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2011年3月20日 (日) 13:14時点における版

 森内俊之 九段
チェスに興じる森内
名前 森内俊之
生年月日 (1970-10-10) 1970年10月10日(53歳)
プロ入り年月日 1987年5月13日(16歳)
棋士番号 183
出身地 神奈川県横浜市
師匠 勝浦修九段
永世称号 十八世名人(襲位は原則引退後)
段位 九段
棋士DB 森内俊之
戦績
タイトル獲得合計 8期
一般棋戦優勝回数 12回
2009年12月5日現在
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森内 俊之(もりうち としゆき、1970年10月10日 - )は、将棋棋士十八世名人資格保持者。

棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市出身。

2009年4月1日より日本将棋連盟棋士会副会長。

棋歴

プロ入りまで

小学生時代から、すでに羽生善治とライバル関係にあった。ある将棋大会で森内少年の初手▲5八飛に対し、羽生少年の△5二飛という出だしの将棋があった[1]

1982年、第7回小学生将棋名人戦で3位。このときの優勝者は羽生善治。同年12月から奨励会で指し始めるが、これも羽生と同期である。

奨励会三段前後の頃、島朗主宰の研究会(いわゆる「島研」)に、羽生や佐藤康光とともに参加し、腕を磨く。

1987年5月13日にプロ入り(四段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期新人王戦(1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝するという快挙を達成している(同棋戦ではこれを含め、通算3回優勝している)。

また、第10回「若駒戦」(奨励会の段位者による非公式棋戦)でも優勝している。

タイトル獲得

プロ入り早々頭角を現し、1988 - 1989年度、早指し新鋭戦で2連覇。さらには、全棋士参加の大型棋戦である全日本プロトーナメント(第7回、1988年度)において、谷川浩司との決勝三番勝負(1989年)を2勝1敗で制して優勝。なお、1988年度の将棋大賞で新人賞を受賞している。これだけの活躍をしながら、当時の段位は、まだ四段であった。

順位戦での勝率も高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級までのぼりつめた。そして初参加の1995年度A級順位戦で1位の成績をおさめ、1996年第54期名人戦の挑戦者となった。森内にとって初のタイトル挑戦である。相手は当時七冠王の羽生であった。タイトル戦初対局となった第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、相矢倉の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の五十嵐豊一九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである[2]。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。

1996年度、NHK杯戦において、決勝で屋敷伸之(最年少タイトル記録保持者)を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも優勝した。

全日本プロトーナメント(第19回、2000年度)において、谷川浩司との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる[3]

2002年5月17日 、第60期名人戦で丸山忠久を4連勝のストレートで破り、初タイトルとなる名人位を獲得。同時に九段となる。しかし、明くる2003年の第61期名人戦では、今度は4連敗のストレートで、羽生に名人位を奪われてしまう。

永世名人へ

第63期名人戦第2局
第86手△4五歩まで
(この次の一手が▲4八金)
△羽生善治四冠 持駒:歩三
987654321 
      
      
     
    
        
        
    
      
 

2003年度は、名人を失冠後、竜王王将をいずれも羽生から奪取。特に竜王戦での4勝0敗は、羽生にとって初めてのタイトル戦ストレート負けを食らわせたものであった。さらにA級順位戦史上初の9戦全勝[4]で名人へのリターンマッチの権利を獲得。2003年度将棋大賞最優秀棋士賞を初受賞。

そして、2004年6月11日、羽生から名人位を奪還し、羽生を一冠(王座)のみに追い込む。この時点で史上7人目[5]三冠王(竜王・名人・王将)となり、羽生に代わって最多冠となった[6]。また、2004年(1月-12月)の獲得賞金・対局料は1億円を突破した。

しかし、同年度、三冠のうち竜王を渡辺明に、王将を羽生にそれぞれ奪われ、名人の一冠のみとなる。

第63期名人戦(2005年)では第1局で逆転負けし、対羽生戦8連敗を喫する。しかし、第2局では終盤で羽生が残り16分のうち12分を費やして打った△4五歩(右図参照)をとがめる絶妙の一手▲4八金[7]で逆転勝ちを収める。結果、この七番勝負では4勝3敗で名人位を防衛した。これで羽生の永世名人資格獲得(通算5期)を2年連続で阻止したことになる(2年後、羽生より一歩先に永世名人の資格を獲得)。

2006年(2005年度)、羽生から棋王を奪取して二冠(名人・棋王)となる(棋王は翌年佐藤康光に奪われる)。

2006年の名人戦(第64期)では、十七世名人の資格を持つ谷川浩司の挑戦を4勝2敗で退ける。この七番勝負で森内自身が最も印象的に残った局面は、第1局の86手目と90手目に、自陣の8二、7二に2枚の銀を打ち並べるという珍しい受け方で、我慢したところであったという[8]

2007年6月29日、第65期名人戦で郷田真隆の挑戦を受け、4勝3敗で防衛。通算5期獲得となり永世名人十八世名人)の資格[9]を得た。なお、就位式のスピーチ[10]では、第6局の最終盤(郷田が124手目を指した局面)で指し手を間違って大逆転負けを喫し、フルセットの勝負に持ち込まれたことに触れ、「アマチュアの初段でもわかるところ」とおどけて見せた。

永世名人獲得後

2008年3月25日、第21期竜王戦5位決定戦1回戦で中原誠十六世名人に敗れ、2組へ降級。タイトルホルダーの2組降級は、1991年9月20日の羽生棋王(当時)以来、2人目。

2008年6月17日山形県天童市の「天童ホテル」で行われた名人戦第6局で羽生に敗れ、無冠の九段に後退[11]。一方の羽生は、森内に1年遅れで永世名人(十九世名人)の資格を得た。永世名人が2年連続で誕生したのは史上初。

以降、名人戦以外のタイトル戦からもしばらく遠ざかっていたが、第22期(2009年度)竜王戦で深浦康市との挑戦者決定三番勝負を2勝1敗で制し、渡辺竜王へ挑戦。5年前とは立場を換えての対決となったが、0勝4敗のストレート負けとなった。

第69期(2010年度)A級順位戦で優勝し、羽生名人への挑戦権を獲得。同時に、順位戦デビューの第47期から続く順位戦勝ち越し連続記録(名人在位を含む)を23期に伸ばした。

棋風

  • 強靭な受けに絶対の自信を持っており、ときに相手の攻めをわざと呼び込んでいるのではないかと思わせることさえある。通称「鋼鉄の受け」、「鉄板流[12]
  • 後手番矢倉では『森内流』と呼ばれる駒組みがあり、現代矢倉の主要変化の1つである。
  • 好きな駒は飛車。攻めのみならず、守りでの使い方にも特徴がある。勝又清和によれば、「自陣飛車の似合う棋士は?」という質問を棋士にしたところ、丸山とともに多くから名前が挙がったと言う[13]
  • 受け主体の棋風のわりに、他の棋士よりも居玉を好んで指す傾向にある。

人物・エピソード

基本データ

  • 母方の祖父に京須行男八段(元日本将棋連盟理事・奨励会幹事)を持つ将棋界のサラブレッドである。このため、「鉄板流」の他に「優駿流」と言われることもある。
  • サレジオ学院中学校・高等学校卒業(同校在学中にプロ棋士となった)。
  • 初の名人位に就いた翌月(2002年6月)に婚約発表。相手は三原將嗣東京都議会議員の娘で、学習院大学文学部講師・国文学者の三原まきは。同年10月に結婚。
  • 座右の銘は、「今を生きる」「一期一会」「一日一生」。

合理主義者

  • 名人戦、王将戦など、1局2日制の対局であっても、定跡や研究手順であれば時間を使わず、1日目から手をどんどん進めることが多い。かつては、1日目に駒がぶつからないことが普通であったが、森内がタイトル戦で活躍し始めた頃から、(森内が登場しないタイトル戦でも)2日制の1日目に本格的な戦い、時には終盤の入り口まで進行することが多くなっている。
  • かつては、番勝負の第1局に千日手指し直しが1回あると、第1局の先手と第2局の先手が同じ棋士になるという不合理があった。森内の提案をきっかけに、第1局の振り駒によって最終局の1局前までの先後が決定される一局完結方式に変更された(振り駒 を参照)。

公式対局に関するエピソード

  • 事前に対局相手と先後が決まっている順位戦では無類の強さを誇っており、第68期(2009年度)終了現在、名人在位を除く全ての年度で勝ち越している。1990年度(当時C級2組)の途中から1992年度(当時B級2組)にかけては、順位戦26連勝を記録した。順位戦通算勝率は、2007年度までの時点では8割を超えていた(114勝28敗、0.803)。
  • 対局開始の「お願いします」の挨拶や、投了を告げる「負けました」の声が、他の棋士達に比べて明瞭である。
  • タイトル戦の対局前日のインタビューで、「作戦は考えてきましたか」と質問された場合、多くの棋士は、「相手の指し方にもよるので」などと、はぐらかすが、森内は、あっさりと「考えてきました」と語る。
  • 1992年11月20日青野照市との対局でカニカニ銀戦法を採用し、65手という短手数で圧勝。その1週間後の11月27日には、カニカニ銀の創始者である児玉孝一との対局があったが、今度は逆に、“本家”のカニカニ銀を撃退して勝利した。
  • 郷田真隆と戦った第65期名人戦の第1局1日目(2007年4月10日)の午後、森内の手番(24手目)のときに、郷田が扇子を開け閉じして音を鳴らしたため、森内が苦情を訴えた。立会人の中村修らが対応に追われ、約30分間対局が中断するという珍事となった。ちなみに、この一局は郷田の逆転勝利となっている。

趣味等

その他

  • 2007年1月3日放送の「大逆転将棋2007」で、石橋幸緒矢内理絵子の脳内対局10秒将棋の対局後に講評を求められた際、内容を賞賛し、さらには「女流棋士の力を見せつけましたね」とコメントした。
  • 小学館発行のジュニアプログレッシブ英和辞典(第2版 - 2002年12月発行。ISBN 4095107065)の"master"の項目に"Mr.Moriuchi is a master of Japanese chess."(森内先生は将棋の名人です)という用例が記載されている。

昇段履歴

昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。

主な成績

タイトル・永世称号

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号資格
竜王 七番勝負
10 - 12月
03(第16期) 3 1期
名人 七番勝負
4 - 6月
02(第60期), 04-07 8 5期 4
(歴代4位)
永世名人
十八世名人
王位 七番勝負
7 - 9月
王座 五番勝負
9 - 10月
1
棋王 五番勝負
2 - 3月
05(第31期) 3 1期
棋聖 五番勝負
6 - 7月
1
王将 七番勝負
1-3月
03(第53期) 2 1期
登場回数合計18、 獲得合計8期歴代7位タイ
(番勝負終了前は除く。最新は、2009年度の竜王挑戦敗退。)

一般棋戦優勝

優勝合計 12回
非公式戦
  • 銀河戦(非公式戦時代) 2回 = 第2期(93年決勝)、第4期(96年決勝)

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

2010年度まで、A級経験者で、かつ、デビュー以来順位戦ですべて勝ち越しているのは、森内だけである(B級1組以下で第47期-第53期に7期連続勝ち越し。第54期以降、名人在位5期を除くA級11期ですべて勝ち越し。)。

将棋大賞

  • 第16回(1988年度) 新人賞
  • 第19回(1991年度) 勝率第一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・殊勲賞
  • 第21回(1993年度) 技能賞
  • 第24回(1996年度) 技能賞
  • 第29回(2001年度) 敢闘賞
  • 第30回(2002年度) 技能賞
  • 第31回(2003年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第33回(2005年度) 優秀棋士賞

その他受賞

  • 2004年 将棋栄誉賞(通算六百勝達成)
  • 2007年 第56回横浜文化賞
  • 2007年 第56回神奈川文化賞

記録(歴代1位のもの)

  • 最年少新人王戦優勝(17歳、1987年)
  • A級順位戦9戦全勝(2003年度) = 1971年度の中原誠(8戦全勝)以来
  • 順位戦26連勝(1990年 - 1993年)

著書

単著

編著・監修など

関連書

  • 毎日新聞社編著 『第54期将棋名人戦』(毎日新聞社、1996年7月、ISBN 4-620-50474-2
  • 毎日新聞社編著 『第60期将棋名人戦-名人丸山忠久・挑戦者森内俊之』(毎日新聞社、2002年7月、ISBN 4-620-50480-7
  • 毎日新聞社編著 『第61期将棋名人戦』(毎日新聞社、2003年7月、ISBN 4-620-50481-5
  • 読売新聞社編著 『竜王決定七番勝負 激闘譜 第16期』(読売新聞社、2004年2月、ISBN 4-643-04003-3
  • 毎日新聞社編著 『第62期将棋名人戦』(毎日新聞社、2004年8月、ISBN 4-620-50482-3
  • 読売新聞社編著 『第十七期竜王決定七番勝負 激闘譜-森内俊之vs.渡辺明』(読売新聞社、2005年2月、ISBN 4-643-05008-X
  • 毎日新聞社編著 『第63期将棋名人戦』(毎日新聞社、2005年8月、ISBN 4620504831
  • 毎日新聞社編著 『第64期将棋名人戦七番勝負-名人森内俊之・挑戦者谷川浩司』(毎日新聞社、2006年8月、ISBN 4-620-50484-X)
  • 毎日新聞社編著 『第65期将棋名人戦七番勝負-森内俊之VS.郷田真隆』(毎日新聞社、2007年8月、ISBN 4-620-50485-8
  • 毎日新聞社編著 『愛蔵版 第66期 将棋名人戦 七番勝負』(毎日新聞社、2008年9月、ISBN 4-620-50486-6
  • 椎名龍一 『名人を夢みて-森内俊之小伝』(日本放送出版協会、 2008年10月、ISBN 4-14-081306-7)(自戦記部分を担当)

出演

テレビ番組

ほか多数

脚注

  1. ^ 「将棋マガジン」(日本将棋連盟)1996年6月号『佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック』
  2. ^ 将棋マガジン」(日本将棋連盟)1996年6月号
  3. ^ 全日本プロ将棋トーナメントは、翌年から朝日オープン将棋選手権に移行した。
  4. ^ ただし、休場者がいた第26期A級順位戦(1971年度)で、中原誠が8戦全勝を達成している。
  5. ^ 過去には、升田幸三大山康晴中原誠米長邦雄谷川浩司羽生善治
  6. ^ 当時、森内がNHK杯戦で対局した際、解説者の北浜健介は、「今、(棋士の中で)いちばん強い。」と賞賛した。
  7. ^ 成銀で取らせて相手の攻めを一手遅らせる意味の手。この▲4八金は「絶妙の一手」と言われ、また、後に勝又清和によれば「タイトル戦の三大妙手」とも評されているが、森内自身は「相手のミスで生じた手なので」と振り返っている。しかし、控え室の検討陣で△4五歩が敗着と想像できた者はいなかったという(毎日新聞社『第63期将棋名人戦』、日本将棋連盟『将棋世界』2009年1月号 p.58「勝又教授のこれならわかる!最新戦法講義」)。
  8. ^ 将棋世界」2006年8月号
  9. ^ 永世名人の襲位は、原則として引退後。
  10. ^ 囲碁・将棋ジャーナル
  11. ^ 失冠後は1年間前名人の称号を名乗る権利があるが放棄。4年前に名人失冠した時も名乗っていない。ちなみに過去には、谷川浩司が「前竜王・前名人」の肩書きを放棄して九段を名乗った例があり、その後は佐藤康光や丸山忠久も「前名人」の肩書きを放棄し九段を名乗った。
  12. ^ 毎日新聞社編著 『第64期将棋名人戦七番勝負-名人森内俊之・挑戦者谷川浩司』
  13. ^ 「将棋世界」2009年11月号
  14. ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
  15. ^ Spopre.com - 将棋は頭脳スポーツだ 棋士列伝第一回 十八世名人森内俊之
  16. ^ http://ratings.fide.com/topfed.phtml?tops=0&ina=1&country=JPN

関連項目

外部リンク