大隈重信
大隈 重信 おおくま しげのぶ | |
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大礼服を着用した大隈 | |
生年月日 |
1838年3月11日 (旧暦:天保9年2月16日) |
出生地 |
日本 肥前国佐賀 (現・佐賀県佐賀市水ヶ江) |
没年月日 | 1922年1月10日(83歳没) |
死没地 | 日本 東京府東京市早稲田 |
所属政党 |
(立憲改進党→) (無所属→) (立憲改進党→) (進歩党→) (憲政党→) 憲政本党 |
称号 |
従一位 大勲位菊花章頸飾 侯爵 |
配偶者 | 美登(離別、二人の間に長女・熊子)、綾子 |
親族 |
大隈信常(養子) 大隈英麿(娘婿) 大隈信幸(養孫) |
サイン | |
第8代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次大隈内閣 |
在任期間 | 1898年6月30日 - 1898年11月8日 |
天皇 | 明治天皇 |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1914年4月16日 - 1916年10月9日 |
天皇 | 大正天皇 |
第28代 外務大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1915年8月10日 - 1915年10月13日 |
第32代 内務大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1915年7月30日 - 1915年8月10日 |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1914年4月16日 - 1915年1月7日 |
その他の職歴 | |
第13代 外務大臣 (1898年6月30日 - 1898年11月8日) | |
第10代 外務大臣 (1896年9月22日 - 1897年11月6日) | |
第11代 農商務大臣 (1897年3月29日 - 1897年11月6日) | |
第3-4代 外務大臣 (1888年2月1日 - 1889年12月24日) | |
貴族院議員 (1916年7月14日 - 1922年1月10日) |
大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。
政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。
生涯
生い立ち
佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。
重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。
大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。
明治維新
明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。同年、三枝綾子と再婚。明治3年(1870年)に参議に補され、1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。
大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。
自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。
下野後
野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。ただ、明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。
外務大臣から総理大臣へ
大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した[注釈 1]。 明治29年(1896年)、 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。
明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。
政界引退
明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。
明治41年(1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[2]。
政界に復帰、首相へ
第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会、大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこない、翌年1月には外相・加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。ただし、その後日本側は、第五号の7項目を除外した[3]。この間の1月12日には、乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人に爆弾を投げられているが、爆弾が不発だったために事無きを得ている[4]。内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された[注釈 2]。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した[注釈 3]。 退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。
この間、大正5年(1916年)7月14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる[7]。
死後
大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去、1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。
人物
人物像
- 日本の暦を現在でも使われているグレゴリオ暦に変えた。
- 「あるんである」、若しくは、「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[注釈 4]。
- 現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版する時も口述筆記ですませ、死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。
しかし、例外もある。大日本帝国憲法の御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署の部分で、『大隈重信』の文字だけがあまり達筆ではない。内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければいけないので、外務大臣の身である大隈の貴重な直筆であることがわかる[9]。
人間関係
- 伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。
- 明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。
- 大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集[10]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[11]。
- 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切り捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[12]。
- 政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。いったいどうなるかと、周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという[13]。
- 明治39年(1906年)頃、当時園芸家を目指していた後の衆議院議員・山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。
- 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで、両者の親交は深まった。大隈は、新島亡き後も徴兵制の改正に端を発した同志社紛争の調停に尽力したほか、京都に行った時は必ず同志社に立ち寄り演説していたと言う。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。
- 日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵とも親交があった。1896年5月、大隈は女子大学設立に奔走する成瀬の訪問を受け、協力を要請される。その後、大隈は大学創立委員会委員長となった[14]。1901年に日本女子大学は設立され、大隈は終身評議員となり[15]、1919年の成瀬の告別式には弔辞を寄せている[16]。また大隈の寄付によって、大学の校庭に花園が作られている[17]。坪内逍遙ら早稲田大学の教員が日本女子大学での講義を担当したほか、1999年7月に早稲田大学と日本女子大学の間で学生交流協定が締結され、双方の大学の講義を履修することが可能となっている[15]。
- 鳳が横綱に昇進した際に土俵入りで太刀持ちが使う太刀を贈った。
逸話
- 浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3,384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった[18]。
- あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。
- 日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mm(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという(池田邦彦「鉄道史の分岐点」イカロス出版、2005年)。なお、「日本の改軌論争」も参照。
- 日本初の地方遊説を行った首相でもある。
- 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた澁澤榮一の後押しを得て、日印協会を設立している[19]。
- 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った[20]。
- 大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。
- 人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。
- お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。
後世
- 昭和44年(1969年)から同45年(1970年)にかけて、早稲田大学出版部で「大隈伯昔日譚」などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。
- 大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、平成19年(2007年)に東大先端科学技術センターにより公開された。
栄典・授爵
- 明治元年5月6日 - 従五位下[21]
- 明治2年2月 - 従四位下[21]
- 明治4年12月9日 - 正四位[21]
- 明治5年10月25日 - 御剱一口[21]
- 1877年(明治10年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章[21]
- 1871年(明治14年)7月22日 - 従三位[21]
- 1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵[21][22]
- 1887年(明治20年)12月26日 - 正三位[21][23]
- 1888年(明治21年)2月17日 - 従二位[21]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[21][24]
- 1898年(明治31年)6月20日 - 正二位[25]
- 1907年(明治40年)2月2日 - 御紋付御杯[26]
- 1910年(明治43年)4月29日 - 勲一等旭日桐花大綬章[27]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[28]
- 1916年(大正5年)7月14日 - 大勲位菊花大綬章・侯爵[29]
- 1922年(大正11年)1月10日 - 従一位・菊花章頸飾[30]
- 外国勲章佩用允許
- 1882年(明治15年)2月22日 - ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章[21]
- 1889年(明治22年)5月7日 - ロシア帝国白鷲大綬章[21][31]
- 1897年(明治30年)5月20日 - ドイツ帝国赤鷲大綬章[32]
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)3月3日 - オーストリア=ハンガリー帝国グランクロワードロルドルドレオポール勲章[35]
- 1910年(明治43年)2月14日 - 清国頭等第三双竜宝星[36]
- 1916年(大正5年)
系譜
- 大隈家
- 「大隈家は、伝承によれば、菅原道真の血筋を受け継いでいるという。戦国時代末、その末裔である家泰(いえやす)が筑後国大隈村(現福岡県久留米市梅満町)に土着して大隈に改姓。家泰の孫・大隈孝家(たかいえ)が肥前国中津江村に移住して、やがて鍋島氏に仕えたのだと伝えられる。」という[39][40]。
- 系図
- ※実線は実子。破線は養子。
大隈家泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(略) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安兵衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
五大夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦兵衛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
嘉一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満辰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信保 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重信 | 松浦詮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熊子 | 英麿 | 信常 | 久原房之助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊子 | 信幸 | 磐子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | 明子 | 治子 | 里砂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 最初の妻・美登との長女・熊子:幼名は犬千代[41]。南部利剛の次男・英麿を婿養子に迎えるが、明治35年(1902年)に離婚。
- 2番目の妻・綾子は旗本・三枝七四郎の次女で、小栗忠順の親戚。綾子の兄の三枝守富(小倉鉄道取締役)の三女・光子は重信の養子・信常の妻。
- 養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男。侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。
- 大隈重信公の玄孫ではない人物
彫像
大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。
- 早稲田大学
- 早稲田大学早稲田キャンパスには2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は昭和7年(1932年)10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた。右足を失った後の姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である彫刻家の朝倉文夫は大隈像を3回制作しているが、この立像は2回目のもの。高さは298cmあり、大隈講堂の方向を向く形で設置されている。受験期には受験生により賽銭が供えられることも少なくない。
- また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は大隈講堂内にあり、制作者は同じく朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。1907年に大学創立25周年と大隈の数え年70歳を記念して建てられた[43]。1916年に綾子夫人像の建設が計画されると、若手教授や学生達の反対運動が起こり、大隈銅像前に400名が集まり反対演説をした[43]。綾子夫人像の建設は一旦中止されたが、10年後に大隈会館に設置され、現在は大隈庭園にある[43]。
- これら以外にも、他のキャンパスに大隈の胸像が設置されている。
- 国会議事堂
- 国会議事堂にある大隈像は、中央広間1階に日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。昭和13年(1938年)2月に明治憲法発布50周年を記念して作られた。
- 大隈記念館
- 佐賀県佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は昭和63年(1988年)4月に大隈重信の生家跡地に建てられた。大礼服姿の立像で、高さは180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。
- 大隈重信旧宅
- 佐賀県佐賀市にある大隈重信の旧宅は、武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されている。庭園には、波多野敬直の筆による「大隈重信侯の生誕地」の記念碑が建っている。
著作
単著
- 『国議院設立意見』伊藤博文、1881年。NDLJP:1170238。 - 伊藤博文写の複製。
- 『菅公談』東京専門学校出版部、1900年10月。NDLJP:781576。
- 円谷胖治 編 編『政務調査に関する大隈総理の演説』憲政本党本部、1901年4月。NDLJP:783389。
- 『大隈伯時局談』大隈重信 述、博文館、1905年2月。NDLJP:1881412。 - 肖像あり。
- 早稲田大学編輯部 編 編『大隈伯演説集』早稲田大学出版部、1907年10月。NDLJP:782937 NDLJP:898212。 - 政治及外交につき15編、経済は財政につき6編、教育及宗教につき6編を収録。
- 『日本産業論』工業之日本社、1909年11月。NDLJP:801572。
- 立石駒吉編 編『大隈伯社会観』文成社、1910年10月20日。NDLJP:994558。
- 『国民読本』丁未出版社 ほか、1910年3月。NDLJP:783078。 - 共同刊行:宝文館。
- 『経世論』冨山房、1912年11月。NDLJP:1884915。 - 肖像あり。
- 『開国大勢史』早稲田大学出版部、1913年4月28日。NDLJP:950601 NDLJP:3440192。 - 共同刊行:実業之日本社。
- 『明治大帝の御遺業』国民教育講習会、1913年7月11日。NDLJP:905851。
- 『経世論』 続編、富山房、1913年10月23日。NDLJP:949416。
- 『立憲国民訓』大隈重信 述、中興館書店、1914年3月10日。NDLJP:950038。
- 『青年訓話』(補再版)丸山舎書籍部、1914年5月31日。NDLJP:951391。
- 堀尾太郎 編 編『国民教育の大本』明誠館、1914年6月22日。NDLJP:980197。
- 『国民小読本』丁未出版社 ほか、1914年。NDLJP:1185199。 - 共同刊行:宝文館。
- 『國民二十訓』丁未出版社、1915年6月。NDLJP:1886570。
- 堤康次郎 編 編『日支民族性論』 前,後編、大隈重信 述、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第6,7巻〉、1915年7月20日。NDLJP:933424 NDLJP:933425。
- 『国民教育論』通俗大学会〈通俗大学文庫 第2編〉、1915年11月10日。NDLJP:933451。
- 『国体の精髄』大隈重信 述、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第10巻〉、1915年12月22日。NDLJP:925183。
- 『中心勢力移動論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第15巻〉、1916年4月1日。NDLJP:933431。
- 大隈侯爵講演集記念刊行会 編 編『大隈侯爵講演集 帰郷記念』大隈重信 述、大隈侯爵講演集記念刊行会、1918年3月3日。NDLJP:957495。
- 『縱談横語』大隈重信 述、日本書院、1918年9月。NDLJP:1886637。 - 肖像あり。
- 偉人言行研究会 編 編『現代青年に告ぐ』大隈重信 述、大盛堂書店 ほか、1919年4月25日。NDLJP:961614。 - 共同刊行:城北書房。
- 野中正 編 編『青年の為に』東亜堂〈袖珍名家文庫 第4編〉、1919年6月21日。NDLJP:933317。 - 「袖珍名著文庫」,「縮刷名家文庫」トセルモノモアリ。
- 『世界大戦以来 大隈侯論文集』大観社、1919年6月28日。NDLJP:955655。
- 『人種問題』早稲田大学出版部〈世界改造叢書 第5編〉、1919年11月22日。NDLJP:962255。
- 『働け働け飽迄働け』日本書院、1921年2月10日。NDLJP:961796。
- 池田林儀 編 編『隈侯閑話』報知新聞社出版部、1922年3月13日。NDLJP:986584。
- 『吾輩の社會觀』大隈重信 述(改版)、大鐙閣、1922年3月。NDLJP:1880669。 - 肖像あり。
- 野畑一男 編 編『大勢を達觀せよ』大隈重信 述、帝國講學會 (発売)、1922年3月。NDLJP:1880883。
- 相馬由也 編 編『大隈侯論集』實業之日本社、1922年4月。NDLJP:1880958。 - 折り込あり。
- 『東西文明之調和』早稲田大学出版部 ほか、1922年12月30日。NDLJP:962817。 - 共同刊行:実業之日本社、大日本文明協会。
- 『東西文明の調和』大日本文明協会、1923年1月15日。NDLJP:1088402。
- 『東西文明之調和』早稲田大学出版部、1936年。NDLJP:1914426。
- 『東西文明之調和』早稲田大学出版部、1990年10月。ISBN 4-657-90039-0。 - 大隈 (1922f)の複製。
- 円城寺清 編 編『大隈侯昔日譚』新潮社、1922年。NDLJP:1908934。 - 『大隈伯昔日譚』(大正3再版刊)の改題書。
- 相馬由也 編 編『早稲田清話』冬夏社、1922年。NDLJP:964461。
- 『大隈重信東京遷都談』東半球協会〈東半球資料 第21号〉、1941年12月25日。NDLJP:1274751。
- 高野善一 編 編『大隈重信のことば』稲言社、1964年。NDLJP:2976303。 - 付:文献181-185頁。
- 円城寺清 編 編『大隈伯昔日譚』 1巻、大隈重信 述、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、1980年9月。ISBN 978-4-13-097857-6 。 - 立憲改進党々報局(明治28年刊)の複製。
- 円城寺清 編 編『大隈伯昔日譚』 2巻、大隈重信 述、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、1981年4月。ISBN 978-4-13-097858-3 。 - 立憲改進党々報局(明治28年刊)の複製。
- 早稲田大学大学史編集所 編 編『大隈重信とその時代 議会・文明を中心として 大隈重信生誕一五〇年記念』早稲田大学出版部、1989年10月。ISBN 4-657-89029-8。
選集
大隈文書
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 第1巻、早稲田大学社会科学研究所、1958年。NDLJP:2987595。
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 第2巻、早稲田大学社会科学研究所、1959年。NDLJP:3025422。
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 第3巻、早稲田大学社会科学研究所、1960年。NDLJP:3025423。
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 第4巻、早稲田大学社会科学研究所、1961年。NDLJP:3025424。
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 第5巻、早稲田大学社会科学研究所、1962年。NDLJP:3025425。
- 早稲田大学社会科学研究所 編 編『大隈文書』 総目次、早稲田大学社会科学研究所、1963年。NDLJP:2987627。
- 早稲田大学図書館 編 編『大隈文書補遺』雄松堂書店(発売)、1978年。 - 箱入(23cm)各箱2リール。
大隈重信叢書
- 早稲田大学史編集所 編 編『大隈重信叢書』 第1巻、早稲田大学出版部、1969年。 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈重信は語る : 古今東西人物評論』。
- 『大隈重信は語る』木村毅 監修(新装版)、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書 1〉、1988年3月。ISBN 978-4-657-69402-7 。
- 早稲田大学史編集所 編 編『大隈重信叢書』 第2巻、早稲田大学出版部、1969年。 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈伯昔日譚』。
- 『大隈伯昔日譚』木村毅 監修(新装版)、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書 2〉、1988年3月。ISBN 978-4-657-69004-3 。
- 早稲田大学史編集所 編 編『大隈重信叢書』 第3巻、早稲田大学出版部、1969年。 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈侯昔日譚』、『大隈侯昔日譚補』。
- 『大隈侯昔日譚』木村毅 監修(新装版)、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書 3〉、1988年3月。ISBN 978-4-657-69803-2 。
- 早稲田大学史編集所 編 編『大隈重信叢書』 第4巻、早稲田大学出版部、1970年。 - 監修者:木村毅。内容細目:『薩長劇から国民劇へ : 明治政党興亡史談』。
- 『薩長劇から国民劇へ』木村毅 監修(新装版)、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書 4〉、1988年3月。ISBN 978-4-657-70202-9 。
- 早稲田大学史編集所 編 編『大隈重信叢書』 第5巻、早稲田大学出版部、1970年。 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈侯座談日記』。
- 『大隈侯座談日記』木村毅 監修(新装版)、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書 5〉、1988年3月。ISBN 978-4-657-70503-7 。
共著
- Eikichi Igarashi; Hideomi Takahashi (1906), The national wealth of Japan, revised by H. E. Baron Ei-ichi Shibusawa., The National Wealth of Japan Pub. Office, NDLJP:1675446 - Translated into English by Yoshitarō Takenobu.
編著
- 大隈重信 編 編『開国五十年史』 上、下巻、附録、開国五十年史発行所、1907-1908。NDLJP:991350 NDLJP:991351 NDLJP:991352。
- Count Shigénobu Okuma, ed. (1909), Fifty years of new Japan (Kaikoku gojūnen shi), 2 v., English version ed. by Marcus B. Huish., Smith, Elder - "Fifty-six chapters ... contributed by almost as many authorities."--Note.
- 開国五十年史, 大隈重信 撰, 開国五十年史発行所, (1909-9), NDLJP:773216 - 『開国五十年史』(明治40-41年刊)の大部分を漢訳したもの。
- 『開国五十年史』大隈重信 撰、原書房〈明治百年史叢書〉、1970年。 - 『開国五十年史』(明治40-41年刊)の複製。
序文
- Tadayoshi Sakurai (1999), edited by Alice Mabel Bacon ; introduction to the Bison books edition by Roger Spiller., ed., Human bullets: a soldier's story of Port Arthur, with an introduction by Count Okuma ; translated by Masujiro Honda, University of Nebraska Press, ISBN 080329266X - Covertitle:Human bullets : a soldier’s story of the Russo-Japanese War.
脚注
注釈
- ^ 事件直後、現場を通りかかった高木兼寛により最初の処置が行われ、その後に駆け付けたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ、佐藤進、伊東方成、岩佐純、池田謙斎らと高木による協議で右足の切断が決定された[1]。その右脚切断手術は佐藤やベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
- ^ 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた[5]。
- ^ ただし、大隈が元老に加えられたとする文献がまれにあるほか、元老同様に次期首相について天皇の下問を受けたこともある[6]。また、死去するまで貴族院侯爵議員であった。
- ^ 「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある[8]。
出典
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)60頁
- ^ 幸運社 (2002, p. 249)
- ^ 有馬 (1999, pp. 111–113)
- ^ 和田清美『明宝寒水史』78-79頁
- ^ 岡 (2001, p. 109)
- ^ 百瀬 & 伊藤 (1990, pp. 13f)
- ^ 『官報』第1188号、大正5年7月17日。
- ^ 岡崎 (1987, p. 195)
- ^ 『大日本帝国憲法と日本国憲法』石渡隆之(主任公文書専門官)『北の丸』第14 号(昭和57 年1 月刊行)より (国立公文書館デジタルアーカイブ)
- ^ 織田 (1943)
- ^ a b 大隈をめぐる人々 早稲田大学公式サイトより
- ^ 木村 (2000, p. 113)
- ^ 『知ってるつもり?!』「大隈重信」(日本テレビ放送網/1998年2月15日放送)
- ^ “伊藤博文、西園寺公望、大隈重信ら重鎮に協力求める…失敗すべてかぶる覚悟で”. 産経新聞. (2015年6月8日) 2016年1月15日閲覧。
- ^ a b “特集・広がるネットワーク~国内協定校との学生交流~”. 早稲田大学. 2016年1月15日閲覧。
- ^ “成瀬仁蔵 その生涯 ─"永劫(とわ)"に生く”. 日本女子大学. 2016年1月15日閲覧。
- ^ “写真で見る日本女子大学の110年”. 日本女子大学. 2016年1月15日閲覧。
- ^ カトリック長崎大司教区 Home 教区の歴史 大浦天主堂の建立 信徒発見 浦上四番崩れ
- ^ “【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)「日印協会」の変遷”. 産経新聞 (産経新聞社). (2008年9月28日)
- ^ 木村 (2000, p. 237)
- ^ a b c d e f g h i j k l 「大隈重信」 アジア歴史資料センター Ref.A06051165900
- ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
- ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第4491号「叙任及辞令」1898年6月21日。
- ^ 『官報』第7077号「宮廷録事 - 恩恵」1907年2月4日。
- ^ 『官報』第8054号「叙任及辞令」1910年4月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第2830号「叙任及辞令」大正11年1月11日。
- ^ 『官報』第1754号「叙任及辞令」1889年5月8日。
- ^ 『官報』第4166号「叙任及辞令」1897年5月25日。
- ^ a b 『官報』第4509号「叙任及辞令」1898年7月12日。
- ^ 『官報』第4528号「叙任及辞令」1898年8月3日。
- ^ a b 『官報』第4583号「叙任及辞令」1898年10月7日。
- ^ 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。
- ^ 『官報』第1159号「叙任及辞令」1916年6月13日。
- ^ 『官報』第1034号「叙任及辞令」1916年1月15日。
- ^ 国民リーダー大隈重信, p. 97, - Google ブックス
- ^ 片岡 (2009, p. 97)
- ^ 大園 (2005, p. 178)
- ^ 大隈和英. “おおくま 和英”. facebook. 2015年1月11日閲覧。
- ^ a b c 平瀬礼太、「夫人像の建設巡り紛糾「大隈重信像」」(銅像はつらいよ十選 5)、日本経済新聞、2013年12月19日
参考文献
- 有馬学『日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本 1905〜1924』中央公論新社〈中公文庫〉、2013年3月25日。ISBN 978-4-12-205776-0 。
- 大園隆二郎『大隈重信』西日本新聞社〈西日本人物誌 18〉、2005年4月。ISBN 978-4-8167-0628-8 。
- 岡義武『近代日本の政治家』山内昌之 解説、岩波書店〈岩波現代文庫〉、2001年8月17日。ISBN 4-00-603042-8 。
- 岡崎久彦『陸奥宗光』 上巻、PHP研究所〈PHP文庫〉、1990年11月。ISBN 978-4-569-56280-3 。
- 織田萬『法と人』春秋社〈春秋社教養叢書〉、1943年4月20日。NDLJP:1276009。
- 片岡寛光『国民リーダー 大隈重信』冨山房インターナショナル、2009年7月。ISBN 978-4-902385-76-2 。
- 木村時夫『知られざる大隈重信』集英社〈集英社新書〉、2000年12月15日。ISBN 4-08-720069-8 。
- 幸運社『意外と知らない「もののはじまり」 ワインはもともと猿の酒?』PHP研究所〈PHP文庫〉、2002年11月1日。ISBN 4-569-57841-1 。
- 平瀬礼太『銅像受難の近代』吉川弘文館、2011年1月31日。ISBN 978-4-642-03803-4 。
- 百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』伊藤隆 監修、吉川弘文館、1990年1月1日。ISBN 978-4-642-03619-1 。
関連項目
関連作品
- 映画
- 日本暗殺秘録(1969年、日本、役者:矢那木邦二郎)
- 商魂一代 天下の暴れん坊(1970年、日本、役者:芥川比呂志)
- テレビドラマ
- 大いなる旅路(1972年、日本テレビ、役者:内藤武敏)
- 命もいらず名もいらず 西郷隆盛伝(1977年、TBS、役者:真田五郎)
- 大河ドラマ
- いま暁の鐘が(1978年、毎日放送、役者:浜畑賢吉)
- 雲を翔びこせ(1978年、TBS、役者:石坂浩二)
- 雄気堂々 (1982年、NHK、役者:三上真一郎)
- 若き血に燃ゆる (1984年、テレビ東京、役者:東野英心)
- 田原坂(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、役者:加茂雅幹)
- 夜会の果て(1997年、NHK、役者:長門裕之)
- The Partner 〜愛しき百年の友へ〜(2013年、TBS、役者:柄本明)
- あさが来た(2015年 - 2016年、日本、NHK連続テレビ小説、役者:高橋英樹)
外部リンク
- 大隈重信 | 近代日本人の肖像
- “早稲田大学サイト 「創設者 大隈重信」”. 早稲田大学. 2013年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月9日閲覧。
- 第2次大隈重信内閣成立|史料にみる近代日本
- 歴代総理の写真と経歴 第8・17代 首相官邸サイト
- 国立国会図書館 憲政資料室 大隈重信関係文書(MF:早稲田大学蔵)
公職 | ||
---|---|---|
先代 伊藤博文 山本権兵衛 |
内閣総理大臣 第8代:1898年6月30日 - 同11月8日 第17代:1914年4月10日 - 1916年10月9日 |
次代 山縣有朋 寺內正毅 |
先代 伊藤博文 西園寺公望 西徳二郎 加藤高明 |
外務大臣 第3・4代:1888年2月1日 - 1889年12月24日 第11代:1896年9月22日 - 1897年11月6日 第14代:1898年6月30日 - 同11月8日(兼任) 第29代:1915年8月10日 - 同10月13日(兼任) |
次代 青木周蔵 西徳二郎 青木周蔵 石井菊次郎 |
先代 原敬 大浦兼武 |
内務大臣 第30代:1914年4月16日 - 1915年1月17日(兼任) 第32代:1915年7月30日 - 同8月10日(兼任) |
次代 大浦兼武 一木喜徳郎 |
先代 榎本武揚 |
農商務大臣 第13代:1897年3月29日 - 同11月6日 |
次代 山田信道 |
学職 | ||
先代 創設 |
早稲田大学総長 初代:1907年 - 1922年 |
次代 塩澤昌貞 |
爵位 | ||
先代 創設 |
大隈侯爵家 初代:1916年 - 1922年 |
次代 大隈信常 |
先代 創設 |
大隈伯爵家 初代:1887年 - 1916年 |
次代 陞爵 |