ジャック・ランザ
| ジャック・ランザ | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | ブラックジャック・ランザ カウボーイ・ジャック・ランザ |
| 本名 | ジャック・ランザ |
| ニックネーム | 黒い荒馬 |
| 身長 | 193cm |
| 体重 | 115kg - 120kg |
| 誕生日 | 1942年10月14日(70歳) |
| 出身地 | ニューメキシコ州アルバカーキ |
| 所属 | WWE |
| スポーツ歴 | レスリング ロデオ |
| トレーナー | ドリー・ファンク・シニア バーン・ガニア |
| デビュー | 1962年 |
| 引退 | 1985年 |
ジャック・ランザ(Jack Lanza、1942年10月14日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、現WWEプロデューサー、ロード・エージェント。ニューメキシコ州アルバカーキ出身[1]。
現役選手時代はブラックジャック・ランザ(Blackjack Lanza)のリングネームで知られ、ブラックジャック・マリガンとのタッグチーム「ザ・ブラックジャックス」などで活躍した。
目次 |
来歴 [編集]
カウボーイの家系に育ち、学生時代はレスリングに熱中する一方、ロデオでも活躍。南部3州のロデオ大会で優勝したこともあるという[1]。ドリー・ファンク・シニアにスカウトされ[1]、1962年にプロレスラーとしてデビュー。当初はカウボーイ・ジャック・ランザをリングネームに、西部の伊達男風のベビーフェイスとして売り出されていたが、1967年にインディアナ州のWWAでヒールに転向。ボビー・ヒーナンをマネージャーに従えブラックジャック・ランザと改名し、当時のWWA世界王者ウイルバー・スナイダーとの抗争で脚光を浴びる。NWA圏のミズーリ州セントルイスではアーニー・ラッドとも抗争を展開した。
その後1971年、ビッグ・ボブ・ウインダムことブラックジャック・マリガンと黒ずくめのカウボーイ・コンビ「ザ・ブラックジャックス」を結成。WWAとAWAを股にかけて、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争を繰り広げた。1973年には単身でニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場し、ペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦[2]。10月15日のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦している[3]。
1974年はテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に進出、マリガンとのブラックジャックスで同地区のタッグ戦線を席巻する一方、シングルでは10月にホセ・ロザリオからブラスナックル王座を奪取し[4]、同年末にかけてはフリッツ・フォン・エリックとアメリカン・ヘビー級王座を争った[5]。WWWFには1975年にもマリガンと共に参戦[6]、8月26日にフィラデルフィアでドミニク・デヌーチとパット・バレットのチームを破り、WWWF世界タッグ王座を獲得した[7][8]。
1976年にブラックジャックスを解散してAWAに復帰。ボビー・ダンカンを新パートナーにして同年7月23日、ブルーザー&クラッシャーに勝利し第32代AWA世界タッグチャンピオンとなった[9]。AWAでは1978年にボブ・オートン・ジュニアともタッグを結成している。1979年にはマネージャーのヒーナンと共に、ジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦し、5月14日にボブ・アームストロングからTV王座を奪取[10]。4日後の5月18日、アトランタのオムニ・コロシアムで行われたジョージア・タッグ王座争奪トーナメントにはロン・バスと組んで出場、1回戦でボブ・アームストロング&ロバート・フラー、2回戦でダスティ・ローデス&ディック・スレーターを下し勝ち進んだが、準決勝でワフー・マクダニエル&トミー・リッチに敗れた[11]。オムニ・コロシアムでは、同年9月21日にスタン・ハンセンともシングルマッチで対戦している[12]。
1980年に体調を崩して一時リタイアした後、1983年に古巣のAWAで復帰。かつてと同様にヒールのポジションでジェシー・ベンチュラやケン・パテラと共闘し、NWAセントルイス地区ではキール・オーディトリアムにてデビッド・フォン・エリックやジェリー・ローラーとも対戦したが、同年秋にマネージャーのボビー・ヒーナンと仲間割れ。これを機に、白いテンガロンハットとタキシード・ジャケットを身に着けたベビーフェイスに変身した。1984年3月4日にはイリノイ州シカゴにて、日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取したジャンボ鶴田のアメリカでの初防衛戦の相手も務めており[13]、この試合は日本でも中継されている。
AWAではフロント職のブッカーとしても才能を発揮し、「AWAの頭脳」とも評されたが、その手腕をビンス・マクマホンに見込まれ、1985年にロード・エージェントとしてWWFへ移籍。以降、四半世紀以上に渡り、パット・パターソンらと共にWWEの隆盛を裏方で支え続けている。2006年4月1日にはマリガンとのブラックジャックスでWWE殿堂に迎えられた。
日本との関わり [編集]
日本には1966年7月に本名のジャック・ランザ名義で日本プロレスに初来日。ブラックジャック・ランザに改名後の1971年7月には国際プロレスにマネージャーのヒーナンを帯同して来日。ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。
3度目の来日は1978年12月の全日本プロレス。当時のAWA世界王者ニック・ボックウィンクルと共に、AWA代表チームとして世界最強タッグ決定リーグ戦の第1回大会に参加した。ファンの注目を集めていたニックの影に隠れる形となったものの、ニックとはヒーナン・ファミリーの盟友でもありチームワークは抜群だった。また、テリー・ファンクに十八番のブレーン・クローを決め、そのままリング外へ放り投げたこともあった。
以降は選手として来日することはなかったが、前述のように1984年、シカゴのローズモント・ホライズンで行われたAWA世界王者ジャンボ鶴田とのタイトルマッチが全日本プロレス中継にて放送された。
WWEのスタッフとなってからは、1991年3月30日に開催されたSWSとの合同興行『レッスル・フェスト in 東京ドーム』(メインイベントはハルク・ホーガン&天龍源一郎対リージョン・オブ・ドゥーム)や、1994年5月に行われたWWF初の単独日本遠征『マニア・ツアー』(ブレット・ハート、ジ・アンダーテイカー、ヨコズナらが参加)などに、現場の総責任者として来日している[14]。
相棒マリガンとのブラックジャックスとしての来日は、一度も実現することがなかった。日本での異名は、マリガンの「黒い猛牛」に対し、ランザは「黒い荒馬」と呼ばれていた[1]。
WWEでの重職 [編集]
WWEでは1985年以来、ロード・エージェントとなって試合のストーリー構成や選手の管理業務に携わっている。パット・パターソンやトニー・ガレアのようなマクマホン・シニアの代からのブレインではない「外様」の幹部ではジェリー・ブリスコと並ぶ古株である。戦力外と判断されれば選手同様に裏方の人間も頻繁に解雇されるWWEにあって20年以上も要職を務めており、ビンスからは「会社を任せられる男」として全幅の信頼を寄せられている[15]。
歴代スーパースターからの信任も厚く、スティーブ・オースチンは自著でランザのことを「親父のような存在」などと評している[15]。 ランザはオースチンがリング・マスターのニックネームでWWF入りした1995年当時から目をかけ、専任エージェントとして彼の試合のほとんどのブックを手掛けた。ストーン・コールドのキャラクターで大ブレイクしてからも、オースチンはランザにアドバイスを仰いでいたという[15]。
また、人気面では不発に終わったが1997年にはバリー・ウインダムとジャスティン・ブラッドショー(ジョン・レイフィールド)のニュー・ブラックジャックスのプロデュースも担当した。レイフィールドとは義理の叔父と甥の関係にある。
得意技 [編集]
- テキサス・ブレーンバスター(Texas Brainbuster)
- 投げ技のブレーンバスターではなく、ブラックジャックをはめた右拳を相手のこめかみにドリル状に押しつけてギブアップを奪う技。
- ブレーン・クロー
- ブルドッギング・ヘッドロック
- ダイビング・ニー・ドロップ
- コブラ・クラッチ
獲得タイトル [編集]
- WWWF世界タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)[7][8]
- WWE Hall of Fame:2006年度(ザ・ブラックジャックスとして殿堂入り)
- AWA世界タッグ王座:1回(w / ボビー・ダンカン)[9]
- WWA世界タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)[16]
- NWAテキサス・ブラスナックル王座:2回[4]
- NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ブラックジャック・マリガン)[17]
- NWAアメリカン・タッグ王座:2回(w / ブラックジャック・マリガン)[18]
- NWAジョージアTV王座:1回[10]
脚注 [編集]
- ^ a b c d 『THE WRESTLER BEST 1000』P179(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ “WWE Yearly Results 1973”. The History of WWE. 2009年3月17日閲覧。
- ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2009年9月14日閲覧。
- ^ a b “NWA Texas Brass Knuckles Title History: East Texas version”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月21日閲覧。
- ^ “NWA American Heavyweight History”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月21日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1975”. The History of WWE. 2009年3月17日閲覧。
- ^ a b “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年5月24日閲覧。
- ^ a b “WWWF-WWF-WWE World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月2日閲覧。
- ^ a b “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年3月17日閲覧。
- ^ a b “NWA Georgia Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年3月17日閲覧。
- ^ “Georgia Wrestling History Cards & Results 1979-2”. Georgia Wrestling History. 2010年5月24日閲覧。
- ^ “Georgia Wrestling History Cards & Results 1979-3”. Georgia Wrestling History. 2012年7月18日閲覧。
- ^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1984”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月2日閲覧。
- ^ 『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』P314-315(2011年、東邦出版、ISBN 4809409511)
- ^ a b c 『ストーンコールド・トゥルース』P142-144(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757719302)
- ^ “WWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ “NWA Texas Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ “NWA American Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
外部リンク [編集]
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