天皇の一覧
天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。
概要
歴代天皇は、初代・神武天皇から今上天皇まで、125代が挙げられる。この125代のうち、第37代・斉明天皇は第35代・皇極天皇の、第48代・称徳天皇は第46代・孝謙天皇の、それぞれ重祚(一度退位した天皇が再び位に就くこと、再祚)であるため、総数は123人となっている。
ただし、南北朝時代に、北朝(京都)で即位した天皇(光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、及び後円融天皇の5代、5人)は、この125代の天皇には数えられないものの、皇室祭祀等においては天皇と扱われる。このため、現在に至る天皇の総数は128人と数えられることもある。
なお、「天皇」(てんのう、すめらみこと、すめろき)という名称は、7世紀後半に在位した第40代・天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられている。また冷泉天皇(在位967–969年)以後、光格天皇(在位1791–1817年)の時に諡号が復活するまで、安徳天皇を唯一の例外として、天皇号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇や明正天皇は崩御後「後水尾院」「明正院」と呼ばれ、これらを一律に「後水尾天皇」「明正天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[1]。
初期天皇の実在性
初代・神武天皇から十数代の初期天皇の実在性については、諸説ある。現代の考古学及び歴史学においては、初期天皇は典拠が神話等であり、その実在性が疑問視されている。初代・神武天皇、第10代・崇神天皇、第15代・応神天皇が特に研究対象として重視された[2]。
第10代・崇神天皇以降を実在確実とする説
第10代・崇神天皇から第14代・仲哀天皇までは、実在説と非実在説があったが、現代では崇神天皇が実在可能性がある最初の天皇とされている。日本史研究の立場からは和風諡号が同一であること、事跡の共通点などから、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。初代・神武天皇から第9代・開化天皇までは、非実在説が有力である(但し安本美典など実在を主張する学者もいる。また、古田武彦は神武天皇の大和朝廷を九州の邪馬台国の分家であるとする)。なお、第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までは、『日本書紀』に『旧辞』的記述(事績等に関する記述)がないため、欠史八代(闕史八代)と呼ばれる。
第15代・応神天皇以降を実在確実とする説
津田左右吉によって、3世紀後半から4世紀初めにかけて在位したとされる第15代・応神天皇が初代天皇とされ、それ以前の天皇の実在を否定する学説が提示され、第二次世界大戦後、歴史学の主流となった(「欠史十三代」)。連合国の指導の下で、津田の主張が採用され応神天皇以前の天皇の名前が歴史教科書から全て削除されたが、その後矛盾点が多数発見され、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇と神功皇后夫妻の存在が確実視されるに至ったために「欠史十三代」から「欠史八代」へと津田左右吉の説は変貌した。
第26代・継体天皇以降を実在確実とする説
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されている。このため、6世紀前半に在位したとされる第26代・継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、第21代・雄略天皇を別として、第25代・武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解がある。
雄略天皇に関しては埼玉県行田市の稲荷山古墳の副室から出土した金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解しその証とする説がある。この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇である。
なお、『古事記』に事績が記されていない第24代・仁賢天皇から第33代・推古天皇までの天皇を指す「欠史十代」も参照のこと。
考古学と初期天皇の実在性
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
天皇を中心とした政治勢力であるいわゆるヤマト王権(大和王朝、大和朝廷)の発祥地については、出雲(島根県)、吉備(岡山県)、あるいは九州など、諸説あるも不明である。しかし、このヤマト王権が、奈良盆地の東南部、現在の奈良県桜井市にある三輪山近くの大和(あるいは柳本)に本拠地を置いたとき、大きく発展したことは確からしいとされる[誰によって?]。この本拠地は、古代都市と言ってよい規模で、纏向遺跡(まきむくいせき)はその遺構と推定される。遺跡の調査結果から、この古代都市は3世紀前半に建設され始め、4世紀末には使われなくなったと考えられている。
その後の420年頃から480年頃までが、倭の五王の時代である。この時代から、510年頃までに、6・7人の在位期間の短い王が次々と立ち、ヤマト王権は混乱した。そして、最終的に6世紀前半に継体天皇が立って王権は安定し、この時代に王権の力は強くなったと考えられる。
歴代天皇の確定
歴代天皇を確定するための基準が定まったのは、大正時代末期のことである。このとき示された基準によって、「歴代天皇は125代、123人。」という現在の歴代天皇の形が確定している。
歴代天皇の厳密な確定が要請されたのは、明治時代になってからである。明治時代には、天皇を中心とする中央集権国家体制の整備が進められ、1889年(明治22年)には、その根本規範として大日本帝国憲法が公布された。同憲法では、歴代の天皇を指す「皇祖・皇宗」が、天皇の地位の正当性(正統性)と、天皇が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。このため、歴代天皇の在りようが論じられ、その確定が行われた。
歴代天皇の確定にあたっては、江戸時代に水戸藩で編纂された『大日本史』、およびその編纂過程で発展した水戸学、尊王論の考え方が大きな影響を与えた。これらの思想に基づいて在るべき歴代天皇の姿が論じられ、歴代天皇は確定された。なお、いくつかの観点から、それまでの歴代天皇(帝)から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は次の通り。
- 明治時代以前は、神功皇后を第15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。
- 初代・神武天皇から第62代・村上天皇までは、崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・冷泉天皇から第118代・後桃園天皇までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。この「天皇」号が復活するのは第119代・光格天皇のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された[3]。
- 壬申の乱で敗れた大友皇子は、天皇として数えられていなかったが、『大日本史』が「大友天皇」として歴代に列した。明治に入って、即位が確認されたとされ、1870年(明治3年)に「弘文天皇」の諡号を追贈した。現在では非即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、大友皇子即位説を参照されたい。
- 第47代「淡路廃帝」に対しては、1870年(明治3年)に「淳仁天皇」の諡号を追贈した。
- 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、1870年(明治3年)に「仲恭天皇」の諡号を追贈した。
- 1911年(明治44年)には明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、従来の第96代・光厳天皇から第100代・後円融天皇までの5代5人を北朝として正統から外した。また、後小松天皇の在位期間を、1392年(明徳3年)の南北朝合一以後のみとした。これも、『大日本史』が採った立場に基づくものである。
- 1926年(大正15年)には大正天皇(実質は摂政の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇))の裁定で、南朝の寛成親王を「長慶天皇」とした。この寛成親王については、南朝を正統とした後も即位の是非について意見が分かれていたが、高野山に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名があることなどの史料によってその即位が確認されたとされ、天皇としたものである。
歴代天皇の一覧
- 凡例
- この表は、大正時代に歴代天皇として確定され、現在広く知られている歴代天皇の一覧である。宮内庁のサイトに掲載される天皇一覧[5]と同一である。
- 天皇名については、宮内庁サイト内の表記[5]と同一である。丸括弧( )内の表記は、宮内庁サイト内の天皇陵紹介ページにおける表記[6]と同一であるが、JIS標準漢字(JIS X 0208)外の異体字が含まれているため、Unicode表のBMP(基本多言語面、0面)が表示できるブラウザ環境でなければ正しく表示されない。
- 天皇名の読みについては、宮内庁サイト内の表記[5]と同一である。丸括弧( )内の表記は歴史的仮名遣に基づいた表記である。
- 新暦が施行された1873年(明治6年)1月1日以前の日付については、各時代に用いられた旧暦の日付である(ただし6世紀以降の天皇の生没年・在位期間については、西暦に置き換えた年代を丸括弧( )内に掲載した。)享年は数え年、明治天皇以降は満年齢とした。
- 6世紀以前の天皇の生没年・在位期間については、武烈天皇以前は実態不明であるが、『日本書紀』の記述を掲載した。継体天皇から崇峻天皇までは『古事記』・『日本書紀』に記述される在位期間を機械的に西暦に置き換えた年代を丸括弧( )内に掲載した。
- 在位の欄には、第50代・桓武天皇以前の天皇については即位の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って践祚した第51代・平城天皇以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。
代 | 天皇名 | 画像 | 諡号・追号の別 諡号・追号の由来 |
在位期間 | 備考 | 生年月日 - 没年月日 享年 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
漢風諡号 追号 |
読み | 和風諡号 御称号(幼名) 別称 |
諱 | ||||||
1 | 神武天皇 (神武天皇) |
じんむ | 神日本磐余彦天皇 (異称)始馭天下之天皇 |
彦火火出見 狹野 若御毛沼 |
諡号 淡海三船による一括撰進 |
神武天皇元年1月1日 - 同76年3月11日 (日本書紀) |
庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日 127歳没(日本書紀) | ||
2 | 綏靖天皇 (綏靖天皇) |
すいぜい | 神渟名川耳天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
綏靖天皇元年1月8日 - 同33年5月10日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日 84歳没(日本書紀) | ||
3 | 安寧天皇 | あんねい | 磯城津彦玉手看天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日 67歳没(日本書紀) | ||
4 | 懿徳天皇 (懿德天皇) |
いとく | 大日本彦耜友天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
懿徳天皇元年2月4日 - 同34年9月8日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 綏靖天皇29年 - 懿徳天皇34年9月8日 77歳没(日本書紀) | ||
5 | 孝昭天皇 | こうしょう (かうせう) |
観松彦香殖稲天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
孝昭天皇元年1月9日 - 同83年8月5日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日 114歳没(日本書紀) | ||
6 | 孝安天皇 | こうあん (かうあん) |
日本足彦国押人天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
孝安天皇元年1月7日 - 同102年1月9日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 孝昭天皇49年 - 孝安天皇102年1月9日 137歳没(日本書紀) | ||
7 | 孝霊天皇 (孝靈天皇) |
こうれい (かうれい) |
大日本根子彦太瓊天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
孝霊天皇元年1月12日 - 同76年2月8日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日 128歳没(日本書紀) | ||
8 | 孝元天皇 | こうげん (かうげん) |
大日本根子彦国牽天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
孝元天皇元年1月14日 - 同57年9月2日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日 116歳没(日本書紀) | ||
9 | 開化天皇 | かいか (かいくゎ) |
稚日本根子彦大日日天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日 (日本書紀) |
欠史八代の一。 | 孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日 111歳没(日本書紀) | ||
10 | 崇神天皇 (崇神天皇) |
すじん (すうじん) |
御間城入彦五十瓊殖天皇 (異称)御肇國天皇 |
諡号 淡海三船による一括撰進 |
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日 (日本書紀) |
開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日 119歳没(日本書紀) | |||
11 | 垂仁天皇 | すいにん | 活目入彦五十狭茅天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
垂仁天皇元年1月2日 - 同99年7月14日 (日本書紀) |
崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日 139歳没(日本書紀) | |||
12 | 景行天皇 | けいこう (けいかう) |
大足彦忍代別天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日 (日本書紀) |
垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日 147歳没(日本書紀) | |||
13 | 成務天皇 | せいむ | 稚足彦天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日 (日本書紀) |
景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日 107歳没(日本書紀) | |||
14 | 仲哀天皇 | ちゅうあい | 足仲彦天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日 (日本書紀) |
成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日 53歳?没(日本書紀) | |||
15 | 応神天皇 (應神天皇) |
おうじん | 誉田天皇 (異称)胎中天皇 |
誉田別 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日 (日本書紀) |
一説に倭の五王の「讃」に比定[7]。 | 仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日 111歳没(日本書紀) | |
16 | 仁徳天皇 (仁德天皇) |
にんとく | 大鷦鷯天皇 | 大鷦鷯 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日 (日本書紀) |
一説に倭の五王の「讃」に比定[7]。 | 神功皇后57年 - 仁徳天皇87年1月16日 143歳没(日本書紀) | |
17 | 履中天皇 | りちゅう | 大兄去来穂別天皇 | 去来穂別 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日 (日本書紀) |
一説に倭の五王の「讃」に比定[7]。 | 仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日 70歳没(日本書紀) | |
18 | 反正天皇 | はんぜい | 多遅比瑞歯別天皇 | 瑞歯別 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日 (日本書紀) |
倭の五王の「珍」への比定が有力[8]。 | 仁徳天皇24年? - 反正天皇5年1月23日 75歳?没(日本書紀) | |
19 | 允恭天皇 | いんぎょう | 雄朝津間稚子宿禰天皇 | 稚子 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日 (日本書紀) |
倭の五王の「済」に比定[9]。 | 仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日 78歳没(日本書紀) | |
20 | 安康天皇 | あんこう (あんかう) |
穴穂天皇 | 穴穂 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日 (日本書紀) |
倭の五王の「興」に比定[10]。 | 履中天皇2年? - 安康天皇3年8月9日 56歳没(日本書紀) | |
21 | 雄略天皇 | ゆうりゃく (いうりゃく) |
大泊瀬幼武天皇 | 幼武 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日 (日本書紀) |
倭の五王の「武」に比定[11]。 稲荷山古墳出土鉄剣・江田船山古墳出土鉄刀の 大王銘に比定[表外参照 1]。 |
允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日 62歳没(日本書紀) | |
22 | 清寧天皇 (淸寧天皇) |
せいねい | 白髪武広国押稚日本根子天皇 | 白髪 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日 (日本書紀) |
允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日 41歳?没(日本書紀) | ||
23 | 顕宗天皇 (顯宗天皇) |
けんぞう | 弘計天皇 | 来目稚子 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日 (日本書紀) |
允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日 38歳没(日本書紀) | ||
24 | 仁賢天皇 | にんけん | 億計天皇 | 大脚 大為 |
諡号 淡海三船による一括撰進 |
仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日 (日本書紀) |
允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日 50歳没(日本書紀) | ||
25 | 武烈天皇 | ぶれつ | 小泊瀬稚鷦鷯天皇 | 稚鷦鷯 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日 (日本書紀) |
仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日 18歳没(日本書紀) | ||
26 | 継体天皇 (繼體天皇) |
けいたい | 男大迹天皇 | 男大迹 彦太尊 |
諡号 淡海三船による一括撰進 |
継体天皇元年(507年?)2月4日 - 同25年(531年?)2月7日 |
真の陵と目される[12]今城塚古墳で発掘調査が 進む。 |
允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) 82歳?没(日本書紀) | |
27 | 安閑天皇 | あんかん | 広国押武金日天皇 | 勾 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
継体天皇25年(531年?)2月7日 - 乙卯(535年?)12月17日 |
雄略天皇10年(466年?) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日?) 70歳?没(日本書紀) | ||
28 | 宣化天皇 | せんか (せんくゎ) |
武小広国押盾天皇 | 檜隈高田 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
宣化天皇元年(535年?)12月 - 同4年(539年?)2月10日 |
雄略天皇11年(467年?) -宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?) 73歳?没(日本書紀) | ||
29 | 欽明天皇 | きんめい | 天国排開広庭天皇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
宣化天皇4年(539年?)12月5日 - 欽明天皇32年(571年?)4月15日 |
継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日?) 63歳没(日本書紀) | |||
30 | 敏達天皇 (敏達天皇) |
びだつ | 渟中倉太珠敷天皇 | 他田 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
敏達天皇元年(572年?)4月3日 - 同14年(585年?)8月15日 |
宣化天皇3年(538年?) - 敏達天皇14年8月15日(585年9月14日?) 48歳?没(日本書紀) | ||
31 | 用明天皇 | ようめい | 橘豊日天皇 | 池辺 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
敏達天皇14年(585年?)9月5日 - 用明天皇2年(587年?)4月9日 |
欽明天皇元年(540年?) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日?) 享年48歳?没(日本書紀) | ||
32 | 崇峻天皇 | すしゅん | 泊瀬部天皇 | 泊瀬部 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
用明天皇2年(587年?)8月2日 - 崇峻天皇5年(592年)11月3日 |
欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日) 40歳?没(日本書紀) | ||
33 | 推古天皇 | すいこ | 豊御食炊屋姫天皇 | 額田部 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
崇峻天皇5年(592年)12月8日 - 推古天皇36年(628年)3月7日 |
初の女帝。 | 欽明天皇15年(554年?) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日) 75歳没 | |
34 | 舒明天皇 | じょめい | 息長足日広額天皇 | 田村 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
舒明天皇元年(629年)1月4日 - 舒明天皇13年(641年)10月9日 |
推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日) 49歳?没 | ||
35 | 皇極天皇 | こうぎょく (くゎうぎょく) |
天豊財重日足姫天皇 | 宝 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
皇極天皇元年(642年)1月15日 - 同4年(645年)6月14日 |
女帝。 | 推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日) 68歳没 | |
36 | 孝徳天皇 (孝德天皇) |
こうとく (かうとく) |
天万豊日天皇 | 軽 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
皇極天皇4年(645年)6月14日 - 白雉5年(654年)10月10日 |
推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日) 59歳没 | ||
37 | 斉明天皇 (齊明天皇) |
さいめい | (皇極に同じ) | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
斉明天皇元年(655年)1月3日 - 同7年(661年)7月24日 |
皇極天皇重祚。女帝。 | 推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日) 68歳没 | ||
38 | 天智天皇 | てんじ (てんぢ) |
天命開別天皇 | 葛城 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
天智天皇7年(668年)1月3日 - 同10年(671年)12月3日 |
[表外参照 2] | 推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日) 46歳没 | |
39 | 弘文天皇 | こうぶん | 伊賀 大友 |
諡号 明治3年追贈 |
天智天皇10年671年12月5日 - 天武天皇元年(672年)7月23日 |
[表外参照 3] | 大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日) 25歳没 | ||
40 | 天武天皇 | てんむ | 天渟中原瀛真人天皇 | 大海人 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
天武天皇2年(673年)2月27日 - 朱鳥元年(686年)9月9日 |
舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日) 56歳?没 | ||
41 | 持統天皇 | じとう (ぢとう) |
大倭根子天之廣野日女尊 高天原廣野姫天皇 |
鸕野讚良 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
持統天皇4年(690年)1月1日 - 持統天皇11年(697年)8月1日 |
女帝。686年9月9日に称制。 | 大化元年(645年) - 大寶2年12月12日(703年1月13日) 58歳没 | |
42 | 文武天皇 | もんむ | 倭根子豊祖父天皇 天之真宗豊祖父天皇 |
珂瑠 | 諡号 | 文武天皇元年(697年)8月1日 - 慶雲4年(707年)6月15日 |
天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日) 25歳没 | ||
43 | 元明天皇 | げんめい | 日本根子天津御代豊国成姫天皇 | 阿閇 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
慶雲4年(707年)7月17日 - 和銅8年(715年)9月2日 |
女帝。 | 斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日) 61歳没 | |
44 | 元正天皇 | げんしょう (げんしゃう) |
日本根子高瑞浄足姫天皇 | 氷高 | 諡号 淡海三船による一括撰進 |
靈龜元年(715年)9月2日 - 養老8年(724年)2月4日 |
女帝。 | 天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日) 69歳没 | |
45 | 聖武天皇 | しょうむ (しゃうむ) |
天璽国押開豊桜彦天皇 勝宝感神聖武皇帝 |
首 | (生前の尊称) | 神龜元年(724年)2月4日 - 天平感寶元年(749年)7月2日 |
大寶元年(701年) - 天平勝寶8年5月2日(756年6月4日) 56歳没 | ||
46 | 孝謙天皇 | こうけん (かうけん) |
宝字称徳孝謙皇帝 (異称)高野天皇 |
阿倍 | (生前の尊称) | 天平勝寶元年(749年)7月2日 - 天平寶字2年(758年)8月1日 |
女帝。 | 養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日) 53歳没 | |
47 | 淳仁天皇 | じゅんにん | (改称前)淡路廢帝 | 大炊 | 諡号 明治3年追贈 |
天平寶字2年(758年)8月1日 - 同8年(764年)10月9日 |
天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日) 33歳没 | ||
48 | 称徳天皇 (稱德天皇) |
しょうとく | (孝謙に同じ) | (生前の尊称) | 天平寶字8年(764年)10月9日 - 神護景雲4年(770年)8月4日 |
孝謙天皇重祚。女帝。 | 養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日) 53歳没 | ||
49 | 光仁天皇 | こうにん (くゎうにん) |
天宗高紹天皇 (異称)後田原天皇 |
白壁 | 諡号 | 寶龜元年(770年)10月1日 - 天應元年(781年)4月3日 |
継体天皇(第26代)以降では、 歴代最高齢即位(62歳)。 |
和銅2年10月13日(709年11月18日) - 天應元年12月23日(782年1月11日) 73歳没 | |
50 | 桓武天皇 | かんむ (くゎんむ) |
日本根子皇統弥照尊 (異称)延暦帝/柏原帝 |
山部 | 諡号 | 天應元年(781年)4月3日 - 延暦25年(806年)3月17日 |
天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日) 70歳没 | ||
51 | 平城天皇 | へいぜい | 日本根子天推国高彦尊 (異称)奈良帝 |
安殿 | 追号 在所(地名) |
延暦25年(806年)3月17日 - 大同4年(809年)4月1日 |
寶龜5年8月15日(774年9月25日) - 天長元年7月7日(824年8月5日) 51歳没 | ||
52 | 嵯峨天皇 | さが | (異称)弘仁帝皇 | 神野 | 追号 譲位後の在所 |
大同4年(809年)4月1日 - 弘仁14年(823年)4月16日 |
延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日) 57歳没 | ||
53 | 淳和天皇 | じゅんな (じゅんわ) |
日本根子天高譲弥遠尊 (異称)西院帝 |
大伴 | 追号 譲位後の在所 |
弘仁14年(823年)4月16日 - 天長10年(833年2月28日 |
延暦5年(786年) - 承和7年5月8日(840年6月11日) 55歳没 | ||
54 | 仁明天皇 | にんみょう (にんみゃう) |
日本根子天璽豊聡慧尊 (異称)深草帝 |
正良 | 諡号 | 天長10年(833年)2月28日 - 嘉祥3年(850年)3月19日 |
弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日) 41歳没 | ||
55 | 文徳天皇 (文德天皇) |
もんとく | (異称)田邑帝 | 道康 | 諡号 | 嘉祥3年(850年)3月19日 - 天安2年(858年)8月27日 |
天長4年(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日) 32歳没 | ||
56 | 清和天皇 (淸和天皇) |
せいわ | (異称)水尾帝 | 惟仁 | 追号 譲位後の在所 |
天安2年(858年)11月7日 - 貞観18年(876年)11月29日 |
嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日) 31歳没 | ||
57 | 陽成天皇 | ようぜい (やうぜい) |
貞明 | 追号 譲位後の在所 |
貞観18年(876年)11月29日 - 元慶8年(884年)2月4日 |
貞観10年12月16日(869年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日) 82歳没 | |||
58 | 光孝天皇 | こうこう (くゎうかう) |
(異称)小松帝 | 時康 | 諡号 | 元慶8年(884年)2月5日 - 仁和3年(887年)8月26日 |
天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日) 58歳没 | ||
59 | 宇多天皇 | うだ | (異称)寛平帝 | 定省 | 追号 譲位後の在所 |
仁和3年(887年)8月26日 - 寛平9年(897年)7月3日 |
臣籍降下するも、後に皇族に復帰し即位。 | 貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日) 65歳没 | |
60 | 醍醐天皇 | だいご | (異称)延喜帝 | 維城 敦仁 |
追号 山陵 |
寛平9年(897年)7月3日 - 延長8年(930年)9月22日 |
出生時は臣籍、後に皇族に復帰し即位。 | 元慶9年1月18日(885年2月6日) - 延長8年9月29日(930年10月23日) 46歳没 | |
61 | 朱雀天皇 | すざく | 寛明 | ファイル:Tennō Suzaku detail.jpg | 追号 譲位後の在所 |
延長8年(930年)9月22日 - 天慶9年(946年)4月20日 |
延長元年7月24日(923年9月7日) - 天暦6年8月15日(952年9月6日) 30歳没 | ||
62 | 村上天皇 | むらかみ | (異称)天暦帝 | 成明 | 追号 山陵 |
天慶9年(946年)4月20日 - 康保4年(967年)5月25日 |
延長4年6月2日(926年7月14日) - 康保4年5月25日(967年7月5日) 42歳没 | ||
63 | 冷泉天皇 | れいぜい | 憲平 | 追号 譲位後の在所 |
康保4年(967年)5月25日 - 安和2年(969年)8月13日 |
天暦4年5月24日(950年6月12日) - 寛弘8年10月24日(1011年11月21日) 62歳没 | |||
64 | 円融天皇 (圓融天皇) |
えんゆう (ゑんゆう) |
守平 | 追号 在所(寺名・庵号) |
安和2年(969年)8月13日 - 永観2年(984年)8月27日 |
天徳3年3月2日(959年4月12日) - 正暦2年2月12日(991年3月1日) 33歳没 | |||
65 | 花山天皇 | かざん (くゎざん) |
師貞 | 追号 在所(寺名・庵号) |
永観2年(984年)8月27日 - 寛和2年(986年)6月23日 |
安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日) 41歳没 | |||
66 | 一条天皇 (一條天皇) |
いちじょう (いちでう) |
懐仁 | 追号 在位中の皇居の宮名 |
寛和2年(986年)6月23日 - 寛弘8年(1011年)6月13日 |
天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日) 32歳没 | |||
67 | 三条天皇 (三條天皇) |
さんじょう (さんでう) |
居貞 | 追号 譲位後の在所 |
寛弘8年(1011年)6月13日 - 長和5年(1016年)1月29日 |
天延4年1月3日(976年2月5日) - 寛仁元年5月9日(1017年6月5日) 42歳没 | |||
68 | 後一条天皇 (後一條天皇) |
ごいちじょう (ごいちでう) |
敦成 | 追号 加後号 |
長和5年(1016年)1月29日 - 長元9年(1036年)4月17日 |
寛弘5年9月11日(1008年10月12日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日) 29歳没 | |||
69 | 後朱雀天皇 | ごすざく | 敦良 | 追号 加後号 |
長元9年(1036年)4月17日 - 寛徳2年(1045年)1月16日 |
寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日) 37歳没 | |||
70 | 後冷泉天皇 | ごれいぜい | 親仁 | 追号 加後号 |
寛徳2年(1045年)1月16日 - 治暦4年(1068年)4月19日 |
萬寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日) 44歳没 | |||
71 | 後三条天皇 (後三條天皇) |
ごさんじょう (ごさんでう) |
(異称)延久帝 | 尊仁 | 追号 加後号 |
治暦4年(1068年)4月19日 - 延久4年(1072年)12月8日 |
長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日) 40歳没 | ||
72 | 白河天皇 | しらかわ (しらかは) |
(異称)六条帝 | 貞仁 | 追号(遺諡) 譲位後の在所 |
延久4年(1072年)12月8日 - 應徳3年(1086年)11月26日 |
天喜元年6月19日(1053年7月7日) - 大治4年7月7日(1129年7月24日) 77歳没 | ||
73 | 堀河天皇 | ほりかわ (ほりかは) |
善仁 | 追号 在位中の皇居の宮名 |
應徳3年(1086年)11月26日 - 嘉承2年(1107年)7月19日 |
承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日) 29歳没 | |||
74 | 鳥羽天皇 (鳥羽天皇) |
とば | 宗仁 | 追号 譲位後の在所 |
嘉承2年(1107年)7月19日 - 保安4年(1123年)1月28日 |
康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日) 54歳没 | |||
75 | 崇徳天皇 (崇德天皇) |
すとく | (改称前)讃岐院 | 顕仁 | 諡号 | 保安4年(1123年)1月28日 - 永治元年(1141年)12月7日 |
元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日) 46歳没 | ||
76 | 近衛天皇 (近衞天皇) |
このえ (このゑ) |
体仁 | 追号 在位中の皇居の宮名 |
永治元年(1141年)12月7日 - 久寿2年(1155年)7月23日 |
保延5年5月18日(1139年6月16日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日) 17歳没 | |||
77 | 後白河天皇 | ごしらかわ (ごしらかは) |
雅仁 | 追号 加後号 |
久寿2年(1155年)7月24日 - 保元3年(1158年)8月11日 |
大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日) 66歳没 | |||
78 | 二条天皇 (二條天皇) |
にじょう (にでう) |
守仁 | 追号 在位中の皇居の宮名 |
保元3年(1158年)8月11日 - 永萬元年(1165年)6月25日 |
康治2年6月17日(1143年7月31日) - 永萬元年7月28日(1165年9月5日) 23歳没 | |||
79 | 六条天皇 (六條天皇) |
ろくじょう (ろくでう) |
順仁 | 追号 譲位後の在所 |
永萬元年(1165年)6月25日 - 仁安3年(1168年)2月19日 |
歴代最年少即位(生後7か月)。 歴代最年少譲位、歴代最年少上皇(2歳)。 |
長寛2年11月14日(1164年12月28日) - 安元2年7月17日(1176年8月23日) 13歳没 | ||
80 | 高倉天皇 | たかくら | 憲仁 | 追号 譲位後の在所 |
仁安3年(1168年)2月19日 - 治承4年(1180年)2月21日 |
永暦2年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年2月6日) 21歳没 | |||
81 | 安徳天皇 (安德天皇) |
あんとく | 言仁 | 諡号 | 治承4年(1180年)2月21日 - 寿永4年(1185年)3月24日 |
後鳥羽天皇と在位一部重複。 歴代最年少崩御(8歳)。 |
治承2年11月12日(1178年12月22日) - 永寿4年3月24日(1185年4月25日) 8歳没 | ||
82 | 後鳥羽天皇 (後鳥羽天皇) |
ごとば | (改称前)隠岐院/顕德院 | 尊成 | 追号 加後号 |
寿永2年(1183年)8月20日 - 建久9年(1198年)1月11日 |
安德天皇と在位一部重複。 | 治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延應元年2月22日(1239年3月28日) 60歳没 | |
83 | 土御門天皇 | つちみかど | (改称前)土佐院/阿波院 | 為仁 | 追号 譲位後の在所 |
建久9年(1198年)1月11日 - 承元4年(1210年)11月25日 |
建久6年12月2日(1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日) 36歳没 | ||
84 | 順徳天皇 (順德天皇) |
じゅんとく | (改称前)佐渡院 | 守成 | 諡号 | 承元4年(1210年)11月25日 - 承久3年(1221年)4月20日 |
建久8年9月10日(1197年10月22日) - 仁治3年9月12日(1242年10月7日) 46歳没 | ||
85 | 仲恭天皇 | ちゅうきょう | (改称前)九條廢帝/後廢帝 | 懐成 | 諡号 明治3年追贈 |
承久3年(1221年)4月20日 - 同3年(1221年)7月9日 |
在位期間最短(78日間)。 | 建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日) 17歳没 | |
86 | 後堀河天皇 | ごほりかわ (ごほりかは) |
茂仁 | 追号 加後号 |
承久3年(1221年)7月9日 - 貞永元年(1232年)10月4日 |
建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日) 23歳没 | |||
87 | 四条天皇 (四條天皇) |
しじょう (しでう) |
秀仁 | 追号 在所(葬家邸宅を在所に擬す) |
貞永元年(1232年)10月4日 - 仁治3年(1242年)1月9日 |
寛喜3年2月12日(1231年3月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日) 12歳没 | |||
88 | 後嵯峨天皇 | ごさが | 邦仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
仁治3年(1242年)1月20日 - 寛元4年(1246年)1月29日 |
承久2年(1220年)2月26日 - 文永9年(1272年)2月17日 53歳没 | |||
89 | 後深草天皇 | ごふかくさ | 久仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
寛元4年(1246年)1月29日 - 正元元年(1259年)11月26日 |
寛元元年6月10日(1243年6月28日) - 嘉元2年7月16日(1304年8月17日) 62歳没 | |||
90 | 亀山天皇 (龜山天皇) |
かめやま | 恒仁 | 追号(遺諡) 譲位後の在所 |
正元元年(1259年)11月26日 - 文永11年(1274年)1月26日 |
建長元年5月27日(1249年7月9日) - 嘉元3年9月15日(1305年10月4日) 57歳没 | |||
91 | 後宇多天皇 | ごうだ | 世仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
文永11年(1274年)1月26日 - 弘安10年(1287年)10月21日 |
文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元享4年6月25日(1324年7月16日) 58歳没 | |||
92 | 伏見天皇 | ふしみ | 煕仁 | 追号 譲位後の在所 |
弘安10年(1287年)10月21日 - 永仁6年(1298年)7月22日 |
文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日) 53歳没 | |||
93 | 後伏見天皇 | ごふしみ | 胤仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
永仁6年(1298年)7月22日 - 正安3年(1301年)1月22日 |
弘安11年3月3日(1288年4月5日) - 延元元年4月6日(1336年5月17日) 49歳没 | |||
94 | 後二条天皇 (後二條天皇) |
ごにじょう (ごにでう) |
邦治 | 追号 加後号 |
正安3年(1301年)1月22日 - 徳治3年(1308年)8月25日 |
弘安8年2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年8月25日(1308年9月10日) 24歳没 | |||
95 | 花園天皇 | はなぞの | 富仁 | 追号(遺諡) 譲位後の在所 |
延慶元年(1308年)8月26日 - 文保2年(1318年)2月26日 |
永仁5年7月25日(1297年8月14日) - 正平3年11月11日(1348年12月2日) 52歳没 | |||
96 | 後醍醐天皇 | ごだいご | 尊治 | 追号(遺諡) 加後号 |
文保2年(1318年)2月26日 - 延元4年(1339年)8月15日 |
南朝初代天皇。 | 正應元年11月2日(1288年11月26日) - 延元4年8月16日(1339年9月19日) 52歳没 | ||
97 | 後村上天皇 | ごむらかみ | 憲良 義良 |
追号 加後号、明治44年追贈 |
延元4年(1339年)8月15日 - 正平23年(1368年)3月11日 |
南朝第2代天皇。 | 嘉暦3年(1328年) - 正平23年3月11日(1368年3月29日) 41歳没 | ||
98 | 長慶天皇 | ちょうけい (ちゃうけい) |
寛成 | 追号 在所(寺名・庵号) 大正15年追贈 |
正平23年(1368年)3月11日 - 弘和3年(1383年)10月 |
南朝第3代天皇。 | 興国4年(1343年) - 應永元年8月1日(1394年8月27日) 52歳没 | ||
99 | 後亀山天皇 (後龜山天皇) |
ごかめやま | 煕成 | 追号 加後号、明治44年追贈 |
弘和3年(1383年)10月 - 元中9年(1392年)閏10月5日 |
南朝第4代天皇。 | 正平5年(1350年)? - 應永31年4月12日(1424年5月10日) 75歳?没 | ||
北1 | 光厳天皇 (光嚴天皇) |
こうごん (くゎうごん) |
重仁 | 追号(遺諡) 在所(寺名・庵号) |
元徳3年(1331年)9月20日 - 正慶2年(1333年)5月25日 |
正和2年7月9日(1313年8月1日) - 貞治3年7月7日(1364年8月5日) 52歳没 | |||
北2 | 光明天皇 | こうみょう (くゎうみゃう) |
豊仁 | 追号(遺諡) 在所(寺名・庵号) |
建武3年(1336年)8月15日 - 貞和4年(1348年)10月27日 |
元享元年12月23日(1322年1月11日) - 康暦2年6月24日(1380年7月26日) 59歳没 | |||
北3 | 崇光天皇 | すこう (すくゎう) |
益仁 興仁 |
追号(遺諡 | 貞和4年(1348年)10月27日 - 観應2年(1351年)11月7日 |
建武元年4月22日(1334年5月25日) - 應永5年1月13日(1398年1月31日) 65歳没 | |||
北4 | 後光厳天皇 (後光嚴天皇) |
ごこうごん (ごくゎうごん) |
彌仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
観應3年(1352年)8月17日 - 應安4年(1371年)3月23日 |
建武5年3月2日(1338年3月23日) - 應安7年1月29日(1374年3月12日) 37歳没 | |||
北5 | 後円融天皇 (後圓融天皇) |
ごえんゆう (ごゑんゆう) |
緒仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
應安4年(1371年)3月23日 - 永徳2年(1382年)4月11日 |
延文3年12月12日(1359年1月11日) - 明徳4年4月26日(1393年6月6日) 35歳没 | |||
北6 100 |
後小松天皇 | ごこまつ | 幹仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
永徳2年(弘和2年)(1382年)4月11日 (明徳3年(元中9年)(1392年)閏10月5日)南北朝統一) - 應永19年(1412年)8月29日 |
永和3年(天授3年)6月27日(1377年8月1日) - 永享5年10月20日(1433年12月1日) 57歳没 | |||
101 | 称光天皇 (稱光天皇) |
しょうこう (しょうくゎう) |
躬仁 実仁 |
追号 漢風諡号2つを合わせた追号 (稱德+光仁) |
應永19年(1412年)8月29日 - 正長元年(1428年)7月20日 |
應永8年3月29日(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日) 28歳没 | |||
102 | 後花園天皇 | ごはなぞの | 彦仁 | 追号 加後号 |
正長元年(1428年)7月28日 - 寛正5年(1464年)7月19日 |
應永26年6月17日(1419年7月10日) - 文明2年12月27日(1471年1月18日) 53歳没 | |||
103 | 後土御門天皇 | ごつちみかど | 成仁 | 追号 加後号 |
寛正5年(1464年)7月19日 - 明應9年(1500年)9月28日 |
嘉吉2年5月25日(1442年7月3日) - 明應9年9月28日(1500年10月21日) 59歳没 | |||
104 | 後柏原天皇 | ごかしわばら (ごかしはばら) |
勝仁 | 追号 加後号 |
明應9年(1500年)10月25日 - 大永6年(1526年)4月7日 |
寛正5年10月20日(1464年11月19日) - 大永6年4月7日(1526年5月18日) 63歳没 | |||
105 | 後奈良天皇 | ごなら | 知仁 | 追号 加後号 |
大永6年(1526年)4月29日 -弘治3年 (1557年)9月5日 |
明應5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日) 61歳没 | |||
106 | 正親町天皇 | おおぎまち (おほぎまち) |
方仁 | 追号 在所(二條殿)の面する町名 |
弘治3年(1557年)10月27日 - 天正14年(1586年)11月7日 |
永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日) 77歳没 | |||
107 | 後陽成天皇 | ごようぜい (ごやうぜい) |
和仁 周仁 |
追号 加後号 |
天正14年(1586年)11月7日 - 慶長16年(1611年)3月27日 |
元龜2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日) 47歳没 | |||
108 | 後水尾天皇 | ごみずのお (ごみづのを) |
政仁 | 追号(遺諡) 加後号 |
慶長16年(1611年)3月27日 - 寛永6年(1629年)11月8日 |
文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延寶8年8月19日(1680年9月11日) 85歳没 | |||
109 | 明正天皇 | めいしょう (めいしゃう) |
興子 | 追号 漢風諡号2つを合わせた追号 (元明+元正) |
寛永6年(1629年)11月8日 - 同20年(1643年)10月3日 |
女帝。 | 元和9年11月19日(1624年1月9日) - 元禄9年11月10日(1696年12月4日) 73歳没 | ||
110 | 後光明天皇 | ごこうみょう (ごくゎうみゃう) |
紹仁 | 追号 加後号 |
寛永20年(1643年)10月3日 - 承應3年(1654年)9月20日 |
寛永10年3月12日(1633年4月20日) - 承應3年9月20日(1654年10月30日) 22歳没 | |||
111 | 後西天皇 | ごさい | 長仁 | 追号 加後号 |
承應3年(1654年)11月28日 - 寛文3年(1663年)1月26日 |
寛永14年11月16日(1638年1月1日) - 貞享2年2月22日(1685年3月26日) 48歳没 | |||
112 | 霊元天皇 (靈元天皇) |
れいげん | 識仁 | 追号(遺諡) 漢風諡号2つを合わせた追号 (孝靈+孝元) |
寛文3年(1663年)1月26日 - 貞享4年(1687年)3月21日 |
承應3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日) 79歳没 | |||
113 | 東山天皇 | ひがしやま | 朝仁 | 追号 山陵 |
貞享4年(1687年)3月21日 - 宝永6年(1709年)6月21日 |
延寶3年9月3日(1675年10月21日) - 寶永6年12月17日(1710年1月16日) 36歳没 | |||
114 | 中御門天皇 | なかみかど | 慶仁 | 追号 在所に近い宮門 |
宝永6年(1709年)6月21日 - 享保20年(1735年)3月21日 |
元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日) 36歳没 | |||
115 | 桜町天皇 (櫻町天皇) |
さくらまち | 照仁 | 追号 譲位後の在所 |
享保20年(1735年)3月21日 - 延享4年(1747年)5月2日 |
享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日) 31歳没 | |||
116 | 桃園天皇 | ももぞの | 遐仁 | 追号 由来不詳 |
延享4年(1747年)5月2日 - 寶暦12年(1762年)7月12日 |
寛保元年2月29日(1741年4月14日) - 寶暦12年7月12日(1762年8月31日) 22歳没 | |||
117 | 後桜町天皇 (後櫻町天皇) |
ごさくらまち | 智子 | 追号 加後号 |
寶暦12年(1762年)7月27日 - 明和7年(1770年)11月24日 |
女帝。 | 元文5年8月3日(1740年9月23日) - 文化10年閏年11月2日(1813年12月24日) 74歳没 | ||
118 | 後桃園天皇 | ごももぞの | 英仁 | 追号 加後号 |
明和7年(1770年)11月24日 - 安永8年(1779年)11月9日 |
寶暦8年7月2日(1758年8月5日) - 安永8年10月29日(1779年12月6日) 22歳没 | |||
119 | 光格天皇 | こうかく (くゎうかく) |
師仁 兼仁 |
諡号 | 安永8年(1779年)11月25日 - 文化14年(1817年)3月22日 |
明和8年8月15日(1771年9月23日) - 天保11年11月18日(1840年12月11日) 70歳没 | |||
120 | 仁孝天皇 | にんこう (にんかう) |
恵仁 | 諡号 | 文化14年(1817年)3月22日 -弘化3年 (1846年)2月6日 |
寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日) 47歳没 | |||
121 | 孝明天皇 | こうめい (かうめい) |
統仁 | 諡号 | 弘化3年(1846年)2月13日 - 慶應2年(1866年)12月25日 |
天保2年6月14日(1831年7月11日) - 慶應2年12月25日(1867年1月30日) 37歳没 | |||
122 | 明治天皇 | めいじ (めいぢ) |
祐宮(さちのみや) | 睦仁 | 追号 一世一元の制による |
慶應3年(1867年)1月9日 - 明治45年(1912年)7月30日 |
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日 59歳没 | ||
123 | 大正天皇 | たいしょう (たいしゃう) |
明宮(はるのみや) | 嘉仁 | 追号 一世一元の制による |
明治45年(1912年)7月30日 - 大正15年(1926年)12月25日 |
明治12年(1879年)8月31日 - 大正15年(1926年)12月25日 47歳没 | ||
124 | 昭和天皇 | しょうわ (せうわ) |
迪宮(みちのみや) | 裕仁 | 追号 一世一元の制による |
大正15年(1926年)12月25日 - 昭和64年(1989年)1月7日 |
履中天皇(第17代)以降では、 在位期間最長(62年2週間)。 |
明治34年(1901年)4月29日 - 昭和64年(1989年)1月7日 87歳没 | |
125 | 今上天皇 | きんじょう (きんじゃう) |
継宮(つぐのみや) | 明仁 | 昭和64年(1989年)1月7日 - | 関東の地で即位した初の天皇。 | 昭和8年(1933年)12月23日 - |
記録
在位期間の長い天皇
- ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。
- 昭和天皇(第124代): 22660日(62年)
- 明治天皇(第122代): 16604日(45年6か月)
- 光格天皇(第119代): 13641日(37年4か月)
- 後土御門天皇(第103代): 13211日(36年2か月)
- 後花園天皇(第102代): 13133日(35年11か月)
在位期間の短い天皇
- 仲恭天皇(第85代): 78日(2か月)
- 弘文天皇(第39代): 226日(7か月)
- 用明天皇(第31代): 596日(1年7か月)
- 光嚴天皇(北朝1代): 625日(1年8か月)
- 花山天皇(第65代): 677日(1年10か月)
高齢で即位(践祚)した天皇
- 光仁天皇(第49代): 61歳(62歳)
- 今上天皇(第125代): 55歳(57歳)
- 光孝天皇(第58代): 54歳(55歳)
- 孝徳天皇(第36代): 49歳(50歳)
- 皇極天皇(第35代): 48歳(49歳)
年少で即位(践祚)した天皇
- 六條天皇(第79代): 7か月(2歳)
- 安德天皇(第81代): 1歳4か月(3歳)
- 四條天皇(第87代): 1歳7か月(2歳)
- 土御門天皇(第83代): 2歳1か月(4歳)
- 仲恭天皇(第85代): 2歳6か月(4歳)
長寿の天皇
- 昭和天皇(第124代): 87歳8か月(89歳)
- 後水尾天皇(第108代): 84歳2か月(85歳)
- 陽成天皇(第57代): 80歳9か月(82歳)
- 靈元天皇(第112代): 78歳2か月(79歳)
- 白河天皇(第72代): 76歳(77歳)
早世した天皇
- 崩御時の満年齢。括弧内は数え年。※は退位後に崩御。
- 安德天皇(第81代): 6歳4か月(8歳)
- 四條天皇(第87代): 10歳10か月(12歳)
- 六條天皇(第79代): 11歳7か月(13歳)※
- 仲恭天皇(第85代): 15歳7か月(17歳)※
- 近衞天皇(第76代): 16歳2か月(17歳)
歴代天皇以外の関連人物一覧
追尊天皇の一覧
薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
- 岡宮天皇 - 草壁皇子。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
- 崇道尽敬皇帝 - 舎人親王。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。
- 春日宮天皇 - 志貴皇子。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
- 崇道天皇 - 早良親王。50代桓武天皇の弟で廃太子(785年(延暦4年)薨去)。800年(延暦19年)、「崇道天皇」の尊号を受ける。
- 陽光院太上天皇 - 誠仁親王。106代正親町天皇の東宮。即位前に没。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。
- 慶光天皇 - 閑院宮典仁親王。119代光格天皇の父。1884年(明治17年)、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。 → 尊号一件
皇位に就かなかった太上天皇の一覧
- 後高倉院 - 守貞親王。86代後堀河天皇の父。皇位を経ずして太上法皇となり院政を執る。皇統譜では「後高倉天皇」。
- 後崇光院 - 伏見宮貞成親王。102代後花園天皇の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。
一説に天皇とされる者の一覧
- 日本武尊 - 14代仲哀天皇の父。『常陸国風土記』において「倭武天皇」と記す例がある。
- 神功皇后 - 14代仲哀天皇の后で15代応神天皇の母。江戸時代までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。
- 菟道稚郎子 - 15代応神天皇皇太子。『播磨国風土記』に「宇治天皇」とある。
- 市辺押磐皇子 - 17代履中天皇皇子。23代顕宗天皇の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。
- 飯豊青皇女 - 履中天皇の娘(異説あり)。22代清寧天皇の崩御後、23代顕宗天皇・24代仁賢天皇が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『扶桑略記』などに「飯豊天皇」とある。
天皇に準ずる立場にあった者の一覧
- 蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿 - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は親王に準じた扱いを受けた。
- 聖徳太子 - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『隋書』に記述された俀王多利思比孤は聖徳太子を指すとする説もある。
- 間人皇女 - 34代舒明天皇の皇女、36代孝徳天皇の皇后。37代斉明天皇の崩御後、38代天智天皇即位までの間即位していたとする説がある。『万葉集』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。
- 弓削道鏡 - 48代称徳天皇の寵愛を受け、法王に就任し天皇に準ぜられた。後世の史書においては弓削法皇という表記がむしろ一般的である。
- 敦明親王(小一条院) - 67代三条天皇皇子。1016年(長和5年)、東宮。翌1017年(寛仁元年)東宮を退くも、院号宣下を受け太上天皇に准ずる。
- 女院 - 東三条院に始まる女院の制度は、基本的に院すなわち太上天皇に準ずる制度である。前項の小一条院の例も女院の制に倣ったものである。
天皇またはそれに准ずる立場を称した者・擁立された者
- 塩焼王 - 天武天皇の孫で、新田部親王の子。天平宝字8年(764年)、恵美押勝の乱で、恵美押勝から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に恵美押勝軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。
- 平将門 - 桓武天皇5世孫。940年(天慶3年)、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。
- 恒良親王 - 96代後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、南朝の成立により無意味となる。
- 懐良親王 - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、明から倭寇の取り締まりを求められ「日本国王」の冊封を受ける。
- 足利義満 - 室町幕府3代将軍。准三宮(三宮(皇后・皇太后・太皇太后)に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、明より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが幕府はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
- 金蔵主(中興天皇) - 後南朝の初代天皇とされる。99代後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊義。嘉吉3年10月に即位したという。吉野北山に崩御(※ このことは同時代史料では確認できない)。
- 自天王(尊秀王) - 後南朝の2代天皇。後亀山天皇の曾孫、中興天皇の一宮。諱は尊秀。奥吉野川上にて即位。長禄元年12月、赤松氏の遺臣により暗殺される(※ 長禄の変で南朝の宮と称する兄弟が討たれたのは事実だが、系譜、実名ともに不明である)。
- 南天皇 - 後南朝の3代天皇。後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊雅。長禄2年8月、赤松家の遺臣により斬られ、その傷が元で熊野の光福寺にて崩ず(※ このことは同時代史料では確認できない)。
- 西陣南帝 - 応仁の乱の際、山名宗全により擁立された南朝皇胤。名は不明。
- 北白川宮能久親王 - 日光輪王寺門跡時代の1868年(明治元年)、奥羽越列藩同盟により「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある[13]。
脚注
- ^ 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、1997年、7-8頁。
- ^ 歴代天皇の諡号・追号に「神」の字を用いるのは、この3代3人のみである点も注目される。
- ^ なお、第111代「後西院」を「後西天皇」と改めた点に関しては異論が出されている。すなわち、「西院」は地名であって、院号ではないことから、機械的に「院」を省くのは誤りではないかとする。現在も京都市中京区に西院という地名が残る。第53代・淳和天皇が譲位後にこの地に住んだため、同天皇の異称が「西院」とされ、「後西院」はその加後号である。
- ^ なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、1394年に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、北朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、後高倉院の先例に倣った尊称天皇として扱われていた。
- ^ a b c 構成 - 宮内庁
- ^ 神武天皇から昭和天皇までの124ページ。
- ^ a b c 「讃」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ 「珍」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ 「允恭天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ 「興」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ 「武」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ 「継体天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
- ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(日本:北部が擁立した新帝)」とある
関連項目
外部リンク
- 宮内庁>天皇陵 - 歴代天皇の天皇陵、および歴代天皇に関する情報の一覧