最長片道切符の旅

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最長片道切符の旅』(さいちょうかたみちきっぷのたび)は、日本紀行作家宮脇俊三紀行文第二作である。1979年新潮社から刊行された。この旅は1978年であり、旅行後に宮脇が乗った路線列車の廃止が相次いだため、本書は後世からみて、当時の鉄道運行状況や沿線状況を記した貴重な記録になっている。

作品概要

処女作『時刻表2万キロ』で、当時の日本国有鉄道(国鉄)全線完乗を達成し中央公論社を退職した宮脇は、週末中心の旅行だった勤め人時代とは逆に自由な時間を得たため、存分に鉄道旅行を堪能しようと考えるが、全く制約のない状態では張り合いがないと嘆き「自由を享受しながら制約をつくりだし、時刻表の楽しみを回復するにはどうしたらよいのか」と考えた末、広尾線広尾駅1987年に廃止)から指宿枕崎線枕崎駅までを最長片道切符で旅することにした。ルート選定にあたってはレイルウェイ・ライターの種村直樹にも相談し、最終的には鉄道ファンの眼科医・光畑茂が算出したルートを採用した。

頭を悩ませるルート選定、駅員に迷惑がられる切符の購入を経て、1978年(昭和53年)10月13日に広尾駅を出発。最短距離2,764.2キロのところを13,319.4キロかけ、車内改札に来た車掌改札口の駅員に驚かれたり、呆れられたりしながらの長い長い旅が始まった。

本来であれば2ヶ月かけて全旅程をひと息に踏破したかったところ、ルートの選定と切符の購入に時間をとられているうちに、中央公論退職後の「一世一代の暇」がなくなってしまう。所用のためにまとまった日程がとれないため、切符のルートから「途中下車」して東京へ帰ってはまた中断地点に舞い戻り、を繰り返す。それに途中で風邪を引いたりしたため、切符の有効期限が迫ってきて…。

前作同様、抑制の効いた簡潔な文章に風景描写や筆者が悪戦苦闘する様子を巧みに織り込んだ、宮脇の代表作の一つである。

なお、2008年には、この時に宮脇がノートに残した取材メモが『最長片道切符の旅 取材ノート』として新潮社から刊行され、それに伴い本作も復刊された。

構成

-----(1回目の予定中断)-----
-----(2回目の予定中断)-----
-----(風邪による療養期間)-----
-----(3回目の予定中断)-----
-----(4回目の予定中断)-----

切符

  • 切符の値段は65,000円。有効期間は68日間だった。本来は広尾から枕崎まで中断なしで行けば、晩秋から初冬の日照時間の短い季節ながら、日中のみの移動で、かつ普通列車を中心に乗っても余裕のある日数であった。ところが所用により4回の中断を余儀なくされ、さらに第14日の後で風邪をひいて一週間寝こんだことで、旅行は6回に分断されることになった。首都圏のルートについては世田谷の自宅からの日帰りを繰り返しており、時刻表に詳細な発着時刻の記載もないことから事前に予定も立てられず、行った先の駅で次の電車の発車時刻を確認するようなありさまとなる。とても旅行という風情のない単なるノルマの達成にやる気も出ず、朝から出かけようと思っていたのに実際に家を出たのは昼過ぎという様子も描写している。風邪からの回復後は大幅に旅程を見直し、旅行日は始発から終電まで乗り通し、特急列車も頻繁に使って可能な限りの時短を試み、切符の有効期間中に枕崎に到着できるか否かのスリリングな展開となる。そもそも旅の目的自体と切符の有効期間は関係はないのであるが、最初は複雑な思いも持っていた切符に徐々に愛着を生じるようになり、この切符1枚でこの旅を完成させるのだ、という宮脇の心情が描かれている。
  • 切符には、途中下車の度に途中下車印が押されたため、最後は字が判読できないほど下車印だらけになっている。切符の写真は文庫版でも掲載されているほか、宮脇の死の翌年に放送されたNHKの『列島縦断 鉄道12000キロの旅 〜最長片道切符でゆく42日〜』の直前スペシャルで宮脇の書斎と共に紹介された。また、2008年に世田谷文学館で行われた「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」では切符の実物が出展されている[2]
  • 途中下車印でいっぱいになって、記載事項がみえなくなった為長野県の飯田駅で切符を再発行されそうになったが宮脇は断っている。

関連項目

脚注

  1. ^ 現在は新幹線に品川駅が開業したため、このルートで片道切符を発券することは出来ない。
  2. ^ 世田谷文学館公式サイトより

外部リンク