片山右京

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片山 右京
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県相模原市
生年月日 (1963-05-29) 1963年5月29日(61歳)
F1での経歴
活動時期 1992 - 1997
所属チーム '92 ラルース
'93-'96 ティレル
'97 ミナルディ
出走回数 97(95 starts)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 5
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1992年南アフリカGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1997年ヨーロッパGP
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片山 右京(かたやま うきょう、1963年5月29日 - )は、日本のレーシングドライバー、元F1ドライバー、登山家自転車競技選手。神奈川県相模原市出身(東京都新宿区慶應義塾大学病院で出生したことから「東京都新宿区出身」とすることもある)[1]大阪産業大学工学部客員教授。通称「カミカゼ・ウキョウ」。登山・レーシング活動にはTeamUKYOで参加する。地元・相模原市の名誉観光親善大使を務める。

プロフィール

生い立ち

小学生の頃から、自転車や登山にいそしむ。中学・高校は、日本大学第三中学・高等学校に進学。陸上部に入部し、長距離選手として活躍。バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。ちなみに日大三高で福王昭仁(現読売ジャイアンツフロント)と落語家立川志らくは同期生。

レースデビュー

筑波サーキット前のレースガレージで寝泊りしながら、パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年FJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残す。

「カミカゼ・ウキョウ」

1985年には全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す。またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。首席での卒業のため、本来であればエルフスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマスがスカラシップを獲得した。

1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京 死亡」の誤報が流れたこともあった。その恐いもの知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた。

全日本F3000時代

1988年

1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。この年は、アパレルメーカーの「BA-TSU」からの資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二足のわらじを履くこととなり苦戦を強いられたが、シーズンランキング11位の成績を残した。またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。

1989年

1989年は、前年の苦労から由良拓也率いる有力チームの1つであるムーンクラフトへ移籍するも、マシンバランスが悪く、戦闘力に欠けるオリジナルシャーシでの参戦であったために結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にもスポット参戦したが、こちらも同様の理由から低迷した。

併せて全日本ツーリングカー選手権にも「出光石油 with Footwork」からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。

1990年

1990年には名門のヒーローズレーシングへ移籍し実力を開花させ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしシーズンランキング5位となるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。なおこの年にF1のブラバムヤマハのテストドライバーに抜擢された。

1991年

1991年には同チームで安定したドライブを見せ、バブル景気の余波を受けて参戦台数が多く上位争いが激しかった中で、ライバルであったロス・チーバー星野一義黒澤琢弥エディ・アーバインらを下してシリーズチャンピオンとなる。

ちなみに、この年の8月に日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟の引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。

F1時代

1992年

全日本F3000チャンピオンとしての実績が認められ、前年まで日本人2人目のF1レギュラードライバーである鈴木亜久里が在籍していた、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦した。なお、F1参戦には日本たばこ(当初は「CABIN」、後に「MILD SEVEN」ブランドで右京がF1を引退するまでスポンサーした)によるバックアップも大きく影響している。

カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。因みにこの年、予備予選落ちも経験している。

  • 出走回数:14戦
  • 獲得ポイント:0
  • 予選最高位:11位(カナダGP)
  • 決勝最高位:9位(ブラジルGP、イタリアGP)

1993年

1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍した。チームメイトは前年からティレルに在籍していたベテランのアンドレア・デ・チェザリスであった。なお、1990年からブラバム・ヤマハのテストドライバーを務めていた。

この年は新車「ティレル・021」の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。なお、開幕から数戦に渡り使用した020Cのモノコックは、1991年中嶋悟が使用したものそのものであり、エンジンもシーズン序盤はヤマハ側の改良が間に合わず、やはり1991年にスクーデリア・イタリアが搭載したジャッドGV・V10そのものであった。

  • 出走回数:16戦
  • 獲得ポイント:0
  • 予選最高位:13位(日本GP)
  • 決勝最高位:10位(ハンガリーGP)

1994年

ティレル021(022カラー)

1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り随所で速さを見せる。開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後ローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。

しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。チームメイトのマーク・ブランデルスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながら入賞圏内には僅差の7位となるなど、健闘を見せたシーズンとなった。

後にこのシーズン印象に残る走りが出来た理由として、実出産時の事故で他界したことと、自らがであると診断された事(後に誤診と判明)を挙げている。

  • 出走回数:16戦
  • 獲得ポイント:5
  • 予選最高位:5位(ドイツGP、ハンガリーGP)
  • 決勝最高位:5位(ブラジルGP、サンマリノGP)

1995年

1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスのTF1テレビで解説をしていたアラン・プロストに言わしめた程に大きな期待を持って迎えたシーズンとなった。

右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランド携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制がサロ寄りになっていったことと、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった開発の迷走もあり低迷した。

ポルトガルGPではスタート直後に宙を舞う大クラッシュを起こし、次のヨーロッパGPはドクターストップがかかり欠場する。これら様々な要因でシーズンを通じて低迷。その原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。

右京は1994年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10kgを10回上げるのと100kgを一回上げるのは同じ」と考えていたらしい。体が一回り大きく見えるほどに筋肉を付けたが、引き替えに敏捷性を奪う結果となった。F1ドライバーに必要なのは300km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。

また、この年からレースエンジニアがサイモン・パーカーからティム・デンシャムに変更に成った事で仕事の進め方の細かい部分での行き違いがありエンジニアとの関係構築に時間が掛かっていた。

  • 出走回数:16戦
  • 獲得ポイント:0
  • 予選最高位:11位(ブラジルGP)
  • 決勝最高位:7位(ドイツGP)

1996年

1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。

また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシ(ティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。その為、右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。

その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切り角にズレが生じてしまう事になった。(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされる事になる。この様に辛いシーズンを送る事になり、ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで飛び出した。

  • 出走回数:16戦
  • 獲得ポイント:0
  • 予選最高位:12位(イギリスGP)
  • 決勝最高位:7位(ハンガリーGP)

1997年

1997年ミナルディに移籍。当時チームオーナーとなっていたベネトンフラビオ・ブリアトーレに、チーム立て直しのためのリーダー的存在感を期待されての起用であった(右京には、来シーズンザウバーや、アロウズと契約間近だったが、どちらも移籍すればナンバー2扱いだったことがネックとなり、合意には至らなかった)。しかし、マシンの性能が決定的に劣ることもあり目立った成績は残せず、右京自身も闘志が薄れ、守りの姿勢を嫌い、この年限りでF1を引退した。引退の決断に関しては、「この年がデビューシーズンとなったチームメイトのヤルノ・トゥルーリの急激な成長に対し、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられたからであった」と後に語っている。

  • 出走回数:17戦
  • 獲得ポイント:0
  • 予選最高位:15位(オーストラリアGP)
  • 決勝最高位:10位(モナコGP、ハンガリーGP)

F1後

ル・マン24時間レース

トヨタTS020 GT-ONE

その後、1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースワークス参戦し、特にトヨタTS020 GT-ONEを駆った1999年の同レースは、優勝車BMW V12 LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたものの、その鬼神のごとき走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。

しかも、バースト時の速度は約204mph(=328km/h)であったが、二車線しか無い公道区間にも関わらずスピンすることなく体勢を立て直すなど、まさに「カミカゼ・ウキョウ」の健在とその実力が未だトップレベルにあることを証明するレースとなった。

その他のカテゴリー

その後は、同じく関係に深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリーアジアクロスカントリーラリーなどにも参戦している。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ・モータースポーツ」を運営している。また、2007年11月からスタートしたスピードカー・シリーズにも参戦している。

2011年グッドスマイルレーシングStudieが運営するチームにTeamUKYOが参加、スポーティングディレクターに就任した[2]。 2012年も継続してスポーティングディレクターを務めると共に、チームが2台体制になったのに伴い4号車の監督を兼務している。

登山

F1現役当時から登山を趣味としており、キリマンジャロなどに登頂。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、あと100mのところで悪天候のために断念している。2006年にはマナスルの登頂に成功した。

2009年12月17日南極大陸ヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、(自身が経営する)片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に遭難した[3]。片山本人は翌18日に自力で下山する途中、静岡県警山岳救助隊員に発見、保護された[4]。翌19日の正午過ぎ6合目付近で男性2人の遺体が発見され、行方不明となっていた社員2名と確認された[5]。同日に記者会見が行われ、片山の事務所は同月25日から予定していた[3]南極行きの中止を発表[6]。片山自身も以降の登山活動を自粛していたが、警察の捜査終了や遺族の理解を得たことで、翌年3月24日より再開した。[7][8]

これを受けて日本山岳協会の理事長尾形好雄は「冬の富士山で一番怖いのは突風であり、風によって滑落、転倒するのが冬富士の遭難の典型」と指摘している[9]。また、「無理はせず、強い風が吹けば引き返すのが当たり前」とも発言している。

自転車

最近では自転車関連の事業も手がけており、ロードレースに選手として参加。2006年のシマノもてぎレース2時間エンデューロ2人クラスで初めてながら4位に入る健闘を見せる。2008年のエタップ・デュ・ツールでも日本人最高位で完走を果たした[10]。他にオリジナルマウンテンバイクの開発や、今中大介インターマックスとも提携している。さらに2005年からは女子自転車競技チーム「チーム・エレファント」の監督も務めた。

2009年より活動を開始した宇都宮ブリッツェンにもドライバー・スタッフ(当初はメンタル・アドバイザー)として参加。2010年のジャパンカップ・クリテリウムにおいて、宇都宮ブリッツェンの選手としてデビュー[11]する。2011年はJBCF(実業団)Jエリートツアーに参戦している。

2012年には宇都宮ブリッツェンを離れ、新たにTeamUKYOとして国際自転車競技連合(UCI)登録のコンチネンタルチームを設立、自ら監督を務めることになった。

その他の活動

また、近年はam/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。現役時代には子供番組「ウゴウゴルーガ」にも出演して人気を博す。2009年9月30日、10月1日、2日に『ライオンのごきげんよう』にゲスト出演。前述の富士山登山中に同僚二人が死亡する遭難事故を起こし、2009年12月18日より全てのTV・ラジオ番組の出演を無期限で休止していたが、翌年3月23日に復帰することを発表した。

エピソード

F1参戦前

  • 『右京』の名前は、慶應義塾大学教授で叔父の片山左京が出産見舞いに来た際に命名されたものである。
  • キャリア初レースとなったFJ1600でのデビュー戦でポールトゥウィンの離れ業を見せた。トップのまま戻ってきた1周目にミラーを見ると誰も写り込んで来ず、レース後のインタビューでは『オレは天才かと思った』とコメントした。
  • 思い立ったら行動するのが信条。フランス行きを決めた時、即座に成田空港に行きエールフランスのカウンターで「すいません、パリまで大人1枚」とチケットを所望し係員を唖然とさせた(予約が必要)。「チケットの取り方とか、全然知らなかったもんで。(鉄道の)駅みたいにすぐ行って買えるもんだと思ってました」とのちに語っている。
  • フランスでのレース活動は資金難に喘いだが、レースで250kmのスピードから壁にクラッシュし、病院のベッドで目を覚ました右京は、入院費の心配から点滴を持って病院から何度も逃げ出し、その度に「検査が終わるまでは」と連れ戻れされた。
  • F1にステップアップを決めた際、全日本F3000で所属していたヒーローズレーシング田中弘監督は、「出来ればもう1年手元に置いて修行させたい。でも、アイツは素直に人の助言聞けるからどこでもやっていけるだろうなぁ…」と語っていた。

F1参戦中

  • ラルースチームと契約した際チームオーナーのジェラール・ラルースから、「1年目はサーキットまでの道を覚えなさい。2年目はサーキットを覚えなさい。勝負は3年目からだ」と言われた。移籍によってチームこそ変わったが、この助言の通り3年目にみごと花を咲かせることになった。
  • 1992年F1デビュー戦後のインタビューで、目を泳がせながら「えらいところに来てしまった…」と思わずつぶやいた。初レースを終え、想像以上の厳しい世界だったと衝撃を受けたとのこと。当初はF1マシンの強烈な横Gに首が耐えられず、コーナリング時にヘルメットがぐらぐらと揺れるシーンが度々テレビ中継に映し出されたため、その様子を古舘伊知郎に「張子の虎走法」「赤べこ走法」と称されていた。
  • デビュー2戦目のメキシコGPでは、酸素濃度の薄い海抜2,200m以上の高地でのレースであった上、食あたりを起こしながらのレースを強いられた。酸欠状態のまま胃の中のモノを吐き続け、最後は胃液と血でレーシングスーツを赤黒く染めながら根性でレースを完走し、フラフラの状態でコクピットから降りてきた。
    • レース後のインタビューでは顔面蒼白のまま、あまりの腹部の痛みに涙を流しながら顔を歪めていたため、心配したジャーナリストがインタビューの中止を進言したが、本人の「このまま帰ったら、(仕事を放り出してしまったことに対し)悔しくて眠れないから」との申し出により敢行することとなった。数秒前まで苦痛に顔を歪めていた右京は、「大変なレースでしたね」のインタビュアーの問い掛けに「そんなに辛そうですか?何ともないですよ」とおどけて見せた。
  • 1992年のカナダGPで、レース終盤まで5位を走行していたが、シフトミスによりリタイアした。インタビューでは「自分のミスです」と右京の人柄を示すコメントをしていた。インタビュアーの川井一仁とのやり取りは以下の通り。
    • 川井「よくがんばりましたね?」
      右京「すみません。自分でシフトミスしてエンジン壊しちゃいました。」
      川井「5番手って知ってました?」
      右京「(頷く)自分のミスだからしょうがないですね。また次がんばります。」
  • この1992年のカナダGPのシフトミスでランボルギーニF1エンジンの最高回転数記録を作った。(レブリミットは14000rpm以下のエンジンで18000rpmを越えた)
  • 1992年のフランスGPで、レース中盤にトップを独走するマンセルに周回遅れにされたが、レース終盤までマンセルの背後を追走。本人は『エストリルコーナーは自分の方が速かった。つまりあのコーナーはその年自分が世界一速かったんだ!』と川井一仁とのインタビューで語った。
    • 「F1に来てナイジェル・マンセルを見た時、自分の走りは間違ってなかった……と思った。アクセル踏んでケツが流れたらカウンターを当てる、これで良いんだと。」
  • 1993年、イギリスのゴーカート場に遊びに来たが、お遊びのはずが、乗り込んだ途端に本気で走り好タイムを連発。すると、カート場のオーナーに少年と勘違いされ「おい若いの。うちと契約しないか」と誘われた。
  • 1994年の快進撃が高く評価され、トップチームであったベネトンフラビオ・ブリアトーレから「来年うちに来ないか」とオファーを受けた。契約寸前まで行ったが、オプション権を行使したティレルとの翌年の契約を破棄するには違約金が発生するがその金額を用意する事が出来なかったことと、スポンサーの日本たばこに留意されたこと(日本たばこ内部では1995年は2チーム4台のサポート体制で承認が取れており、今さらこれを覆すことは出来ないと言われた)で諦めた経緯がある。「あの時ベネトンに行っていたら、ぼくのF1はもっと違っていたかも…」と後に右京自身が語っている。
  • あるインタビューで「ぼくのインタビューより、みんなはマイケル(ミハエル・シューマッハ)とかのほうに行きたいんじゃない?ぼくは付け合せのサラダみたいだから」と語り、さらにコメントを求めた記者には、「まだぼくの話が聞きたいの?よっぽどサラダが好きなんだね」と返した。そのことでシューマッハは「ウキョウのインタビューは面白い」と語っている。このエピソードが象徴するように、若い頃から日本国外で活躍し、外国人とのやり取りに慣れている上に洒脱な右京のインタビューは、外国のジャーナリストやドライバー仲間から人気が高かった。
    • 現役時代の火傷のあとが残っているニキ・ラウダのその火傷を揶揄するかのようなコメントをしてしまった際も、問題とはならず、むしろ爆笑をとった。ラウダの懐の深さもさることながら、いかに右京自身が好意的に受け止められていたかを示している。
    • アイルトン・セナもフライデー5等の合同記者会見の場で「ねぇ、今日はウキョウ居ないの?」と言ってしまうほど、右京の話すインタビューを気に入っていた。
    • 1993年のFOCA合同記者会見で、「F1で一番の驚きは?」と聞かれ「プロストやセナに会えたこと。一緒に写真も撮れたし。」と答えた。また、「F1で恐怖を感じたことは?」と聞かれ「後ろからウィリアムズのマシンに追われたとき。」と答えた。(1993年はウイリアムズにリアクティブサス等、技術的アドバンテージがあったための揶揄も含めたコメントと思われる。)
    • ミナルディ所属の時代にイタリア国内のイベントに参加した際、女性司会者にマイクを向けられた右京はステージ上で『チャオ、○○○』と放送禁止用語を織り交ぜイタリア語で挨拶し、場内を騒然とさせた。右京自身は、「チームのスタッフに言えと言われたから…」と釈明していたが、実は言葉の意味はしっかりと理解していたらしい。しかし、その場の雰囲気に動じないキャラクターに対して騒然はやがて『ウゴォ!ウゴォ!(イタリアでの右京のニックネーム)』と連呼される喝采へと変わり、ステージ上で右京は誇らしげな表情で敬礼をしてみせた。
  • 現役時代、外国人ファンから漢字のサインを頼まれ、「どうせ『片山右京』と書いたところで、分からないだろうから」と、面白がって『広東風炒飯』『餃子四個』などと書いたことがある。またティレル在籍中には、マーク・ブランデルとでたらめな言葉で会話して「マークが日本語をしゃべってる!」と周囲を驚かせるいたずらをしばしば行っていた[12]

F1引退後

  • 1999年のル・マン24時間レースに参戦した際、レースシーズン前の岡山国際サーキットでの全日本GT選手権マシンのテスト中に発生したアクシデントで不慮の死を遂げた舘信吾の形見の品であるレーシンググローブを着用して出走した。結果は総合2位となり優勝は果たせなかったが、舘が叶えることができなかった夢を片山は果たした。
  • 2006年F1第3戦オーストラリアGP、予選PPを奪ったのはホンダジェンソン・バトンであったが、セーフティーカー明けのラップで後続ドライバーに次々オーバーテイクされるシーンを見て、TV解説をしていた右京は「バトン、何やってんだ」や「バトン、ヘタクソですね」とコメント。またバトンのエンジンがファイナルラップでブローし、次戦でのペナルティーを避けるため5位4ポイントをあえて捨ててレースを終えた(結果10位)姿勢に「スポーツマンシップという観点から見ていかがなものか」と疑問を呈した。
  • 2006年には、同年限りで一時引退したミハエル・シューマッハフェラーリ)寄りのコメントが頻繁に出た。
    • イタリアGPの予選の最終ピリオドで、終盤トップタイムを出しポールポジションの可能性が高まったシューマッハだが、直後にマクラーレンキミ・ライコネンが好タイムで最終セクターを迎えた。そして、ライコネンがコントロールラインを通過する直前、右京は、「個人的にはミスってほしい」と本音を言ってしまう(このレースの終了後にシューマッハが自身の進退についての発表を行うとコメントしていたため)。結局この予選ではライコネンがポールポジションを獲得した。
    • 日本GP決勝の終盤、ルノーフェルナンド・アロンソと僅差のチャンピオン争いを展開するシューマッハが、トップ走行中に突然エンジンブローでリタイアしてしまい、タイトル獲得が絶望的となってしまう。このシーンを目の当たりにした右京は思わず、「くっそーっ!」と連呼し、実況の塩原恒夫アナに「右京さんも思わず悪態をついてしまう。」と言われた。
  • F1引退後はトヨタの支援を受けてレース活動をしていたこともあってか、F1のTV解説では同じ日本チームのホンダよりもトヨタ寄り、特にかつてのチームメイトで、友人のヤルノ・トゥルーリに対してはサポートするコメントを行うことが多い。またホンダに対して苦言を呈することも多い。
  • 2004年春のオールスター感謝祭において「赤坂5丁目F1グランプリ」に招待選手として出場、女性芸能人相手に現役さながらの闘志をむき出しにして強烈にアタック、大幅なハンディキャップを跳ね返して優勝した。レース内容は出演者からは大好評だったが、優勝インタビューでは「大人気ないことをしてしまった」と反省していた。
  • 母校(相模原市立鹿島台小学校)を訪れ、自分の職業分野に関する講義を行なうというNHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演した際は、児童らをトヨタ・アルテッツァに乗せてドリフトを体感させたあと、体育館に富士スピードウェイのミニチュアコースを作り、そのコースを児童らに自分の足で走らせ、「コースを早く走るためのコツと意味」を体感を通じて理解させる、といった内容の授業を行なっていた。
  • 優しそうな見た目とは裏腹に、F1の解説などで辛辣な表現の言葉を使うことも多い。
  • バイク三ない運動には批判的で、以前自身のブログで「運動は子供のバイクやメカに対する興味を奪っている。」という趣旨のコメントを発表した。
  • スピードカー・シリーズに参戦の際、併催されるGP2に参戦していた吉本大樹をマネージャー兼メカニックとして連れていた。これはスピードカー・シリーズの参戦者にはスタッフの旅費などの経費負担がされ資金不足の吉本大樹を支援出来るからである[要出典]
  • 2009年7月13日放送の『HEY!HEY!HEY!』において、タレントでは唯一原田知世のファンであることを公表。彼女の悪口を言う人とは絶交すると発言。
  • 2010年日本グランプリのフジテレビ地上波放送での解説中、小林可夢偉がヘアピンで次々にオーバーテイクを成功させる模様を見て、同じく解説者を務めていた森脇基恭が泣いていることを伝えていた。

ミナルディとの関係

  • 実は移籍前まで「ミナルディに来る様になったら(F1人生の)終わり」と右京自身思っていた。
  • F1時代に最後に所属したミナルディには思い入れがあるようで、中継の解説時にコメントを寄せることがある。
  • 2005年のF1実況中に、過去在籍したミナルディがあまりにも遅かったため「レースする資格なし」と言ってしまった。しかしこれは決してミナルディを嫌っていたわけではなく、逆にミナルディがリタイヤした際に解説の川井一仁が「ああ、そうですか。ミナルディですか」と言ったときには、ゲスト解説の立場を忘れた怒りをのぞかせた。やり取りは以下の通り。
    • 川井「えっと、今ホームストレートで1台止まってませんか?フェラーリですか?」
      アナ「ミナルディのルカ・バドエルですね。」
      川井「ああ、そうですか。ミナルディですか。」
      右京「あの、川井さん。ミナルディならリタイアしてもいいんですか?」
      川井「いや、どの車かなって思っただけで……。」
      アナ「片山さん、そんな事言わないで下さいよ…。」(1999年第15戦ヨーロッパGPにて)
  • 2008年の第14戦イタリアGPでは、ミナルディの後継チームであるスクーデリア・トロ・ロッソ所属のセバスチャン・ベッテルの、自身及びチーム(前身のミナルディ含む)にとって初めてのポールポジション及び優勝を記録した(F1史上最年少優勝も同時に記録)レースに解説者として出演。
    • 「夢を諦めなければ扉が開かれることが分かった」
      「(表彰式時に)こらえていないと涙が出そう」
      と感無量のコメントを残した。
  • スクーデリア・トロ・ロッソの姉妹チームであるレッドブル・レーシングにはなぜか手厳しく、特に2010年のF1界最大の新ファンクションであるFダクトをレッドブル・レーシングが導入したことについて、「あれだけFダクトを否定してたあげく、結局今回Fダクトを導入した、にもかかわらずストレートスピードが伸びないというのはどうなんでしょう」と辛口のコメントを地上波全国放送で残している。

経歴年表

  • 1983年 - FJ1600クラスデビュー
  • 1984年 - 筑波FJ1600 Aクラスチャンピオン
  • 1985年 - 全日本F3(チーム:ハセミモータースポーツ)(マシン:ハヤシ322日産)最高位4位、1FL シリーズ6位
  • 1986年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦
  • 1987年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦 フランスF3 スポット 参戦
  • 1988年 - 全日本F3000参戦(チーム:バツレーシング)(マシン:マーチ87B&ローラT88/50無限)最高位5位 シリーズ11位
  • 1989年 - 全日本F3000(チーム:フットワーク)(マシン:ムーンクラフト040&041無限)最高位7位。国際F3000スポット参戦 同チーム同マシンにより参戦。
  • 1990年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50無限&DEV)最高位2位、1FL シリーズ5位
  • 1991年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50&T91/50DEV)2勝、2PP、2FL シリーズチャンピオン
  • 1992年 - F1参戦(チーム:ラルース)(マシン:ベンチュリLC92ランボルギーニ)最高位9位、トヨタTS010にてルマン24時間レース出場 決勝15時間後/192周回目にエンジントラブルでリタイヤ
  • 1993年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル020C&021ヤマハ)最高位10位
  • 1994年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル022ヤマハ)最高位5位 シリーズ17位
  • 1995年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル023ヤマハ)最高位7位
  • 1996年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル024ヤマハ)最高位7位
  • 1997年 - F1(チーム:ミナルディ)(マシン:ミナルディM197ハート)最高位10位、F1引退表明。
  • 1998年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合9位
  • 1999年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合2位
  • 2000年 - JGTC(GT500)参戦(チーム:NISMO)(マシン:日産・スカイラインGT-R(R34))シリーズ11位 非選手権セパン戦で優勝。
  • 2001年 - JGTC(GT500)TeamUKYOを設立(マシン:トヨタ・スープラ
  • 2002年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア JGTC(GT500)(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・スープラ)シリーズ27位 シーズン中下田隼成にシートを譲り降板。
  • 2003年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア ルマン24時間耐久レース(チーム:KONDO Racing)(マシン:童夢S101無限)総合13位
  • 2004年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア
  • 2005年 - ダカールラリー参戦(チーム:トヨタ車体)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)総合30位、クラス3位 大阪産業大学工学部交通機械工学科の客員教授に就任。交通機械工学を講義する。アジアクロスカントリーラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)
  • 2006年 - アジアクロスカントリーラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)バイオディーゼル燃料を利用して完走。総合14位
  • 2007年 - ダカールラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)使用済み天ぷら油をリサイクルして燃料としたディーゼル車にて完走。総合68位、クラス19位
  • GP2アジアシリーズとの併催で2007年冬より新たにスタートするストックカーレーススピードカーシリーズへの参戦を発表。F1時代からの友人であるジャン・アレジジョニー・ハーバートから熱心に誘われ、実際にテストをしてみてから本人が決断したとのことで、久々にサーキットレースへの復帰を果たす。

ラジオ

テレビ

脚注

関連項目

外部リンク