纒向遺跡

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纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡群を指す。前方後円墳発祥の地とされている。

目次

[編集] 概要

遺跡名は旧磯城郡纏向村の村名であり、その村名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。

現在(2000年代)の把握されている纒向遺跡の範囲は北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルに及び、その形は楕円形であり、面積は3000m2にまで達する。

地形は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが纏向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。

纒向遺跡の始まりは、縄文時代後・晩期からと推定される。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片が土偶深鉢などがこの遺跡のあちこちから出土していて、縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。

この遺跡からは弥生時代集落が発見されておらず、環濠も検出されていない。つまり纒向遺跡の弥生時代のことはほとんど分かっていない。銅鐸の破片や土抗が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた地より弥生中期・後期の多量の土器片が発見されており、方形周濠墓竪穴住居なども出土している。さらに南西の地から多くの遺物が出土している。

纒向遺跡は、古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は少数である。遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。農業用の大型水路や無数の土抗の中に三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられていた。石塚古墳周濠から吉備系の祭祀遺物弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークが過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

飛鳥〜奈良時代に入るとこの地域に市が発達し、大市と呼ばれた。箸墓古墳が宮内庁比定では大市墓というのはこのためである。奈良・平安時代では井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨守された土器も検出されている。

[編集] 発掘調査

現在の名称で呼ばれるまでは太田遺跡・勝山遺跡として学会に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され特に注目を集めていなかった。しかし1971年に行われた県営住宅、小学校建設の為の橿原考古学研究所が行った事前調査により幅5m、深さ1メートル、総延長200メートル以上の運河状の構造物が発見された事により注目を集めることになる。その後も、さまざまな出土品が広範囲にわたって確認された。1977年の第15次調査以降、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り現在も調査を継続している。2009年にはいくつかの建物も発掘され、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。

[編集] 主な遺構・遺物

主な遺構

唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である。都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。

  • 矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートル、総延長200メートル以上にわたる巨大水路の発見。
  • 底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3メートル・深さ約1.5メートルの一方が突出する不整形な円の土抗が約150基発見された。
  • 掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23平方メートルの建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立建物17棟検出)。
  • 竪穴式住居発見され始めている。
  • 弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝
  • 導水施設跡(宮殿の排水施設か)
  • 遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群
  • 祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)

現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性あり。

主な遺物
  • 朱色に塗った鶏形木製品
  • 吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。
  • 絹製の巾着袋
  • 瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作られたものと判明した)
  • ミニチュアの舟
  • 木製鏃
  • 搬入土器
  • 石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品

日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも東海地方の物が多い。

特異な遺跡
  • 纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
  • 辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が、東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴住居跡が発見されている。
纒向遺跡の主な古墳

木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。

[編集] 邪馬台国畿内説の最有力候補地

搬入土器の出身地割合
関東系 5% ファイル:g05.png
東海系 49% ファイル:r30.pngファイル:r10.pngファイル:r05.pngファイル:r03.pngファイル:r01.png
近江系 5% ファイル:g05.png
北陸・山陰系 17% ファイル:b10.pngファイル:b05.pngファイル:b01.pngファイル:b01.png
河内系 10% ファイル:y10.png
紀伊系 1% ファイル:g01.png
吉備系 7% ファイル:g05.pngファイル:g01.pngファイル:g01.png
播磨系 3% ファイル:g03.png
西部瀬戸内海系 3% ファイル:g03.png
  • 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と重なる。
  • 当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
  • 3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がなく出土土器全体の15%は駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できないし、人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。[1]
  • 伝承では倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳があり、これは墳丘長280メートルに及ぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された憤丘長90メートル前後の纒向型前方後円墳も3世紀では列島最大の憤丘規模を持ち、ヤマト王権最初の大王墓であり各地にも纒向型前方後円墳が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
  • 倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説がある(肥後和男『邪馬台国は大和である』秋田書店)[2]

以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。

ヤマト政権発祥の地
  • 記紀』では崇神天皇垂仁天皇景行天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)宮、纏向珠城(まきむくたまき)宮、纏向日代(まきむくひしろ)宮が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。
  • 万葉集』にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。

[編集] 脚注

  1. ^ 「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」寺沢薫『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年 纒向遺跡の特徴と特異性を六点あげている。(1)3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。(2)搬入土器が多く、その搬出地は全国に跨っている。列島では最大であり、市的機能を持っていた。(3)生活用具少なく、土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ、大規模な都市建設の土木工事が行われている。(4)導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。(5)居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。(6)鉄器生産。
  2. ^ 大正時代の笠井新也は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。根拠は(1)崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い(2)モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている(3)モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。この説に対しては懐疑的な意見が多いが、考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓ではないかとする見方がある。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述に一致している。

[編集] 参考文献

  • 『日本の古代史 5 前方後円墳の世紀』 中央公論社
  • 和田萃『大系 日本の歴史2 古墳の時代』小学館<小学館ライブラリー>、1992.8、ISBN 4-09-461002-2
  • 石野博信『大和・纒向遺跡』學生社、2005.5、ISBN 4311304854
  • 石野博信『古墳文化出現期の研究』學生社、1985.3、ASIN B000J6UDBG

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク