米中関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。58.94.2.110 (会話) による 2016年3月14日 (月) 10:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概説)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

米中関係
ChinaとUSAの位置を示した地図

中華人民共和国

アメリカ合衆国
駐中アメリカ合衆国大使館
在アメリカ合衆国中国大使館

米中関係(べいちゅうかんけい)とは、アメリカ合衆国(アメリカ)と中華人民共和国(中国)の2国間の国際関係である。

概説

米中関係は複雑で多面的であり、米中関係は同盟関係でも敵対関係でもないともいわれる。ホワイトハウスアメリカ軍当局は中国を軍事的な脅威とみなす一方で、貿易など他の分野ではパートナーとみなしている。米中関係は、ソ連が崩壊した後、アメリカ合衆国による一極体制が続き、概して安定していたが、他方、アメリカをはじめとする西側諸国は中国共産党一党独裁制天安門事件にみられる言論弾圧や人権侵害、またチベット問題ウイグルへの弾圧に対し懸念を表見しており、中華人民共和国北東アジア東南アジア覇権を握ることを強く警戒している。他、 台湾問題もある。

他方、中国では対米関係について好悪の感情が入り混じり、アメリカ合衆国大衆文化が浸透する一方でアメリカの力を背景にした他国への干渉に対する恨みの感情もある。中国はアメリカが自由民主主義を標榜しながらも、真意は中国を弱体化し分割することなのだと非難することもある。しかし、中国はアメリカに対し不信感を抱きつつも、アメリカとの良好な関係を維持することを基本方針としている[1]。中国の最も厳しい問題は内政問題であり、また国内の格差問題であるともいわれる。2001年9.11同時多発テロ事件の際にアメリカ政府は中国を「同盟者」とし、中国も「テロとの戦い」に賛同した。しかし、中国政府は「テロとの戦い」をウイグルやチベットの独立運動に対して適用し、これらの運動を「テロリズム」として弾圧した[2]。その後もチベットやウイグル、また劉暁波らの言論の自由を求める中国民主化運動への弾圧などが続いており、これについては2011年にアメリカ議会で公聴会が開かれるなどしており、アメリカのオバマ大統領は中国に対して改善を求めたが、中国は内政干渉であるとして拒絶している。


新保守主義や対中強硬派ブルーチーム(反中ロビーグループ[3]は中国はアメリカによる一極支配を脅かす可能性があると考えているが、アメリカが今後もしばらく超大国の地位を維持し続けるであろうことも各論者から予測されており、中国がアメリカの地位を凌駕することは今後数十年間は不可能とも見なされている。しかし、世界経済二位の中国の動向は、国際社会において影響力を持つため、米中関係は21世紀の世界において重要であるとみなされている[4]

両国のデータ比較

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
人口 303,241,000人 1,321,851,888人
面積 9,372,615 km² (3,618,786 sq mi ) 9,640,821 km² (3,704,427 sq mi )
人口密度 31人/km² (80/sq mi) 140人/km² (363/sq mi)
首都 ワシントンD.C. 北京市
最大都市 ニューヨーク - 8,214,426人 (ニューヨーク都市圏 - 18,818,536人) 上海市 - 18,580,000人
政府 連邦制 大統領制 立憲主義 共和制 一党制 社会主義国
指導者 大統領 :バラク・オバマ 国家主席:習近平
国務院総理:李克強
公用語 英語 (事実上) 中国語普通話
宗教 77% キリスト教、18% 無宗教、1% 仏教、2% ユダヤ教、1% イスラム教、1% その他 40% 無宗教、40.5% 仏教、17.5% 道教、3% キリスト教、3% イスラム教
人種 白人系アメリカ人ヨーロッパ系アメリカ人アラブ系アメリカ人)、ヒスパニック及びラテン系アメリカ人(全ての人種)、
アフリカ系アメリカ人混血アジア系アメリカ人ネイティブ・アメリカンまたは太平洋諸島に住む米国人
漢民族チベット人ウイグル人モンゴル人満洲人、(その他は中国の少数民族を参照)
GDP (名目) 13兆7700億米ドル (1人当たり4万4190米ドル) 3兆2800億米ドル (1人当たり2483米ドル)
軍事費 7110億米ドル(アフガニスタン戦争及びイラク戦争の戦費を含む) 公式発表: 610億米ドル、 推定: 1210億米ドル

歴史

米清貿易からアヘン戦争を経て

米中関係は、独立戦争後の1784年に商船エンプレス・オブ・チャイナ号清国時代の広州に辿り着いたときから始まった。米清貿易で仲買商人は巨万の富を得、アメリカで最初の世代の億万長者となった[注釈 1]。中国からの輸出品は消費市場を開拓しようとする欧米商人の商売意欲をかきたてた。

その後、1842年阿片戦争が終結。清国南京条約を締結し、多くの港の開港を余儀なくされた。これにより米清関係の貿易は強化される一方、南京条約の効果によりイギリスの権益が増大し、アメリカ商人の権益を圧迫するという脅威が深刻になっていた。そこでジョン・タイラー大統領は清国と望厦条約を締結し、イギリスだけでなくアメリカの治外法権も認めさせた。以降、米清貿易は新たな時代を迎え、アメリカは他の列強とともに貿易で特権を得た。

1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)の敗北後、咸豊帝北京から逃れ、彼の弟である恭親王により天津条約が批准、1860年10月18日には北京条約が締結された。この条約には当時閉鎖都市であった北京への英仏露米公使の駐留が条件として含まれていた。

排華移民法

1882年に制定された排華移民法の最初のページ

カリフォルニアゴールドラッシュ大陸横断鉄道建設の頃、中国から大量の移民がやって来たためアメリカ国民の反感を買った。南北戦争後の1870年代に景気が悪化すると、中国人の苦力によって給与水準が引き下げられていると主張したカリフォルニア労働党英語版デニス・カーニーとジョン・ビッグラーカリフォルニア州知事によって反中感情が政治的に具現され、1868年の天津条約追加条約に続き、1882年5月6日、アメリカ史上初の自由移民の規制である中国人排斥法(排華移民法)として米国議会を通過した。この法案によりアメリカは移民の停止が可能になり、鉱山などに従事する中国人は技能の有無を問わず入国拒否をうけ、投獄あるいは強制送還された[注釈 2]。中国人は鉱山から強制的に退去させられると、サンフランシスコなどのチャイナタウンに住み、底辺の職に就いた。

義和団の乱

1900年義和団の乱に於けるアメリカ軍兵士。

1899年11月、自ら義和団と称する集団が中国北部において反外国人、反帝国主義の運動を始めた(義和団の乱)。暴動は農民運動として始まり、清国を支配していると考えられていた「列強」の外国人キリスト教徒風水を無視して鉄道を建設する外国人を攻撃した。1900年6月には義和団は北京に侵攻し、外国人公使や外国人230人と主に山東省陝西省の何千人もの中国人キリスト教徒を殺害した。6月21日、西太后は欧米諸国に対し宣戦布告し、外交官・一般外国人・兵士・中国人キリスト教徒らは、オーストリア=ハンガリー帝国フランスドイツイタリア日本ロシア・イギリス・アメリカからなる2万人の八カ国連合軍が彼らを救出するために到着するまでの55日間、公使館へ避難した。この時、アメリカは米西戦争及び米比戦争のためアメリカ軍艦船及び部隊がフィリピンに展開していたため、義和団の乱の鎮圧に大きな役割を果たした[注釈 3]1901年9月7日まで続いた義和団の乱後、清国政府は被害者への賠償と多くの譲歩を強いられ、それは辛亥革命による中華民国建国と清国の滅亡をもたらした。

門戸開放政策と世界大戦の時代

フランス・アメリカ・イギリスドイツイタリア日本ロシアなど19世紀末の世界の列強清国でそれぞれ勢力圏の拡大にしのぎを削っていた。1899年、アメリカ国務長官ジョン・ヘイは列強諸国に対しそれぞれの勢力圏内の条約港の自由利用と領土行政権の清国への帰属を保障することを要請する通牒を送った。列強諸国は他国が賛成しない限り認められないとはぐらかしたが、ヘイ国務長官は提案が承認されたものとして受け取った。

門戸開放政策は国際的に受容されたが、1890年代後半のロシアの南下がはじまり満州朝鮮へ進出をはじめた。英米はロシアに抗議し、日露戦争に発展する。

第一次世界大戦中の1915年に日本の大隈重信政権は中華民国に対し「対華21ヶ条要求」を突きつけ、連合国との間でドイツ帝国が保有する権益に関する秘密協定を結ぶことにした。台頭する日本を脅威に感じたアメリカでは1924年には排日移民法を制定した。

1931年9月18日に日本が満州事変を起こし傀儡国家である満州国を建国すると、アメリカは他国と共にこれを強く非難した。

第二次世界大戦

1937年支那事変日中戦争)が勃発するとフランクリン・ルーズベルト政権は蒋介石が率いる中華民国を支援する。米国が戦争状態にある他国を支援することを禁ずる中立法関連法案が孤立主義者の支援によって議会を通過していたが、日中戦争では両国が宣戦布告を行わなかったため、ルーズベルト大統領は中国が戦争状態にあると認めず、蒋介石に対する支援を進めた。

アメリカ紙はイギリスにくらべて対中関係についての報道は比較的中立的なものであったが、プロテスタント宣教師パール・バックのような小説家による記事はしばしばアメリカにおける反日世論の喚起に貢献した。日本軍による南京爆撃の際パナイ号事件が起こると日本は謝罪したが、日米関係は悪化した。南京事件において日本軍が行ったとされる残虐行為を『タイム』誌が報道しアメリカ国内で一定の反響を呼んだ。

1941年、大東亜戦争太平洋戦争)勃発後、中華民国は連合国として日本に対し公式に宣戦を布告する。アメリカは首都を重慶に移した中国に対し支援したが、蒋介石政府は日本軍に対し効果的な抵抗ができないか、日本軍が優勢と考えられていた。また、蒋介石は日本よりも中国共産党を打ち負かすことを望んでいるとみなされていた。

第二次世界大戦以後

国共内戦

1945年第二次世界大戦が終結した後、中国国民党中国共産党は再び国共内戦を再開した。ダグラス・マッカーサーは蒋介石に日本軍が撤収した台湾を接収するよう指示し、台湾に軍政が敷かれた。1946年ジョージ・マーシャルは国民党と共産党に休戦を打診するが即座に却下され、国民党は着々と台湾へ移動した。なお、この中国国民党の台湾移動に際し、1947年2月28日に中華民国は二・二八事件を引き起こしている。

第二次国共内戦において国民党軍は敗戦を続けた後、毛沢東主席率いる中国共産党軍が勝利した。毛沢東主席は1949年10月1日中華人民共和国の建国を宣言、台湾を含む中国大陸全土の領有を主張した。敗北した国民党軍は台湾に移動し、台湾国民政府を存続させた。中華人民共和国の反米傾向が強まると大陸に残っていたアメリカ領事館も撤退を余儀なくされ、1950年代初頭には全てのホワイトハウス現地職員が大陸から引き上げた。

一方のアメリカは台湾に逃れた中華民国を唯一合法な中国政府と見なし(「一つの中国」)、以後1979年までの30年間、中国大陸の共産党政府とは国交を結ばなかった。

朝鮮戦争

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で米中両国は直接衝突した。ソビエト連邦の支援を受けた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)へ侵略を開始したことを受け、アメリカは国際連合安全保障理事会を招集し、これを非難した。拒否権を持つソ連は安保理常任理事国の座を中華人民共和国ではなく、中国国民党蔣介石総統率いる中華民国台湾国民政府が占めていることに抗議し、理事会をボイコットした。

朝鮮戦争時の中華人民共和国のプロパガンダ・ポスター。「抗美援朝」(してける)と大書されている。

当初劣勢にあった大韓民国はダグラス・マッカーサー国連軍司令官による仁川上陸作戦以後、アメリカ軍大韓民国国軍を中心に巻き返しを図り、1950年10月以降は大韓民国の李承晩大統領の「北進統一」構想に従い、開戦前の事実上の南北朝鮮の国境線であった38度線を北上して朝鮮人民軍(北朝鮮軍)を追い、1950年10月中に中朝国境の鴨緑江付近まで接近した。しかしながら、この国連軍の38度線北上に際し、中国人民解放軍が「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)として参戦し、共産主義陣営の大規模な反撃が始まった。

彭徳懐司令官率いる中朝連合軍清川江に沿って人海戦術(山岳浸透戦略)で反撃、国連軍に側面から打撃を与えた。アメリカ第8軍は長期退却を余儀なくされ、アメリカ軍史上かつてない敗北を喫し、1951年1月4日にはソウルを失陥した1951年3月、中国が国境付近に新規兵力を移動させたため、沖縄の嘉手納基地のアメリカ空軍は臨戦態勢に入り、4月5日、統合参謀本部は新兵力投入のための基地になっていた満州への核攻撃を要求する。トルーマン大統領は9基のマーク4第9空軍英語版のもとへ移動させることを承認したがアメリカ軍内部で反対意見が多く、実際に原爆投下は行われなかった。

その後、朝鮮戦争は膠着状態が続き、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名に至った。

なお、朝鮮戦争は公式には終結(終戦)しておらず、朝鮮統一問題は米中関係での重要な地位を占めている。また、朝鮮戦争の際に「大陸反攻」を掲げていた蒋介石台湾国民政府からほとんど支援を得られなかったことは米国に政策の方針転換を促した。

ベトナム戦争

新中国はソ連とともに1950年から第一次インドシナ戦争に介入し、ホー・チ・ミンらのベトミンに対し支援を行っていた。

1962年の夏、毛沢東北ベトナムに9万丁のライフルを供給した。

ローリング・サンダー作戦」の開始後、中国は空軍を派遣し、アメリカ軍の空爆によって破壊された道路や鉄道を修復するために技術部隊を派兵、南ベトナム軍を駆逐するために行われた。1965年から1970年までの間に32万人を超える中国軍兵士が北ベトナム軍とともにアメリカ軍と戦った[注釈 4]。ベトナム戦争で中国軍は1446名、アメリカ軍は中国軍と北ベトナムのベトコンの合同軍との戦いで58,159名の戦死者をそれぞれ出した。

関係悪化

ホワイトハウス中華民国を支持して中華人民共和国の国連加盟に強く反対し、日本国などの同盟国もアメリカ政府からの要求で中国との国交の樹立には消極姿勢をとり続けた。またアメリカは中華人民共和国に対する制限貿易を実施し、同盟国にもこれに続くよう求めた。

1964年に中華人民共和国は初めて原爆実験に成功した(中国の核実験参照)。民主党リンドン・ジョンソン大統領は中華人民共和国の核実験を中止させるために中国への先制攻撃も考慮していた。

1954年からアメリカは中国を承認しなかったが、アメリカと中国共産党は最初にジュネーヴで行ったのを皮切りに最後はワルシャワで、136回にわたって大使級非公式協議を続けた。

国交正常化

再接近

パキスタン・ルート」で極秘訪中した際のヘンリー・キッシンジャー毛沢東主席、奥は周恩来総理 (1972年)。
ファイル:Nixon Mao 1972-02-29.png
歴史的な訪中を果たした共和党リチャード・ニクソン大統領中国毛沢東主席 (1972年)。
周恩来総理によるニクソン大統領訪中の歓待。

米中両国は関係改善を模索していた。1969年中ソ国境紛争中ソ関係英語版が悪化すると、それは中国にとって特に重要な関心事となった。中国は外交的に孤立していたが、指導層はアメリカとの関係を改善することはソ連の脅威に対してバランスを取るうえで有用であると考える様になった。周恩来総理はこの努力の矢面に立ったが、毛沢東の妨害に遭い不発に終わった。

アメリカでは中国を世界の舞台から除外することは悪影響のほうが大きいという意見があった。また、ベトナム、カンボジアラオスなど東南アジア諸国とのつながりが強いアメリカとの連携を強めることはソ連の影響力を弱めることにつながるという意見を持つ者もいた。泥沼化したベトナム戦争の収拾に中国を利用すべきとの見方もあり、十億の人口を誇る巨大な中国市場は大きなビジネスチャンスをアメリカにもたらすと思われていた。

民主党マイケル・マンスフィールド上院院内総務は中国に最も関心を持っていたアメリカ人の一人であり、マンスフィールドは中国に会談の開催を呼びかけた。マンスフィールドはその案を国務長官とリチャード・ニクソン大統領に手渡した。

ニクソン大統領もアジア政策への関心は高く、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官は中国との接触は価値があると信じていた。ニクソン大統領には中国との関係改善は1972年の大統領選挙に向けた国内世論にもよい材料になるという考えもあった。ニクソン大統領は民主党の議員が彼より先に中国訪問を行うことを怖れていた。

米中首脳の折衝はパキスタンルーマニアが仲介地点となっていた。

1969年より米国政府は貿易や他の二国間にとって障害となる規制を中国の要望に応じて徐々に緩和した。しかし、国交正常化の作業はインドシナ半島のアメリカの行動のため中断された。1971年4月6日、若いアメリカ人卓球選手グレン・コーワンは日本の名古屋で行われた第31回世界卓球選手権においてバスを乗り間違え、中国人卓球選手から手を振られた。コーワンは中国の選手は友好的な服装で、3度の男子世界チャンピオンである中国人選手荘則棟から絹で黄山がかたどられたポートレートを贈られたと語った。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中国はこれを外交的なカードとして利用することにした。荘則棟は2007年に南カリフォルニア大学の米中研究所でこのことについて語った。中国の情報筋によると荘則棟とグレン・コーワンの接触と二人がDacankaoで撮った記念写真は毛沢東の意思決定に影響を与えたとされる。彼はアメリカ選手を中国に招くつもりはなかったが意思を変えた。のちにピンポン外交として知られるアメリカ卓球チームの中国への招待である。1971年4月10日、1949年の共産党による中国大陸制圧後初めてアメリカ人が中国を公式訪問した。

1971年7月、キッシンジャーはパキスタンを訪問中に体調不良のため一日間、公に姿を現さなかった。キッシンジャーはある外交的な使命を帯びて北京を極秘訪問していた[5]。1971年7月15日、ニクソン大統領は中国から訪問の要請があり、それを了承したことを電撃的に発表した。

この発表は世界に衝撃を与えた。アメリカでは最も強硬な反共主義者たちがこの決定に反対した。しかし世論はこれを受容し、ニクソン大統領の支持率はニクソン大統領が望んだ通り急上昇した。ニクソン大統領は反共主義者から信任を得たため「容共主義者」と呼ばれる怖れはなくなった。

中国でも対外政策において最左派の立場であったソ連派から反対意見があった。この動きは軍首脳である林彪によって導かれていたと伝えられている。やがて林彪はソ連への亡命の途上、国内の反対世論を封じるための謀殺として後々疑われる事となるモンゴル上空謎の墜落事故でこの世を去った。

国際社会の反応は様々だった。ソ連は米中和解に深い懸念を示し、新しい世界秩序は米ソデタントに大きく貢献した。欧州の同盟国の多くとカナダは既に中国を承認していたため歓迎の意向を示した。しかし、アジアの反応はもっと複雑だった。日本は発表の内容を15分前まで知らされておらず、アメリカが日本よりも中国を重視することを怖れて非常に強い不快感を示し、日本の政界は対中政策を巡って大混乱に陥る第一次ニクソン・ショックに見舞われた。間もなく日本も中国を承認し、本格的な貿易を再開した。韓国南ベトナムは米中和解が共産主義国との戦いにおける支援の打ち切りを意味するのではないかと懸念した。アメリカは国交正常化の作業中を通じてこれらの国々との同盟関係が損なわれるものではないことを保障した。

1972年2月21日から2月28日にかけてニクソン大統領は中国を訪問し北京杭州上海を回ったのち、最終日の28日に外交方針をまとめた第一次米中共同声明上海コミュニケ)を発表した。その中で米中両国は国交正常化へむけ連携を一層強化していくことを誓った。[6]アメリカは台湾は中国の一部であるとする「一つの中国」を認知し、両国は国交正常化の妨げとなる重要な台湾問題はさておき、開かれた貿易や連絡を行うことになった。

アメリカとの関係改善により、中国は冷戦における安全保障において大きな利益を得た一方で、アメリカは望んだほど大きな利益を得られなかった。中国はベトナム戦争やカンボジアのクメール・ルージュへの支援を続けた。しかし、中国はベトナムを疑い、両国の協力は崩壊し、ベトナムはカンボジアへ侵攻し中越戦争が勃発した。米中はアフリカへの派兵を撤回し、キューバへの支援も停止した。国交正常化による経済への影響は遅く、アメリカ製品の中国市場への参入にはあと十年を必要とした。ニクソン大統領の対中外交は彼の大統領としての成果のハイライトと考えられている一方で、元CIA職員でケネディ、ジョンソン両大統領の外交補佐官を務めたウィリアム・バンディーなどは国交正常化によるアメリカへの恩恵はほとんどなかったと主張している。

米中連絡事務所

1975年に訪中した際の共和党ジェラルド・フォード大統領。

1973年5月、米中両国は正式な国交を樹立するための努力の一環として、北京ワシントンD.C.米中連絡事務所を設立した。1973年から1978年の間にデヴィッド・K・E・ブルースジョージ・H・W・ブッシュトーマス・S・ゲイツレナード・ウッドコックが事務所の特命全権公使として任命された。

共和党ジェラルド・フォード大統領が1975年に訪中し、アメリカの対中関係正常化の意思を再確認し、1977年には民主党ジミー・カーター大統領が米中共同声明の目的を再確認した。

1978年12月15日、米中両国は1979年1月に国交を樹立することを発表した。

国交正常化から六四天安門事件

1978年12月15日第二次米中共同声明(中華人民共和国とアメリカ合衆国の外交関係樹立に関する共同コミュニケ)の合意通りに、1979年1月1日を以ってアメリカは中華民国に代わって中華人民共和国外交関係を結ぶことになった[7]。アメリカは上海コミュニケで示した「台湾は中国の一部である」との中国の立場を改めて確認した。中国はアメリカ人が台湾の人民との商業的・文化的・その他の非公式の交流を続けていくことを確認した。こうした台湾との実務的な非公式関係を保障するため、アメリカは国内法で『台湾関係法』を制定した[8]

訪米した鄧小平副総理と民主党ジミー・カーター大統領。

1979年1月の鄧小平副総理訪米により両国のハイレベルな政治交流が始まり、1989年の春まで続けられた。以後、科学的・技術的・文化的交流や貿易に関する二国間条約が次々と締結されていく[9]。1979年初頭以降、科学及び技術協力における合意に基づき、数百もの共同調査プロジェクトや協力計画を開始され、二国間の計画としては最大のものとなった。

1979年3月1日、米中両国はそれぞれの首都大使館を正式に設置した。1979年には未解決の私的問題の多くが解決され、貿易に関する合意が締結された。1979年8月、ウォルター・モンデール副大統領は鄧小平副総理の訪米の返礼に中国を訪問した。この訪問をきっかけに1980年9月、二国間の領事に関する慣習や海上船舶、民間航空機の定期便就航や織物の問題について協定が結ばれた。

1980年に開始されたハイレベルな交流の結果、米中の対話の話題は世界的あるいは地域的な戦略、政治や軍事、国連や他の多国間の国際機関による武器管理、国際的な麻薬問題にも及んだ。

しかし、1981年に中国がアメリカの台湾への武器供与について異論を唱えると両国の関係は脅威にさらされることになる。1981年7月、アレクサンダー・ヘイグ国務長官がアメリカと台湾の非公式な関係についての中国の疑問を解決するために訪中し、8ヶ月間の対話を経て1982年8月17日に第三次米中共同声明を発表した。この声明の中でアメリカは台湾への武器供与を削減していく方針を打ち出し、中国側は台湾問題を平和的に解決していく基本方針を明示した[10]。その間の1982年5月、ブッシュ副大統領が訪中している。

1980年代には米中首脳による相互訪問が活発に行われた。1984年にアメリカ合衆国共和党ロナルド・レーガン大統領と中国共産党趙紫陽総理が相互に訪問を行い、1985年7月には李先念国家主席が外遊でアメリカを訪れた。中国首脳によるこのような訪問は初めてのことだった。1985年10月、ジョージ・H・W・ブッシュは中国を訪問し、中国で4ヵ所目となる成都のアメリカ領事館が開かれた。

1985年から1989年にかけて両国の閣僚による交流が行われ、1989年2月に共和党のブッシュ大統領が訪中し華を添えた。

六四天安門事件発生前まで、米中の民間レベルでの文化的、芸術的、教育的な交流が広く行われた。中国の公式な代表団が毎月アメリカを訪問した。これらの交流の多くは、六四天安門事件の鎮圧後も継続された。

天安門事件以後(1990年代)

1989年に発生した六四天安門事件でアメリカをはじめとした主要国はこぞって中国の人権状況を非難し、アメリカは高レベル交流を中止し、対中武器禁輸及び経済制裁を課した。翌1990年夏のヒューストン・サミットでG7各国は中国に対し政治及び経済、特に人権の状況改善を強く求める声明を発表した[11]

六四天安門事件は米中貿易に暗雲を落とし、米国の対中投資は劇的に減少した。1989年6月5日及び20日、米国政府は政治的抑圧のため予定されていた貿易及び投資計画を凍結することを発表し、以下のような制裁法案が制定された。

  • 米国貿易開発庁(TDA) - 1989年6月から2001年1月にまでビル・クリントンによって解除されるまで中国での活動停止。
  • 海外民間保険公社(OPIC) - 1989年6月から活動停止。
  • 開発銀行、国際通貨基金 - アメリカは人道支援以外のアジア開発銀行及び国際通貨基金による貸し出しを支援しない。
  • 米国軍需品リスト - いくつかの例外を除き、アメリカ軍需品リストの武器輸出を認可しない。この規制は大統領の決定によって左右される。
  • 武器輸入 - 対中武器輸出禁止賦課後、中国からの武器輸入が禁止される、この措置は行政によって左右され、1994年5月26日、再び実行される。アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局の軍需品輸入リストのすべての品目に及ぶ。この危機的な時期、アメリカ海外サービスのキャリア職員J.ステープルトン・ロイは北京の特命全権大使に任命された[注釈 5]

台湾問題と核攻撃発言

1995年、中国軍部副参謀総長熊光楷は「もしアメリカが台湾に介入したら、中国は核ミサイルでロサンゼルスを破壊する。アメリカは台北よりロサンゼルスを心配した方がよい」と、台湾海峡での武力紛争にアメリカが介入した場合、中国はロサンゼルスに対して核攻撃する可能性があると表明した[12]。翌1996年中華民国総統選挙に際して中国は台湾海峡においてミサイル演習を行い、台湾の有権者を恫喝した。アメリカは2つの空母機動部隊を派遣、第三次台湾海峡危機が危ぶまれた。その後、台湾海峡の緊張は緩和し、高レベル交流及び人権核不拡散などの協議が行われ、米中関係は改善された。

緊張緩和

共同記者会見を行う民主党ビル・クリントン大統領と江沢民

1997年中華人民共和国主席としては1985年以来となる江沢民の訪米が実現し、1985年に結ばれた平和的な核の協力についての協定を実行することで合意した[13])。1998年6月には民主党ビル・クリントン大統領が訪中し、中国の様々な都市を巡り、ラジオ番組で演説を行うなど中国の人々と直にふれあい、アメリカ人の理想や価値観を伝えた。しかし、クリントン大統領は中国の人権蹂躙について十分な注意を払っていないという批判もあった[14]

1999年5月、在ユーゴスラヴィア中国大使館がNATO空軍による誤爆を受ける事件が発生すると、両国の関係は再び緊迫した。原因は情報に誤りがあったためだとされるが、中国の一部の人々は意図的なものだったと信じていた。しかし1999年の終わりまでに関係は快方に向かい始め、1999年10月、両国はベオグラード市と中国の大使館への損害への補償及びけがや死亡した犠牲者に対する人道的な補償を行うことで合意した。

2000年代

海南島事件

2001年4月1日、中国南部を飛行していた偵察機EP-3Eと中国の戦闘機J-8が空中衝突事故を起こした。EP-3は大きく損傷したが、海南島に緊急着陸することが出来た。中国の戦闘機に搭乗していたパイロット王偉は衝突後行方不明になった。EP-3は接触する前、中国人民解放軍に対するスパイ活動を行っていたと広く信じられている。広範囲にわたる交渉の結果、EP-3のパイロットは「2つのお詫びの手紙」を書くことで11日後、中国を出国することが許された。しかし、損傷したアメリカの偵察機の機体は3ヶ月間出国することが許されなかった。またこの「お詫びの手紙」については、在北京アメリカ大使が中国外相に宛てた書簡の中の「regret」「sorry」の多義性を利用して中国に都合のよいように宣伝したとする見方もある[15]。事件後、両国の関係は険悪化したがゆっくりと改善した。

上海協力機構

上海協力機構(SCO)。
深緑は加盟国、薄緑はオブザーバー。

2001年6月15日に中国は、自由主義陣営を警戒するロシア中央アジア諸国とともに安全保障機関「上海協力機構」(SCO)を発足させて、自由陣営を牽制。2005年に同機構は、アメリカ軍が中央アジアから撤退するように要求した。

その後、上海協力機構にはアメリカの同盟国であるパキスタンと友好国インドのみならずアメリカと対立するイランもオブザーバー加盟した。同機構加盟国はしばしば共同軍事演習を行ない、2005年には中ロ共同軍事演習、露印共同軍事演習、2007年には正式加盟6か国となり、中印共同軍事演習が実施されたが、対米関係を重視するインドはオブザーバーにとどまる意向である。なおインドのシン首相は日本に対し、上海協力機構と同じような軍事同盟を正式に締結し、対中牽制を行う事が地域の安定に繋がると提言している。

なおアメリカは2006年にパキスタンが中国の技術提供により核武装を進めつつあるため、インド米印原子力協力協定Indo-US civilian nuclear agreement)を締結し、日本も自由陣営の一員として2006年11月には麻生太郎外相が「自由と繁栄の弧」政策を打ち出し、2007年8月には安倍晋三首相が訪印して日印の安全保障・防衛分野での協力を確認した[16]

アメリカ同時多発テロ事件以後

ホワイトハウスで手を振る共和党ジョージ・W・ブッシュ大統領、胡錦濤ローラ・ブッシュ劉永清 (2006年4月)。

米中関係は2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件によって大きな転換点を迎えた。中国は「テロとの戦い」に対し、強力な支援を申し入れた。中国は国連安保理決議1373に賛成し、有志連合によるアフガニスタンでの戦いを支援、タリバン駆逐後のアフガニスタンの復興に1億5000万米ドルの資金を提供した。米中両国は9-11事件直後、テロ対策について話し合いを始めた。この第3段階の会話は、2003年2月北京で行われた。

テロリストによる攻撃はアメリカにおける議論の本質を大きく変えた。中国がアメリカの最も主要な脅威であるというブルーチームの主張はもはや説得力を失い、アメリカにとって最も重要なのは中東と対テロ戦争であり、東アジアにおける緊張は避ける必要があった。

中国の指導層はアメリカがウズベキスタンタジキスタンにアメリカ軍基地を建設し始めたため、アメリカによる対テロ戦争は反中運動に繋がるのではないかと危惧していた。アメリカがイラクでの作戦を開始したためその懸念は後退した。世界貿易センタービルの瓦礫の中で多くの中国人が亡くなり、中国の企業や個人はアメリカの犠牲者に哀悼の意を捧げた。イラクでのアメリカの活動と米中の協力は、1990年代半ばでは一般的だった反米感情を和らげた。

米中両国は北朝鮮による核開発問題のような地域的な問題でも緊密な協力を行った。中国は北朝鮮の六者会合からの離脱に反対し、北朝鮮の核開発能力を懸念、朝鮮半島の非核化を望んでいる。また、北朝鮮が国際原子力機関の査察を拒否している問題を国連安保理に付託することに賛成した。

台湾問題の再燃と朱成虎発言

台湾問題は未解決の問題で、アメリカの対台方針は四つのノー、一つのないを強調している。アメリカは陳水扁総統が台湾独立を示唆するレトリックを使ったことを非難したことがある。また中国に批判的なブルーチームは、中国はアメリカがイラクで戦争を行っている隙に台湾で自らに有利な状況を作り出そうとしていると非難した。

2005年にもし台湾が公式に独立宣言をするならば中国は武力を用いてそれを阻止することを述べた反国家分裂法が中国で制定された。また、同2005年7月6日には、朱成虎少将が「アメリカ政府が台湾海峡での武力紛争に介入した場合、核攻撃も辞さない」と海外メディア記者会見において発言した[17]。発言は以下の通り。


我々(中国)は核兵器先制攻撃により中国以外の人口を減らすと共に自民族を温存させる事に力を注ぐべきで、この核戦争後に百年余りの屈辱に満ちた歴史を清算し未来永劫この地球を支配するようになるだろう。

世界人口の総数はすでに地球資源と生態環境の許容能力を超えており、これを解決するために戦争、疫病或いは飢饉などの手段を用いて大量に人口を消滅させ、人類を引き続き生存させるべきである。

中国政府は全力で核兵器の開発に取り組んでおり、十年以内には地球上の半数以上の人口を消滅させるだけの核兵器を装備することが可能である。

中国は西安以東の全都市が焦土とする事を覚悟している。アメリカも数百の都市が破壊されることを覚悟しなければならない。

--朱成虎発言,2005年7月6日[18]

この朱成虎少将の発言に対してアメリカ国家安全保障会議ショーン・マコーマック報道官は7月15日、朱成虎発言は「極めて無責任で、中国政府の立場を代表しないことを希望する。非常に遺憾」と非難し、7月22日にはアメリカ下院議会は、発言撤回と朱成虎少将の罷免を求める決議を採決した。中国政府はのちに公式見解ではないと発表したが、これについて台湾高等政策研究協会楊念祖執行長官は朱成虎少将の発言はアメリカ日本に向けられたもので、中国政府は米日両国の反応を試しているとした[19]

また同2005年には親中派とされるロバート・ゼーリック米国務副長官に就任。同年9月21日に「今後アメリカは中国を“責任ある利害共有者”(responsible stakeholder)とみなす」と発言して(ゼーリック発言)、融和的な姿勢で自制と大国としての責任ある行動を促した。[20]

胡錦濤主席は2006年4月訪米した。2001年から2008年まで駐中大使を務めたクラーク・ラントは南カリフォルニア大学米中研究所で米中関係の現状について講演した。2008年、馬英九が台湾総統に選出された。馬は国民党の代表であり、大陸との再接近を訴えている。

オバマ政権

選挙戦での争点

2008年の大統領選挙では、戦争と景気後退が争点となった。しかし、ジョン・マケインバラク・オバマ両候補はともに様々な角度から対中政策についても語った。両候補とも中国と主要な問題で協力を続けていくことでは一致していたが、貿易政策は異なっていた。オバマ候補は中国が自国の輸出業者が利益を得るよう通貨価値を低く設定していることに対し懸念を表明していた。マケイン候補は自由貿易は重大で大きな影響を中国に与えると主張した。しかし、マケイン候補はアメリカは中国と利害は共有しているかもしれないが、価値観は共有していないと指摘した[注釈 6]

トーマス・クリステンセン東アジア・太平洋担当国務副次官補は「対中政策の方向性選択:次政権の課題」について語り、両国の関係は近年大きな進歩があったこと、問題を解決するためにアメリカは中国に対して積極的な行動を続けなければならないことを主張、米中関係の問題の多くはミャンマースーダンなど第三国にも影響を与えていると示唆している。

「親中派」政権の誕生

2009年1月20日にアメリカでは親中派と見られる民主党バラク・オバマ候補が大統領に就任するのに伴い、両国の協力と友好関係の緊密化が期待された。2008年11月8日胡錦濤とオバマ候補は電話で会談し、大統領選の勝利を祝福した[注釈 7]。中国側もオバマ候補の勝利に肯定的な反応を示し、特にオバマ候補の気候変動問題に対する前向きな姿勢を称えた[注釈 8]

2010年9月23日に会談した民主党バラク・オバマ大統領と温家宝首相。

アメリカのオバマ大統領は米中戦略経済対話の演説で孟子の教えを引用して米中両国の相互理解を促した。オバマ大統領は、同年11月15日~18日にはアジア歴訪日程の半分を費やして初めて訪中して胡錦濤主席と会談し、共同声明で米中の戦略的相互信頼の構築と強化を謳い[注釈 9]、アメリカではG2チャイメリカ)という二大大国を意味する言葉が使用され[21]、米中接近が演出された。

またオバマ大統領は会談などで、中国国内の人権問題チベットウイグル(東トルキスタン)、内モンゴルにおける少数民族への弾圧や大量虐殺などへの批判をまったく控え、これらにより、中国側の自制を期待していた。中国はこれに対し、少数民族の抑圧や弾圧を改めないばかりか、南沙問題などで周辺諸国に軍事的恫喝を加えるまでになり、Google事件や、中国における言論弾圧と戦う活動家劉暁波へのノーベル平和賞授与への妨害介入など、国際社会に挑戦する外交を繰り返した。

他方、アメリカ側も台湾への兵器売却の決定、そして、ダライ・ラマ14世とオバマとの会談実現などで、方向転換しつつあることを示した。

「関与」政策から「抑止」政策へ

2011年1月14日にはアメリカ紙のワシントン・ポストにおいてアメリカ政界の重鎮であるヘンリー・キッシンジャー元国務長官が「米中は冷戦を避けなければならない」と述べ、米中が冷戦状態に入りつつあると警鐘を鳴らす記事が掲載された。キッシンジャー元国務長官は米中が冷戦状態に入った場合、「核拡散や環境、エネルギー、気候変動など、地球規模で解決が必要な問題について、国際的に(米中の)どちらに付くかの選択を迫ることになり、各地で摩擦が発生する」と述べた[22]

近年の中国の東シナ海南シナ海などでの積極的な海洋進出と関係諸国への挑発や威嚇などの行動を背景にして、ロシアなども警戒感を強め、2011年9月に異例の日米露軍の共同演習を行った[23]

2011年11月、アメリカのオバマ大統領は、訪問先のオーストラリア議会での演説でアメリカの世界戦略を「対中国抑止」へと転換することを宣言した[24]。膨張する中国に対し、アメリカが従来の「関与」政策から「抑止」に転換したことを内外に鮮明にしたものであり、これにより、リチャード・ニクソン大統領の訪中以来、約40年ぶりに米中関係は再び対立の時代に入ったことを意味する歴史的演説となった[24]

2011年11月9日アメリカ国防総省は「エア・シーバトル」(空・海戦闘)と呼ばれる特別部局の創設、中国の軍拡に対する新たな対中戦略の構築に乗り出していることが明らかとなった。この構想には中国以外の国は対象に入っていないとアメリカ側は事実上認めており、米政府高官は「この新戦略はアメリカの対中軍事態勢を東西冷戦スタイルへと変える重大な転換点となる」と述べた[25]

2011年11月12日から13日にかけてハワイで開催されたアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議で、アメリカは日本にTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加を要請、日本は協議に入ると表明した。TPPについては、これを「中国包囲網」とも解釈する論者も多く、中国も警戒した[26]。中国国際関係学院の楊伯江教授は、日本の交渉参加は「アメリカ重視の対外戦略のシンボル」と発言している[26]。なお中国外務省は、貿易自由化による発展を促す経済一体化に対し、中国はオープンであるとのコメントを表向きで出した。

APEC首脳会議の3日後の2011年11月16日、オバマ大統領はオーストラリア北部への米海兵隊駐留計画を発表し、2012年からアメリカ軍がダーウィンなどに半年交代で駐留、オーストラリア軍と共同訓練や演習を行い最終的に2500人の駐留を目指すとし、海上交通路(シーレーン)確保をにらんだアメリカ軍配備を進め、中国への牽制を行った[27]。オーストラリアはアメリカが東アジア有事として想定していた台湾海峡や朝鮮半島などから距離があり、これまで拠点としての重要度は低かったが、中国から直接の攻撃を受けにくいこと、また南シナ海、インド洋へのアクセスにおいて戦略的な位置付けが高まったとされる[27]。これに対して中国は中国共産党機関紙・人民日報系の英字紙グローバル・タイムズを通じて「オーストラリアは中国をバカにしてはならない。中国の安全保障を弱体化させているのに、それと切り離して経済協力を進めることはできない。越えてはならない一線がある」と批判した[28]。またインドネシアのマルティ・ナタレガワ外相は、アメリカ軍のオーストラリア駐屯について、中国の反発を生むとして危険性を指摘した[29]

また、米議会諮問機関「米中経済安全保障見直し委員会」年次報告書は同11月16日、中国が東アジアにおける有事の際、奇襲攻撃や先制攻撃でアメリカ軍の戦力を低下させ、日本周辺を含む東シナ海までの海洋権益を支配する戦略を中国軍は持っていると指摘した[30]。また中国軍は、指揮系統をコンピューターに依存するアメリカ軍の弱点を突く形でサイバー攻撃を仕掛ける作戦や、南シナ海や東シナ海での紛争では対艦弾道ミサイルや巡航ミサイルによって、防衛戦線の規準として、九州―沖縄―台湾―フィリピンを結ぶ第一列島線を設定し[注釈 10]、かつアメリカ軍等を含む他国の介入を阻止する作戦があるとも指摘した[30]。第一列島線はもともと1982年に鄧小平の意向を受けて、中国人民解放軍海軍司令官・劉華清(1989年から1997年まで中国共産党中央軍事委員会副主席)が打ち出した構想で、2010年までに第一列島線内部(近海)の制海権確保をし、2020年までに第二列島線内部の制海権確保をし、2040年までに航空母艦建造によって、アメリカ海軍による太平洋、インド洋の独占的支配を阻止し、アメリカ海軍と対等な海軍を持つというものであった[31]

2011年12月25日の日中首脳会談では、中国側が中国包囲網を切り崩すために懐柔するとみられ[32]、実際、日中で高級事務レベル海洋協議の開設と海上捜索・救助協定(SAR協定)の締結で合意した[33]。なお12月17日(発表は19日)には北朝鮮の金正日書記の死去をうけて、周辺諸国は緊張していた。

2012年1月5日、アメリカのオバマ大統領は5日、アジア太平洋地域での軍事的なプレゼンスを強化する内容の新国防戦略「アメリカの世界的リーダーシップの維持と21世紀の国防の優先事項」を発表した[34]。新戦略文書では中国とイランを名指し、サイバー攻撃やミサイル開発などの非対称的手段でアメリカに対抗していると指摘、中国について軍事力増強の意図の透明化を求めたうえで、オバマ大統領は演説で「第二次大戦やベトナム戦争の後のように、軍を将来への準備もない状態にする失敗は許されない。アメリカ軍を機動的かつ柔軟に、あらゆる有事に対応できるようにする」と述べ、アメリカが安全保障を主導する決意を示した[34]。これは、第二次世界大戦以来の「二正面作戦」を放棄してアジア太平洋地域での戦略的関与を最優先するものであり、「中国の膨張を抑止する」というアメリカの強い国家意志の現れであった[35][36]。これに対し、中国政府系メディアは警戒感を示したが[37]、これは米中がアジア太平洋地域で互いに覇権を求めない1972年の米中共同声明(上海コミュニケ)の実質的廃棄を意味し、米中冷戦の時代の幕開けを意味した[35]

米中両国間における諸懸案

台湾問題

米中関係において台湾問題は大きな障壁となっている。中国はかつて台湾を実効支配したことはないが、台湾は中国の23番目の省であると主張し、武力を行使して併合するとたびたび脅迫してきた。アメリカは台湾海峡の軍事勢力のバランスを保たせる名目で台湾への武器供与を幾度となく行い、またそのためもあり、中国と違って多元論や民主主義を育成してきた台湾へ大きな共感を寄せている。冷戦期には台湾の自由民主主義化を画策して反共の砦として利用した。冷戦期3回にわたる台湾海峡危機台湾有事は周辺国において重大な関心事となった。アメリカの中国への接近はこの地域における政治及び軍事の力の均衡の変化をもたらし、この可能性は歴史的に台北遷都以来台湾、中華民国の同盟国であった日本の懸念を増幅してきた。

台湾域内においても台湾人意識の高揚で台湾独立運動が再燃、民主進歩党も結成された。1988年からの8年間は本省人李登輝が政権を握り、2000年からの8年間は民進党の陳水扁が総統を務め、両岸関係は益々深刻さを増していく。こうした台湾情勢の軟化は、国民党馬英九政権が誕生するまで待たなければならない。

アメリカ政府台湾政策に関する公式見解は、6つの保証3つの共同声明に基づく台湾関係法に集約されている。アメリカ政府は両岸問題が双方の対話によって平和的に解決することを一貫して望んでいる。アメリカ政府は中国政府の「一つの中国」を承認、非公式な実務関係で台湾との交流を続けている。仲介組織としてアメリカ側は美国在台協会を設置[38]、台湾側は駐美国台北経済文化代表所を設置している[39]。また、アメリカ政府も中華民国政府のAPECWTOアジア開発銀行など国際機関での活動を大いに支持している。

台湾では現状を維持するという基本的なコンセンサスがあるが、李登輝のような独立論者らは長期的に中国は経済力、軍事力を増強するので台湾は即座に行動を起こし、独立を宣言しなければならないとの考えを表明している。もし台湾が独立を宣言し、中国が武力介入をするならば、アメリカは台湾関係法に基づき介入すると思われるが、そのような独立宣言が行われるならばアメリカは窮地に立たされるであろう。かつて台湾が陳水扁政権時代に現状維持から独立へ向かって行動を起こそうとした際、アメリカは台湾に「四つのノー、一つのない」の方針に従って思いとどまるよう要請し、台湾はこれを受け入れた。

経済問題

米中の貿易関係は1972年から1973年にかけて修復された。アメリカはこれまでに中国に対し巨額の直接投資を行い、製造業、ホテル、外食、石油化学など広範囲に渡る様々なプロジェクトを展開してきた。アメリカ企業は中国市場に参入するために2万以上もの合弁企業合作企業独資企業を設立することに合意した。アメリカの多国籍企業100社以上が中国で活動しており、そのうちのいくつかは複数の投資を行っている。アメリカの累計対中投資は480億米ドルに上る。2006年のアメリカの対中貿易赤字は3500億米ドルに達し、これはアメリカの二国間貿易における貿易赤字としては最大のものである。米中貿易の総額は1992年の330億米ドルから2004年には2300億米ドルにまで達した。(Bunton). アメリカが対中貿易で赤字に陥った原因は以下のものが考えられる。

  • アメリカ経済の強さ:製造業の最終組み立て作業を他のアジアの新興工業経済地域から中国にシフトした。中国は付加価値を加える長い工程の最終段階地になることが増えている。アメリカの貿易資料によると、最終工程地へ送られる製品の価値の中で、中国で付加される価値は過大評価されている。
  • アメリカの労働集約型製品の需要が国内生産による供給を超過していること:中国はしばしば国有企業を保護する目的で、外国製品やサービスへに高い関税を課したり、商品を輸入する際に特別な許可を要求したり、法律や規制の矛盾した適用を行ったり、市場参入への見返りとして外資企業に技術の開示を要求したりするなどの不透明な貿易活動の制限を行っている。中国の世界貿易機構への加盟はこうした問題を解決しなければならないことを意味している。
  • 米ドルと比較して人民元が過小評価されていること[40]

などが挙げられている。

2002年9月、米中両国はワシントンで合同経済委員会会議を行い、テロリストの財政、資金洗浄対策における関係強化、中国大陸での財政サービスに対する海外直接投資の予想、アメリカのマクロ経済開発への地域的依存などについて話し合った。中国経済の力強い成長の継続は地域経済発展の重要な原動力として機能し、中国は市場の再構築とグローバル経済の開放性の戦略を繰り返し述べている。

2002年9月、両国は経済問題や他の懸念材料についてハイレベルな対話を定期的を行うため、米中戦略経済対話を2006年より隔年で開催することで合意、これまでに5回開催され、直近では2008年12月に行われた。両国の代表団による開幕プレゼンでは両国において経済ナショナリズムが高まりつつあることが述べられた[41]

米中両国は国際政治問題の解決についてハイレベルな話し合いを行うために米中戦略対話も創設した。

人権・宗教問題

2003年、アメリカはその年には部分的に肯定的な兆候が見られ、中国が人権についてアメリカや他との約束に意欲を見せたものの、依然として深刻な後退があると宣言した。中国政府は原則的に人権保護の重要性を認めており、中国の人権を国際基準に合わせるため段階的な手段をとっていると主張している。これらの中には1997年10月の経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約への署名批准は2001年)、1998年の市民的及び政治的権利に関する国際規約への署名(未批准)が含まれる。2002年、中国は膨大な数の政治犯や宗教的な理由により収容された囚人を釈放し、国連の拷問や恣意的な拘束、宗教の専門家に協力することに合意した。しかし、世界の人権保護団体はそれらの約束は実質的に意味がなく、その後も似たような罪状でより多くの人が拘束され続けていると主張している。それらの団体は中国が未だ基本的な体系を設立する変革の長い途上にあり、将来的にはすべての中国国民の人権や自由が守られるとの見方を維持している。アメリカ国務省は世界の人権に関する年次報告を公表しており、その中では中国の人権状況も報告されている[42]。2008年、アメリカ国務省は中国政府の人権に関する報告について多くの批判がありながら、「最も深刻な人権侵害をしている国家」のリストから中国を削除した。2008年の報告書は3月11日に提出された。

アメリカによる非難に対抗するように、中国政府も1998年以降毎年中国の人権に関する白書を出版し、その地域における発展の詳細を明らかにしている。2008年の報告書はアメリカ国務省の2日後に提出された。

2005年10月19日以来、中国政府は民主主義の進展に関する白書も刊行している。2007年11月、中国政府は共産党や他の政党の役割について述べた白書を出版した。

中国の軍事費の機密問題

ブルーチームのような多くのアメリカの人々によって中国の軍事費は脅威であると言及されてきた。中国人民解放軍への軍事予算は近年加速度的な増加を遂げている。アメリカの独立系アナリストらは中国が実際の軍事費を隠していると確信している。中国政府によると、2007年中国は防衛のために450億米ドルの予算を費やした。その一方で、2008年のアメリカの軍事費は6230億米ドルであり、他の世界のすべての国々と共同で1230億米ドル以上が使われた。しかし、アメリカの専門家の試算では中国の軍事費はおよそ850億米ドルから1250億米ドルの間であると見積もられている。政府内の人物によれば、中国は2007年防衛のため1日当たり1億2300万ドルを使ったとされる。これに対しアメリカは1日当たり17億米ドル使った。

中国の軍事費に対する懸念は中国がアメリカまたは近隣諸国に対して軍事的挑戦を試みているとするアメリカの憂慮によるものである。中国は南シナ海近辺に海軍基地を開発中であり、人民解放軍の資源を海軍と空軍及びミサイル開発に転換しつつある。しかし、対GDP比でみるとアメリカの軍事費のほうが中国より依然高い水準にあることも事実である。

脚注

注釈

  1. ^ 米清貿易で米清両国の商人が得たものはどれも希少であり、船主は思いがけない利益を得ることができたため、米清両国は交易を本格的に開始した。米清貿易により清国金属オタネニンジン毛皮を、アメリカは綿漆器陶磁器家具を得た。清国はアメリカ向け商品を優先的に作るようになった。
  2. ^ この法案は60年以上もの間有効だった。
  3. ^ アメリカ軍では義和団の乱の鎮圧は"China Relief Expedition"(en)として知られている。
  4. ^ 1967年には17万人もの兵力が投入された。
  5. ^ 2007年彼は南カリフォルニア大学の米中研究所においてこの時期の米中関係の状態について語った。
  6. ^ 南カリフォルニア大学米中研究所が製作したドキュメンタリー"Election '08"と"the Challenge of China"は選挙に焦点を合わせ取材された(オバマ候補とマケイン候補の対中政策に関する部分はYouTubeで見ることができる)。
  7. ^ 2人は会談の中で米中関係の発展は両国の関心事だけでなく、世界の関心事にも及ぶことを合意した。President Hu Jintao and US President-elect Barack Obama Discuss over Telephone -- Hunan Government
  8. ^ >ピュー・リサーチ・センターやアメリカアジア協会、ブルッキングス研究所米国財務省を含む多くの機関は中国の対応する部局と気候変動について議論を交わすため共同で活動している。
  9. ^ なお、中国はアメリカの「バイ・アメリカン」条項が中国を含む海外の製造者を差別するものであるとして懸念を表明した。
  10. ^ Military Power of the People’s Republic of China 2007 p.16。
    ほかに宝島社『自衛隊vs中国軍』(ISBN4-7966-4802-X)55ページでは千島列島を起点としスラベシ島・ジャワ島までいたるとしている。

出典

  1. ^ US-China Institute: news & features: ambassador Clark Randt on "the crucial relationship"
  2. ^ ペマ・ギャルポ「中国が隠し続けるチベットの真実」扶桑社、イリハム・マハムティ「7.5ウイグル虐殺の真実」宝島社、ほか。
  3. ^ 宮崎正弘の国際ニュース・早読み平成15年(2003)1月14日通巻473号
  4. ^ US-China Institute: news & features: ambassador Clark Randt on "the crucial relationship"
  5. ^ 外務省 米中共同声明(仮訳)
  6. ^ 外務省 昭和47年版わが外交の近況 ニクソン米大統領の訪中に関する米中共同声明
  7. ^ 外務省 昭和54年版わが外交の近況 米中関係正常化関連文書
  8. ^ 台湾関係法
  9. ^ US-China Institute :: news & features :: china in u.s. campaign politics: part 6 of election ’08 and the challenge of china
  10. ^ 外務省 昭和58年版わが外交の近況 中華人民共和国とアメリカ合衆国の共同コミュニケ(仮訳)
  11. ^ 外務省 ヒューストン サミット
  12. ^ [1]
  13. ^ U.Hawaii, 1997
  14. ^ Eckholm
  15. ^ 人民解放軍がオバマ政権をテスト?——中国株式会社の研究~その7JBpress
  16. ^ [2]
  17. ^ [3]大紀元日本語版2005年7月18日中国語では「核武制美」などとも表現される。
  18. ^ [4]ウォールストリート・ジャーナルアジア版副編集長のダニー・ギティングス記者による報道
  19. ^ [5]大紀元日本語版2005年7月18日中国語では「核武制美」などとも表現される。
  20. ^ http://www.nbr.org/publications/analysis/pdf/vol16no4.pdf
  21. ^ 辻本貴一2009/08/03ブログ記事
  22. ^ “「米中は冷戦を避けなければならない」 キッシンジャー元国務長官”. 産経新聞. (2011年1月15日). http://sankei.jp.msn.com/world/america/110115/amr1101151347007-n1.htm 2011年1月15日閲覧。 
  23. ^ [6]日本経済新聞 電子版2011/9/1(有料)
  24. ^ a b 中西(2012)p.5
  25. ^ “米が対中新部局「エア・シーバトル」空・海戦闘一体…高官「南シナ海脅威座視しない」”. 産経新聞. (2011年11月11日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/111111/amr11111101180001-n3.htm 2011年11月11日閲覧。 
  26. ^ a b “「日米連携の包囲網」警戒 中国、表向きは中立”. (2011年11月16日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/111111/amr11111123120012-n1.htm 2012年1月9日閲覧。 
  27. ^ a b “米海兵隊、豪州に2500人駐留へ 中国けん制”. 日本経済新聞. (2011年11月16日). http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE3E4E2E79A8DE3E4E3E3E0E2E3E39F9FEAE2E2E2 
  28. ^ “米軍の豪駐留に中国反発 「時代に適さない」”. (2011年11月16日). http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C9381959FE3E4E2E6968DE3E4E3E3E0E2E3E39F9FEAE2E2E2;bm=96958A9C9381959FE3E4E2E79A8DE3E4E3E3E0E2E3E39F9FEAE2E2E29 
  29. ^ “アジア太平洋地域、激動の1カ月=米国の対中戦略を振り返る―SP英字紙”. レコードチャイナ. (2011年12月1日). http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=56492 2012年1月9日閲覧。 
  30. ^ a b “米委、有事の際の中国軍事行動を予測…日本周辺”. 読売新聞. (2011年11月16日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111116-OYT1T01119.htm 
  31. ^ 米国防総省2007年議会報告書「中国の軍事力」
  32. ^ “中国、包囲網切り崩し狙う 対日外交で主導権”. 産経新聞. (2011年12月24日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111224/plc11122419560015-n1.htm 2012年1月9日閲覧。 
  33. ^ “中国、首相歓待し日米分断狙う”. 産経新聞. (2011年12月27日). http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111227/plc11122706550005-n1.htm 2012年1月9日閲覧。 
  34. ^ a b “米国:中国とイラン名指し脅威指摘 新国防戦略”. 毎日新聞. (2012年1月6日). http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20120106k0000e030152000c.html 2012年1月9日閲覧。 
  35. ^ a b 中西(2012)pp.18-19
  36. ^ 森本敏「米国のアジア重視政策と日米同盟」 (PDF) p.41
  37. ^ “米国防新戦略 中国メディア警戒感”. NHK. (2012年1月6日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120106/t10015099861000.html 2012年1月9日閲覧。 
  38. ^ American Institute in Taiwan
  39. ^ Taipei Economic and Cultural Representative Office in the U.S.
  40. ^ 人民元動向 - Yahoo!ニュース
  41. ^ U.S. Department of the Treasury - U.S.-China Strategic Economic Dialogue
  42. ^ U.S. Department of State > Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor > Releases

参考文献

日本人によるもの

  • 秋田浩之 (2008)『暗流 米中日外交三国志』日本経済新聞出版社
  • 浅井基文 (2000)『中国をどう見るか 21世紀日中関係と米中関係を考える』高文研
  • 阿部純一 (2006)『中国と東アジア安全保障』明徳出版社
  • 天児慧 (2003)『等身大の中国』勁草書房
  • 天児慧 (2006)『中国・アジア・日本 大国化する「巨龍」は脅威か』筑摩書房
  • 荒井利明 (2002)『変貌する中国外交 経済重視の世界戦略』日中出版
  • 五百旗頭真 [監修] (2000)『世論調査にみる日米関係 読売・ギャラップ共同調査22年 安全保障問題が根幹揺さぶる』読売新聞社
  • 五十嵐武士 [編] (2005)『太平洋世界の国際関係』彩流社
  • 五十嵐武士 [編] (2006)『アメリカ外交と21世紀の世界 冷戦史の背景と地域的多様性をふまえて』昭和堂
  • 井尻秀憲 (2000)『アメリカ人の中国観』文藝春秋
  • 和泉太郎 (1998)『日米台「三国同盟」の時代 米中冷戦下のアジア集団安保体制』展転社
  • 伊藤剛 (2002)『同盟の認識と現実 デタント期の日米中トライアングル』有信堂高文社
  • 入江昭 (2002)『米中関係のイメージ』平凡社
  • 梅津和郎中津孝司 [編] (2007)『北東アジアの危機と新成長戦略』晃洋書房
  • 大橋英夫 (1998)『米中経済摩擦 中国経済の国際展開』勁草書房
  • 岡部達味 [編] (2001)『中国をめぐる国際環境』岩波書店
  • 岡部達味、高木誠一郎国分良成 [編] (1999)『日米中安全保障協力を目指して』勁草書房
  • 加々美光行(1999)『中国世界 21世紀の世界政治3』筑摩書房
  • 蟹瀬誠一 [監修] (2008)『図解 これ一冊で中国の世界戦略がわかる!』青春出版社
  • 菅英輝 [編] (2004)『朝鮮半島危機から平和構築へ』社会評論社
  • 国分良成 [編] (1997)『日本・アメリカ・中国 協調へのシナリオ』TBSブリタニカ
  • 国分良成 [編] (1999)『現代アジア危機からの再生』慶應義塾大学出版会
  • 小島朋之 (1997)『中国のゆくえ この国が世界を決める』時事通信社
  • 小島朋之、竹田いさみ [編] (2002)『東アジアの安全保障』南窓社
  • 古森義久 (2007)『日本に挑む中国 「いまそこにある危機」とは何か』PHP研究所
  • 副島隆彦 (1999)『アメリカの大嘘』講談社
  • 高井潔司 (2002)『中国報道の読み方』岩波書店
  • 高井潔司、藤野彰遊川和郎 [編] (2008)『現代中国を知るための50章』明石書店
  • 高木誠一郎 [編] (2007)『米中関係 冷戦後の構造と展開』日本国際問題研究所
  • 滝田賢治 (1996)『太平洋国家アメリカへの道 その歴史的形成過程』有信堂高文社
  • 滝田賢治 [編] (2005)『グローバル化とアジアの現実』中央大学出版部
  • 田中明彦 (2000)『ワード・ポリティクス グローバリゼーションの中の日本外交』筑摩書房
  • 田中宇 (2002)『米中論 何も知らない日本』光文社
  • 田村秀男 (2008)『経済で読む「日・米・中」関係 国際政治経済学入門』産経新聞出版
  • 中嶋嶺雄、古森義久 (2006)『米中新戦争 暴走する中国、封じ込めるアメリカ』ビジネス社
  • 中西輝政『迫りくる日中冷戦の時代』PHP研究所、2012年10月。ISBN 978-4-569-80700-3 
  • 中村勝範 [編] (1997)『運命共同体としての日本と台湾 ポスト冷戦時代の国家戦略』展転社
  • 日本国際政治学会 [編] (1998)『米中関係史』日本国際政治学会
  • 沼尻勉 (2000)『米中相克の時代』日本評論社
  • 浜田和幸 (1999)『「日本抜き」ゲーム 千年帝国アメリカの野望』PHP研究所
  • 浜田和幸 (2000)『たかられる大国・日本 中国とアメリカ、その驚くべき“寄生”の手口』祥伝社
  • 船橋洋一 (2006)『同盟漂流』岩波書店
  • 本田善彦 (2004)『台湾総統列伝 米中関係の裏面史』中央公論新社
  • 防衛研究所安全保障研究会 [編] (1999)『これからの安全保障環境 世界の動向・日本の課題 世界化と地域化の複合潮流を読む』亜紀書房
  • 正木義也 (1998)『中国はどこに向かうのか アメリカか中国か』総合法令出版
  • 柳沢英二郎 (2002)『戦後国際政治史 4』柘植書房新社
  • 矢部武 (2006)『中国を取るアメリカ見捨てられる日本 アメリカ人は日本人より中国人が好き』光文社
  • 山極晃 (1997)『米中関係の歴史的展開 一九四一年~一九七九年』研文出版
  • 山本吉宣 [編] (2005)『アジア太平洋の安全保障とアメリカ』彩流社
  • 渡邉昭夫 [編] (2005)『アジア太平洋連帯構想』NTT出版

訳書・洋書

  • 毛里和子毛里興三郎 [訳] (2001)『ニクソン訪中機密会談録』名古屋大学出版会
  • Eckholm, Erik. "Clinton Urged to Meet Top China Dissident." New York Times 20 June 1998: A3. Historical New York Times. Proquest. DuBois Library, UMASS Amherst. 10 Apr. 2006.
  • Lilley, James R.; 西倉一喜 [訳] (2006)『チャイナハンズ 元駐中米国大使の回想1916-1991』草思社
  • 馬暁華 <Ma, Xiaohua> (2000)『幻の新秩序とアジア太平洋 第二次世界大戦期の米中同盟の軋轢』彩流社
  • Mann, James; 鈴木主税 [訳] (1999)『米中奔流』共同通信社、
  • 緒方貞子添谷芳秀 [訳] (1992)『戦後日中・米中関係』東京大学出版会
  • 沈才彬 <Shen, Caibin> (2007)『「今の中国」がわかる本 この100年で中国に起こったこと、そして、これから起こること』三笠書房
  • Song, Yuwu [Ed.] (2006) Encyclopedia of Chinese-American Relations, McFarland

外部リンク

米国サイト
中国サイト
その他

関連項目