名古屋グランパスエイト
名古屋グランパスエイト | |
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原語表記 | 名古屋グランパスエイト |
呼称 | 名古屋グランパス |
愛称 | グランパス |
クラブカラー | レッド |
創設年 | 1991年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
ホームタウン | 名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県 |
ホームスタジアム | 豊田スタジアム(2012年度より正式に本拠地化) 名古屋市瑞穂公園陸上競技場 |
収容人数 | 豊田=45,000、瑞穂陸=20,000 |
運営法人 | 株式会社名古屋グランパスエイト |
代表者 | 池渕浩介 |
監督 | ドラガン・ストイコビッチ |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
460-0008 愛知県名古屋市中区栄5-1-32 |
設立 | 1991年7月17日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 1180001038970 |
事業内容 | サッカークラブの運営 |
代表者 | 池渕 浩介 |
資本金 | 4億円 |
売上高 | 45億0,600万円 (2010年1月期) |
営業利益 | 2,100万円 (2010年1月期) |
純利益 | 400万円 (2010年1月期) |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | トヨタ自動車 他 |
外部リンク | http://nagoya-grampus.jp |
名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、Nagoya Grampus Eight)は、日本の名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。2008年から「名古屋グランパス」を呼称とする。
クラブ概要
トップチームの母体となったのは、日本サッカーリーグに参加していたトヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)のコーチ・選手だった。1991年にJリーグ加盟したのに伴い、プロとして活動する選手を名古屋市を拠点として新設したグランパスエイトに、またグランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士FC(当時、東海社会人リーグ所属。1993年にジャパンフットボールリーグ2部に参加したが翌年に廃部)にそれぞれ移籍させた。
チーム名は「グランパス(Grampus)」が英語の鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は数字の八(名古屋市の記章)の英語訳を合わせたもの。公式にはこのチーム名は当時名古屋市長だった西尾武喜の命名としているが、「エイト」の部分はオーナーであった豊田章一郎が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという[1]。なお2008年シーズンより呼称に関してはチーム名から「エイト」が外され「名古屋グランパス」に変更された(日本協会登録チーム名と法人名、エンブレム、ロゴは「名古屋グランパスエイト」のまま)。これは、ファン、サポーターおよびマスコミに親しまれている呼称を採用することで、更に愛されるクラブづくりを目指してゆきたいとの理由からである[2]。しかし、後にこの改称は親会社でメインスポンサーのトヨタ自動車からの指示でもあったことが明かされた。「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと一度だけ指示した(験担ぎで)」のだという[3]。サポーターの間では「ロッソジャロ」(イタリア語でロッソ=赤、ジャロ=黄)や「赤鯱軍団」とも呼ばれることがある。
ホームタウンは2011年までは名古屋市のみだったが、2012年より、名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県としている。ホームタウンの位置づけとしては次のとおりである。
- 豊田市 ホームスタジアム(豊田スタジアム)、練習場・クラブハウス(トヨタスポーツセンター)
- 名古屋市 ホームスタジアム(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)、クラブ事務所(本社)、クラブの発祥地
- みよし市 サッカースクール会場、若手選手寮(合宿)所在地
当初は豊田スタジアムは年4-5試合程度の開催だったが、ここ数年はリーグ戦のほぼ半数が開催されており、2012年はリーグ戦17試合の過半数が豊田での開催となった。(後述)
スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までにチーム強化に投じられた資金総額は200億円を超えるという[3]。なお、クラブ経営に関してトヨタ自動車およびトヨタグループは「支援(資金)は出すが、口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)[3]。
2011年よりスペインのリーガ・エスパニョーラ所属のレアル・ソシエダと選手育成に関する協力協定を締結し、若手選手数名をソシエダの練習に参加させるなどしている。
運営は株式会社名古屋グランパスエイト(名古屋市中区)。
ホームスタジアム
- 1992年-1994年前期 瑞穂球技場
- Jリーグ創設当初から瑞穂陸上競技場をホームスタジアムにする予定であったが、1994年のわかしゃち国体秋季大会開催に伴う改修工事のため隣接する瑞穂球技場を使用
- 1994年後期-2011年 瑞穂陸上競技場
- 2001年以前は岐阜メモリアルセンター長良川競技場も準ホームとして主催試合を開催。
- 2002年以降は長良川に代わって、この年に完成した豊田スタジアムで開催。
- 2012年 豊田スタジアム・瑞穂陸上競技場
- 本拠地が豊田市・みよし市(を中心とした愛知県全域)にも拡大されたことに伴い、豊田スタジアムも正式な本拠地に昇格となり折半開催となる。なお、AFCチャンピオンズリーグや水曜日の平日ナイターは基本的に瑞穂陸上競技場での開催となっており、2012年は豊田9(リーグ戦9)・瑞穂11(リーグ戦8・ACL予選3)(ナビスコ杯未定)の割となった。
歴史
Jリーグ加盟まで
Jリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した[4]。それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった[4]。
地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。そのため、トヨタが袖スポンサーから胸スポンサーに移動する2001年までは、胸にチームロゴを入れていた。
Jリーグ開幕前年の1992年には、チームの目玉として1986年メキシコワールドカップ得点王のゲーリー・リネカーと契約した。なお、当初はディエゴ・マラドーナの獲得を目指して交渉しており契約目前だったそうだが、マラドーナの麻薬所持疑惑により白紙撤回され、スキャンダルのないクリーンなイメージのリネカーに白羽の矢が立ったという経緯がある[4]。Jリーグのプレマッチとして行われたナビスコカップでは、司令塔ジョルジーニョのもとルーキーの小倉隆史、森山泰行、中西哲生らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、チームも3位の成績をおさめた[5]。
1993年 - 1994年
- 1993年
- 開幕前から監督を務めていた平木隆三の下で開幕に臨んだ。戦力としては即戦力として期待された平野孝らが入団し、小倉はオランダ留学のため1年間チームを離れた[5]。開幕直前の5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では浅野哲也とリネカーのゴールによって2-1と、日本のクラブチームとしては初めてセリエAのチームに勝利した[6]。しかし、リネカーは怪我のため試合出場は少なく、戦術もジョルジーニョ頼みであった。2ndステージ開幕前にブラジル人のエリベウトンを獲得するも、リーグ戦では年間総合9位(12勝24敗)と下位に低迷した。
- 1994年
- 英国人(イングランド)のゴードン・ミルンを監督に迎えてシーズンに臨んだが、個人頼みの戦術は変わらず、サントリーシリーズは8位(9勝13敗)。ニコスシリーズへ向けての戦力補強として、7月にユーゴスラビア代表主将ドラガン・ストイコビッチとビニッチを獲得。
- Jリーグ有数の攻撃陣を擁してニコスシリーズに臨んだが、リネカーの怪我やストイコビッチの不調などにより最下位(6勝16敗)に低迷。11月には選手の信頼を失ったミルンが監督を更迭された[7]。なお、この年を最後にリネカーは現役を引退した。
- 年間総合でも11位(15勝29敗)と低迷。Jリーグ新加入の磐田と平塚の両チームより下位で、前年と同じ顔ぶれとなった浦和・G大阪とともに「Jリーグのお荷物」と呼ばれた[8]。
1995年 - 2001年
- 1995年
- チーム改革を目指しフランス人のアーセン・ベンゲルを監督に迎えた。ジョルジーニョとエリベウトンが退団し、阪倉裕二、ジェラール・パシ、トーレスを獲得した他、ベンゲルはフランク・デュリックスをチームに招いた。
- ベンゲルはそれまでのキーマンの個人能力頼りの戦術を改め、中盤の4人がフラットに近い形で並ぶ4-4-2を採用して高い位置からプレスをかけてボールを奪い、攻守の切り替えを素早く行うという組織的な戦術を植えつけた[9]。当時のヨーロッパではスタンダードな戦術の1つであったが、Jリーグ開幕から間もない日本においては斬新なものであった[9]。この戦術の攻撃のキーマンにストイコビッチを据え、少し引き気味のポジションから自由自在に攻撃を組み立てた(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)[9]。中盤ではデュリックスが攻守に献身的に動き、トーレスがラインを統率して守備面でも安定感を示した。
- 選手の長所を伸ばすことを目指して自信を植え付けていき、元々代表クラスの選手を抱えていたこともあり、年間総合3位(32勝20敗)と大躍進。第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。
- 1996年
- 福田健二、望月重良、西ヶ谷隆之が入団。2月に小倉が全治6か月の大怪我を負い[10]、それを補うようにオリビエとトーマスを獲得した。
- この年は1シーズン制であり、成績は2位(21勝9敗)であった。リーグ戦2位としてサントリーカップ・96チャンピオンズファイナルに進出し、同年のナビスコカップで優勝した清水と対戦し、PK戦の末に勝利を収めた(3-1)。決勝ではリーグ戦で優勝した鹿島と対戦し、スコアレスで突入した延長戦でストイコビッチのVゴールによって勝利、これにより鹿島のJリーグ完全優勝を阻止し、形式としては1996年の事実上のJリーグチャンピオンとなった。
- なお、9月にベンゲルが監督を退任(後にイングランドのアーセナルFC監督に就任)、後任にはポルトガル人のカルロス・ケイロスが就任した。
- 1997年
- 中西哲生が移籍した他、小倉が怪我の再手術を受け長期リハビリを要した。滝澤邦彦、古賀正紘、中谷勇介、伊藤卓が入団、リカルジーニョとバウドを獲得した。
- 前年度のサントリーカップ優勝によりサンワバンクカップへ出場し、MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドと対戦し、3-1で勝利を収めた[11]。
- リーグ戦では年間総合9位(16勝16敗)とまずまずの成績を収めたが、天皇杯は当時JFLの東京ガス(後のFC東京)に敗れた。なお、ケイロスが監督を退任して、11月より田中孝司が監督に就いた。
- 1998年
- 前年の11月に就任した田中の下、石川康、大森征之、野口幸司、ベルナール・アルーを獲得してシーズンに臨んだ。
- シーズン中、6月にバウドが退団するも、7月にウリダを獲得し戦力低下は免れた。福田健二がリーグ戦16得点の飛躍を見せ、年間総合5位(23勝11敗)の成績を収めた。
- 1999年
- 横浜Mと合併・消滅した横浜Fから楢崎正剛と山口素弘を獲得した他、呂比須ワグナーといった代表級選手を補強した。その他、宮原裕司が入団した。
- 大幅な戦力補強ゆえに優勝候補の筆頭に上げられたが、シーズン中に田中と平野孝、望月重良、大岩剛との確執が表面化し、4月に田中が監督を辞任した。ダニエル・サンチェスが後任に据えられるも、1stステージ8位(7勝1分7敗)と低迷する。
- 2ndステージも苦しいスタートであったが、シーズン途中にジョアン・カルロスが監督に就任すると直後に10連勝し、最終成績2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)と好成績を残した。また、天皇杯では2度目の優勝を果たした。
- 2000年
- 浅野哲也に戦力外を通告するとトーレスも退団し、伊藤裕二、小倉隆史、野口幸司といった主力選手が相次いで移籍するなど、戦力面に大きな不安を残し開幕を迎えた。ユースから氏原良二が昇格し、原竜太が入団した他、トーレスの後任としてホミルドを獲得した。
- 1stステージでは12位(7勝1分7敗)と低迷。2ndステージ開始直後の7月5日、突如チームの顔であった平野、望月、大岩の3人を解雇することを発表した。これに関して小宮好雄副社長は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した[12]。これはカルロスの強い意向が働いたもので、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が発表された[13]。大幅な戦力低下となったが、7月にはウェズレイを獲得し、2ndステージでは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)の成績を残した。
- 2001年
- 飯島寿久、小川誠一に戦力外を通告、呂比須ワグナーも退団した。復帰した森山泰行を含めて酒井友之や海本慶治など複数の即戦力選手を獲得、中村直志、吉本岳史、山内友喜が入団した。
- 1stステージは3位(10勝2分3敗)で終了。なお、1stステージを以てストイコビッチが現役引退。また、ほぼ同時期に福田健二がFC東京へ移籍した。一方でマルセロを獲得。年間総合は5位(17勝3分10敗)の成績を残す。
2002年 - 2007年
- 2002年
- 元市原監督のズデンコ・ベルデニックを監督に迎えた。ユースから山口慶が昇格、吉村圭司と片桐淳至が入団し、鄭容臺を獲得。宮原裕司が退団した。
- 5月にはウリダとマルセロに戦力外通告を行い、7月にパナディッチとヴァスティッチを獲得した。Jリーグ開幕から(特にベンゲル以降は一貫して)基本システムとして4-4-2を採用していたが、このシーズン途中からトルシエジャパンでも用いられた3-5-2へとシステムを変更した。
- 1stステージは3位(10勝5敗)と好成績を残したが、2ndステージは13位(5勝1分9敗)と低迷。年間総合は6位(15勝1分14敗)であった。
- 2003年
- チームスローガン:ハード・魂(ハート)。
- 山口素弘に戦力外通告。ユースから平林輝良寛が昇格、渡邊圭二と深津康太が入団、藤本主税と海本幸治郎を獲得した。2月に上田滋夢がテクニカルディレクターに就任。
- パナディッチ、大森征之、古賀正紘による3バックとボランチの中村直志と吉村圭司が機能し、高い守備力を誇るが反面得点力は乏しかった。5月にヴァスティッチが退団すると、6月にマルケスを獲得。1stステージでは7位(5勝8分2敗)と順位こそまずまずだが、大事な場面で点が取れない試合が多かった。
- シーズン中にはウェズレイと監督の間に起用を巡る確執が表面化した。勝ちきれない体質を改善するためベルデニックを解任し、2ndシーズン開始前にネルシーニョを監督に招聘。9月には川崎から石塚啓次を獲得。順位こそ8位(6勝4分5敗)であったが、ウェズレイがJ1得点王を獲得した。年間総合は7位(11勝12分7敗)。
- 2004年
- チームスローガン:ハード・魂(ハート)。 - 2004年、超える。-
- 藤本主税が移籍。豊田陽平が入団。森山泰行が三度復帰した他、川島永嗣、秋田豊、角田誠、岩本輝雄、大野敏隆(レンタル移籍)と大型補強を行った。
- 6月にパナディッチ、7月に森山、8月に滝澤邦彦が相次いで移籍。それを補うため7月にクライトンがネルシーニョ監督によって招かれ、井川祐輔をレンタル移籍で獲得。その後も本田征治、滝澤邦彦(レンタル移籍)が移籍した。年間総合成績は7位(12勝8分10敗)。
- 2005年
- チームスローガン:赤鯱魂 - Grampus-Spirits -
- 大型補強を止めピンポイント補強に転換し、若手の育成に力を入れる事を宣言。そのため、ミスターグランパスとも呼ばれた岡山哲也をはじめ、レンタル移籍から戻った滝澤邦彦、海本慶治、海本幸治郎、藤田泰成、原竜太と多くの主力選手を放出したものの、他クラブからの補強は安英学と増川隆洋の2人にとどまっている。新人では、前年から特別指定選手としてチームに帯同していた本田圭佑の他、杉本恵太と鴨川奨が入団、ユースから津田知宏が昇格した。この年は新潟との間で、岡山・海本兄弟・安英学と4件の移籍が発生するという異例な事態となった。
- 4月にウェズレイが退団するものの、序盤戦では2位になるなど幸先良いスタートを切った。5月にマルケスが退団すると、次第に失速し、また得点力不足に陥った。そのため6月に藤田俊哉と中山悟志を獲得し、7月にはルイゾンを獲得したが、成績不振を理由にネルシーニョが監督を解任された。
- ネルシーニョが解任されるとルイゾンも退団し、クライトンを苦し紛れにFW起用するなど得点力不足に拍車がかかるようになる。その結果、クライトンは本来のパフォーマンスを発揮できず、シーズン終了後に戦力外通告を受けている。
- J2への降格すら現実味を帯びるほどの不振をきわめたが、11月20日に首位G大阪相手に2-1で勝利すると、続く23日の東京V戦を0-0で引き分け辛うじてJ1残留を決めた。最終成績は14位(10勝9分15敗)であった。
- 2006年
- チームスローガン:前線へ。その先へ。- Grampus Challenge 2006 -
- オランダ人監督のセフ・フェルホーセンが就任したが、フェルホーセンを招聘した上田TDが1月に解任される。新陣営が決まった段階でのこの人事は、サポーターの間に動揺を広げた。
- 玉田圭司、マレク・スピラール、金正友を獲得。ユースから青山隼が昇格し、阿部翔平、竹内彬、片山奨典、井上渉が入団した。
- フェルホーセンはチームの建て直しを図ったが、前線にポスト役となる選手がおらず、また本来のスタイルと異なるポストの役割を玉田に求めたことで玉田自身も調子を崩してしまう。長身の古賀正紘をFWで起用するなど打破を狙ったものの、シーズン序盤にはナビスコカップを含めると公式戦16試合勝ち星がないと言う苦しい状況が続いた。しかし、7月にフローデ・ヨンセンを獲得すると得点力不足が改善し、最終成績は7位(13勝9分12敗)。
- ホームでFC東京に敗戦してからフェルホーセンと選手との間で練習方法を巡ってのトラブルが発生した事もあったが、後に和解している。
- 2007年
- チームスローガン:前線へ。その先へ。
- 秋田豊に戦力外通告。黄金世代と呼ばれた年代のユースから吉田麻也を始め、長谷川徹、福島新太、新川織部の4人が昇格した他、小川佳純、巻佑樹、筑城和人が入団した。しかし古賀正紘、川島永嗣ら複数の選手が移籍し、特に守備面に大きな不安を残した。
- 開幕4連勝など幸先良いスタートを切ったが、主力選手の怪我や出場停止などによって好不調の波が激しく、近年の課題でもあった決定力不足を露呈し、勝ち切れない試合が多く、前半戦終了時点で14位と低迷。特に8月半ばの横浜FM戦の3-0での惨敗後に、一部のサポーターが問題を起こす(次の大宮戦の試合前に両者とも謝罪)など、チーム内でも亀裂が起こっていた。結局11月18日の大分戦で3-1で勝利してJ1残留を決めたものの、既にJ2降格が決まっていた11月24日の横浜FC戦でのスコアレスドローや、天皇杯第5回戦でHonda FC(リーグカテゴリが2つ下の日本フットボールリーグに所属)に2-0で敗れるという波乱もあり、最後まで課題が残るシーズンであった。最終成績は11位(13勝6分15敗)。
- ホーム最終戦(11月24日の横浜FC戦)の後に行われたセレモニーでは、フロントに対して今季のチーム成績不振に対する不満が書かれた横断幕が提げられ、その後挨拶をしにきたフェルホーセンに対して一部のサポーターから非難の声があがるなど、サポーターの不満が表面化する一幕もあった。
2008年 -
- 2008年
- チームスローガン:前線へ。その先へ。 - Never give up for the win. -
- かつてチームを支えたドラガン・ストイコビッチが監督として復帰。ハーフナー・ディドもコーチとして復帰した。ヘッドコーチにはストイコビッチと共にイビチャ・オシムの下でユーゴスラビア代表としてプレーしたボスコ・ジュロヴスキーを招聘、1月には新たにチームに設けたGMに久米一正が就任した。
- 鴨川奨に戦力外通告、本田圭佑が移籍、スピラールと金正友が退団した。補強は、ストイコビッチが自ら引き抜いたバヤリツァの他、マギヌン、三木隆司、西村弘司を獲得。また、ユースから花井聖が昇格、佐藤将也が入団した。
- 今シーズンより岐阜がJリーグへ加盟し、岐阜のホームである岐阜メモリアルセンター長良川競技場でプレシーズンマッチが開催された。リーグ開幕戦の京都とは引き分けたものの、第2節からの6連勝で一時は首位にもなった。最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)となり、AFCチャンピオンズリーグ2009の出場権を獲得した。また、8月には1993年のJリーグ開幕以来1度も勝ち星を挙げることができなかったカシマスタジアムでの鹿島戦で初勝利を収めた(後述#鬼門のカシマスタジアムを参照)。
- 2009年
- チームスローガン:Never give up for the win. - その先の感動へ-
- チームの活性化を目指してヨンセン、藤田俊哉、大森征之、米山篤志、三木隆司などの主力のベテラン選手を放出し、チームの若返りを図った。そしてユースから昇格した磯村亮太をはじめ6人の新人選手が入団し、札幌からダヴィ、横浜FMから田中隼磨を獲得。更に、前年に新人王を獲得した小川佳純にはストイコビッチ監督の代名詞でもある背番号10が与えられた。また、かつてストイコビッチとともにチームを支えた伊藤裕二と飯島寿久がトップチームのコーチに昇格した。前年の世界金融危機の影響で親会社のトヨタ自動車が経営不振による赤字に転落したがチームへの影響は薄く、前述のベテラン組の放出を除いてほとんどの選手が残留した。
- 3月22日の第3節清水戦で3-1と勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日まででダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレイヤーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、ストイコビッチ監督の目指すサイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた[14]。外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な外国人選手を調査し、6月21日にオーストラリア代表のFWジョシュア・ケネディの獲得を発表した[15]。玉田やダヴィとの共存でチームの得点力不足改善が期待された[16]が、7月22日にダヴィのウム・サラルSC移籍が決定した[17]。その後、7月29日には空いた外国人枠でモンテネグロ代表のブルザノヴィッチを獲得[18]、次いで8月3日には層の薄い左サイドの補強として元日本代表の三都主アレサンドロを獲得[19]するなど精力的な補強を行った。
- 守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田と増川の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のJ1 G大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内と佐藤が起用されるに事態に至った[20]。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、増川とバヤリツァをインフルエンザと怪我で欠いた後半戦の10月25日の磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した[21]。
- リーグ戦では万全なコンディションで挑めない状況から中位に甘んじる一方、現在の方式となってから初の出場となったAFCチャンピオンズリーグはグループリーグを1位通過し、準々決勝で川崎に勝利して日本勢としては唯一のベスト4進出となった。しかし、準決勝でアル・イテハド(サウジアラビア)に敗れ、3年連続の日本勢決勝進出はならなかった。天皇杯では10年ぶりに決勝まで駒を進めたが、G大阪に破れ準優勝に終わった。
- 2010年
- チームスローガン:Never give up for the win. - さらなる高みへ -
- ストイコビッチがクラブ史上最長となる「監督として3シーズン目」として迎えた。
- バヤリツァ、広野耕一、山口慶、新川織部の4選手と契約を更新せず、吉田麻也が完全移籍、平木良樹、佐藤将也、津田知宏が期限付きで移籍した。補強は金崎夢生、田中マルクス闘莉王、千代反田充を完全移籍で、ダニルソンを期限付き移籍で獲得、新井辰也が入団し、大型補強に成功した。
- 開幕戦は天皇杯で大敗したG大阪に勝利したが、前述の新戦力がチームに馴染むのに時間が掛かり、後述のナビスコ杯未勝利など、リーグ戦でもカップ戦でも勝ちきれない試合が多く、いきなり首位になることはなかった。しかしW杯中断後の夏期は猛暑の中、他クラブの勝ち点が伸び悩む中で順当に勝ち星を積み上げ、8月14日の第18節浦和に勝利して単独首位に浮上。シーズン通じて1度も連敗がなく、また敗戦後の次ゲームは全て勝利するなど確実に勝ち点を重ね、11月20日(第31節)に湘南を1-0で破り、Jリーグ18年目にして初のリーグ戦優勝を飾った。一度も首位を明け渡すことなく、最終的には「シーズン23勝」、「勝ち点72」(タイ記録)、2位G大阪との「勝ち点差10」など1シーズン制移行後最高の記録を残し、圧勝でリーグ戦を終えた。なお、2005年の1シーズン制移行後、1996年に1年だけ1シーズン制が実施された時を含め、最終節を待たずして優勝が決定したのはこれが初めて。
- ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。個人タイトルとしては最優秀監督賞にストイコビッチが選出され、ケネディが2003年のウェズレイ以来の得点王、楢崎が1995年のストイコビッチ以来のMVPを獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目[22]で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初。また、楢崎はGKとして初めてMVPに選出された[22]。記録ずくめの優勝であったが実は11月20日初優勝決定という記念すべき日に、公式ホームページの試合結果において自チームと相手チームのチームロゴマークを入れ違えて表示するという失態を演じている。
- 2011年
- チームスローガン:Strong Believin' - 誇りを胸に -
- マギヌンが退団、佐藤将也、杉本恵太、福島新太が完全移籍、竹内彬、平木良樹、巻佑樹が期限付き移籍で移籍、津田知宏は期限付き移籍期間延長となった。補強は藤本淳吾、永井謙佑、吉田眞紀人、田中輝希が加入、ダニルソンの期限付き移籍期間も延長された。なおブルザノビッチはシーズン途中で退団。
- 2月26日、スーパーカップで鹿島と対戦しPK戦で勝利を収め、1996年以来15年ぶり2度目のスーパーカップ優勝を果たす。その後、東日本大震災の影響によるリーグ戦中断期間中に長谷川徹が期限付き移籍、ユースから佐藤和樹が2種登録された。
- 2年ぶりに出場したAFCチャンピオンズリーグ2011は、ラウンド16で韓国の水原に敗れベスト16で敗退。リーグ戦では前年より継続して「連敗なし」となったが、怪我や過密日程の疲労による主力選手の離脱や、その主力とサブの実力に大きな差があったことから、序盤は勝ちきれない試合が多かった。J1第29節10月15日のG大阪戦から最終節のアルビレックス新潟戦まで6連勝するも、最終的には柏に勝ち点1及ばず2位に終わった。個人タイトルではケネディが19得点を挙げ2年連続の得点王となった。
- 2012年
- チームスローガン:Strong Believin' - 誓いを胸に、再び。 -
- 千代反田充、久場光、平木良樹、橋本晃司、津田知宏、長谷川徹、竹内彬、松尾元太、花井聖が完全移籍。補強は石櫃洋祐、ダニエル、田鍋陵太、水野泰輔、高原幹が加入した他、巻佑樹が期限付き移籍から復帰しダニルソンは完全移籍となった。
エピソード
カップ戦の苦手さ
ナビスコ杯では2004年のベスト4から3年連続グループリーグ敗退を喫しており、2007年に至ってはナビスコ杯参加チームで唯一未勝利のままで敗退している。また、オリジナル10の中で3大タイトルなしの広島を除くと名古屋のみがナビスコ杯の獲得経験がない。
天皇杯に関しては、2度の優勝経験がありながら1999年シーズン優勝以降からの成績がほとんどベスト16以下であり、ベスト8が1回しかない。2003~2007年は5年連続でベスト16で敗退し、準々決勝進出を逃している。
ただし、ストイコビッチが監督に就任した2008年は、浦和など強豪と同じグループでありながら最高の成績で予選を通過し、2004年以来のベスト4に入った。翌2009年は初出場のACLで日本勢最高成績となる4強、天皇杯でも10年振りの決勝進出を果たしており、ストイコビッチ政権下ではカップ戦での弱さは払拭されつつある。しかし、出場機会の乏しい若手中心で挑んだ2010年のナビスコ杯は1勝もできずに敗退している。
鬼門のカシマスタジアム
1993年のJリーグ開幕戦、カシマスタジアムで鹿島アントラーズと対戦し、ジーコにハットトリックを決められるなど0-5で大敗して以来、2008年までカシマスタジアムでは天皇杯、ナビスコ杯含めて22連敗(0勝0分22敗)という勝利どころか引き分けすら1つもないというジンクスがあった。2008年8月23日に念願のカシマスタジアムでの初勝利を挙げ、2009年も4-1で勝利しているが、2010年は優勝争いの最中に完敗しており未だに苦手意識は高い(この年は鹿島にだけ勝利なし)。
成績
観客動員記録
J1
年度 | 試合 | 総数 | 1試合 平均 |
平均入場者/総入場者 | |
名 古 屋 |
1993 | 18 | 357,451 | 19,858 | |
1994 | 22 | 480,518 | 21,842 | ||
1995 | 26 | 558,032 | 21,463 | ||
1996 | 15 | 325,482 | 21,699 | ||
1997 | 16 | 236,001 | 14,750 | ||
1998 | 17 | 237,889 | 13,993 | ||
1999 | 15 | 220,321 | 14,688 | ||
2000 | 15 | 211,716 | 14,114 | ||
名 古 屋 |
2001 | 15 | 254,607 | 16,974 | |
2002 | 15 | 244,848 | 16,323 | ||
2003 | 15 | 251,523 | 16,768 | ||
2004 | 15 | 235,686 | 15,712 | ||
2005 | 17 | 225,896 | 13,288 | ||
2006 | 17 | 253,702 | 14,924 | ||
2007 | 17 | 264,939 | 15,585 | ||
2008 | 17 | 281,442 | 16,555 | ||
2009 | 17 | 270,773 | 15,928 | ||
2010 | 17 | 339,638 | 19,979 |
| |
2011 | 17 | 284,590 | 16,741 |
| |
2012 | 17 | ? | ? |
|
- リーグ戦のみ(関連:日本プロサッカーリーグ#試合観客動員)。
タイトル
国内タイトル
- Jリーグ ディビジョン1:1回
- サントリーカップ・96チャンピオンズファイナル:1回
- 1996年
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回
- スーパーカップ:2回
- 1996年、2011年
国際タイトル
- サンワバンクカップ:1回
- 1997年
個人別
年度 | 最優秀選手(MVP) | ベストイレブン | 得点王 | 新人王 | 最優秀監督 |
---|---|---|---|---|---|
1993年から1994年は、受賞者無し。 | |||||
1995年 | ストイコビッチ | ストイコビッチ | - | - | ベンゲル |
1996年 | - | ストイコビッチ | - | - | - |
1997年から1998年は、受賞者無し。 | |||||
1999年 | - | ストイコビッチ | - | - | - |
2000年から2002年は、受賞者無し。 | |||||
2003年 | - | 楢崎正剛 ウェズレイ |
ウェズレイ | - | - |
2004年 | - | マルケス | - | - | - |
2005年から2007年は、受賞者無し。 | |||||
2008年 | - | 楢崎正剛 小川佳純 |
- | 小川佳純 | - |
2009年は、受賞者無し。 | |||||
2010年 | 楢崎正剛 | 楢崎正剛 闘莉王 増川隆洋 ダニルソン ケネディ |
ケネディ | - | ストイコビッチ |
2011年 | - | 楢崎正剛 闘莉王 藤本淳吾 ケネディ |
ケネディ | - | - |
ユニフォーム
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| ||||||||||||||||||||||||
|
チームカラー
- 赤
- ホーム用は2006年まではパンツも赤だったが、2007年以降は黒としている。
- 2001‐2002年には3rdユニフォームを採用していた。(シャツ、パンツ、ストッキングに黒を採用。)
- 1992‐1994年のカップ戦用のユニフォームの配色は1stがシャツ・赤、パンツ・白、ストッキング・赤で、2ndがシャツ・白、パンツ・赤、ストッキング・白だった。
エンブレム
- 1992年-1993年 グランパスくんをそのままエンブレムとして採用(リーグ戦用ユニホーム。カップ戦ユニホームは1994年も使用)。
- 1994年-1997年 リーグ戦用ユニホームはチームフラッグをモチーフにした円形のエンブレムを採用。カップ戦様ユニホーム(1995年-)にはエンブレムはなく、胸の「Grampus」ロゴがエンブレム代わり。
- 1998年 この年からリーグ戦・カップ戦でユニホームが統一。エンブレムはなし。
- 1999年-現在 楯と王冠をモチーフに「NGE(Nagoya Grampus Eight)」とグランパスくんを盛り込んだものを採用。
ユニフォームの星
2011年より、2010年リーグ戦および過去にさかのぼって天皇杯(1996年、2000年)の優勝を表す、3つのチャンピオン・スターマークをエンブレム上部に表記。それぞれの星には、タイトルと年号を表す「EC 96」「EC 00」「J1 10」が刻印されている。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | トヨタ自動車 | TOYOTA | 2001年〜 | 1992年〜2000年までは袖 |
背中 | アイシン精機 | AISIN | 2011年〜 | 二段組で下部にコーポレート・ステートメント「One Team,Best Future」のロゴが入る。 |
袖 | 豊田通商 | 豊田通商 | 2012年〜 | |
パンツ | トヨタファイナンス | TS3 | 2004年〜 |
トレーニングウェアスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | トヨタホーム | トヨタホーム | 2012年- | |
右袖 | スリーボンド | ThreeBond | 2011年- | ノースリーブシャツの場合は右胸 |
かつてはUCC上島珈琲、明治乳業がトレーニングウェア胸スポンサーであった。
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1992 | - | TOYOTA | - | - | lecoq |
1993 | Mizuno/lecoq | ||||
1994 | |||||
1995 | |||||
1996 | |||||
1997 | UMBRO/lecoq | ||||
1998 | lecoq | ||||
1999 | |||||
2000 | |||||
2001 | TOYOTA | HISAGO | |||
2002 | TOYOTA L&F | ||||
2003 | DENSO | ||||
2004 | TS3 | ||||
2005 | TOYOTA L&F | ||||
2006 | 豊田織機 | ||||
2007 | DENSO | ||||
2008 | 中部電力 | ||||
2009 | 豊田織機 | ||||
2010 | |||||
2011 | AISIN | デサント(lecoq) | |||
2012 | 豊田通商 |
※1:1992年~2000年の袖「TOYOTA」はロゴは使用せず、シンボルマークのみを採用。
※2:2001年に「TOYOTA」のロゴを入れるまで、胸部分にはグランパスのチームロゴを入れていた。
※3:「TOYOTA L&F」は「豊田織機」(豊田自動織機)の社内カンパニーである。
※4:2009年のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示。
※5:2011年以降のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示し、ユニホームデザインや背番号のフォントなど、Jリーグ用と異なるデザインを使用。
下部組織
近年下部組織にも力を入れ吉田麻也などを輩出している。2006年と2008年の高円宮杯U-18で準優勝した。
出身選手
主な獲得タイトル
U-18
- 1回: 2011年
- 1回: 2008年
U-15
- 1回: 2008年
- 2回: 1999年, 2010年
U-12
- 1回: 2009年
クラブ情報
マスコットキャラクター
マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス(Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。
グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。
キャンプ地
春季キャンプは2011年より大分県別府市の「実相寺サッカー競技場」、夏季キャンプは岐阜県飛騨市古川町の「ふれあい広場グラウンド」を使用している。
スポンサー
出資会社
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|
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名古屋グランパス後援会
- 東海3県の知事・サッカー協会、名古屋市長・サッカー協会、出資会社を核とし、後援会事務局、法人会員631社(2009年11月時点)からなるチームの支援組織。法人会員にはトヨタ自動車の下請け企業・全国各地の販売店・主要在名民放局(愛知国際放送を除く。愛知県外では三重テレビ放送も法人会員)といった企業・団体等も入会している。
- 毎年シーズン前に名古屋市内のホテルで、スポンサー・後援会法人会員・監督・選手が出席するパーティー形式のイベントが行われている。
歴代スタジアムDJ
- 1994年~1998年 堀田和則
- 1998年~2006年 ケン・マスイ
- 2007年~ ヨースケ(YO!YO!YOSUKE)
メディア
試合中継
- テレビ放送
- 試合中継を民放で放送する際、トヨタ自動車とともにスポンサーとなるトヨタグループ9社を紹介する共通CMを放送する(一部応援番組などでも放送されている)。
- Jリーグ黎明期に沖縄県で開催されていた地元放送局・沖縄テレビ主催によるおきぎんカップ(名古屋と沖縄県のサッカークラブとのプレシーズンマッチ)の試合放映は、東海テレビと中京テレビの両局が隔年交代で放送していた(試合中継は沖縄テレビ制作のを放送)。
- テレビ・ラジオともに、並びは試合中継数が多い順。
- NHK
- テレビ(ローカル放送・BS含む)・ラジオ。近年は地上波テレビ放送(ローカル)にてJリーグホーム開幕戦の試合を生中継している。
- 名古屋地区の民放テレビ局では唯一、2007年まで年1試合程度のリーグ戦の生中継を続けていたが、2008年以降は後述にも記載するとおりFC岐阜のスポンサーになった事[24]から、録画中継に切り替わった。しかし依然として在名テレビ局の中では試合中継数が一番多い。この事も関連してか、2008年以降、両チームのJリーグ開幕前のプレシーズンマッチを主催し、録画中継を行っている。キー局のテレビ朝日がAFCチャンピオンズリーグ・放送権を保持している事から、グランパス出場時にはホーム戦を中心に試合中継(基本的には録画中継が主となるが、生中継を行う場合もある)を行う。
- 東海テレビ
- 通常のリーグ戦に加え、ナビスコ杯のホーム戦も不定期で中継する(キー局のフジテレビが放映権を持っているため)。
- 中京テレビ
- 2008年度よりホームゲームに限り、スカパー!向けの試合中継制作を担当(その一方で、地上波での試合中継は減っている)。スカパー!の解説はグランパスOBの藤川久孝などが担当。東海テレビの解説者でもあった沢入重雄も担当していた。
- ラジオはネットワークの関係で放送権を持っていないが、テレビのみ年に1回程度の録画中継がある。
- Jリーグの人気が全盛期の頃は、ホーム戦のナイトゲームを生中継したり、ファン感謝デーの模様をまとめた特別番組を放送[25]するなど、一時は中日ドラゴンズ戦中継数を上回っていたが、中継数を徐々に減らし、2005年の1試合の録画放送を最後に、在名テレビ局では唯一試合中継がない。
- ラジオ放送
- 2009年4月12日の豊田スタジアムで行われた浦和戦からホーム戦で不定期ながら、インターネットのストリーミング放送をラジオと同時中継を行うことになった(東海ラジオ制作分に関しては地上波が生中継を行っている場合以外はインターネットのみ放送)。
- 2010年以降は瑞穂での試合を東海ラジオの制作、豊田での試合をエフエムとよたの制作でホーム戦全試合をインターネットストリーミング放送で生中継している。
- エフエムとよた
- 2007年10月21日のFC東京戦より実況中継を開始。2008年以降は「GRAMPUS BEAT」としてホーム戦を全試合中継の予定。2008年は優勝争いをしていたこともあり、同年のシーズン最終戦は、名古屋から遠く離れた大分で行われたが、現地にスタッフを派遣し生中継を行った。2010年の優勝を決めた試合でも、平塚競技場に現地スタッフを派遣し生放送を行っている。解説にグランパスS.A.の関谷憲生、実況はフリーアナウンサーが担当。
- 東海ラジオ ワイルドサッカーとして生中継。Jリーグや国際試合の放送権を持つニッポン放送系列のため過去に多数の放送実績があるが、近年はホーム開幕戦を毎年放送する程度。2010年の優勝を決めた試合では、急遽生中継を平塚から行った。
応援番組
- 以下の並びは放送日(又は初回放送分)を月曜日起点とする。
- ★=スカパー!、スカチャンで放送されているJリーグクラブ応援番組セレクション参加番組。
- テレビ愛知は2010年3月末まで応援番組を放送していたが、現在は放送がない(ローカルニュース枠で不定期でグランパス関連の話題を扱うほか、グランパスの試合取材は継続されている)。
- GO GO グランパス (NHK名古屋・ほっとイブニングの毎週月曜日)
- 週刊!サカラジ (東海ラジオ。チア・スポ内(月曜日19時~19時20分頃)。番組構成上の都合により、番組全てがグランパスでは無い)
- ★ グランパスSTADIUM! (豊田スタジアムのお膝元であるひまわりネットワークの制作・放送。ひまわりネットワークのほか、東海ケーブルチャンネルや愛知県内などの一部ケーブルテレビでも放送されている)
- YO!YO!GRAMPUS (ZIP-FM・FRI. MASTER内で毎週金曜日19時37分~19時42分。ちなみに番組パーソナリティーは現在のスタジアムDJであるYO!YO!YOSUKE)
- pluspo(東海テレビ。土曜日夕方)
- スポケン! (名古屋テレビ(メ~テレ)。土曜日深夜)
- ★ スポーツスタジアム (中京テレビ。日曜日17時~17時30分。後半部分がグランパス枠となっている)
- グランパスTVプラス (CBCテレビ。日曜日深夜)
その他
- 中日新聞社出版開発局発行の月刊情報誌。定価・650円(以前は400円だった)。
- オフィシャルサイト
- 2011年1月31日までは長らく楽天市場内に開設していたが、同年2月3日より、球団運営の通販サイトとなった。常設のグッズショップ閉鎖後は、ホームスタジアム以外でグッズが購入できる唯一の手段となっている。商品の宅配はヤマト運輸または佐川急便(e-コレクト)が担当。
- グランパスのスタッフが綴る不定期更新のブログ。
脚注
- ^ 2007年5月15日付中日新聞
- ^ 公式HP
- ^ a b c 夕刊フジ編集委員・久保武司 (2010年11月22日). “お大尽トヨタ!世界制覇計画 名古屋Vで10億円の大型補強”. 夕刊フジ 2011年1月11日閲覧。
- ^ a b c 木本邦彦「グラ球団草創期を西垣成美さん語る」中日スポーツ、2010年11月26日付、5面
- ^ a b 富森揚介「ザ・フェース東海 小倉隆史」朝日新聞、1993年12月31日
- ^ 「リネカー国内初ゴール」『中日新聞』1993年5月3日付朝刊12版、16面。
- ^ 「誤算の背景1 守備未整備で自滅」中日新聞、1994年11月20日付朝刊12版、22面。
- ^ サッカーマガジンJリーグ名古屋グランパス優勝号 2011年 1/1号、p.64。
- ^ a b c 杉山茂樹『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』 (光文社新書)
- ^ 「小倉重傷 右ひざ裏じん帯断裂」 中日新聞、1996年2月6日付朝刊12版、16面。
- ^ 「グランパス逆転勝ち ワシントンに3-1」 中日新聞、1997年3月3日付朝刊12版、24面。
- ^ 「不振グランパス激震 カルロス体制維持へ大ナタ」 中日新聞、2000年7月5日付朝刊12版、25面。
- ^ 「3選手を放出通告」 中日新聞、2000年7月8日付朝刊12版、29面。
- ^ 中日スポーツ (2009年6月16日). “ケネディ獲得へ 豪州代表194センチFW”. 2009年6月22日閲覧。
- ^ 名古屋グランパス 公式サイト (2009年6月21日). “ジョシュア・ケネディ選手、新加入のお知らせ”. 2009年6月22日閲覧。
- ^ スポーチ報知 (2009年7月4日). “ダヴィにオファー…名古屋GM認めた”. 2009年7月13日閲覧。
- ^ 名古屋グランパス (2009年7月22日). “ダヴィ選手、ウム・サラル(カタール)へ完全移籍のお知らせ”. 2009年8月4日閲覧。
- ^ 名古屋グランパス (2009年7月29日). “ブルザノビッチ選手、新加入のお知らせ”. 2009年8月4日閲覧。
- ^ 名古屋グランパス (2009年8月3日). “三都主アレサンドロ選手、新加入のお知らせ”. 2009年8月4日閲覧。
- ^ J's GOAL (2009年7月5日). “【J1:第16節 名古屋 vs G大阪】ストイコビッチ監督(名古屋)記者会見コメント”. 2009年8月4日閲覧。
- ^ nikkannsports.com (2009年10月26日). “名古屋19分間で3発同点/J1”. 2009年11月5日閲覧。
- ^ a b 毎日jp (2010年12月6日). “<Jリーグ>MVPは名古屋の楢崎に GKで初受賞”. 2010年12月6日閲覧。
- ^ 実際の試合中継制作のほか、中京テレビのアナウンサーが実況を担当しているが、稀にフリーアナウンサーが実況を担当する試合がある。
- ^ これとともに、スカパー!用の中継を地元放送局の岐阜放送と交代で担当している
- ^ ファン感謝デーの放送は、試合中継が無くなった後も行われていた。
- ^ 2010年1月まではソネットエンタテインメントが運営していたが、同年2月1日よりグランパス自身が運営している。
関連項目
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 名古屋オーシャンズ(名古屋のプロフットサルチーム)
- 名岐ダービー
- 東海チャンピオンシップ