根4号機と交代すべく筑摩5号機が発進した<ref name="一2航空艦隊20"/>。午前7時(10:00)、十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した<ref>[[#澤地記録]]266頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.66「午前7時8分:索敵線上敵を見ず帰途につく」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.22「午前7時(機動部隊受信午前7時15分):タナ1、敵を見ず。我れ(蒼竜偵察機)ミッドウェー島よりの方位20度距離290浬(午前7時)」</ref>。
その頃先に発艦していた[[クラレンス・マクラスキー|マクラスキー]]少佐率いるエンタープライズ爆撃機隊33機は日本の機動部隊を見つけられず、予想海域の周辺を捜索した。その時、駆逐艦「嵐」を発見する。ただし「嵐」の戦友会は、同時刻の嵐は赤城直衛で傍を離れていなかったと結論づけている<ref>生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』150頁</ref>。この駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、10時20分頃日本の機動部隊を発見した。


午前6時50分(09:50)、ジーン・リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した<ref name="朝日ヨーク186">[[#ヨークタウン]]186頁、[[#BIG E上]]119頁</ref>。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズ雷撃隊を掩護できなかった<ref>[[#BIG E上]]118頁</ref>。エンタープライズ雷撃隊は「加賀」を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する<ref>[[#BIG E上]]120頁</ref>。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連係ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている<ref>[[#プランゲ下]]57頁</ref>。
10時23分、レズリー少佐率いるヨークタウン爆撃機隊も戦場に到着、エンタープライズ爆撃機隊とヨークタウン爆撃機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃機隊に対応して直掩機のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機<ref>「この時、甲板上には発進準備を終えた攻撃隊が整列しており、敵の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」という「運命の5分間」説が巷間に広まっているが、これは誤りである。日米生存者の証言や戦闘詳報の調査によりこの時点では各空母は直掩機の発着艦を行っており攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった(草鹿あるいは[[淵田美津雄]]による脚色とも言われている)。</ref>に気をとられていたため発見が遅れ「敵、急降下!」と見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。


(10:10)、マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃機隊が南雲部隊上空に到達した。「飛龍」は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという<ref name="朝日ヨーク188">[[#ヨークタウン]]188頁</ref>。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した「飛龍」を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した<ref name="朝日ヨーク187">[[#ヨークタウン]]187-190頁</ref>。その上空では、戦闘機隊指揮官[[ジョン・S・サッチ]]少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術「サッチ・ウィーブ」が初めて試されようとしていた<ref>[[#プランゲ下]]59頁</ref>。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである<ref name="朝日ヨーク187"/>。雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、「飛龍」に魚雷5本を発射したが、全て回避された。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜という米軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという<ref name="朝日ヨーク187"/>。プランゲ博士の著作では「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している<ref>[[#プランゲ下]]60頁</ref>。生還したら雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している<ref name="朝日ヨーク188"/>。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる<ref name="朝日ヨーク188"/><ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.47「所見:敵雷撃機に味方戦闘機過集中の傾向大なり」</ref>。この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦「嵐」に救助され重大な情報を供述したが、それについては後述する。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊25機で加賀を狙った。日本艦隊はまったく気付かず降下途中で発見し対空砲が火をふいた。マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが続くギャラファー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中、続いて3発が短時間の内に命中した。
 
=== 米軍艦載機の攻撃(急降下爆撃)、日本軍三空母炎上 ===
その頃、[[クラレンス・マクラスキー]]少佐率いるエンタープライズ艦爆隊[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のため飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた<ref>[[#BIG E上]]122頁、[[#プランゲ下]]64頁</ref>。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する<ref>[[#BIG E上]]123頁</ref>。午前6時55分(09:55)、米軍潜水艦「ノーチラス」を攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦「嵐」を発見する<ref>[[#ヨークタウン]]191頁、[[#BIG E上]]124頁</ref>。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する<ref name="プランゲ下66">[[#プランゲ下]]66頁</ref>。「嵐」は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.19</ref>。ただし「嵐」の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、「嵐」は「赤城」直衛で傍を離れていなかったと主張している<ref>[[#大和最後の艦長]]150頁</ref>。エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した<ref>[[#ヨークタウン]]191頁</ref>。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった<ref name="プランゲ下66"/>。


日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、レズリー少佐率いるヨークタウン艦爆機隊も戦場に到着する。南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆機隊とヨークタウン艦爆機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃機隊に対応して直掩[[零式艦上戦闘機|零戦]]のほとんどが低空に降りており<ref name="朝日ヨーク188"/>、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.39「各母艦共主としてこの雷撃機に対し回避しありし時」</ref>、「敵、急降下!」と「加賀」見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった<ref>[[#川崎戦歴]]、[[#プランゲ下]]67頁</ref>。「被弾した時、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と[[草鹿龍之介]]や[[淵田美津雄]]は主張している<ref name="淵田自叙206">[[#淵田自叙伝]]206-207頁、[[#草鹿回想]]139頁</ref>。これにより、いわゆる『'''運命の5分間'''』説が巷間に広まっているが<ref name="淵田自叙206"/>、これは誤りである<ref>[[#澤地記録]]20頁</ref>。日米生存者の証言や戦闘詳報の調査によりこの時点で各空母は直掩機の発着艦を行っており、攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった<ref>[[#澤地記録]]28-29頁、[[#橋本信号員]]138頁</ref>。草鹿や淵田の脚色とも言われている。
10時24分、レズリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始する。発艦直後のアクシデントで少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが自ら先頭にたって突入した。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾が蒼竜前部エレベーター前に命中し大爆発、続けて2発が命中した。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]の後部に至近弾となった。磯風は重油タンクに海水が混入し、一時的に航行不能となった<ref>井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』39頁</ref>。


先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊30機で、「加賀」を狙った<ref>[[#BIG E上]]125頁</ref>。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった<ref>[[#澤地記録]]270頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.25「0723:〃左50度敵航空機加賀に急降下爆撃」</ref>。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラファー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中する<ref name="big上126">[[#BIG E上]]126-127頁</ref>。続いて3発が短時間の内に命中した<ref name="一1航空艦隊41">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.41</ref><ref name="big上126"/>。なお「加賀」を攻撃したのはレズリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張する米国研究者もいる<ref>[[#ヨークタウン]]193-196頁「日本空母に痛打」</ref>。
同時刻、ヨークタウン艦爆隊の内ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦の赤城を狙った。10時26分、あわてて零戦1機が赤城より発艦したが既にベスト大尉機は突入しており手遅れだった。2発の爆弾が命中して大火災が発生する。


午前7時25分(10:24)、レズリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始する<ref name="一1航空艦隊44">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.44</ref><ref name="プランゲ下77">[[#プランゲ下]]77頁</ref>。「蒼龍」は艦爆12-13機と記録<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.44、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.42「0725:敵艦爆(12機)、母艦上空高度4000米に発見、爆撃により母艦に3弾命中火災」</ref>。発艦直後のアクシデントで少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」に突入した<ref>[[#プランゲ下]]75頁</ref>。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾が「蒼龍」前部エレベーター前に命中し大爆発し、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た<ref name="プランゲ下77"/>。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である<ref name="プランゲ下77"/>。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」の後部に至近弾となった<ref>[[#井上 磯風]]39頁</ref>。
約6分間のできごとであったが、太平洋戦争の転換点となる6分間となった。加賀では艦橋近くの命中弾により、燃料車が爆発して艦橋が破壊され、中にいた[[岡田次作]]艦長以下指揮官らが戦死した。13時23分、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた[[天谷孝久]]飛行長が総員退去を決め、駆逐艦[[萩風]]、[[舞風]]に移乗。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、16時25分、大爆発が2回起きた<ref name="生出161">生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』161頁</ref>。18時26分、自沈処分となり萩風からの魚雷により加賀は沈没する<ref>従来は沈没とされていたが生存者の証言などから自沈ではないかと思われえる。後述の蒼龍も同じ。</ref>。戦死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で航空機搭乗員では[[楠美正]]飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した。
 
同時刻、ヨークタウン艦爆隊の内ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦「赤城」を狙った。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が「赤城」より発艦した時点で急降下がはじまる<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.34</ref><ref>[[#澤地記録]]21頁、272頁</ref>。最初の1弾は左舷艦首約10mに外れたが(ベスト大尉は命中と主張)、続いて2発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した<ref>[[#プランゲ下]]69頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.39</ref>。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある<ref>[[#橋本信号員]]138頁</ref>。飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った<ref>[[#淵田自叙伝]]207頁</ref>。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った<ref name="big上126"/>。


{{Main|加賀 (空母)}}
蒼龍と赤城は爆弾そのものの被害は復旧可能な範疇であったが、被弾して生じた火災が、兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、また準備中だった航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。両艦のダメージコントロールの悪さもたたって(蒼龍では応急班の応援に駆け付ける筈の機関部員が火災で機関部に取り残され人出が不足していた。これは加賀も同じであった)火災の鎮火ができなかったため復旧が進まず、蒼龍は17時32分過ぎから乗員の駆逐艦への移乗を開始。19時頃に火災が少し収まったので[[楠本幾登]]飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めるが直後に再度の爆発が起こり救出は不可能と判断、19時13分に磯風の魚雷により自沈された。あえて艦内に残った[[柳本柳作]]艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した。搭乗員戦死者は機上・艦上合わせて10名で、[[江草隆繁]]飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
約6分間のできごとであったが、太平洋戦争の転換点となる6分間となった。空母「加賀」では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中にいた[[岡田次作]]艦長以下指揮官らが戦死した<ref name="一1航空艦隊41"/><ref>[[#亀井戦記]]331頁</ref>。午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた[[天谷孝久]]飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗する<ref name="一1航空艦隊42">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.42</ref>。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた<ref name="生出161">[[#大和最後の艦長]]161頁</ref><ref name="亀井356">[[#亀井戦記]]356頁</ref>。「加賀」は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で、航空機搭乗員では[[楠美正]]飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した<ref name="亀井356"/>。


{{Main|蒼龍 (空母)}}
赤城では、南雲以下第一機動部隊指揮官達が内火艇に乗り、駆逐艦「野分」に移乗した(直接軽巡洋艦「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗員の証言もある<ref>牧島『続・炎の海』165頁</ref>。)赤城では、11時半に負傷者と搭乗員の移送が始まり13時50分には機関が停止する。[[青木泰二郎]]艦長は消火作業を続行させるが4時半に総員退艦を決意<ref name="生出161"/>、乗組員は嵐と野分に移乗を開始する。南雲は赤城の処分を承認し、駆逐艦に雷撃させる許可を山本に申請した<ref name="生出161"/>。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされたが、山本長官は赤城の処分を中止させた。青木は錨甲板の柱に綱で身体を縛り付けていたが、20時半に[[増田正吾]]飛行長によって無理やり退艦させられ、嵐に移乗した<ref>生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』162-163頁</ref>。翌5日午前1時50分に処分命令が下り第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃。午前2時40分、赤城は艦尾から沈没していった。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらと比べ少なく准士官以上8名、下士官兵213名の計221名で搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名である。[[淵田美津雄]]中佐、[[板谷茂]]少佐、[[村田重治]]少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。
3発の爆弾が命中した「蒼龍」の被害は被弾空母の中で最も深刻だった<ref>[[#亀井戦記]]333頁</ref>。被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令されている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.45</ref>。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、[[楠本幾登]]飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、「蒼龍」は再度の爆発を起こし、楠木は救出不可能と判断する。「蒼龍」は午後4時13分(19:13)に沈没した<ref name="一1航空艦隊46">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.46</ref>。あえて艦内に残った[[柳本柳作]]艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した<ref>[[#亀井戦記]]348頁</ref>。搭乗員戦死者は機上・艦上合わせて10名で、[[江草隆繁]]飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。

{{Main|赤城 (空母)}}
「赤城」は爆弾そのもののによる被害は、爆弾1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能な範疇であった<ref>[[#橋本信号員]]140頁</ref>。だが被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生する<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.39、44</ref>。「赤城」は、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなった<ref>[[#亀井戦記]]358頁</ref>。これにより洋上に停止した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.28</ref>。[[南雲忠一]]中将、[[草鹿龍之介]]参謀長、[[源田実]]航空参謀、[[淵田美津雄]]総飛行隊長ら第一機動部隊司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」に移乗したあと軽巡洋艦「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」に移ったという<ref>[[#澤地記録]]275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.28「午前7時45分:赤城司令部移乗のため駆逐艦野分近接す」</ref>。直接「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある<ref>牧島『続・炎の海』165頁、[[#橋本信号員]]146頁</ref>。午前8時30分(11:30)、南雲は「長良」に将旗を掲げた<ref name="一1航空艦隊34">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.34</ref>。[[青木泰二郎]]艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により艦を救うことを断念し、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した<ref name="一1航空艦隊40">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.40</ref>。「赤城」の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は「赤城」の処分を中止させた<ref name="一1航空艦隊40"/>。南雲は、[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている<ref>[[#亀井戦記]]44頁、亀井の取材に答えて。</ref>。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り、午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した<ref name="一1航空艦隊40"/>。上記2隻と比べて「赤城」では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらと比べ少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名である。[[淵田美津雄]]中佐、[[板谷茂]]少佐、[[村田重治]]少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。


=== 空母「飛龍」の反撃 ===
=== 空母「飛龍」の反撃 ===
[[Image:USS Yorktown hit-740px.jpg|thumb|250px|<small>空襲下の空母「ヨークタウン」。</small>]]
[[Image:USS Yorktown hit-740px.jpg|thumb|250px|{{small|空襲下の空母「ヨークタウン」。}}]]
[[Image:HiryuBurning.jpg|thumb|250px|<small>急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」。</small>]]
[[Image:HiryuBurning.jpg|thumb|250px|{{small|急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」。}}]]
雲下にあり、また、雷撃機回避ため他の3隻の空母からやや離れていた空母飛龍はこの難を免れた。10時54分山口少将は南雲中将指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、「全機発進」を指示した<ref>参考『ミッドウェー』:8時50分になって次席指揮官[[阿部弘毅]]少将が赤城、加賀、蒼龍が被弾炎上していることを主力部隊に通報。なお山口は、先任であり次席指揮官である阿部に「我'''航空戦'''の指揮をとる」と、戦闘指揮の継承による混乱を巧みに回避している</ref>。そして第一次撃隊として[[小林道雄]]大尉指揮する零戦6機、九九艦爆18機の計24機(急降下爆撃機隊)を発艦させ。11時20分、帰還するエンタープライズを日本艦へ向う攻撃隊と勘違いした[[重松康弘]]大尉指揮の零隊が迎撃に向かい1機が不時着1薬を使い果たして帰還してしまい護衛が4に減てしまう。それでも敵母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む小林はヨクタウンを発見12時から攻撃を開始する。米直掩機の猛攻にさらされ小林長機含む艦戦3機、艦爆13機を損失しながらも、12時10分頃に250kg爆弾3を空母ヨークタウンに命中させ、航行不能陥れた。しし「ヨークタウン」は14過ぎによる火災を鎮火し航行可能に復する
空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」は雲下にあり、また、ヨークタウン雷撃機の攻撃を回避するため他の3隻の空母から離れており米軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった<ref>[[#飛龍生涯]]397頁</ref>。午前7時50分(10:50)、次席指揮官[[阿部弘毅]]第八戦隊司令官は「赤城加賀蒼龍が被弾炎上していることを主力部隊に通報する<ref name="一2航空艦隊29">[[#澤地記録]]275-276頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.29</ref>。阿部は「飛竜ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた<ref name="一2航空艦隊29"/>。午前7時58分(10:54)、山口少将は南雲中将の指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、阿部に対し米空母に全力攻撃をかけることを告げた<ref>[[#亀井戦記]]385頁</ref>。なお山口は、先任であり次席指揮官である阿部に「我'''航空戦'''の指揮をとる」と告、戦闘指揮の継承による混乱を巧みに回避している<ref>参考『ミッドウェー』</ref>。午前8時(11:00)、第一次撃隊として[[小林道雄]]大尉指揮する零戦6機、九九艦爆18機の計24機発艦<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、34、「飛龍飛行機戦闘行動調書(3)」pp.61、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、30-31</ref><ref>[[#澤地記録]]277頁、[[#亀井記]]387頁</ref>。九九艦爆のうち12は250kg通常爆、陸用爆弾装備は6た<ref name="一4航1">「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」pp.1「25番通12、同陸6。エンタプライズ型25番通5、同陸1」</ref>「飛龍」は第一波攻撃隊を発させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1空艦隊戦闘詳報(2)」pp.31-32</ref>


飛龍第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた<ref>[[#澤地記録]]275頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.30</ref>。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.30</ref>。すぐに筑摩5号機から米軍機動部隊発見の連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した。また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆が米軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分)<ref>[[#澤地記録]]277頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.31</ref>。30分後の午前8時30分、米軍機動部隊発見を発信している<ref>「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.66「0800:敵艦上機1機発見、之を追跡す」「0810:敵機動部隊発見、触接開始」「0830:我敵航空部隊見ゆ。地点ミッドウェー5度、120浬、針路80度、速力25ノット」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻をともなう」</ref><ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.33「0837:敵航空部隊見ゆ、ミッドウェーよりの方位4度、150浬」「0840:敵航空部隊は空母3隻を基幹とし駆逐艦22隻を伴ふ(0840)」</ref>。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.34「0845:触接を止む(〇八四五)」(機動部隊受信0854)</ref>、無線機の故障により、南雲部隊では米軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという<ref name="一1航空艦隊34">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.34「偶々電信機故障の為通信不能にて、帰投後の報告により(以下略)」</ref>。この頃、「赤城」の零戦隊7機が「飛龍」に着艦<ref>「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.31-32、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.34。白根大尉、菊地、小山内、大森、井石、石田、木村</ref>。「加賀」からは零戦9機<ref>「加賀飛行機隊戦闘行動調書」pp.24、26-27、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.11-12</ref>、「蒼龍」からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.45、59、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.36-37</ref>。
続いて飛龍は13時半に零戦6機、九七式艦攻10機の友永大尉率いる第二次攻撃隊(雷撃機隊)16機を発進させた。また、第一次攻撃隊を収容する直前に空母蒼龍から飛び立っていた[[彗星 (航空機)|彗星]](爆弾倉にカメラを装備して偵察機に改造した試作機<ref>この偵察機タイプが「二式艦上偵察機」として制式採用されるのは本海戦よりも後のことである。</ref>)が11時半頃にアメリカ軍機動部隊を発見していたが、無線機の故障で報告できていなかった。蒼龍上空に帰ってきた時にはすでに母艦は炎に包まれており、13時45分に空母飛龍へ着艦して山口少将に対しアメリカ海軍の空母が3隻であることを報告した。14時半、雷撃機隊はアメリカ海軍艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった。火災を鎮火し、戦闘航行中の米空母を見た友永大尉は、ヨークタウンを、損傷を受けていない別の空母と判断して攻撃し、友永隊長機を含む艦戦2機、艦攻5機が撃墜されながらも魚雷2本を命中させヨークタウンを大破させた<ref>友永大尉の九七式艦攻は、ミッドウェイ島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。修理する十分な時間も無く、搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。なお、これを片道燃料による決死の出撃とするのは誤りで、敵艦隊までの距離は近く、通常ならば往復には充分であったという。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった事は間違いない。黄色い尾翼の友永機は魚雷を投下するまでは部下により確認されているが、その後に友永機を見ていないため体当たりを試みたのではないかとその部下は述べている。</ref>。山口少将は先の攻撃と合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ二度攻撃したことに気付かなかった。この頃、フレッチャー少将は空母ヨークタウンが攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた(離れた所にいたため発見されていなかった)。


午前8時15分(11:15)、空母「ヨークタウン」では攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が発生して甲板が損傷する<ref>[[#ヨークタウン]]199頁</ref>。11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた<ref name="朝日ヨーク200">[[#ヨークタウン]]200頁</ref>。偵察隊が発進してまもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する<ref name="朝日ヨーク200"/>。「ヨークタウン」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を発進させた<ref>[[#ヨークタウン]]201-202頁</ref>。
山口少将は、帰還した攻撃隊の損害がひどい(半分以下に減っていた)ために白昼の攻撃を断念し、15時半に南雲中将へ「薄暮敵残存空母を撃滅せんとす」と報告した。第三次攻撃隊(14機)が[[薄暮]]攻撃を待って待機している時にアメリカ軍の急降下爆撃機隊の奇襲を受けた。17時30分頃、エンタープライズと<!-- 「エンタープライズ」に退避していた-->ヨークタウンのSBD爆撃機が襲いかかり、4発の爆弾が命中・炎上し、戦闘不能状態に陥った。機関は当初は無事だったが、艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』22頁</ref>。


午前8時20分(11:20)、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊([[重松康弘]]大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還<ref>「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.62</ref>、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助される<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.12</ref>。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)は、ついに「ヨークタウン」を発見した<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、pp.11</ref>。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみが「ヨークタウン」を攻撃した<ref>[[#プランゲ下]]89頁</ref>。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功し、爆弾3発が命中している。1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失って航行不能となった<ref>[[#ヨークタウン]]216頁</ref>。フレッチャー司令官は、重巡「アストリア」に移乗した<ref>[[#ヨークタウン]]220頁、[[#プランゲ下]]91頁</ref>。
飛龍はしばらくは洋上に浮いていた。横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの復旧の見込みがたたないことから、山口少将は南雲中将に総員退艦させると報告した。山口少将は、加来艦長と共に、駆逐艦[[巻雲]]の[[雷撃]]によって沈む艦と運命を共にした。ただし空母飛龍が雷撃処分されたのは6日5時だが、沈没は8時である可能性が高く、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]の偵察機が写真を撮影している。加えて、連絡不通だった機関部から脱出した機関科勤務34名が飛龍から短艇で脱出したのは、巻風の魚雷が命中してから2時間後だったという<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』23頁</ref>。彼らは15日後に米軍に救助された。戦死者は山口司令、加来艦長、准士官以上29名、下士官兵387名の計416名で、搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。


代償として、飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む艦戦3機、艦爆13機を失い、艦戦1機、艦爆5機が「飛龍」に辿り付いただけだった<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2-3、[[#亀井戦記]]393頁</ref>。帰還した航空機も、零戦1が不時着救助され、修理不能艦爆1、修理後戦闘可能零戦1、艦爆2という状況だった<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.21</ref>。飛龍攻撃隊は「エンタープライズ型空母」に爆弾5発、陸用爆弾1発命中し、大破或いは大火災、撃沈と報告<ref >「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.34、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.11</ref>。しかし「ヨークタウン」は午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノットで航行可能となった<ref>[[#ヨークタウン]]219頁、[[#プランゲ下]]91頁</ref>。また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩5号機は、午前9時5分(12:05)に米軍戦闘機の追跡を受け退避<ref>[[#澤地記録]]284頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.36「0917:我れ敵航空機の追撃を受け触接を失せり(0905)」</ref>、その15分後、新たな米軍機動部隊を発見した。
=== 撤退 ===

午前9時(12:00)、南雲中将も「長良」の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった<ref>[[#橋本信号員]]148-149頁、[[#亀井戦記]]394-395頁</ref>。それより前、駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley・Frank・Osmu)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った<ref name="一2航空38尋問">[[#大和最後の艦長]]149-50頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.38「1000:4dg機密第140番電。捕虜(ヨークタウン)搭乗員海軍少尉言左の如し」</ref>。[[有賀幸作]]第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="澤地記録287">[[#澤地記録]]287-288頁</ref>。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している<ref name="愛宕奮戦88">[[#愛宕奮戦記]]88頁</ref>。

#空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111">[[#プランゲ下]]111頁</ref>。
#ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。
#(米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。
#5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)<ref name="一2航空38尋問"/><ref name="プランゲ下111"/>。

連合艦隊は、米軍機動部隊の戦力と、出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、[[真珠湾攻撃]]で沈没した米軍戦艦群のうち、戦艦「アリゾナ」、「ユタ」、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.39</ref>。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという<ref>[[#大和最後の艦長]]155頁</ref>。オスマスは水葬に附された<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.37「6月6日死亡、水葬」</ref>。彼の名前は[[バックレイ級護衛駆逐艦]]「[[オスマス(護衛駆逐艦)|オスマス]]」(''USS Osmus, DE-701'')に受け継がれている<ref>[http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Osmus_(DE-701) 護衛駆逐艦「オスマス」(''USS Osmus, DE-701'')]</ref>。

午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を発進させよと命じた<ref name="澤地記録290">[[#澤地記録]]290頁</ref>。午前10時30分(13:30)、「飛龍」から第二波攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)が発進<ref>[[#澤地記録]]290頁、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.63、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、pp.32-33</ref>。零戦2機(山本、坂東)は「飛龍」に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった<ref>「加賀飛行機隊戦闘行動調書」pp.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.18、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.13</ref>。筑摩4号機も発進した<ref>[[#澤地記録]]290頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.41</ref>。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が「飛龍」に着艦する<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3</ref>。さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した<ref>[#亀井戦記]]406頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.67-68「0950、飛龍上空着。1030、飛龍着艦」</ref>。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は『敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり』と高く評価している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.69。「別紙第一、発受信記録、略(資料なし)」</ref>。この時点で、山口は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った<ref>[#亀井戦記]]406頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.34、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.45</ref>。午前11時(14:00)、母艦「利根」で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する<ref>[[#澤地記録]]292頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.42</ref>。午前11時30分(14:30)、戦艦「榛名」の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた<ref>[[#澤地記録]]293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.42「附近に空母居るものの如し」</ref>。

午前11時30分(14:30)、飛龍第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中の「ヨークタウン」だった<ref>[[#ヨークタウン]]224頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.15</ref>。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力で米軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した<ref>[[#亀井戦記]]409頁</ref>。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する<ref>[[#亀井戦記]]412頁、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3「一中隊は右、二中隊は左より挟撃し」</ref>。「ヨークタウン」は直掩F4F戦闘機16を向かわせ、零戦2機、艦攻4機を撃墜した<ref>[[#ヨークタウン]]224-227頁</ref>。続いて艦攻1機が対空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷からヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中する<ref >[[#ヨークタウン]]229頁</ref>。ボイラー室と発電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した<ref>[[#ヨークタウン]]233頁</ref>。戦果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戦3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失う<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3</ref>。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.35、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.3・15-16。</ref>。

友永大尉の[[九七式艦上攻撃機]]は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている<ref>[[#プランゲ下]]97頁</ref>。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している<ref>[[#亀井戦記]]402頁。亀井の取材に。</ref>。[[戦闘詳報]]は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.16「尾部方向舵の指揮官機マークを確認す」</ref>対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.16「</ref>。

山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった<ref name="一2航空艦隊47">「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.47「我が攻撃により空母2隻は大破」</ref><ref>[[#澤地記録]]299頁、[[#プランゲ下]]104頁</ref>。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃した「ヨークタウン」の後方に「別の空母炎上中」と報告した為である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.19「雷撃終了後、該空母の西方約30浬乃至40浬に第一次敵空母攻撃に依り大火災を生じたる空母と覚しき炎上中の艦船の爆発らしき褐色煙を認む」</ref>。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.19「該空母(ヨークタウン)の東方約30浬を高速東進する三重の円形陣の敵艦隊を認む」</ref>。この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。「ヨークタウン」を航行不能とされたフレッチャーは、スプルーアンスの「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している<ref>[[#プランゲ下]]102頁</ref>。

=== 飛龍沈没 ===
空母「ヨークタウン」が飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(米軍機動部隊から72浬)と発信した<ref name="朝日ヨーク239">[[#ヨークタウン]]239頁、[[#プランゲ下]]102頁</ref>。駆逐艦のうち1隻は四本煙突の軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]([[南雲忠一]]中将乗艦)である<ref name="朝日ヨーク239"/>。戦艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」、軽巡洋艦「長良」(南雲旗艦)、駆逐艦3隻は「飛龍」の周辺に集結していたのである<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.43、[[#澤地記録]]294頁</ref>。空母「飛龍」発見の電文を受信した空母「エンタープライズ」はウィルマー・ガラハー大尉率いるエンタープライズ爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた<ref>[[#ヨークタウン]]240頁、[[#プランゲ下]]102頁</ref>。

午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した<ref>「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.63</ref>。友永機を含む零戦2機、艦攻5機を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着救助、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.21</ref>。鹿江隆(飛龍副長)は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという<ref>[[#亀井戦記]]418頁。公刊戦史証言より。</ref>。だが「飛龍」の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少していた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.37</ref>。炎上する「赤城」に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えたほどである<ref>[[#澤地記録]]293頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.42</ref>。山口は十三試艦爆により米軍空母の位置を把握し、同機の誘導により全兵力で薄暮攻撃をかける事を伝える<ref>[[#澤地記録]]296頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.37、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.44「1231:タナ135、十三試艦爆により触接を確保したる後、残存全兵力(爆5、攻4、戦10)を以て薄暮敵残存空母を殲滅せんとす」</ref>。これには、整備科が損傷機を修理することで、戦力が回復するかもしれないと山口達が考えたことも関係している<ref>[[#亀井戦記]]428-429頁</ref>。この間、赤城・加賀・蒼龍から「飛龍」に着艦した零戦が交替で「飛龍」上空を守っていた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.45、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.12、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.5、pp.35-36</ref>。

十三試艦爆の発進準備が終わり<ref >「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.38「1403に至り特に触接機十三試艦爆を発艦せしめんとありし時」</ref>、友永隊を護衛して消耗した加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.13、26</ref>、米軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズ隊指揮官ガラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、「飛龍」飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した<ref>[[#プランゲ下]]104頁</ref>。午後2時(17:30)、直衛の零戦6機が迎撃に向い、「飛龍」の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した<ref>[[#ヨークタウン]]240頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.49</ref>。続いてヨークタウン爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃する<ref>[[#橋本信号員]]154頁、[[#プランゲ下]]105頁</ref>。護衛の「利根」と「筑摩」が対空砲火で迎撃したが阻止できず、「飛龍」に爆弾4発が命中した<ref>[[#ヨークタウン]]242頁、[[#澤地記録]]302頁</ref>。「長良」からは、「飛龍」の飛行甲板、もしくはエレベーターが「飛龍」艦橋の前に突き刺さっているのが目撃された<ref>[[#炎の海]]268頁、[[#橋本信号員]]155頁、[[#亀井戦記]]433頁</ref>。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦「榛名」を爆撃したが、至近弾に終わった<ref>[[#ヨークタウン]]243頁、[[#亀井戦記]]444頁</ref>。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネット艦爆隊15機は「利根」と「筑摩」を攻撃したが、全て回避されている<ref>[[#プランゲ下]]106頁</ref>。この他にも「飛龍」と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった<ref>[[#炎の海]]269頁、[[#亀井戦記]]445頁</ref>。

{{Main|飛龍 (空母)}}
炎上した「飛龍」は午後6時23分(21:23)に至るまで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された<ref name="一1航空艦隊43">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.43</ref>。「飛龍」はしばらく洋上に浮いていた。横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの、誘爆が発生して消火不能となる<ref>[[#亀井戦記]]446頁、吉田正義(巻雲艦長)談。</ref>。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口は南雲に総員退艦させると報告し<ref name="一1航空艦隊43"/>、加来艦長と共に、駆逐艦「[[巻雲]]」の[[雷撃]]によって沈む「飛龍」と運命を共にした。空母「飛龍」が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが<ref name="一1航空艦隊44"/>、艦底部から脱出した機関科勤務34名が沈みゆく「飛龍」から短艇で脱出したのは、「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという<ref>別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』23頁</ref>。彼らは15日後に米軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.37</ref>。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には脱出後に米軍に救助された飛龍機関科34名が入っている。

=== 情報錯綜 ===
軽巡洋艦「長良」に移乗した[[南雲忠一]]中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に行く、集まれ」と攻撃命令を出した<ref>[[#亀井戦記]]44頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.46、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.34</ref>。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」の艦橋は雰囲気が一変し、[[黒島亀人]]先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた<ref>[[#プランゲ下]]108頁。渡辺安次参謀談。</ref>。午前9時20分(11:20)、[[山本五十六]]長官はGF電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退と、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(空母:[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]、[[龍驤 (空母)|龍驤]])に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)に合流するよう命じる<ref>[[#プランゲ下]]110頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.36-37</ref>。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の[[近藤信竹]]中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、[[栗田健男]]の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.14</ref>。同時刻、南雲も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.37</ref>。午前10時、山本長官はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.14-15、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.39-40</ref><ref>[[#愛宕奮戦記]]87頁、[[#澤地記録]]289頁、[[#プランゲ下]]112頁</ref>。

#敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
#攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
#ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。

山本長官の命令により、[[近藤信竹]]中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応して米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した<ref>[[#澤地記録]]31頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.16、18</ref>。連合艦隊は、ミッドウェー基地の米軍航空兵力が使用可能かどうか、南雲部隊に尋ねている<ref>[[#澤地記録]]301頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.48</ref>。「長良」では空母「飛龍」が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことを誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた<ref>[[#草鹿回想]]142頁</ref>。夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、「飛龍」の被弾と炎上により、米軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戦闘は困難と南雲は判断<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.48</ref>、草鹿によれば「万事休す」であった<ref>[[#草鹿回想]]143頁</ref>。そこで一旦西方に反転し、あらためて夜襲を企図した。草鹿参謀長は「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している<ref>[[#プランゲ下]]121頁、[[#草鹿回想]]144頁</ref>。近藤中将の第二艦隊は軽空母「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.54「1450:2F機密第762番電攻略部隊電」、[[#澤地記録]]303、307-308頁</ref>。炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令[[有賀幸作]]大佐(後、戦艦大和艦長)に至っては「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp48-49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3「各艦は担任母艦付近に在りて敵潜水艦及び機動部隊に対し警戒を厳にし、敵機動部隊来らば刺違戦法を以て敵を撃滅せよ」</ref>。

午後2時13分(17:13)、筑摩2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止した「エンタープライズ型空母」を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.35</ref>。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.37</ref>。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する<ref name="一3航空艦隊2">「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.2</ref>。筑摩2号機は重巡洋艦「筑摩」を通じ、南雲司令部に対し「'''炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見'''」と報告する<ref name="一1航空艦隊49">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3-4「本艦2号機午後2時13分頃傾斜火災中の敵空母の東方30浬に敵空母4、巡洋艦6、駆逐艦15西航するを認めたり。その後は敵戦闘機の追跡を受け敵を見ず」</ref>。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、やがて偵察機の報告を信じた<ref>[[#亀井戦記]]451-452頁</ref>。プランゲ博士は「南雲は苛立たしさのあまり、頭を壁に叩きつけるか、索敵機パイロットの首をその手で締めたかっただろう」と記述している<ref name="プランゲ下172">[[#プランゲ下]]172頁</ref>。戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録<ref name="一1航空艦隊36">「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.36「1510、敵航空母艦2隻(ヨークタウンまたはホーネット型)(中略)其の南方約4浬に巡洋艦5、駆逐艦6を伴う航空母艦2隻(艦型不明)針路260度速力12ノット」</ref><ref>[[#澤地記録]]327-328頁、[[#亀井戦記]]451頁</ref>。南雲は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、[[山本五十六]]長官と[[宇垣纏]]参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた<ref>[[#亀井戦記]]453頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.49、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.5、第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.19、「第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.38</ref>。

#敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり<ref name="プランゲ下172"/>。
#当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす<ref name="プランゲ下172"/>。
#主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット<ref name="プランゲ下172"/>。
#機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし<ref name="プランゲ下172"/>。

午後5時30分(20:30)、山本長官はGF電令159号にて伊168号潜水艦に対し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.7、[[#プランゲ下]]124頁</ref>。南雲は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電に於いて筑摩2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.50、[[#澤地記録]]317頁</ref>。南雲は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、日本軍空母全滅を報告した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.51、[[#澤地記録]]158頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.9</ref>。すると山本長官より、第二艦隊司令官[[近藤信竹]]中将に「赤城」と「飛龍」を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた<ref>[[#澤地記録]]319頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.9「GF電令作160号</ref>。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、米軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。

=== 日本軍の撤退===
[[Image:SBDs and Mikuma.jpg|thumb|250px|{{small|[[重巡洋艦]] [[三隈]]に急降下爆撃を行う[[SBD ドーントレス]]}}]]
[[Image:Sinking of japanese cruiser Mikuma 6 june 1942.jpg|thumb|250px|{{Smaller|炎上傾斜する三隈。}}]]
[[Image:Sinking of japanese cruiser Mikuma 6 june 1942.jpg|thumb|250px|{{Smaller|炎上傾斜する三隈。}}]]
日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合同を命じた<ref>[[#澤地記録]]321頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.11、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.23「GF機密第303番電」</ref>。午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で、以下の命令を伝達した<ref>[[#澤地記録]]324頁、「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.24、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14</ref>。
飛龍の攻撃隊により空母ヨークタウンは深刻な損害を二度も負った。応急修理で沈没こそしなかったものの(一時は総員退艦まで出した)、ヨークタウンの戦闘継続不可能と判断したフレッチャー少将は撤退を決め、同艦を率いて真珠湾に向かった。


#AF(ミッドウェー島)攻略を中止す<ref name="プランゲ下144">[[#プランゲ下]]144頁</ref>。
指揮権を引き継いだスプルーアンス少将の第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れていなかったため、一時的に東へ退避した。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始し、3時頃に艦載機が退避中の三隈、最上を発見した。
#主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし<ref name="プランゲ下144"/>。
#警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし<ref name="プランゲ下144"/>。
#占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし<ref name="プランゲ下144"/>。


ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始。午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、連合艦隊より飛龍沈没を確認せよとの命令があった<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.1、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.15「GF機密第310番電」</ref>。「飛龍」の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、「長良」偵察機を発進させ、駆逐艦「谷風」を「飛龍」処分と生存者救助のために分派した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.2</ref>。「谷風」は空母「エンタープライズ」を発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受け、4機撃墜を報告して生還した<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.2、[[#BIG E上]]136頁</ref>。「ホーネット」隊は[[香取型練習巡洋艦]](駆逐艦谷風)を攻撃したと報告し、1機が撃墜された<ref>[[#プランゲ下]]162下頁</ref>。
支援隊の第7戦隊([[巡洋艦|重巡洋艦]]・[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって、新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速力で前進した。その後、第7戦隊がミッドウェーまで距離があると判明したため、夜戦中止に先立って山本長官から砲撃中止命令が出された。しかし第7戦隊は、転進を行おうとした矢先にアメリカ海軍[[潜水艦]]タンバー(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に衝突事故を起こした。三隈に衝突した最上は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第7戦隊司令官の[[栗田健男]]中将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻をあてて残存艦を率いて主力部隊との合流に向かった。残された4隻には9時40分頃からエンタープライズとホーネットの攻撃隊が襲来、最上を護衛していた三隈が炎上し、13時半頃に沈没した。また最上や駆逐艦[[朝潮]]、[[荒潮]]も被弾した。翌8日3時過ぎ、最上は応急修理の結果、速力20ノットまで復帰し、駆逐艦の護衛を受けながら空襲圏外へ脱した。


{{Main|三隈 (重巡洋艦)}}
戦艦[[大和]]をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、飛龍を失ったことで再考して翌0時に夜戦を中止し、3時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と第7戦隊を含む第2艦隊を率いて撤退した<ref>参考『ミッドウェー』:主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。</ref>。

支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本長官から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた<ref>[[#澤地記録]]31頁、「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.4「GFの電令に依り七戦隊にミッドウェーの陸上航空基地施設の砲撃破壊を下令せり」</ref>。その後、夜戦中止に先立って砲撃中止命令が出された。しかし第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ってから1時間20分後、アメリカ海軍[[潜水艦]]「タンバー」(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こした<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.4「敵潜回避時に三隈最上触衝最上は艦首を大破し」</ref>。「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第七戦隊司令官の[[栗田健男]]中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて「大和」以下主力部隊と合流するため北西に向かった。

一方の米軍では、「飛龍」の攻撃隊により空母「ヨークタウン」が深刻な損害を受けて放棄された。駆逐艦「ヒューズ」だけが「ヨークタウン」の護衛として残された<ref>[[#ヨークタウン]]249頁</ref>。その後「ヨークタウン」ではサルベージ作業が進み、艦隊曳船「ヴィレオ」が救助に向かった<ref>[[#ヨークタウン]]250頁</ref>。フレッチャーから指揮権を譲渡されたスプルーアンスの第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮したため、一時的に東へ退避する<ref>[[#ヨークタウン]]248頁</ref>。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始した。

日本時間6月6日、潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で「三隈」と「最上」を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃をおこない、SB2U指揮官機が「三隈」の後部砲塔に体当たりし、「最上」が至近弾で戦死者2名を出した<ref>[[#プランゲ下]]153頁</ref>。6月7日、スプルーアンスは『空母1隻、駆逐艦5隻発見』という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を発進させた<ref>[[#プランゲ下]]169頁</ref>。米軍攻撃隊は空母のかわりに「戦艦」を発見し、最初は[[航空母艦]]、次は[[戦艦]]と誤認された[[重巡洋艦]]「三隈」は集中攻撃を受けて沈没した<ref>[[#プランゲ下]]170頁</ref>。また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。[[近藤信竹]]中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗している<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.28-29</ref>。翌8日午前中、「最上」は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した<ref>「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.4</ref>。

戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して翌0時に夜戦を中止し、3時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と、第七戦隊を含む第二艦隊を率いて撤退した。主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。「赤城」の生存者達は、「大和」以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵っていた<ref>[[#炎の海]]277頁</ref>。日本軍輸送船団は、米軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した<ref>「輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」pp.35-36</ref>。山本長官は、米軍の追撃部隊を[[ウェーク島]]の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが<ref>「第4水雷戦隊戦時日誌(3)」pp.31</ref>、米軍はそこまで深追いしなかった。


[[Image:USS Hammann sinking 1942-06-06 seen from USS Yorktown.jpg|thumbnail|250px|{{Smaller|伊-168の雷撃により轟沈するハンマン}}]]
[[Image:USS Hammann sinking 1942-06-06 seen from USS Yorktown.jpg|thumbnail|250px|{{Smaller|伊-168の雷撃により轟沈するハンマン}}]]
[[6月7日]]、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていたが、ヨークタウン撃沈の任を受け接近した潜水艦「[[伊号第一六八潜水艦|伊-168]]」の放った4本の魚雷のうち2本が命中、空母対空母の戦いを連戦、軍の侵攻阻止に活躍したヨークタウンは沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦ハンマンにも1本が命中して沈没した。
[[6月7日]]、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。駆逐艦「ハンマン」に移乗していたバックマスター「ヨークタウン」艦長と161名再び「ヨークタウン」に乗艦している<ref name="朝日ヨーク253">[[#ヨークタウン]]253頁</ref>。さらに駆逐艦「モナガン」「グウィン」、「バルチ」、「ベンハム」が護衛に加わった<ref name="朝日ヨーク253"/>。その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた潜水艦「伊-168」が「ヨークタウン撃沈の任を受け、同艦に接近してい<ref>第6隊戦時日誌戦闘詳報(1)」</ref>。(13:34)、「[[伊号第一六八潜水艦|伊-168]]」4本の九五式魚雷を発射し、2本が「ヨークタウン」左舷に命中する<ref name="朝ヨーク262">[[#ヨークタウン]]262頁</ref>。米機動部隊主力として活躍したヨークタウンは沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦ハンマンにも1本が命中して沈没した<ref name="朝日ヨーク262"/>。日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた<ref>「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.2</ref>


[[6月13日]]、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。
[[6月13日]]、第16任務部隊のエンタープライズホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。米軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から「飛龍」沈没を知り、計3隻の撃沈を確信していた<ref>豊田穣『空母「信濃」の生涯』102頁</ref>。「赤城」については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である


== 両軍の損害 ==
== 両軍の損害 ==
=== 日本軍側 ===
=== 日本軍側 ===
* 沈没喪失
* 沈没喪失
** 重巡洋艦[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]
** 重巡洋艦:[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、700名<ref>[[#澤地記録]]493頁</ref>
* 大破、のち自沈処分
* 大破、のち自沈処分
** 航空母艦[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]
** 航空母艦:[[赤城 (空母)|赤城]]267名(澤地の調査記録は航空搭乗員含む)<ref>[[#澤地記録]]364頁</ref>、[[加賀 (空母)|加賀]] 811名<ref>[[#澤地記録]]404頁</ref>、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]] 711名<ref>[[#澤地記録]]459頁</ref>、[[飛龍 (空母)|飛龍]] 392名(米軍救助者含まず) <ref>[[#澤地記録]]392頁</ref>
* 大破
* 大破
** 駆逐艦[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]
** 駆逐艦:[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]
* 中破
* 中破
** 重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]
** 重巡洋艦:[[最上 (重巡洋艦)|最上]]92名<ref>[[#澤地記録]]498頁</ref>
* 航空機喪失艦載機289機(内、水偵4機)
* 航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機)
** この中には「[[彗星 (航空機)|彗星]]」試作機の偵察型改造型<!---脚注にもあるとおり、二式艦上偵察機として制式採用されたのは本海戦よりも後--->を含む。
** この中には「[[彗星 (航空機)|彗星]]」試作機の偵察型改造型<!---脚注にもあるとおり、二式艦上偵察機として制式採用されたのは本海戦よりも後--->を含む。
* 戦死<ref>[[澤地久枝]]『記録ミッドウェー海戦』498-549頁を参照</ref>
* 戦死
** [[山口多聞]]少将(戦死後中将に特進)
** [[山口多聞]]少将(戦死後中将に特進)
** [[岡田次作]]大佐(戦死後少将に特進)
** [[岡田次作]]大佐(戦死後少将に特進)
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** [[加来止男]]大佐(戦死後少将に特進)
** [[加来止男]]大佐(戦死後少将に特進)
** [[崎山釈夫]]大佐(戦死後少将に特進)
** [[崎山釈夫]]大佐(戦死後少将に特進)
他3,000名以上を失い、その中には[[友永丈市]]大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母搭載機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。


上記の沈没・損傷艦の他、筑摩航空搭乗員3名、利根航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中には[[友永丈市]]大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら121名の航空機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) <ref name="澤地記録549">[[#澤地記録]]549頁</ref>。搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。空母上で米軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は、赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である<ref name="澤地記録549"/>。
なお、文献によっては熟練搭乗員'''多数'''を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在であり、以後も活躍を続けた。

なお、文献によっては熟練搭乗員'''多数'''を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは上記にもあるように誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在だった。


* 大本営発表は空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。<br> 日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失。
* 6月10日大本営発表は空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」<ref name="澤地記録31">[[#澤地記録]]31頁</ref>、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した<ref name="澤地記録31"/>。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である<ref>「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(4)」pp.31、pp.45</ref>。米空母2隻撃沈は山口多聞少将(中将)も誤認しており、山口は真実を知ることなく空母「飛龍」と共に戦死した


=== アメリカ軍側 ===
=== アメリカ軍側 ===
* 沈没喪失
* 沈没喪失
** 航空母艦[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]
** 航空母艦:[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]
** 駆逐艦ハンマン
** 駆逐艦:ハンマン
* 航空機基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる。<ref>Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, pp.55.</ref>
* 航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる。<ref>Office of Navy Intelligence, The Battle of Midway: June3-June 6, 1942, pp.55.</ref>


米軍は日本機動部隊の撃滅に成功したものの、航空部隊の損害は大きいものがあった。特に護衛戦闘機を伴わずに攻撃を行った雷撃隊、急降下爆撃隊の損害は甚大であり、日本側を上回る数の搭乗員が戦死した。
米軍は日本機動部隊の撃滅に成功したものの、航空部隊の損害は大きいものがあった。特に護衛戦闘機を伴わずに攻撃を行った雷撃隊、急降下爆撃隊の損害は甚大であり、日本側を上回る数のパイロットが戦死した。


* '''第16任務部隊'''
* '''第16任務部隊:'''
;* '''エンタープライズ''':6月4日時点でエンタープライズの可動機はF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機14機の計76機であった。<ref>Ibid, pp.3.</ref>
;* '''エンタープライズ''':6月4日時点でエンタープライズの可動機はF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機14機の計76機であった。<ref>Ibid, pp.3.</ref>
;;* 6月4日南雲機動部隊に対して可動機すべてを発進させ攻撃。雷撃隊14機は護衛戦闘機の援護がないまま南雲機動部隊に攻撃を行い10機を喪失。エンタープライズの報告書では日本軍の対空砲火は効果的ではなく損失のほとんどは零戦の攻撃によるものであった対空砲火は主に目標指示に使用されていた模様である。続いて急降下爆撃を行った第6爆撃機隊及び第6索敵爆撃機隊の33機は目標突入時には攻撃を受けなかったものの爆撃後に強力な対空砲火と零戦の攻撃に遭い18機が未帰還となった。同日夕刻に行われた飛龍に対する第二次攻撃にはエンタープライズ、ヨークタウン隊混成のSBD急降下爆撃機24機が出撃、攻撃時にエンタープライズのSBD1機が零戦に撃墜されたものの飛龍に直撃弾4発を命中させ大破、炎上させた。<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月4日:南雲機動部隊に対して可動機すべてを発進させ攻撃。雷撃隊14機は護衛戦闘機の援護がないまま南雲機動部隊に攻撃を行い10機を喪失。エンタープライズの報告書では日本軍の対空砲火は効果的ではなく損失のほとんどは零戦の攻撃によるものであった対空砲火は主に目標指示に使用されていた模様である<ref name="朝日ヨーク187"/>。続いて急降下爆撃を行った第6爆撃機隊及び第6索敵爆撃機隊の33機は目標突入時には攻撃を受けなかったものの爆撃後に強力な対空砲火と零戦の攻撃に遭い18機が未帰還となった。同日夕刻に行われた飛龍に対する第二次攻撃にはエンタープライズ、ヨークタウン隊混成のSBD急降下爆撃機24機が出撃、攻撃時にエンタープライズのSBD1機が零戦に撃墜されたものの飛龍に直撃弾4発を命中させ大破、炎上させた。<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月5日衝突事故で落伍した重巡最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できず付近を航行中の香取型巡洋艦(駆逐艦谷風の誤認)を攻撃。谷風から激しい対空砲火を浴び命中弾はなかったもののエンタープライズ隊は全機帰還。<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月5日:衝突事故で落伍した重巡最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できず付近を航行中の[[香取型練習巡洋艦]](駆逐艦谷風の誤認)を攻撃。谷風から激しい対空砲火を浴び命中弾はなかったもののエンタープライズ隊は全機帰還。<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月6日第16任務部隊は最上、三隈、及び護衛の駆逐艦2隻に対する攻撃を続行。F4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機31機、TBD雷撃機3機が攻撃に参加。エンタープライズの航空隊は損害を受けずに最上型重巡に5発の命中弾を与え帰還。攻撃後2機のSBDが炎上する三隈の偵察に向かい米軍は最上型重巡を誤って2万トンクラス、30センチ砲装備の巡洋戦艦であると結論づけている<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月6日:第16任務部隊は最上、三隈、及び護衛の駆逐艦2隻に対する攻撃を続行。F4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機31機、TBD雷撃機3機が攻撃に参加。エンタープライズの航空隊は損害を受けずに最上型重巡に5発の命中弾を与え帰還。攻撃後2機のSBDが炎上する三隈の偵察に向かい米軍は最上型重巡を誤って2万トンクラス、30センチ砲装備の巡洋戦艦であると結論づけている<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月4日から6月6日の3日間の戦闘でエンタープライズはF4F戦闘機1機(燃料切れ)SBD急降下爆撃機20機、TBD雷撃機10機の計31機を喪失。全航空団の40パーセントに及ぶ損害を受けパイロット24名、銃手25名の計49名が戦死した<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月4日から6月6日の3日間の戦闘でエンタープライズはF4F戦闘機1機(燃料切れ)SBD急降下爆撃機20機、TBD雷撃機10機の計31機を喪失。全航空団の40パーセントに及ぶ損害を受けパイロット24名、銃手25名の計49名が戦死した<ref>Ibid. </ref>
;* '''ホーネット''':5月28日から29日にかけて事故等によりSBD急降下爆撃機2機が失われ6月4日時点ではF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機の計77機が可動状態にあった。<ref>United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Hornet, Serial 0018 of 13 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid5.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;* '''ホーネット''':5月28日から29日にかけて事故等によりSBD急降下爆撃機2機が失われ6月4日時点ではF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機の計77機が可動状態にあった。<ref>United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Hornet, Serial 0018 of 13 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid5.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月4日南雲部隊へ向けてF4F戦闘機10機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機が発進。真っ先に攻撃を行った雷撃隊15機は零戦の集中攻撃を受け全滅。ホーネット雷撃隊の生存者はゲイ少尉ただ一人であった。F4F、SBD隊は日本機動部隊を発見できずにミッドウェ島へ不時着。一部は燃料が足りず海上に不時着した<ref>Ibid. </ref> 飛龍攻撃に向かった第二次攻撃隊のSBD 16機は付近を航行中の護衛艦艇を攻撃。戦艦1隻に3発、重巡1隻に2発の命中弾を与えたと報告(日本側には該当する記録がなく誤認の可能性が高い)、全機無事に帰還した。飛龍はすでにエンタープライズ、ヨークタウン隊の攻撃を受けて激しく炎上しており目標としての価値がないと判断されたため攻撃されなかった<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月4日:南雲部隊へ向けてF4F戦闘機10機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機が発進。真っ先に攻撃を行った雷撃隊15機は零戦の集中攻撃を受け全滅。ホーネット雷撃隊の生存者はゲイ少尉ただ一人であった。F4F、SBD隊は日本機動部隊を発見できずにミッドウェ島へ不時着。一部は燃料が足りず海上に不時着した<ref>Ibid. </ref>飛龍攻撃に向かった第二次攻撃隊のSBD 16機は付近を航行中の護衛艦艇を攻撃。戦艦1隻に3発、重巡1隻に2発の命中弾を与えたと報告(日本側には該当する記録がなく誤認の可能性が高い)、全機無事に帰還した。飛龍はすでにエンタープライズ、ヨークタウン隊の攻撃を受けて激しく炎上しており目標としての価値がないと判断されたため攻撃されなかった<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月5日衝突事故で損傷を負った最上、三隈へ対しSBD26機が発進。目標を発見できず付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。5発が目標の30メートル以内に着弾したものの命中弾なし。燃料切れで不時着水した1機を除く全機が帰還した<ref>Ibid. </ref> なお谷風は合計58機もの急降下爆撃機から攻撃を受けたものの艦長・勝見基中佐の的確な操艦により全弾を回避した。
;;* 6月5日:衝突事故で損傷を負った最上、三隈へ対しSBD26機が発進。目標を発見できず付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。5発が目標の30メートル以内に着弾したものの命中弾なし。燃料切れで不時着水した1機を除く全機が帰還した<ref>Ibid. </ref>谷風は合計58機もの急降下爆撃機から攻撃を受けたものの艦長・勝見基中佐の的確な操艦により全弾を回避した。
;;* 6月6日エンタープライズ隊と合同で撤退する最上、三隈に対して再攻撃を実施。ホーネットからF4F 8機、SBD 26機が発進。対空砲火でSBD1機を失ったものの戦艦1隻に命中弾3発、重巡1隻に命中弾2発を与えたと報告した。帰投後SBD 24機は最上、三隈に止めを刺すために再び出撃、2隻にさらに命中弾を与え全機無事に帰還した<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月6日:エンタープライズ隊と合同で撤退する最上、三隈に対して再攻撃を実施。ホーネットからF4F 8機、SBD 26機が発進。対空砲火でSBD1機を失ったものの戦艦1隻に命中弾3発、重巡1隻に命中弾2発を与えたと報告した。帰投後SBD 24機は最上、三隈に止めを刺すために再び出撃、2隻にさらに命中弾を与え全機無事に帰還した<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月4日から6月6日にかけてホーネット航空団はF4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機5機、TBD雷撃機15機の計32機を損失。全航空団の41パーセントが失われパイロット21名と銃手16名の計37名が戦死した<ref>Ibid. </ref>
;;* 6月4日から6月6日にかけてホーネット航空団はF4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機5機、TBD雷撃機15機の計32機を損失。全航空団の41パーセントが失われパイロット21名と銃手16名の計37名が戦死した<ref>Ibid. </ref>
*''' 第17任務部隊'''
*''' 第17任務部隊'''
;* '''ヨークタウン''':6月4日時点での可動機はF4F戦闘機25機、SBD急降下爆撃機36機、TBD雷撃機12機の計73機であった<ref>Office of Navy Intelligence, pp.4.</ref>
;* '''ヨークタウン''':6月4日時点での可動機はF4F戦闘機25機、SBD急降下爆撃機36機、TBD雷撃機12機の計73機であった<ref>Office of Navy Intelligence, pp.4.</ref>
;;* 6月4日南雲機動部隊に対してF4F戦闘機6機、SBD急降下爆撃機17機、TBD雷撃機12機の計35機が発進。最初に攻撃を行った雷撃機12機は魚雷投下前に7機が零戦に撃墜され更に魚雷投下後に3機が撃ち落とされた。TBD雷撃隊の援護に回った第3戦闘機隊の6機は零戦20機以上に襲われ1機を失いさらに1機が修理不能の損害を受ける。残った4機は零戦6機の撃墜を報告し帰還。TBD雷撃隊に続いて蒼龍に急降下爆撃を行ったSBD 17機は5発の命中を報告し全機無事に帰還<ref> United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Yorktown, of 18 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid7.htm. (accessed in December 2008).</ref>ヨークタウンはその後飛龍から2度に渡る攻撃を受け大破、放棄され飛行隊はエンタープライズに乗艦して戦闘を継続した。飛龍に対する第2次攻撃にはヨークタウンの急降下爆撃隊も加わり飛龍を大破、炎上させるも2機のSBDが零戦に撃墜された<ref> United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月4日:南雲機動部隊に対してF4F戦闘機6機、SBD急降下爆撃機17機、TBD雷撃機12機の計35機が発進。最初に攻撃を行った雷撃機12機は魚雷投下前に7機が零戦に撃墜され更に魚雷投下後に3機が撃ち落とされた。TBD雷撃隊の援護に回った第3戦闘機隊の6機は零戦20機以上に襲われ1機を失いさらに1機が修理不能の損害を受ける。残った4機は零戦6機の撃墜を報告し帰還。TBD雷撃隊に続いて蒼龍に急降下爆撃を行ったSBD 17機は5発の命中を報告し全機無事に帰還<ref> United States Navy, Battle of Midway: 4-7 June 1942, Online Action Reports: Commanding Officer, USS Yorktown, of 18 June 1942, http://www.history.navy.mil/docs/wwii/mid7.htm. (accessed in December 2008).</ref>ヨークタウンはその後飛龍から2度に渡る攻撃を受け大破、放棄され飛行隊はエンタープライズに乗艦して戦闘を継続した。飛龍に対する第2次攻撃にはヨークタウンの急降下爆撃隊も加わり飛龍を大破、炎上させるも2機のSBDが零戦に撃墜された<ref> United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月5日衝突事故で落伍した最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できずに付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。命中弾はなく激しい対空砲火を浴びヨークタウンのSBD1機が撃墜された<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* 6月5日:衝突事故で落伍した最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できずに付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。命中弾はなく激しい対空砲火を浴びヨークタウンのSBD1機が撃墜された<ref>United States Navy, Action Report (Serial 0137) -4-6 June 1942, http://www.cv6.org/ship/logs/action19420604.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;;* ヨークタウンの航空団は6月4日から6月6日の作戦行動でF4F戦闘機9機(5機が撃墜、2機が不時着で失われ、ヨークタウン沈没時にさらに2機が失われた)SBD爆撃機13機(10機が不時着とヨークタウン沈没時に失われ、飛龍攻撃時に2機、谷風攻撃時に更に1機を喪失)TBD雷撃機12機(2機が不時着水で失われ10機が機動部隊攻撃時に未帰還)の計34機を喪失。全航空団の47パーセントが失われパイロット15名と銃手13名の計28名が戦死した。<ref> Ibid. ヨークタウンの戦闘報告書では急降下爆撃隊の人員の損失は0でSBD10機が燃料切れとヨークタウン沈没時に失われたとある。しかしエンタープライズの戦闘報告書ではヨークタウン被弾後に移乗してきた同艦の急降下爆撃隊3機が撃墜され6名が行方不明と記載されている。ヨークタウンの報告書は海戦後わずか2週間で纏められたため記載ミスがあったものと思われる</ref>
;;* ヨークタウンの航空団は6月4日から6月6日の作戦行動でF4F戦闘機9機(5機が撃墜、2機が不時着で失われ、ヨークタウン沈没時にさらに2機が失われた)SBD爆撃機13機(10機が不時着とヨークタウン沈没時に失われ、飛龍攻撃時に2機、谷風攻撃時に更に1機を喪失)TBD雷撃機12機(2機が不時着水で失われ10機が機動部隊攻撃時に未帰還)の計34機を喪失。全航空団の47パーセントが失われパイロット15名と銃手13名の計28名が戦死した。ヨークタウンの戦闘報告書では急降下爆撃隊の人員の損失は0でSBD10機が燃料切れとヨークタウン沈没時に失われたとある。しかしエンタープライズの戦闘報告書ではヨークタウン被弾後に移乗してきた同艦の急降下爆撃隊3機が撃墜され6名が行方不明と記載されている。ヨークタウンの報告書は海戦後わずか2週間で纏められたため記載ミスがあったものと思われる<ref> Ibid.</ref>
*''' 基地航空隊'''
*''' 基地航空隊'''
ミッドウェー基地には第22海兵航空群、第7陸軍航空軍分遣隊、海軍航空部隊など計116機が展開していた。防空戦闘と日本海軍機動部隊に対する攻撃で基地航空隊も甚大な損害を受けた。
ミッドウェー基地には第22海兵航空群、第7陸軍航空軍分遣隊、海軍航空部隊など計116機が展開していた。防空戦闘と日本海軍機動部隊に対する攻撃で基地航空隊も甚大な損害を受けた。
;* '''可動機'''
;* '''可動機'''
;;*海兵隊第221戦闘航空隊(VMF-221):F2A 21機、F4F 7機
;;*海兵隊第221戦闘航空隊(VMF-221):F2A 21機、F4F 7機
;;*海兵隊第240索敵爆撃隊(VMSB-240):SBD 18機、SB2U 16機(この飛行隊にはパイロット29人しか所属していなかったのでVMF-221からパイロット1名を借りて戦闘に参加。パイロットの人数の関係上SBD 18機とSB2U 12機しか戦闘に参加できなかった)
;;*海兵隊第240索敵爆撃隊(VMSB-240):SBD 18機、SB2U 16機(この飛行隊にはパイロット29人しか所属していなかったのでVMF-221からパイロット1名を借りて戦闘に参加。パイロットの人数の関係上SBD 18機とSB2U 12機しか戦闘に参加できなかった)
;;*海軍航空隊:PBY 28機、TBF 6機
;;*海軍航空隊:PBY 28機、TBF 6機
;;*第7陸軍航空軍分遣隊:B-17 16機、B-26 4機 <ref> Office of Navy Intelligence, pp.5-6.</ref>
;;*第7陸軍航空軍分遣隊:B-17 16機、B-26 4機 <ref> Office of Navy Intelligence, pp.5-6.</ref>
;* '''防空戦闘'''ミッドウェー基地レーダーサイトから大編隊接近の報を受け、直ちに可動機すべてのF2A 20機 F4F 6機が発進。上空有利な位置から日本軍攻撃隊に襲い掛かった。しかし護衛の零戦36機が直ちに反撃、旧式のF2Aは零戦に対して全く歯がたたず隊長のパークス少佐機を含むF2A 13機 F4F 2機が撃墜された。また帰還した11機も被弾により大きく破損しておりF2A 5機とF4F 2機が再使用不能の損害を受けた<ref>Ibid, pp.15.</ref> 第221戦闘航空隊の報告書には以下の証言が記載されている。
;* '''防空戦闘''':ミッドウェー基地レーダーサイトから大編隊接近の報を受け、直ちに可動機すべてのF2A 20機 F4F 6機が発進。上空有利な位置から日本軍攻撃隊に襲い掛かった。しかし護衛の零戦36機が直ちに反撃、旧式のF2Aは零戦に対して全く歯がたたず隊長のパークス少佐機を含むF2A 13機 F4F 2機が撃墜された。また帰還した11機も被弾により大きく破損しておりF2A 5機とF4F 2機が再使用不能の損害を受けた<ref>Ibid, pp.15.</ref>第221戦闘航空隊の報告書には以下の証言が記載されている。


{{Quotation|I saw two Brewsters trying to fight the Zeros. One was shot down, and the other was saved by ground fire covering his tail. Both looked like they were tied to a string while the Zeros made passes at them.(私は2機のブリュースターが零戦と戦おうとしているのを目撃した。1機は撃墜されもう1機は地上からの防御砲火によって救われた。2機はまるで縄で縛られて零戦から攻撃されているようであった)。<ref> R.D. Heinl, Jr., Marines at Midway, (USMC: 1948), pp.29-30. </ref>}}
{{Quotation|I saw two Brewsters trying to fight the Zeros. One was shot down, and the other was saved by ground fire covering his tail. Both looked like they were tied to a string while the Zeros made passes at them.(私は2機のブリュースターが零戦と戦おうとしているのを目撃した。1機は撃墜されもう1機は地上からの防御砲火によって救われた。2機はまるで縄で縛られて零戦から攻撃されているようであった)。<ref> R.D. Heinl, Jr., Marines at Midway, (USMC: 1948), pp.29-30. </ref>}}


;* '''南雲機動部隊への攻撃'''PBY哨戒機からの通報を受け、ミッドウェー島にあったすべての航空機は逐次南雲機動部隊へ攻撃に向かった。最初に南雲機動部隊を攻撃したB-26 4機はアメリカ陸軍航空隊初となる雷撃を実施。しかし命中弾はなく2機が撃墜され、帰還した2機も被弾により激しく損傷しており再使用不能になった(帰還した内の1機は500発以上も被弾していた)。続いて攻撃に向かった最新鋭のTBF雷撃機6機も直衛の零戦に攻撃され、5機を失い、辛うじて帰還した1機も激しく被弾しており銃手は機上戦死していた<ref>Naval Historical Center, Midway-based Torpedo Attacks on the Japanese Carrier Striking Force, 4 June 1942, http://www.history.navy.mil/photos/events/wwii-pac/midway/mid-4a.htm. (このウェブサイトでは唯一生還したTBF雷撃機の写真を見ることができる)。 </ref> ミッドウェー基地を発進したSBD 16機,SB2U 11機 (SBD 2機とSB2U 1機はエンジン故障により引き返した)も程なく機動部隊を発見。ヘンダーソン少佐指揮のSBD 16機はパイロットが経験不足なこともあり、より危険で効率の悪い緩降下爆撃を行った。しかし零戦から激しい攻撃を受け、命中弾はなくヘンダーソン少佐機を含む8機が撃墜された。残る8機も被弾により大きく損傷していた。米軍は戦死したヘンダーソン少佐の勇気を称えガダルカナル島の飛行場をヘンダーソン飛行場と命名した。SBD 隊の後に戦場に到着したノリス少佐指揮のSB2U 11機は、零戦が補給の為に一時的に空母に着艦していたこともあり、4機を失っただけで済んだ。しかし命中弾を与える事はできなかった<ref> Jack McKillop, Chance-Vought SB2U Vindicator, http://www.microworks.net/pacific/aviation/sb2u_vindicator.htm. (accessed in December 2008). </ref>最後に陸軍航空隊のB-17 16機が高高度から爆撃を行ったが、高速で回避運動を行う南雲部隊へ1発も命中させることができず全機ミッドウェー基地に帰還した<ref>Battle of Midway: Action Report (米軍の報告書では飛龍に爆弾3発を命中させ撃沈とあるが誤認である)</ref>
;* '''南雲機動部隊への攻撃:'''PBY哨戒機からの通報を受け、ミッドウェー島にあったすべての航空機は逐次南雲機動部隊へ攻撃に向かった。最初に南雲機動部隊を攻撃したB-26 4機はアメリカ陸軍航空隊初となる雷撃を実施。しかし命中弾はなく2機が撃墜され、帰還した2機も被弾により激しく損傷しており再使用不能になった(帰還した内の1機は500発以上も被弾していた)。続いて攻撃に向かった最新鋭のTBF雷撃機6機も直衛の零戦に攻撃され、5機を失い、辛うじて帰還した1機も激しく被弾しており銃手は機上戦死していた<ref>Naval Historical Center, Midway-based Torpedo Attacks on the Japanese Carrier Striking Force, 4 June 1942, http://www.history.navy.mil/photos/events/wwii-pac/midway/mid-4a.htm. (このウェブサイトでは唯一生還したTBF雷撃機の写真を見ることができる)。 </ref>ミッドウェー基地を発進したSBD 16機,SB2U 11機 (SBD 2機とSB2U 1機はエンジン故障により引き返した)も程なく機動部隊を発見。ヘンダーソン少佐指揮のSBD 16機はパイロットが経験不足なこともあり、より危険で効率の悪い緩降下爆撃を行った。しかし零戦から激しい攻撃を受け、命中弾はなくヘンダーソン機を含む8機が撃墜された。残る8機も被弾により大きく損傷していた。米軍は戦死したヘンダーソンの勇気を称えガダルカナル島の飛行場をヘンダーソン飛行場と命名した。SBD 隊の後に戦場に到着したノリス少佐指揮のSB2U 11機は、零戦が補給の為に一時的に空母に着艦していたこともあり、4機を失っただけで済んだ。しかし命中弾を与える事はできなかった<ref> Jack McKillop, Chance-Vought SB2U Vindicator, http://www.microworks.net/pacific/aviation/sb2u_vindicator.htm. (accessed in December 2008). </ref>最後に陸軍航空隊のB-17 16機が高高度から爆撃を行ったが、高速で回避運動を行う南雲部隊へ1発も命中させることができず全機ミッドウェー基地に帰還した<ref>Battle of Midway: Action Report (米軍の報告書では飛龍に爆弾3発を命中させ撃沈とあるが誤認である)</ref>
;* 6月5日ミッドウェー基地航空隊は前日の戦闘で激しく消耗していたものの、可動機全機をもって退却する日本艦隊に向け攻撃隊を発進させた。第240索敵爆撃隊は稼動機すべてのSBD 6機とSB2U 6機を出撃させ最上、三隈を攻撃。しかしながら命中弾を得られず、対空砲火に被弾したフレミング大尉は三隈に体当たりしたとも言われている<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref> またB-17部隊もこの攻撃に参加したが、爆弾はすべて外れた。対空砲火で1機を、燃料切れで1機を失った<ref> United States Army Air Forces, Combat Chronology of the United States Army Air Forces in World War II, http://www.usaaf.net/chron/42/jun42.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;* 6月5日:ミッドウェー基地航空隊は前日の戦闘で激しく消耗していたものの、可動機全機をもって退却する日本艦隊に向け攻撃隊を発進させた。第240索敵爆撃隊は稼動機すべてのSBD 6機とSB2U 6機を出撃させ最上、三隈を攻撃。しかしながら命中弾を得られず、対空砲火に被弾したフレミング大尉は三隈に体当たりしたとも言われている<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref>またB-17部隊もこの攻撃に参加したが、爆弾はすべて外れた。対空砲火で1機を、燃料切れで1機を失った<ref> United States Army Air Forces, Combat Chronology of the United States Army Air Forces in World War II, http://www.usaaf.net/chron/42/jun42.htm. (accessed in December 2008).</ref>
;* 3日間に及ぶ戦闘で、第22海兵航空群は42名の搭乗員を失い負傷者も25名に及んだ<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref> また南雲部隊へ雷撃を行ったTBF隊も16名の戦死者を出した<ref> Naval Historical Center.</ref>
;* 3日間に及ぶ戦闘で、第22海兵航空群は42名の搭乗員を失い負傷者も25名に及んだ<ref>R.D. Heinl, Jr., pp.41.</ref>また南雲部隊へ雷撃を行ったTBF隊も16名の戦死者を出した<ref> Naval Historical Center.</ref>


'''戦死'''
'''戦死'''
* 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハマン84名、駆逐艦ベナム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。
* 約300名、高級士官の戦死は無かった。


== 本海戦の影響 ==
== 本海戦の影響 ==
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: 山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。事後、作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。もっとも[[軍令部]]は、この敗北を国民には伝えなかったものの、[[参謀本部]]に対しては迅速に伝えている<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P189-190。この論文(P191)によれば、ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の[[畑俊六]]にさえも真相は伝えられていなかったという。尚、[[東条英機]]首相兼陸相に対する情報提供があったか否かについては諸説あり不明である。</ref>。水上部隊の戦力では優位を保っていたとは言え、連合艦隊の中核戦力を一挙に失ったことによる高級指揮官らの困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、[[ラバウル]]から1,000kmもかなたの[[ガダルカナル島]]に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた[[第一次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]、翌年初頭に行われた[[レンネル島沖海戦]]などいくつかの局所的な戦いでは日本は勝利を手にするものの、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]、[[東部ニューギニアの戦い|ニューギニア]]や[[マキンの戦い|マキン]]・[[タラワの戦い|タラワ島]]をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始めた。[[1943年]]の年末には日本軍の勢いが落ち始め、後年ミッドウェー海戦は[[太平洋戦争]]の転換点とも評されるようになった。
: 山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。事後、作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。もっとも[[軍令部]]は、この敗北を国民には伝えなかったものの、[[参謀本部]]に対しては迅速に伝えている<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P189-190。この論文(P191)によれば、ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の[[畑俊六]]にさえも真相は伝えられていなかったという。尚、[[東条英機]]首相兼陸相に対する情報提供があったか否かについては諸説あり不明である。</ref>。水上部隊の戦力では優位を保っていたとは言え、連合艦隊の中核戦力を一挙に失ったことによる高級指揮官らの困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、[[ラバウル]]から1,000kmもかなたの[[ガダルカナル島]]に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた[[第一次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]、翌年初頭に行われた[[レンネル島沖海戦]]などいくつかの局所的な戦いでは日本は勝利を手にするものの、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]、[[東部ニューギニアの戦い|ニューギニア]]や[[マキンの戦い|マキン]]・[[タラワの戦い|タラワ島]]をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始めた。[[1943年]]の年末には日本軍の勢いが落ち始め、後年ミッドウェー海戦は[[太平洋戦争]]の転換点とも評されるようになった。
: 機動部隊の主力であった第一、第二航空戦隊が壊滅したため、新たに[[翔鶴]]、[[瑞鶴]]を中心として機動部隊の再建が図られたが、日中戦争以来のベテランである一、二航戦の穴は、最新鋭とは言え経験不足の二艦で埋められるものではなかった。このことは、ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部側が「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べていることからも明らかである<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P190</ref>。ミッドウェーでの各空母のパイロットの喪失は、反撃を行った飛龍を除けばさほどでもなかったが、正規空母4隻を失ったことは取り返しがつかず、これ以後米機動部隊に対して数的劣勢に立たされることになり、本来二線級の戦力である軽空母や改装空母まで主力として投入せざるを得なかった。
: 機動部隊の主力であった第一、第二航空戦隊が壊滅したため、新たに[[翔鶴]]、[[瑞鶴]]を中心として機動部隊の再建が図られたが、日中戦争以来のベテランである一、二航戦の穴は、最新鋭とは言え経験不足の二艦で埋められるものではなかった。このことは、ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部側が「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べていることからも明らかである<ref>井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P190</ref>。ミッドウェーでの各空母のパイロットの喪失は、反撃を行った飛龍を除けばさほどでもなかったが、正規空母4隻を失ったことは取り返しがつかず、これ以後米機動部隊に対して数的劣勢に立たされることになり、本来二線級の戦力である軽空母や改装空母まで主力として投入せざるを得なかった。
: また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「[[信濃 (空母)|信濃]]」となる。戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]][[日向 (戦艦)|日向]]は航空戦艦となった。さらに、商船改装の空母の建造や、飛龍を元にした[[雲龍 (空母)|雲龍]]型空母の15隻追加建造が計画された。しかし、本海戦に続いてガダルカナル島をめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失っていったことにより、若手搭乗員の訓練・補充が追いつかず、この後の日本機動部隊は規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的には上回ることができなかった。これに対して、アメリカの戦力が量・質ともに時間とともに桁違いに充実していったことを考えれば、この時点において日本は実質的に太平洋戦争の勝利の機会を失ったといえる。
: また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「[[信濃 (空母)|信濃]]」となる。戦艦[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」「[[日向 (戦艦)|日向]]5・6番砲塔を撤去して飛行甲板を設置し、[[航空戦艦]]となった。[[改鈴谷型重巡洋艦]] 「[[伊吹 (空母)|伊吹]]」は搭載していた主砲を撤去して軽空母に改造され、さらに、商船改装の空母の建造や、飛龍を元にした[[雲龍型航空母]]15隻追加建造が計画された。しかし、本海戦に続いてガダルカナル島をめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失っていったことにより、若手搭乗員の訓練・補充が追いつかず、この後の日本機動部隊は規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的には上回ることができなかった。また改造空母群も完成時期が遅れたり、搭乗員や搭載機そのものがなく、戦局に全く寄与しなかった。空母「[[信濃 (空母)|信濃]]」に至っては就役してから20日で沈没し、軽空母「伊吹」は完成せず、空母「雲龍」は特攻兵器輸送任務中に潜水艦によって撃沈され、航空戦艦2隻と空母「葛城」は「輸送船」や「復員船」として大活躍した。これに対して、アメリカの戦力が量・質ともに時間とともに桁違いに充実していったことを考えれば、この時点において日本は実質的に太平洋戦争の勝利の機会を失ったといえる。
: 作戦の混乱により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとしたが、これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲を施した戦果報告を行なうようになり、この状態は[[第二次世界大戦]]の終結まで続く。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて搭乗員の経験不足もさることながら、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも大きい(但し、過大果報告はアメリカ軍もおこなっている<ref>国を問わず闘では、自身や戦死者の名誉の為からか、戦果を多く報告する傾向有り、また戦闘で戦果の誤認は付き物である。事実、ミッドウェ海戦に先立つフィリピン防衛戦では、アメリカはまったく架空の[[ヒラヌマ|日本戦艦撃沈の報]]を国民に伝え、終戦までそれを訂正することはなかった。また珊瑚海海戦でもアメリカは、自軍の戦果を過大宣伝している。しかしながら、総じて米英の場合は日本やソ連ほど極端ではない。</ref>。)
: 作戦の混乱により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとした<ref>小板橋『「愛宕」奮戦記』94頁</ref>。これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲を施した戦果報告を行なうようになり、この状態は[[第二次世界大戦]]の終結まで続く。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて搭乗員の経験不足、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも関係ており[[ろ号作|ブーゲンビル島沖航空]][[台湾沖航空]]など代表例である。米軍も、ミッドウェ海戦に先立つフィリピン防衛戦では、アメリカはまったく架空の[[ヒラヌマ|日本戦艦撃沈の報]]を国民に伝え、終戦までそれを訂正することはなかった。珊瑚海海戦でもアメリカは、自軍の戦果を過大宣伝している。それでも、総じて米英の場合は日本やソ連ほど極端ではない。
; アメリカ軍側
; アメリカ軍側
: アメリカ軍は、それまでは隻数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった空母を、戦前から建造を進めていた[[エセックス級航空母艦|エセックス級]]空母の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる<ref>スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している。[[レイテ沖海戦]]でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。スプルーアンスは戦後、本海戦の勝因について問われた時、「我々は幸運だった」と繰り返し答えている。</ref>。大戦後期の[[マリアナ沖海戦]]や[[レイテ沖海戦]]では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
: アメリカ軍は、それまでは隻数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった空母を、戦前から建造を進めていた[[エセックス級航空母艦|エセックス級]]空母の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる<ref>スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している。[[レイテ沖海戦]]でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。スプルーアンスは戦後、本海戦の勝因について問われた時、「我々は幸運だった」と繰り返し答えている。</ref>。大戦後期の[[マリアナ沖海戦]]や[[レイテ沖海戦]]では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
: もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、<!--早期講和が成ったか、またさらにはアメリカ西海岸への上陸作戦が行われたかについての議論があるが、アメリカ人の国民性から考えて戦意喪失するとは考えにくく、-->国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である<ref>参考[ [http://www.combinedfleet.com/economic.htm Why Japan Really Lost The War] ]国力の差とアメリカから見た危険度の差などの観点から、主戦場として予定していたのは欧州における対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかったとする説もある。</ref>。
: もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、<!--早期講和が成ったか、またさらにはアメリカ西海岸への上陸作戦が行われたかについての議論があるが、アメリカ人の国民性から考えて戦意喪失するとは考えにくく、-->国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である<ref>参考[ [http://www.combinedfleet.com/economic.htm Why Japan Really Lost The War] ]:国力の差とアメリカから見た危険度の差などの観点から、主戦場として予定していたのは欧州における対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかったとする説もある。</ref>。
: 太平洋の戦局に余裕を得た[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]は、装備したばかりの[[M4中戦車]]300両を回収して、他の武器と共に[[北アフリカ戦線]]に急送し、9月3日に[[スエズ]]に到着。10月23日、英軍は[[エル・アラメイン]]から反攻し、[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]軍を撃破した。ロンメル軍の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦(2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図る)も潰えた。
: 太平洋の戦局に余裕を得た[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]は、装備したばかりの[[M4中戦車]]300両を回収して、他の武器と共に[[北アフリカ戦線]]に急送し、9月3日に[[スエズ]]に到着。10月23日、英軍は[[エル・アラメイン]]から反攻し、[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]軍を撃破した。ロンメル軍の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦(2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図る)も潰えた。


== 戦闘の分析 ==
== 戦闘の分析 ==
=== 指揮体系 ===
=== 指揮体系 ===
航空戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。[[アメリカ軍]]は、現場の戦闘部隊の指揮官で、[[空母部隊]]指揮経験のある(しかも直前に史上初の空母対空母の戦いを指揮した)[[フランク・J・フレッチャー|フランク・フレッチャー]]少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に自分の空母を失うと、即座に指揮権を[[スプルーアンス]]少将に移し、その[[空母]]によって[[日本]]の残存空母を仕留めることに成功した南雲も、乗艦を失った際に[[山口多聞]]少将の具申に従って指揮権を委譲し、ヨークタウンの撃破に成功している。一方、[[日本]]の[[機動部隊]]の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、山口の即時攻撃要請を却下し、再度の兵装転換命令を出さざるを得なかった(理由は後述)。これらのことは、司令官が空母部隊の指揮運用に不安要素を持つ[[南雲忠一]]中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる<ref>南雲が航空畑出身ではないことを真っ先に上げられがちだが、山口も、対比して上げられやすい[[小沢治三郎]]中将も、さらにはスプルーアンスも水雷出身(元巡洋艦部隊指揮官)であることを考慮すべきである。ただし、独力で航空戦についての知識を身に着けた彼らに対し、自らの航空戦知識の不足を自覚していた為に、全てを参謀長の[[草鹿龍之介]]に(更に彼から[[源田実]]に)ほぼ委任の状態であった南雲の姿勢は空母部隊指揮官としての是非を問われざるを得ない。</ref>。
航空戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。[[アメリカ軍]]は、現場の戦闘部隊の指揮官で、[[空母部隊]]指揮経験のある [[フランク・J・フレッチャー|フランク・フレッチャー]]少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に空母ヨークタウンが機能を失うと、即座に指揮権を[[スプルーアンス]]少将に移し、その[[空母]]エンタープライズによって[[日本]]の残存空母飛龍を仕留めることに成功した南雲も、乗艦を失った際に[[山口多聞]]少将の具申に従って指揮権を委譲し、ヨークタウンの撃破に成功している。一方、[[日本]]の[[機動部隊]]の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、山口の即時攻撃要請を却下し、再度の兵装転換命令を出さざるを得なかった(理由は後述)。これらのことは、司令官が空母部隊の指揮運用に不安要素を持つ[[南雲忠一]]中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる<ref>南雲が航空畑出身ではないことを真っ先に上げられがちだが、山口も、対比して上げられやすい[[小沢治三郎]]中将も、さらにはスプルーアンスも水雷出身(元巡洋艦部隊指揮官)であることを考慮すべきである。ただし、独力で航空戦についての知識を身に着けた彼らに対し、自らの航空戦知識の不足を自覚していた為に、全てを参謀長の[[草鹿龍之介]]に(更に彼から[[源田実]]に)ほぼ委任の状態であった南雲の姿勢は空母部隊指揮官としての是非を問われざるを得ない。ただし小沢の航空戦指揮には多方面からの批判があり、空母部隊指揮官としての資質が疑われている。</ref>。


== 日本軍の敗因 ==
== 日本軍の敗因 ==
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南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったとよく言われている。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している
南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったとよく言われている。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している


こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。
こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。また、そもそも空母同士による航空機主体の海戦自体、この直前に行われた[[珊瑚海海戦]]が史上初であり、各国とも運用のノウハウは無く経験がない事自体は誰もが一緒という事も重要だろう

また、そもそも空母同士による航空機主体の海戦自体、この直前に行われた[[珊瑚海海戦]]が史上初であり、各国とも運用のノウハウは無く経験がない事自体は誰もが一緒という事も重要だろう。


山口にしても航空戦の実戦経験は基地航空隊でのみであり消耗したら直には航空戦力を補充できない空母同士の海戦を理解していたかについては疑問がある<ref>空母艦内では基地と違って補修に限界がありちょっとした被弾でも修理不能で放棄する事はざらにある。意見具申の時点で飛行甲板に準備はできておらず意見具申が通ったとしても発進に45分以上かかり燃料の少ない空襲隊は不時着水を余儀なくされる。更に艦戦を艦隊直掩に出しつくしているので護衛は付けられない。護衛の無い攻撃隊がいかに脆いかは珊瑚海海戦で日本軍は経験しているし目の前で米軍が実証している。航空戦を理解してるならこの様な無謀で戦果を期待できない具申はしないだろう。</ref>。米側も空母を初めて指揮するスプルーアンス少将は航空機を逐次投入するという本来なら愚策である決定をしている。運よく波状攻撃という形になり艦爆隊が奇襲できたが其々が各個撃破されていた可能性も充分ある。(実際雷撃隊はほぼ全滅している。)
山口にしても航空戦の実戦経験は基地航空隊でのみであり消耗したら直には航空戦力を補充できない空母同士の海戦を理解していたかについては疑問がある<ref>空母艦内では基地と違って補修に限界がありちょっとした被弾でも修理不能で放棄する事はざらにある。意見具申の時点で飛行甲板に準備はできておらず意見具申が通ったとしても発進に45分以上かかり燃料の少ない空襲隊は不時着水を余儀なくされる。更に艦戦を艦隊直掩に出しつくしているので護衛は付けられない。護衛の無い攻撃隊がいかに脆いかは珊瑚海海戦で日本軍は経験しているし目の前で米軍が実証している。航空戦を理解してるならこの様な無謀で戦果を期待できない具申はしないだろう。</ref>。米側も空母を初めて指揮するスプルーアンス少将は航空機を逐次投入するという本来なら愚策である決定をしている。運よく波状攻撃という形になり艦爆隊が奇襲できたが其々が各個撃破されていた可能性も充分ある。(実際雷撃隊はほぼ全滅している。)
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==== (2) 作戦指揮そのものに対する問題点について ====
==== (2) 作戦指揮そのものに対する問題点について ====
敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が今まで多くなされてきた。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できるし、対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった艦が複数あった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことができたと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。
敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が今まで多くなされてきた。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できるし、対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことができたと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。
この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見や、南雲がこの判断を下したのは源田の進言に従っての事であることも考慮されるべきという意見がある。
この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見や、南雲がこの判断を下したのは源田の進言に従っての事であることも考慮されるべきという意見がある。


また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、近年以下のような用兵等の観点からの反論がでており、従来の定説が覆されてきている。これらについての詳細は下記に述べる。
また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、近年以下のような用兵等の観点からの反論がでており、従来の定説が覆されてきている。これらについての詳細は下記に述べる。


[[Image:Hiryu f075712.jpg|thumb|300px|<small>8時21分~24分、B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」。この数分後に山口は南雲に対し「ただちに発進の要ありと認む」と具申している。</small>]]
[[Image:Hiryu f075712.jpg|thumb|300px|{{small|8時21分~24分、B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」。この数分後に山口は南雲に対し「ただちに発進の要ありと認む」と具申している。}}]]
[[Image:Soryu under B-17 attack.jpg|thumb|250px|上記の飛龍と同時刻にB-17爆撃機の空襲を受け回避運動を続ける蒼龍。こちらにも飛行甲板には艦載機は見えない。]]
[[Image:Soryu under B-17 attack.jpg|thumb|250px|上記の飛龍と同時刻にB-17爆撃機の空襲を受け回避運動を続ける蒼龍。こちらにも飛行甲板には艦載機は見えない。]]
[[Image:Akagi under air attack.jpg|thumb|250px|<small>上記写真と同じ頃に撮影された回避行動中の空母「赤城」。飛行甲板の後ろ半分が写っているが拡大すると艦載機が並んでいない事が判る。</small>]]


A 山口司令官の意見具申を採用して攻撃隊を向かわせていたら勝てた。
A 山口司令官の意見具申を採用して攻撃隊を向かわせていたら勝てた。
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=== 哨戒 ===
=== 哨戒 ===
第一に作戦事前のハワイとミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに哨戒線への潜水艦の到着が遅れてしまい米軍空母の通過後に展開しているのも敗北の原因だった。また、ハワイ真珠湾を[[二式飛行艇|二式大艇]]で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探る[[K作戦|第二次K作戦]]も、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまった。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった<ref>敵発見の報告がない=敵は進出していない</ref>
第一に作戦事前のハワイとミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに哨戒線への潜水艦の到着が遅れてしまい米軍空母の通過後に展開しているのも敗北の原因だった。また、ハワイ真珠湾を[[二式飛行艇|二式大艇]]で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探る[[K作戦|第二次K作戦]]も、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまった。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった。


第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された[[零式水上偵察機|水上偵察機]]を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。
第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された[[零式水上偵察機|水上偵察機]]を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]2機のみである。また、後に米機動部隊を発見する利根4号偵察機の発進遅延については、南雲司令部では把握していなかったという説もある
本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は[[九七式艦上攻撃機|九七艦攻]]の2機のみである。また、後に米機動部隊を発見する利根4号偵察機の発進遅延については、南雲司令部では把握していなかったという説もある。


また、作戦全体の見通しの段階で、日本軍の将兵には、米空母のミッドウェー進出は、自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らかである。
また、作戦全体の見通しの段階で、日本軍の将兵には、米空母のミッドウェー進出は、自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らかである。


なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もある。定刻発進した場合、米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえる<ref>なお、実際には、真珠湾攻撃やインド洋作戦の際は攻撃圏内にいた敵艦隊を発見できずに大魚を逸する結果となり、また珊瑚海では敵発見の遅れから必要以上の損害を出して本海戦の帰趨にも影響があった。これらが充分に戦訓化されていなかった事実は、問題点として考慮すべきである。</ref>
なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もある。定刻発進した場合、米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえるなお、実際には、真珠湾攻撃やインド洋作戦の際は攻撃圏内にいた敵艦隊を発見できずに大魚を逸する結果となり、また珊瑚海では敵発見の遅れから必要以上の損害を出して本海戦の帰趨にも影響があった。これらが充分に戦訓化されていなかった事実は、問題点として考慮すべきである。


もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を索敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の策敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。
もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を索敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の策敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。
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=== 楽観的気運 ===
=== 楽観的気運 ===
日本海軍航空隊の精強さについては、[[日中戦争]]([[支那事変]])以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。1航戦(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」と信じていた。さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。
日本海軍航空隊の精強さについては、[[日中戦争]]([[支那事変]])以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。第一(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた<ref>[[#亀井戦記]]89頁</ref>。さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。
確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。
確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。


=== ダメージ・コントロールの欠如 ===
=== ダメージ・コントロールの欠如 ===
日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手のつけようがなく、米軍勢力圏内で曳航に失敗し、自沈処理に至った。航空機用の燃料や爆弾を大量に搭載する空母の脆弱性は日本海軍も認識しており、[[丸4計画]]で既に飛行甲板に装甲を施した空母「[[大鳳 (空母)|大鳳]]」を建造中であった。しかし、6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本長官、草鹿総参謀長、南雲長官、源田実、宇垣纏、鈴木軍令部第二部長、大西瀧治朗航空本部総務部長、江崎岩吉造船少将)では、四空母生存者から日本空母に対する厳しい指摘がなされた<ref>豊田穣『空母「信濃」の生涯』83頁</ref>。すると[[山本五十六]]が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同沈黙したという<ref>豊田穣『空母「信濃」の生涯』84頁</ref>。
日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。そのため空母が数発被弾して火災が発生しただけで沈没してしまう結果となった。とくに赤城は(発火しやすい航空機や弾薬を被弾時に格納庫に並べていた不幸はあったものの)爆弾2発で沈んでおり(爆弾により沈んだのではなく一時は曳航も検討されたが断念され日本駆逐艦の雷撃により処分されている)、これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である<ref>これについては後部に命中したとされる爆弾は命中せず至近弾だった可能性がある。《小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)より》赤城の右舷後部主機室が浸水し舵に損害が出ており爆弾が命中しただけで損害がでる場所ではないからである。船体すれすれに落下して水中内で爆発、舵に損害を与え浸水を招いたのではないかとも言われているが確証はない。それならそれで赤城は1発の爆弾で沈んだ事になり記録を更新する事になる。</ref>。


特に赤城は、爆弾2発の直撃により大破している。これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては後部に命中したとされる爆弾は命中せず至近弾だった可能性がある<ref>《小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)》</ref>。 赤城の右舷後部主機室が浸水し舵に損害が出ており爆弾が命中しただけで損害がでる場所ではないからである。船体すれすれに落下して水中内で爆発、舵に損害を与え浸水を招いたのではないかとも言われているが確証はない。
反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。


この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある<ref>『名鑑物語』(石渡幸二)</ref>。
反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある<ref>『名鑑物語』(石渡幸二)</ref>。


== ミッドウェー海戦を扱った作品 ==
== ミッドウェー海戦を扱った作品 ==
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* '''映画'''
* '''映画'''
** [[太平洋の鷲]] (1953,日本)
** [[太平洋の鷲]] (1953,日本)
** [[ハワイ・ミッドウェ大海空戦 太平洋の嵐]] (1960,日本)
** [[ハワイ・ミッドウェ大海空戦 太平洋の嵐]] (1960,日本)
** [[ミッドウェ (映画)|ミッドウェ]] (1976,アメリカ)
** [[ミッドウェ (映画)|ミッドウェ]] (1976,アメリカ)
** [[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]] (1981,日本)
** [[連合艦隊 (映画)|連合艦隊]] (1981,日本)
* '''漫画'''
* '''漫画'''
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** [[空母決戦]]
** [[空母決戦]]
* '''アーケードゲーム'''
* '''アーケードゲーム'''
** [[1943 ミッドウェ海戦]]
** [[1943 ミッドウェ海戦]]
* '''シミュレーションゲーム(ボード)'''
* '''シミュレーションゲーム(ボード)'''
** [[ミッドウェー (シミュレーションゲーム)|ミッドウェー]]([[:en:Avalon hill|アバロンヒル]]社)
** [[ミッドウェー (シミュレーションゲーム)|ミッドウェー]]([[:en:Avalon hill|アバロンヒル]]社)
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** [[日本機動部隊]]([[エポック]]社)
** [[日本機動部隊]]([[エポック]]社)
*ゲームブック
*ゲームブック
**スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌新星出版社:1985
**スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985
* '''ドキュメンタリー番組'''
* '''ドキュメンタリー番組'''
**[[バトル360 空母エンタープライズの戦い]]
**[[バトル360 空母エンタープライズの戦い]]


== 脚注 ==
== 文献 ==
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== 参考文献 ==
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=== 公刊戦史 ===
=== 公刊戦史 ===
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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」
**Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
**Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」
**Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
**Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」
**Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」
**Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)」
**Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」
**Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
**Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
**Ref.C08030040500「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
**Ref.C08030040500「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
**Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」
**Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」
**Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
**Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
**Ref.C08051585400「昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」
**Ref.C08051585400「昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」
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**Ref.C08030761000「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」 
**Ref.C08030761000「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」 
**Ref.C08030761100「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」
**Ref.C08030761100「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」
**Ref.C08030680800「昭和17年5月1日~昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸.敵潜に依る被襲撃報告(1)」  
**Ref.C08030680800「昭和17年5月1日~昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸.敵潜に依る被襲撃報告(1)」
**Ref.C08030020900「昭和17年5月15日~昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
**Ref.C08030081200「昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
**Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
**Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」


=== 書籍 ===
=== 主要文献 ===
* サミュエル・エリオット・[[モリソン]] 著/[[中野五郎]] 訳『ミッドウェ海戦』([[筑摩書房]]、1966年)  「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録
* サミュエル・エリオット・[[モリソン]] 著/[[中野五郎]] 訳『ミッドウェ海戦』([[筑摩書房]]、1966年)  「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録
* [[澤地久枝]]『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち[[文春文庫]](全3巻)
* P・フランク、J・D・[[ハリントン]] 著/[[谷浦英男]] 訳『空母ヨークタウン』([[朝日ソノラマ]]文庫、1984年) ISBN 4-257-17048-4
*{{Cite book|和書|author=澤地久枝|authorlink=澤地久枝|year=1986|month=5|title=記録ミッドウェー海戦|publisher=文藝春秋社|ref=澤地記録}}
* [[澤地久枝]]
* 橋本敏男\田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 {{small|私は炎の海で戦い生還した!}}』(光人社、1992年) ISBN 4-7698-0606-x
** 『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち[[文春文庫]](全3巻)
** 『記録ミッドウェー海戦』、文藝春秋社、1986年5月
* 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
* 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
** 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談
** 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談
** 小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号)
* [[亀井宏]]『ミッドウェー戦記 <small>さきもりの歌</small>』(光人社NF文庫、1995年) ISBN 4-7698-2074-7
*{{Cite book|和書|author=[[亀井宏]]|year=1995|month=2|title=ミッドウェー戦記 {{small|さきもりの歌}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2074-7|ref=亀井戦記}}
*{{Cite book|和書|author=[[牧島貞一]]|year=2002|title=続・炎の海 {{small|激撮報道カメラマン戦記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2339-8|ref=続 炎の海}}<br/>『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。赤城被弾後は長良へ移動。
*{{Cite book|和書|author=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|authorlink=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|coauthors=[[千早正隆]]訳|year=2005|title=ミッドウェーの奇跡 上巻|publisher=原書房|isbn=4-562-03874-8|ref=プランゲ上}}
*{{Cite book|和書|author=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|authorlink=ゴードン・ウィリアム・プランゲ|coauthors=[[千早正隆]]訳|year=2005|title=ミッドウェーの奇跡 下巻|publisher=原書房|isbn=4-562-03875-6|ref=プランゲ下}}
* [[淵田美津雄]]・[[奥宮正武]]『ミッドウェー』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901221-4
* [[淵田美津雄]]・[[奥宮正武]]『ミッドウェー』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901221-4
* [[小学館]]「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)
* [[小学館]]「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)

=== 参考文献 ===
*{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|ref=草鹿回想}}
*{{Cite book|和書|author=P・フランク、J・D・ハリントン著|coauthors=[[谷浦英男]]訳|year=1994|title=空母ヨークタウン|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=4-257-17048-4|ref=ヨークタウン}}
* 生出寿『凡将山本五十六 烈将山口多聞』徳間文庫 ISBN 4198922829
*{{Cite book|和書|author=[[千早正隆]]ほか|year=1994|title=日本海軍の功罪 {{small|五人の佐官が語る歴史の教訓}}|publisher=プレジデント社|isbn=4-8334-1530-5|ref=海軍功罪}}
*{{Cite book|和書|author=碇義朗|authorlink=碇義朗|year=1994|title=飛龍 天に在り {{small|航空母艦「飛龍」の生涯}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0700-7|ref=飛龍生涯}}
*{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=1996|title=戦艦「大和」最後の艦長{{small|海上修羅の指揮官}}|publisher=光人社NF文庫|ref=大和最後の艦長}}<br/>[[有賀幸作]](後の[[大和 (戦艦)|大和]]艦長)は1942年6月時点で第四駆逐隊司令官。駆逐艦「嵐」に乗艦し、本海戦に参加した。
* 別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997年)<br />「空母『飛龍』の機関室 {{small|真珠湾からミッドウェーへ}}」 萬代久男「飛龍」機関長付少尉
* 別冊歴史読本『第22(517)号 海軍機動部隊全史』(新人物往来社、1999年) ISBN 4-404-02722-2
*{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=1999|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|isbn=4-7698-0935-2C0095|ref=井上 磯風}}
*{{Cite book|和書|author=橋本廣|authorlink=橋本廣|year=2001|title=機動部隊の栄光 {{small|艦隊司令部信号員の太平洋海戦記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-1028-8|ref=橋本信号員}}
*{{Cite book|和書|author=[[牧島貞一]]|year=2001|title=炎の海 {{small|報道カメラマン空母と共に}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2328-2|ref=炎の海}}<br/>牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、ミッドウェー海戦を体験。
*{{Cite book|和書|author=金沢秀利|authorlink=金沢秀利|year=2002|title=空母雷撃隊 {{small|艦攻搭乗員の太平洋海空戦記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-1055-5|ref=空母雷撃隊}}<br/>飛龍艦攻電信員(機銃手)。記述と戦闘詳報では同乗搭乗員が異なる部分がある。
*{{Cite book|和書|author=森拾三|authorlink=森拾三|year=2004|title=奇蹟の雷撃隊 {{small|ある雷撃機操縦員の生還}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2064-x|ref=森 生還}}<br/>森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。
*{{Cite book|和書|author=[[淵田美津雄]]|coauthors=[[中田整一]]編集・解説|year=2007|title=真珠湾攻撃総隊長の回想 {{small|淵田美津雄自叙伝}}|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-214402-5|ref=淵田自叙伝}}
*{{Cite book|和書|author=エドワード・P・スタッフォード 著|coauthors=井原裕司 訳|year=2007|title=空母エンタープライズ {{small|THE BIG E}} 上巻|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-157-8|ref=BIG E上}}
*{{Cite book|和書|author=小板橋孝策|authorlink=小板橋孝策|year=2008|title=「愛宕」奮戦記 {{small|旗艦乗組員の見たソロモン海戦}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2560-9|ref=愛宕奮戦記}}<br />高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。
*{{Cite book|和書|author=川崎まなぶ|authorlink=川崎まなぶ|year=2009|title=日本海軍の航空母艦 {{small|その生い立ちと戦歴}}|publisher=大日本絵画|isbn=978-4-499-23003-2|ref=川崎戦歴}}


=== 論文 ===
=== 論文 ===
* [[外山三郎]]「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェ-海戦について」『[[防衛大学校紀要]] 人文・社会科学編』第35号、1977年
* [[外山三郎]]「大東亜戦争の軍事的教訓-3-ミッドウェ海戦について」『[[防衛大学校紀要]] 人文・社会科学編』第35号、1977年
* [[滝沢民夫]]「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェ-海戦の教材化を通して」『[[歴史評論]]』第460号、1988年
* [[滝沢民夫]]「戦争責任問題と歴史教育--ミッドウェ海戦の教材化を通して」『[[歴史評論]]』第460号、1988年
* [[高橋弘道]]「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『[[セキュリタリアン]]』第504号、[[防衛弘済会]]、2000年
* [[高橋弘道]]「防衛庁からの戦史 ハワイ攻撃とミッドウェー海戦」『[[セキュリタリアン]]』第504号、[[防衛弘済会]]、2000年
* [[平間洋一]]「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『[[丸]]』第55-7号、[[潮書房]]、2002年
* [[平間洋一]]「日本人特有の国民性とミッドウェー海戦」『[[丸]]』第55-7号、[[潮書房]]、2002年
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* 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年
* 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[シカゴ・ミッドウェー国際空港]]
* [[シカゴ・ミッドウェー国際空港]]
* [[Battlestations: Midway]]
* [[Battlestations: Midway]]
* [[エンタープライズ (CV-6)]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2011年6月3日 (金) 14:35時点における版

ミッドウェー海戦

B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「飛龍」。
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1942年6月5日 - 6月7日
場所ミッドウェー島周辺
結果:アメリカ海軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
山本五十六大将
南雲忠一中将
近藤信竹中将
F・J・フレッチャー少将
R・A・スプルーアンス少将
戦力
航空母艦6
戦艦11
重巡洋艦10
軽巡洋艦6
駆逐艦53他
参加兵力10万
航空母艦3
重巡洋艦7
軽巡洋艦1
駆逐艦15
ミッドウェー島の基地航空隊
損害
航空母艦4、重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1大破
駆逐艦1中破
戦死3,057(航空機搭乗員の戦死者は110名)
航空母艦1、駆逐艦1沈没
戦死307(航空機搭乗員戦死者は172名)
ミッドウェー作戦

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)は、第二次世界大戦中の昭和17年(1942年6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦。同島の攻略をめざす日本海軍アメリカ海軍が迎え撃つ形で生起した。日本海軍はこの海戦で機動部隊の中核をなしていた主力空母4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、これ以降戦争における主導権を失った。

日本の作戦決定の背景

山本長官の作戦思想

日本海軍は、対米作戦における基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた[1]。連合艦隊の司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた[2]。大島一太郎大尉(後に大佐、昭和三年海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機を見出しえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知の上でも、米国に対し、戦争で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。

ミッドウェー作戦の着想

日本海軍は1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で米軍太平洋艦隊を行動不能とし、南方作戦に空母機動部隊を投入した。一方、米軍は稼動状態にあった米機動部隊を中部太平洋方面に出撃させた。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされる[3]。日本軍はマーシャル諸島ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。米軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。また、連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれていた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に作戦計画を立案した。

このミッドウェー作戦は米軍空母の捕捉撃滅を主眼としている。それにはミッドウェー島を攻略し、米艦隊、特に空母機動部隊を誘い出すことが必要であった。日本軍が米軍の要点であるミッドウェー島[4]を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとすることは明白であり[5]、現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。日本軍は情報分析の結果、米軍の空母戦力を以下のように推定した[6][7]

  1. 空母レンジャーは大西洋で活動中。
  2. 捕虜の言に依ればレキシントンは撃沈せられたる如きも西岸にて修理中と言へるものあり。
  3. エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。
  4. ワスプの存否については確証を得ず。
  5. 特設空母6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の算あるも劣速にして積極的作戦に使用し得ず。

これをふまえ、日本軍はミッドウェー攻撃を行った場合出現する米軍規模を「空母2-3隻、特空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[8]。米軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[9]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もありえるとしている[10]。日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの確保は極めて困難であると考えていた。あくまでこの作戦は米空母を誘い出して撃滅することを目的とし[11]、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、米軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えた。すなわち、このミッドウェー島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の捕捉撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割に限定した作戦であった。同島占領の際には米軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[12][13]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[14]

大本営と連合艦隊司令部はこの作戦について激しく対立し、黒島参謀は山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝した[15]。だが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的に同盟国ナチスドイツを支援することを構想していたのである[16]。対する山本長官は、日本がアメリカと講和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後ハワイを占領し、アメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていた。海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉安次参謀は伊藤次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。そこで伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定し、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー諸島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった[17]。さらにドーリットル空襲を受けて軍令部も本作戦に本気となる[18]。アリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェー作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意し、ミッドウェー作戦の全体像が固まった。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。

5月5日、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦「大和」他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。源田実第一航空艦隊航空参謀は渕田美津雄中佐に対し「第一段階作戦の後始末とこんがらがって、この作戦を検討する暇も無かった」と打ち明け、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという[19]

当初、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母「瑞鶴」をミッドウェーに、大破した「翔鶴」を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし「翔鶴」の修理には3ヶ月を要し、また「瑞鶴」も無傷であるものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった[20]。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、米軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機150機を戦力にいれると、航空戦力比は米軍有利となる。この「翔鶴」・「瑞鶴」の2隻の運用については、後述のヨークタウンの事例と比較され、本海戦における日本側の敗因の一つとして批判の対象となる事が多い。また米軍歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士はアリューシャン方面に空母「龍驤」、「隼鷹」を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している[21]

ドーリットル空襲

1942年4月18日、空母「ホーネット」はミッドウェーで空母「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)と合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃する。「エンタープライズ」は航空支援を担当し、「ホーネット」は日本本土に接近し、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊東京を始めとする日本の主要都市を攻撃する予定であった。4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・F・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、「ホーネット」は大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。

B-25爆撃隊は、東京名古屋大阪を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった[22]。空襲による被害は微小であったが、日本上空に米軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。また米軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった[23]。山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。渕田美津雄は、昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している[24]

図上演習

山本五十六の意気込みとは反対に、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた[25]。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため[26]、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していたのである[27][28]山口多聞少将や源田実航空参謀をはじめとする南雲司令部は作戦延長求めたが、山本五十六以下連合艦隊司令部は却下した[29]。ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している[26]。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評される程度[30]。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ[31]。着艦訓練は訓練使用可能空母が「加賀」のみだけだった為、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分しかいなかった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている[30]

さらに4月28日から戦艦「大和」で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」における図上演習では、日本軍にとって不安な結果が出た[32]。ミッドウェー基地の攻略に成功したものの、米軍基地航空隊の反撃によって空母「加賀」は爆弾9発命中判定で沈没判定となる[33]宇垣纏参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、「加賀」を復活させた[33] 。こうして図上演習は続行となったが、今度は攻略部隊の燃料が不足し、艦隊がミッドウェー島に座礁する[34]。アリューシャン方面では、空母「隼鷹」「龍驤」が濃霧の中、米軍水上部隊の襲撃を受け撃沈判定となる[33]。図上演習は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母補足撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は山本五十六長官を含めて問題点を確認することなく作戦を発動した[33]源田実野中郁次郎との対談に於いて、作戦目標が米軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であることを指摘し、「山本五十六は大変立派な人物だが、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があった。その上、航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、なぜ大和と山本が後ろからついてくるのだ」と述べた[35]。この事について草鹿はミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[36]。もっとも、多少の不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた[37]。坂上五郎(機動部隊機関参謀)によれば、ミッドウェー以降の作戦行動まで予定されていたという[38]

5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令される[39]

  1. 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
  2. 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。

アメリカ軍の対応

情報収集と分析

米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェー作戦に準備していた。昭和17年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。実際には、日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。

真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。昭和17年(1942年)4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。しかし、その時点では時期・場所などの詳細が不明であった。5月ごろから暗号解読を進めるにつれて 通信解析の資料が増え、検討を繰り返し、作戦計画の全体像が明らかになると、解読文中に登場する略式符号「AF」という場所が、主要攻撃目標であることはわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。しかし、アメリカ側は、日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。

爆撃されたダッチハーバー(6月3日)。

ワシントンは攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても、米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェーが目標であるとの各種情報と戦略的な観点から予想し、ハワイ情報関係者(レイトン情報主任参謀)らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェー島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた(オアフ島、ミッドウェーの間には海底電信もある)。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クワジェリン環礁の在第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。

なお、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。たとえば、沈没する空母「飛龍」から脱出後、米軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、米軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹」の写真を見せられて仰天している[40]。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている[41]

また半藤一利らによれば、該当する日本側の電文は残っていないという。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェーの部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読はできなくなった。

一方、日本軍では情報管理に綻びが見え始めていた。空母「飛龍」では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある[42]。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶したこともある[43]。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、ある艦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという[44]。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦「加古」艦長の高橋は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた[45]白石萬(第二艦隊参謀長)に至っては「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている[46]

作戦準備

ハワイ諸島とは、米国にとり太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェーはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。シマード中佐は、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名を撃退するには十分な兵力だった[47]

日本海軍のミッドウェーへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「龍驤」、「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、アッツ島キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェーに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェー守備隊は同島を死守などを述べた。しかし本作戦において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。

真珠湾のドックに入る空母「ヨークタウン」。

第17任務部隊(TF-17)のフレッチャー少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、日本海軍主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」も中破するという犠牲を払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けていた。機関からの燃焼煙を正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せず、速力が24ノットに低下したのである[48]。また2発の至近弾により左舷燃料タンクの溶接が外れ、燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海で油槽船「ネオショー」をも失っていたため、この燃料漏れは海上で立ち往生するという重大な結果を招きかねなかった[49]

ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港で長期の修理を行う必要があるだろうとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「エンタープライズ」「ホーネット」が真珠湾を出撃した。そしてヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出た。出航時、艦には修理工が乗ったままであり、航行中も修理が続けられた。乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している[50]。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は修理のため本国に戻る「サラトガ」の隊と取り替えて乗船させることで、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。

もしもニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、「ワスプ」や軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うことを考慮していなかった[6]

戦闘の経過

日本軍のミッドウェー海域進出

1942年(昭和17年)5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城加賀)、第二航空戦隊(飛龍蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した[51]。主力部隊他も2日後に同島を出撃している。三和義武(連合艦隊司令部次席参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる』と日記にしたためている[52]

5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦「千歳」、駆逐艦「親潮」、「黒潮」と共にサイパンを出航した[53]。海軍陸戦隊(太田実海軍少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され、北上した。

作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊で哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第2潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第8潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第1潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。

この為「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが5潜戦は日本からクウェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に5潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。

次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。しかし二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地がウォッゼ環礁に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。

最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である[54]。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、米軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊123潜は「見込み無し」という報告を送る[55]。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この作戦も、もし実施されていたらオアフ島に米空母がいないことが判明し、以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戦中止を連絡しなかった[56]

6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦「大和」に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符号を傍受した[57]。腹痛に悩まされていた山本長官だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた[58]。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた[59]。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという[60]。土井美二(第八戦隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し[61]、草鹿の回顧録にも同様の記述がある[62]

日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦「赤城」は「飛龍」、「蒼龍」、「榛名」、「霧島」の艦影を見失った[63]。「飛龍」と「霧島」は衝突しかけたほどである。司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた[64][65]。無線の使用により米軍が南雲部隊の行動を察知したという批判が日本側にあるが、米軍側にこの通信を傍受した記録はない[66]。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦「秋雲」を分離した[67]。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している[68]。午後4時30分、「赤城」と「利根」が米軍機らしき機影を発見すると、「赤城」から3機の零戦が発進して迎撃に向かった[69]。南雲部隊は、誤認の可能性が高いと判断している[70]。午後11時30分、「赤城」は雲間に米軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた[71]。「赤城」では日本軍輸送船団が爆撃を受けたことを知り、また米軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米軍空母に関しては無警戒であった[72]

米軍の哨戒と日本軍輸送船団攻撃

米軍は5月30日以降、ミッドウェー島の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する[73]。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った[74]。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した[75]。実際は輸送船「あるぜんちな丸」「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった[76]

(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見し(1:43)雷撃を開始した。夜間だった事もあり完全な奇襲になり、輸送船「清澄丸」が機銃掃射され、「あけぼの丸」に1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった[77]。この時、船団を護衛すべき第七戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野鈴谷三隈最上)は船団を見失い、離れた地点にいた。これは栗田のミスではなく、田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100浬地点を航行していたからである[78]

ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受けた太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて向わないよう緊急電を打った。フランク・J・フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している[79]。この段階では、フレッチャーも南雲機動部隊の位置を把握していなかった[79]

日本軍のミッドウェー島空襲

炎上するミッドウェー基地。
空母「エンタープライズ」艦上のTBD雷撃隊。
B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「赤城」。

ミッドウェー作戦では、二つの時間が存在する[80]。米軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらに米軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている[80]。日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる[80]。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戦闘詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった[81]

日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った[82]。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や飛行長からの指示や注意事項が通達された。日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェーからPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した[83]。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した[83]。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している[83]

日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進させた[84][85]。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は盲腸手術を行ったばかりなので出撃できなかった[86]源田実航空参謀も風邪により熱を出していた[87]。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始した[13]。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日であり、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった[7]

各空母からの発艦機数は、「赤城」から零戦9機、九九艦爆18機、「加賀」から零戦9機、九九艦爆18機、「蒼龍」から零戦9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、「飛龍」から零戦9機、艦攻18機である[85]。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している[88]。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった[89]。艦爆には250kg通常爆弾、艦攻には航空機用魚雷が装着され、各空母甲板に並べられた[90]

また偵察機として空母「赤城」 、「加賀」から九七式艦攻各1機、重巡洋艦「利根」、「筑摩」から零式水上偵察機各2機、戦艦「榛名」から九五式水上偵察機が発進した[91][92]。だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で「利根」は対潜哨戒につく九五式水上偵察機の発艦が優先された[93]。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進[94][95]。「利根」は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した[94][96]戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある[91][97]

最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩のため出撃した。このうち、「加賀」の零戦1機が故障のため飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。この時点で第一航空戦隊(赤城、加賀)は九七艦攻隊が雷装で待機、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は九九艦爆隊が待機していた。最近の調査で一航戦・艦攻隊は連合艦隊の指導に基づき雷装状態。二航戦・艦爆隊はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえ陸上攻撃、艦船攻撃どちらでも対応できるよう未装備状態で待機だった事が判っている。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた[84][98]。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった[99]

午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機 (利根4号機)を発見する[100]。近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した[101]。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦「長良」から、続けて戦艦「霧島」から敵機発見の煙幕があがった[102]。南雲機動部隊は直掩零戦隊を発進させはじめたが、米軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉機を撃墜できなかった[103]。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいた別のPBY飛行艇(チェイス大尉機)もミッドウェー空襲隊を発見・報告した[104]。米軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元に(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は「赤城」でも傍受している[105]

空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いて、TBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊に向け発進した[106]。午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると「エンタープライズ」のスプルーアンスに対し攻撃を命令した[107]。3空母は直ちに準備を開始、スプルーアンスは「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した[107]

午前3時16分(06:16)、ミッドウェー上空の米軍戦闘機隊は接近する日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、直後に零戦隊が逆襲に転じて空中戦となった[108]。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。米軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した[109]。映像撮影の為派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった[110]。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している[111]。日本軍攻撃隊は、米軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った[112]。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した[112]。友永大尉機も被弾して無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている[113]。米軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった[112]

攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し『カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた[114]。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(07:49)、筑摩4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)[97][115]。午前5時55分、利根1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。米軍側記録によれば、「ヨークタウン」から発進した10機の索敵機である[116]。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった[117]。日本軍主力戦闘機零式艦上戦闘機の主武装である「九九式二〇ミリ機銃」(20㎜機銃×2門)は1門あたり装填数60発しかない。頑丈な米軍機にも効果を発揮した20㎜機銃だが、携帯弾数の少なさは南雲部隊でも問題視されている[118]

日本軍の兵装転換と米軍基地航空隊の空襲

日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というように米軍機の継続的な空襲に悩まされていた[119]。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦「利根」は米軍重爆撃機10機を発見する[120]。米軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機(コリンズ大尉)だった[121]。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである[122]。「赤城」と「利根」が発砲し、直掩の零戦10機が迎撃する[123]。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した[124]。空母「赤城」は米軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で「赤城」三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、「赤城」(旗艦)の通信能力に支障が生じた[125]。「赤城」を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている[126]。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。

ミッドウェー基地から発進した米軍陸上機による空襲は、同島基地戦力が健在である証拠であった[127]。友永隊の報告をふまえ、南雲司令官はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、米軍基地航空戦力を壊滅させる必要に迫られたからである[128]。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は艦攻に魚雷を装備していた第一航空戦隊(赤城加賀)に対し[129]、『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換』と通知した[130]。搭載する九七艦攻のほとんどがミッドウェー空襲隊に加わり、九九式艦上爆撃機しか残っていない第二航空戦隊(飛龍蒼龍)に対しては、爆装せず待機が命じられた。米側の二航戦の資料によれば[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるため、その後から艦爆の準備を始めても間に合う事と、帰投する空襲隊の収容をしなければならなかった為である。海戦前に「飛龍」で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている[131]。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた[132]

その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャーはスプルーアンスに「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じた[133]。スプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令。第16任務部隊の空母「エンタープライズ」からF4Fワイルドキャット戦闘機10機(VF-6)、SBD ドーントレス急降下爆撃機33機(VB-6, VS-6)、TBD デバステイター雷撃機14機(VT-6)、および空母「ホーネット」からF4F戦闘機10機(VF-8)、SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機が発進した。しかし、午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機(利根4号機)が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンスは発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである。結果的に、このスプルーアンスの決断が勝因の一つになる。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、空母「ヨークタウン」からF4F戦闘機6機(VF-3、指揮官ジョン・サッチ少佐)、SBD爆撃機17機(VB-3、マックス・レスリー少佐)、TBD雷撃機12機(VT-3、ランス・マッセイ少佐)の35機を発進させた[134]。「ヨークタウン」は(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉の第5偵察隊(SBD17)、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った[134]。また潜水艦「ノーチラス」は日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦「嵐」を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった[135]

午前4時28分(7:28)、利根4号機は「赤城」の南雲機動部隊司令部に対し、『敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)』と発信した[136][137]。約10分後に受信した南雲部隊は、午前4時45分(7:45)、魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した[138][139]。これについて草鹿参謀長は午前5時ちょうどに利根4号機報告を知ったと著作で述べているが[140]、「赤城」の通信記録とは矛盾している。予期せぬ米艦隊発見報告に、南雲司令部は興奮した[141]。一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある[142]。午前4時47分、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4号機に命令した[143]。これについて生存者に南雲司令部に敵艦隊発見の報が届いたのは午前8時という証言が多いので、以後の下令は戦闘詳報が作られた際の作文であるという説もある[誰によって?]。実際には午前4時47分の命令は米側の戦闘情報班で傍受され記録が残っているので、戦闘詳報の方が正しいと思われる。

利根4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たな米軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(現地時間7:53)、戦艦「霧島」から敵機発見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地所属のSBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した[144]。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母「飛龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られず、合計8機を失った[145]。米軍側は「飛龍」に命中弾2、「加賀」に命中弾3を主張している[145]。米軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」が狙われたが、損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している[146]。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した[147]。最後に海兵隊SB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた[147]。この隊は零戦の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し、戦艦「榛名」を狙った[148]。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった[148]。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している[149]。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した[150]

米軍機動部隊発見と2度目の兵装転換

日本時間午前5時から午前5時30分(08:00から08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた[151]。ちょうど米軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。「赤城」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している[152]。混乱した状況下、南雲は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた[153]。すると午前5時20分ごろ、『敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)』という報告があった[154]。この段階での南雲司令部は、米軍空母が存在するという確証を持っていない[155]。しかし、午前5時30分(08:30)、『敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)』との打電が入った[156]。この空母は「ホーネット」である[157]。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。

草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている[158]。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。午前5時30分(08:30)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾を揚弾する[159]。同時刻、南雲は山口に対し、空母「蒼龍」に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機の投入を命じ、同機はただちに発進した[160]。この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。利根4号機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、米軍主力戦闘機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時の米軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち帰ることができた。

午前5時30分(08:30)、偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が帰還した。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する[161]。さらに直衛戦闘機の燃料補給、弾薬補給も絡み、第二次攻撃隊の発進は遅れていった[162]。午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る[163]。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた[164]。阿部少将は第八戦隊(利根筑摩)に交代の偵察機発進を命じると[165]、利根4号機に「帰投まて」を命じた[166]零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を利根4号機に命じた[167]。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった[168]

ただ偵察機の報告によれば米軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際の米軍機動部隊はもっと近くにいた)のと兵装転換自体、午前4時15分の転換開始から午前4時45分の一時中止まで30分しかたっておらず、殆どしていなかった。これについて淵田美津雄は敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたと述べている[169]。実際は「赤城」で6機、「加賀」で9機が済んでいただけだという。南雲司令部は幾つかの条件を検討した[170][171][172]

  1. 九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である[172]
  2. 第二航空戦隊(飛龍蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
  3. 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料がつき掛けており、これ以上待たせる事は出来ない[171]。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である[172]
  4. 敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るために殆ど発進しており、一度着艦して補給する必要がある[171]。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない[172]
  5. 戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦や米軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない[170][172]

零戦の護衛をつけずに攻撃隊を出すこと、第一次攻撃隊を見捨てることについて、南雲機動部隊参謀達の悩みは大きかった。草鹿龍之介参謀長は「一切の人情を放棄して第二次攻撃隊を発進させねばならなかったが、出来なかった」と述べている[173]源田実航空参謀は「機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになる。歴戦の搭乗員達の回収を優先させる」と判断し[174]、後に「部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わった」と後悔している[175]。図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えなかったという[176]

上記の項目を考慮した南雲司令部は、米艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行えると判断した[172]。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた[177]。同時刻、重巡洋艦「筑摩」から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある[178]。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった[179]

直後、第二航空戦隊を率いていた山口多聞少将は、「現状況は一分一秒を争う。第一次空襲隊100機を犠牲にしてでも敵空母攻撃隊の発進準備を急ぎ、用意出来次第攻撃隊を出すべき」との考えから、駆逐艦「野分」を中継して『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と進言した[180]。だが、山口の提案は前述の南雲司令部の検討により却下された。源田実の証言や淵田美津雄の著作では、この進言時点で第二次攻撃隊の準備は完成し、空母「赤城」と「加賀」の甲板に九七式艦上攻撃機、空母「飛龍」と「蒼龍」の甲板に九九式艦上爆撃機が並んでいたかのように述べている[181]。実際にはJ・パーシャルやA・タリーの調査により、この直前のBー17の空襲で撮影された「蒼龍」と「飛龍」の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず、直ちに攻撃隊を飛び立たせるのは不可能だという事がわかっている。また仮に出撃させたとしても相次ぐ直掩機の増強で艦内に戦闘機がなく護衛が付けられないので米軍迎撃機によって攻撃前に大損害を蒙り、珊瑚海海戦の二の舞だった可能性が高い。また米軍の高いダメージコントロール能力により陸用爆弾でどこまで米空母を無力化できたかは疑問である。

米軍艦載機の攻撃(雷撃)

第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが[182]、「蒼龍」では午前6時50分頃までかかっている[183]。南雲は連合艦隊(山本五十六長官)に米軍空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する[184]。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBD デバステイター雷撃機14機が日本の機動部隊上空に到達[185]、日本側では「赤城」や「筑摩」が確認した[186]。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる[187]。米軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま「赤城」を狙った。一機の雷撃機は「赤城」の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は「(敵機が)体当たりするかと思い、もう駄目だと思った」と述べている[188]。デバステーター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した[189]。ゲイ機は「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる[190]。戦闘後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる[191]。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった[189]。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機は「ホーネット」に帰艦した[189]

午前6時37分(09:37)、利根4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入り[192]、阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した[193]。同時刻、利根4号機と交代すべく筑摩5号機が発進した[193]。午前7時(10:00)、十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した[194]

午前6時50分(09:50)、ジーン・リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した[195]。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズ雷撃隊を掩護できなかった[196]。エンタープライズ雷撃隊は「加賀」を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する[197]。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連係ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている[198]

(10:10)、マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃機隊が南雲部隊上空に到達した。「飛龍」は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという[199]。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した「飛龍」を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した[200]。その上空では、戦闘機隊指揮官ジョン・S・サッチ少佐によって、彼の発案した対ゼロ戦空戦戦術「サッチ・ウィーブ」が初めて試されようとしていた[201]。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである[200]。雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、「飛龍」に魚雷5本を発射したが、全て回避された。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜という米軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという[200]。プランゲ博士の著作では「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している[202]。生還したら雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している[199]。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる[199][203]。この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦「嵐」に救助され重大な情報を供述したが、それについては後述する。  

米軍艦載機の攻撃(急降下爆撃)、日本軍三空母炎上

その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のため飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた[204]。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する[205]。午前6時55分(09:55)、米軍潜水艦「ノーチラス」を攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦「嵐」を発見する[206]。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する[207]。「嵐」は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた[208]。ただし「嵐」の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、「嵐」は「赤城」直衛で傍を離れていなかったと主張している[209]。エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した[210]。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった[207]

日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、レズリー少佐率いるヨークタウン艦爆機隊も戦場に到着する。南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆機隊とヨークタウン艦爆機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃機隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており[199]、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ[211]、「敵、急降下!」と「加賀」見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった[212]。「被弾した時、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、米軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と草鹿龍之介淵田美津雄は主張している[170]。これにより、いわゆる『運命の5分間』説が巷間に広まっているが[170]、これは誤りである[213]。日米生存者の証言や戦闘詳報の調査によりこの時点で各空母は直掩機の発着艦を行っており、攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった[214]。草鹿や淵田の脚色とも言われている。

先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊30機で、「加賀」を狙った[215]。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった[216]。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラファー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中する[217]。続いて3発が短時間の内に命中した[218][217]。なお「加賀」を攻撃したのはレズリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張する米国研究者もいる[219]

午前7時25分(10:24)、レズリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始する[220][221]。「蒼龍」は艦爆12-13機と記録[222]。発艦直後のアクシデントで少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」に突入した[223]。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾が「蒼龍」前部エレベーター前に命中し大爆発し、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た[221]。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である[221]。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦「磯風」の後部に至近弾となった[224]。   同時刻、ヨークタウン艦爆隊の内ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦「赤城」を狙った。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が「赤城」より発艦した時点で急降下がはじまる[225][226]。最初の1弾は左舷艦首約10mに外れたが(ベスト大尉は命中と主張)、続いて2発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した[227]。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある[228]。飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った[229]。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った[217]

約6分間のできごとであったが、太平洋戦争の転換点となる6分間となった。空母「加賀」では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中にいた岡田次作艦長以下指揮官らが戦死した[218][230]。午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗する[231]。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた[232][233]。「加賀」は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した[233]

3発の爆弾が命中した「蒼龍」の被害は被弾空母の中で最も深刻だった[234]。被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令されている[235]。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、「蒼龍」は再度の爆発を起こし、楠木は救出不可能と判断する。「蒼龍」は午後4時13分(19:13)に沈没した[236]。あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した[237]。搭乗員戦死者は機上・艦上合わせて10名で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。

「赤城」は爆弾そのもののによる被害は、爆弾1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能な範疇であった[238]。だが被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生する[239]。「赤城」は、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなった[240]。これにより洋上に停止した[241]南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長、源田実航空参謀、淵田美津雄総飛行隊長ら第一機動部隊司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦「野分」に移乗したあと軽巡洋艦「長良」に移ったという[242]。直接「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある[243]。午前8時30分(11:30)、南雲は「長良」に将旗を掲げた[244]青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により艦を救うことを断念し、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した[245]。「赤城」の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は「赤城」の処分を中止させた[245]。南雲は、木村進少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている[246]。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り、午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した[245]。上記2隻と比べて「赤城」では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらと比べ少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせて7名である。淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。

空母「飛龍」の反撃

空襲下の空母「ヨークタウン」。
急降下爆撃を受けて炎上する空母「飛龍」。

空母「飛龍」は雲下にあり、また、ヨークタウン雷撃機の攻撃を回避するため他の3隻の空母から離れており、米軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった[247]。午前7時50分(10:50)、次席指揮官阿部弘毅第八戦隊司令官は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が被弾炎上していることを主力部隊に通報する[248]。阿部は「飛竜ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた[248]。午前7時58分(10:54)、山口少将は南雲中将の指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、阿部に対し米空母に全力攻撃をかけることを告げた[249]。なお山口は、先任であり次席指揮官である阿部に「我航空戦の指揮をとる」と告げ、戦闘指揮の継承による混乱を巧みに回避している[250]。午前8時(11:00)、第一次波撃隊として小林道雄大尉指揮する零戦6機、九九艦爆18機の計24機が発艦した[251][252]。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった[253]。「飛龍」は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した[254]

飛龍第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた[255]。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している[256]。すぐに筑摩5号機から米軍機動部隊発見の連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した。また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆が米軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分)[257]。30分後の午前8時30分、米軍機動部隊発見を発信している[258][259]。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが[260]、無線機の故障により、南雲部隊では米軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという[244]。この頃、「赤城」の零戦隊7機が「飛龍」に着艦[261]。「加賀」からは零戦9機[262]、「蒼龍」からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した[263]

午前8時15分(11:15)、空母「ヨークタウン」では攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が発生して甲板が損傷する[264]。11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた[265]。偵察隊が発進してまもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する[265]。「ヨークタウン」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を発進させた[266]

午前8時20分(11:20)、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還[267]、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助される[268]。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)は、ついに「ヨークタウン」を発見した[269]。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみが「ヨークタウン」を攻撃した[270]。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功し、爆弾3発が命中している。1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失って航行不能となった[271]。フレッチャー司令官は、重巡「アストリア」に移乗した[272]

代償として、飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む艦戦3機、艦爆13機を失い、艦戦1機、艦爆5機が「飛龍」に辿り付いただけだった[273]。帰還した航空機も、零戦1が不時着救助され、修理不能艦爆1、修理後戦闘可能零戦1、艦爆2という状況だった[274]。飛龍攻撃隊は「エンタープライズ型空母」に爆弾5発、陸用爆弾1発命中し、大破或いは大火災、撃沈と報告[275]。しかし「ヨークタウン」は午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノットで航行可能となった[276]。また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩5号機は、午前9時5分(12:05)に米軍戦闘機の追跡を受け退避[277]、その15分後、新たな米軍機動部隊を発見した。

午前9時(12:00)、南雲中将も「長良」の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった[278]。それより前、駆逐艦「」は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley・Frank・Osmu)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った[279]有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した[279][280]。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している[281]

  1. 空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻[279][282]
  2. ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり[279][282]
  3. (米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり[279][282]
  4. 5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)[279][282]

連合艦隊は、米軍機動部隊の戦力と、出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米軍戦艦群のうち、戦艦「アリゾナ」、「ユタ」、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している[283]。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという[284]。オスマスは水葬に附された[285]。彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦オスマス」(USS Osmus, DE-701)に受け継がれている[286]

午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を発進させよと命じた[287]。午前10時30分(13:30)、「飛龍」から第二波攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)が発進[288]。零戦2機(山本、坂東)は「飛龍」に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった[289]。筑摩4号機も発進した[290]。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が「飛龍」に着艦する[291]。さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した[292]。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は『敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり』と高く評価している[293]。この時点で、山口は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った[294]。午前11時(14:00)、母艦「利根」で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する[295]。午前11時30分(14:30)、戦艦「榛名」の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた[296]

午前11時30分(14:30)、飛龍第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中の「ヨークタウン」だった[297]。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力で米軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した[298]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する[299]。「ヨークタウン」は直掩F4F戦闘機16を向かわせ、零戦2機、艦攻4機を撃墜した[300]。続いて艦攻1機が対空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷からヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中する[301]。ボイラー室と発電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[302]。戦果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戦3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失う[303]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[304]

友永大尉の九七式艦上攻撃機は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[305]。ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している[306]戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は[307]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[308]

山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった[309][310]。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃した「ヨークタウン」の後方に「別の空母炎上中」と報告した為である[311]。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している[312]。この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。「ヨークタウン」を航行不能とされたフレッチャーは、スプルーアンスの「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している[313]

飛龍沈没

空母「ヨークタウン」が飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(米軍機動部隊から72浬)と発信した[314]。駆逐艦のうち1隻は四本煙突の軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦)である[314]。戦艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」、軽巡洋艦「長良」(南雲旗艦)、駆逐艦3隻は「飛龍」の周辺に集結していたのである[315]。空母「飛龍」発見の電文を受信した空母「エンタープライズ」はウィルマー・ガラハー大尉率いるエンタープライズ爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた[316]

午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した[317]。友永機を含む零戦2機、艦攻5機を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着救助、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している[318]。鹿江隆(飛龍副長)は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという[319]。だが「飛龍」の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少していた[320]。炎上する「赤城」に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えたほどである[321]。山口は十三試艦爆により米軍空母の位置を把握し、同機の誘導により全兵力で薄暮攻撃をかける事を伝える[322]。これには、整備科が損傷機を修理することで、戦力が回復するかもしれないと山口達が考えたことも関係している[323]。この間、赤城・加賀・蒼龍から「飛龍」に着艦した零戦が交替で「飛龍」上空を守っていた[324]

十三試艦爆の発進準備が終わり[325]、友永隊を護衛して消耗した加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時[326]、米軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズ隊指揮官ガラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、「飛龍」飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した[327]。午後2時(17:30)、直衛の零戦6機が迎撃に向い、「飛龍」の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した[328]。続いてヨークタウン爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃する[329]。護衛の「利根」と「筑摩」が対空砲火で迎撃したが阻止できず、「飛龍」に爆弾4発が命中した[330]。「長良」からは、「飛龍」の飛行甲板、もしくはエレベーターが「飛龍」艦橋の前に突き刺さっているのが目撃された[331]。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦「榛名」を爆撃したが、至近弾に終わった[332]。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネット艦爆隊15機は「利根」と「筑摩」を攻撃したが、全て回避されている[333]。この他にも「飛龍」と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった[334]

炎上した「飛龍」は午後6時23分(21:23)に至るまで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された[335]。「飛龍」はしばらく洋上に浮いていた。横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの、誘爆が発生して消火不能となる[336]。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口は南雲に総員退艦させると報告し[335]、加来艦長と共に、駆逐艦「巻雲」の雷撃によって沈む「飛龍」と運命を共にした。空母「飛龍」が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが[220]、艦底部から脱出した機関科勤務34名が沈みゆく「飛龍」から短艇で脱出したのは、「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという[337]。彼らは15日後に米軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である[338]。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には脱出後に米軍に救助された飛龍機関科34名が入っている。

情報錯綜

軽巡洋艦「長良」に移乗した南雲忠一中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に行く、集まれ」と攻撃命令を出した[339]。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦「大和」の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた[340]。午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退と、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(空母:隼鷹龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)に合流するよう命じる[341]。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた[342]。同時刻、南雲も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える[343]。午前10時、山本長官はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた[344][345]

  1. 敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
  2. 攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
  3. ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。

山本長官の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応して米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した[346]。連合艦隊は、ミッドウェー基地の米軍航空兵力が使用可能かどうか、南雲部隊に尋ねている[347]。「長良」では空母「飛龍」が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことを誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた[348]。夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、「飛龍」の被弾と炎上により、米軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戦闘は困難と南雲は判断[349]、草鹿によれば「万事休す」であった[350]。そこで一旦西方に反転し、あらためて夜襲を企図した。草鹿参謀長は「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している[351]。近藤中将の第二艦隊は軽空母「瑞鳳」を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した[352]。炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後、戦艦大和艦長)に至っては「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令した[353]

午後2時13分(17:13)、筑摩2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止した「エンタープライズ型空母」を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した[354]。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した[355]。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する[356]。筑摩2号機は重巡洋艦「筑摩」を通じ、南雲司令部に対し「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告する[357]。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、やがて偵察機の報告を信じた[358]。プランゲ博士は「南雲は苛立たしさのあまり、頭を壁に叩きつけるか、索敵機パイロットの首をその手で締めたかっただろう」と記述している[359]。戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録[360][361]。南雲は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた[362]

  1. 敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり[359]
  2. 当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす[359]
  3. 主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット[359]
  4. 機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし[359]

午後5時30分(20:30)、山本長官はGF電令159号にて伊168号潜水艦に対し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた[363]。南雲は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電に於いて筑摩2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する[364]。南雲は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、日本軍空母全滅を報告した[365]。すると山本長官より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に「赤城」と「飛龍」を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた[366]。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、米軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。

日本軍の撤退

重巡洋艦 三隈に急降下爆撃を行うSBD ドーントレス
炎上傾斜する三隈。

日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合同を命じた[367]。午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で、以下の命令を伝達した[368]

  1. AF(ミッドウェー島)攻略を中止す[369]
  2. 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし[369]
  3. 警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし[369]
  4. 占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし[369]

ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始。午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、連合艦隊より飛龍沈没を確認せよとの命令があった[370]。「飛龍」の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、「長良」偵察機を発進させ、駆逐艦「谷風」を「飛龍」処分と生存者救助のために分派した[371]。「谷風」は空母「エンタープライズ」を発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受け、4機撃墜を報告して生還した[372]。「ホーネット」隊は香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風)を攻撃したと報告し、1機が撃墜された[373]

支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:三隈最上鈴谷熊野)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本長官から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた[374]。その後、夜戦中止に先立って砲撃中止命令が出された。しかし第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ってから1時間20分後、アメリカ海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こした[375]。「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて「大和」以下主力部隊と合流するため北西に向かった。

一方の米軍では、「飛龍」の攻撃隊により空母「ヨークタウン」が深刻な損害を受けて放棄された。駆逐艦「ヒューズ」だけが「ヨークタウン」の護衛として残された[376]。その後「ヨークタウン」ではサルベージ作業が進み、艦隊曳船「ヴィレオ」が救助に向かった[377]。フレッチャーから指揮権を譲渡されたスプルーアンスの第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮したため、一時的に東へ退避する[378]。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始した。

日本時間6月6日、潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で「三隈」と「最上」を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃をおこない、SB2U指揮官機が「三隈」の後部砲塔に体当たりし、「最上」が至近弾で戦死者2名を出した[379]。6月7日、スプルーアンスは『空母1隻、駆逐艦5隻発見』という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を発進させた[380]。米軍攻撃隊は空母のかわりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された重巡洋艦「三隈」は集中攻撃を受けて沈没した[381]。また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗している[382]。翌8日午前中、「最上」は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した[383]

戦艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して翌0時に夜戦を中止し、3時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と、第七戦隊を含む第二艦隊を率いて撤退した。主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。「赤城」の生存者達は、「大和」以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵っていた[384]。日本軍輸送船団は、米軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した[385]。山本長官は、米軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが[386]、米軍はそこまで深追いしなかった。

伊-168の雷撃により轟沈するハンマン

6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。駆逐艦「ハンマン」に移乗していたバックマスター「ヨークタウン」艦長と161名が再び「ヨークタウン」に乗艦している[387]。さらに駆逐艦「モナガン」、「グウィン」、「バルチ」、「ベンハム」が護衛に加わった[387]。その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた潜水艦「伊-168」が「ヨークタウン」撃沈の任を受け、同艦に接近していた[388]。(13:34)、「伊-168」は4本の九五式魚雷を発射し、2本が「ヨークタウン」左舷に命中する[389]。米軍機動部隊の主力として活躍した「ヨークタウン」は沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没した[389]。日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた[390]

6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。米軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から「飛龍」沈没を知り、計3隻の撃沈を確信していた[391]。「赤城」については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

両軍の損害

日本軍側

  • 沈没喪失
  • 大破、のち自沈処分
  • 大破
  • 中破
  • 航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機)
    • この中には「彗星」試作機の偵察型改造型を含む。
  • 戦死[398]

上記の沈没・損傷艦の他、筑摩航空搭乗員3名、利根航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中には友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら121名の航空機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) [399]。搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。空母上で米軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は、赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である[399]

なお、文献によっては熟練搭乗員多数を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは上記にもあるように誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在だった。

  • 6月10日大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」[400]、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した[400]。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である[401]。米空母2隻撃沈は山口多聞少将(中将)も誤認しており、山口は真実を知ることなく空母「飛龍」と共に戦死した。

アメリカ軍側

  • 沈没喪失
  • 航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる。[402]

米軍は日本機動部隊の撃滅に成功したものの、航空部隊の損害は大きいものがあった。特に護衛戦闘機を伴わずに攻撃を行った雷撃隊、急降下爆撃隊の損害は甚大であり、日本側を上回る数のパイロットが戦死した。

  • 第16任務部隊:
エンタープライズ
  • 6月4日時点でエンタープライズの可動機はF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機14機の計76機であった。[403]
6月4日
  • 南雲機動部隊に対して可動機すべてを発進させ攻撃。雷撃隊14機は護衛戦闘機の援護がないまま南雲機動部隊に攻撃を行い10機を喪失。エンタープライズの報告書では日本軍の対空砲火は効果的ではなく損失のほとんどは零戦の攻撃によるものであった。対空砲火は主に目標指示に使用されていた模様である[200]。続いて急降下爆撃を行った第6爆撃機隊及び第6索敵爆撃機隊の33機は目標突入時には攻撃を受けなかったものの爆撃後に強力な対空砲火と零戦の攻撃に遭い18機が未帰還となった。同日夕刻に行われた飛龍に対する第二次攻撃にはエンタープライズ、ヨークタウン隊混成のSBD急降下爆撃機24機が出撃、攻撃時にエンタープライズのSBD1機が零戦に撃墜されたものの飛龍に直撃弾4発を命中させ大破、炎上させた。[404]
  • 6月5日:衝突事故で落伍した重巡最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できず付近を航行中の香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風の誤認)を攻撃。谷風から激しい対空砲火を浴び命中弾はなかったもののエンタープライズ隊は全機帰還。[405]
  • 6月6日:第16任務部隊は最上、三隈、及び護衛の駆逐艦2隻に対する攻撃を続行。F4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機31機、TBD雷撃機3機が攻撃に参加。エンタープライズの航空隊は損害を受けずに最上型重巡に5発の命中弾を与え帰還。攻撃後2機のSBDが炎上する三隈の偵察に向かい米軍は最上型重巡を誤って2万トンクラス、30センチ砲装備の巡洋戦艦であると結論づけている[406]
  • 6月4日から6月6日の3日間の戦闘でエンタープライズはF4F戦闘機1機(燃料切れ)SBD急降下爆撃機20機、TBD雷撃機10機の計31機を喪失。全航空団の40パーセントに及ぶ損害を受けパイロット24名、銃手25名の計49名が戦死した[407]
ホーネット
  • 5月28日から29日にかけて事故等によりSBD急降下爆撃機2機が失われ6月4日時点ではF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機の計77機が可動状態にあった。[408]
6月4日
  • 南雲部隊へ向けてF4F戦闘機10機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機が発進。真っ先に攻撃を行った雷撃隊15機は零戦の集中攻撃を受け全滅。ホーネット雷撃隊の生存者はゲイ少尉ただ一人であった。F4F、SBD隊は日本機動部隊を発見できずにミッドウェー島へ不時着。一部は燃料が足りず海上に不時着した[409]。飛龍攻撃に向かった第二次攻撃隊のSBD 16機は付近を航行中の護衛艦艇を攻撃。戦艦1隻に3発、重巡1隻に2発の命中弾を与えたと報告(日本側には該当する記録がなく誤認の可能性が高い)、全機無事に帰還した。飛龍はすでにエンタープライズ、ヨークタウン隊の攻撃を受けて激しく炎上しており目標としての価値がないと判断されたため攻撃されなかった[410]
  • 6月5日:衝突事故で損傷を負った最上、三隈へ対しSBD26機が発進。目標を発見できず付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。5発が目標の30メートル以内に着弾したものの命中弾なし。燃料切れで不時着水した1機を除く全機が帰還した[411]。谷風は合計58機もの急降下爆撃機から攻撃を受けたものの艦長・勝見基中佐の的確な操艦により全弾を回避した。
  • 6月6日:エンタープライズ隊と合同で撤退する最上、三隈に対して再攻撃を実施。ホーネットからF4F 8機、SBD 26機が発進。対空砲火でSBD1機を失ったものの戦艦1隻に命中弾3発、重巡1隻に命中弾2発を与えたと報告した。帰投後SBD 24機は最上、三隈に止めを刺すために再び出撃、2隻にさらに命中弾を与え全機無事に帰還した[412]
  • 6月4日から6月6日にかけてホーネット航空団はF4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機5機、TBD雷撃機15機の計32機を損失。全航空団の41パーセントが失われパイロット21名と銃手16名の計37名が戦死した[413]
  • 第17任務部隊
ヨークタウン
  • 6月4日時点での可動機はF4F戦闘機25機、SBD急降下爆撃機36機、TBD雷撃機12機の計73機であった[414]
6月4日
  • 南雲機動部隊に対してF4F戦闘機6機、SBD急降下爆撃機17機、TBD雷撃機12機の計35機が発進。最初に攻撃を行った雷撃機12機は魚雷投下前に7機が零戦に撃墜され更に魚雷投下後に3機が撃ち落とされた。TBD雷撃隊の援護に回った第3戦闘機隊の6機は零戦20機以上に襲われ1機を失いさらに1機が修理不能の損害を受ける。残った4機は零戦6機の撃墜を報告し帰還。TBD雷撃隊に続いて蒼龍に急降下爆撃を行ったSBD 17機は5発の命中を報告し全機無事に帰還[415]。ヨークタウンはその後飛龍から2度に渡る攻撃を受け大破、放棄され飛行隊はエンタープライズに乗艦して戦闘を継続した。飛龍に対する第2次攻撃にはヨークタウンの急降下爆撃隊も加わり飛龍を大破、炎上させるも2機のSBDが零戦に撃墜された[416]
  • 6月5日:衝突事故で落伍した最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できずに付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。命中弾はなく激しい対空砲火を浴びヨークタウンのSBD1機が撃墜された[417]
  • ヨークタウンの航空団は6月4日から6月6日の作戦行動でF4F戦闘機9機(5機が撃墜、2機が不時着で失われ、ヨークタウン沈没時にさらに2機が失われた)SBD爆撃機13機(10機が不時着とヨークタウン沈没時に失われ、飛龍攻撃時に2機、谷風攻撃時に更に1機を喪失)TBD雷撃機12機(2機が不時着水で失われ10機が機動部隊攻撃時に未帰還)の計34機を喪失。全航空団の47パーセントが失われパイロット15名と銃手13名の計28名が戦死した。ヨークタウンの戦闘報告書では急降下爆撃隊の人員の損失は0でSBD10機が燃料切れとヨークタウン沈没時に失われたとある。しかしエンタープライズの戦闘報告書ではヨークタウン被弾後に移乗してきた同艦の急降下爆撃隊3機が撃墜され6名が行方不明と記載されている。ヨークタウンの報告書は海戦後わずか2週間で纏められたため記載ミスがあったものと思われる[418]
  • 基地航空隊

ミッドウェー基地には第22海兵航空群、第7陸軍航空軍分遣隊、海軍航空部隊など計116機が展開していた。防空戦闘と日本海軍機動部隊に対する攻撃で基地航空隊も甚大な損害を受けた。

  • 可動機
海兵隊第221戦闘航空隊(VMF-221)
  • F2A 21機、F4F 7機
  • 海兵隊第240索敵爆撃隊(VMSB-240):SBD 18機、SB2U 16機(この飛行隊にはパイロット29人しか所属していなかったのでVMF-221からパイロット1名を借りて戦闘に参加。パイロットの人数の関係上SBD 18機とSB2U 12機しか戦闘に参加できなかった)
  • 海軍航空隊:PBY 28機、TBF 6機
  • 第7陸軍航空軍分遣隊:B-17 16機、B-26 4機 [419]
防空戦闘
  • ミッドウェー基地レーダーサイトから大編隊接近の報を受け、直ちに可動機すべてのF2A 20機 F4F 6機が発進。上空有利な位置から日本軍攻撃隊に襲い掛かった。しかし護衛の零戦36機が直ちに反撃、旧式のF2Aは零戦に対して全く歯がたたず隊長のパークス少佐機を含むF2A 13機 F4F 2機が撃墜された。また帰還した11機も被弾により大きく破損しておりF2A 5機とF4F 2機が再使用不能の損害を受けた[420]。第221戦闘航空隊の報告書には以下の証言が記載されている。
I saw two Brewsters trying to fight the Zeros. One was shot down, and the other was saved by ground fire covering his tail. Both looked like they were tied to a string while the Zeros made passes at them.(私は2機のブリュースターが零戦と戦おうとしているのを目撃した。1機は撃墜されもう1機は地上からの防御砲火によって救われた。2機はまるで縄で縛られて零戦から攻撃されているようであった)。[421]
  • 南雲機動部隊への攻撃:PBY哨戒機からの通報を受け、ミッドウェー島にあったすべての航空機は逐次南雲機動部隊へ攻撃に向かった。最初に南雲機動部隊を攻撃したB-26 4機はアメリカ陸軍航空隊初となる雷撃を実施。しかし命中弾はなく2機が撃墜され、帰還した2機も被弾により激しく損傷しており再使用不能になった(帰還した内の1機は500発以上も被弾していた)。続いて攻撃に向かった最新鋭のTBF雷撃機6機も直衛の零戦に攻撃され、5機を失い、辛うじて帰還した1機も激しく被弾しており銃手は機上戦死していた[422]。ミッドウェー基地を発進したSBD 16機,SB2U 11機 (SBD 2機とSB2U 1機はエンジン故障により引き返した)も程なく機動部隊を発見。ヘンダーソン少佐指揮のSBD 16機はパイロットが経験不足なこともあり、より危険で効率の悪い緩降下爆撃を行った。しかし零戦から激しい攻撃を受け、命中弾はなくヘンダーソン機を含む8機が撃墜された。残る8機も被弾により大きく損傷していた。米軍は戦死したヘンダーソンの勇気を称えガダルカナル島の飛行場をヘンダーソン飛行場と命名した。SBD 隊の後に戦場に到着したノリス少佐指揮のSB2U 11機は、零戦が補給の為に一時的に空母に着艦していたこともあり、4機を失っただけで済んだ。しかし命中弾を与える事はできなかった[423]。最後に陸軍航空隊のB-17 16機が高高度から爆撃を行ったが、高速で回避運動を行う南雲部隊へ1発も命中させることができず全機ミッドウェー基地に帰還した[424]
  • 6月5日:ミッドウェー基地航空隊は前日の戦闘で激しく消耗していたものの、可動機全機をもって退却する日本艦隊に向け攻撃隊を発進させた。第240索敵爆撃隊は稼動機すべてのSBD 6機とSB2U 6機を出撃させ最上、三隈を攻撃。しかしながら命中弾を得られず、対空砲火に被弾したフレミング大尉は三隈に体当たりしたとも言われている[425]。またB-17部隊もこの攻撃に参加したが、爆弾はすべて外れた。対空砲火で1機を、燃料切れで1機を失った[426]
  • 3日間に及ぶ戦闘で、第22海兵航空群は42名の搭乗員を失い負傷者も25名に及んだ[427]。また南雲部隊へ雷撃を行ったTBF隊も16名の戦死者を出した[428]

戦死

  • 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハマン84名、駆逐艦ベナム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。

本海戦の影響

日本軍側
山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェー海戦で空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けた。事後、作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。もっとも軍令部は、この敗北を国民には伝えなかったものの、参謀本部に対しては迅速に伝えている[429]。水上部隊の戦力では優位を保っていたとは言え、連合艦隊の中核戦力を一挙に失ったことによる高級指揮官らの困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、ラバウルから1,000kmもかなたのガダルカナル島に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦などいくつかの局所的な戦いでは日本は勝利を手にするものの、ガダルカナルニューギニアマキンタラワ島をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始めた。1943年の年末には日本軍の勢いが落ち始め、後年ミッドウェー海戦は太平洋戦争の転換点とも評されるようになった。
機動部隊の主力であった第一、第二航空戦隊が壊滅したため、新たに翔鶴瑞鶴を中心として機動部隊の再建が図られたが、日中戦争以来のベテランである一、二航戦の穴は、最新鋭とは言え経験不足の二艦で埋められるものではなかった。このことは、ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部側が「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べていることからも明らかである[430]。ミッドウェーでの各空母のパイロットの喪失は、反撃を行った飛龍を除けばさほどでもなかったが、正規空母4隻を失ったことは取り返しがつかず、これ以後米機動部隊に対して数的劣勢に立たされることになり、本来二線級の戦力である軽空母や改装空母まで主力として投入せざるを得なかった。
また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「信濃」となる。戦艦「伊勢」「日向」は5・6番砲塔を撤去して飛行甲板を設置し、航空戦艦となった。改鈴谷型重巡洋艦伊吹」は搭載していた主砲を撤去して軽空母に改造され、さらに、商船改装の空母の建造や、飛龍を元にした雲龍型航空母艦15隻追加建造が計画された。しかし、本海戦に続いてガダルカナル島をめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失っていったことにより、若手搭乗員の訓練・補充が追いつかず、この後の日本機動部隊は規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的には上回ることができなかった。また改造空母群も完成時期が遅れたり、搭乗員や搭載機そのものがなく、戦局に全く寄与しなかった。空母「信濃」に至っては就役してから20日で沈没し、軽空母「伊吹」は完成せず、空母「雲龍」は特攻兵器輸送任務中に潜水艦によって撃沈され、航空戦艦2隻と空母「葛城」は「輸送船」や「復員船」として大活躍した。これに対して、アメリカの戦力が量・質ともに時間とともに桁違いに充実していったことを考えれば、この時点において日本は実質的に太平洋戦争の勝利の機会を失ったといえる。
作戦の混乱により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとした[431]。これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲を施した戦果報告を行なうようになり、この状態は第二次世界大戦の終結まで続く。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて搭乗員の経験不足や、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも関係しており、ブーゲンビル島沖航空戦台湾沖航空戦などが代表例である。米軍も、ミッドウェー海戦に先立つフィリピン防衛戦では、アメリカはまったく架空の日本戦艦撃沈の報を国民に伝え、終戦までそれを訂正することはなかった。珊瑚海海戦でもアメリカは、自軍の戦果を過大宣伝している。それでも、総じて米英の場合は日本やソ連ほど極端ではない。
アメリカ軍側
アメリカ軍は、それまでは隻数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった空母を、戦前から建造を進めていたエセックス級空母の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる[432]。大戦後期のマリアナ沖海戦レイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である[433]
太平洋の戦局に余裕を得たルーズベルトは、装備したばかりのM4中戦車300両を回収して、他の武器と共に北アフリカ戦線に急送し、9月3日にスエズに到着。10月23日、英軍はエル・アラメインから反攻し、ロンメル軍を撃破した。ロンメル軍の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦(2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図る)も潰えた。

戦闘の分析

指揮体系

航空戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。アメリカ軍は、現場の戦闘部隊の指揮官で、空母部隊指揮経験のある フランク・フレッチャー少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に空母ヨークタウンが機能を失うと、即座に指揮権をスプルーアンス少将に移し、その空母エンタープライズによって日本の残存空母飛龍を仕留めることに成功した。南雲も、乗艦を失った際に山口多聞少将の具申に従って指揮権を委譲し、ヨークタウンの撃破に成功している。一方、日本機動部隊の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、山口の即時攻撃要請を却下し、再度の兵装転換命令を出さざるを得なかった(理由は後述)。これらのことは、司令官が空母部隊の指揮運用に不安要素を持つ南雲忠一中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる[434]

日本軍の敗因

本作戦が失敗した原因は多岐にわたる要素が挙げられるが、ここでは主要なものに関してのみ述べる。

艦隊構成

戦艦を主戦力とし、その概念で空母部隊も編成した。空母は、広い攻撃圏を有する飛行部隊を持っており、戦力の集中が簡単で、各艦の距離を戦艦の10倍以上持てる。しかし、あえて戦艦並みの距離で4隻が一緒に行動したため、同時攻撃を受けて3隻が壊滅した。

空母の集中運用は、各艦との連絡が取りやすく、指揮官の意思伝達を容易にし、艦隊すべての航空戦力を集中的に管理しやすい反面、空母自体の防御力の脆弱性もあり、攻撃を受けると一挙に大損害をこうむる危険もある。また、空母の艦長も各航空戦隊の司令官にも、自分の飛行隊を自由に使える権限がなく、不測の事態に対する柔軟性に欠ける。対して米艦隊は空母を分散運用し、結果的に被害をヨークタウンのみにとどめている。しかし、本海戦における米軍の航空運用は、各空母飛行隊間の連携がほとんど取れておらず、兵法における愚策とされる戦力の分散と逐次投入という状況を招いた。これは空母の分散運用の最大の欠点が現れた形である。現に、戦闘機隊と連携できずに単独で突入した雷撃機隊は有効な攻撃もできずに壊滅している。米軍にとって幸運だったのは、兵力の分散が偶然にも波状攻撃の形となり、日本艦隊の防空の意識が低空に向けられていた隙を突くことになったことである。本海戦は、日本側に空母集中の最大の欠点が如実に現れ[435]、米側は逆に分散運用の欠点が利点に転じた結果となった。

南雲機動部隊は赤城加賀蒼龍飛龍の空母4隻に、霧島榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻と、空母4隻の護衛艦が貧弱であった。機動部隊の300浬(約550km)も後方に、大和長門陸奥の戦艦3隻、鳳翔千代田の空母2隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢日向扶桑山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛比叡の戦艦2隻、瑞鳳千歳の空母2隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない。また、大型戦艦は空母の前に布陣していれば、おとりとなって空母を守れた可能性もあることから、そもそもの編成に不備があったとの指摘がある。

また、南雲機動部隊に、本来与えられてしかるべき海上航空戦力が与えられなかった、という批判もある。ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦として、主戦場より遠く離れたアリューシャン攻略作戦には、貴重な2隻の空母隼鷹龍驤を基幹とする艦隊が投入された。また、珊瑚海海戦を戦った2隻の空母のうち、翔鶴は中破していたが、もう一隻の瑞鶴についてはほとんど無傷であり、搭載機と搭乗員の手配をすればミッドウェー海戦への参加も不可能ではなかったにもかかわらず、なんら、このような努力はなされなかった。

南雲忠一に対する批判と擁護論

本作戦における南雲に対しては、兵装転換による無駄な時間を生じた点などで、その作戦指揮に対する批判が多い。また、それに対して当時の背景状況や、部下の進言・不手際にこそ問題点があったとする反論もみられる。なお、これらについては、南雲忠一の記事にも詳しい記載がある。

(1) 指揮官としての経歴やパーソナリティに関する問題点について

南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったとよく言われている。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している

こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。また、そもそも空母同士による航空機主体の海戦自体、この直前に行われた珊瑚海海戦が史上初であり、各国とも運用のノウハウは無く経験がない事自体は誰もが一緒という事も重要だろう。

山口にしても航空戦の実戦経験は基地航空隊でのみであり消耗したら直には航空戦力を補充できない空母同士の海戦を理解していたかについては疑問がある[436]。米側も空母を初めて指揮するスプルーアンス少将は航空機を逐次投入するという本来なら愚策である決定をしている。運よく波状攻撃という形になり艦爆隊が奇襲できたが其々が各個撃破されていた可能性も充分ある。(実際雷撃隊はほぼ全滅している。)

また南雲の判断自体当時の艦隊の状況を考えれば至極真っ当であり機動部隊指揮官として今作戦の目的完遂の実質的指揮官である以上、作戦初期の段階で航空戦力をすり潰し戦果は低い可能性の高い運用はできないだろう。

(2) 作戦指揮そのものに対する問題点について

敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が今まで多くなされてきた。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できるし、対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことができたと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。 この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見や、南雲がこの判断を下したのは源田の進言に従っての事であることも考慮されるべきという意見がある。

また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、近年以下のような用兵等の観点からの反論がでており、従来の定説が覆されてきている。これらについての詳細は下記に述べる。

8時21分~24分、B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「飛龍」。この数分後に山口は南雲に対し「ただちに発進の要ありと認む」と具申している。
上記の飛龍と同時刻にB-17爆撃機の空襲を受け回避運動を続ける蒼龍。こちらにも飛行甲板には艦載機は見えない。

A 山口司令官の意見具申を採用して攻撃隊を向かわせていたら勝てた。

  • 右記の3枚の写真から見て意見具申時に空母にはなんら攻撃隊は準備なされていない事が判っている。即時攻撃自体が出来ない状況である以上それを南雲の失敗の一つとするのは明らかな誤りである。仮に敵発見の報告後、直ちに攻撃隊を準備し発進させたとしても、それまでの防空戦に大半の戦闘機を割いている状況だった。これは戦闘機の護衛がほとんど無い実質丸裸の攻撃機/爆撃機隊を送り出す事になることを意味する。(先の珊瑚海海戦で攻撃隊が米軍戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出している例があり、適切な措置であるとはいえない。)実際の飛龍攻撃隊によるヨークタウン空襲での結果から見ても攻撃隊が大損害を被り米空母にはあまり損害を与えられなかった可能性の方が高い。また米空母発見の報が届いた時間帯は、ミッドウェーを攻撃した第一次攻撃隊がちょうど帰還してきた頃である。当時の空母は、発艦・着艦を同時に行うことはできない。攻撃隊発進を優先することは、第一次攻撃隊の着艦を妨げるし燃料の残余から考えても実質不可能であり、反復した波状攻撃としては間が空く。これは米空母に復旧・反撃の時間的猶予を与えることになる。

B 兵装転換せず陸用爆弾のままでも攻撃隊をだすべきだった。

  • 対地爆撃装備のままでの艦船攻撃は(直接的に浮力を奪うための攻撃という観点で)効果をさほど期待できない。実際飛龍の反撃で爆弾を3発受けたヨークタウンは2時間ほどで復旧している。また、艦攻による水平爆撃は命中率が悪く、充分な成果を挙げ得るとは考えにくい。時間的に見ても陸用爆弾への変更は殆どなされておらず対艦兵装への転換はそれほどかかるものでは無いと判断したのは誤りともいえない。

C 利根4号機の報告に対する決断が間違っていた。

  • 利根4号機が知らせてきた米空母の位置が、実際よりも遠方であった。このため、時間的余裕があると判断したがそう決断することは決して不自然なものではなく、第一次攻撃隊の収容と、それに平行して艦内での対艦攻撃装備への転換を実施して、完全な攻撃隊を編成することは、誤った措置であるとは言い切れない。

D 偵察を1回のみの1段索敵しかせずおろそかにした。

  • 索敵軽視と評する批判自体、その論拠となる「発進の遅れた利根4号機の報告を待たずに、攻撃目標をミッドウェーに切り替えたこと」については、代替機でより早く確実な情報を得ようとしても、要員や機材の準備が間に合う確証がないことからやむを得ないものである。また、索敵方法自体も従来から行われているものであり、むしろその問題点の発覚は本海戦の戦訓によるものであった。雲上を飛行したために見逃してはいるが、筑摩の偵察機は米軍艦隊上空を飛行しており、水平方向の索敵範囲としては問題の無いものである。レーダーも無い機体で視界の不十分な雲上を飛行して見逃したことは、そのパイロットに責を問うべきで、南雲が直接批判されるべき問題ではない。

(3) ミッドウェー攻略の作戦自体を問題視する意見

以下のようにミッドウェー攻略の計画自体の破綻を指摘し、南雲に責を問えないとする意見もある。ただし、米軍の待ち伏せは日本軍が作戦実施前に把握できなかったことであり、これを以っての擁護論は現場の戦術レベルの問題と戦略レベルの問題を混同している側面があると言える。また、これ自体が批判と同様に結果を知っているからこその後付けの指摘に過ぎないともいえる。

  • もともと、作戦の方針はミッドウェーを攻撃して、その後反撃の為に進出してきた米空母部隊を撃滅するというものであり、米軍があらかじめ待ち伏せていることは想定外に近い状況であった。米軍が待ち伏せていたという時点で作戦そのものが破綻していたと言える。これを踏まえて、期せずしてミッドウェーと、米空母を同時に相手するという状態に陥ったことが、雷爆装転換による混乱という形になって現れ、結果空母部隊をもっとも弱い状態で米軍の攻撃にさらす事になった。これは機動部隊の指揮をとる南雲だけに問われる責任ではない。

レーダー

米艦隊にはレーダーがあり、日本空母にはないという装備上の大きな差があった。米軍はレーダーを用い、接近する航空機や艦船に対して有効な対応が直ちにできたため、奇襲を受けることはなかった。また、攻撃機の空中退避、戦闘機の邀撃、艦隊自体の退避が行えた。そして、米空母の管制により性能で日本側に劣る米戦闘機も空母の近くでは有利に防空戦を行えた。 もし日本に対空レーダーが装備されていれば、奇襲を受けて空母が全滅することはなかったと当時から言われ、以後、空母翔鶴を最初に21号電探等の装備が始まった。ただし、そのためにはレーダー探知情報に基づいて自軍戦闘機を誘導するCICのような体制がなければならないが、当時の日本軍戦闘機が装備していた無線電話機は近距離でもまともに交信できない劣悪な性能であった、従ってレーダー単体が完備されていたとしても、組織的な防空体制を整えていなければ、状況はほとんど変わらなかったとも言える。

なお、主隊の伊勢と日向には、試作型の水上レーダーと対空対水上兼用レーダーが日本海軍で最初に装備されていた。

情報戦

米海軍が日本海軍の暗号解読に成功し、これに状況判断を加えることで、作戦計画の概要をほぼ完全に把握し、的確な邀撃作戦を準備していたことがまず挙げられる。一方日本軍は米軍の暗号をほとんど解読できず、主に通信状況、方位測定、平文傍受などの情報から状況判断を加えて分析しており、確度は低かった。

日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前より使用していたため寿命が尽きかけていた。ハワイの米軍情報隊に暗号は解読され、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇が判明しており、作戦全体像がほぼ察知されていた。日本軍としては暗号書などを改訂しようとしていたが主力部隊の出撃に間に合わず、作戦準備期間の電報が大量に解読されてしまう事態があった。

加えて珊瑚海海戦、5月15日にマーシャル諸島南方において敵空母を発見したことにより、敵空母の所在についての判断を誤る結果となったことも作戦行動に影響している。日本側が想定した米空母数は2隻。日本側の4隻と比べると倍の戦力差があり、このため今まで通り米空母は決戦を避けるのではないかということも考えられていた。情報戦における敗北については戦闘後に宇垣連合艦隊参謀長も「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」「敵情偵察不十分」を敗因として挙げている。

この情報戦は日本海軍の組織の中で最も稚拙なところで、連合艦隊に情報参謀という情報分析を専門に行う参謀が無く、その価値が軽視されていた為におこった事である。

通信

南雲機動部隊を前衛に出し、後方を戦艦大和を旗艦とする本隊が進んでいたのだが、大和には高性能の受信設備と優秀な情報収集班が配置され、ミッドウェー付近の敵の状況を推測の範囲ではあるが、ある程度まで把握していた。片や南雲機動部隊側の通信設備は性能が劣り、敵の情報をつかむことが困難であるため、本隊からの情報が必要であったが、最後まで的確な情報提供がなされなかった。この情報伝達の不備が敗因のひとつであったと指摘されている。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイで指揮を執り、空母部隊に逐次連絡していたのに比べ、同じく前線部隊に情報を提供する立場にある連合艦隊司令長官山本提督は無線封鎖中の戦艦大和で指揮を執り、情報は一切発信しないという状況であった。また日本軍は全てを暗号に組み替えており(米軍は緊急時には平文のまま打電することもある)、通信自体に時間がかかった。

作戦計画

ミッドウェー海戦前に行われた兵棋図演(シミュレーション)で、統裁官であった連合艦隊司令部宇垣纏参謀長は、アメリカ海軍の急降下爆撃と雷撃の命中率を過度に低いものと誤り、参謀らに「三分の一」に減じさせ兵棋図演をやり直させた。ハワイとミッドウェー間で、潜水艦によるアメリカ空母部隊の偵察を十分に実施せず、このためハワイのパールハーバー基地から米空母部隊がミッドウェー島東部海上に移動する情報を、連合艦隊は得ることができなかった。宇垣参謀長は南雲忠一司令官の空母部隊に対し、第一の攻撃目標を敵艦隊とするという明確な指示を出していなかった。南雲司令官はミッドウェーのアメリカ軍基地第二次攻撃のため、艦隊攻撃用の魚雷を陸用爆弾へ変更する兵装転換命令を、現場で比較的安易に出した。

哨戒

第一に作戦事前のハワイとミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに哨戒線への潜水艦の到着が遅れてしまい米軍空母の通過後に展開しているのも敗北の原因だった。また、ハワイ真珠湾を二式大艇で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探る第二次K作戦も、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまった。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった。

第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された水上偵察機を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は九七艦攻2機のみである。また、後に米機動部隊を発見する利根4号偵察機の発進遅延については、南雲司令部では把握していなかったという説もある。

また、作戦全体の見通しの段階で、日本軍の将兵には、米空母のミッドウェー進出は、自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らかである。

なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もある。定刻発進した場合、米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえる。なお、実際には、真珠湾攻撃やインド洋作戦の際は攻撃圏内にいた敵艦隊を発見できずに大魚を逸する結果となり、また珊瑚海では敵発見の遅れから必要以上の損害を出して本海戦の帰趨にも影響があった。これらが充分に戦訓化されていなかった事実は、問題点として考慮すべきである。

もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を索敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の策敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。

この海戦の結果によって、従来の索敵法では不十分であるとされ、後の南太平洋海戦における二段索敵や、空母搭載用の高速偵察専用機彩雲の開発などにその教訓が生かされることになる。

楽観的気運

日本海軍航空隊の精強さについては、日中戦争支那事変)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた[437]。さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。 確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。

ダメージ・コントロールの欠如

日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。そのため自艦の爆弾や魚雷が誘爆すると手のつけようがなく、米軍勢力圏内で曳航に失敗し、自沈処理に至った。航空機用の燃料や爆弾を大量に搭載する空母の脆弱性は日本海軍も認識しており、丸4計画で既に飛行甲板に装甲を施した空母「大鳳」を建造中であった。しかし、6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本長官、草鹿総参謀長、南雲長官、源田実、宇垣纏、鈴木軍令部第二部長、大西瀧治朗航空本部総務部長、江崎岩吉造船少将)では、四空母生存者から日本空母に対する厳しい指摘がなされた[438]。すると山本五十六が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同沈黙したという[439]

特に赤城は、爆弾2発の直撃により大破している。これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては後部に命中したとされる爆弾は命中せず至近弾だった可能性がある[440]。 赤城の右舷後部主機室が浸水し舵に損害が出ており爆弾が命中しただけで損害がでる場所ではないからである。船体すれすれに落下して水中内で爆発、舵に損害を与え浸水を招いたのではないかとも言われているが確証はない。

反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある[441]

ミッドウェー海戦を扱った作品

文献

公刊戦史

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報(4)」
    • Ref.C08030040400「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030040500「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030040600「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」
    • Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
    • Ref.C08051585400「昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」
    • Ref.C08051579300「昭和16年12月~昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含) 
    • Ref.C08051578800「昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」(MI作戦出撃分含)
    • Ref.C08030761000「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(1)」 
    • Ref.C08030761100「昭和17年4月1日~昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1(ミッドウェー作戦)(2)」
    • Ref.C08030680800「昭和17年5月1日~昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸.敵潜に依る被襲撃報告(1)」
    • Ref.C08030020900「昭和17年5月15日~昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030081200「昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030112500「昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)」
    • Ref.C08030745600「昭和17年3月~ 軍艦愛宕戦闘詳報(2)」

主要文献

  • サミュエル・エリオット・モリソン 著/中野五郎 訳『ミッドウェー海戦』(筑摩書房、1966年)  「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録
  • 澤地久枝『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち文春文庫(全3巻)
  • 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』文藝春秋社、1986年5月。 
  • 橋本敏男\田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』(光人社、1992年) ISBN 4-7698-0606-x
  • 小林昌信ほか『戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
    • 佐々木確治「戦艦『陸奥』ミッドウェー海戦従軍記」(戦艦陸奥二番砲塔員)談
    • 小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号)
  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
  • 牧島貞一『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-2339-8 
    『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。赤城被弾後は長良へ移動。
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 上巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03874-8 
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ千早正隆訳『ミッドウェーの奇跡 下巻』原書房、2005年。ISBN 4-562-03875-6 
  • 淵田美津雄奥宮正武『ミッドウェー』(学研M文庫、2008年) ISBN 978-4-05-901221-4
  • 小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)

参考文献

  • 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。 
  • P・フランク、J・D・ハリントン著、谷浦英男訳『空母ヨークタウン』朝日ソノラマ文庫、1994年。ISBN 4-257-17048-4 
  • 生出寿『凡将山本五十六 烈将山口多聞』徳間文庫 ISBN 4198922829
  • 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社、1994年。ISBN 4-8334-1530-5 
  • 碇義朗『飛龍 天に在り 航空母艦「飛龍」の生涯』光人社、1994年。ISBN 4-7698-0700-7 
  • 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長海上修羅の指揮官』光人社NF文庫、1996年。 
    有賀幸作(後の大和艦長)は1942年6月時点で第四駆逐隊司令官。駆逐艦「嵐」に乗艦し、本海戦に参加した。
  • 別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997年)
    「空母『飛龍』の機関室 真珠湾からミッドウェーへ」 萬代久男「飛龍」機関長付少尉
  • 別冊歴史読本『第22(517)号 海軍機動部隊全史』(新人物往来社、1999年) ISBN 4-404-02722-2
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8 
  • 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2 
    牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、ミッドウェー海戦を体験。
  • 金沢秀利『空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-1055-5 
    飛龍艦攻電信員(機銃手)。記述と戦闘詳報では同乗搭乗員が異なる部分がある。
  • 森拾三『奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還』光人社、2004年。ISBN 4-7698-2064-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
    森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。
  • 淵田美津雄中田整一編集・解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝講談社、2007年。ISBN 978-4-06-214402-5 
  • エドワード・P・スタッフォード 著、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8 
  • 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社NF文庫、2008年。ISBN 978-4-7698-2560-9 
    高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。
  • 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』大日本絵画、2009年。ISBN 978-4-499-23003-2 

論文

脚注

  1. ^ #亀井戦記72頁
  2. ^ #亀井戦記73頁
  3. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.9-10
  4. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.10-11
  5. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.14-15
  6. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.13
  7. ^ a b #草鹿回想126頁
  8. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.13-14、「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」pp.8
  9. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.18-19「軍令部所報に依るミッドウェー島所在敵航空兵力左の如し」
  10. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.11、13
  11. ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」pp.10
  12. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.15
  13. ^ a b #澤地記録26頁
  14. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.21-23
  15. ^ #亀井戦記73頁
  16. ^ #川崎戦歴120頁
  17. ^ #亀井戦記74頁
  18. ^ #亀井戦記75頁
  19. ^ #淵田自叙伝195-196頁、#草鹿回想115-116頁
  20. ^ #ヨークタウン146頁
  21. ^ #プランゲ下226-227頁
  22. ^ #草鹿回想112-113頁
  23. ^ 三和義勇大佐(連合艦隊参謀)『三和日誌』、宇垣連合艦隊参謀長の日誌『戦藻録』
  24. ^ #淵田自叙伝177-178頁
  25. ^ #飛龍生涯290頁、#亀井戦記84-85頁、#草鹿回想120-122頁
  26. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.21
  27. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.25「各艦は補充交替により個艦戦闘能力相当低下せるに加えて、各母港に於いて出撃の数日前まで整備しやりて、その技量低下は相当大なるものあり」
  28. ^ #亀井戦記85、91-92頁
  29. ^ #草鹿回想121頁、#海軍功罪303頁
  30. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.22-25
  31. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.23-24「所謂基礎訓練を実施せるに過ぎず。編隊空戦は一部旧搭乗員をして3機程度のものを実施せり」
  32. ^ #亀井戦記79頁
  33. ^ a b c d #川崎戦歴
  34. ^ #亀井戦記82頁
  35. ^ #海軍功罪302-304頁
  36. ^ #草鹿回想130頁
  37. ^ #亀井戦記87頁、#草鹿回想122頁
  38. ^ #亀井戦記88頁
  39. ^ #亀井戦記78頁
  40. ^ #飛龍生涯308頁
  41. ^ #飛龍生涯309頁
  42. ^ 別冊歴史読本『日本海軍軍艦総覧 戦記シリーズ37』(新人物往来社、1997)21頁
  43. ^ #飛龍生涯277頁、浅川(飛龍主計長)談。
  44. ^ #亀井戦記93頁
  45. ^ 高橋雄次『鉄底海峡重巡「加古」艦長回想記』76頁
  46. ^ #亀井戦記95頁
  47. ^ #ヨークタウン163頁
  48. ^ #ヨークタウン137-141頁
  49. ^ #ヨークタウン141頁
  50. ^ #ヨークタウン156頁
  51. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.27
  52. ^ #亀井戦記119頁
  53. ^ 「輸送船鹿野丸の最後 其の1(2)」pp.4、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.29
  54. ^ #飛龍生涯305頁
  55. ^ #飛龍生涯306頁
  56. ^ #飛龍生涯307頁
  57. ^ #亀井戦記177頁
  58. ^ #亀井戦記176頁
  59. ^ #亀井戦記179頁
  60. ^ #亀井戦記184頁
  61. ^ #亀井戦記39頁。亀井の取材に。
  62. ^ #草鹿回想123-124頁
  63. ^ #亀井戦記168頁
  64. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.28
  65. ^ #亀井戦記173-175頁、#草鹿回想133頁
  66. ^ #プランゲ下216頁
  67. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.3
  68. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.4「機動部隊信令第100号」
  69. ^ #亀井戦記205頁、#澤地記録233頁
  70. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.29
  71. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.5、#澤地記録234頁
  72. ^ #炎の海228-229頁、#草鹿回想133頁
  73. ^ #ヨークタウン168頁、#亀井戦記186頁
  74. ^ #亀井戦記190頁
  75. ^ #ヨークタウン168頁、#亀井戦記193頁
  76. ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.3、「輸送船鹿野丸の最後 其の1 (2)」pp.22、「特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報」pp.36-37、#亀井戦記194頁
  77. ^ 「軍艦愛宕戦闘詳報(2)」pp.4「月明かりを利用して来攻せる敵飛行機1機の雷撃により"あけぼの丸"艦首に若干の被害あり」、#亀井戦記197-198頁
  78. ^ #亀井戦記198頁
  79. ^ a b #ヨークタウン169頁
  80. ^ a b c #ヨークタウン153頁
  81. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.7
  82. ^ #ヨークタウン170頁
  83. ^ a b c #ヨークタウン171頁
  84. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6
  85. ^ a b #亀井戦記223頁
  86. ^ 渕田『渕田美津雄自叙伝』198頁
  87. ^ #亀井戦記217頁
  88. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2、pp.60、「飛龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.56
  89. ^ #亀井戦記224頁
  90. ^ #亀井戦記225頁
  91. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.19「偵察隊編成。右の他、第8戦隊、2D/3S、十三試艦爆偵察あり」
  92. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.29
  93. ^ #橋本信号員119頁
  94. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.24
  95. ^ #澤地記録235頁
  96. ^ #澤地記録235頁、#亀井戦記229頁
  97. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.7
  98. ^ #澤地記録237頁
  99. ^ #亀井戦記232頁
  100. ^ #亀井戦記238頁
  101. ^ #ヨークタウン172頁
  102. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、#澤地記録237頁
  103. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6「0243:各艦戦闘機を発進」、#亀井戦記263頁
  104. ^ #ヨークタウン172頁、#亀井戦記239頁
  105. ^ #橋本信号員121頁
  106. ^ #ヨークタウン173頁、#亀井戦記240頁
  107. ^ a b #ヨークタウン173頁
  108. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30
  109. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.6、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.20
  110. ^ #ヨークタウン174頁、#プランゲ上257頁
  111. ^ #川崎戦歴121-122頁。古田清人(赤城爆撃隊、千早大尉機操縦士)
  112. ^ a b c #プランゲ上255-256頁
  113. ^ #飛龍生涯349頁
  114. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.7、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31、#ヨークタウン174頁、#澤地記録240頁
  115. ^ #澤地記録239頁
  116. ^ #プランゲ下12頁
  117. ^ #炎の海252頁、MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.10-13、pp.69(蒼龍戦闘概要)等参照。
  118. ^ 「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.8
  119. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.24(蒼龍戦闘詳報)、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.22(飛龍戦闘詳報)
  120. ^ #澤地記録241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8
  121. ^ #ヨークタウン175頁
  122. ^ #プランゲ下2頁
  123. ^ #澤地記録241頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8
  124. ^ #プランゲ下5頁
  125. ^ #澤地記録242頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.8「0412:敵飛行機の機銃掃射を受け(中略)両舷送信用空中線切断、左舷使用不能」
  126. ^ #プランゲ下8頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.9
  127. ^ #プランゲ下9頁
  128. ^ #淵田自叙伝202頁、#草鹿回想126頁
  129. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.31「(ミッドウェー)攻撃隊発進後、艦隊は第四編成(艦攻雷撃)にて水上艦艇に備えて居りしが」
  130. ^ #澤地記録243頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.33「0415の発令により艦攻は既に雷装を80番陸に変更中」、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.9「0415:第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え」
  131. ^ #飛龍生涯347頁
  132. ^ #亀井戦記273頁
  133. ^ #プランゲ下40頁
  134. ^ a b #ヨークタウン185頁
  135. ^ #プランゲ下45頁
  136. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.10「0428電信:敵らしきもの10隻みゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬、針路150度、速力20節以上」
  137. ^ #澤地記録24-25頁、244頁、246頁。#ヨークタウン177頁、#プランゲ下13頁
  138. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.10「0445:敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装、其の侭」
  139. ^ #澤地記録24-25頁、#プランゲ下14頁
  140. ^ #草鹿回想137-138頁
  141. ^ #淵田自叙伝204頁
  142. ^ #亀井戦記吉岡忠一(南雲機動部隊航空参謀)談。
  143. ^ #澤地記録24-25頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.10
  144. ^ #澤地記録247頁、#プランゲ下15-16頁
  145. ^ a b #プランゲ下17-18頁
  146. ^ #プランゲ下23頁
  147. ^ a b #ヨークタウン177頁
  148. ^ a b #ヨークタウン177頁、#プランゲ下25頁
  149. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13-15
  150. ^ #プランゲ下27頁
  151. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.30、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.21、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.8、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(3)」pp.2
  152. ^ #炎の海248頁
  153. ^ #澤地記録249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32
  154. ^ #澤地記録249頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.13
  155. ^ #プランゲ下22頁
  156. ^ #澤地記録251頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32 、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14
  157. ^ #プランゲ下43頁
  158. ^ #草鹿回想138頁、#亀井戦記295頁、#プランゲ下28頁
  159. ^ #澤地記録252頁
  160. ^ #亀井戦記298頁、「蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)」pp.54、「MI海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.66
  161. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15
  162. ^ #橋本信号員133頁
  163. ^ #澤地記録252頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」pp.32、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.14、pp.16
  164. ^ #澤地記録256頁、#亀井戦記298頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15-16
  165. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.15「タナ2、零式水偵を発進、利根4号機の発見せし敵に触接せしめよ」
  166. ^ #澤地記録257頁、#亀井戦記298頁
  167. ^ #澤地記録256頁、#亀井戦記299頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16
  168. ^ #プランゲ下37頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」pp.16
  169. ^ #淵田自叙伝203頁
  170. ^ a b c d #淵田自叙伝206頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "淵田自叙206"が異なる内容で複数回定義されています
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  420. ^ Ibid, pp.15.
  421. ^ R.D. Heinl, Jr., Marines at Midway, (USMC: 1948), pp.29-30.
  422. ^ Naval Historical Center, Midway-based Torpedo Attacks on the Japanese Carrier Striking Force, 4 June 1942, http://www.history.navy.mil/photos/events/wwii-pac/midway/mid-4a.htm. (このウェブサイトでは唯一生還したTBF雷撃機の写真を見ることができる)。
  423. ^ Jack McKillop, Chance-Vought SB2U Vindicator, http://www.microworks.net/pacific/aviation/sb2u_vindicator.htm. (accessed in December 2008).
  424. ^ Battle of Midway: Action Report (米軍の報告書では飛龍に爆弾3発を命中させ撃沈とあるが誤認である)
  425. ^ R.D. Heinl, Jr., pp.41.
  426. ^ United States Army Air Forces, Combat Chronology of the United States Army Air Forces in World War II, http://www.usaaf.net/chron/42/jun42.htm. (accessed in December 2008).
  427. ^ R.D. Heinl, Jr., pp.41.
  428. ^ Naval Historical Center.
  429. ^ 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P189-190。この論文(P191)によれば、ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の畑俊六にさえも真相は伝えられていなかったという。尚、東条英機首相兼陸相に対する情報提供があったか否かについては諸説あり不明である。
  430. ^ 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、2010年、P190
  431. ^ 小板橋『「愛宕」奮戦記』94頁
  432. ^ スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している。レイテ沖海戦でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。スプルーアンスは戦後、本海戦の勝因について問われた時、「我々は幸運だった」と繰り返し答えている。
  433. ^ 参考[ Why Japan Really Lost The War ]:国力の差とアメリカから見た危険度の差などの観点から、主戦場として予定していたのは欧州における対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかったとする説もある。
  434. ^ 南雲が航空畑出身ではないことを真っ先に上げられがちだが、山口も、対比して上げられやすい小沢治三郎中将も、さらにはスプルーアンスも水雷出身(元巡洋艦部隊指揮官)であることを考慮すべきである。ただし、独力で航空戦についての知識を身に着けた彼らに対し、自らの航空戦知識の不足を自覚していた為に、全てを参謀長の草鹿龍之介に(更に彼から源田実に)ほぼ委任の状態であった南雲の姿勢は空母部隊指揮官としての是非を問われざるを得ない。ただし小沢の航空戦指揮には多方面からの批判があり、空母部隊指揮官としての資質が疑われている。
  435. ^ 実際、赤城・加賀・蒼龍が一度に攻撃にさらされながら飛龍が攻撃を免れたのは、わざと艦隊から少し離れた位置にいたからである
  436. ^ 空母艦内では基地と違って補修に限界がありちょっとした被弾でも修理不能で放棄する事はざらにある。意見具申の時点で飛行甲板に準備はできておらず意見具申が通ったとしても発進に45分以上かかり燃料の少ない空襲隊は不時着水を余儀なくされる。更に艦戦を艦隊直掩に出しつくしているので護衛は付けられない。護衛の無い攻撃隊がいかに脆いかは珊瑚海海戦で日本軍は経験しているし目の前で米軍が実証している。航空戦を理解してるならこの様な無謀で戦果を期待できない具申はしないだろう。
  437. ^ #亀井戦記89頁
  438. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』83頁
  439. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』84頁
  440. ^ 《小学館「日米空母決戦ミッドウェー」 ([歴史群像]太平洋戦史シリーズ Vol.55)》
  441. ^ 『名鑑物語』(石渡幸二)

関連項目

外部リンク

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