ロディ・パイパー
"ラウディ" ロディ・パイパー | |
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プロフィール | |
リングネーム |
"ラウディ" ロディ・パイパー マスクド・カナディアン |
本名 | ロドリック・ジョージ・トゥームズ |
ニックネーム |
ホット・ロッド 狂乱のスコッチ |
身長 | 183cm |
体重 | 103kg(全盛時) |
誕生日 | 1954年4月17日 |
死亡日 | 2015年7月30日(61歳没) |
出身地 |
カナダ サスカチュワン州 サスカトゥーン |
スポーツ歴 | ボクシング |
トレーナー |
スチュ・ハート ジョージ・ゴーディエンコ |
デビュー | 1969年 |
引退 | 2011年 |
"ラウディ" ロディ・パイパー("Rowdy" Roddy Piper、本名:Roderick George Toombs、1954年4月17日 - 2015年7月30日[1])は、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーン出身、アメリカ合衆国オレゴン州ヒルズボロ居住のプロレスラー、俳優。生年は1950年または1952年説もある。
ニックネームはホット・ロッド(Hot Rod)、日本での異名は「狂乱のスコッチ」。スコットランド系カナダ人だが、ギミック上の出身地はスコットランドのグラスゴーとされており、入場曲はバグパイプで演奏され、試合以外の場面では常にキルトスカートを纏っている。体格的には決して恵まれてはいないが、卓越した試合センスとマイクパフォーマンスの巧みさで1980年代のアメリカン・プロレスを代表するトップスターとなった。
来歴
NWA時代
少年時代スコットランドに移住した経験があり、バグパイプの演奏法もその際に学んだという。その後カナダに戻り、中学時代にボクシングの全カナダ王者となったが、拳を負傷しボクシングを断念。本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート、デビュー戦の相手だったラリー・ヘニングには秒殺されたという[2]。その後NWAのロサンゼルス地区に渡り、ラフファイトを主体とするヒールのスコッチ・ギミックを確立。アメリカス・ヘビー級王座を巡るチャボ・ゲレロとの抗争で注目を浴びる[2]。
1977年8月に新日本プロレスに初来日。外国人エース格のスタン・ハンセンやブラックジャック・マリガンのパートナーに起用されてメインイベントにも出場し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している[3]。また、バグパイプを吹きながらの入場シーンも話題を呼んだ。その後、覆面レスラーのマスクド・カナディアン(The Masked Canadian)に一時的に変身し、1978年1月27日にロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、その4日前にニューヨークでホセ・エストラーダを破りWWFジュニアヘビー級王者となった藤波辰巳の初防衛戦の挑戦者を務めた[4][5]。同年3月にはマスクド・カナディアンとして新日本プロレスに再来日し、シリーズ開幕戦である3月3日の高崎市大会にて、藤波の凱旋帰国試合の相手も務めている[6]。翌1979年1月11日には本拠地のロサンゼルスでも、藤波のWWFジュニアヘビー級王座に素顔で再挑戦した[4][7]。
その後、オレゴンおよびワシントン地区のパシフィック・ノースウエスト・レスリングに進出、リック・マーテルとのコンビでザ・シープハーダーズとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を争い、シングルではバディ・ローズやスタン・スタージャックと抗争した[8]。1980年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック地区へと転戦し、リック・フレアーやグレッグ・バレンタインとNWA・US王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を争うライバルとして活躍[2]。特にフレアーとは生涯の宿敵・親友となった。以降も同地区を主戦場に、リッキー・スティムボート、ジャック・ブリスコ、ワフー・マクダニエルなどのトップスターと抗争[9]。1983年5月には全日本プロレスに来日、6月3日に旭川市総合体育館にて、ディック・スレーターと組んでジャイアント馬場とジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している[10]。
1980年代初頭にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてカラー・コメンテーターやインタビュアーも兼任、トークの才能を発揮した。ジョージアではトミー・リッチやダスティ・ローデスと抗争し、ザ・グレート・カブキとも共闘していたが、後にベビーフェイスのポジションに回り、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マスクド・スーパースター、イワン・コロフらと対戦した[11]。
WWF時代
1984年、前年に死去したグラン・ウィザードに代わるヒールのマネージャーとしてWWFにスカウトされ、ポール・オーンドーフとデビッド・シュルツを担当するが、間もなくレスラーとして試合にも出場するようになる。パイパーズ・ピット(Piper's Pit)なるインタビューコーナーも開始し、ジミー・スヌーカとの抗争で一気にブレイク。ポール・オーンドーフ&カウボーイ・ボブ・オートンと悪のユニットを結成し、ハルク・ホーガンらスーパースターを敵に回してトップ・ヒールとしての地位を築き上げた[2]。全盛期のホーガンを相手にただの一度としてフォール負けを許さなかった唯一の選手でもある。
1985年3月31日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたレッスルマニアの記念すべき第1回大会ではオーンドーフと組み、映画『ロッキー3』に出演したアクション俳優ミスター・Tとホーガンのチームとメインイベントで対戦[12]。翌1986年4月7日のレッスルマニア2ではミスター・Tとのボクシングマッチが行われた[13]。
1986年下期頃から観客の支持を集めるようになり、徐々にベビーフェイス化していき、同じく「フラワー・ショップ」なるインタビューコーナーを持っていたアドリアン・アドニスとの確執も発生。同年8月にフラワー・ショップに殴り込みをかけた際、盟友だったカウボーイ・ボブ・オートンがアドニス側についたことでオートンと仲間割れし、本格的にベビーフェイスに転向する。以降、フラワー・ショップに再三乱入し、アドニス、オートン、マネージャーのジミー・ハートと舌戦を繰り広げた。アドニスとの抗争を開始しつつ、パイパーズ・ピットにてポール・オーンドーフやボビー・ヒーナンとも舌戦を展開し、オーンドーフと抗争中だった旧敵ホーガンのタッグ・パートナーとしても活躍した。
WWFでの活動と並行して映画俳優としての活動も行なうようになり、1988年公開の『ゼイリブ』では主演を果たした。その後、しばらく現役を離れ実況席でカラー・コメンテーターとして活躍していたが、1991年下期、NWA時代のライバルだったリック・フレアーのWWF移籍に伴いリングに復帰。フレアーとの抗争を各地で繰り広げた。1992年1月19日にはザ・マウンティーを破ってインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得[14]。同年4月5日のレッスルマニアVIIIでは、王座をブレット・ハートに奪われたものの名勝負を展開した。
その後も単発的にWWFに出場し、1994年にはジェリー・ローラー、1996年にはゴールダストとの抗争が行われた。
WCW時代
1996年10月にWCWに移籍し、当時nWoを率いていたハルク・ホーガンとの抗争を再開。1999年2月8日にはNWAミッドアトランティック時代から数えて16年ぶりにWCW・USヘビー級王座(現在のWWE・US王座)をブレット・ハートから奪取するが、2000年に離脱。その後、WCWは消滅し、パイパーは元WCW勢が主宰していたXWFに参加。この頃からレスラーとしてはセミリタイア状態となる。
WWE復帰
2003年にWWEでハルク・ホーガンとビンス・マクマホンが抗争を開始すると、双方に遺恨を持つ人物としてインタビューに登場、3月30日開催のレッスルマニア19でのホーガンvsマクマホン戦に乱入しWWEに復帰。パイパーズ・ピットを再開しショーン・オヘアのマネージャーを務めたが間もなく薬物使用で解雇される。
その後TNA参戦を経て、2005年にWWE殿堂(インダクターはリック・フレアー)に迎えられてからはレジェンドとしてWWEに度々スポット出場し、パイパーズ・ピットを開催している。2005年4月3日のレッスルマニア21では、パイパーズ・ピットのゲストとしてストーンコールド・スティーブ・オースチンを招待、新旧のWWEを代表する饒舌家同士の舌戦を繰り広げた後、カリートが乱入して両者を挑発したが、パイパーとオースチンに迎撃され退散した。その後両者は祝杯をあげるが、最後はお約束としてパイパーがオースチンのスタナーをもらい受けた。2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、インターネット投票によりフレアーのパートナーに選出され世界タッグ王座を獲得。意外にもこれが生涯初の「世界王座」の獲得となった。
その直後に行われた選手活動のための健康診断でホジキンリンパ腫が発見され、11月27日のWWE.com上でファンにも報告されたが、順調に体調を回復。翌2007年2月12日のRAWにて久々にファンの前に登場し、ウマガの急襲を受けるというアングルも見られた。
以降もWWEへのスポット出場を続け、2008年10月26日のサイバー・サンデーでは、サンティーノ・マレラのIC王座に挑戦したホンキー・トンク・マンをゴールダストと共に援護射撃。2009年にはクリス・ジェリコとの遺恨が勃発、旧友リッキー・スティムボート&ジミー・スヌーカとレジェンド軍を結成し、4月5日のレッスルマニア25にてジェリコとの1対3のハンディキャップ・エリミネーション・マッチが行われた。
11月16日にマディソン・スクウェア・ガーデンにて行われたRAWにゲストホストとして登場、7年ぶりにミスター・マクマホンと絡み、全盛期に劣らぬ舌戦をみせた。その後、ランディ・オートンとのストリートファイトマッチが組まれるも年齢の差から苦しい展開をみせ、オートンの必殺であるパントキックを受けそうになるも間一髪のところでコフィ・キングストンが乱入、オートンに場外レッグドロップを決めてパイパーを救出した。
2010年3月27日には、レッスルマニア第1回大会の成功に共に貢献したウェンディ・リヒターのWWE殿堂入りのプレゼンターを務めた。同年11月15日に行われたRAWの "Old School Edition" にもレジェンドの一人として出演し、ジョン・シナにWWE王座を獲得できなかった自身の想いや、過去にWWE王者となったレジェンド達の権威を説いた。
2015年7月30日、死去が発表された[1][15][16]。死因は自宅での心臓発作であった[17]。61歳没。WWEのビンス・マクマホン会長はパイパーの訃報に「"ラウディ" ロディ・パイパーは物議を醸す言動や大胆なパフォーマンスで、世界中のファンに愛された。ご家族に心よりお悔やみ申し上げたい」とコメントを発表した[18]。彼には妻と4人の子供、4人の孫がいた[19]。
パイパーズ・ピット
パイパーがホストを務めるインタビューコーナー。1984年に開始。絨毯の敷かれたリング上またはスコットランド風の装飾が施されたバックステージのセット内で行われる。大抵が対象となるレスラーに何かと因縁を吹っ掛け、乱闘になった挙句、抗争に発展するパターンである。特に第1回レッスルマニアへのプロローグとなった、ジミー・スヌーカの頭でココナッツを叩き割ったシーンは有名。このコーナーがパイパーのヒールとしての人気を決定付け、レスラーとしては体格に恵まれなかったパイパーを一躍スーパースターの仲間入りさせた(パイパーはNWAミッドアトランティック時代から、本やラジオなどをチェックしてインタビューに使えそうなフレーズを書き留めていたという[20])。
以降、パイパーと同じくマイクパフォーマンスに優れたレスラーがスターダムに上がるようになり、その後のアメリカンプロレスに与えた影響は非常に大きい。ザ・ロックも「ハルク・ホーガンよりもそれに唾を吐くロディ・パイパーになりたかった」と、尊敬するレスラーの一人として名前を挙げている。パイパーズ・ピット以降、WWEではジェリー・ローラー(キングス・コート)、ショーン・マイケルズ(ハートブレイク・ホテル)、クリス・ジェリコ(ハイライト・リール)、カリート(カリートス・カバナ)、レネ・デュプリー(カフェ・ド・レネ)、エッジ(カッティング・エッジ)、MVP(VIPラウンジ)などが同様のインタビューコーナーを行なっている。
引退後も、パイパーがWWEの番組にゲスト出演した際に、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ミスター・マクマホン、ジョン・シナ、ランディ・オートン、ウェイド・バレット、ザ・シールド、CMパンク、ルセフ、ライバックらを招いて行われたことがある。近年では、ヒールのレスラーとパイパーが舌戦を展開した後、ベビーフェイスのレスラーが登場してヒールとの乱闘の末に必殺技を決め、パイパーがそれをたたえるというパターンが定番化していた。
日本での評価
パイパーと同世代の選手では、たとえばラリー・ズビスコやドン・ムラコなど、マイクアピールによる観客との駆け引きを得意とするレスラーは英語の通じない日本では真価を発揮することが難しかった。しかしパイパーはマイクを通さずとも、彼のもう一つの持ち味である「向こうっ気の強さ」を全面に出したイキのいいラフファイトと抜群のレスリングセンスで、日本でも若手時代から高い評価を獲得している。アメリカマットで超売れっ子だったため、来日回数は1977年から1983年まで通算3回と少なく日本では大きな実績を残せなかったものの、当時のファンや関係者の間では来日を望む声が多く聞かれた。[21]
なお、日本には1977年に新日本プロレスへ初来日しているが、前年にモハメド・アリとの異種格闘技戦のプロモーションでロサンゼルスを訪れたアントニオ猪木がテレビのインタビューに応えた際、同地区を主戦場としていたパイパーが乱入して猪木に喧嘩を売るというアングルが組まれたこともある。[21]
得意技
- スリーパーホールド
- ラウディ・ストライク
- パンチの連打。最後は溜めて額に一撃を与える。
獲得タイトル
- NWAサンフランシスコ
- NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
- NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / エド・ウィスコスキー)
- パシフィック・ノースウエスト・レスリング
- NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:5回(w / キラー・ブルックス、リック・マーテル×3、マイク・ポポビッチ)
- NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / リック・マーテル)
- NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:3回
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ビッグ・ジョン・スタッド)
- NWAミッドアトランティックTV王座:2回
- NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):2回
- NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ブルドッグ・ブラワー)
- WCW USヘビー級王座:1回
- WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座:1回
- WWE世界タッグ王座:1回(w / リック・フレアー)
- WWE Hall of Fame:2005年度(インダクターはリック・フレアー)
入場曲
- For Everybody
- Scotland The Brave
出演
- 恋のボディ・スラム (1987年) "クイック" リック・ロバーツ役
- SFヘルスラッシャー (1987年) サム・ヘル役
- ゼイリブ (1988年) ネイダ役
- バック・イン・アクション (1993年) ロッシ役
- リゾート・トゥ・キル (1994年) ジョン・ケラー役
- ハードネス (1994年) アイス役
- ブレイク・アウト (1995年) ギブソン役
- ビリーズ・ガン&ファイト (1995年) エルモ役
- ワイルド・ホーク (1996年)
- ダブル・クラッシュ 激走! 炎の大捜査線
- -拳- アルティメット・ファイター (2006年)
- レジェンド・オブ・ダンジョン (2007年) サーグッド役
脚注
- ^ a b “「狂乱のスコッチ」名プロレスラー、ロディ・パイパーさん死去”. スポニチ Sponichi Annex 格闘技. 2015年8月1日閲覧。
- ^ a b c d “Rowdy Roddy Piper”. SLAM! Sports. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “NJPW 1977 Toukon Series”. Puroresu.com. 2015年4月21日閲覧。
- ^ a b 『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、ベースボール・マガジン社)
- ^ “NWA Hollywood 1978/01/27”. Cagematch.net. 2015年9月15日閲覧。
- ^ “NJPW 1978 Big Fight Series”. Puroresu.com. 2015年4月21日閲覧。
- ^ “NWA Hollywood 1979/01/11”. Cagematch.net. 2015年9月15日閲覧。
- ^ “The CW USA matches fought by Roddy Piper in 1980”. Wrestlingdata.com. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Roddy Piper in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Roddy Piper in 1983”. Wrestlingdata.com. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “The GCW matches fought by Roddy Piper in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “WWF WrestleMania”. Cagematch.net. 2015年4月21日閲覧。
- ^ “WWF WrestleMania II "What The World Is Coming To" (Halle 1)”. Cagematch.net. 2015年4月21日閲覧。
- ^ “History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2014年9月26日閲覧。
- ^ “‘Rowdy’ Roddy Piper passes away”. WWE.com. 2015年8月1日閲覧。
- ^ “WWE|ニュース|2015|"ラウディ"ロディ・パイパーが死去”. WWE. 2015年8月1日閲覧。
- ^ “WWE Hall of Famer Roddy Piper dies at 61”. Associated Press. 2015年8月1日閲覧。
- ^ “WWE Legend ‘Rowdy’ Roddy Piper Dies at 61”. Variety (2015年7月31日). 2015年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月1日閲覧。
- ^ Survivors
- ^ リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P131-132(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)
- ^ a b 『プロレスアルバム16 THE HEEL』P56(1981年、ベースボール・マガジン社)