我那覇和樹

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我那覇 和樹 Football pictogram.svg
名前
カタカナ ガナハ カズキ
ラテン文字 GANAHA Kazuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1980年9月26日(36歳)
出身地 沖縄県那覇市
身長 181cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 カマタマーレ讃岐
ポジション FW / DF
背番号 9
利き足 右足
ユース
1996-1998 沖縄県立宜野湾高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2008 川崎フロンターレ 246 (69)
2009-2010 ヴィッセル神戸 19 (0)
2011-2013 FC琉球 88 (31)
2014- カマタマーレ讃岐 81 (9)
代表歴2
2006 日本の旗 日本 6 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年12月2日現在。
2. 2016年12月2日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

我那覇 和樹(がなは かずき、1980年9月26日 - )は、沖縄県出身のサッカー選手。ポジションフォワードJリーグカマタマーレ讃岐所属。元日本代表。

来歴[編集]

沖縄県那覇市出身。小学生の頃に宇栄原(うえばる)FCでサッカーを始め、小禄(おろく)中学校から沖縄県立宜野湾高等学校を卒業後、川崎フロンターレに入団した[1]

ルーキーイヤーの1999年5月2日、J2の仙台戦(仙台スタジアム)でデビュー。翌2000年には5月13日のJ1・1stステージの名古屋戦(等々力陸上競技場)で途中出場し、後半終了直前に日本代表ゴールキーパーの楢﨑正剛から初ゴールをあげた。そして1stステージ最終節のC大阪戦(長居スタジアム)での活躍をきっかけにレギュラーに定着。優秀新人賞(新人王に次ぐタイトル)を獲得した。

J2に降格した2001年は目立った活躍もなかったが、2002年途中から再びレギュラーポジションを奪取。2003年は開幕3試合連続ゴールを決めるなどの大活躍でチームを引っ張り、2004年には川崎のストライカーとして、J2リーグ得点ランク2位タイ(日本人選手としては最多タイ)の22得点を記録。J2優勝とJ1復帰の立役者となった。この年は11月23日の甲府戦(等々力)で、シーズンにおけるチーム100得点目を決めるなど節目のゴールを挙げている。

我那覇自身にとっても5シーズン振りのJ1挑戦となった2005年は、4月17日の名古屋戦(等々力)においてゴール前での味方選手との衝突により左脛骨陥没骨折のアクシデントに見舞われたが、7月に復帰し、J1リーグ戦では26試合に出場し6得点を挙げた。

2006年シーズン開幕戦の新潟戦(等々力)で、J1では自身初(J2も含めると3度目)のハットトリックを達成。第2節の京都戦(西京極)でも2得点し、得点ランキングで一時単独トップに立った。同年のJリーグオールスターカシマスタジアム)では、監督推薦によりJ-EASTの選手として初選出。その後リーグ戦ではゴールを量産し続け、シーズン終了時には18得点でJリーグ得点ランキング第3位となった(広島佐藤寿人と並ぶタイ記録)。

2006年の活躍を認められ、同年日本代表監督に就任したイビチャ・オシムにより日本代表に初選出される(沖縄県出身者としては初めての日本代表選手[1])。オシムジャパン最初の試合となった8月9日の国際親善試合、トリニダード・トバゴ戦(国立霞ヶ丘陸上競技場)で先発出場。同年9月6日のアジアカップ予選、イエメン戦(サナア)では後半途中から出場し、ロスタイムに決勝点となる代表初ゴールを決める。同年11月15日のアジアカップ予選、サウジアラビア戦(札幌ドーム)では、前半29分、後半5分に相次いで得点を挙げ、1試合2得点をマークした。

2007年シーズンは、前シーズン終盤に痛めた怪我の影響で出遅れたものの徐々に調子を上げ、4月21日の浦和戦(埼玉スタジアム2002)では、浦和のホーム不敗記録を16試合で止める得点を奪った。しかし、その翌々日の練習後、体調不良によりチームドクターから受けた点滴治療(当時は「ニンニク注射」と誤報道)が問題視され、ドーピング違反で6試合出場停止処分を受けた。

これに対し我那覇は処分の取り消しを求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴し、2008年5月27日、CASは我那覇の訴えを全面的に認め、Jリーグに対し、CAS史上最高額となる2万ドルのペナルティを科す裁定を下した[2][3][4]。その後、2008年シーズン終了をもって契約期間満了により、10年間所属した川崎を離れることとなり、2009年シーズンからはヴィッセル神戸への加入が決まった。背番号は前年まで神戸に在籍した大久保嘉人の番号であり、チームの歴史でも永島昭浩などのプレイヤーが背負ってきた「13」に決まった。しかしカイオ・ジュニオール監督時代から怪我の影響で出場機会に恵まれなかった。2010年は前年6月にVfLヴォルフスブルクから復帰した大久保に背番号「13」を譲り、自身は川崎時代から愛着のある背番号9に変更。しかし、2010年シーズンのリーグ戦は途中出場の8試合で無得点に終わり、同年12月5日、契約満了により神戸を退団。

12月21日に地元・沖縄のFC琉球からのオファーにより同チームへの入団が決定した。

2014年、カマタマーレ讃岐へ完全移籍[5]。4年ぶりにJリーグへ復帰した。

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 リーグ杯 天皇杯 期間通算
1999 川崎 27 J2 3 0 0 0 3 2 6 2
2000 J1 18 2 7 2 1 0 26 4
2001 17 J2 31 2 3 1 5 1 39 4
2002 27 21 3 - 5 4 26 7
2003 40 13 - 4 4 44 17
2004 9 42 22 - 3 2 45 24
2005 J1 26 6 2 0 3 2 31 8
2006 32 18 9 3 1 0 42 21
2007 18 1 1 0 1 0 20 1
2008 15 2 5 2 2 0 22 4
2009 神戸 13 11 0 3 1 1 0 15 1
2010 9 8 0 0 0 1 0 9 0
2011 琉球 JFL 27 6 - 1 0 28 6
2012 28 13 - 0 0 28 13
2013 33 12 - 2 0 35 12
2014 讃岐 J2 26 3 - 1 0 27 3
2015 31 5 - 1 0 32 5
2016 24 1 - 1 0 25 1
通算 日本 J1 128 29 27 8 10 2 165 39
日本 J2 218 49 3 1 23 13 244 63
日本 JFL 88 31 - 3 0 91 31
総通算 434 109 30 9 36 15 500 133
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2007 川崎 9 5 0
通算 AFC 5 0

代表歴[編集]

試合数[編集]


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2006 6 3
通算 6 3

ゴール[編集]

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2006年9月6日 イエメンの旗 イエメンサナア イエメンの旗 イエメン ○ 1-0 AFCアジアカップ2007予選
2. 2006年11月15日 日本の旗 日本札幌 サウジアラビアの旗 サウジアラビア ○ 3-1
3.

個人タイトル[編集]

エピソード[編集]

  • 2000年のJ1ファーストステージ最終節で勝てば優勝だったセレッソ大阪相手に先制点を挙げた。その後は同点に追いつかれるが、延長戦において浦田尚希Vゴールをアシストし、C大阪の優勝を阻止している。
  • 2001年シーズンのJ2最終節において、途中出場ながら延長戦で山形の昇格を阻止するゴールを決めている。
  • 私生活では2004年に長男が誕生。生まれた直後の試合では家族に捧げるハットトリックを達成している。
  • テレビ朝日系のサッカー情報番組『やべっちFC』初期のオープニングに、我那覇の映像がこっそり使われていたことがある。同番組MCの矢部浩之は本人から言われるまで知らなかった。
  • 我那覇のキャッチフレーズとして時折メディアで使用される「島人(しまんちゅ)ストライカー」はサンケイスポーツの命名である。
  • フジテレビ系『ジャンクSPORTS』の中で、同郷の諸見里しのぶ(女子プロゴルファー)とともに「カナヅチ」であることを告白。「海は泳ぐものでなく見るものデス」という迷言を残した。
  • 2007年、無申請での静脈注射でドーピング規定に違反したとして、6試合の出場停止処分、チームには1000万円の罰金が課された。しかし、実際は点滴ビタミンを追加していただけであり、全JクラブのドクターからJリーグに質問状が提出されるという異例の事態が発生した。その後、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)は今回のケースが世界アンチ・ドーピング機関 (WADA) の規約違反にはならないとの判断を示した。Jリーグが規約集に掲げるWADA及びFIFAのルール基準では申請の必要性は無い。2007年末、我那覇とその弁護団はJリーグの処分を不服とし、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) へ仲裁の申し立てを行った。また、Jリーグ選手協会(JPFA, 藤田俊哉会長)も我那覇側の支持を表明。公式サイトでは仲裁申し立て費用の募金活動を行っていた。
  • 2008年、ナビスコ杯千葉戦では上述のドーピング騒動で潔白が証明された直後という事もあり、アウェーでの試合にもかかわらず千葉サポーターからも拍手で迎えられた。
  • 2011年に移籍したFC琉球で監督を務めていた新里裕之は、高校時代の同期である。

出版[編集]

関連書籍[編集]

  • 2011年12月 『争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール』 (集英社インターナショナル、木村元彦) ISBN 4797672013

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]