藤川球児

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藤川 球児
2011年3月9日、阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 (1980-07-21) 1980年7月21日(43歳)
身長
体重
185 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 2000年3月31日
MLB / 2013年4月1日
最終出場 NPB / 2020年11月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年
獲得メダル
日本の旗 日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2006 野球
2009 野球
藤川球児
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年11月 -
ジャンル 野球
登録者数 約6.37万人
総再生回数 1,505,171回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2021年1月23日時点。
テンプレートを表示

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手投手、右投左打[注 1])、Youtuber。2021年より阪神タイガースの「Special Assistant(SA、特別補佐)」を務める[1]。マネジメント会社はエイベックス・マネジメント

1999年に阪神入団。その後、メジャーリーグベースボール(MLB)に挑戦しシカゴ・カブステキサス・レンジャーズに在籍、日本球界復帰後は独立リーグ四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスでもプレーした。2016年に阪神へ復帰、2020年に現役引退[2][3]

セントラル・リーグシーズン最多セーブ記録保持者(2007年、46セーブ)。

経歴

プロ入り前

少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。

高知商業高校に進学すると、2年生の時に第79回全国高等学校野球選手権大会右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[4]が、豊田大谷高校古木克明と共に2年生では2人だけ高校日本代表に選出された。ちなみに在学中は、寺本四郎土居龍太郎らと共に「高知三羽烏」と呼ばれていた。

1998のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1位で指名。契約金1億円、年俸700万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は30。入団発表の記者会見では、「10年後には(阪神でセントラル・リーグの)優勝を3回、そのうちに1回は胴上げ投手を経験しているはず」などと発言したため、当時一軍の監督として会見に同席していた野村克也から「藤川君は野球以外に何か才能を持っていそう」という表現で話術を褒められた[5]

阪神時代

1999年には、二軍で体力の強化を優先。ウエスタン・リーグの公式戦でも3試合の登板にとどまった。

2000年フレッシュオールスターゲームに選出されてリリーフで登板し、初めて一軍登録もされてプロ初登板を果たしたが、野村監督の期待に応えることはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同学年・松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。

監督が星野仙一に代わった2002年から背番号を名前の「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げ、フレッシュオールスターゲームのウエスタン・リーグ先発投手も務めたが、同年は前出の1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。

2003年のファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手になったが、日本シリーズでは登板機会がなかった。なおこの年に球団から戦力外通告を受ける可能性があった事、またヤクルト広島からトレードの申し入れがあり具体的な話も進んでいた事が、同年オフにコーチから昇格して新監督となった岡田彰布によって明かされている[6][7]

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し[4]、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で[4]中継ぎに転向した。このフォーム改造・ポジション転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。

2005年は背番号を22へ変更。この時「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語っている。シーズンではセットアッパーに定着すると、ジェフ・ウィリアムス久保田智之とともに勝利の方程式JFK」を形成。6月14日から7月20日にかけてプロ野球記録となる17試合連続ホールドを記録し、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録。また、同年53ホールドポイント(HP)で初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板し、チームは敗れた。翌日の第4戦も敗れ、4連敗でシリーズを終えた。

2006年WBCでの藤川

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。背番号は、同じ「22」を着ける里崎智也に配慮して24を選んだ[8]アメリカ合衆国戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。

シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑えの久保田が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、一回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。なお同年は中日ドラゴンズと優勝を争う状況だった阪神だが、7月30日の対ヤクルト戦で藤川に初めて延長3イニングを投じさせるほど決定打を欠いて引き分ける戦いぶりに象徴される様に、オールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。そんな中、首の寝違えで8月12日より登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。

2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(前々年の岩瀬仁紀と並ぶ、右投手としては新記録)となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。オフには球団にポスティングシステムの行使を申請し、「自分の気持ちにウソをついたまま来年プレーするのがイヤだった」として[9]メジャーリーグ(MLB)挑戦を希望していることを表明したが、ポスティング行使は球団に拒否された[10]

2008年オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、オールスター直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、星野仙一監督の構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージでは、1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退。オフには年俸4億円で契約更改し「メジャー挑戦の思いは持ち続けるが、阪神に入って10年。酸いも甘いも知った。来年はもう1回、阪神で巨人を倒したいという気持ちが強い」と語った[11]

2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBC日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。背番号22をつけ、1次予選・2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残した。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[12][13][14]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[15][16]

シーズンでは5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降は負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。この年のオフも「あえてしゃべらなくても、やることは同じ。どんな状況でも全力で前を向いてトライしていかないといけない。ポスティングは交渉の中で伝えていこうと思う。球団の了承がない限りメジャーに行けない」として2011年以降のメジャー挑戦のためポスティングシステムの行使を球団に申請したが、「やすやすとは出したくない。ビジネス以前の問題」として拒否された[17][18]

2010年は開幕から16試合連続無失点を記録し、例年以上の好調ぶりを見せた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも兼任することとなった。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ[19]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転被本塁打を打たれたり、それ以外でもピンチを招く場面がたびたびあった。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率・WHIPはそれぞれ2.01と1.08で、いずれも中継ぎに定着した2005年以降では最低の数字であった。

2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で昨年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の対巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜戦でセーブを挙げ4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて二度目の最多セーブ投手を獲得した。オフにはこの年取得した国内FA権を行使せず残留。契約更改の交渉でも球団から2,000万アップの年俸4億2千万円を提示されたが、優勝を逃したことを理由に固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した[20]

2012年は、この年からチームがキャプテン制度を定めたのに伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに選ばれた。この年も抑えとして活躍し、4月11日の対広島戦で通算200セーブを達成した。オフには海外FA権を行使し、「2007年のオフに初めてお話しさせていただいた、メジャーリーグへの思いはずっと抱き続けておりました。今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟慮した末、やはり、長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」として[21]アーン・テレム団野村を代理人としてMLB挑戦を表明した[22]

カブス時代

2012年12月2日にシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション。交代完了が一定数以上の場合は年俸600万ドルで自動更新)で契約合意し[23]、12月7日に契約。背番号は11となった。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語った[24]

シカゴ・カブス時代
(2013年5月17日)

2013年、渡米前に羽田空港で「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と語った[25]。開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面でメジャー初登板し、2球でメジャー初セーブを挙げた[26][27]。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された[28]。4月12日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦では2点リードの場面で登板し、3安打1死球1暴投の3失点で逆転を許した[29]ものの、その裏に味方が逆転したためメジャー初勝利を挙げた[29]。しかし、13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り[30]。5月10日の対ワシントン・ナショナルズ戦で復帰し、復帰後は7試合の登板で防御率1.17・WHIP 0.55と好投を続けていたが、5月26日の対シンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板した[31]トミー・ジョン手術を受けることが5月29日に球団から発表され[32][33][34]、6月11日に手術を受けてシーズンを終えた[35]

2014年3月30日に前年の手術の影響で、15日間の故障者リスト入りし[36]、5月3日に60日間の故障者リストへ異動した[37]。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動[38]。8月6日に故障者リストから復帰した[39]。オフにFAとなった。

レンジャーズ時代

2014年12月16日に年俸100万ドル+出来高の1年契約(翌年の契約は年俸200万ドル+出来高の球団オプション)でテキサス・レンジャーズと契約[40]。背番号は21[41]

2015年は右脚付け根の張りで故障者リスト入りして開幕を迎えた[42]。5月14日に復帰し移籍後初登板[43]。しかし2試合の登板で3失点を喫した[44]のち17日にDFAとなって40人枠から外れ、22日に自由契約となった。

四国IL高知時代

レンジャーズを自由契約となった後、ニューヨーク・ヤンキースと契約合意寸前まで行ったのだが、メディカルチェックで手術した肘の状態が引っかかり契約は土壇場で破断、藤川自身も引退を覚悟した失意で帰国することになった[45]。日本では古巣・阪神が先発投手として獲得を調査していることが明らかになり[46]、一部では「阪神復帰が決定的」とも報じられた[47]。しかし、「地元の子どもたちに夢を与えたい」との思いから出身地である高知で野球人生を再スタートすることを決意し[48][49]、阪神からのオファーを拒否して四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスへの入団を決めた[50][51]。これには、かつての藤川のチームメイトであり、当時阪神球団の駐米スカウトを務めていたジェフ・ウィリアムスおよびアンディ・シーツ両名からのシビアな報告に球団側が及び腰になっていたことが背景にあった、と報じるメディアもあった[52]

6月8日に高知市内で開かれた入団記者会見では、登板する試合ごとに高知と契約を結ぶ形となり、藤川自身は無報酬であること、また登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することを発表する一方、オファーがあればNPBに復帰する可能性については否定しなかった[53]。高知と藤川との間に契約文書はなく、試合外での行動については球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理する異例の形であった[54]。背番号は11

6月20日に高知市野球場で行われた香川オリーブガイナーズ徳島インディゴソックス連合チームとのオープン戦に先発し、4回を1失点という内容であった[55]。2015年シーズンのNPB復帰期限だった7月31日までにオープン戦3試合に登板したが、NPB球団との契約には至らなかった[56]。これに伴い、高知球団は8月4日に藤川と、リーグの基準に従った形で後期シーズン(ポストシーズンを含む最終戦まで)の契約を締結した[57]。ただし、引き続き報酬は受け取らない条件で、以前同様常時チームには帯同しないと報じられている[58]。8月6日の対徳島戦に先発し、リーグ公式戦に初登板したが、先頭打者への5球目の投球が頭部に接触したため「危険球」として退場処分になった[59]。翌8月7日の対愛媛戦で、チームが6-2とリードした5回から登板し、5イニングを無失点・12奪三振の内容で、アイランドリーグ公式戦で初勝利をあげた[60]。地元の高知で開かれた9月7日の対香川戦では、先発投手として登板すると、被安打3の完封で2勝目を記録[61]。公式戦での完封勝利は、阪神の投手としてウエスタン・リーグ公式戦で2完封勝利を挙げた2000年以来15年振りであった[62]

球団では9月10日に、藤川との契約を2015年シーズン限りで終了することを発表。当初は、最終登板として同月16日の対徳島戦での先発を予定していた[63]。しかし、発表直後に左足首を痛めたため先発を回避。同カードおよび、チームのシーズン最終戦(同月17日の対香川戦)ではベンチに入ったものの、登板機会のないままシーズンを終えた[64]

在籍中には、阪神を含め複数のNPB球団関係者が藤川の投球を視察[65]。高知との契約期間満了直後には、中日やヤクルトが、藤川の獲得を視野に調査を進めていることが報じられた[66][67]

阪神復帰

阪神では、渡米前のチームメイトだった金本知憲が、2015年10月17日に一軍監督へ就任。金本は監督就任の直後に藤川へ接触するとともに、球団として復帰を受け入れる姿勢を改めて示した[68]。ヤクルトも水面下での交渉で藤川サイドに2年契約を提示していたが、条件面などで折り合いが付かなかったこと[69]から、藤川は阪神への復帰を決断。11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された[70][71]。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4億円[72]。同月24日には、球団と正式に契約を結んだ後に、入団記者会見で背番号18の付いたユニフォーム姿を披露した[73][74]

首脳陣は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号(22)を着用していたクローザー・呉昇桓の残留を前提に、藤川へ先発陣の一角を担わせることを構想。当時一軍の投手コーチだった香田勲男も、藤川に対して先発向けの調整を求めた[75]。ちなみに金本は、藤川の役割について、「先発の準備をしておけば途中から中継ぎにいける(転向できる)。中継ぎの準備しかしていなかったら、先発(への転向)はしんどい」と説明している[76]

もっとも、阪神球団では、2015年12月で呉との残留交渉が決裂(詳しい経緯は呉昇桓を参照)。藤川自身は、この時点で、先発以外の役割も担う姿勢を示していた[77]。球団では後に、マルコス・マテオや、カブス時代のチームメイトであったラファエル・ドリスを呉の後任クローザー候補として獲得している。

2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦では、3月6日の対巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たすと[78]、先発でチーム最多の2勝を挙げた。公式戦では、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板[79]。4月3日の対DeNA戦(横浜)にも先発すると、6回を2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初勝利を挙げた。また、NPBでは2003年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)以来、自身4580日振りの先発勝利であった[80]。しかし、14年振りの甲子園での先発登板となった4月10日の対広島戦で、自己ワーストの7失点と復帰後初黒星を記録[81]。結局、5試合の先発登板で1勝2敗、防御率6.12と振るわなかったため、5月中旬から再び救援投手に転向[82]。同月18日の対中日戦(甲子園)では、本来のクローザーであるマテオやセットアッパーのドリスが体調不良でベンチ登録を外れたことから、1点リードの9回表に復帰後初めてクローザーとして登板。NPBでは2012年9月15日の対巨人戦(東京ドーム)以来のセーブを挙げた[83]。さらに、ドリスが登録を抹消された4月19日の対中日戦(甲子園)でも、同点で迎えた9回表に登板[84]。復帰後初の連投であったが、チームが9回裏にサヨナラ勝ちを収めたことによって、復帰後初の救援勝利を記録した。7月26日の対ヤクルト戦(甲子園)では、8回表に登板すると、大引啓次からの三振によってNPB/MLB通算1000奪三振を達成した[85]。なお、救援投手としては38試合に登板。チーム事情に応じてセットアッパーやクローザーを担いながら、甲子園で16登板試合連続無失点を記録した[86]ほか、4救援勝利(4敗)、3セーブ、10ホールド、救援防御率3.58という成績でシーズンを終えた。

2017年には、背番号を復帰前の22へ戻す[87]とともに、セットアッパーとしてレギュラーシーズンをスタート。4月6日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、延長10回表からの救援登板で2イニングを無失点に抑えると、原口文仁のサヨナラ本塁打によってシーズン初勝利を挙げた。また、この救援勝利によってNPB公式戦での通算HPが155に達し、ウィリアムスの持つ球団記録(154HP)を更新した[88]。同月中旬以降は桑原謙太朗がセットアッパーに定着したことなどから、点差の開いた展開やビハインドの局面での登板機会が増加。この年のセ・パ交流戦最初の試合であった5月30日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、8点リードの9回裏に登板すると、先頭打者・角中勝也の見逃し三振によってNPB史上146人目のNPB一軍公式戦通算1000奪三振を達成。所要イニングは771回2/3で、野茂英雄による従来の最短記録(871回)を大きく下回った[89]。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦52試合の登板で、3勝無敗、6ホールドをマーク。前述した起用法の影響で2004年以来13年振りにセーブを記録できなかったものの、防御率は2.22で、WHIPも前年から大幅に向上した。

2018年には、レギュラーシーズンの開幕から、主に中継ぎで登板。セ・パ交流戦の期間中からは、一軍の救援陣で戦線離脱者が相次いでいたことを背景に、セットアッパー[90]やクローザーも務めた。6月16日の対楽天戦(楽天生命パーク)では、1点リードの9回裏に急遽クローザーとして登板すると、無失点で凌いだ末に公式戦2年振りのセーブを記録した[91][92]。7月21日の対DeNA戦(京セラ)7回表には、宮﨑敏郎から見逃しで三振を奪ったことによって、救援登板では球団史上初めてのNPB一軍公式戦通算1000(先発登板を含めれば1093)奪三振をマーク[93]。9月5日の対広島戦(マツダ)では、球団史上最多の一軍公式戦通算701試合登板を達成した[94]。球団史上最長の14連戦が見込まれていた9月下旬に、右肘痛で戦線離脱を離脱[95]。シーズン全体では、自責点が付かない場面での救援失敗も多く[96][97]、「勝利の方程式」への再定着までには至らなかった。それでも[98]、前年を上回る53試合に登板。150km/h台の球速を再び連発するようになったストレート[93]を武器に、5勝3敗2セーブ21ホールド、防御率2.32という成績を残した。シーズン終了後の契約更改では、この年に二軍監督を務めた矢野が一軍監督へ就任したことを背景に、クローザーへの本格復帰に挑戦する意向を明かしている[99]

2019年には、オープン戦からコンディションが上がらないまま、中継ぎ陣の一角として開幕を迎えた。開幕後も不調で、4月6日の対広島戦(マツダ)で1イニング2本塁打を浴びるなど精彩を欠いたため、翌7日から自身の希望で二軍調整[100]。その一方で、一軍へ再び昇格した4月27日[101]の対中日戦(ナゴヤドーム)から6月11日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフオク!ドーム)まで18試合連続無失点を記録した。その間には、5月8日の対ヤクルト戦(神宮)で通算142ホールドの球団記録をマーク[102][103]。6月11日の対ソフトバンク戦で通算のホールド数が150に達したことによって、「同一投手による150セーブ・150ホールド」というNPB史上初の記録を樹立した[100][104]オールスターゲームにも、セ・リーグの監督推薦選手として7年振りに出場。甲子園での第2戦(7月13日)で9回表から登板すると、オール直球で三者凡退に抑えた[105]ヤンガービス・ソラーテ内野手が入団した7月には、当時不調だったドリスが外国人枠との兼ね合いで登録を抹消された26日からクローザーに再転向。当初はドリスが一軍へ復帰するまでの暫定措置だったが、実際には転向後に好投を続けたため、ドリスの復帰後もシーズン終了までクローザーを務めた[106]ほか、8月31日の対巨人戦(甲子園)で通算235セーブ(当時のNPB現役投手最多記録)を達成した[107]。レギュラーシーズン全体では、4勝1敗16セーブ23ホールド、防御率1.77、セーブ率100%、奪三振率13.34という好成績で、シーズン最終盤の6連勝とクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献。また、(カブス時代の2セーブを含めた)通算のセーブ数が243にまで達したことによって、名球会入りの基準の1つである「(MLBを含めた)公式戦通算250セーブ」のクリアを射程圏内に収めた[108]。CSでも、DeNAとのファーストステージ、巨人とのファイナルステージに2試合ずつ登板すると、いずれも無失点で凌いだ。

現役引退表明

2019年4月の登録抹消中に、現役からの引退を球団に申し出た。この年には、球団がシーズン中に態度を保留。藤川自身も一軍への復帰後にクローザーへ返り咲いたことから、シーズン終了後(12月10日)の契約交渉で、球団側と話し合った末に翌2020年も現役生活を続けることを決めた[2]。その際に、推定年俸2億円(前年から6,000万円増)という条件で契約を更改。契約期間は1年で、更改後の記者会見でも、「来年(2020年)から2年以上現役を続ける気はもうないので、単年で契約を結んだ」と明言している[109]

2020年には、ドリスの退団(MLBトロント・ブルージェイズへの移籍)などを背景にクローザーの役割を担うことが想定されていたが、実際には前年に続いてオープン戦から調子が上がらなかった。レギュラーシーズンの開幕後は、2セーブを挙げた一方で救援の失敗が相次いだため、右上肢のコンディション不良を理由に2度にわたって登録を抹消[110]。2度目の抹消中に、この年限りで現役を引退する意向を、改めて球団に申し入れた。球団は、この申し入れを受諾したうえで、8月31日に球団本部長の谷本修を通じて藤川の引退を発表。発表の際には、前年の引退の申し出から現役続行までの経緯に加えて、藤川から「右肩のコンディションが手術を要するほどにまで悪化している」との報告を受けていることが初めて明らかにされた[2] [111]。「(年頭からの新型コロナウイルス感染拡大に伴う影響で)球場に5,000人までしか観客を入れられない状況が続いているので、自分からもできるだけ早く発表したい」という意向に沿って、チームがシーズンを折り返した9月1日に引退記者会見を開催。27歳頃から引退を意識していたことを明かしたうえで、引退を決断した理由に「1年間にわたって身体のコンディションを整えることが難しくなったので『プロとして失格』(と悟ったこと)」を挙げた。また、通算250セーブの達成に固執しない姿勢を示しながらも、「阪神へ入団する時に『3回優勝する』と言っていた(前述)にもかかわらず、22年目のシーズンでまだ2回しか経験できていない。今年は3回目のチャンスが来ているので、もう一発頑張りたい」という表現で後半戦の一軍復帰を誓った[112]

現役引退後

2021年から、フリー(朝日放送テレビMBSテレビMBSラジオ)の野球解説者を務める。また、阪神の「Special Assistant(SA、特別補佐)」に就任することが発表された[1]。チーム運営、選手、スタッフへのサポートの他、少年野球や女子野球へのサポートも含めた幅広く活動するとしている[113]

選手としての特徴

投球する藤川
(2011年10月9日、横浜スタジアム)

オーバースローの投球フォームで、全盛期には平均球速約149km/h[114]、最速156km/hを記録していた[115]ストレートを最大の武器とし、変化球はフォークカーブスライダーを操った[116]

ストレートは打者の手元で浮き上がるように「伸びる」のが特徴であり[117]、その球筋・球威から「火の玉ストレート」と称された[118]。ストレートを投じる際は、人差し指と中指を揃え完全に密着させた独特の握りで[117]、リリース時にはピンポン玉のように浮かび上がらせることを意識しボールを潰すような感覚で投げる[118][117]。また、できるだけ前でボールをリリースするために、投手板から踏み込んだ左足までが7足分という広いストライドを作る[117]。さらにタイミングをずらすために、打者の振り出してくるタイミングとキャッチャーミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えるという[117]

清原和博は藤川のストレートを「20年見た中でナンバーワン(のストレート)。火の玉や」と称賛しており[119]、2006年のWBCで藤川との対戦経験を持つアレックス・ロドリゲスは「あんなストレートは見たことがない。下から上がってくるんだぜ」と証言している[119]。捕手として藤川のストレートを受けることが多かった矢野燿大は、後述する「プロ野球は死なず―ストレートという名の魔球」[119]の特集内で「大袈裟に言うと『魔球』に近い。プロの選手が真っすぐを待っているにもかかわらず、その真っすぐで空振りを取れる。そんな投手は今のプロ野球界にはいない。間違いなくナンバーワンのストレート」と評している[119]

NPBにおいて主戦リリーフ投手として活躍した2005年から2012年までの期間は、通算奪三振率12.81という高い値をマーク。2010年まではストレートでの空振り率約30%(リーグ平均約8%)を記録していた[115]。しかし、2011年に平均球速が約147km/hまで落ち[116][115]、その影響から空振り率が20パーセント弱にまで下落[115]トミー・ジョン手術から復帰した2014年には平均球速90.6 mph(約145 km/h)[注 2]とさらに微減した[120]。このようにストレートの平均球速などについては年々減少傾向にあった一方で、毎年投球回を上回る奪三振数を記録。2011年は変化球を多用することで特にフォークでの空振りを増やし奪三振率12.59と高い数字を保った他[121]、2018年には40試合以上に登板したセ・リーグ救援投手の中でトップの被打率.159を記録するなど、高い投球術を誇るリリーバーとして長く活躍した[122]。高知へ入団してから阪神への復帰直後までの先発再転向時代はスライダーやカーブなども多用していた[123]

阪神復帰後の2016年には通算投球回数767回1/3でNPB/MLB通算1000奪三振を達成。2017年には通算投球回数771回2/3でNPB通算1000奪三振を、NPB在籍期間での1000奪三振達成者における野茂英雄の最速記録(871投球回)を大幅に上回るペースで達成した[85][124]

藤川は抑え投手として三振やフライでアウトを取ることにこだわっているが、これは野手の守備力という外的要素を排除したいが故の考えであり、その考えの根底には、MLBで主流のFIPの存在がある[125]

ストレートに関する調査

日刊スポーツによる調査

日刊スポーツ』大阪版が独自にスピードガンで計測した2006年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートを比較では、初速と終速の差はクルーンがおおむね10km/h前後で藤川はおおむね13 km/h前後だった。藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cm(当時)でクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、平均的投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くが、藤川は7足目であった[117]

姫野龍太郎による調査

2006年11月23日に放送されたテレビ朝日の『報道ステーション』の番組内での特集「プロ野球は死なず―ストレートという名の魔球」[119]では、ボールに回転を過剰にかけることによりマグヌス効果を発生させ、進行方向に対して垂直上向きの揚力を発生させることにより一般の選手よりもボールの落下を減らし、打者にボールの下を空振りさせているのではないかという仮説が提唱された。数値流体力学者の姫野龍太郎による調査の結果、あるプロ野球選手15人のストレートの回転数の平均値が1秒間に37回転(2220 rpm)であるのに対し、藤川のストレートは1秒間に45回転(2700 rpm)していることが判明。また、一般的な投手が投げるボールの回転軸の傾きは水平軸に対して約30度であるのに対し、クルーンと松坂大輔は約10度であった[119]。しかし、藤川の場合その二人よりもさらに傾きが少ない約5度だったため[119]、より効率的にボールに揚力が発生していると考察された[126]

人物・エピソード

父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため、奇縁から「球児」と名付けられた[4][8][127]。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかったという。

斎藤雅樹(元読売ジャイアンツ投手)の大ファン。「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語り、グラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[128]

高知市立小高坂小学校[129]高知市立城北中学校出身で、広末涼子とは中学時代の同級生[127]。阪神入団時には「自分のことのようにうれしく思っています」とコメントされ、激励の手紙も受け取っている[117]。また、元大洋・元中日の中山裕章とは出身中学・高校が同じである[130]

中学3年生だった1995年(平成7年)9月10日には鏡川(高知市上町四丁目)に転落した男性の救助活動をしたことで、同級生3人とともに高知警察署から感謝状を受けた[131]。阪神時代の2005年10月、その際に高知署交通課長として藤川たちに感謝状を手渡した警察官の男性(取材当時は高知県警察本部総務課長)が『高知新聞』の取材に応じ、当時の藤川について「ひょろっと背の高い少年だった」と述べている[132]

もともと先発投手としてプロ入りしたものの、当初から「中盤以降に球威や制球力が大幅に落ちる」という傾向が見受けられていた。2004年に一軍監督へ就任した岡田彰布は、この傾向を踏まえて、先発で伸び悩んでいた藤川を救援要員へ転向させることを決断[133]。当時の二軍投手コーチ・山口高志は、藤川に対して「上から投げ下ろすようにボールを叩き付ける感覚で投げろ」というアドバイスを送った。これを機に、下半身を使って、しなりを残しながらも右ひざをあまり折らずにタメを作って投げ下ろすフォームに改造。軸足をうまく使う方法を身に付けたことで、球速が急激に増加した[117][121]。ちなみに、NPBの一軍公式戦のみで1000奪三振を達成した投手としては、2017年5月時点でただ1人完投を経験していない。高知へ入団してから阪神への復帰直後までは、トミー・ジョン手術を受けた右肘への負担を軽減させるなどの目的で先発に再転向していた[123]

2005年4月21日の対巨人戦にて、7回裏二死満塁清原和博に対してフルカウントからフォークボール三振に打ち取ったが、試合後には清原から「フルカウント二死満塁の場面でフォークを投げるような逃げ腰のピッチングは臆病な投手の判断」という趣旨[4]の罵倒を受けた。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[4]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度はストレートで三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[4]と藤川を絶賛した。

スコアボード表示名

阪神時代には、2010年に同姓の藤川俊介が入団した。本来なら区別のためスコアボードなどの表記が「藤川球」となるところであったが、本人の希望を理由に、表記は「藤川」のままにすることが2010年1月22日の契約合意時に決定された[134]。そのため、2010年シーズンは藤川球児が「藤川」、藤川俊介が「藤川俊」として区別されていたが、報道では「藤川球」または「球児」と表記されることが多かった。なお、藤川俊介が登録名を「俊介」に変更した2011年からは、登録名・報道での表記とも「藤川」に統一された[135]

兄・順一と同時に出場した高知商業高校時代の1997年夏の甲子園大会では、甲子園球場のスコアボードで「藤川球」(兄は「藤川順」)という表記を使用していた。

登場曲
  • 「every little thing every precious thing」
阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、LINDBERGの「every little thing every precious thing」だった。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られた。サンテレビ野球解説者中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手は可愛らしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」が併用されることになったが、こちらは結局一度も使われなかった。
2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談。それによれば、藤川は観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に、藤川は同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[136]。同年8月1日には、藤川が甲子園球場のマウンドで投げている姿の写真をジャケットに使った再発盤シングルを発売。初週で3629枚を売り上げるとともに、オリコンCDシングルウィークリーチャートで初登場38位を記録した。2016年の阪神復帰後も、ファンの意向を受けて、この曲を登場曲に使用している[137]
2019年から阪神で藤川のチームメイトになっている左投手のオネルキ・ガルシアは、藤川の引退記者会見の翌日(9月2日)に甲子園球場の対ヤクルト戦で先発することを予告されていたことから、藤川への敬意を込めて同日の試合の登場曲にこの曲を採用した[138]
  • 「Don't leave me」
島田紳助が司会のクイズ番組『クイズ!ヘキサゴンII』で結成された里田まい with 合田家族の「Don't leave me」は藤川をイメージした曲で、藤川の許可なく作られたものであったが、この縁から2009年7月16日の阪神甲子園球場での対中日戦では、合田家族のメンバーである里田まい神戸蘭子misono始球式に登場した。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2000 阪神 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 113 22.2 25 1 18 3 4 25 4 0 15 12 4.76 1.90
2002 12 12 0 0 0 1 5 0 -- .167 285 68.0 56 6 30 0 2 64 4 0 33 28 3.71 1.26
2003 17 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 28 4 12 1 1 19 2 0 12 11 3.38 1.36
2004 26 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 129 31.0 26 3 11 0 2 35 0 0 10 9 2.61 1.19
2005 80 0 0 0 0 7 1 1 46 .875 349 92.1 57 5 20 1 1 139 5 0 20 14 1.36 0.83
2006 63 0 0 0 0 5 0 17 30 1.000 306 79.1 46 3 22 2 0 122 5 0 6 6 0.68 0.86
2007 71 0 0 0 0 5 5 46 6 .500 313 83.0 50 2 18 4 1 115 2 0 15 15 1.63 0.82
2008 63 0 0 0 0 8 1 38 5 .889 249 67.2 34 2 13 3 3 90 3 0 6 5 0.67 0.69
2009 49 0 0 0 0 5 3 25 3 .625 217 57.2 32 4 15 2 1 86 0 0 9 8 1.25 0.82
2010 58 0 0 0 0 3 4 28 5 .429 257 62.2 47 7 20 2 5 81 1 0 14 14 2.01 1.08
2011 56 0 0 0 0 3 3 41 5 .500 193 51.0 25 2 13 1 1 80 3 0 9 7 1.24 0.75
2012 48 0 0 0 0 2 2 24 2 .500 189 47.2 34 1 15 2 1 58 2 0 7 7 1.32 1.03
2013 CHC 12 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 50 12.0 11 1 2 0 2 14 2 0 7 7 5.25 1.08
2014 15 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 64 13.0 18 2 6 2 2 17 2 0 8 7 4.85 1.85
2015 TEX 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 8 1.2 2 1 0 0 1 1 0 0 3 3 16.20 1.20
2016 阪神 43 5 0 0 0 5 6 3 10 .455 275 62.2 58 7 30 2 3 70 4 0 34 32 4.60 1.40
2017 52 0 0 0 0 3 0 0 6 1.000 232 56.2 41 3 24 1 5 71 2 0 15 14 2.22 1.15
2018 53 0 0 0 0 5 3 2 21 .625 229 54.1 29 3 37 4 1 67 2 0 20 14 2.32 1.22
2019 56 0 0 0 0 4 1 16 23 .800 226 56.0 29 3 32 2 0 83 4 0 11 11 1.77 1.09
2020 16 0 0 0 0 1 3 2 1 .250 65 13.1 16 3 9 0 1 15 1 0 11 9 6.08 1.88
NPB:17年 782 19 0 0 0 60 38 243 163 .612 3753 935.1 633 59 339 30 32 1220 44 0 247 216 2.08 1.04
MLB:3年 29 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 122 26.2 31 4 8 2 5 32 4 0 18 17 5.74 1.46
  • 2020年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

WBCでの投手成績










































2006 日本 4 0 0 1 0 13 2.2 4 0 0 0 1 3 0 0 1 0 0.00
2009 4 0 0 0 0 15 4.0 3 0 1 0 0 3 0 0 0 0 0.00

タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB投手記録
NPB打撃記録
NPB節目の記録
  • 100セーブ:2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上21人目
  • 150セーブ:2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回裏2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上10人目
  • 500試合登板:2011年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上87人目
  • 200セーブ:2012年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上5人目
  • 600試合登板:2016年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に5番手で救援登板、1回無失点 ※史上39人目
  • 1000奪三振:2017年5月30日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(ZOZOマリンスタジアム)、9回裏に角中勝也から見逃し三振 ※史上146人目、NPB史上最短での達成(通算771 2/3投球回)
  • 150ホールド:2019年6月11日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、10回裏に2番手で救援登板、1回無失点 ※史上7人目
NPBその他の記録
  • シーズン46セーブ:2007年、セ・リーグ記録(達成当時は岩瀬仁紀と並ぶNPBタイ記録[注 3]
  • 17試合連続ホールド:2005年、エディソン・バリオスと並ぶNPBタイ記録
  • 47回2/3連続無失点:阪神タイガース球団記録
  • 開幕以降11試合連続セーブ:阪神タイガース球団記録
  • 38試合連続無失点:セ・リーグ記録
  • 10試合連続登板:セ・リーグ記録(2007年8月30日 - 9月9日)
  • 150セーブ・150ホールド:NPB史上初の記録
  • オールスターゲーム出場:9回 (2005年 - 2012年、2019年)
MLB投手記録
NPB・MLB通算節目の記録
  • 1000奪三振:2016年7月26日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(阪神甲子園球場)、8回表に大引啓次から空振り三振

独立リーグでの投手成績








































2015 高知 0.82 6 2 1 0 2 1 0 33.0 124 21 1 47 3 3 5 3
通算:1年 0.82 6 2 1 0 2 1 0 33.0 124 21 1 47 3 3 5 3

背番号

  • 30 (1999年 - 2001年)
  • 92 (2002年 - 2004年)
  • 22 (2005年 - 2012年、2017年 - )
    • 24 (2006年WBC)
    • 28 (2008年北京五輪)
    • 22 (2009年WBC)
  • 11 (2013年 - 2014年、2015年6月 - 同年終了)
  • 21 (2015年 - 同年5月)
  • 18 (2016年)

代表歴

関連情報

著書

脚注

注釈

  1. ^ 相手投手の利き手によっては右打席に入る場合もある(参照)。
  2. ^ 投球測定装置PITCHf/xによる記録。
  3. ^ 2017年にデニス・サファテが54セーブの最多記録を樹立したことによる。

出典

  1. ^ a b 阪神が藤川球児氏のSA就任を発表「幅広くタイガースを支えていきたい」 SANSPO.COM 2020年12月25日
  2. ^ a b c 阪神・藤川球児が今季限りで引退 日米通算245S 今季1勝3敗2S、防御率7.20」『デイリースポーツ神戸新聞社、2020年8月31日。2020年8月31日閲覧。オリジナルの2020年8月31日時点におけるアーカイブ。
  3. ^ 阪神・藤川が今季限りで引退 球団本部長は「今季に懸ける思い」と代弁」『デイリースポーツ』神戸新聞社、2020年8月31日。2020年8月31日閲覧。オリジナルの2020年8月31日時点におけるアーカイブ。
  4. ^ a b c d e f g 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』ワニブックス、2007年。ISBN 978-4-8470-1752-0 
  5. ^ “阪神・球児 3度目の優勝あきらめてない!打倒・巨人の使命感 「粉骨砕身」の現役、最後まで闘う”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2020年9月2日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/09/02/kiji/20200902s00001173068000c.html 2020年9月5日閲覧。 
  6. ^ 第1部プロ野球のドラフト1位たちが告白「これで終わった」自分の心が折れた瞬間週刊現代2013年1月19日号
  7. ^ 週刊ベースボール 2020年9月21日号 p.52-53 連載「岡田彰布の『そらそうよ』」第289回
  8. ^ a b “原点の原点…球児 背番号「24」”. デイリースポーツ (神戸新聞社). (2006年1月18日). オリジナルの2006年7月20日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20060720150122/http://www.daily.co.jp/baseball/2006/01/18/201747.shtml 2018年12月25日閲覧。 
  9. ^ 阪神球児が来オフのメジャー移籍を直訴 日刊スポーツ、2007年12月12日
  10. ^ 球児、契約更改でメジャー移籍直訴 日刊スポーツ、2007年12月13日
  11. ^ 4億円球児「メジャーより打倒巨人」 日刊スポーツ、2008年12月17日
  12. ^ 準決、決勝出番なし…球児 代表引退を示唆 スポーツニッポン、2009年3月25日。
  13. ^ 藤川、出番なし…代表「僕はもういいよ」 サンケイスポーツ、2009年3月25日。
  14. ^ 球児よ、胸を張れ!侍が帰ってきたゾ デイリースポーツ、2009年3月25日。
  15. ^ 2009年3月26日の記事「WBC世界一!!」 公式サイト内のブログ
  16. ^ 藤川球児投手が代表引退報道を完全否定「そういう発言は一切していない」 livedoorスポーツ、2009年3月26日。
  17. ^ 球児やっぱりメジャー、来オフ移籍要求へ 日刊スポーツ、2009年11月24日
  18. ^ 球児は「球界の宝」ポスティング認めない 日刊スポーツ、2009年11月25日
  19. ^ やはり迷采配!? 真弓監督に問いたい、「勝ちに行く」という言葉の真意。 氏原英明「野球善哉」Number Web, 2010年10月13日。
  20. ^ 虎・和田監督、球児発言に「ありがたい」 サンケイスポーツ、2011年12月1日
  21. ^ 長年の思い変わらず…球児米球界を目指す 日刊スポーツ、2012年11月9日
  22. ^ 藤川球児投手のFA権行使について 阪神タイガース公式サイト、2012年11月8日
  23. ^ “Cubs sign Japanese closer Fujikawa”. MLB.com. (2012年12月2日). http://chicago.cubs.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20121201&content_id=40489840&vkey=news_chc&c_id=chc 2012年12月2日閲覧。 
  24. ^ 球児「やっぱり縦じまだと」/一問一答”. 日刊スポーツ (2012年12月8日). 2015年8月27日閲覧。
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関連項目

外部リンク