楢崎正剛
| 本来の表記は「楢﨑正剛」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | ナラ | ||||||
| カタカナ | ナラザキ セイゴウ | ||||||
| ラテン文字 | NARAZAKI Seigo | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1976年4月15日(35歳) | ||||||
| 出身地 | 奈良県香芝市 | ||||||
| 身長 | 187cm | ||||||
| 体重 | 80kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | 名古屋グランパスエイト | ||||||
| ポジション | GK | ||||||
| 背番号 | 1 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 2. 2010年9月7日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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楢﨑 正剛(ならざき せいごう、1976年4月15日 - )は、日本のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。名古屋グランパスエイト所属。元日本代表でFIFAワールドカップには4大会連続で出場していた。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] アマチュア
奈良県香芝市立三和小学校、香芝市立香芝中学校卒業後に奈良育英高校に入学し全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4に進出した。同期のチームメイトにはフットサル日本代表の藤井健太がいる。
[編集] クラブ
奈良育英高校卒業後1995年に横浜フリューゲルスに入団し、長期出場停止処分を受けた森敦彦に代わって新人ながら正GKとしてプレーした。1996年シーズンは開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立し、クラブとしても開幕8連勝を果たすなど優勝争いに大きく貢献した(最終順位は3位)。同年の活躍によりJリーグベストイレブンに初選出されている。1998年シーズン限りでのクラブ消滅が決まった後、元日の天皇杯優勝で有終の美を飾り、1999年に名古屋グランパスエイトへと移籍した。この時にGKコーチのマザロッピも名古屋に移籍している。名古屋でもそれまで正GKを務めていた伊藤裕二からポジションを奪い、2000年からは現在(2012年)に至るまで12年連続でキャプテンを務めるなどチームの中心選手として活躍している。一時スペインのアトレティコ・マドリードへの移籍話が浮上したが、実現には至らなかった。2009年7月25日の対浦和レッズ戦(埼玉スタジアム2002)にて、史上初の「Jリーグ公式戦100完封」を達成。
[編集] 日本代表
日本代表には1996年に初選出され、1998年2月15日のオーストラリア代表戦で国際Aマッチ初出場を果たした。日本のワールドカップ初出場となった1998年フランス大会メンバーに選出されるが、この時は川口能活の控えに回ったため出場機会は無かった。
フランス大会後、代表監督に就任したフィリップ・トルシエの下で出場機会を増やし、2002年日韓大会では川口に代わって正GKを務め日本代表史上ワールドカップでの初勝ち点、初勝利(完封勝利)、初の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。また、この間2000年シドニーオリンピック代表に森岡隆三、三浦淳宏と共にオーバーエイジ枠で選出され全試合に出場している。
日韓大会後のジーコの代表監督就任後も、引き続き代表の正GKを務めていたが、怪我で出場できなかったアジアカップにおいて楢﨑の代わりに川口が活躍し大会後も徐々に出場機会が減った。2006年ドイツ大会では控えに回った。
ドイツ大会後に代表監督に就任したイビチャ・オシムからは暫く招集を見送られていたが、クラブでの好調さを評価され2007年6月のキリンカップのメンバーに招集され、モンテネグロ戦で24試合ぶりの先発出場を果たした。2008年のワールドカップアジア3次予選途中からは川口の不調により、正GKは楢﨑に交代となり安定感を見せて、約5年振りとなる代表レギュラーとしてプレーした。しかし、2010年南アフリカ大会直前の練習試合においては、高地適用で遅れたために[1]スタメンを川島永嗣が務め、本大会でも出場機会は得られず、正GKとして出場出来たのは2002年の日韓大会のみであった。しかし楢崎本人は日本に帰国してから、エル・ゴラッソの取材に「高山病はガセネタ。毎日練習していたし、高地にも普通に順化できた」と話している[2]。
2010年9月7日、グアテマラ代表戦(長居スタジアム)に先発フル出場。その後の記者会見で日本代表からの引退を表明した[3]。
[編集] 評価
シドニーオリンピック準々決勝のアメリカ戦で中澤佑二と衝突、流血しながら最後までプレーを続けた(後の検査で、頭蓋骨骨折と診断される)がPK戦で敗れる。決勝トーナメント進出に貢献。これには後日談があり、アテネ五輪の日本代表監督を務めた山本昌邦が五輪代表のキャンプでシドニーの同じ会場を訪れた際、選手たちに「あれが楢崎が血を流してまで守ろうとしたゴールだ。しっかり目に焼きつけておくように」と語った逸話がある。
同世代の川口能活(横浜M/横浜FM→磐田)とは対照的なプレースタイルで、かつてマスコミは、積極的に飛び出す勇猛果敢な川口を「動」、冷静沈着な楢﨑を「静」のGKと、頻繁に表現していた。
2010年、Jリーグとしては史上初となるGKでのMVP(Jリーグアウォーズ・ベストイレブンも同時に表彰)を受賞した。優勝が決定した湘南戦で、湘南監督の反町康治が「危ないところでも一番前と一番後ろの力強さというか巧さというか、つまりGKとCFかもしれないが、それが年間を通じて好パフォーマンスだったことがそれを物語っていると思います」と年間を通して自分のチームと比較してコメントした。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 香芝市立三和小学校
- 香芝市立香芝中学校
- 1992年 - 1994年 奈良育英高校
プロ経歴
- 1995年 - 1998年 横浜フリューゲルス
- 1999年 - 現在 名古屋グランパスエイト
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 横浜F | - | J | 23 | 0 | - | 2 | 0 | 25 | 0 | |
| 1996 | 23 | 0 | 14 | 0 | 2 | 0 | 39 | 0 | |||
| 1997 | 1 | 24 | 0 | 7 | 0 | 5 | 0 | 36 | 0 | ||
| 1998 | 34 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 39 | 0 | |||
| 1999 | 名古屋 | J1 | 25 | 0 | 4 | 0 | 5 | 0 | 34 | 0 | |
| 2000 | 30 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | |||
| 2001 | 28 | 0 | 6 | 0 | 1 | 0 | 35 | 0 | |||
| 2002 | 30 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 33 | 0 | |||
| 2003 | 28 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 36 | 0 | |||
| 2004 | 26 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 28 | 0 | |||
| 2005 | 32 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 33 | 0 | |||
| 2006 | 24 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 28 | 0 | |||
| 2007 | 28 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | |||
| 2008 | 30 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 33 | 0 | |||
| 2009 | 26 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 | |||
| 2010 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 34 | 0 | |||
| 2011 | 24 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 30 | 0 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 469 | 0 | 49 | 0 | 42 | 0 | 570 | 0 | |
| 総通算 | 469 | 0 | 49 | 0 | 42 | 0 | 570 | 0 | |||
その他の公式戦
- 2000年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2009 | 名古屋 | 1 | 6 | 0 |
| 2011 | 6 | 0 | ||
| 2012 | ||||
| 通算 | AFC | 12 | 0 | |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1996年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 1998年 FIFAワールドカップ・フランス大会 (出場なし)
- 1999年 コパ・アメリカ (1次リーグ敗退、3試合中2試合出場)
- 2000年 シドニーオリンピック (オーバーエイジ枠で全試合出場)
- 2002年 FIFAワールドカップ・日韓大会 (全試合出場)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ (全試合出場)
- 2003年 東アジアサッカー選手権 (全試合出場)
- 2004年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 2006年 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 (出場なし)
- 2007年 AFCアジアカップ (出場なし)
- 2010年 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会 (出場なし)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 77試合 0得点 (1998 - 2010)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1998 | 2 | 0 |
| 1999 | 3 | 0 |
| 2000 | 9 | 0 |
| 2001 | 1 | 0 |
| 2002 | 10 | 0 |
| 2003 | 12 | 0 |
| 2004 | 9 | 0 |
| 2005 | 4 | 0 |
| 2006 | 0 | 0 |
| 2007 | 1 | 0 |
| 2008 | 12 | 0 |
| 2009 | 6 | 0 |
| 2010 | 8 | 0 |
| 通算 | 77 | 0 |
[編集] 主な受賞歴
- 横浜フリューゲルス
- 1998年 天皇杯優勝
- 名古屋グランパスエイト
- 1999年 天皇杯優勝
- 2010年 Jリーグ優勝
[編集] 個人
- Jリーグ最優秀選手賞 (2010年)
- Jリーグベストイレブン (1996年、1998年、 2003年、2008年、2010年、2011年)
- Jリーグ優秀選手賞 (1997年、1998年、1999年、2000年、2002年、2003年、2004年、2008年、2010年、2011年)
[編集] 出演
[編集] CM
[編集] 映画
- 名探偵コナン 11人目のストライカー (2012年)
[編集] エピソード・その他
- 横浜フリューゲルスへの思い入れが強い。ライバルの川口能活が当時マリノスにいたこともあり、フリューゲルス合併後に統合チーム(F・マリノス)へ所属するという見方はほとんどなかった。2008年の『週刊サッカーマガジン』でのインタビューでは、名古屋から移籍すると「前所属・横浜フリューゲルス」が消えるのが嫌だという発言をしている。
- 2004年、名古屋グランパスエイトに川島永嗣が移籍した。川島は当時J2の大宮アルディージャで正GKを務め、前年のFIFAワールドユース選手権では日本をベスト8まで導く活躍をしていたが、楢﨑は安定した成績を収め、レギュラーの座を譲らなかった。名古屋では楢﨑の負傷時、あるいは代表招集時の代役にとどまった川島は2007年に川崎フロンターレへ移籍したが、同年からは日本代表で再び楢﨑と同じチームに所属している。
- 顎がしゃくれているせいか、森岡隆三に、「ピーター・フォンダに似てる」と言われた事がある。そんな森岡も若干あごが出ている。
- 高校時代、どんな猛練習にも耐えて倒れても起き上がって来たことから、付いたあだ名がフランケンシュタイン。
- 2010年6月3日号の週刊文春で、阿川佐和子との対談記事の中で、シーズンオフの契約更改で、提示された年俸に対して、「高過ぎる」と辞退した事があったとのこと。
- 二男の父(長男 2003年12月生、次男 2006年11月生)である。
- 憧れの選手は、元デンマーク代表のピーター・シュマイケル。
- やべっちFCでキャプテン翼でグランパスに所属する日本代表GK若島津からお祝いを貰っている。
- 川島や闘莉王や本田を始めとする選手から兄貴分として慕われている。特に闘莉王の楢崎に対する思いは深い。楢﨑のMVP受賞の際、自分のことのように喜んだ。『ナラさんにしても、シュンさんにしても僕の中でナンバーワンの選手。まだまだ代表を引っ張っていける。ナラさんは、MVPをきっかけにもう1度代表でやりたいと思ってくれるといいんですけどね。』と言葉を残した。
- 名古屋の歴代監督からの信頼は相当なもので11年連続でキャプテンを務めている。
- ストイコビッチ監督から絶大な信頼を受け、同監督からは日本でベストのGKと評されている。
- マギヌンから『ケション』(ポルトガル語で顎)といじられていた。
- チーム最年長ながら若手の選手との関係も良い。若手選手によく顎を触られてる。小川とは自主トレを共にするなど厚い信頼を置かれている。本人も、若手が先輩だと思って扱ってくれないと嘆いていた。
- 代表では中澤や川島と仲が良かった。
- 大会直前に自身から先発の座を奪った川島に大会期間中に必死にアドバイスする姿に岡田監督からプロの鑑と評された。
- 代表を引退しながらも、秋田豊やストイコビッチなど楢﨑をナンバーワンと評価する人が未だに多い。
- 2011年のゼロックスス-パー杯で鹿島のアレックスのPKをキャッチする離れ技をみせた。他にも、後半終了間際の野沢のシュート、PK戦でもアレックス以外にも岩政、新井場のシュートも止めた。野沢に『あんな所から手が出てくると思わなかった。』岩政には『ナラさんの凄さは代表で知っていた。蹴る前から気持ちで負けていたのかもしれない。』と、言わしめた。
- 川口や川島のような派手なセーブが少ないことで有名。普通のGKがセービングするようなシュートを楢﨑は正面あるいは体の近くで処理をする。これは高校時代の監督の教えが影響している。西川や川島は楢﨑が正面で簡単に処理するシュートもGK目線から見れば凄いと言っている。楢﨑自身も自身の著書でスーパーセーブには興味ないと公言している。またメディア等に大げさに取り上げられるのも居心地が悪いと言っている。
- 静の楢﨑と言われていたように、クールなイメージが強いが、優勝特番ではよく喋っていた。2011年のJリーグアウォーズでは、負傷で欠席したジョシュア・ケネディの代理として得点王のスピーチを行い「得点王の“あくまで代理の”楢﨑です。」「得点王とは対局のポジションである私が、(ケネディの)コメントを紹介します。」「((笑)を字面通りに)かっこわらい。」「(カタカナ発音で)サンキューベリーマッチ。」などの発言で場内の笑いを誘った。
- 愛称は『ナラ』だが藤田やライバル川口、一部のサポーターからは『正剛』と呼ばれている。
[編集] 川口能活との関係
代表の同僚である川口能活とは、メディアから『動』の川口『静』の楢﨑と言われるなど日本代表守護神の座を激しく争った。あまりのライバル心からお互い練習中に話すことは一切なかった。しかし、年を重ねるごとに関係も軟化していって今では互いに認め合うまでになった。
[編集] 関連項目
- 横浜フリューゲルスの選手一覧
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
[編集] 脚注
- ^ 岡田監督、戦法変える! 岡崎1トップ デイリースポーツ
- ^ 楢崎とケネディが揃って「バッサリ」合流 エル・ゴラッソ 2010年7月10日閲覧
- ^ 楢崎が代表引退を表明 スポーツナビ 2010年9月7日閲覧
[編集] 著書
- 「失点 取り返せないミスの後で」2010年6月4日発売 幻冬舎
[編集] 外部リンク
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