靖国神社

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靖國神社

拝殿
所在地 東京都千代田区九段北三丁目1番1号
位置 北緯35度41分38.25秒 東経139度44分33.69秒 / 北緯35.6939583度 東経139.7426917度 / 35.6939583; 139.7426917
主祭神 護国の英霊 246万6千余柱
社格 旧別格官幣社勅祭社
創建 明治2年(1869年
本殿の様式 神明造銅板葺
例祭 4月22日(春季例大祭)
10月18日(秋季例大祭)
主な神事 みたままつり(7月13 - 16日)
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靖国神社の位置(日本内)
靖国神社
靖国神社

靖国神社靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区神社

九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本軍人軍属等を主な祭神として祀る。勅祭社旧別格官幣社

概要

東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創祀され、後に現社名靖國神社と改称された。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が[1]、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍陸軍省)と同海軍海軍省)が祭事を統括した[2](陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。昭和21年(1946年)に国の管理を離れて東京都知事認証により単立宗教法人となったが[3]、国家との関係を廻る所謂「靖国神社問題」を惹起する存在ともなっている。なお、単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していない。

境内はの名所として知られる他、大鳥居が東側に向いている、数少ない神社の一つでもある[4]

祭神

幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり嘉永6年(1853年)のペリー来航(所謂「黒船来航」)以降の日本の内外の事変戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、その柱数(柱(はしら)はを数える単位)は平成16年(2004年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、明治37年(1904年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する[5]

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、昭和34年(1959年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

社名

参道

正式な表記は「靖國神社(「靖」のの「青」の下部が「円」、国は旧字体)」。神社名にある「靖国」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、明治12年(1879年)に改称された。当初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」可能性があるために廃されたというが[6]、名称変更後も「招魂祭」は続けられている。因みに同年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」とある[6]。このような思いは太古の諸神もし めし出雲国風土記にはスサノオノミコトが今に残る安来という地名を命名されたこととも合通ずるところがある。

英語圏では「Yasukuni shrine」と表記されるが、それと並んで「war shrine」(戦争神社)と表記される場合がある[7][8][9][10]

歴史

東京招魂社

戦前

戊辰戦争終戦後の明治元年(慶応4年、1868年6月2日に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行したり、同年5月10日太政官布告京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることが命ぜられたり(現京都霊山護国神社)、同7月1011の両日には京都の河東操錬場において神祇官による嘉永6年以降の殉国者を慰霊する祭典が行われる等、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて明治2年6月12日に現社地での招魂社創建が決定され、同月29日新暦8月6日)に五辻安仲勅使として差遣され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建された。但し、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは明治5年であった。

東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て明治12年(1879年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた[11]。もっとも、正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、しかも運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての奉幣が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇皇后行幸啓を始めとする皇族親拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社としては異例の殊遇を受け[11]、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜う例であった[12]。なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた[13]

戦後

戦後は政教分離政策の推進により国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等が批判され、様々な問題が生じている(詳しくは「靖国神社問題」を参照)。

国家管理をめぐる動き
日本国憲法により政教分離が原則とされた後においても国家管理に戻そうとする「国家護持運動」があり、憲法と整合させる為の様々な案が検討された。なお、当初賛意を示した日本遺族会会長が「国家護持」のためには法案は靖国神社の非宗教化を約束したものでなければならないと諦め、態度を変えて非宗教化案に応じると、昭和44年(1969年)1月20日、これに憤慨した大東塾の者が日本遺族会会長との会談中にこれに暴行を加えた為[14]、当時の大東塾塾頭が会談を斡旋した吉橋敏雄公安調査庁長官に義理を立て、手の指を一本切るという事件も起きた[15]
自由民主党(自民党)は、昭和44年6月30日に国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出したが、55年体制下の保革対立の中で廃案となり、以後同48年まで5回にわたって法案を提出したが、いずれも審議未了により廃案とされ、同49年には自民党の強行採決によって衆議院を通過したものの参議院で廃案となった為に、自民党内では閣僚の参拝案が浮上した[16]
靖国神社、遺族会らは民法34条の祭祀法人となれば靖国神社法案のような特別な立法は必要なく、宗教法人でもなくなり、公的資金の支出も可能であろうとの案を提起をしたが、免税率の低下などの諸問題によりこの提起も消滅した[17]
焼き払い計画
終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている。
戦後に日本を占領したGHQは、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父に意見を求めることになった。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締め括った。
「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道仏教キリスト教ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」
この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。
  • 出典:木村正義「靖國神社とブルーノ・ビッター神父」、社報『靖國』昭和56年7月号所収
  • 出典:『教会秘話』志村辰弥 聖母文庫
平成17年8月15日
開門前の神門(平成17年8月15日)
戦後60年の節目にあたる平成17年(2005年)8月15日、靖国神社境内では様々な催しが行われた。午前9時からは、「日本は謀略によって戦争に巻き込まれたものであり、自衛のための戦争であった」・「日本は侵略国ではありません!」と主張している英霊にこたえる会主催の「第30回全国戦没者慰霊大祭」が拝殿で行われ、その後、午前10時より能楽堂前で「日本の声 - 英霊に感謝する集い」が行われ、放鳩式が開催された。
12時の黙祷の瞬間の靖國神社拝殿(平成17年8月15日)
開門直後の神門(同上)
ファイル:PA0 0008.JPG
開門直後の拝殿(同上)
神社外苑では、午前10時30分より「戦後60年国民の集い」(主催みんなで靖国神社に参拝する国民の会日本会議・英霊にこたえる会)が行われた(2部構成)。
第1部の「第19回戦没者追悼中央国民集会」は昭和61年(1986年)から毎年この日に行われ、大原康男の司会による開会の辞の後、国歌君が代斉唱・靖国神社拝礼が行われた。昭和20年8月15日正午に放送された「終戦の詔書」(別称「玉音放送」)を拝聴、のち主催者の挨拶が行われた。のち「各界からの提言」としてこの年は平沼赳夫長谷川三千子クライン孝子小野田寛郎が提言を行った。正午の時報とともに戦没者への黙禱を行い、政府主催の全国戦没者追悼式の実況放送から勅語を聴いた。その後、6月27・28両日に行われた今上天皇皇后美智子サイパン行幸啓の報告等がなされ、最後に「海ゆかば」を斉唱し、第1部は終了した。
第2部の「靖国のこころ~追悼と感謝の集い~」は、「終戦60年・日本への提言」として石原慎太郎古屋圭司衛藤晟一山谷えり子松原仁西村眞悟野村有信靖国神社に参拝する全国地方議員の会)、西尾幹二出来山双一イドリスノ・マジッド世界イスラム連盟)、金美齢が提言を述べた。また、英霊に捧げる歌としてつのだ☆ひろ今尾滋あべまりあ三枝万祐長野安恒が歌を歌った。
なお、この日に20万5千人以上の参拝者が訪れ、昇殿参拝者(本殿前まで進んでの参拝者)も5,600人以上となった。

祭祀

恒例祭典

祭事暦
1月 1日 新年祭
7日 昭和天皇武蔵野陵遥拝式
30日 孝明天皇後月輪東山陵遥拝式
2月 11日 建国記念祭
17日 祈年祭
4月 21 - 23日 春季
例大祭
21日 清祓
22日 当日祭
23日 第二日祭・直会
29日 昭和祭
6月 29日 御創立記念日祭・献詠披講式
7月 13 - 16日 みたままつり 13日 前夜祭
14日 第1夜祭
15日 第2夜祭
16日 第3夜祭
10月 17日 神宮神嘗祭遥拝式
17 - 20日 秋季
例大祭
17日 清祓
17日 臨時大祭
18日 当日祭
19日 第二日祭
20日 第三日祭・直会
11月 3日 明治祭
23日 新嘗祭
12月 23日 天皇(今上)御誕辰奉祝祭
25日 大正天皇多摩陵遥拝式・煤拂式
31日 除夜祭・大祓式

最重要の祭儀である例祭には4月21日から23日にかけての春季例大祭と10月17日から20日にかけての秋季例大祭があり、秋季例大祭には合祀祭が併せて斎行される(合祀祭と招魂祭(しょうこんさい)は別の祭儀である[18])。創祀時当初は1月3日、5月15日から18日、9月22日の年3度であったが、明治12年の別格官幣社列格時に5月6日と11月6日に変更し、大正元年12月には三度改められ、以後終戦迄は4月30日と10月23日が例祭日とされていた[19]

7月のみたままつり
「紫色」の幕が掛かる拝殿(新嘗祭)

7月13日から16日にかけて斎行されるみたままつりは日本古来の祖先祭祀である盆行事に因んで昭和22年から始められたもので、期間中は毎夜本殿において祭神を慰霊する祭儀を行ない、境内では大小3万を超える提灯雪洞が掲げられる。

その他、毎月1日、11日、 21日には月次祭が斎行され、祭神各柱の命日毎に永代神楽祭を行なう。因みに、常日の拝殿には「白色」の幕が掛かるが、恒例祭の日には「紫色」の幕に掛け替えられる。

なお、8月15日大東亜戦争終戦日であるが、それ自体は神社とは無関係なために特定の祭事、行事は行われず、よって、拝殿に掲げる幕も通常時の白色のままである。しかし、神社支援団体等による式典や、すぐ傍の日本武道館にて全国戦没者追悼式が催される為もあり、戦没者の遺族・戦友、大臣みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会に参加する・政治家、更には全国から靖国神社を支持・支援する者の参拝があり、年間を通して最も多くの参拝者が集う日となっている。一方で神社の存在に反対する者も多数集まり、参拝者の一部と境内や周辺で小競り合いを起こすようなこともあり、一般の警察官に加え、プロテクターを装備した多数の警視庁機動隊員により武道館・神社周辺が厳重に警備されるとともに、国内外のマスメディア等も多数取材に訪れ、一年のうちで最も注目を集め、かつ最も騒々しくなる日となっている。

靖國神社の1日

  • 6時「開門」:拝殿にある大太鼓が21回打たれて、菊花紋章が付いた神門が開けられる。
  • 8時「朝御饌祭」:神職が神饌(祭神の食事)を供える。
  • 9時「朝拝」:大太鼓が打たれ、全ての職員が拝殿に集合し行われる。全員で「大祓詞」を唱え、御製(天皇が詠んだ和歌)を朗詠し、祭神に拝礼する。
  • 14時「永代神楽祭」:当日が命日である英霊の為の祭典。巫女による神楽の奉奏がある。
  • 15時「夕御饌祭」:神職が神饌を供える。
  • 19時「閉門」:神社の全ての門が閉じられる。

参拝

参拝は神道の作法で行われる。通常の社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水舎手水で清め、拝殿前で二拝二拍手一拝をする。正式参拝は参集所から参入し、手水で清め修祓(しゅばつ)を受けた後に本殿前に昇り(昇殿)、玉串を奉奠して二拝二拍手一拝し、退出時に神酒を戴く[20]

合祀祭

祭神は靖国神社の定める以下の内規に従って合祀される(平成16年(2004年)10月17日現在)。 ※戦後に宗教法人の都合で合祀対象基準として加えられたものと、戦前から合祀対象の基準とされていたものを峻別列記したものではない。

軍人・軍属
  1. 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、戦死、戦傷死、戦病死した者。
  2. 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、公務中に受傷罹病し、内地に帰還後、療養中にその受傷罹病が原因で死亡した者。
  3. 満洲事変以降、内地勤務において、公務中の受傷罹病が原因で死亡した者。
  4. サンフランシスコ講和条約第11条にある裁判判決によって死亡した者[21]等(極東国際軍事裁判等の軍事裁判によりA級戦犯BC級戦犯であるかないかに関わらず死刑になった者等。なお、日本政府は「法務死者」と呼び、靖国神社では「昭和殉難者」と呼称している)。
  5. 未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務中の受傷罹病が原因で死亡した、とみなされた者。
準軍属その他
  1. 軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者(満洲開拓団員・満洲開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満洲開発要員・洋上魚漁監視員)。
  2. 特別未帰還者の死没者(ソビエト連邦樺太・満洲・中国に抑留中、死亡した者・戦時死亡宣告により死亡とみなされた者)。
  3. 国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者(学徒・徴用工・女子挺身隊員報国隊員日本赤十字社救護看護婦)。
  4. 船舶運営会の運航する船舶の乗務員で死亡した者。
  5. 国民義勇隊員で、その業務に従事中に死亡した者(学域組織隊・地域組織隊・職域組織隊)。
  6. 旧防空法により防空従事中の警防団員。
  7. 交換船沈没により死亡した乗員(「阿波丸事件」を指す)。
  8. 沖縄県の疎開学童死没者(輸送船対馬丸で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達を指す)。
  9. 外務省等職員(関東局職員・朝鮮総督府職員・台湾総督府職員・樺太庁職員・南洋庁職員)。
その他

合祀手順

戦前

戦前は旧陸海両軍の審査によって合祀が内定され、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭には天皇が祭主として出席し[23]、合祀されることは死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。敗戦により、靖国神社は一宗教法人化、また陸海軍は廃止されたため、この合祀制度は変容した[24]

戦後

戦後になると合祀制度は形を改めたが、昭和27年(1952年)当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。これに対応するため、同31年に厚生省(当時)が定めた新しい合祀手順は次の通りである[25]

  1. 厚生省引揚援護局が各都道府県に対し「靖国神社合祀事務協力」という通知を出す。
  2. 各都道府県は、昭和28年8月に成立した恩給法戦傷病者戦没者遺族等援護法で「公務死」と認められた者を「合祀予定者」と選び、厚生省引揚援護局に提出する。
  3. その名簿を厚生省から靖国神社に送付する。
  4. 靖国神社にて、名簿により合祀する。

なお合祀に関して、靖国神社広報課では戦前戦後を通して祭神合祀にあたっての遺族への連絡はするが事前の合意は取らない、としており、本人・遺族の意向は基本的に考慮されずに神社側の判断のみで行われている。このため、遺族が不満を抱き裁判に至っているものもあるが、靖国神社による遺族に対する同意なき合祀によって、原告遺族らの法的利益が侵害されたと認めらる判決は下されていない[26]

被祀者の遺骨位牌などはない。まず真っ暗闇の夜に氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを筆書きし、「人霊」を「霊璽簿(れいじぼ)」(旧称「祭神簿」)と称される名簿に移す。次に靖国神社の神体とされる鏡に「霊璽簿」を写し、合祀祭を行うことで「人霊」を「神霊」へと化す。このようにして「御霊(みたま)」を招来し、身分、職業、年齢、性別にかかわりなく、手厚く祀っているという[27]。祭神は氏名の最後に「命(みこと)」または「媛命(ひめのみこと)」を付し、例えば山本五十六だと「山本五十六命(やまもといそろくのみこと)」の様に呼称する。

祠官・神職

招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭にはまたは将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官、尉官が奉仕した。明治8年(1875年)以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は旧陸軍と海軍が隔番で務めた。明治12年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、昭和13年(1938年)からは権宮司も置かれることとなった。宮司以下神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・旧陸海軍の3者協議で行い[28]、実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った [29]。また、社司社掌陸軍省第1局の所属であったが[30]、明治20年(1887年)には閣令第4号により神官を廃して神職(職名)を置き、旧陸海軍が補任することとなった。昭和21年の官国幣社制(近代社格制度)廃止以後は自主管理となった[28]

組織・運営

靖国神社は単立神社として神社本庁との包括関係に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断によるものである。このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている。例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。例えば第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になる。

内部組織

靖国神社では平成17年(2005年)1月現在、総勢108人が奉職する。組織としては以下の部署があり、宮司がそれらを統括、権宮司が宮司を補佐する。

  • 祭務部
    • 祭儀課
    • 調査課
  • 総務部
    • 総務課
    • 人事課
    • 管理課
    • 広報課
  • 宣徳部
    • 崇敬奉賛課
    • 宣徳課
  • 経理部
    • 経理課
    • 事業課
  • 遊就館部
    • 史料課
    • 展示課
    • 文庫室
  • 社務実習生


収入

戦前

明治2年(1869年)には明治天皇により1万社領を「永代祭粢料」として下賜されたが、国の財政難のために漸次減らされた。しかし、賽銭収入だけでも、明治24年(1891年)に136,753円であったものが同38年の日露戦争後には急増し、同43年(1910年)には1,709,710円にもなっており、これも全国から戦死者の遺族が参詣した結果である[31]。明治8年(1875年)、明治天皇は2回目の親拝に際し100円を下賜した。翌9年、政府は減額して5千石にしていた社領を年7,550円の現金に改め、「寄付金」と称した。同10年、西南戦争の戦没者合祀に際して天皇は親拝して1,000円を下賜した。同20年(1887年)、青銅製の鳥居の工事にあたり、皇室から15,000円が下賜された。同34年(1901年)の大改増築に際し、政府は52,000円を「特別寄付金」として与えた(総工費は約16万円)。同年の招魂式では天皇・皇后から2,000円が下賜され、政府も15,000円を与えた[32]。以後も皇室・政府からの定収入・臨時収入があった。

戦後

平成20年(2017年)現在の年間予算は20億円を越え、全て戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されているが、遺族会に代表される戦中世代が亡くなり続けているのに伴って、主要な収入源である大口の寄付も減少の一途をたどり、さらに朝日新聞によれば平成18年(2006年)時点で崇敬奉賛会の会員も減り続けていることから財政難に陥り、職員のリストラも進められたという[33]。もっとも、記事中に「崇敬奉賛会の会員も減り続けている」とあるが、平成21年3月31日の時点での会員数は設立時のそれと比べて約2万人増えているとの報告もある[34]。なお、平成18年8月15日の首相参拝では、当該報道を行った朝日新聞の記者やカメラマンが取材しようとしたところ、靖国神社側は同新聞社の「(8月)12日付の朝刊で神社所有の不動産・施設・職員寮の地図を掲載したことは、プライバシーを侵害するものであり、職員の身辺を保護するうえでも問題がある」として取材を拒否し、同新聞社の神社敷地への立ち入りも禁止している。

このほか付属施設である遊就館の入館料や、売店及び境内にある茶店の売り上げなども貴重な収入源となっている。

社殿

本殿は明治5年(1872年)5月に尾張伊藤平左衛門設計の下に造られた。桁行3間梁間6間の大規模な神明造で、前面に1間の向拝(こうはい)が付く。屋根銅板葺で棟には千木・鰹木を有す。本殿の両側には廻廊が接続し、その廻廊が前方に屈曲して拝殿の両側面に連絡し、本殿前庭を囲繞する。本殿後方には昭和47年(1972年)に建てられた切妻造平入銅板葺の霊璽簿奉安殿が建ち、神霊を合祀する際に用いる和紙で作られた霊璽簿(神霊名簿)を保管する。なお、本殿は老朽化の為に昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけて解体修理が施されている。

中門鳥居
神門
青銅大鳥居
社号標・大鳥居

拝殿は明治34年(1901年)竣工の建物で桁行7間梁間5間の入母屋造平入屋根銅板葺。前面に3間の向入母屋造で軒に唐破風を構えた向拝が付く。

拝殿前方に中門鳥居、更に前方に神門と続く。中門鳥居は平成18年(2006年)に建て替えられた素木鳥居。埼玉県産のが用いられ、以前は昭和50年(1975年)に奉納された台湾産の檜が用いられていた。さらに以前には扉が付いており、元々は門として機能していた。神門は三間三戸の切妻造銅板葺で高さ6メートル、檜造り。伊東忠太の設計により昭和9年(1934年)に完成した。中央間の扉には直径1.5メートルの16弁の菊花紋章が付けられる。この中央間を戦前は儀仗兵が列姿を乱すことなく潜れたという[35]

本殿南の廻廊外に元宮鎮霊社が並び建つ。元宮は幕末期に京都で造られた小祠を昭和6年(1931年)に移祠したもの。靖国神社の前身との意味から「元宮」と称される。鎮霊社は昭和40年(1965年)7月に当時の筑波藤麿宮司の発案で[36]、嘉永6年以降の戦争や事変で国に殉じたとされながらも本殿においては合祀対象外となった御霊と、諸外国の戦没者の御霊の2座を祀る為に創祀された。かつては両社は一般には公開されておらず、参拝もできない状態が長く続いていたが[36]、平成18年10月12日に拝殿脇から参道が設けられ、一般参拝が可能になった。なお、鎮霊社に関して靖国神社では「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」[37]としており、本殿祭神とは差をつけているが、靖国神社創建の本義から見て創祀そのものに疑義があり、また一般公開は大野俊康元宮司の宮司通達にも反するという批判もある。[要出典]

神門外の参道には第二鳥居(青銅大鳥居)と第一鳥居(大鳥居)の2基の鳥居が建ち、また参道脇には石鳥居も建つ。境内入り口を標示する第一鳥居は大正10年(1921年)に「日本一の大鳥居」として建てられ、石松秋二作詞の「九段の母」(昭和14年(1939年))に「空をつくよな大鳥居」と歌われもしたが、風雨による損傷の為に昭和18年に撤去され、その後、同49年(1974年)に鋼管製で再建された。柱の高さが約25メートル、笠木(上の横木)の長さは約34メートルあり、重量は100トン震度7の地震や、風速80メートルの強風でも倒れないと言われている。[要出典]第二鳥居は明治20年(1887年)の建立で、大阪砲兵工廠で鋳造された青銅製。現存の靖国神社の全4基の鳥居の内では最も古いものであり、また青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇っている。石鳥居は昭和8年に奉納されたもので、石製鳥居としては京都の八坂神社のものと並び最大級とされる。

境内

93,356平方メートルの敷地内には[38]、主要社殿以外の以下の施設がある。

慰霊の泉
ファイル:Oomura masujiro statue.jpg
大村益次郎像
ファイル:War dog and horse memorial Yasukuni 222087277 5ce512ef07 o.jpg
軍犬・戦没馬 慰霊像

九段下駅方面から)

  • 社号標
  • さざれ石 - 大鳥居近くにある
  • 赤い石 - 大鳥居近くにある
  • 戦跡の石 - 旧日本軍の激戦地域から収集された石。「グアム島」「レイテ島」等がある。
  • 慰霊の泉 - 戦場で水がなくて苦しんだ御霊に対し、水を捧げるために作られた記念碑。東京キワニスクラブが、昭和42年(1967年)に奉納した。
  • 大村益次郎像 - 東京招魂社の建立に奔走し場所決定後、暗殺された大村益次郎銅像。明治26年(1893年)に造られた日本初の西洋式銅像。戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したもの。因みに像の下にある顕彰文の揮毫は三条実美である。
  • 大燈籠 - 日本一の大きさの燈籠。昭和10年(1935年)に富國徴兵保険(現富国生命)が奉納した。九段下駅側から右側の燈籠には日清戦争から満州事変までの旧海軍の戦闘場面が描かれ、左側の燈籠には同じく日清戦争から満洲事変までの旧陸軍の戦闘場面が描かれている。終戦後、GHQによって撤去させられそうになったが免れた。
  • 大手水舎 - 昭和15年(1940年)、アメリカで暮らしていた日本人が奉納したもの。
  • 白鳩鳩舎 - 平和の象徴であるを育てている。神門脇にある。
  • 斎館社務所
  • 能楽堂 - 岩倉具視らにより東京・芝公園に建てられたかつての芝能楽堂。明治36年(1903年)に奉納された。
  • 軍犬慰霊像 - 戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫するため、平成4年(1992年)3月に奉納された。
  • 戦没馬慰霊像 - 戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫するため、昭和33年(1958年)に奉納された。
  • 鳩魂塔 - 通信に使われた伝書鳩の霊を慰撫するため、昭和57年(1982年)に奉納された。
  • 母の像 - 戦争で父親が亡くなってから母親子供を育ててくれたことに感謝し、昭和49年(1974年)に建てられた。
ファイル:Yasukuni Radha Binod Pal Commending Stele.jpg
パール判事顕彰碑
招魂斎庭

桜の名所

参道の桜

明治3年(1870年)開始の靖国神社競馬場(同31年(1898年)廃止)の周囲に数十本の桜が植えられた[39]。現在では境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士の象徴であるとの指摘もある。[要出典]

気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都での桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の「桜の開花宣言」はこの標準木が咲いた時に行われている。

交通


靖國神社と文化

靖國神社が描かれた文物

紙幣
50銭紙幣の図案に使われた靖國神社(昭和20年銘)

靖国神社を描いた紙幣として小額政府紙幣がある。これは昭和13年(1938年)以降日本政府が50銭硬貨に使われていたを戦略物資として温存するために、富士山を描いた昭和13年銘のある政府紙幣に置き換えたものである。この紙幣では凹版印刷が用いられていたが、同17年になって通貨需要が増大したため、民間の凸版印刷株式会社に製造させ、その際に靖国神社を描く紙幣に変更された。

この紙幣は、硬貨の発行年と同様に昭和17年から同20年まで4つの発行年号が記載されている。また最初の昭和17年銘は凸版5色刷りの高級な印刷方法を用いていたが、最後の昭和20年銘(実際には戦後になった翌年発行)は印刷に用いる資材の枯渇のためオフセット印刷に切り替えられている。靖国神社が描かれてはいるがGHQからは大目にみられて発行と流通が続けられたが、硬貨が発行されるようになったために昭和23年8月31日を以て廃止された[40]

郵便切手
靖國神社の鳥居を描く普通切手
靖國神社の本殿を描く記念切手

靖国神社を描いた郵便切手は4種類発行されている。そのうち普通切手としては、17銭切手(昭和18年(1943年)2月21日発行)、27銭切手(同20年2月2日発行)、1円切手(同21年3月ごろ発行)の3種が発行されている。いずれも書留料金用の高額切手であったが、戦時中のため印刷が粗悪である。最後の1円切手は戦後になって発行されたが、これは戦時中に計画されたものが製造および配給が遅れた為に戦後になって発行されたものである。通常、切手発行の告示は官報によって行われるが、当時の他の切手と同様に告示を待たずに発売された。このため、公式にいつ発売されたかは現在も不明である(上記年月は最初に確認されたもの)。また1円切手は用紙が粗悪であるうえ、目打や裏糊もなかった。これは、製造工程の簡略化というだけでなく、印刷局が戦災にあったため、機械自体が使用できない状態に追い込まれていた事情もあってのことだった。

7銭(発行時の封書基本料金と同額)切手は昭和19年6月29日に「靖国神社鎮座75周年」を記念して発行された記念切手であったが、戦時体制下であったため、通常の記念切手のサイズではなく、それよりも小さな普通切手サイズで発行された。なお印刷方法は戦時中としては異例のグラビア印刷であった。

靖国神社の切手は「少年航空兵」や「戦闘機飛燕」など戦意高揚のためにデザインされた他の切手とともにGHQによって「超国家主義的かつ軍国主義的」と判断され昭和22年に既に在庫が無かった7銭記念切手を除く3種が通称「追放切手」として使用禁止処分がとられた。

風景印

郵便局が郵便切手へ押印する消印のうち、その郵便局近辺の風物等を描いた風景印(風景入通信日付印)があるが、九段郵便局の風景印には靖国神社拝殿と桜を描いている。使用開始は昭和27年(1952年)5月10日であるが、同じ日に麹町郵便局も同じ図案の風景印の使用を開始している。ただし、麹町郵便局は昭和58年(1983年)7月26日から日本武道館を描く図案に変更しており、九段郵便局だけが靖国神社に縁のある図案の風景印を現在も使用している。この消印は公印ではあるが、個人が50円以上の額面の切手もしくは葉書を提示すれば記念押印に応じてもらえるし、郵便物に押印して差し出すことも出来る。

歌謡
舞台
書物
『武江〔ぶこう〕年表 続編』 斎藤幸成著
近代デジタルライブラリ(国会図書館) にて「武江年表」で検索〕
正編と続編が在り、江戸周辺の出来事を綴ってある。編者は徳川家斉将軍と同時代の江戸神田の斎藤幸成(さいとうゆきしげ)で、他に『江戸名所図会』を完成させ、『東都歳時記』を著している。明治14年に長男の喜之助と甫喜山景雄の手で増補改訂されたものが刊行された。
江戸時代の町人の視点から、招魂社での祭祀の後の、祭りについて書かれている。祭礼時には町屋も飾り付けられ、神楽・祝砲・花火・相撲・踊り・競馬などの催しがあり、練り物も出た。祭礼期間外でも境内は興行の場となり、市も開かれるなど、江戸町人商人から明治時代に入ったばかりの人々によって現代でいう遊園地のような様子となっている。所々に「貴賎群集」ったとも記述されている。
<一部引用>明治二年:
夏の頃より、九段坂上馬場の後へ招魂社創立あり。是は近年、諸国ならびに近在・東京上野、其外戦争のみぎり、報国尽忠のともがら、戦士の亡魂を慰給はんとの御沙汰として、此御造営ありけるよしなり。
『木戸日記』、『廣澤日記』
『木戸日記』は招魂社の発案者で社地内に住んでいた木戸孝允によって書かれ、『廣澤日記』は長州財閥の大物、参議廣澤真臣によって書かれた。双方とも、招魂社の土地の遣り取り等、主に政治行政面での記述が見られる。
『靖国神社誌』山内岩雄編纂、明治38(1905)年10月31日出版
近代デジタルライブラリ(国会図書館)での閲覧[41]
佐賀の西南の役から日露戦争に至るまでに合祀された十萬の同朋に対する国民の誠意をもった慰霊の心掛けを期待して神社のあらましを公にする、とされている。
内容は、神霊(合祀の内容と神霊数)、神宝(大和錦:赤地青地各一巻、御紋章付金灯籠:一対、宝剣:數振、宝鏡:數面)、祭式(宮司を中心とした祭式手順などの詳細)、正遷宮の式、御祭文(ごさいもん:元は「宣命〔せんみょう〕」と言われ、天皇陛下によって御使いが立てられた御祭りの際に、勅使が霊前で読み上げる文章)、招魂祭詞、皇室と神社、神社の沿革、神社奉仕の宮人、境内の建物、境内の庭園、九段の櫻〔さくら〕、神社と軍人、神社区国民、神社の奉仕者の歌、編纂の趣旨、の構成となっている。
『靖國神社誌』 寺内正毅・斎藤実・宮司賀茂百樹の共著、明治44(1911)年出版
近代デジタルライブラリ(国会図書館)での閲覧[42]
明治42年に靖国神社第三代宮司に着任した山口県出身の賀茂百樹が、官庁文書や関係者からの聞取りや日誌などから著作編集したが、明治12年以前の記録は特に乏しいとしている。
内容としては、勅使派遣等に関する記述、売却地、予算規模、に関する記述等、原資料や当時の他資料とは違う点も多く見られる。著者の主観による記述も散見される。市場に出回る書籍や研究などは、この『靖國神社誌』を元に書かれた書物も少なくない。
靖国神社創設のはじまりは、招魂社である。招魂祠、あるいは、招魂場など呼んでいた事も在る。招魂場とは、神霊を招く斎場の名で、招魂社・招魂祠とは、その招いた神霊を祭祀する祠社である。靖国神社には、本殿とは別に招魂斎庭が設けてあり、神霊を合祀する際には必ず、先ずその神霊を招魂場に招き奉り、その上で、神殿に遷〔うつ〕して鎮祭するのを通例としていた。
明治12年6月4日に、別格官幣社として列せられ、それと共に、靖国神社と改称された。
『猫(吾輩は猫である)』 夏目漱石 著
明治38(1905)年から2年間、雑誌『ホトトギス』に連載された夏目漱石の『吾輩は猫である』では、幼い女の子達の会話に、それぞれが「招魂社に嫁に行く」と話しているシーンが在る。当時は既に「靖国神社」と改称されているはずであるが、古い名で馴染まれていた様子が窺(うかが)える。
『東京の三十年』田山花袋
大正6(1917)年の出版である、田山花袋の『東京の三十年』には、「招魂社」で年に二回春秋に行われる見世物小屋や屋台などの様子が書かれている。

大日本帝国と英霊と靖国神社(民間伝承)

仕組
特に昭和時代の戦争時には皆、通常は、靖国神社に参拝し御払いを受け、靖国神社を「帰国時の目印」として覚えて戦地へと向った。
戦地で御国の為に闘い亡くなった方々等を英霊とし、その英霊方の故郷への入口として御迎えする場所が靖国神社であり、英霊本人の意志で故郷に戻る為の目印としていた。靖国の事を思えば、戦友達がそこに集っており、それを目印に戻って来られる。また、家族・知人や戦友達や先に戻られた英霊方等が、戦地で迷っている戦友の英霊に呼び掛ける事もできる。方向が解らなくなり迷っている英霊も、靖国神社に心を向ければ、そういった呼び掛けや招魂斎庭での招魂の儀式により、一人の取り残しも無く靖国神社まで呼び戻す事が出来る。
靖国神社まで戻る事ができれば、後は、英霊それぞれの故郷までの道は本人が解る。靖国神社に拘束されるのではなく、各英霊の自由で帰郷もでき、家族や知人等が参拝時に一緒に連れ帰る事も出来る。
更に、英霊方の集う場所でも在るので、故郷に戻った後も遊びに行きたくなればいつでも、靖国に行けば戦友等や御国の子孫達が待っている、という仕組となってる。
合祀と例祭
合祀の際には、戦地等で亡くなられた兵隊さん達がその地で迷って居る事の無いよう、招魂斎庭から声を掛けて英霊を呼び戻す儀式をする。
また、靖国まで戻られたり帰郷していたりする英霊方を招魂し、例祭等をそれらの英霊方と共に執り行う。
「靖国で会おう」、約束の地
靖国神社は、「靖国で会おう」を合言葉に闘い亡くなられた英霊方との約束の地である。
そして国に残った者達が、英霊を御迎えし祀ると約束した地でもある。
戦後、様々な問題が在る中、英霊帰郷の入口そして彼等が集う場としての彼等との約束を違えないよう、維持管理に努めて来ている人達も存在する。
元大日本帝国民にとって靖国神社に行くことは、英霊方を御先祖様としたその子孫として、英霊の集合場所に参拝する形となる。基本的には、英霊方の慰霊とその善良なる国と子孫達への思いを受け継いで行く事を思い参拝するのが望ましいが、靖国の仕組に賛同できない人達や参拝したくない人達に対する義務は無く、賛同しなくても参拝しなくてもそれぞれの自由である。また、敬意を払って下さる方々、或いは、危害を加えない限りでの外部の方々の参拝も受付ている。


脚注

  1. ^ 『法令全書(明治2年)』「魂場祭典順序(明治2年6月24日、軍務官)」、近代デジタルライブラリー、国立国会図書館。
  2. ^ 東京都『東京百年史』ぎょうせい
  3. ^ 靖國神社、「靖国神社史」
  4. ^ 他に大鳥居が南に向いていない勅祭社で旧別格官幣社鹿島神宮北海道神宮がある。
  5. ^ 村上重良『慰霊と招魂』岩波新書、1974年、152頁参照。
  6. ^ a b 賀茂百樹編『靖国神社誌』、靖国神社、明治44年、17頁
  7. ^ Japan rejects war shrine lawsuit /BBC News
  8. ^ Will leader visit Tokyo war shrine? /IHT News
  9. ^ Japan war shrine film stirs free speech debate /USATODAY
  10. ^ Japan protestor sends PM severed finger /Telegraph.co.uk
  11. ^ a b 阪本是丸「靖國神社」(『日本「神社」総覧』、新人物往来社、平成4年)。
  12. ^ 『神道大辞典』第3巻、平凡社、昭和15年。
  13. ^ CD-ROM版『世界大百科事典』、平凡社(日立デジタル平凡社)、1998年。
  14. ^ 加害者には懲役3箇月、執行猶予2年の判決が下されている。
  15. ^ 堀幸雄『戦後の右翼勢力』勁草書房、1993年増補版、p148「靖国法案と大東塾」の項参照。
  16. ^ 田村譲「靖国神社に関する一考察」「松山大学論集」13(5)、2001年12月。
  17. ^ 内閣委員会調査室・滝沢朗「靖国問題の系譜」「立法と調査」130号、参議院常任委員会調査室、昭和60年10月。
  18. ^ 『国史大辞典』1993年、吉川弘文館。「靖国神社」の項参照。
  19. ^ 4月30日は日露戦争陸軍凱旋観兵式の日であり、10月23日は同海軍凱旋観艦式の日であった
  20. ^ 歴代首相の靖国神社参拝に関しては「靖国神社問題#歴代首相の靖國神社参拝(回数)」を参照。
  21. ^ 文官である広田弘毅、判決前に病死した松岡洋右を含む。
  22. ^ 戦争終了後の昭和20年8月20日、ソビエト連邦軍の攻撃を受けた樺太庁真岡町において、電話網を守る為に残り、内地に通話を続け自決殉職した電話交換手の女性。
  23. ^ 鳥飼行博・東海大学教授による。
  24. ^ A級戦犯合祀 終戦時多くの選択肢 全戦災死亡者合祀も検討(産経新聞 2007年3月29日)。
  25. ^ 合祀の手続きでは神社と遺族が直接やりとりする関係ではなく、両者の間を国(厚生省)が橋渡ししている。これには美山要蔵をはじめとした援護局内の旧軍人グループの動きもあった。このように靖国神社の根幹に関わる部分で国が深く関与していたことは、政教分離やA級戦犯分祀などの論点もからんで議論をさらに複雑化させている(「靖国:「戦後」からどこへ/11 千鳥ケ淵の墓守役」 毎日新聞、2006年8月18日[リンク切れ]「分祀含めた議論を 靖国資料公表で古賀氏」、産経新聞、2007年3月29日[リンク切れ])。
  26. ^ 大阪地方裁判所、平成18年(ワ)第8280号、平成19年(ワ)第9419号。「靖国神社問題」も参照のこと。
  27. ^ 『靖国神社の概要』。
  28. ^ a b 池田良久「靖国神社の創設」『神道史研究』昭和42年年11月。
  29. ^ 村上重良『慰霊と招魂』岩波新書、1974年、129-130頁参照。
  30. ^ 村上重良『慰霊と招魂』岩波新書、1974年、93頁参照。
  31. ^ 東京都『東京百年史』、ぎょうせい。
  32. ^ 村上重良『慰霊と招魂』岩波新書、1974年参照。
  33. ^ 「靖国神社が財政難 戦争世代減り寄付激減」朝日新聞、2006年8月12日。
  34. ^ 靖國神社崇敬奉賛会[リンク切れ]
  35. ^ 『神道大辞典』第3巻、平凡社、昭和15年。
  36. ^ a b 「特報 『鎮霊社』からみた靖国神社 ひっそり鉄柵の中」、東京新聞、2006年8月12日。
  37. ^ 「特報 鎮霊社『靖国』の回答検証」、東京新聞、2006年8月29日。
  38. ^ 「徹底ルポ/“靖国史観”の現場をゆく/「戦史回廊」で何を学ばせる」しんぶん赤旗、2005年6月15日付。
  39. ^ 東京百年史編集委員会『東京百年史』、ぎょうせい、1979年。
  40. ^ 再び金属価格が高騰したため、50銭紙幣としてデザインが板垣退助に変更されたものが発行されたが、銭単位が廃止されたため流通禁止になった。
  41. ^ 上記リンク切れの場合、国立国会図書館近代デジタルライブラリのページにて「靖国神社誌」で検索。
  42. ^ 上記リンク切れの場合、国立国会図書館近代デジタルライブラリのページにて「靖国神社誌」で検索。

参考文献

  • 靖国神社編『靖国神社誌』(1911年12月、靖国神社 1912年6月〈改訂再版〉)
  • * 靖国神社編『靖国神社誌』(2002年8月、神社本庁教学研究所 近代神社行政史研究叢書IVとして復刻)
  • 靖国神社編 『靖国神社事歴大要』(1911年2月、国晃館)
  • 加茂百樹「靖国神社の祭典の趣旨に就いて」(1925年4月、東京放送局より放送)、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』(1925年11月、日本ラジオ協会)277~287頁
  • 陸海軍大臣官房監修 『靖国神社忠魂史』全5卷(1933年9月~1935年9月/2006年11月、ゆまに書房)
  • 神社新報社政教研究室編 『神宮と憲法』(1963年、神社新報社)
  • 森谷秀亮編 『靖国神社略年表』(1973年7月、靖国神社)
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  • 靖国神社編 『靖国神社百年史』全4卷、資料篇・事歴年表(1983年6月~1987年6月、原書房)
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  • 江藤淳小堀桂一郎編 『靖国論集 日本の鎮魂の伝統のために』(1986年12月、日本教文社〈教文選書〉)
  • 小堀桂一郎・渡部昇一編『新世紀の靖国神社 決定版 全論点』(2005年10月、近代出版社ISBN 4907816189 
  • 小堀桂一郎 『靖国神社と日本人』(1998年7月、PHP新書ISBN 4569601502
  • 板垣正『靖国神社公式参拝の総括』(2000年6月、展転社ISBN 4886561810
  • 大原康男編著『「靖国神社への呪縛」を解く』(2003年7月、小学館文庫ISBN 4094057315
  • 新野哲也『日本人と靖国神社』 (2003年6月、光人社ISBN 4769810962
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  • 新田均『首相が靖国参拝してどこが悪い!!』(2005年8月、PHP研究所ISBN 4569643655
  • 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想 近代日本を歪めた俗説を糺す。』(2003年2月、PHP研究所)ISBN 4569626548
  • 打越和子『靖国のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像』(2002年7月、明成社ISBN 494421913X
  • 日本会議編『首相の靖国神社参拝は当然です!』(2005年10月、明成社)ISBN 4944219385
  • 屋山太郎『なぜ中韓になめられるのか』(2005年9月、扶桑社ISBN 459405028X
  • 宮本辰彦『この国を愛するために 靖国』(2005年8月、国書刊行会ISBN 4336047219
  • 石原藤夫『靖国神社に参拝しよう』(2006年4月、栄光出版社)
  • 高森明勅編『日本人なら知っておきたい靖國問題』(2007年6月、青林堂ISBN 4792604028
  • 所功「“靖国祭神”の要件と合祀の来歴」(2006年10月、藝林会〈『藝林』55-2〉)
  • 大原康男監修『靖国神社・遊就館の世界―近代日本の歴史探訪ガイド』(2003年7月、産経新聞ニュースサービス)
  • 靖国神社監修・所功編 『新・ようこそ靖国神社へ―オフィシャルガイドブック』(2007年2月、近代出版社)
  • 上坂冬子『戦争を知らない人のための靖国問題』(2006年3月、文春新書ISBN 4166604988 
  • 別冊宝島編集部編『ニッポン人なら読んでおきたい靖国神社の本』(2006年6月、宝島社文庫ISBN 4796653538
  • 保阪正康『昭和史の大河を往く1.「靖国」という悩み』(2007年1月、毎日新聞社ISBN 4620317926
  • 小島毅『靖国史観―幕末維新という深淵』(2007年4月、ちくま新書ISBN 4480063579
  • 秦郁彦『靖国神社の祭神たち』(2010年1月、新潮選書ISBN 4106036541
  • 毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史―A級戦犯を合祀した男』(2007年8月、毎日新聞社)(松平永芳に関する内容)
  • 伊藤智永『奇をてらわず―陸軍省高級副官・美山要蔵の昭和』(2009年3月、講談社
  • 青山幹生、青山隆生、堀雅昭『靖国の源流』(2010年7月、弦書房)(靖国神社初代宮司青山清に関する内容)
  • 植村和秀『昭和の思想』(2010年11月、講談社選書メチエ)(思想史からの靖國神社問題――松平永芳・平泉澄に関する内容)
  • 村上重良『慰霊と招魂 靖国の思想』(1974年1月、岩波新書ISBN 4004121566
  • 大江志乃夫『靖国神社』(1984年3月、岩波新書)ISBN 4004202590
  • 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(1992年、岩波新書)ISBN 4004302579
  • 田中伸尚『靖国の戦後史』(2002年6月、岩波新書)ISBN 4004307880
  • 高橋哲哉『靖国問題』(2005年4月、ちくま新書)ISBN 4480062327
  • 『靖国問題入門 ヤスクニの脱神話化へ』(2006年1月、河出書房新社〈道の手帖〉)ISBN 4309740073
  • 辻子実『靖国の闇にようこそ─靖国神社・遊就館非公式ガイドブック』(2007年6月、社会評論社
  • 田中伸尚『これに増す悲しきことの何かあらん 靖国合祀拒否・大阪判決の射程』(2009年、七つ森書館)ISBN 4822809927

付録

祭神の内訳

祭神の内訳は、以下の通り(平成16年10月17日現在)。戦争・事変名は年代順ソート。

戦争・事変名 柱数 備考
1868年-1869年/戊辰戦争明治維新 0007751/7751柱 新政府軍側のみ。遊就館の靖国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。(彰義隊新撰組を含む)旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となる。
1877年/西南戦争 0006971/6971柱 政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。
1874年/台湾出兵
(別名:征台の役)
0001130/1130柱 遊就館の靖国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
1882年/壬午事変 0000014/14柱  [* 1]
1875年/江華島事件 0000002/2柱  [* 2]
1882年/京城事変 0000006/6柱  [* 3] 遊就館の「靖国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない。
1894年-1895年/日清戦争 0013619/1万3619柱
1900年/義和団事件 0001256/1256柱 遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある。
1904年-1905年/日露戦争 0088429/8万8429柱 常陸丸事件英国人船員は対象外。但し6月15日斎行の常陸丸殉難記念碑前での慰霊祭では、等しく慰霊されている。
1914年-1918年/第一次世界大戦 0004850/4850柱
1928年/済南事件 0000185/185柱
1930年/霧社事件
1931年06月/中村大尉事件 0000019/19柱  [* 4]
1931年09月-1932年02月/満洲事変 0017176/1万7176柱
1937年-1945年/支那事変
日中戦争
0191250/19万1250柱
1941年-1945年/大東亜戦争
太平洋戦争
2133915/213万3915柱 第一次インドシナ戦争[* 5]などの「大東亜戦争後のアジア独立戦争」で戦没した者も含む。
246万6532柱
  1. ^ 『故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件』 (国立公文書館>内閣>公文録>陸軍省>公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月・陸軍省) アジア歴史資料センター レファレンスコード A01100233700 - 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」。
  2. ^ 『一等水夫故松村千代松招魂社ヘ合祀』 〔国立公文書館>内閣>公文録>朝鮮講信録>公文録・明治八年・第三百七巻・朝鮮講信録(三)〕 アジア歴史資料センター レファレンスコード A01100130400 - 「故松村千代松招魂社合祀ノ儀上請 山口県士族 一等水夫 故松村千代松 右之者本年九月中雲揚艦朝鮮江華島ニ於テ暴撃ヲ受ケ候節奮激突戦台場ニ乗入逐ニ深手ヲ負ヒ帰艦之後之力為メ同月二十二日致死去実ニ愍然之儀ニ付来ル明治九年一月招魂社例祭之節合祀被仰付候様仕度此段」。
  3. ^ 『陸軍省稟告故磯林歩兵大尉外五名靖国神社ヘ合祀ノ件』 (国立公文書館>内閣>公文別録>公文別録>公文別録・朝鮮事変始末・明治十七年・第二巻・明治十七年) アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023658800。
  4. ^ 『第1511号 7.4.23 靖国神社臨時大祭祭式次第書並に先着諸員の件(2)』(昭和7年4月23日) (防衛省防衛研究所>海軍>海軍省公文備考類>昭和7年>公文備考 昭和7年 C 儀制 巻7) アジア歴史資料センター レファレンスコード C05021974300。
  5. ^ ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月。

歴代宮司・権宮司

歴代宮司
  • 青山清 : 明治12年(1879)6月16日 - 明治24年(1891)2月6日(在職中に死去)
  • 賀茂水穂 : 2月17日 - 明治42年(1909)4月28日
  • 賀茂百樹 : 明治42年3月29日 - 昭和13年(1938)4月21日
  • 鈴木孝雄 : 昭和13年4月21日 - 昭和21年(1946)1月17日
  • 筑波藤麿 : 昭和21年1月25日 - 昭和53年(1978)3月20日(在職中に死去)
  • 松平永芳 : 昭和53年7月1日 - 平成4年(1992)3月31日
  • 大野俊康 : 平成4年4月1日 - 平成9年(1997)5月20日
  • 湯澤貞 : 平成9年5月21日 - 平成16年(2004)9月10日
  • 南部利昭 : 平成16年9月11日 - 平成21年(2009)1月7日(在職中に死去)
  • 京極高晴 : 平成21年6月15日 -
歴代権宮司
  • 高原正作 : 昭和13年(1938)4月16日 - 昭和20年(1945)10月3日
  • 横井時常 : 昭和20年11月16日 - 昭和23年(1948)6月30日
  • 竹内秀太郎 : 昭和23年4月26日
  • 池田良八 : 昭和23年8月31日 - 昭和54年(1979)2月9日
  • 藤田勝重 : 昭和54年2月9日 - 昭和57年(1982)7月16日
  • 鈴木忠正 : 昭和56年(1981)7月16日 - 昭和59年(1984)11月1日
  • 神野藤重申 : 昭和59年11月1日 - 平成元年(1989)11月17日
  • 木山照道 : 昭和60年(1985)8月1日 - 平成2年(1990)11月5日
  • 湯澤貞 : 平成2年11月1日 - 平成9年(1998)5月20日
  • 三井勝生 : 平成9年5月21日 - 平成21年(2009)9月8日
  • 花田忠正 : 平成12年(2001)1月19日 - 平成15年(2004)10月31日
  • 山口建史 : 平成16年(2005)6月1日 -
  • 小方孝次 : 平成21年(2009)11月1日 -

年表

<>内は関連事項。紀年直後の()内は西暦

文久 - 明治

  • 文久2年(1862)12月:<京都東山の神道葬祭場霊明社(現、霊山)で殉難志士の神葬祭(招魂祭)が初めて有志によって行なわれる。祭神は菊理媛神など3神。>
  • 慶応4年/明治元年(1868)1月:<戊辰戦争。明治2年5月まで>
    • 4月20日:東海道先鋒総督府達で、死傷者の一覧作成を命じる
    • 閏4月28日:東海道先鋒総督府達で、招魂祭を行うことを示す
    • 5月10日:<太政官布告で、京都東山に戦死者を祭ること(のちの霊山護国神社)を示す>
    • 5月28日:<行政官達で、戦死者の一覧を神祇官に提出することを命じる>
    • 6月2日:招魂祭。江戸城西丸大広間にて。
    • 7月8日:<神祇官達で、招魂祭を行うことを示す>
    • 7月10日・11日:<招魂祭。京都の河東操錬場>
  • 明治2年(1869)6月12日:軍務官達で、東京招魂社を建てることを示す。
    • 6月29日:東京招魂社、創建。明治天皇は1万石の社領を「永代祭粢料」として与う。
    • 6月:第1回合祀祭。(新規合祀:3,588柱)
  • 明治5年(1872)5月10日:本殿、造営。
  • 明治7年(1874)2月:<台湾出兵
    • 明治天皇の親拝。以後、天皇の親拝は3代にわたって昭和50年(1975)まで断続的に行われる。
    • 8月:第2回合祀祭(新規合祀:192柱)
    • 11月:第3回合祀祭(新規合祀:16柱)
  • 明治8年(1875)2月22日:臨時祭
    • 2月:第4回合祀祭(新規合祀:12柱)
    • 7月:第5回合祀祭(新規合祀:1柱)
  • 明治9年(1876)1月:第6回合祀祭(新規合祀:1柱)
  • 明治10年(1877)1月:第7回合祀祭(新規合祀:131柱)
    • 2月:<西南戦争
    • 11月14日:臨時祭
    • 11月:第8回合祀祭(新規合祀:6,505柱)
  • 明治11年(1878)7月:第9回合祀祭(新規合祀:160柱)
    • 11月:第10回合祀祭(新規合祀:4柱)
  • 明治12年(1879)6月4日:別格官幣社に列格。靖国神社に改称(太政官達)。
    • 6月:第11回合祀祭(新規合祀:266柱)
  • 明治15年(1882)2月 : 遊就館(世界最古の軍事博物館)、開館。
    • 11月:第12回合祀祭(新規合祀:12柱)
  • 明治16年(1883)5月:第13回合祀祭(新規合祀:80柱)
  • 明治17年(1884)11月:第14回合祀祭(新規合祀:47柱)
  • 明治18年(1885)5月:第15回合祀祭(新規合祀:6柱)
  • 明治21年(1888)5月:第16回合祀祭(新規合祀:607柱)
    • 11月:第17回合祀祭(新規合祀:18柱)
  • 明治22年(1889)5月:第18回合祀祭(新規合祀:1,460柱)
    • 11月:第19回合祀祭(新規合祀:61柱)
  • 明治24年(1891)11月:第20回合祀祭(新規合祀:1,272柱)
  • 明治26年(1893)11月:第21回合祀祭(新規合祀:80柱)
  • 明治27年(1894)8月:<日清戦争。翌年4月まで>
  • 明治28年(1895)11月17日:臨時大祭
    • 11月:第22回合祀祭(新規合祀:1,496柱)
  • 明治29年(1896)5月6日:臨時大祭
    • 5月:第23回合祀祭(新規合祀:143柱)
    • 11月:第24回合祀祭(新規合祀:97柱)
  • 明治31年(1898)11月5日:臨時大祭
    • 11月:第25回合祀祭(新規合祀:11,383柱)
    • 競馬場廃止。
  • 明治32年(1899)5月:第26回合祀祭(新規合祀:340柱)
    • 11月:第27回合祀祭(新規合祀:83柱)
  • 明治33年(1900)5月:第28回合祀祭(新規合祀:35柱)
  • 明治34年(1901)10月31日:臨時大祭
    • 10月:拝殿、造営。
    • 11月:第29回合祀祭(新規合祀:1,282柱)
  • 明治37年(1904)2月:<日露戦争。翌年9月まで>
    • 5月:第30回合祀祭(新規合祀:89柱)
  • 明治38年(1905)5月3日:臨時大祭
    • 5月:第31回合祀祭(新規合祀:30,883柱)
  • 明治39(1906)5月2日 : 臨時大祭
    • 5月:第32回合祀祭(新規合祀:29,960柱)
  • 明治40年(1907)5月3日:臨時大祭
    • 5月:第33回合祀祭(新規合祀:24,657柱)
  • 明治41年(1908)5月5日:臨時大祭
    • 5月:第34回合祀祭(新規合祀:1,943柱)
  • 明治42年(1909)5月5日:臨時大祭
    • 5月:第35回合祀祭(新規合祀:817柱)
  • 明治43年(1910)5月5日:臨時大祭
    • 5月:第36回合祀祭(新規合祀:141柱)
  • 明治44年(1911)5月5日:臨時大祭
    • 5月:第37回合祀祭(新規合祀:631柱、計:118,499柱)

大正

昭和

  • 昭和3年(1928)5月:<済南事件
  • 昭和6年(1931)3月:福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。
  • 昭和13年(1938)4月:新招魂斎庭、造営。
  • 昭和12年(1937)7月:<日中戦争支那事変)>
  • 昭和16年(1941)12月8日:<太平洋戦争大東亜戦争)。20年(1945)まで>
  • 昭和20年(1945)8月15日:<玉音放送、日本軍無条件降伏
    • 10月:GHQ、靖国神社存続を決定。
    • 11月19日:臨時大招魂祭
    • 12月:神道指令
  • 昭和21年(1946)5月1日:第67回合祀祭(新規合祀:26,969柱)
  • 昭和22年(1947):合祀祭(新規合祀:59,337柱)
    • 7月13日:初のみたま祭。
  • 昭和26年(1951)4月3日:<宗教法人法施行>
    • 10月18日:戦後初の例大祭。
  • 昭和27年(1952)4月28日:<サンフランシスコ講和条約発効>
  • 昭和30年(1955)8月14日:終戦時自決者540柱の慰霊祭
    • 10月17日:臨時大祭。
  • 昭和31年(1956):合祀祭(新規合祀:112,609柱)
  • 昭和32年(1957):合祀祭(新規合祀:470,010柱)
  • 昭和33年(1958):合祀祭(新規合祀:217,536柱)
  • 昭和34年(1959)4月8日:臨時大祭。
    • 4月:合祀祭(新規合祀:346柱)※BC級軍事裁判刑死者
    • 10月4日:合祀祭(北白川宮能久親王・同永久王)
    • 10月:合祀祭(新規合祀:479柱)※BC級軍事裁判刑死者
    • 11月5日:創立90周年記念大祭
  • 昭和35年(1960)8月15日:アジア・太平洋戦争殉国者顕彰慰霊祭
  • 昭和39年(1964)8月15日:政府主催の全国戦没者追悼式が行われる(翌年より、日本武道館で開催)。
  • 昭和40年(1965)7月:鎮霊社を境内に建立
    • 10月19日:臨時大祭。
  • 昭和44年(1969)10月19日:創立100周年記念大祭。<記念出版で、大東亜戦争戦没者の『遺稿集』を、 昭和48年に刊行>。
  • 昭和47年(1972)3月13日:霊璽簿奉安殿、造営。
  • 昭和50年(1975)8月15日:三木武夫内閣総理大臣が参拝(終戦記念日に参拝した初めての首相)。参拝後記者団に「内閣総理大臣としてではなく、三木個人としての参拝である」と発言した事により、今日まで公人の靖国神社参拝が問題視されるようになった。
    • 11月21日:昭和天皇親拝。この時を最後に現在に至るまで靖国神社への行幸は行われていない。
  • 昭和51年(1976)6月22日:「英霊にこたえる会」結成。
  • 昭和53年(1978)10月17日:合祀祭(新規合祀:14柱)※極東国際軍事裁判刑死者および関連死亡者。この年より靖国神社は「昭和殉難者」との呼称を用いる。
  • 昭和55年(1980)11月16日:靖国神社奉賛会、設立。
  • 昭和60年(1985)8月15日:中曽根康弘内閣総理大臣が、靖国神社に公式参拝と称して参拝。この時に初めて「首相の靖国神社参拝」に中華人民共和国から抗議を受ける。
    • 9月:日露戦役80年慰霊顕彰祭

平成

  • 平成元年(1989)1月:創立120年記念大祭
  • 平成10年(1998)12月:靖国神社奉賛会、解散。靖国神社崇敬奉賛会に再組織。
  • 平成13年(2001)7月18日:同日付の朝日新聞が「大韓民国政府が、靖国神社に合祀されている朝鮮人の位牌の返還を求めている。」と報じた。※しかし、靖国神社にあるのは「霊璽簿」(旧称「祭神簿」。英霊の籠もるもの)であり、「位牌」は存在しない。
  • 平成14年(2002)7月13日:現在の「遊就館」、落成。
  • 平成16年(2004)9月:新参集殿、落成。
  • 平成17年(2005)1月5日:前年9月より公式ウェブサイトが攻撃を受けていると神社が発表した。この攻撃は中華人民共和国ドメインから行われたもので、内閣総理大臣の靖国神社参拝等に反発した中華人民共和国人のネット利用者による行為と考えられている。
    • 6月4日:「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を政府が韓国へ返還する方向で検討に入った、というニュースが報道される。
    • 6月14日:靖国神社に合祀されている中華民国人の遺族ら約50人が、魂を取り戻すための伝統儀式を行うため訪問。神社側は拒否しなかったが、儀式に反対する政治団体の街宣車による抗議行動などのため、遺族らは警察の要請を受け中止した。
  • 平成18年(2006)8月15日:小泉純一郎内閣総理大臣が参拝。中曽根康弘内閣総理大臣以来21年ぶりの「8月15日参拝」となる。以後8月15日に限らず「首相の靖国神社参拝」が途絶える。
    • 10月12日:元宮と鎮霊社の一般参拝を再開(午前9時から午後4時まで)。
  • 平成19年(2007)6月7日:李登輝中華民国前総統が日本兵として戦死した兄(日本名で合祀されている)の奉慰のために参拝。
    • 7月13日:国会議員が奉納した「みたままつり」の提灯のうち、参議院選挙比例代表の立候補者のものについて、「選挙区が全国であり、公職選挙法に抵触するおそれがある」として撤去することとなった[** 1]
  • 平成20年(2008)12月24日:公式ウェブサイトが、何者かにクラッキングを受ける[** 2]。神社側は、一時的に公式ウェブサイトを閉鎖。
  • 平成21年(2009)8月11日:中華民国の高金素梅・立法委員(国会議員)ら約50人が拝殿前で靖国神社反対活動を行い、制止した神社職員ともみ合いになり、職員数人を怪我をさせ警察官が出動する騒ぎがあった。
  • 平成22年(2010)8月15日:長年続いてきた「国務大臣の靖國神社参拝」が途絶える。
  • 平成23年(2011)12月26日:午前4時5分ごろ、神門の木製の扉に放火され、監視カメラらに犯人らしき男が映っており、警視庁麹町署は、非現住建造物等放火容疑で捜査している。また、ツイッター上に犯行予告らしきものが見つかっている。
  • 平成24年(2012)5月14日:ラビア・カーディル世界ウイグル会議主席が参拝する[** 3]

関連項目

外部リンク

資料
その他