三ない運動
三ない運動(さんないうんどう)は、望ましくない事柄に関連する代表的な行動の3つを否定して「~しない」という行動指針に集約したスローガンを掲げて、対象の事柄を抑止する運動の一般的な呼称である。
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[編集] 代表的な三ない運動
- 非核三原則として、核兵器を「持たない」「作らない」「持ち込ませない」。
- 高校生にオートバイや自動車を「運転させない」「買わせない」「免許を取らせない」。
- 公職選挙法で禁止されている寄付行為に関して「贈らない」「求めない」「受け取らない」。
- 暴力団を「利用しない」「金を出さない」「恐れない」。
- 飲酒運転防止のため「飲まない」「乗らない」「飲ませない」。
[編集] オートバイと自動車の三ない運動
高校生によるオートバイ(第1種原動機付自転車を含む)ならびに自動車の免許取得や車両購入、運転を禁止するため、「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンを掲げた運動のことである。1970年代後半から1990年代にかけて、わが国の各地の高校で盛んに実施されていた。地域によっては、これらのスローガンに「車に乗せてもらわない」を加えた「四ない運動」や、さらに「親は子供の要求に負けない」を加えた「四プラス一ない運動」の名称で呼ばれることもある。
多くは校則に組み込まれており、現在存続中の高校では、各校単位のPTAが主体になって実施している。違反時の処分は学校の運用や校則による。誓約の形をとっている場合は免許証預かり(卒業まで学校で保管)とするのが普通だが、校則としている場合の中には謹慎処分や停学、卒業まで免許没収(車両も没収。高校によっては売却や強制的な廃車もある)、さらには退学(永久追放となり、自主退学は認められない)というところもある。[要出典]しかし、高校生がバイクに乗ること自体は法律上問題なく、後述するように、三ない運動を定めた校則による生徒への懲戒は違法であるという判決が出ている。
1980年代に、バイクブームに伴って増加した交通事故件数や、全国各地で増えた暴走族による危険走行や騒音によって「バイクは危険な乗り物、暴走族の乗り物」といった、オートバイに対する否定的なイメージが社会に広まった。そこで1982年、社団法人全国高等学校PTA連合会(以下、高P連)は高校生の生命を尊重する観点から、仙台大会にて「オートバイの免許を取らせない」・「オートバイに乗せない」・「オートバイを買わせない」といった3つの指針を掲げた「三ない運動」を推進することを決議した[1]。
その後、高校3年生が普通自動車免許を取得後に自動車を運転して死亡事故を起こすケースが目立つようになり、対象を自動車にまで拡大させた上で全国に波及した。主な内容は「免許は高校3年生2学期期末テスト(または3学期卒業試験)最終日より、進路決定者のみ自動車学校通学を許可する」、「卒業試験や追試、卒業式直前には通学をお休みする」、「仮に取得できても卒業までは免許没収(運転不可)」、「卒業後、3月31日以前に事故を起こした場合は高校卒業を取り消して退学処分を下す場合がある」などである。自動車の「三ない運動」問題に関しては、進路が決定しないと自動車学校通学を許可しない高校が少なくない。[要出典]
しかし、政府はもともと「三ない運動」に批判的であった。1971年に当時の総理府交通安全対策室は、アメリカで高校の正課授業において実施されているDriver Education(運転者教育)を手本に、日本の高校にも自動車の運転に関する教育を取り入れることの可能性について研究し、報告書を発表している[2]。一方、文部省(当時)も、学習指導要領に存在しない「三ない運動」を容認しない立場から、1980年代になると、交通安全教育を管轄する体育局において、高校生のオートバイ利用に対応した交通安全指導書の整備を積極的に図るようになる[3]。これらの成果から、文部省は1989年9月、高校の正課授業において将来的に運転免許取得に関する科目を導入する構想を発表するに至った[4]。
1980年代後半から1990年代前半にかけての「第二次交通戦争」において、「三ない運動」の事故予防効果が疑われるようになると、運動を廃止して、高校にオートバイの安全運転指導を導入しようという機運が高まるようになる。神奈川県では、1990年4月に「四プラス一ない運動」を廃止して、「かながわ新運動」に転換した。「かながわ新運動」では、高校生を「車社会の一員」であると規定した上で、生徒に対する免許取得や運転への規制の全面的撤廃、免許取得者に対する県警の実技講習会「ヤングライダースクール」への参加促進、学校での交通安全教育の体系化推進、そして生徒の免許取得実態の把握などを掲げている[5]。
1991年5月27日には、東京地方裁判所により、「三ない運動」が違憲であるとの民事判決が出される。これは、校則に反して自動二輪免許を取得したことを理由に退学処分を受けた元高校生が、本人の当時通っていた東京都葛飾区の私立修徳高等学校に損害賠償を請求した訴訟である。判決内容は、「校則は違憲ならびに道路交通法に対する違法であり、校長に懲戒裁量権の乱用があった」とされ、被告の高校側に対して、東京地裁から賠償命令が出された。
判決の影響により、「三ない運動」をそれまで推進してきた高P連においても、運動の見直しは避けられなくなった。1990年の8月の全国大会において既に「地域の実情に応じた運動」を付帯決議として採択している[6]。高P連は、1992年の大会においてさらに、「学校の立地条件等の特別な理由で正しく処置されたものに対する許可」という項目を決議文に追加した[7]。これにより、「三ない運動」によるバイク禁止の「全国一律」での実施体制は崩壊することとなった。
1994年5月に福島県で、バイクを運転中の高校生が生徒指導教員の取締りの車に追われて逃走中に事故死した事件が問題となり、運動に対する社会的批判が一層、高まることとなった。これにより、同年9月18日、当時の高P連会長は『毎日新聞』の紙上で、個人的見解としながらも「三ない運動」全国決議の廃止を表明した。
日本国内の4メーカーは1990年代後半、日本自動車工業会を通して三ない運動の効果に対する反論を展開した。[要出典]また本田技研工業は、1986年から徳島県の生光学園中学校・高等学校と安全運転教習を共同で行っている。本田技研工業創業者の本田宗一郎は、生前著書『私の手が語る』にて「教育の名の下に高校生からバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えるのが学校教育ではないのか」として運動を批判している。政治家では、バイク愛好家で知られる元衆議院議員の笹川尭も運動を批判していた。この他にも、笹川の三男で群馬県議会議員を務める笹川博義は、運動を廃止してモータースポーツを学校教育に取り入れることを提唱している。
一方、交通経済学の側からも、通学のためといえども不採算の公共交通機関を補助金を割いてまで維持すべきではないとする観点から、「三ない運動」を撤廃の上、オートバイを高校生の通学手段として積極的に活用すべきであるとする考え方が、1990年代から提起されている[8]。
1997年8月の高P連大会において「三ない運動」は、「全国決議文」から、単位PTAに対する拘束力のより弱い「宣言文」へと扱いが変わった。これによって「三ない運動」は、各校の裁量で存廃が決められる体制に転換することとなり、文中では、地域の実情に応じた高校への「運転者教育」受け入れが掲げられる[9]など、高校生のオートバイ利用を容認する傾向が明確となった。
内閣府共生社会政策担当(旧・総務庁交通安全対策室)および文部科学省は、これらの動きや全国各地の「二輪車教育指定校」に指定された高等学校での成果から、将来的にはPTAに対して、「三ない運動」を完全に撤廃させることを目標としているが、広島県のようにかつて暴走族が活発に活動していた自治体を中心に、暴走族の復活や学校および教職員に対する負担の増大を懸念する声が少なくない。このほか、日立電鉄や鹿島鉄道沿線の一部高校でバイク通学が解禁されたことが同線廃止の遠因となった事例があったことから、高校生の通学手段が公共交通機関からバイクに移行することによる公共交通の衰退化を懸念する声もある。[要出典]
[編集] 注釈
- ^ 仙台大会 特別決議文, 全国高等学校PTA連合会, (1982-8-25), "現今の高校生のオートバイによる事故激増を憂え、青少年の生命の安全を守る上から、又『免許を取らない』『乗らない』『買わない』の主旨の徹底及び親の責任を促す上から、次の対策を実施する。"
- ^ 報告書「アメリカにおける交通安全教育の現状について」総理府交通安全対策室、1971年。
- ^ 『高校生の交通安全』財団法人日本交通安全教育普及協会・発行、1984年1月。『高等学校交通安全指導の手引』同上、1984年5月。『高等学校における課外の交通安全指導の手引』財団法人国際交通安全学会・発行、1986年9月。『二輪車に関する安全指導の手引』日本交通安全教育普及協会・発行、1988年11月。
- ^ 『東京新聞』1989年9月20日夕刊。学科教習を高校内で行い、技能教習を既存教習所に委託するというのが構想の内容であった。
- ^ 神奈川県高等学校交通安全運動推進会議が関係機関に送付した文書「高校生の交通事故を防止するかながわ・新運動について」1990年3月22日。
- ^ スローライフ交通教育 No.10 Feb.2008 三ない運動を総括する―高校交通教育論の歴史(小さな資料室)
- ^ 全国高等学校PTA連合会、熊本大会における「特別決議文」原文、1992年8月28日。
- ^ 角本良平「都市を結ぶ」、『JR EAST』1992年12月号、交通新聞社。澤喜司郎「交通弱者対策をめぐる諸問題」、『山口経済学雑誌』第43巻第5号、1995年5月、山口大学経済学会。
- ^ 全国高等学校PTA連合会、山形大会における「宣言」原文、1997年8月28日。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- SPORTSCARweb-Sprits of Honda Sports-(本田技研工業・先述の生光学園の安全教育の取り組みが紹介されている)
- かながわの交通安全教育