クロ151形式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
国鉄181系電車 > クロ151形式

クロ151形(クロ151がた)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流特急形151系電車の形式である。

本項では改造ならび改番が実施されたクロ181形クロハ181形についても解説を行う。

概要[編集]

クロ151形
クロ151形

1960年(昭和35年)6月1日ダイヤ改正で実施された東海道本線客車特急「つばめ」「はと」の電車化に伴い[注 1]大阪方先頭に編成組成された2等制御車である[注 2]。営業運転開始1ヶ月後の1960年7月1日に2等級制への移行に伴い1等車(現・グリーン車)となった。愛称はパーラーカー[注 3]

その後1962年(昭和37年)までに計12両が製造された[1]

開発の経緯[編集]

東海道本線優等列車沿革も参照

1958年(昭和33年)に運転を開始した151系電車特急「こだま」は非常に好評であった反面で「つばめ」「はと」は依然として客車列車のままであり、冷房装置食堂車と展望車のみにしか搭載されておらず、車齢が30年に達する車両もあるなど接客設備の陳腐化・老朽化が顕著になっていた。そのため「つばめ」「はと」を「こだま」と同じ151系電車による共通運用化が決定したが[注 4]、純粋なビジネス特急として設計された設備のみでは、観光客・外国人・重要人物の利用も多く国鉄の看板列車であった「つばめ」「はと」にふさわしくないということになり、それまで連結されていた展望車を廃止した代替として開発された[注 5]

車両解説[編集]

※本項は落成時に基づいて解説を行う。

外観・機器[編集]

幅2,946mm(骨基準)・全長21,000mm・客室床面高さ1,110mm・天井高2,100mm、屋根高さ・3,350mmの車体は、先頭から電動発電機 (MG : 150kVA) や空気圧縮機 (CP : 3,000L/min) を搭載するボンネット運転席・乗務員扉・区分室・給仕室ならびに荷物保管室・乗客用扉・洋式トイレならびに洗面所・開放室・サービスコーナーの順に配置。定員は区分室・開放室を合わせて18名[注 6]

屋根上にはAU12形分散式冷房装置を区分室用は運転席後部に1基、開放室は2基x2の計4基を独特のキノコ型カバーに収納し搭載する[注 7]

客室側窓は乾燥空気を封入した二重ガラス複層固定窓とした上で世界最大級である縦1m×横2mのガラスを区分室に1セット[注 8]、開放室に3セットならびに縦1m×横1mを1セット設置する。また給仕室・サービスコーナーの海側に釣合下降式の業務窓を設置する。

塗色は当時国際的に注目されていた欧州TEE列車に倣い、クリーム4号を地色とした上で窓回り・裾・雨樋赤2号の帯。ライトケースは逆に赤2号を地色とし、クリーム4号による細線を3本通したをイメージさせるものとした。窓回りとライトケース回りの帯端部傾斜角度は、側窓を大型化したために運転台前部窓に対してクハ151形の60度から70度へ変更した。

また台車は1 - 11がTR58A形、12がTR58B形を装着する。

区分室[編集]

区分室
区分室
開放室
開放室

運転室後部に設置する床面積9.53m2・定員4名のコンパートメント個室[1]要人の乗車[注 9]を考慮し、開放室とはデッキを挟んで分けられており、開放室を経由せずに乗降が可能。デッキからの入室はドアを軽く触れると開き、出る際はマットを踏むとドアが開く方式を採用する[注 10]

室内には2人掛け中央肘掛付きのソファータイプの椅子が向かい合わせに配置し、その間に移動可能なテーブルを設置する。また、両脇の肘掛に差し込んで使うことができる膝上用テーブルも用意された。

照明は「光り天井」方式を採用し、戸棚型荷物棚を装備されている。室内の壁は織物張りとされ、座席モケットと壁の色は奇数番号車と偶数番号車で異なる。

開放室[編集]

床面積23.0m2の室内に回転機能付1人掛けリクライニングシートを中央通路を挟み1列ずつ窓際に7脚設置した定員14名のスペースである[1]。シートピッチは1,100mmと2等車標準の1,160mmより僅かに狭い。

座席上の荷物棚は圧迫感を与えないよう強化ガラス製とした。

接客サービスについては区分室・開放室共通で、利用に際しては当初は2等、1960年7月1日以降は1等料金のほかに1,650円の特別料金を必要とした[注 11]。また座席近くに給仕呼び出し用のボタン・座席ラジオのイヤホン用ジャック・電話機用ジャックがあり、NHKラジオ第1第2放送を選択して聴くことが可能[注 12]。1960年8月20日より沿線14箇所に基地局を設置して、400MHz帯UHF無線通信を利用した列車電話サービスが通話可能区域を東京23区名古屋市大阪市に限定して開始。給仕室に持ち運び可能な電話機が用意され、座席近くのジャックにコードを差し込むことで乗客は自席を立つことない通話を可能とした[注 13][6]

サービスコーナー[編集]

山側は冷蔵庫冷水器、海側は内側に流し台電熱器・タオル蒸し器・棚などを配置するカウンターを設置する。乗客の注文に応じ飲み物や軽食をデリバリーしており、紅茶クッキーのサービスも行われた。

製造年次別概略[編集]

全車新製配置は田町電車区(→田町車両センター→現・東京総合車両センター田町センター)である。

1960年製造車[編集]

1 - 6が該当。「つばめ」「はと」電車化で製造され2等車として落成したグループである[注 2]

  • 2等制度移行への法案通過難航により結局3等級制の表示である「2」を付けて製造を開始している。しかし製造開始後の1960年4月に法案成立が予見されたことから急遽「1」表示のカバーを作り完成のお披露目を行ったものの6月の運転開始に法案の可決が間に合わなかったため7月まで「2」の表示を付け、法案成立後はカバーを付けて「1」と表示した。
  • 「こだま」暫定12両編成のB1 - B6編成を組み替えて組成する際に製造メーカーを合わせたため1・2は川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)、3・4は近畿車輛、5・6は汽車会社が製造を担当した。
  • また「こだま」暫定12両編成からの組成変更が方向転換を伴う大規模なことから、作業簡略化の観点で1・3・5は本来とは逆向きの東京方向きで納入された[6]

1961年製造車[編集]

7 - 11が該当。1961年10月のダイヤ改正での増発対応用として製造されたグループである。

  • 製造メーカーは7・8が川崎車輛、9・10が汽車会社、11が近畿車輛である。
  • 当初から1等車として製造されたため「1」の表示を車体に直接貼って落成。
  • 開放室用R2形座席はレッグレストが窓方向28度の位置に合わせた固定式から回転方向に関わらず使用できるよう座席一体化改良を施したR2A形へ変更[7]
  • 1962年6月の信越本線長岡 - 新潟間電化完成により、上越線経由で特急電車を運転するという計画が持ち上がり、全線直流区間ということから、151系の投入が計画された。しかし本来平坦線区用の車両が、20の勾配が続く上越国境の山岳区間での運用に適するのかという疑問点が残ったことから、1961年6月21日・22日に上越線新前橋 - 長岡間で早期落成した11は157系電車との比較走行試験に充当された。

1962年製造車[編集]

12が該当。山陽本線広島電化で「つばめ」1往復を延長することになり、川崎車輛で製造された[注 14]

  • 従来の本形式では空気抵抗低減を目的に外幌・内幌にはファスナー接合タイプを装着していたが。曲線通過時等の強度に問題が生じたため外幌を省略し、同時に内幌を一般的なタイプへ変更した。これは1 - 11にも実施された。
  • 区分室客窓は防弾ガラスを装着する。

改造工事[編集]

九州乗り入れ対策改造[編集]

東海道新幹線開業に伴う1964年10月1日のダイヤ改正で田町配置の151系は、余剰車となるサロ151-6・150-2ならびに上越線特急転用の28両が残留となったほか、10編成120両のうち本形式では1 - 5・8 - 12の10両[注 15][注 16]山陽本線特急用として向日町運転所(→京都総合運転所→現・吹田総合車両所京都支所)に転出。その運用の中には新大阪 - 博多間運転の「つばめ」「はと」も含まれており、電気機関車牽引で交流電化九州島内へ乗り入れ、電源車サヤ420形からサービス用電源供給対応とした6編成へ施工された改造で、本形式では1・4・5・8・9・11が該当する。

  • 補機駆動電源帰線引き通しの設置
  • ブレーキ管・元空気溜管・サービス電源引き通し用KE3形ジャンパ連結器の増設とこれに伴うスカートへの切欠きを実施

なお本工事は、田町所属時代の1964年4月から8月にかけて浜松工場で行われ、改造車は側面ナンバーを赤く塗装して他の編成と区別した。翌1965年481系が増備されたために151系の九州乗り入れは中止され、乗り入れ対策車は181系化改造時と同時に復元[注 17]された。その際に一部車両は、スカート警笛部の穴が完全に埋め込まれるなどの変形車が出現した。

181系化改造[編集]

向日町所属の1 - 5・8 - 12の10両へ1965年 - 1966年吹田工場(現・吹田総合車両所)で施工。抑速ブレーキ対応の主幹制御器へ交換したほか、台車も12を除き台車枠鋼板を9mmへ強化したTR58Z形へ変更した。

車両番号はクロ151時代から継承されており形式名のみクロ181へ変更となった。

クロハ181形への改造[編集]

山陽本線特急転用後のパーラーカー特別座席料金は東海道時代の1,650円から500円に大幅値下げしたにもかかわらず利用率が低いことから、貴賓予備として残された11・12以外に開放室を2等室(現・普通車)とする改造が吹田工場で施工されクロハ181形となった。クロ181-11・12も含め1973年までに全車クハ181形60番台及びクハ180形50番台に再改造され形式消滅した。

  • 開放室割付の関係から2等客室のシートピッチは在来車よりも広い980mmとなり、荷物棚は強度の関係[注 18]で吊り下げ型のパイプ式に変更された。
  • 外観はサハ181形とは異なり窓の配置は変更されず、等級表記文字の取付位置を区分室寄りに変更した以外は種車と同一である

クハ180形・181形への改造[編集]

当初は田町残留となった6へ1965年に浜松工場で施工されたが、向日町所属車は1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正以降1973年まで信越・上越・中央特急転用時に段階的施工。クハ180形改造車は長野運転所(現・長野総合車両センター[注 19])、クハ181形改造車は新潟運転所(現・新潟車両センター[注 20])へ再転出となった[注 21]

運転台部分をそのままとし、客室部は新たに製造した構体を接合する改造により、オリジナルのクハ181形と比較すると車体長が500mm短いにもかかわらず定員を同一の56名に合わせたため出入台部・トイレ・洗面所の寸法を短縮。この部分の側窓は種車の窓ガラスが流用されたため小窓となるほか、窓間柱も狭くシートピッチが5mm短縮された。またクハ180形では新造車の0番台は床下機器を本形式ならびにクハ181形と逆転配置としたが[注 22]、本形式からの改造車はそのままという相違がある。

車歴[編集]

※新製時は全車田町電車区配置 また工場・車両基地名称は当時のものとする
車両
番号
落成日
製造会社
向日町
転出
九州
乗入
181系化
改造
クロハ181形
改造
クハ化
改造
廃車日
最終配置
1 1960.04.25
川崎車輛
1964.10.01 1966.05.09
吹田
1966.12.17
吹田
1973.09.20
0-53/長野工
1975.12.01
長野運
2   1965.12.14
吹田
1967.02.15
吹田
1973.10.31
0-54/長野工
1975.11.05
長野運
3 1960.04.25
近畿車輛
1966.01.30
吹田
1967.03.31
吹田
1972.03.01
0-52/長野工
1975.10.31
長野運
4 1965.09.18
吹田
1966.12.17
吹田
1972.03.30
1-62/新津
1978.06.14
新潟
5 1960.04.27
汽車会社
1965.06.11
吹田
1966.11.11
吹田
1973.09.30
0-55/長野工
1975.06.24
長野運
6 田町所属のまま直接クハ181形化改造 1965.03.01
1-56/浜松
1975.08.27
新潟[注 21]
7 1961.07.10
川崎車輛
1964.04.24 東海道本線草薙 - 静岡[注 23]での衝突事故により脱線大破 1964.09.08
田町
8[注 16] 1961.07.31
川崎車輛
1964.10.01 1965.08.08
吹田
1966.10.31
吹田
1972.10.06
1-63/長野工
1979.02.20
新潟
9[注 16] 1961.07.18
汽車会社
1966.08.01
吹田
1967.03.16
吹田
1972.11.06
1-64/長野工
1978.06.14
新潟
10 1961.08.05
汽車会社
  1965.11.04
吹田
1967.01.10
吹田
1973.01.13
1-65/長野工
1978.09.16
新潟
11 1961.06.12
近畿車輛
1966.07.04
吹田
貴賓車予備
未施工
1968.09.22
1-61/大井
1978.07.24
新潟[注 21]
12 1962.04.09
川崎車輛
  1966.04.12
吹田
1969.03.19
0-51/郡山
1975.12.01
長野運[注 21]
備考
  • 0:クハ180形
  • 1:クハ181形
  • 吹田:吹田工場
  • 長野工:長野工場[注 19]
  • 新津:新津工場[注 25]
  • 浜松:浜松工場
  • 大井:大井工場[注 26]
  • 郡山:郡山工場[注 27]
  • 田町:田町電車区
  • 向日町:向日町運転所
  • 長野運:長野運転所[注 19]
  • 新潟:新潟運転所[注 20]

保存車[編集]

脱線大破事故で事故廃車となった7以外も全車客室部分の構体を新たに製造して載せ換えた改造により特徴ある車体を持つ保存車は残存しない[1]。ただしR2A形開放室用座席1脚が京都鉄道博物館で展示保存されている[11]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 同改正で「はと」は一旦「つばめ」に統合され廃止。
  2. ^ a b 本形式の落成と引換に展望車が廃止されることに併せて国鉄では等級を1・2・3等の3等級制から1・2等の2等級制に改めようとしていたが、法案が提出された国会の審議が難航したため落成時は3等級制であったことから2等車の扱いであった。
  3. ^ 日本交通公社JTB)発行の時刻表表記では従来通り展望車の記号が使用されていた。
  4. ^ 1958年10月ならびに1959年2月に開催された副総裁・技師長・常務理事・関係する各局長を委員とする企画委員会により決定[2]
  5. ^ 企画委員会では以下の3案を比較検討を行った[2][3][4]
    *1案.「こだま」「つばめ」「はと」とも同一の12両編成で本形式は不連結
    *2案.「こだま」「つばめ」「はと」とも同一の12両編成で本形式を連結
    *3案.「つばめ」「はと」のみ本形式を連結 「こだま」は連結しない別編成を組成
    このうち3案は追加製造数が60両まで膨らむことから早期に廃案となった。最終的には製造コストが1案に比較すると4,000万円ほど高くなるものの展望車の代替要素を考慮した結果2案が採用された[5]
  6. ^ 本定員は偶然にも東北・北海道・北陸新幹線に連結されるグランクラスと同一である[1]
  7. ^ このためクハ151形とは搭載位置が異なる。
  8. ^ 12は区分室窓を警視庁の射撃場で数種類の拳銃を用いて実弾テストを行った防弾ガラスとした。VIP乗車の際には運用を変更して本車を充当した。
  9. ^ 昭和天皇皇后・各国の要人・政府高官・国会議員などの乗車実績がある。
  10. ^ マットを踏むことでドアが開く方式はマジックドアとも呼ばれ、鉄道車両に最初に採用されたのが本形式である。本格的な使用は本形式と同じ1960年に落成した東武1720系電車であるが、運用開始は本形式が6月、東武1720系電車が10月からである。
  11. ^ 1969年の等級制度廃止後も残存した区分室は、以後グリーン料金のみでの乗車が可能となった。
  12. ^ 本サービスは「こだま」運転開始時から2等車で行われていた。
  13. ^ その他の1等・2等乗客はモハシ150形ビュッフェの電話室を使用。
  14. ^ 1961年10月のダイヤ改正で設定された大阪 - 広島間のキハ82系気動車特急「へいわ」を廃止させ発展的統合する形での区間延長。このため従来は大阪で同日折り返しから広島で夜間滞留の必要が生じ1編成増備された。
  15. ^ 6は田町残留後クハ181-56へ改造。7は1964年9月8日付で事故廃車。
  16. ^ a b c 8が組成されていた特8編成は向日町転出の対象外で上越特急増発対応に充当されることが決定していたが、7の事故廃車により9を特7編成に、玉突きで8を特9編成に組成した経緯がある。また特7・特9編成ともに九州乗入対象となっていたことから8は対応改造が急遽追加施工された、なお特8編成には代車として脱線事故からの復旧に併せて緊急にサロ150-3から制御車化改造されたクロ150-3を組成し、東海道運用終了後は特6編成と共に田町所属のまま東京オリンピック臨時急行「オリンピア」に充当。同列車運転終了後に181系化改造を施工した上で上越特急「とき」ならびに中央特急「あずさ」に充当された。
  17. ^ 1965年8月に特7編成が、9月に特4編成が181系化改造がされているが、この2編成は181系化時点では対応設備は残されており乗入れ運用にも投入。運用終了後に他編成同様に復元。
  18. ^ 窓の天地寸法が大きく幕板が狭いため他形式同様の棚が使えなかった。
  19. ^ a b c 長野運転所は長野運転区北長野運転所への改称を経て、1991年に長野工場を統合し長野総合車両所へ改称。2004年に現名称の長野総合車両センターへ改称。
  20. ^ a b 1974年5月に上越新幹線新潟駅工事のため同駅南側から上沼垂信号場付近へ移転し新潟運転所上沼垂支所となったが、車籍は引き続き新潟運転所のままとされた。1986年上沼垂運転区へ独立改称したのち、2004年に新潟車両センターへ改称。
  21. ^ a b c d 向日町転出とならず田町残留となったクロ151-6→クハ181-56ならびに早期施工となったクロ181-11→クハ181-61・クロ181-12→クハ180-51の3両は改造後に田町所属となったが、首都圏特急型車両配置見直しにより、1969年7月1日付でクハ181-56・61は新潟運転所へ、クハ180-51は長野運転所へ転出。
  22. ^ 151→181系では両渡り構造のサシ181形で引き通しをクロスさせていたが、信越特急用に開発されたクハ180形では食堂車を編成組成しないことから、引き通し線がクロスしない偶数向き固定片渡り構造とされた。このため床下機器逆転配置とすることで仕様の共通化・統一化から対応させたと考えられる。
  23. ^ 東静岡駅は当時未開業。
  24. ^ 2012年4月2日にJR東日本が東京急行電鉄から東急車輛製造の鉄道車両事業を譲受し、さらに車両製造体制を一本化する会社分割により発足した鉄道車両製造会社である。
  25. ^ 国鉄分割民営化で承継した東日本旅客鉄道(JR東日本)により新津車両所へ組織変更。1994年新潟支社所管による新津車両製作所へ改組したのち、2014年4月1日付でJR東日本傘下の総合車両製作所(J-TREC)[注 24][8][9][10]の組織下に組み込まれ、総合車両製作所新津事業所として現在に至る。
  26. ^ 2004年に山手電車区と統合し東京総合車両センターへ改称。
  27. ^ 2005年仙台支社の組織変更で磐越東線営業所を廃止し、同営業所郡山車両派出所を移管統合し郡山総合車両センターへ改称。

出典[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『電車特急50年~ビジネス特急「こだま」からJR特急まで~』鉄道博物館学芸部 鉄道博物館 2008年
  • 『仰天列車 鉄道珍車・奇車列伝』藤崎一輝 秀和システム 2006年
  • 星晃『回想の旅客車(上)』学習研究社、2008年、復刊。
  • 福原俊一『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』JTB、2003年11月1日、初版(日本語)。ISBN 4-533-05011-5
  • 梅原淳グランクラスより儲かった国鉄の特別座席 1カ月ちょっとで元が取れたパーラーカー」、東洋経済ON LINE、2017年4月13日。