武田一浩

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武田 一浩
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区[1]
生年月日 (1965-06-22) 1965年6月22日(58歳)
身長
体重
171 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年6月8日[2][3]
最終出場 2002年10月10日[4]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年昭和40年〉6月22日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手投手[5]実業家社会起業家[6]

現役時代(1988年 - 2002年)は日本プロ野球 (NPB) の日本ハムファイターズ福岡ダイエーホークス中日ドラゴンズ読売ジャイアンツの計4球団で15年間プレーし、通算899931セーブの成績を残した[7]

日本ハム時代の1991年には最優秀救援投手を獲得し[7]、ダイエー時代(1996年 - 1998年)は左のエース・工藤公康と並ぶ右のエース[注 1]として活躍[10]。1996年にはキャリアハイとなる15勝を挙げたほか、1998年には13勝を挙げてパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最多勝を獲得した[7]。同年オフにフリーエージェント (FA)権を行使して中日に移籍すると、中日でも右のエース[注 2]として1999年セントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献[12]。巨人に移籍した2002年にはNPB史上3人目の全球団勝利[注 3]を達成し、同年限りで現役を引退した[13]

2020年時点では日本放送協会 (NHK) の野球解説者として活動している[1]。また、2021年時点では省エネシステムの提案や商品の販売を手掛ける「株式会社グルーヴ」(東京都世田谷区)の代表取締役を務めている[14]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

世田谷区立北沢小学校[注 4]および明治大学付属中野中学校出身[2]。幼少期は後年のダイエー時代にともにユニフォームを着た王貞治のファンで[17]、小学生のころから母親にウナギの骨の唐揚げ・カルシウムの錠剤などを摂らされたり、ともにランニングをしたりしていた[18]

リトルリーグの名門である[6]調布リトルリーグリトルシニア[注 5][22] で野球を始め[6]、日本一を経験、1980年度に卒団[20]。中学受験で明大中野中学に入学、軟式野球部に所属し2年秋に内野手から投手へ転向[23]、明治大学付属中野高校に進学[2] する。1982年秋季東京大会はブロック予選決勝に進むが、国士舘高に完封負けを喫する。翌1983年夏には全国高校野球選手権西東京大会準決勝(明治神宮野球場・7月28日)で創価高小野和義と投げ合い、敗退[注 6][18]第65回全国高校野球大会への出場はならなかった[18][3]。なお、中学の同級生にプロモーターの金平桂一郎がいる。

1983年度のドラフト会議ではプロ球団から指名を受けず[24]、父親の強い勧めもあり明治大学文学部[25]へ内部進学[2]1984年)。東京六大学野球リーグは2年生から出場し、1986年(3年生)秋季リーグ戦では同期の佐藤元信(松下電器)とバッテリーを組み、5完封を含む7連勝を記録[3]し、優勝に貢献する。同季のベストナインに選出されたほか[5]、対立教大学1回戦では1試合17奪三振[注 7][27](毎回奪三振)を記録した[5]。同年の明治神宮野球大会に出場するが2回戦(初戦)で札幌大に敗退。1987年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるが、秋季リーグ戦中には首脳陣の起用法を批判し、プロ入りへの支障が心配される[28]など造反事件が話題になった[注 8][5]。リーグ通算成績は56試合登板・208防御率2.40・208奪三振

1987年度のドラフト会議[31] 前には、日本ハムファイターズ南海ホークス[注 9]中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)の4球団(いずれも武田が後に在籍することとなる)からプロ入りの誘いを受けた[32]。ドラフト会議当日、日本ハムは伊藤敦規を指名したが、阪急ブレーブス[注 10]との抽選に敗れたために武田を1位指名した[注 11][31]。武田の1年目(1988年)の年俸は600万円・契約金は5,500万円(いずれも推定額)で、背番号15[5](1991年まで着用)。

現役時代[編集]

日本ハム時代[編集]

プロ1年目となる1988年6月8日の対阪急ブレーブス[注 10]戦(東京ドーム)でプロ初登板を果たし、同年8月3日の対ロッテオリオンズ[注 12]戦(川崎球場)でプロ初勝利を挙げた[2]。同年は一軍では20試合に登板(うち先発登板は2試合)して1勝2敗・防御率3.38の成績で、二軍イースタン・リーグ)のジュニアオールスター代表にも選出された[33]。同年オフには年俸840万円[33]契約更改

2年目(1989年)には先発ローテーションに定着して[34]主力投手となり、2試合連続完封勝利を記録[注 13][35]。同年は36試合に登板して6勝8敗・防御率4.22の成績で[35]、パ・リーグ投手成績は規定投球回22人中18位だった[36]。同年オフには年俸1,680万円[36]で契約更改。

1990年には近藤貞雄監督に見込まれ、抑え投手に転向[注 14][34]。前半戦[注 15][34]ではNPBタイ記録となる12試合連続セーブポイントを記録し[37]オールスターゲーム(球宴)にも初出場を果たした[34]。同年は37試合に登板して10勝5敗13セーブ、23セーブポイント[注 16]の成績を挙げ、翌1991年シーズンの年俸は3,100万円になった[40]

1991年も41試合に登板して4勝8敗18セーブ、22セーブポイントを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得[41]。特に同年5月には10試合に救援登板して3勝1敗・3セーブの成績を残し、プロ入り後初の月間MVPを獲得した[42]。しかし、球団からのリリーフエースとしての評価は低く、特に1991年の契約更改では、12月2日の交渉を保留した後の記者会見で激怒した様子が、スポーツ新聞などでセンセーショナルに報道された[43]。同日の交渉では年俸35%増額(4,200万円)を提示されたが、プレスルームに入った直後にセカンドバッグを窓に投げつけ、「ほんと、頭くる!」、「もうリリーフなんて絶対やらない。調停覚悟でとことん戦う」と発言[注 17][44]。武田本人は後年、抑えを務めていた時期について、与田剛との対談で「完投できるエースの西崎(幸広)さんが先発する日(週1日)は休むことができたが、柴田(保光)さんや酒井(光次郎)が先発している時は早いイニングから登板の準備をする必要があった」と述べている[24]。尚、現役時代15年間契約更改で保留したのはこの年だけだったと後年本人が語った[45]

1992年には背番号が4に変更され、年俸4,950万円になった[41] が、同年は本人の希望から先発に再転向[34]。同年は故障に泣かされ[34]、22試合登板・4勝9敗・防御率3.87の成績に終わったが、8月30日の対福岡ダイエーホークス[注 9]戦では延長12回完封勝利を記録[46]大沢啓二監督が就任した[47]1993年(同シーズンの年俸:4,750万円)は[46]、自己最多となる170回1/3(27試合)を投げ、3年ぶりとなる10勝(8敗)を記録[48]。防御率3.33もパ・リーグの投手(規定投球回到達者23人中)9位を記録し[49]、チームもリーグ2位でシーズンを終えた[50]。同年11月27日には年俸7,100万円(前年比2,350万円増額)で契約更改した[51] が、1994年は開幕前に肩を痛める[52]。同年は投球回84イニング1/3(18試合登板)にとどまり、5勝9敗[注 18]・防御率5.98と乱調[53]。チームもリーグ最下位に低迷し[54]、本人・首脳陣の双方にとって大誤算に終わった[53]

上田利治監督が就任した1995年[55](年俸:6,300万円[53])は、春季キャンプで好調ぶりを見せ、上田監督から称賛されていたが[56]、開幕前に左足肉離れ(復帰まで1か月の怪我)を起こし[57]、二軍スタートで迎える[58]。同年5月1日に一軍選手登録されるが[59]コーチ陣との折り合いの悪さ[注 19]から[60]、一軍ではわずか2試合[注 20]にしか登板できず[34]、プロ入り後初の未勝利[62](0敗・防御率5.06)に終わった[63]。一方、二軍(イ・リーグ)では13試合に登板して6勝4敗・防御率1.62(投球回数:83イニング1/3)の成績を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得[64]。また、本人も後に当時を「一軍登板が減ったことで、それまで以上に練習する時間が増え、しっかりと鍛え直すことができた」と回顧している[65]

ダイエーへのトレード劇[編集]

1995年オフ、日本ハムはフリーエージェント (FA)権を行使して読売ジャイアンツ(巨人)に移籍することを決めた河野博文(左腕投手)の穴を埋めるため、左腕投手の補強に乗り出し、武田を交換要員として複数球団と交渉[66]。河野や田村藤夫(捕手)[注 21]の穴埋めを優先してトレードの話を進めていたところ[17]、先発投手の補強を求めていたダイエー(王貞治監督[注 22])が左腕投手の下柳剛を交換要員として提示した[68]。しかし、トレード成立寸前にダイエーのフロントから、「下柳ならもっといいトレードができる」と反対意見が上がったため、両球団が微調整を行い、武田と下柳の両者を中心とした複数トレードに発展[68]。11月16日には松田慎司とともに、下柳・安田秀之との2対2の交換トレードでダイエーへ移籍することが正式に決定し、両球団から発表された[17][69]

一方で本人は日本ハム球団に対し、明治大学の先輩である星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへのトレードを求めていた[17]。同年オフに監督として中日に復帰した星野[注 23]は当時、投手陣の補強を目指し、既に前田幸長(前千葉ロッテマリーンズ[注 12])・村田勝喜(前西武ライオンズ)をトレードで獲得していたが、抑え投手が最大の補強ポイント[注 24]だったため、その補強ポイントに合致する武田の獲得を目指し[70]、佐藤毅球団社長ら球団首脳陣とともに積極的に動いていた[注 25][71]。しかし交換要員が折り合わず、交渉が難航していたところ[注 26]、途中から動き出したダイエーに横取りされる格好となった[66]

美山和也(2009)は「武田は中日とのトレードを反故にされたことに激怒してトレードを拒否しようとも考え、その後も日本ハムに対しては『同一リーグに放出させたことを後悔させてやる』と燃えていた」と述べている[32]。一方、中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』はダイエーとのトレード決定後、「武田は中日入りできなかったことが心残りで星野監督に電話したが、『ダイエーで頑張れ。機会があったら一緒にやろう』と激励された。ダイエーへの不満もない」と報道している[17]

ダイエー時代[編集]

ダイエー時代(1996年 - 1998年)は右のエースとして活躍し、左のエース・工藤公康とともに投手陣を牽引した[73]

ダイエー移籍1年目(1996年)の年俸は6,300万円[63]。当時、弱小球団だったダイエーはチームが一丸となっておらず、南海時代[注 9]からのベテラン選手たちが王監督の起用法に不満を抱いたり、若手選手を萎縮させるような言動を取ったりしていたため、見かねた武田がチームメイトに対し「若いヤツに文句を言わないでくれ」と指摘することもあった[74]。また、日本ハム時代はキャンプ前半はそれほど投げ込まなかったが[75]、同年春の高知キャンプでは[76]、同僚になった工藤[注 27]の影響を受け[75]、「プロ1, 2年目のころ以来」となる1日300球以上の投球を行ったほか[76]、納得するまで走り込みを行うなど、日本ハム時代と大きく調整方法を変えた[75]。当初、王監督ら首脳陣は武田を抑えで起用する戦力構想をしていたが、武田自身が先発を希望し、オープン戦で先発起用したところ好結果を残したため、リリーフ起用の構想は自然消滅した[65]

同年のダイエーは、54勝74敗2分の成績(勝率.422)でパ・リーグ最下位に低迷[注 28][77]。自身も開幕時には肋骨痛で出遅れたが、4月9日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(グリーンスタジアム神戸)で初登板する[65]と、1年間を通じて先発ローテーションの柱を担い[34]、6月末 - 8月まで7連勝を記録[注 29][79]。最終的には15勝8敗・防御率3.84(171投球回)・6完投[注 30]と好成績を残した[34]。同年の勝利数(15勝)[注 31][60]・投球回数(171イニング)はともに自己最多で、完封4試合も同年のパ・リーグ最多だった[注 32][79]。同年オフには斎藤雅樹バルビーノ・ガルベス(ともに巨人)、西口文也(西武)、キップ・グロス(日本ハム)とともに、沢村栄治賞(沢村賞)の候補に挙がった(最終的には斎藤雅が受賞)[82]

1997年1月10日、年俸9,800万円(前年比3,500万円増額)で契約更改[83]。同年以降、城島健司ら後輩たちを連れて自主トレを行うようになった[74]。また、工藤とともに投手陣の中心として期待され[84]、プロ10年目で自身初の開幕投手を務めた[85][86]。同年は開幕から4連勝を記録し、4月29日(対オリックス[注 10]戦)・5月6日(対西武戦)では2試合連続完封勝利を記録[87]。5月18日に対オリックス7回戦で4勝目を挙げたが[88]、その後は勝利から見放され、最終的には9連敗のままシーズンを終えた[89]。同年は26試合に登板して4勝9敗[注 33]・防御率3.85(投球回163回2/3)、3完投の成績で、特に対近鉄バファローズ戦では防御率7.45と打ち込まれた[89]。同年オフ(12月6日)には年俸8,400万円(前年比1,400万円減額)で契約更改した[90]

1998年は前年不振に終わったことから、開幕前には2年連続の開幕投手を拒否する旨を宣言していた[注 34][86]。同年は4月14日の対日本ハム1回戦(福岡ドーム)で初勝利(約11か月ぶりの勝利)を挙げると[93]、28試合に登板して自己2番目となる13勝(10敗・防御率3.62)を挙げ[94]黒木知宏(ロッテ)・西口(西武)とともにパ・リーグ最多勝を獲得した[95]

中日にFA移籍[編集]

1998年5月中旬に武田はプロ入り後初となるフリーエージェント (FA) の権利を取得した[96]。しかしダイエー球団は、シーズン中に武田のFA権行使を控えた下交渉を打診せず[注 35][99]、武田は同年11月4日にFA権の行使を宣言[98]。ダイエーとの慰留交渉では現場首脳陣とのすれ違いがあった一方[97]、3年前にも武田を獲得しようとした星野監督[注 36]がFA宣言直後に獲得に名乗りを上げた[注 37][105]。同月24日にはダイエーの中内正オーナー代行から「骨を埋める球団はどこがいいのか考えろ。星野監督がいなくなった時のことは考えているのか」と慰留されたが、その直後に『中日スポーツ』の記者に対し「気持ちはほぼ固まった。自分は島岡(吉郎・元明大野球部)監督に育てられた人間だ。星野監督の意見には共感できる部分が多い」と話し[99]、翌26日には中日入りを決断した[注 38][106]

同月27日に中日へ入団の意思を伝え、翌28日[注 39]には正式に中日入りを表明[108]。なお中日だけでなく、巨人(長嶋茂雄監督)もFA宣言以降、水面下で中日より良い条件を提示していたが、武田は中日移籍を選択した[注 40][97]。ダイエー時代から着用していた背番号17は当時サムソン・リーが着用していたため[109]、背番号は前田幸長が着用していた18に決まり[110]、同月30日に中日と正式契約(契約金4,200万円を含めて3年で最高4億5,000万円[注 41]の複数年契約)を締結した[106]。星野監督は入団決定後、起用法について「(武田本人は)『中4日でも』と言っていたが、(セ・リーグは)DH制じゃないんだから、とりあえず中5日でいく」「(当時の抑え)の状態が万全でない時や、宣につなぐ遠藤大塔に不安がある時は(抑えの経験が豊富な武田に抑えを)十分に任せられる」と話していた[107]

中日時代[編集]

中日移籍1年目の1999年は春季キャンプで300球超の投げ込みを行ったり、公式戦に入っても若手以上に走り込んだりなど、徹底した自己管理でチームに強い影響を与えた[注 42][114]。同年は野口茂樹山本昌川上憲伸とともに先発ローテーションの4本柱を担い[115]、セ・リーグ投手成績6位(9勝10敗・防御率3.50)の成績を残し[116]、右の主戦投手[注 2]として中日の11年ぶり5度目となるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献した[12](自身にとってもプロ入り後初優勝)[113]。同年は対横浜ベイスターズ戦で4勝2敗を記録したほか、対阪神タイガース戦でも投球回30イニング2/3で防御率1.17を記録した[116]

移籍後初登板(初先発)となった同年4月6日の対横浜1回戦(ナゴヤドーム)で中村武志とバッテリーを組み、横浜の「マシンガン打線」を9回7被安打無失点に抑え、移籍後初勝利を自身2年ぶりの完封勝利で飾った[117]。続く4月15日の対ヤクルトスワローズ1回戦(ナゴヤドーム)では2試合連続となる完封勝利を記録し[注 43]、チームはこの試合で開幕からの連勝を10に伸ばした[注 44][121]。その後、勝利数はそれほど伸びなかったが、防御率は2点台を保ち、先発陣の一角を担い続けた[113]。その一方で、同年終盤には右を故障し[122]、シーズン途中からは痛みに耐えながら投げていた[123]

優勝決定後、10月6日に対阪神27回戦(阪神甲子園球場)で最後の先発機会を与えられ、勝てば2年連続(セ・リーグ移籍後では初)の2桁勝利となるところだったが、味方の援護に恵まれず、1対1の同点で迎えた延長11回裏に一死満塁の場面で代打・田中秀太へのサヨナラ押し出し四球(147球目)を出して敗戦投手となり、チーム3人目の2桁勝利[注 45]はならなかった[124]。古巣であるダイエー[注 46]との日本シリーズでは、10月27日の第4戦(ナゴヤドーム)で先発登板したが[130]、3回に秋山幸二小久保裕紀タイムリーを浴び、2失点[12]。6回にも小久保に本塁打を打たれ[12]、6回6被安打3失点の投球内容で敗戦投手になった[130]。同年オフにはサムソン・リーの退団に伴い、背番号をダイエー時代と同じ17に変更した[131]

2000年は年俸1億7,000万円となったが[132] が、同年は15試合登板・3勝6敗・防御率4.66の成績に終わった[133]。沖縄春季キャンプでは1日300球の投げこみを見せることなく、キャンプ中に右膝を故障[133] し、2月ごろは歩く程度のトレーニングしかできなかった[134]。膝の状態が完治しないまま開幕を迎え[注 47][133]、4月30日の対阪神戦で初勝利を挙げたが[136]出場選手登録抹消を3度にわたって繰り返し[135]、シーズン途中[133](8月末)[136] で戦線離脱[133]。9月上旬には右膝軟骨の除去手術[注 49][139] を受けたが、これが原因で下半身の粘りがなくなった[140]

2001年は引退を賭けてシーズンに臨んだが[133]、同年も3勝6敗(11試合登板・防御率4.83)の成績[注 50][138] に終わり、10月19日に中日から戦力外通告を受ける[注 51][141]。一度は引退を決断するが、同時に中日を去った星野[注 52]から「まだ2ケタ勝てるだろう」という言葉を受け、現役続行を決意した[140]

巨人時代[編集]

2001年12月2日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[146]、12月4日に読売ジャイアンツ(巨人)が獲得を表明[13]。同日、前年の年俸1億7,000万円から大幅ダウン(1億2,000万円減額)となる年俸5,000万円+出来高払いで巨人と契約した[13]。入団会見では「東京生まれが東京に帰ってきた。中日に勝てば12球団全部に勝つことになる。15年で一度も日本一になっていないので、優勝に貢献したい」とコメントした[147]

2002年前田幸長(ともに中日から移籍)とともに巨人の中継ぎの新戦力として期待され[148]シンカーの研究に精を出した[29]。同年は開幕二軍スタートだったが、5月7日に一軍登録される[140]。同日の対中日7回戦(ナゴヤドーム)で即先発登板し[149]、6回4被安打2失点で勝利投手となり[140]、史上3人目の全球団勝利を達成[注 3][149][151]。しかし、同年夏場に古傷の右膝[注 53]を痛めてリハビリ生活が続き、同年の日本シリーズ要員構想からも外れた[4]

同年10月10日に現役引退が発表され[152]、同日のヤクルト戦(東京ドーム)における先発登板が現役選手としての最終登板となった[4][153]。なお、NPB史上最多勝利と最優秀救援投手の両方を獲得した投手は、武田以外では江夏豊金城基泰村田兆治山沖之彦(このうち村田は、厳密には最優秀救援ではなく最多セーブ)の4人のみである。

引退後[編集]

現役引退後、2003年以降は日本放送協会 (NHK) の野球解説者になり[154]2020年時点でも同局の解説者を務めている[1](出演番組:NHKプロ野球メジャーリーグ中継)。また、解説者の仕事と並行して、事務機器(コピー機など)の販売会社で営業職を担当し[155]マスターズリーグの札幌アンビシャスにも参加していた[154] ほか、競馬番組にゲストとして出演することがある。

2006年にはダイエー時代にともにプレーした王監督(当時:福岡ソフトバンクホークス[注 9]監督)が指揮を執るワールド・ベースボール・クラシック (WBC) 日本代表の投手コーチを務めた[156]。また、2010年の秋季キャンプでは古巣ダイエーの後身であるソフトバンク[注 9]の臨時投手コーチを務め[157]2011年の春季キャンプでもソフトバンクの臨時投手コーチを務めた[158]。2013年から東京ガスの臨時投手コーチを務め、石川歩山岡泰輔を指導した。

2013年オフ、ロッテから戦力外通告を受けた山本徹矢[注 54]から相談を受けたことをきっかけに、引退直後から抱いていた「プロ野球選手のセカンドキャリアをサポートするシステムをつくりたい」という構想[159]を具現化すべく、同年12月20日に[160]人材派遣会社[6]「株式会社ヒューマンリンク」[160] を設立し、代表取締役に就任[6]。中日時代の同僚で、同じくNHKの解説者でもある今中慎二も同社の運営に携わった[6]。その後、2021年時点では「グルーヴ」の代表取締役を務めている[14]

2018年9月5日、日本時間午前9時からのロサンゼルス・エンゼルステキサス・レンジャーズ戦(NHK BS1にて中継)で生中継の解説を務めていたが[161]、試合途中に急遽、体調に異常をきたし病院に急行した[162]

選手としての特徴[編集]

投球フォームは右からのサイドスロー[34][163]、ないしスリークォーター気味のやや変則的なフォーム[164]。高校時代は「東京では珍しい速球派投手」と評されていた[18]

加賀新一郎 (2015) は、「強靭な下半身でキレのある直球・変化球を投げ、打者を翻弄した」と述べている[164]江川卓二宮清純 (1999) によれば、1998年時点のデータではスピード(球速)・コントロール(制球力)・テクニック(技術)のいずれも3.5(5段階評価)で[100]、自己最多となる15勝を挙げた1996年は速球を軸に、サイドスロー特有のよく曲がるスライダーフォークを交える配球だった[34]。また、パ・リーグ最多勝を獲得した1998年は内角をえぐり、外角のスライダーで勝負する配球パターンだった[100]。江川・二宮 (1997) は「慎重にコーナーをつくピッチングというよりは、思い切りのよさが持ち味で、抑えとして成功したころから、絶対的な決め球を持つ投手というよりも、大胆で勢いのある投球術によって抑え込み、ピンチにたじろがない勝負強さが印象に残る投手」と評している[34]。フィールディングにも特に難はなく、1996年は城島健司とのバッテリーで3回の盗塁企図をいずれも刺した[60]

スポーツニッポン』編集委員・小川勝は1999年に『サンデー毎日』誌上で武田について「明大の先輩・鹿取義隆に似た独特のサイドスローで、球威で勝負するタイプ。体の回転を指先に伝えるセンスは天性のもの」「戦力的に2桁勝利を期待できる点はもちろん、昨年(1998年)に好成績[注 55]を収めた若手投手の慢心に楔を打ち込める存在という点でも、まさに『今年の中日優勝の使者』と呼ぶにふさわしい」と評していた[166]

身長は171 cmと、プロ野球選手としてはかなり小柄で「小さな大投手」と呼ばれた[167]

また、日本ハム時代にチームメイトだったマット・ウインタースからMLBで流行していたカットボールの存在を教えられてこれを習得し、日本プロ野球 (NPB) にその存在を広めた[168]。後に日本屈指のカットボーラーとなった川上憲伸はプロ2年目の1999年、中日に移籍加入した武田が投げていたカットボールに興味を持ち、習得した[168]

人物[編集]

1年目に対南海ホークス[注 9]戦でトニー・バナザードと対戦した際、バナザードが空振りしたバットがすっぽ抜け、マウンド上の武田の後ろまで飛んで行った[169]。この時、バナザードは武田をにらみつけながらマウンド方向へ歩き、自らバットを拾いに行った[注 56][169]。この場面の映像は、まるで武田が接近するバナザードに怯えているかのように扱われ、珍プレーネタとして放送された[170]

自他ともに認める一言居士で、明治大学時代には島岡吉郎監督に反発したほか、プロ入り後も首脳陣と衝突して日本ハム・中日をそれぞれ追われている[注 8][注 19][注 51][29]。しかし、本人は2002年に古くからの知人たちから「もう40歳近いんだから、少しは丸くなれ」という助言を受けても「僕から意地を取ったらただの投手です」と反発している[29]

ダイエー時代の後輩である城島健司からは、工藤公康と並んで師として慕われている[171] ほか、武田自身も工藤や[113][74]秋山幸二を師と仰いでいる[74]。ダイエー時代の監督だった王貞治は武田について、工藤や秋山と共に「(球団の)甘い体質を変えてくれた選手」と述べている[172]。武田自身は、王について「憧れの存在である一方で野手出身であったため、(投手である自身や工藤と)時に考えが合わず、喧嘩に発展したこともあったが、こちらの話をしっかりと聞いて理解しようとしてくれたので、より一層ついていこうと思った」と述べている[65]

また明治大学の後輩で、後に中日で同僚となった川上憲伸とは誕生日が同じ(6月22日)である[106]。中日時代には川上を頻繁に呼びつけては細かく指導しており、今中慎二は自著で「武田さんは大学の後輩である川上を『本当のエースにしたい』と感じて細かく指導し、川上も大学の先輩である武田さんだからこそ素直に物事を受け入れられただろう。自分が知る限り、川上は武田さんが在籍していた期間(1999年 - 2001年)に一番いいボールを投げていたという印象を持っている」「星野監督が明治大学時代に影響を受けた『明治イズム』(島岡イズム)が選手間に好影響をもたらした例」と述べている[173]

東京六大学野球時代、長嶋一茂と仲がよく、田園調布の実家に遊びに行き、浪人時代だった長嶋茂雄と食事をした経験がある。

中日時代には同僚の山本昌(競馬ファン)を武豊(野球好き)と知り合わせ、2人が親交を深めるきっかけを作っている[174]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1988 日本ハム 20 2 0 0 0 1 2 0 -- .333 159 37.1 37 2 14 1 2 23 0 0 16 14 3.38 1.37
1989 36 18 5 2 0 6 8 0 -- .429 610 143.0 128 22 56 5 3 108 4 0 72 67 4.22 1.29
1990 37 2 0 0 0 10 5 13 -- .667 329 81.2 63 8 17 2 1 73 2 0 37 27 2.98 0.98
1991 41 0 0 0 0 4 8 18 -- .333 272 64.2 69 11 14 3 1 45 2 0 31 29 4.04 1.28
1992 22 10 3 1 0 4 9 0 -- .308 413 97.2 102 10 29 3 1 63 2 0 42 42 3.87 1.34
1993 27 25 9 1 2 10 8 0 -- .556 721 170.1 181 16 53 2 1 125 2 0 65 63 3.33 1.37
1994 18 17 2 0 0 5 9 0 -- .357 390 84.1 102 8 37 0 4 56 4 0 63 56 5.98 1.65
1995 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.1 8 0 1 0 0 4 0 0 3 3 5.06 1.69
1996 ダイエー 26 26 6 4 0 15 8 0 -- .652 722 171.0 167 16 56 1 4 114 6 0 77 73 3.84 1.30
1997 26 26 3 2 0 4 9 0 -- .308 699 163.2 177 17 39 2 3 102 3 0 85 70 3.85 1.32
1998 28 28 4 0 0 13 10 0 -- .565 751 176.1 173 16 68 3 2 103 3 2 82 71 3.62 1.37
1999 中日 25 25 5 3 1 9 10 0 -- .474 679 162.0 166 17 43 2 4 92 1 1 65 63 3.50 1.29
2000 15 15 1 0 0 3 6 0 -- .333 370 85.0 96 12 23 2 1 48 2 0 45 44 4.66 1.40
2001 11 11 0 0 0 3 6 0 -- .333 231 54.0 60 2 14 0 1 36 3 0 32 29 4.83 1.37
2002 巨人 7 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 91 21.1 26 3 3 2 0 16 2 1 12 10 4.22 1.36
通算:15年 341 210 38 13 3 89 99 31 -- .473 6461 1517.2 1555 160 467 28 28 1008 36 4 727 661 3.92 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 15 (1988年 - 1991年)
  • 4 (1992年 - 1995年)
  • 17 (1996年 - 1998年、2000年 - 2001年)
  • 18 (1999年)
  • 30 (2002年)
  • 84(2006年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

連載[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 読売新聞』東京朝刊(読売新聞東京本社)および、『朝日新聞』西部夕刊(朝日新聞西部本社)はそれぞれ、1998年の開幕前に「ダイエーの先発三本柱は工藤、武田、吉武(真太郎)の3人」と報道している[8][9]
  2. ^ a b 『中日新聞』は1999年7月30日付朝刊で「野口(茂樹)、武田の両輪を軸にした豊富な投手陣」と述べている[11]
  3. ^ a b 4人目の達成者である門倉健(横浜)はセ・パ交流戦開始後の2005年に全12球団からの勝利(門倉の古巣で、2004年に消滅した近鉄を除く)を達成したため、交流戦開始前では武田が最後の達成者である[150]。なお、武田本人はこの記録について「1つの球団で重用されなかったから出来た記録」と述べている[29]
  4. ^ 世田谷区立北沢小学校は2018年(平成30年)4月に世田谷区立下北沢小学校と統合された[15](同年3月31日に閉校)[16]
  5. ^ 在籍チームは二宮清純 (2015) では「調布リトル」と[19]、公式サイトでは「リトル・リトルシニア」とされている[20]。調布リトルシニアの同期に板倉賢司(元横浜大洋ホエールズ)、上福元勤(元巨人)、竹内史英(元阪急ブレーブス)、丹波健二(元千葉ロッテマリーンズ)がいる[20] ほか、著名なOBには荒木大輔関川浩一清宮幸太郎がいる[21]
  6. ^ 朝日新聞』 (1983) は2人の投げ合いを「今大会屈指の本格派同士の投げ合い」と評した[18]
  7. ^ 当時、17奪三振は同大会史上2人目[26](1人目は1966年春に東大2回戦で記録した早稲田大学小坂敏彦[27]
  8. ^ a b 大学時代には「御大」と呼ばれた島岡吉郎に反発し、退寮および謹慎を命じられ[29]、「島岡監督に唯一逆らった男」としても話題になった[30]
  9. ^ a b c d e f g 武田が日本ハムからドラフト1位指名を受けた1987年当時、ホークスの球団名は「南海ホークス」だったが、1988年オフに親会社の南海電気鉄道が球団をダイエーに売却し、本拠地を大阪球場大阪府大阪市)から平和台野球場福岡県福岡市)に移転したため、球団名は1989年から「福岡ダイエーホークス」に変更された(2004年まで)。その後、1993年には本拠地を福岡ドームに移転したが、ダイエーは武田の引退後となる2004年オフに球団の経営権をソフトバンクへ譲渡したため、ホークスの球団名は「福岡ソフトバンクホークス」(2005年 - 現行)に改称されている。
  10. ^ a b c d 阪急ブレーブスは1988年限りで親会社・阪急電鉄が経営権をオリックス(当時の企業名:オリエント・リース)へ売却したため、翌1989年 - 1990年は「オリックス・ブレーブス」を名乗っていた。その後、本拠地を西宮球場兵庫県西宮市)から神戸総合運動公園野球場(同県神戸市)へ移転したことに伴い、1991年 - 2004年は「オリックス・ブルーウェーブ」を名乗っていたが、2004年オフに大阪近鉄バファローズとの球団合併により、球団名を「オリックス・バファローズ」(現行)に改称している(参照:プロ野球再編問題)。
  11. ^ なお、巨人は1巡目で橋本清PL学園高校)を単独1位指名したほか、中日と南海はそれぞれ立浪和義(PL学園高校)を1位指名[31]。抽選により中日が立浪の交渉権を獲得したため、南海は外れ1位として吉田豊彦本田技研熊本)を1位指名している[31]
  12. ^ a b c 武田がプロ入りした当時、ロッテの球団名は「ロッテオリオンズ」だったが、同球団は1991年オフに本拠地を川崎球場神奈川県川崎市)から千葉マリンスタジアム千葉県千葉市)に移転し、球団名も翌1992年から「千葉ロッテマリーンズ」(現行)に改称している。
  13. ^ プロ初完封は1989年8月9日・対西武戦(西武球場[2]
  14. ^ 4月中旬に先発からリリーフに転向した[37]
  15. ^ 1990年4月28日(対ダイエー4回戦・東京ドーム) - 6月15日(対ロッテオリオンズ9回戦・川崎球場)[37]。武田以前には1983年の角盈男(巨人)と、1989年の郭源治(中日)・津田恒実広島東洋カープ)が記録していた[37]。続く6月21日の対西武12回戦(東京ドーム)では、3対2とリードした場面で柴田保光をリリーフしたが、9回に3点を失って敗戦投手となり、NPB新記録(13試合連続セーブポイント)達成はならなかった[38]。なおこの記録は、同年7月31日に佐々岡真司(広島)が対横浜大洋ホエールズ16回戦(平塚球場)で13試合連続セーブポイントを記録したことにより更新された[39]
  16. ^ 23セーブポイントは鹿取義隆(西武)に次ぐパ・リーグ2位[40]
  17. ^ 同日、チームメイトの西崎幸広も前年比13%増額の6,800万円を提示されたが、「5年連続の2桁勝利を考えてくれていない」と激怒していた[44]
  18. ^ 4月22日に初勝利を挙げたが[52]、5月 - 8月にかけて5連敗し、6月は未登板に終わった[53]。その後、1勝6敗で迎えた8月21日の対千葉ロッテマリーンズ22回戦(東京ドーム)にて同年11試合目の登板を果たし、2勝目を挙げた[52]
  19. ^ a b 永谷脩 (2002) は1995年オフに武田が日本ハムから放出された理由について、「若手育成を掲げた上田監督に反発したため」と述べている[29]
  20. ^ 投球回数は5回1/3[61]
  21. ^ 田村は同年オフ、日本ハムからロッテへ金銭トレードで移籍していた。
  22. ^ 王は「ダイエーの投手陣には勝ち気とマウンド度胸の良さが欠けている」と考え[62]、武田を「うちの投手陣にはいない、気持ちを全面に押し出して投げるタイプ」[60]鹿取義隆に似ている」と評価し、獲得を希望した[67]
  23. ^ 星野は1987年 - 1991年にも中日の監督を務めていた。
  24. ^ 結局、中日は抑え投手として同年オフ、それまで韓国球界KBOリーグ)で活躍していた宣銅烈(前ヘテ・タイガース)を獲得した。
  25. ^ 星野は当時、球団編成部に武田獲得を求めていたほか、佐藤も「ここ数年、うちは新人投手が全く育っていない」「(交換要員としては)今中山本昌、将来性のある若手選手までは出せないが、それなりの出血は覚悟している」として武田の獲得を希望し、自ら獲得に乗り出すことを宣言していた[71]
  26. ^ 中日は同年オフ、秋季キャンプ前に武田と同じパ・リーグ球団から前田・村田をトレードで獲得していたが、武田は日本ハムとの交渉で折り合わず、(前田・村田の獲得が既に決まっていた11月10日時点でも)棚上げ状態になっていた[71]。一方、武田本人は2015年に二宮清純との対談で「トレード当日の午前中までは与田剛との交換トレードで中日に行く予定だったが、最終的には中日が与田の放出を渋り、(与田とのトレードは)成立しなかった。結局、王監督の希望でダイエーへの移籍が決まった」と述べている[67]。しかし結局、与田は1996年シーズン途中にロッテへ移籍し、1998年には日本ハムへテスト入団した[72]
  27. ^ 工藤はこのキャンプの初日に140球以上を投げ込み、(2日に1回の投球で)総投球数は2,000以上を数えた[75]。武田もキャンプ前は2,000球以上の投げ込みを予定していたが、最終的には2,300球(キャンプ中最後の投球となった2月26日には327球)を投げた[76]
  28. ^ 優勝したオリックス(74勝50敗6分・勝率.597)とは22ゲーム差、5位のロッテ(60勝67敗3分・勝率.472)とは6.5ゲーム差[77]
  29. ^ 7月には5勝を挙げてダイエーの2か月連続勝ち越しに貢献し、同月のパ・リーグ月間MVP(投手部門)を受賞[78]
  30. ^ 一方、同年にともに先発ローテの中心を担った工藤は投球回(202イニング2/3)・防御率(3.51)とともに武田を上回り、178奪三振で最多奪三振のタイトルも獲得したが、8勝15敗と大きく負け越し、酒井弘樹(近鉄)とともにリーグ最多敗戦投手となった[80]
  31. ^ チーム最多かつ[79]、グロス(日本ハム)の17勝、西口(西武)の16勝に次ぐパ・リーグ3位[81]。内訳は西武から4勝、オリックス・日本ハム・近鉄から各3勝、ロッテから2勝[79]。8月28日の対日本ハム戦(福岡ドーム)で15勝目に到達したが、その後は疲労(本人は「前年ほとんど一軍で投げていなかったことも影響していた」と述べている)から勝ち星を挙げられず、9月は3試合の登板(最終登板は同月16日)に終わった[65]
  32. ^ ただし、本人は4完封を挙げた理由について「完投に強い思いがあったわけではなく、リリーフの脆弱さや、好調時に球数少なく投げることが出来たためにすぎない」と述べている[65]
  33. ^ 9敗は当時、自己ワーストタイだった[87]
  34. ^ 同年の開幕戦(対オリックス戦・グリーンスタジアム神戸)では工藤が2年ぶり[91]、当時通算6度目の開幕投手を務めた[92]
  35. ^ ダイエーは王監督に直接出馬を要請するなど、表立った残留の交渉をしなかった[97]。また武田は希望条件の1つとして、複数年契約を挙げていたが、ダイエー側は当時、数人の複数年契約選手を抱えていたため、武田には複数年契約を提示しなかった[98]
  36. ^ 星野は当時、手薄だった右の先発投手を補強しようとしており[100]、武田について「チマチマと逃げる投手が多い中で、いつも強気に大胆に向かっていくところが素晴らしい」と評価していた[101]
  37. ^ 宣言を受けて中日の佐藤球団社長は「10勝投手が出てくるとなれば、どこの球団も欲しいでしょう」として獲得の意思を明言[102]。交渉解禁日(11月7日)、武田は中日の星野監督・児玉光雄球団代表補佐と交渉し[103]、15日に中日と2度目の交渉を行った[104]
  38. ^ 中日移籍の決め手については「日米野球で(巨人の)清原君から『セ・リーグはいいですよ』と聞いたこともあるが、第一に星野さんの下でやってみたいと思ったから。大学の先輩ということもあるけど(交渉出馬など)ここまでしてくれるとは思ってもみなかった」と述べている[106]
  39. ^ 同日にダイエーへ中日移籍の意思を正式に伝えた[107]
  40. ^ 本人は中日と正式契約した後、「いろいろなところから声をかけていただいたが、例えば巨人を相手に、(同年にセ・リーグ優勝を果たした)横浜を相手に投げる方が自分が出せる。中日の方が向いていると思った」と述べている[106]
  41. ^ ただし2年目(2000年)までに一定の成績を残さなかった場合、3年目(2001年)は年俸が減額される条件付きだった[111]。また1999年シーズンの年俸は8,400万円と推定されていたが、実際には1億円を超えていた[112]
  42. ^ キャンプでは「2,500球投げる」と宣言し、これに触発された野口・門倉健が競って投げ込んでおり、山田久志投手チーフコーチは「武田が(チームの投手陣を)引っ張ってくれている」と評価していた[113]
  43. ^ 同試合後、武田は「こんな強いチームで野球をやるのは初めて」と発言している[118]
  44. ^ 最終的に中日は4月16日の対読売ジャイアンツ(巨人)1回戦(東京ドーム)で勝利し、開幕からの連勝を45年ぶり(1954年の西鉄ライオンズ以来)日本タイ記録となる11まで伸ばした[119] が、翌17日の対巨人2回戦(東京ドーム)にて同シーズン初となる敗戦を喫し、NPB記録更新(開幕12連勝目)はならなかった[120]
  45. ^ 結局、同シーズン最終戦の対ヤクルトスワローズ27回戦(10月10日・明治神宮野球場)は20勝目を懸けていた野口が先発したため、武田の10勝目はならず、同年の中日で2桁勝利を挙げた投手は野口(19勝)と、新人の岩瀬仁紀(中継ぎ・10勝)の2人にとどまった[124]。しかし野口も打線の援護に恵まれず、9回1失点(サヨナラ負け)で敗戦投手となったため、20勝目達成(および巨人・上原浩治と同数のリーグ最多勝)はならなかった[125]
  46. ^ 同年、武田を失ったダイエーは苦戦が予想されていたが[126][127]、前年未勝利に終わっていた若田部健一が武田に代わる右のエースとして復活し、1994年以来となる2桁勝利(10勝)を挙げた[128]。そしてダイエーは9月25日にパ・リーグ初優勝を果たしたが[129]、これについて武田は「一緒にやった仲間だから、(ダイエーの優勝は)ジーンと来るものがあった」、「ダイエーで怖いのは城島の悪球打ちくらい。投手も工藤さん以外は打てる」と述べていた[128]
  47. ^ 本人は「無理に開幕に合わせて、結局は自分が損をした」と、山田久志投手コーチも「武田は打たれるといつも『膝が痛い』と言う」とそれぞれ回顧し、『中日新聞』は「責任の所在はあいまいだが、自覚を欠いた武田と、それを容認した首脳陣の存在がそこには浮かぶ」と指摘している[135]
  48. ^ 2000年は二軍(ウ・リーグ)で2試合に登板して2勝0敗・防御率0.00の成績[138]
  49. ^ 6月までに「だましだましやってきたが、納得のいく投球ができない」と手術を決断[137]。その後、複数の病院で診察を受けたところ「右膝軟骨の損傷で、手術の必要はない」と診断されたことや[122]、手術を受けると同シーズン中の復帰が絶望的となることから、いったんは手術を回避して治療しながら二軍ウエスタン・リーグ[注 48]で調整することを決めたが[123]、最終的には手術に踏み切った。
  50. ^ 2001年は二軍(ウ・リーグ)で3試合に登板して1勝0敗・防御率3.00の成績[138]
  51. ^ a b 永谷脩 (2002) は「武田は山田久志投手コーチ(2002年から監督に就任)と反りが合わず自由契約になり、中日と対戦できるセ・リーグ球団への移籍を希望した」と述べている[29]
  52. ^ 星野は2001年9月25日に中日の監督を辞任することを表明し[142]、山田ヘッド兼投手コーチが後任として就任[143]。その後、星野はNHKの解説者に就任することが内定していたが、野村克也(同年12月5日に妻・沙知代の不祥事により引責辞任)の後任として阪神から監督就任要請を受け[144]、同月17日に受諾を発表した[145]
  53. ^ 患部から5度にわたり水を抜く治療を行ったが、完治しなかった[4]
  54. ^ 山本はその後、ヒューマンリンクからの派遣社員としてテレビ番組制作会社のADを務めた[155]
  55. ^ 1998年の中日のチーム防御率は、リーグ優勝した横浜 (3.49) を上回り、リーグ1位の3.14を記録していた[165]
  56. ^ ほとんどの場合、バットは攻撃側チームのベースコーチが拾いに行く。

出典[編集]

  1. ^ a b c 『完全保存版 プロ野球 セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2020』433号、廣済堂出版〈廣済堂ベストムック〉、2020年2月21日、287頁。ISBN 978-4331802939  - 『ホームラン』特別編集
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参考文献[編集]

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  • 「'93プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第17巻第4号(通算:第174号 / 1993年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1993年3月31日。 
  • 「'94プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第18巻第5号(通算:第191号 / 1994年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1994年3月31日。 
  • 「'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第19巻第3号(通算:第202号 / 1995年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1995年3月15日。 
  • 「'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第20巻第4号(通算:第213号 / 1996年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1996年3月31日。 
  • 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2000」『ホームラン』第24巻第3号(通算:第252号 / 2000年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2000年3月31日。 
  • (解説)江川卓(制作)二宮清純 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之・小関順二 編『プロ野球スカウティングレポート'97』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1997年3月5日。ISBN 978-4915977398国立国会図書館書誌ID:000002553097 
  • (解説)江川卓、(制作)二宮清純 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集協力)北原悦子・村上朗子・長谷川みさ江(編集担当)飯田健之・岩崎隆宏 編『江川卓・スカウティングレポート'99』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1999年3月25日、62頁。ISBN 978-4915977848 
  • 「10月17日増刊号 星野ドラゴンズ優勝記念号 ドラゴンズV 1999 CENTRAL LEAGUE CHAMPIONS 星野竜11年ぶりのセ・リーグ制覇!」『週刊ベースボール』第54巻第45号、ベースボール・マガジン社、1999年10月17日。 
  • 戸部良也『熱将 星野仙一』(初版第1刷発行)KTC中央出版、2000年4月27日。ISBN 978-4877581718 
  • (インタビュー・構成)加賀新一郎 著、神山光伸 編『プロ野球 戦力外通告読本』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2015年1月12日、102-109頁。ISBN 978-4800305091NCID BB18312274 
  • 武田一浩(取材・構成=菅原梨恵)「時代の証言者 V」『週刊ベースボール別冊 新緑号』第48巻第7号、ベースボール・マガジン社、2021年3月31日、34-35頁。  - 通算452号「よみがえる1990年代のプロ野球 Part.3 1996年編」に掲載された本人インタビュー。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]