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2023年12月5日 (火) 06:28時点における版
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作成年不明のサイン | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | 闘将、テツ | |||||
カタカナ | ハシラタニ テツジ | |||||
ラテン文字 | HASHIRATANI Tetsuji | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1964年7月15日(59歳)[1] | |||||
出身地 | 京都府京都市 | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1983-1986 | 国士舘大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1992 | 日産自動車 | 97 | (2) | |||
1992-1998 | ヴェルディ川崎 | 183 | (13) | |||
代表歴 | ||||||
1988-1995 | 日本 | 72 | (6) | |||
監督歴 | ||||||
2002 | コンサドーレ札幌 | |||||
2008 | 東京ヴェルディ | |||||
2011-2015 | 水戸ホーリーホック | |||||
2016 | ガイナーレ鳥取 | |||||
2017 | ヴァンラーレ八戸 | |||||
2018 | ギラヴァンツ北九州 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
柱谷 哲二(はしらたに てつじ、1964年7月15日 - )は、京都府京都市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者・解説者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。元日本代表。
出場時の多くはキャプテンとしての出場であり、チームを激しく鼓舞するその姿から「闘将」と呼ばれた[2]。現役引退後はJリーグ選手協会[3] 及びJリーグ選手OB会それぞれの初代会長を務める[4]。
来歴
選手として
日産自動車サッカー部、ヴェルディ川崎、日本代表等でセンターバック、守備的MFを務め長年活躍。日産では加茂周監督の下、「ボランチ」という言葉が日本国内に普及する以前に中盤の底の役割を確立し、1992年にはこのポジションの選手としては初となるJSL年間最優秀選手に選出された[5]。しかし1991-92年シーズンのJSLの終了後、日産のライバルチームである読売ヴェルディに移籍、すぐにJリーグカップ優勝を経験するなど[6]、チームの中心メンバーの一人として1998年まで在籍した。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦となったマリノス戦に出場、5月29日の浦和戦でJリーグ初ゴールを挙げた[7]。1998年のシーズン終了後、高年俸だったことと、チームの若返りを図る意図からV川崎から「0円提示」。現役続行の意思を表明していたが、他チームからオファーが来ずそのまま現役を引退した[8]。Jリーグでは通算183試合に出場、13ゴールを挙げた[7]。
1988年1月27日のアラブ首長国連邦戦で代表デビューを果たすと[9]この試合で代表初ゴールを挙げた。1992年からのオフトジャパン時代にはキャプテンに指名される[10]。1993年開催のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選のイラク戦でも主将として先発フル出場[9]、ドーハの悲劇を経験した。加茂ジャパン発足後もでもキャプテンに指名されていた。1996年オーストラリア遠征の代表メンバーに選出されていたが、この時はコンディションの悪さから参加を辞退、以降は怪我もあり代表から遠ざかった[11]。1988年から1995年までの間に日本代表に選出され、Aマッチ72試合に出場した[12]。
引退後
その後NHKなどで解説者を務めていた。
2002年、岡田武史の後任としてコンサドーレ札幌監督に内定。前年に講習を受けていたS級ライセンス取得後に正式に就任となった。J1リーグ戦と ナビスコカップを含めた公式戦13試合で2勝と低迷し、2002 FIFAワールドカップ開催中の6月に解任された。札幌は16チーム中最下位でJ2リーグへ降格した。
2001年から2002年まで国士舘大学サッカー部のコーチに就任したが、天皇杯で国見高校に敗れた。
2003年に浦和レッドダイヤモンズのコーチに就任し、主にサテライトを中心に指導。
2005年にJ2・東京ヴェルディ1969のコーチに就任。2006年から監督を務めるラモス瑠偉をサポートし2年がかりでのJ1復帰を果たした。
2008年からラモスの監督退任に伴い東京Vの監督に就任。札幌時代以来、6年ぶりとなるJ1クラブの指揮を執ることになった。最終節の敗戦を受けて、18チーム中17位と降格が決定。シーズン終了後に監督を退任した。
2011年シーズンより、J2・水戸ホーリーホック監督に就任。2015年6月、成績不振により解任された[13]。
2016年シーズンより、J3・ガイナーレ鳥取監督に就任[14] したが、同シーズン限りでの退任が11月に発表された[15]。
2017年シーズンより、JFLのヴァンラーレ八戸監督に就任[16]。2017年11月、昇格を果たせなかったことなどを理由として八戸の監督を退任した[17]。
2018年3月、花巻東高校サッカー部のテクニカルアドバイザーに就任[18]。
同年6月20日、J3・ギラヴァンツ北九州の監督に就任[19]。11月2日、契約満了により北九州の監督を退任すると発表された[20]。
エピソード
- 横浜F・マリノスへのライバル心が強く、試合後の会見で「1993年Jリーグ開幕節で負けたときのことを今でも覚えている。その時の悔しさが少しでも晴れたのかと」とコメントしている[21] が、柱谷はJリーグ開幕前までは日産の選手であり、チームに溶け込むのに時間がかかったほどである[22]。
- 1994年W杯予選中に、選手、監督が瓦解しそうになるが、キャプテンとしてラモス瑠偉を始めチームメイトとの話し合いを重ね、チームを1つにまとめ上げた[23]。
- 2012年4月8日の千葉戦ではレフェリーの判定に対して納得がいかず、ペットボトルを叩きつけたことによって退席処分、1試合のベンチ入り禁止処分を受けている[24]。
所属クラブ
- 1980年 - 1982年 京都商業高校(現・京都学園高校)[1]
- 1983年 - 1986年 国士舘大学[1]
- 1987年 - 1992年 日産自動車[1]
- 1992年 - 1998年 ヴェルディ川崎[1]
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987-88 | 日産 | 16 | JSL1部 | 12 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 15 | 0 |
1988-89 | 22 | 0 | 5 | 0 | 5 | 0 | 32 | 0 | |||
1989-90 | 4 | 21 | 2 | 4 | 0 | 5 | 0 | 30 | 2 | ||
1990-91 | 5 | 20 | 0 | 4 | 0 | ||||||
1991-92 | 22 | 0 | 3 | 0 | |||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | 11 | 0 | 5 | 0 | 16 | 0 | |
1993 | 31 | 3 | 1 | 0 | 2 | 0 | 34 | 3 | |||
1994 | 40 | 2 | 3 | 0 | 2 | 0 | 45 | 2 | |||
1995 | 46 | 5 | - | 2 | 0 | 48 | 5 | ||||
1996 | 22 | 2 | 10 | 0 | 0 | 0 | 32 | 2 | |||
1997 | 5 | 16 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 21 | 0 | ||
1998 | 28 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 | |||
通算 | 日本 | J | 183 | 13 | 30 | 0 | 16 | 0 | 229 | 13 | |
日本 | JSL1部 | 97 | 2 | 16 | 0 | ||||||
総通算 | 280 | 0 |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合1得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1994年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1995年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1997年
- XEROX SUPER CUP 1試合1得点
個人タイトル
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 72試合 6得点[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1988 | 5 | 1 |
1989 | 10 | 0 |
1990 | 6 | 1 |
1991 | 2 | 1 |
1992 | 11 | 0 |
1993 | 14 | 2 |
1994 | 9 | 1 |
1995 | 15 | 0 |
通算 | 72 | 6 |
得点数
# | 年 | 月日 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1988年 | 1月27日 | アラブ首長国連邦、ドバイ | アラブ首長国連邦 | 1-1 | 国際親善試合 |
2 | 1990年 | 9月26日 | 中国、北京市 | バングラデシュ | 3-0 | 1990年アジア競技大会 |
3 | 1991年 | 6月2日 | 日本、天童市 | タイ | 1-0 | キリンカップサッカー |
4 | 1993年 | 4月15日 | 日本、東京 | スリランカ | 5-0 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
5 | 4月18日 | アラブ首長国連邦 | 2-0 | |||
6 | 1994年 | 10月5日 | 日本、尾道市 | ミャンマー | 5-0 | 1994年アジア競技大会 |
指導歴
- 2001年 - 2002年 国士舘大学サッカー部 コーチ[1]
- 2002年 - 2002年 コンサドーレ札幌 監督[1]
- 2003年 - 2005年 浦和レッドダイヤモンズ コーチ[1]
- 2006年 - 2008年 東京ヴェルディ1969/東京ヴェルディ[1]
- 2010年 国士舘大学サッカー部 コーチ[1]
- 2011年 - 2015年6月 水戸ホーリーホック 監督[1]
- 2016年 ガイナーレ鳥取 監督
- 2017年 ヴァンラーレ八戸 監督
- 2018年 - 花巻東高校サッカー部テクニカルアドバイザー
- 2018年6月 - 同年12月 ギラヴァンツ北九州 監督[25]
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | 備考 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | Jリーグカップ | 天皇杯 | ||||
2002 | J1 | 札幌 | - | 3 | 7 | 1 | 0 | 6 | 予選リーグ敗退 | - | 途中解任 |
2008 | 東京V | 17位 | 37 | 34 | 10 | 7 | 17 | 予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 | ||
2011 | J2 | 水戸 | 17位 | 42 | 38 | 11 | 9 | 18 | - | ベスト16 | |
2012 | 13位 | 56 | 42 | 15 | 11 | 16 | - | 3回戦敗退 | |||
2013 | 15位 | 55 | 42 | 14 | 13 | 15 | - | 3回戦敗退 | |||
2014 | 15位 | 50 | 42 | 12 | 14 | 16 | - | 3回戦敗退 | |||
2015 | 21位 | 13 | 17 | 3 | 4 | 10 | - | - | 途中解任 | ||
2016 | J3 | 鳥取 | 15位 | 30 | 30 | 8 | 6 | 16 | - | 2回戦敗退 | |
2017 | JFL | 八戸 | 5位 | 51 | 30 | 15 | 6 | 9 | - | 3回戦敗退 | |
2018 | J3 | 北九州 | - | - | 途中就任 | ||||||
J1通算 | - | - | 41 | 11 | 7 | 23 | - | - | - | ||
J2通算 | - | - | 177 | 55 | 51 | 75 | - | - | - | ||
J3通算 | - | - | 30 | 8 | 6 | 16 | - | - | - | ||
JFL通算 | - | - | 30 | 15 | 6 | 9 | - | - | - | ||
総通算 | - | - | 248 | 74 | 70 | 114 | - | - | - |
書籍
著書
- 日本サッカー 革命の記憶と予感(Kosaido soccer selection、2002年3月13日)ISBN 9784331508732
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『柱谷 哲二氏 来季監督就任のお知らせ』(プレスリリース)水戸ホーリーホック、2010年11月10日 。2013年6月29日閲覧。
- ^ “元日本代表主将・柱谷哲二氏、花巻東高サッカー部アドバイザー就任/東北スポーツ”. SANSPO.COM (2018年3月4日). 2020年7月20日閲覧。
- ^ “JPFAとは|歴史”. JPFA 日本プロサッカー選手会. 2020年7月20日閲覧。
- ^ a b “JリーグOB会設立へ、会長は柱谷哲二氏”. 日刊スポーツ (2009年10月13日). 2020年7月20日閲覧。
- ^ “【日本代表ボランチの系譜】柱谷哲二から遠藤保仁まで。変移する“ハンドル”の理想形は「遠藤+今野」の資質を持つ人材?”. サッカーダイジェストWeb (2015年10月23日). 2020年7月20日閲覧。
- ^ “1992 Jリーグ ヤマザキナビスコカップ決勝”. data.j-league. 2021年4月3日閲覧。
- ^ a b “柱谷哲二”. data.j-league. 2021年4月3日閲覧。
- ^ “「レジェンド!」「頼れる闘将」柱谷哲二氏がツイッターを始動!「現役時代から大好き」と往年のファンも反応”. サッカーダイジェスト (2020年4月12日). 2020年7月15日閲覧。
- ^ a b “1993年10月28日 vsイラク”. samuraiblue. 2021年4月3日閲覧。
- ^ “柱谷哲二の最重要ミッションは「監督と選手の仲を取り持つこと」だった”. web Sportiva (2020年1月30日). 2020年7月20日閲覧。
- ^ “「テツ!絶対に勝てよ!」衝撃だった川淵三郎との出会い、オフトvsラモスの衝突…柱谷哲二が語るドーハの悲劇とW杯を諦めた瞬間”. Number (2020年1月31日). 2022年5月28日閲覧。
- ^ “J3北九州監督に柱谷哲二氏 元日本代表”. 西日本スポーツ. 2021年4月3日閲覧。
- ^ 『柱谷 哲二監督 解任のお知らせ』(プレスリリース)水戸ホーリーホック、2015年6月7日 。2015年6月7日閲覧。
- ^ 『柱谷 哲二氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)ガイナーレ鳥取、2015年12月13日 。2015年12月13日閲覧。
- ^ 『柱谷哲二監督 来季の契約について』(プレスリリース)ガイナーレ鳥取、2016年11月1日 。2016年11月1日閲覧。
- ^ 『監督就任のお知らせ』(プレスリリース)ヴァンラーレ八戸、2016年12月7日 。2016年12月7日閲覧。
- ^ 『柱谷哲二監督 退任のお知らせ』(プレスリリース)ヴァンラーレ八戸、2017年11月22日 。2017年11月23日閲覧。
- ^ “柱谷哲二氏、花巻東のテクニカルアドバイザーに就任 4日から指導開始”. デイリースポーツ (2018年3月2日). 2018年3月2日閲覧。
- ^ “柱谷 哲二 氏 監督就任のお知らせ”. ギラヴァンツ北九州 (2018年6月20日). 2018年6月20日閲覧。
- ^ 『柱谷 哲二 監督 契約満了のお知らせ』(プレスリリース)ギラヴァンツ北九州、2018年11月2日 。2018年12月12日閲覧。
- ^ “J1:第10節 東京V vs 横浜FM”. J's Goal. 2013年6月30日閲覧。
- ^ [93年カルビーサッカーカードのNo.147より]
- ^ 『日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(上)』(プレスリリース)賀川サッカーライブラリー、2005年11月1日 。2017年11月12日閲覧。
- ^ [水戸]柱谷監督「レフェリーに問題がある」 - サッカー専門新聞エル・ゴラッソweb版 BLOGOLA、2012年4月18日。(2012年4月22日時点のアーカイブ)
- ^ 花巻東高サッカー部テクニカルアドバイザーとの兼任
外部リンク
- 柱谷哲二 - National-Football-Teams.com (英語)
- 柱谷哲二 - Soccerway.com (英語)
- 柱谷哲二 - FootballDatabase.eu (英語)
- 柱谷哲二 - WorldFootball.net (英語)
- 柱谷哲二 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 柱谷哲二 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- 柱谷哲二 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 柱谷哲二 - J.League Data Siteによる選手データ
- 柱谷哲二 - J.League Data Siteによる監督データ
- ARSによる紹介
- 柱谷哲二 (@HASHIRATANI_t) - X(旧Twitter)
- 柱谷哲二 (@thashiratani) - X(旧Twitter)
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- 国士舘大学サッカー部の選手
- 日産自動車サッカー部の選手
- 東京ヴェルディ1969の選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- キング・ファハド・カップ1995出場選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ1992出場選手
- アジア競技大会サッカー日本代表選手
- 日本のサッカー指導者
- 北海道コンサドーレ札幌の監督
- 浦和レッドダイヤモンズの人物
- 東京ヴェルディ1969の監督
- 水戸ホーリーホックの監督
- ガイナーレ鳥取の監督
- ヴァンラーレ八戸の監督
- ギラヴァンツ北九州の監督
- 高校サッカー指導者
- 京都先端科学大学附属高等学校出身の人物
- 京都市出身の人物
- 1964年生
- 存命人物
- ブラウブリッツ秋田の人物