阿波野秀幸
読売ジャイアンツ コーチ #72 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市旭区 |
生年月日 | 1964年7月28日(59歳) |
身長 体重 |
178 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1986年 ドラフト1位 |
初出場 | 1987年4月12日 |
最終出場 | 2000年10月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、神奈川県横浜市旭区出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。neo sportsコメンテーター。スポーツビズ所属。
2012年からは読売ジャイアンツの二軍投手コーチを務める。
来歴・人物
- 横浜市立鶴ヶ峯中学校時代、有名私立高校からの誘いを受けていたにもかかわらず、敢えて公立の桜丘高校を志望し、塾通いして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会は4回戦で敗退。
- 高校卒業後は亜細亜大学に進学(同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいる)。東都大学リーグで通算62試合登板32勝17敗、防御率1.83、282奪三振。最高殊勲選手に1度、最優秀投手に3度、ベストナインに3度選ばれた。4年生秋の9勝はリーグタイ記録。
- 1986年
- 1986年のドラフトで、巨人、横浜大洋、近鉄の3球団が1位指名。阿波野の意中球団は巨人か大洋と言われていたが、くじを引き当てたのは関東出身である阿波野にとって最も縁遠い近鉄だった。この時、亜大ではドラフトの結果を待つ阿波野をテレビ中継しており、近鉄の当選が決まった瞬間、阿波野の落胆の表情と、周囲の在学生からの怒号の声が上がり騒然となった様子が画面に映し出された。結局、阿波野は「指名されたところに行く」と、亜大の先輩・大石大二郎がいる近鉄への入団を受け入れた。阿波野を外した巨人は木田優夫、横浜は友利結を再指名で獲得。
近鉄時代
- 1987年
- 1年目は期待に違わぬ活躍を見せ、15勝、両リーグ最多の201奪三振・249.2イニングを記録。同い年で、同じ1986年ドラフト1位でプロ入りの西崎幸広(日本ハム)と熾烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗・防御率2.88、西崎は30試合登板で15勝7敗・防御率2.89と甲乙つけがたい素晴らしい成績を残したが、結果は大差がついて阿波野が新人王を獲得。両者は共にトレンディエースと呼ばれ、特に女性に高い人気を誇った。
- 1988年
- 前年同様、エースとして14勝を挙げる。ナゴヤ球場での球宴第2戦先発し3回を被安打0自責点0奪三振3を記録(初回裏に高卒新人で先発出場立浪和義を外野フライに仕留め門田博光が処理)。レギュラーシーズン最高勝率を賭けたロッテとの川崎球場でのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」に、両試合吉井理人の後を受け連投。この試合の2日前、阿波野は対阪急戦で完投しており決して調子はよくなかった。第1試合では9回、1点リードで2死満塁のピンチを迎えたが、森田芳彦を三振にしとめ、逃げ切った。このとき阿波野は帽子を鷲掴みにしてガッツポーズした。しかし、第2試合に1点リードの状態での高沢秀昭に痛恨の同点本塁打を打たれた。この後、ショックで記憶が飛んだという。無死一・二塁で古川慎一を牽制球で刺したが、ロッテ監督の有藤道世が判定を巡り9分間にわたって抗議を続け試合は中断した。この影響もあり、第2試合は引き分けに終わり、近鉄は優勝を逃した。なお10.19では苦い思いを味わったが、本来はロッテを得意としていた。この1988年4勝1敗、翌1989年4勝0敗の成績を残しており、通算でも近鉄時代の通算67勝のうち21勝をロッテから挙げている。
- この頃は全盛期であり、TV出演が多かった。「プロ野球ニュース」に出演した際、当時同チームのオグリビーのバッティングフォームのものまねをし、「彼は気が立っている時は右肩を歯で噛んでいる。」と答えていた。
- 1989年
- 最多勝(19勝)、最多奪三振(183個)のタイトルを獲得し、近鉄の優勝に貢献。優勝祝賀パーティーで喜びを爆発させたが、インタビューで「これで去年の無念を晴らせましたね?」という質問には急に真顔になり「いや、あの悔しさは忘れられませんけどね」と答えている。同年の日本シリーズでは第1戦・第5戦に先発し同い年の斎藤雅樹と2度も投げ合い、第1戦の完投勝利を含む15イニングを投げ、1勝1敗5失点。優秀選手に選ばれた。
- 1990年
- この年からボークのルールが変更され、その影響で当時近鉄と毎年激しい優勝争いを繰り広げていた西武監督の森祇晶、そして当時の三塁ベースコーチの伊原春樹は阿波野の牽制がボークではないかと執拗に抗議し、その結果として阿波野は本来のフォームを崩し、この年以降成績が下降線を辿るようになったとされる。本人は成績の下降について西武側の抗議の影響を否定。1988年10月19日、シーズン終盤に中2日で連続完投した翌日リリーフで連投という当時でも考えられないような過酷な条件で登板するなど酷使の影響の方が大きいという説や、1991年の春季キャンプにて肘を壊していた阿波野に対して、この年に投手コーチに就任した皆川睦雄がブルペンでの投球を強要して選手生命にダメージを与えたからという説もある。
- 西崎幸広と比べると、1987年~1990年の合計勝利数はぴったり同じ58勝で、まさにライバルと呼ぶにふさわしい数字が残っている[1]。この年の5月20日の対ロッテ戦で阿波野は勝利投手となり通算50勝に到達しているが、同日、西崎も対ダイエー戦において勝利投手となり同じく通算50勝となった[2]。
- 1991年
- ただし、監督の仰木彬は阿波野を信頼し続け、1991年には野茂英雄を抑えて阿波野を3年連続の開幕投手に抜擢している。また、仰木が近鉄の指揮を取った最後の試合の先発投手は阿波野であった。仰木によれば「一番投げさせてやりたい投手を使った」という。
- 1994年
- 仰木の後任監督の鈴木啓示との確執もあり、シーズンオフに香田勲男との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。
巨人時代
横浜時代
- 1998年
- 主に中継ぎとして50試合に登板するなど復活を果たし、「権藤再生工場」第1号と呼ばれた。日本一を決めた試合では勝利投手になっている。
- 1999年
- 8月3日の広島東洋カープ戦で6年ぶりの先発勝利を記録している[3]。
- 2000年
- 10月に戦力外通告受け、現役を引退。ドラフトで競合1位指名を受けた3球団全てに在籍した。また、その3球団全てで優勝し、日本シリーズに出場を果たした。3球団からの日本シリーズ出場は最多タイ記録[4]であるが、ドラフト指名された全球団で出場したのは阿波野だけである。
現役引退後
- 2001年~2006年
- 2001年から2003年まで巨人の二軍投手コーチ、2004年から2005年まで巨人の一軍投手コーチ(2004年はブルペン、2005年はベンチ)、2006年は横浜の一軍投手コーチを歴任。
- 巨人の一軍投手コーチ時代にチーム防御率4.50、4.80と2年連続して球団のチーム防御率のワースト記録であったり、2005年はチーム防御率リーグ最下位でもあった。その投手陣の低迷が要因で2005年は8年ぶりのBクラスに沈んだり、横浜コーチ時代は前年横浜はチーム防御率2位だったが阿波野がコーチを務めた2006年はセ・リーグ唯一のチーム防御率4点台の4.25(チーム防御率リーグ最下位)と低迷しチームの最下位の要因の一つになった。また、巨人投手コーチを務めていた2005年に巨人OBで投手コーチも務めた中村稔に「私が見ている限り、投手コーチが選手に遠慮しています。あれではダメ。阿波野コーチが投手陣に信頼されてないのです。“あの人についていこう”とは思われてないのです。残念ながら阿波野コーチは、監督に言われて慌ててブルペンに電話したりと、やることが後手後手になることが多い。自分でゲームの流れを読んでいて監督にアドバイスするくらいじゃないと、監督の信頼は得られません」と批判されている。
- 2007年
- テレビ東京野球解説者に就任(札幌テレビ、スカイ・A sports+、JSPORTS、フジテレビONE「プロ野球ニュース」にも本数契約で出演している)。同年2月1日より住友金属鹿島硬式野球部の投手コーチに就任した。同部で現楽天の井坂亮平、現横浜の加賀繁らを指導した。
- 山田久志とは、阿波野の両親がともに山田と同郷の能代市出身者だったこともあり、新人時代から親交が深かった。
- 2011年
- 11月4日、二軍コーチとして巨人に復帰することが発表され[5]、11月19日に就任会見[6]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | 近鉄 | 32 | 30 | 22 | 3 | 4 | 15 | 12 | 0 | -- | .556 | 1002 | 249.2 | 211 | 27 | 58 | 2 | 4 | 201 | 3 | 0 | 86 | 80 | 2.88 | 1.08 |
1988 | 29 | 27 | 15 | 3 | 0 | 14 | 12 | 1 | -- | .538 | 898 | 220.1 | 199 | 21 | 51 | 6 | 5 | 181 | 1 | 0 | 66 | 64 | 2.61 | 1.13 | |
1989 | 29 | 28 | 21 | 5 | 0 | 19 | 8 | 1 | -- | .704 | 955 | 235.2 | 187 | 25 | 80 | 4 | 4 | 183 | 4 | 0 | 75 | 71 | 2.71 | 1.13 | |
1990 | 25 | 24 | 10 | 0 | 1 | 10 | 11 | 1 | -- | .476 | 815 | 190.2 | 192 | 33 | 62 | 5 | 3 | 141 | 5 | 2 | 111 | 98 | 4.63 | 1.33 | |
1991 | 13 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | -- | .500 | 163 | 38.1 | 41 | 7 | 12 | 0 | 2 | 20 | 4 | 0 | 22 | 21 | 4.93 | 1.38 | |
1992 | 19 | 16 | 2 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 408 | 93.2 | 95 | 5 | 38 | 1 | 4 | 77 | 2 | 0 | 38 | 35 | 3.36 | 1.42 | |
1993 | 22 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 244 | 50.2 | 69 | 11 | 30 | 3 | 0 | 38 | 0 | 0 | 43 | 39 | 6.93 | 1.95 | |
1994 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 58 | 10.1 | 22 | 2 | 6 | 1 | 0 | 9 | 1 | 0 | 14 | 14 | 12.19 | 2.71 | |
1995 | 巨人 | 24 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 139 | 29.1 | 33 | 2 | 19 | 2 | 2 | 26 | 2 | 0 | 19 | 14 | 4.30 | 1.77 |
1996 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 35 | 9.0 | 5 | 0 | 2 | 1 | 0 | 13 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3.00 | 0.78 | |
1997 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 1 | 0.0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | |
1998 | 横浜 | 50 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | -- | .800 | 237 | 54.0 | 50 | 6 | 22 | 1 | 4 | 44 | 3 | 2 | 29 | 28 | 4.67 | 1.33 |
1999 | 40 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 1 | -- | .200 | 295 | 62.2 | 79 | 10 | 24 | 0 | 6 | 41 | 1 | 0 | 49 | 44 | 6.32 | 1.64 | |
2000 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 66 | 15.2 | 15 | 1 | 5 | 0 | 2 | 11 | 0 | 0 | 8 | 8 | 4.60 | 1.28 | |
通算:14年 | 305 | 148 | 70 | 11 | 5 | 75 | 68 | 5 | -- | .524 | 5316 | 1260.0 | 1198 | 150 | 410 | 26 | 36 | 985 | 26 | 4 | 563 | 519 | 3.71 | 1.28 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- 新人王 (1987年)
- ベストナイン:1回 (1989年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1989年)
- 月間MVP:3回 (1987年4月、1989年5月、1989年8月)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1989年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1989年)
- UCCザ・マン賞:1回 (1989年)[7]
記録
- 初登板・初完投・初勝利:1987年4月12日、対ロッテオリオンズ戦(藤井寺球場)2-1 被安打6 奪三振8 四死球1
- 初完封:1987年4月18日、対西武ライオンズ戦(西武球場)3-0 被安打6 奪三振13 四死球5
- 初セーブ:1988年10月19日、対ロッテオリオンズ戦(川崎球場)4-3 9回より登板し、1回無失点
- オールスターゲーム出場:4回 (1987年 - 1990年)
- 日本シリーズ・3球団からの出場(1989年近鉄、1996年巨人、1998年横浜、シリーズタイ記録)
- 日本シリーズ・両リーグ勝利投手(近鉄で1989年第1戦、横浜で1998年第6戦、史上2人目)
背番号
- 14 (1987年 - 1994年)
- 28 (1995年 - 1997年)
- 49 (1998年 - 2000年)
- 75 (2001年 - 2006年)
- 72 (2012年 - )
関連情報
CM出演
- 近鉄特急アーバンライナー(1988年 - 1989年)
脚注
- ^ 阿波野vs西崎
- ^ 【5月20日】1990年(平2)宿命の同期・阿波野秀幸と西崎幸広 50勝に同日到達スポーツニッポン
- ^ 2000 ベースボール・レコード・ブック 101頁 1999年度主要記録集「6年ぶりの先発勝利」より。1993年4月14日の千葉ロッテマリーンズ戦以来である。
- ^ 他には若生智男(大毎・阪神・広島)、永尾泰憲(ヤクルト・近鉄・阪神)、大宮龍男(日本ハム・中日・西武)、中尾孝義(中日・巨人・西武)、工藤公康(西武・ダイエー・巨人)、中嶋聡(オリックス・西武・日本ハム)の6人
- ^ “巨人コーチに阿波野氏ら=プロ野球”. 朝日新聞. (2011年11月4日) 2011年11月19日閲覧。
- ^ “【巨人】阿波野が7年ぶりコーチ復帰会見”. 日刊スポーツ. (2011年11月19日) 2011年11月19日閲覧。
- ^ 『週刊ベースボール』1989年12月18日号
関連項目
- 神奈川県出身の人物一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- 亜細亜大学の人物一覧
- 平井雅幸(テレビ岩手アナウンサー) - 小学校・中学校の同級生で友人