今野泰幸

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今野 泰幸
名前
愛称 鉄人[1]、ヤス、こんちゃん
カタカナ コンノ ヤスユキ
ラテン文字 KONNO Yasuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1983-01-25) 1983年1月25日(41歳)
出身地 宮城県仙台市太白区[2]
身長 178cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 南葛SC
ポジション MFDMF) / DFCBLSB[3]
背番号 15
利き足 右足[1]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2001-2003 コンサドーレ札幌 65 (2)
2004-2011 FC東京 254 (33)
2012-2019 ガンバ大阪 210 (17)
2019-2021 ジュビロ磐田 34 (1)
2022- 南葛SC 10 (0)
代表歴2
2001-2003  日本 U-19/20 13 (4)
2004  日本 U-23 9 (0)
2005-2017[4] 日本の旗 日本 93 (4)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年1月14日現在。
2. 2017年12月16日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

今野 泰幸(こんの やすゆき、1983年1月25日 - )は、宮城県仙台市太白区出身のプロサッカー選手関東サッカーリーグ南葛SC所属[5]。ポジションはミッドフィールダー守備的MF)、ディフェンダーセンターバック左サイドバック)。元日本代表

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校1年時からサッカーを始めた[6]。サッカー強豪校の東北高等学校には、スポーツ特待生に入れず[7] 一般受験で進学したが[8] ここで頭角を現し宮城県選抜[9] に選ばれ富山国体への出場、東北高では全国選手権への出場を経験。ナショナルトレセンやユース代表候補合宿への参加もあったが、プロクラブからの勧誘の対象にはならず、卒業後は地元のソニー仙台への加入が内定していた[2][10]

しかし、コンサドーレ札幌に練習参加する機会を得て[注 1]、札幌監督の岡田武史の注目するところとなり[11][12]、同クラブと契約。札幌への入団内定後に出場した高3冬の全国選手権ではベスト8に進出した[2]

サッカー協会のトレセンコーチから岡田武史氏に「いい選手がいるのですが、Jリーグのチームどこも興味を示さないのです」と電話がかかってきたという。

岡田はビデオを確認し「高校生で、こんなに厳しいアプローチができる選手がいるんだと目が釘付けになりました」と評価した。今野にコンタクトを取るも実業団のソニー仙台に社員として内定していた。また今野の両親も「うちの子は大したことないので、安定した会社勤めを」という本心だった。しかし岡田はソニー仙台の監督に「彼の将来のためにも」と直談判し、今野本人を説得し、コンサドーレ札幌に獲得したという。[13]

コンサドーレ札幌[編集]

札幌では、監督の岡田からボールホルダーへの素早いアプローチとボール奪取能力を評価され[14]、加入初年度の2001年から先発出場の機会を得た。さらに2001 FIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表に飛び級で選出されレギュラーポジションを獲得したものの、本大会直前の怪我により自身の出場を逃した[11]

2002年には主軸として期待され背番号が4に変更された。同年、U-19日本代表に招集され、AFCユース選手権・カタール大会キャプテンとして出場し[11] 準優勝に貢献。一方、札幌では新たに監督に就任した柱谷哲二によりレギュラーとして起用されたがチームは苦戦を強いられ、自身もシーズン途中での監督交代やリーグ最下位でのJ2降格(代表招集中に降格が決定[11])も味わった。

2003年12月にはU-20日本代表として、FIFAワールドユース選手権・UAE大会に出場[15]

FC東京[編集]

2004年に「J1であること」、「若手の出場機会が多い」、「まだタイトルを取った事が無いチームで、チームと共に成長できると思った」ことが決め手となり[16]、J1のFC東京に完全移籍した[17][18]。前年末のワールドユースが終了してすぐの[12] 1月からはU-23日本代表に飛び級で招集され、アジア地区最終予選では代表チームでただ一人全6試合にフル出場し[12]アテネオリンピック出場に貢献[注 2]。8月のオリンピック本大会にも出場した。同年のヤマザキナビスコカップ決勝では、FC東京のセンターバックであるジャーンが退場し1人でボランチを任されることになったが、延長戦を含む100分近い時間を守りきり、PK戦の末自身にとってもクラブとしても初のタイトル獲得を果たした。

当時のFC東京監督を務めた原博実は今野の守備力、特にボール奪取能力について「間合いの取り方も、相手への体の入れ方もうまいし、ファウルしないでボールを奪える。日本人離れしている」と絶賛した[20]。また、原からは攻撃面の能力を見出され[21]、2005年には自己最多となるリーグ戦7得点を記録。同年12月のJ1最終節では後半ロスタイムに同点ゴールを決め、結果的にセレッソ大阪の優勝を阻止した。ただし原は、自分で守りきれる能力があるために声を出して味方を動かすことができていない、と欠点も挙げており[22]、今野に声を出させるためにボランチのパートナーを外す[注 3]布陣を敷くこともあった[23][24]

2005年7月、東アジアサッカー選手権において日本代表に初選出され[25]、同大会の中国戦で国際Aマッチ初出場を記録した[4]。同年末、イタリア・セリエAUSレッチェから興味を持たれていたが、12月の天皇杯浦和レッドダイヤモンズ戦で左膝内側側副靱帯損傷してしまう[26]。イタリアに渡り診察を受けたものの、レッチェが想定する以上の重症だったことから[27] 正式オファーには至らなかった[28]

2006年10月、日本代表に選出され、ガーナ戦で代表では初めてとなるディフェンダーとして右センターバックのポジションでフル出場した。11月のサウジアラビア戦ではフォワードのヤセル・アル・カフタニのマークにつく一方で、果敢なオーバーラップから2点目をアシストし[注 4]、3点目の起点となるパスを配球[29][30]。いずれも我那覇和樹の得点を導いた。これ以後もオシムは「好みではないポジションも喜んでやる準備ができている」[31] と今野を高く評価し、サイドバックなど複数のポジションで起用した[19]

2007年12月初頭の天皇杯開催中に、今野の代理人である西真田佳典の売り込みにより[32]、浦和レッズ、ガンバ大阪名古屋グランパスエイトと移籍交渉を行なっていると報道されたが[33]、FC東京の次期監督就任が発表された城福浩と面談しチーム構想や強化方針に共感し、12月29日に残留が発表された[34]。この際の契約を経て今野はFC東京の最高年俸日本人選手となった[35]

2009年は第9節よりセンターバックにコンバートされ、玉際の強さや優れたカバーリングを発揮[6]。さらに両足でのフィード力を活かして同じくCBのブルーノ・クアドロス、ボランチの梶山陽平らとFC東京のポゼッションサッカーの起点となった[6][36]

オシム退任後、日本代表監督となった岡田武史は今野を「ユーティリティーがあって貴重な選手」と評し[37] 常に代表に選出。2010年に開催されたワールドカップ・南アフリカ大会日本代表メンバーにも選出し、宮城県出身選手として初となるワールドカップ日本代表選手となった。本大会直前に行われたコートジボワールとの親善試合で左膝靭帯損傷の怪我を負ったものの、懸命のリハビリを行い本大会に間に合わせ[38]、グループリーグ第3戦のデンマーク戦において途中出場を果たしたが、本大会での出場はこの1試合に終わった[注 5]

この年、FC東京監督の城福は今野を「日本でトップ・オブ・センターバック」と評し[40][41][42]、中盤の選手に負傷離脱が相次いだ中でもセンターバックに据え続けた。また、ボランチとしては前方へのパスを出す能力に課題があるがダイナミズムを出せるとして[42]、より攻撃に比重をかけたい状況になった場合には、控えディフェンダーを投入するなどして今野を中盤に上げるという起用法を採っていたが[41] 結果は伴わず、札幌所属時以来2度目のJ2降格を経験。

岡田の後任として日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニは、初采配となった2010年10月8日のアルゼンチン戦以降全試合で今野をセンターバックとしてスタメン起用した。2011年1月に開催されたAFCアジアカップでは、ザッケローニからディフェンス陣のリーダーに指名され[43]、同じくセンターバックの吉田麻也をリードし[44] 経験の少ない守備陣を統率。全試合にフル出場し(日本代表では今野と長友佑都のみ)、日本代表の優勝に貢献した。

2011年はキャプテンに就任[45]。J2最少失点となる堅守を築き、1年でのJ1復帰を達成。同年のJリーグアウォーズにてJ2 Most Exciting Playerの初代受賞者として表彰された[46]。また、主将の大役を任されたことでチーム全体へ目を向け、原から指摘された「声」についても積極的になり[47]、自身の殻を破る1年となった[48]天皇杯決勝の京都サンガF.C.戦では、先制を許した直後に同点ゴールを決め、チームの天皇杯初優勝に貢献。代表では11月11日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選タジキスタン戦で国際Aマッチ初得点を記録した[8][44]

ガンバ大阪[編集]

2012年、「一段階も二段階も上がっていかなきゃいけない」とさらなるチャレンジを目指すため[49]、ガンバ大阪へ完全移籍[50][51]ブラジルワールドカップ予選では、日本代表のワールドカップ出場に貢献した。7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、被災地選抜チーム「Jリーグ TEAM AS ONE」(ベガルタ仙台鹿島アントラーズの選手と東北地方出身選手による混成チーム)の一員として出場した。この年、G大阪は深刻な不振に陥り、失点数はリーグワースト2位を記録してしまうなど[52] シーズン通して守備陣を統率できず、自身3度目のJ2降格を喫した。

2013年、日本代表との並行日程のためリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、センターバックとボランチを並行してプレーし、それぞれのポジションで安定したプレーを披露して、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献した。

2014年、G大阪では前年に引き続きボランチでの起用が続いたが、代表との役割の違いから本調子とは程遠い状態が続き、チームもW杯ブラジル大会中断前は降格圏の16位に低迷してしまう。第8節大宮戦では途中出場で決勝ゴールを決めたが、自身が投入された直後に同点にされたことで試合後には「舌を噛んで死にたいと思いました。本当に」とコメントするなど精神的にも追いつめられていた[53]。5月、W杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出されたが、直前の親善試合や第1戦コートジボワール戦はスタメンから外れる。第2戦ギリシャ戦と第3戦コロンビア戦はスタメンで起用されたが、コロンビア戦では自身のファウルで相手にPKを献上してしまうなど、クラブでの不調からの脱却ができずチームもグループリーグ敗退となった。中断明け以降、ボランチに専念し遠藤保仁と共に中盤を締め、攻撃面でも間接的に絡むプレーを見せるなど自身が「人生最大のスランプ」と語った不調を払拭する好パフォーマンスを発揮[54][55]。11月にはハビエル・アギーレ体制となった日本代表にW杯以来となる復帰を果たし、11月18日の親善試合オーストラリア戦ではボランチとして出場し自身3年ぶりとなる代表での得点を決めた。自身の復調と共にG大阪も後半戦は猛烈な巻き返しを見せ、昇格1年目でのJ1優勝を果たし、さらにはG大阪の国内三冠達成に大きく貢献した。

2015年、1月にオーストラリアで行われたAFCアジアカップ2015ではグループリーグのイラク戦で左太もものハムストリング肉離れで戦線離脱し、2月のキャンプには復帰するもまたも同じ左太ももを故障し2015年シーズン開幕に間に合わなかった。自身が離脱中、チームは公式戦2分3敗と低空飛行を続けるも、4月上旬に復帰しその後は安定したプレーを見せ、G大阪の復調を支えた[56]CS準決勝浦和戦では先制ゴールを決め決勝進出に貢献。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーからゴールを決めるもいずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。天皇杯決勝浦和戦では試合開始早々に米倉恒貴が負傷交代したことで右サイドバックを務めることになり、勝ち越した後半は浦和の猛攻を受けるもこれを耐え抜き天皇杯連覇を達成した。

2016年、シーズン序盤はセンターバックに怪我人が相次いだことで第3節の大宮アルディージャ戦ではセンターバックとして出場した。

2017年はインサイドハーフが主戦場となった。3月23日に約2年ぶりに代表復帰を果たし、ワールドカップ最終予選のUAE戦ではスタメン出場で約2年半ぶりとなる代表でのゴールを決めた。しかし、この試合で左足小指を骨折し、途中離脱となってしまった[57]。負傷が癒えてから、6月4日の磐田戦で2ヶ月半ぶりの実戦復帰を果たし、その試合30分間だけのプレーだったが、UAE戦の活躍もありハリルホジッチの信頼も厚く、負傷明けすぐに招集された[58]。6月7日、負傷明け2試合目となったシリア戦にスタメンで出場し、代表2試合連続となる得点も挙げた[59]。7月29日、第19節のセレッソ大阪戦で、史上15人目となるJ1リーグ通算400試合出場を達成した[60]

2018年、シーズン開幕前に右足を負傷し、第4節の柏レイソル戦で今季初出場を果たしたものの、その後離脱を繰り返し、5月22日に右足関節前方インピンジメント症候群で手術を受けた[61]。ハリルホジッチが解任され、日本代表監督になった西野朗からW杯ロシア大会に向けたメンバーリストに選出されていたが、怪我の影響もあり3大会連続のW杯メンバー入りは叶わなかった[62]。W杯後も怪我で試合に出場出来なかったが、8月26日に行われたJ3リーグY.S.C.C.横浜戦にガンバ大阪U-23のオーバーエイジ枠として出場し、その復帰戦で得点も挙げた[63]。チームはJ2降格圏内にいたが、今野が復帰後はチームが勝ち出し[64]、21年ぶりの9連勝を達成してJ1残留を決めた。

ジュビロ磐田[編集]

2019年 7月ジュビロ磐田への完全移籍が発表された[65]。8月3日に行われたベガルタ仙台戦でスタメンで移籍後初出場を果たすと、前半32分に移籍後初ゴールも挙げた[66]。しかし、その後は順位は上がらず自身4度目となるJ2降格となった。11月にトレーニング中に腰痛を自覚し、腰椎椎間板ヘルニア、嚢腫に診断を受け12月に手術を行う。そのため、次期前半戦は欠場となった[67]

2020年6月、引退も考えるほどの怪我から復帰[68]。10月28日の東京V戦で右膝内側側副靭帯損傷のため、手術を受け2021年1月まで欠場した[69]。同年は9月にフベロ監督が辞任、鈴木監督に変わるなどJ1昇格は果たせなかった。

2021年は、シーズン序盤はフル出場を続けていたが、5月以降は途中出場が多く、スーパーサブの役割を担いチームのJ1昇格・J2優勝に貢献[70]。シーズン終了後、契約満了が発表された[71]

南葛SC[編集]

2022年1月25日、南葛SCに入団を発表[72]

プレースタイル[編集]

ボールホルダーへの素早いアプローチとボール奪取能力を武器とし[73]、スピード、球際や対人戦の強さ、カバーリング能力に優れている。危機察知能力も抜群で、様々な場面で安定した対応を見せる。またパスセンスもありビルドアップに長け、攻撃の起点にもなることができる。2009年に今野をセンターバックに固定して起用した城福浩は、「トップ・オブ・センターバック」とその能力を高く評している[49][74][75]

本来のポジションである守備的MF(ボランチ)、日本代表で務めていたセンターバックに加え、両サイドバックをこなすことができ、守備のユーティリティープレイヤーでもある[76]。豊富な運動量と国際経験も武器としたタフな選手である[77][78]。一方で、身長は178cmと絶対的な高さはない[74]

人物[編集]

  • 高校二年生当時、スクワットの計測値がその世代で全国トップ3に入るほどで、当たり負けすることがなかったという[79]。当時の測定記録には206kgの記録が残っている。
  • 2009年1月4日、読者モデルの経験がある一般女性との入籍を発表[80]。2011年8月23日、第1子の長男が誕生[81]
  • 生真面目な性格から、日本代表時代、クラブでもイジられ役として親しまれた[1][82]
  • 国内公式戦に1分でも出場したらワクチンを提供するというチャリティー活動を行っている[84][85]。今野は毎年夏に「今野カップ」という、今野自らがスポンサーとなって子ども達を招待するサッカーイベントを開催し、このイベントも「世界の子どもにワクチンを」の活動主旨に賛同している[86]。「今野カップ」は身近な事から社会貢献が出来ることを学んでもらうことを目的として、参加チームはペットボトルのキャップを集めてワクチンに変える社会貢献活動も行うことが恒例となっている。
  • 2010 FIFAワールドカップで着用したユニフォームは、選手全員のサインを添えて、日本代表専属シェフ西芳照へ贈られた[87]。西は翌年に回想録を出版。今野のユニフォームが表紙を飾っている[88]
  • 南アフリカワールドカップから帰国した2010年7月1日、日本代表選手団の記者会見中、突然岡田武史元監督から「それより今野が話したいことがあると言っているので」と促され、「物まねをやります。闘莉王さんの物まねです」とコメント。元日本代表DF田中マルクス闘莉王氏のモノマネを披露し、「あつまれーー!!」と闘莉王に似せた野太い声を張り上げると、会見場は大爆笑に包まれた[89]
    • このモノマネは大きな反響を呼び、当時所属のFC東京携帯サイトや携帯電話向け音楽配信サイト「レコチョク」で着ボイス配信された[90][91] ほか、代表で共に戦った長谷部誠長友佑都が対戦出演したフジテレビ系「食わず嫌い王決定戦」内でも木梨憲武がこのモノマネについて触れ、ワイプ画面にてモノマネ中の今野の姿が流されるなど一時話題の出来事となった。
    • 今野はその後、モノマネについて「W杯以降、闘莉王さんと連絡を取っていないから怒られるかも」と弱気な発言もしていた。闘莉王は8月8日に行なわれたFC東京との対戦を前に「勝たせてくれるなら許してやる」とジョークを飛ばし、さらに「みんなが(モノマネで)喜んでくれればいいよ」「コンちゃん(今野)とは仲いいしね」とコメントしている[92]
  • 2012年10月12日に行われたフランスとの親善試合ではCKからボールを奪い、50〜60mほどの長い距離をドリブルで独走するカウンターを仕掛け決勝点を導いたが[93]、海外の多くのメディアがこのゴールの得点者を、本来の香川真司ではなく今野であると誤報するほどのインパクトを残した[94]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2001 札幌 26 J1 17 0 1 0 1 1 19 1
2002 4 22 0 2 0 1 0 25 0
2003 J2 26 2 - 0 0 26 2
2004 FC東京 6 J1 26 4 7 1 3 0 36 5
2005 34 7 6 1 2 0 42 8
2006 28 5 6 0 2 0 36 5
2007 33 5 6 1 3 1 42 7
2008 32 4 2 0 3 0 37 4
2009 34 2 5 0 0 0 39 2
2010 34 5 3 0 3 0 40 5
2011 J2 33 1 - 4 1 37 2
2012 G大阪 15 J1 33 2 2 0 5 0 40 2
2013 J2 32 4 - 0 0 32 4
2014 J1 33 2 7 0 6 0 46 2
2015 31 3 4 0 4 0 39 3
2016 33 4 3 0 2 1 38 5
2017 24 2 4 0 2 0 30 2
2018 14 0 1 0 0 0 15 0
2019 10 0 5 0 0 0 15 0
磐田 2 5 1 - 0 0 5 1
2020 J2 6 0 - - 6 0
2021 23 0 - 3 0 26 0
2022 南葛 15 関東1部 10 0 - - 10 0
2023 14 0 - - - 14 0
2024 - -
通算 日本 J1 443 46 64 3 37 3 544 52
日本 J2 120 7 - 7 1 127 4
日本 関東1部 24 0 - - 24 0
総通算 587 53 64 3 44 4 695 56

その他の公式戦

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 期間通算
出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 期間通算
2018 G大23 15 J3 1 1 1 1
通算 日本 J3 1 1 1 1
総通算 1 1 1 1
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2012 G大阪 15 5 0
2015 8 0
2016 5 1
2017 3 1
通算 AFC 21 2

その他の国際公式戦

出場歴

タイトル[編集]

クラブ[編集]

FC東京
ガンバ大阪

ジュビロ磐田

代表[編集]

U-20日本代表

日本代表

個人[編集]

代表歴[編集]

出場大会[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 93試合 4得点(2005年 - 2017年)[4]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2005 3 0
2006 3 0
2007 8 0
2008 12 0
2009 7 0
2010 7 0
2011 15 1
2012 8 0
2013 15 0
2014 6 1
2015 3 0
2017 6 2
通算 93 4

ゴール[編集]

No. 開催年月日 開催地 スタジアム 対戦国 結果 試合概要
1.2011年11月11日タジキスタンの旗 ドゥシャンベ パミール・スタジアム タジキスタンの旗 タジキスタン○4-02014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
2.2014年11月18日日本の旗 大阪 ヤンマースタジアム長居 オーストラリアの旗 オーストラリア○2-1キリンチャレンジカップ2014
3.2017年3月23日アラブ首長国連邦の旗 アル・アイン ハッザーア・ビン・ザーイド・スタジアム アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦○2-02018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
4.2017年6月7日日本の旗 調布 味の素スタジアム シリアの旗 シリア△1-1キリンチャレンジカップ2017

出演[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

PV[編集]

書籍[編集]

  • 『観察眼』角川書店、2012年1月。ISBN 978-4041101100 遠藤保仁との共著
  • 『道を拓く力―自分をマネジメントするイメージ』日本経済新聞、2013年1月。ISBN 978-4532168599 

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 今野によれば、札幌での練習に呼ばれた経緯については「よく分かっていない」。今野の才が埋もれることを惜しんだソニー仙台監督の長澤和明から岡田への推薦があったとされているが、国体でのプレーを目にした小野剛が岡田に伝えたという話も、元々札幌のスカウト陣から注目されていたという話もあるとのこと[10]
  2. ^ 山本は予選突破のMVPを問われた際、「誰が一番(活躍した)というわけではないが」と述べつつも、今野を称賛している[19]
  3. ^ ボランチの中でも特に三浦文丈はリーダーシップを発揮するため、三浦を併用した時の今野はただ黙々とプレーしてしまっていた[23]
  4. ^ スポーツライターの西部謙司は、この2点目について「オシム・サッカーの要素が集約された得点」と批評した[29]
  5. ^ 同大会で対峙した選手の中では、マルク・ファン・ボメルを理想に近い選手として挙げている[39]
出典
  1. ^ a b c PLAYER'S DATABASE”. 2010年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月2日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)
  2. ^ a b c 今野だからこそのプレーを 東北高時代の恩師がエール 朝日新聞デジタル (2010年6月10日)
  3. ^ “Yasuyuki Konno”. NATIONAL FOOTBALL TEAMS. https://www.national-football-teams.com/player/12148/Yasuyuki_Konno.html 2024年3月23日閲覧。 
  4. ^ a b c “今野 泰幸”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/yasuyuki_konno.html 
  5. ^ 元日本代表MF今野泰幸の新天地は南葛SC!「『キャプテン翼』のチームでプレーできるなんて夢のようです」”. ゲキサカ. 2022年1月25日閲覧。
  6. ^ a b c 『FC東京ファンブック2010』朝日新聞出版、2010年、16頁。 
  7. ^ 『突破論』ベストセラーズ、2010年、141頁頁。ISBN 4584132275 
  8. ^ a b 「もうゴールできないかと…」今野54戦目の遅咲き1号 スポーツニッポン、2011.11.12
  9. ^ 宮城県出身・今野&佐々木 G大阪の東北コンビ対談”. スポーツ報知 東北版 (2012年2月18日). 2012年2月21日閲覧。
  10. ^ a b 道を拓く力,61-62頁
  11. ^ a b c d e f 本誌連動インタビュー VOL.901”. 2007年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2002年12月4日)
  12. ^ a b c Keiichi Chinoの辛口コラム Vol.236”. 2004年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2004年5月27日)
  13. ^ 岡田武史『岡田メソッド』英治出版、2019年、159頁
  14. ^ 挑む23選手:サッカーW杯日本代表DF・今野泰幸 毎日新聞、2010.06.03
  15. ^ コンサドーレ札幌 今野泰幸 選手 FIFAワールドユース日本代表チームメンバーに選出”. 2004年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 コンサドーレ札幌
  16. ^ 『FC東京ファンブック2004 今野泰幸「チームと共に成長したい」』毎日新聞社、2004年、72頁頁。ISBN 462079239X 
  17. ^ コンサドーレ札幌 今野泰幸選手 FC東京に完全移籍”. 2004年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 コンサドーレ札幌
  18. ^ 今野泰幸選手移籍加入決定のお知らせ”. 2004年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月25日閲覧。 FC東京 (2003年12月25日)
  19. ^ a b 今野泰幸(FC東京)ユーティリティーのスペシャリスト OCNスポーツ、Jリーグサッカーキング2011年6月号
  20. ^ 21世紀の骨のあるヤツ 第262回 @ぴあ、2005.07.15
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]