アメリカ合衆国とイランの関係

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アメリカ合衆国・イラン関係
アメリカ合衆国とイランの位置を示した地図

アメリカ合衆国

イラン

アメリカ合衆国イランの関係は、政治的には19世紀後半の半ばにナーセロッディーン・シャーが初めての公式大使としてミールザー・アボルハサン・シーラーズィー(ميرزا ابولحسن شيرازی)をワシントンD.C.に派遣したことに始まる。一方、合衆国も1883年サミュエル・ベンジャミン英語版をイランへの初めての公式外交使節に任じている。

以後、イランとアメリカ合衆国は第二次世界大戦後の時代まで政治的・文化的な同盟国であり、この政治的同盟関係は1979年まで維持された。しかし紛争的諸事件の惹起により、両国間の関係は緊張状態に入ることになった。

目次

初期の関係[編集]

1880年代前半に始まる公式の政治関係以前に、アメリカ人はイランに旅している。ジャスティン・パーキンス英語版アサヘル・グラントAsahel Grant)がアメリカ外国宣教団評議会によってイランに派遣されたのは1834年のことであった。

政府による直接の接触は、ナーセロッディーン・シャーの有名な宰相アミール・キャビールの時代である。アミール・キャビールは、イラン海軍の創設のため、ブーシェフルでの海軍基地建設への援助について、アメリカ合衆国との協定に署名した[1]

オルーミーイェ大学英語版医学部の前身となる学校の設置も、イランとアメリカ合衆国間の外交関係に先立つ接触の一例である。同校は1870年代にアメリカ人医師によって設置されたものである。

19世紀末までには、ペルシア湾からテヘランに至る鉄道建設のためアメリカの会社との交渉が行われている。1901年バッファローに本社をおくアメリカ企業は、鉄道事業評価のためバッファローに代表団を派遣するようイラン政府に要請。しかしこの計画はおそらくはイギリスの圧力により実現することはなかった[1]

第2次世界大戦までのイランと合衆国との関係はきわめて親密なものであった。結果として立憲派の多くが、イランに対する屈辱的な英露の干渉・支配を打ち破る闘いにおける「第三勢力」として合衆国を評価した。こうした信頼は第二議会以降、3次にわたってアメリカ人を「イラン総財務官」として任用したことにあらわれている。同ポストはアーサー・ミルスポー英語版モルガン・シャスターエルギン・グロースクローズ英語版によって担われた。これらの指名は、公文書としては存在していないが、合衆国政府と立憲派による接触の成果と考えられる[1]。さらに、イラン経済の近代化と英露の影響からの自立において、合衆国の企業家らの全面的支援を受けたことは確実である[1]

イラン立憲革命においては、ハワード・バスカーヴィル英語版が立憲派とともに闘い、タブリーズで戦死している。またモルガン・シャスターが総財務官に任じられると、テヘランで1人のアメリカ人が、ロシアないしはイギリスを背景に持つ者の手によって殺害されるという事件が起こっている。こののちシャスターはイラン立憲革命を財政的に支援するため、さらに精力的に活動した[1]シャーの兄弟でロシア帝国と結んだショアーオッサルタネ(شعاع السلطنه)の資産引渡令をイラン政府が発すると、シャスターがこれを担当し、直ちに実行に移した。直ちにロシア帝国は資産償還と謝罪をイラン政府に要求し、バンダレ・アンザリーに兵を上陸させた。リアホフ将軍に率いられたロシア軍はテヘランへと進撃し、議会を砲撃した。結局、アメリカ人シャスターは、英露の強力な圧力のもとで辞任を余儀なくされることとなった。シャスターの著書『ペルシアの窒息(The Strangling of Persia)』はこれら諸事件の詳細を記述し、英露を厳しく批判している。

レザー・シャーの登極につながる1921年のクーデターに英国が関与したという大衆の見解を最初に裏付けたのは、ロンドンにおける外務省出先機関へのアメリカ大使館による通報であった[2][3][4]。英国大使館は1932年になって、英国がレザー・シャーを「玉座に据えた」と認めている。合衆国はこの時期のイランに関する限り英国の同盟国ではなかった。

モルガン・シャスターの後任にはアーサー・ミルスポー英語版が就任し、レザー・シャーにも総財務官として任命されている。続いてアーサー・ポープ英語版が就任、レザー・シャーのペルシア帝国復興政策の主要推進者のひとりとなっている。しかし、アメリカ合衆国とイランの親密な関係は、1950年代初に転機を迎えることになる。

1950年代: 石油国有化運動と転機[編集]

1952年から53年、民主的に選出されたナショナリスト首相モハンマド・モサッデグは急速に勢力を伸ばし、一時はモハンマド・レザー・シャーを短期亡命に陥れた(のち帰国し権力奪取)。1952年の諸事件は石油国有化運動、すなわちモサッデグによるアングロ・イラニアン石油会社英語版(AIOC)(現ブリティッシュ・ペトロリアム)の国有化政策に端を発する。同社は20世紀初に英国によって設立され、英国85%・イラン15%の割合で利権を分割する協定を結んでいたが、イラン政府に財務報告を提出していなかった。アングロ・イラニアン石油会社による利権の独占の嫌疑により、イラン議会は同社の国有化を満場一致で可決した。この当時アングロ・イラニアン石油会社は英帝国最大の企業であった。

合衆国と英国は、現在はCIAも認めている秘密作戦「アジャックス作戦英語版」(: TPAJAX Project)を展開した。これはテヘランの合衆国大使館の指揮によるもので、反モサデッグ勢力の組織化を援助し、シャーを帰国させるというものであった。しかし作戦は失敗、シャーはイタリアに亡命した。その後同様の試みが行われて1953年イランクーデター英語版が成功。モサッデグ政権は崩壊し、シャーは短期の亡命から帰国した。こののち、政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。シャーはアメリカの支援下で専制君主として急速な近代化政策を開始し、一方でイランにおける民主主義の萌芽は独裁のもとに潰えた。

モハンマド・レザー・シャーはその支配において、合衆国から多大な支援を受け、アメリカから大量の兵器を購入した。自身しばしばホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領からの賞賛を得ている。シャーとワシントンの緊密な関係、大胆かつ急速な西洋化政策は、イラン人の一部、特に強硬なイスラーム保守層の慷慨を招くこととなる。

1979年のイラン・イスラーム革命以前、イランはペルシャ湾岸における重要な親米国家であり、イランは合衆国における最大の留学生数を持つ国の1つであった。

1979年イスラーム革命[編集]

1979年イラン・イスラーム革命が勃発。シャーは再度の亡命を余儀なくされた。新たに指導者となったアーヤトッラー・ホメイニーは直後から合衆国を「大悪魔」、「不信仰者の国」と痛罵した。

合衆国のジミー・カーター政権はシャーに対するこれ以上の支援供与を拒否し、シャーの政権復帰に関心を持たないことを表明した。しかし当時を患っていたシャーが治療のため合衆国入国を申請すると困惑し、最終的にカーターは不承不承、入国を認めている。結局、このことはシャーが合衆国の傀儡であったというイラン人の印象を強める結果に終わった。

イスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、革命政権の承認、モサッデグ政権の打倒と傀儡のパフラヴィー政権の樹立、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動の一部の勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にして、アメリカ政府に対する要求を継続した。カーター大統領はアメリカ大使館占拠事件に対して、1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した[5]

1979年イランアメリカ大使館人質事件[編集]

1979年11月4日イマーム戦列支持ムスリム学生団が、アーヤトッラー・ホメイニーの支持のもとテヘランのアメリカ大使館を占拠した。これは大使館によるスパイ行為のためであった。52人のアメリカ人が444日間にわたって人質となった。1980年4月7日、合衆国はイランとの国交を断絶。1981年4月24日以降、スイス政府がテヘランの利益代表部を通じて合衆国の権益を代行した。一方、合衆国におけるイランの権益は、ワシントンD.C.のパキスタン大使館内に設けられたイラン利益代表部によって代行されることになった。

1981年1月19日アルジェ合意により、オランダハーグイラン・合衆国損害裁定委員会が、合衆国とイラン相互の主張を処理するために設置された。ただしハーグを通じての合衆国とイランの接触は、法的問題に限定された。条約調印の1981年1月20日、人質は解放された。

テロ支援国家指定[編集]

アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで指定を継続している[6]

イラン・コントラ事件[編集]

1986年、ロナルド・レーガン政権はイランに対する武器売却を、ニカラグアの武装勢力コントラを通じる形でおこない、売却資金をコントラへの支援とした[7]

プレイング・マンティス作戦[編集]

1988年4月にアメリカ合衆国とイランは直接交戦している。イランが行ったペルシア湾への機雷敷設に対し、アメリカ海軍が報復として攻撃を行ったものである。作戦名はプレイング・マンティス作戦4月14日に作戦は行われ、イランのフリゲートが撃沈された。なお、交戦は1日で終了した。

1988年: イラン航空655便撃墜事件[編集]

1988年7月3日、合衆国の巡洋艦ヴィンセンスイラン航空エアバスA300B2を撃墜するという事件が発生。ホルモズ海峡を越えたイラン領空内でのスケジュールにある民間航空機の撃墜であり、子供66人を含む6カ国あわせて290人の一般人が死亡した。1996年2月22日、合衆国は撃墜によるイラン人犠牲者248人に対する補償6180万ドルの支払いに同意した。ただし3000万ドル以上と見積もられる航空機自体の補償は現在に至るまでなされていない。

ヒズブッラーによる諸爆破事件[編集]

合衆国はイランを背景に持つヒズブッラーによる反合衆国テロ攻撃関与を非難した。これはアメリカ人17人が死亡した1983年4月アメリカ合衆国大使館爆破事件レバノンで平和維持軍241人が死亡した1983年ベイルート海兵隊宿舎爆破事件1996年フバル・タワー爆破事件などである。

合衆国地方裁は2003年、1983年4月アメリカ合衆国大使館爆破事件について、イラン政府に支援されたヒズブッラーと呼ばれる当時の新組織によるものであるとの判決を下している[8]

ベイルート爆破事件での死亡者241人の遺族による訴訟で、連邦地方裁判事ロイス・C・ランバースは2003年5月、同事件におけるイラン・イスラーム共和国の責任を宣告している。ランバースはヒズブッラーがイラン政府支援のもとに創設されたものであり、1983年の時点でイランに完全に依存していたこと、同事件の実行にあたってもイラン情報省とイラン安全保障部門の援助があったものとしている[9]

またフバル・タワー爆破事件についても、連邦裁判所がアリー・ハーメネイーの認可のもとに行われたものとする調査結果を出している[10]

経済関係の変容[編集]

イスラーム革命以前、アメリカ合衆国はイランにおける最大の経済的・軍事的パートナーであった。したがって、急速なインフラストラクチャー・産業の近代化にあたって、3万にものぼるアメリカ人がイランに居住し、技術的や教育的、あるいは顧問的役割を果たした。逆にこの結果として、あまりにも急速な近代化がイラン国民の多くに不安と不満を醸成し、1979年の革命につながったとの指摘もある。

凍結されたイラン資産の問題はイラン政府の過敏に反応するところである。1979年のアメリカ大使館人質事件以降、合衆国は在合衆国の銀行預金、金、その他のイラン資産総計約120億ドルを凍結した。合衆国政府当局によれば、これらの凍結資産の大部分は、大使館のアメリカ人人質解放の取引にあたって凍結解除されたとされる。しかし若干の資産が革命以降の法的諸問題のため凍結解除が保留されている。これらの資産は、イラン政府の主張によれば100億ドル近くにのぼる。一方、合衆国政府の主張でははるかに少額であるとされる。

イランと合衆国の経済的関係は、合衆国の制裁により、主にイラン側の食糧、医薬品の輸入、合衆国側の食糧、カーペットの輸入に限られる。「合衆国に対する非常かつ重大な脅威」を抑止するための、イランに対する経済制裁1995年クリントン政権によって発動され、1995年の大統領令は合衆国企業およびその海外子会社のイランでのあらゆる商取引を禁じるもので「イラン石油資源開発に関する金融契約」も禁止された。加えて1996年、イラン・リビア制裁法(5カ年。2001年・2006年にさらに5カ年更新)により、年あたり2000万ドル以上をイランの石油天然ガスに出資する外国企業にも、義務的・裁量的双方の制裁を科した。イランに対する経済制裁はブッシュ政権オバマ政権に継続されている。

2000年から2004年[編集]

2003年以降、合衆国はイランの核開発計画に関する情報を収集するため、イラクから無人偵察機を飛ばした。伝えられるところではほとんど新情報を入手できなかったが[11]、イラン政府はこれを不法な主権侵害行為として正式に抗議している[12]

合衆国政府およびイラン政府相互の懸案[編集]

両国間の関係改善には深刻な障害が存する。合衆国政府の抱きうる懸案は以下の通り。

議会間非公式直接会合[編集]

2000年8月31日[編集]

2000年8月31日、合衆国議会からアーレン・スペクター共和党上院議員、ボブ・ネイ共和党下院議員、ゲイリー・アッカーマン民主党下院議員、エリオット・L・エンゲル民主党下院議員の4人と、イラン議会(マジュレス)から議長メフディー・キャッルビー、ユダヤ人のモーリス・モターメド議員が、ニューヨークで非公式会合を開き、諸問題について討議した。この討議は、列国議会同盟会議の機会を利用して開かれたものである[15]

軍事行動への脅威と緊張: 2005年〜2006年[編集]

国連活動参加のためのイラン人へのヴィザ供与拒否[編集]

2005年9月、合衆国国務省は、イランのマジュレス議長ムーサー・ゴルバーニーおよび随行の政府高官へのヴィザ発行を拒否した。ゴルバーニーらの申請は国連での会議出席のためのものであった。国際連合規則によれば、合衆国は政治的立場にかかわらず、いかなる加盟国代表にもヴィザを発行しなければならない[要出典]

合衆国によるイラン武力攻撃のおそれをめぐって[編集]

合衆国のイランに対する公式の立場は「イランの核武装は受け入れられない」ということであり、一方的武力攻撃および先制核攻撃を含む「あらゆるオプション」を「排除しない」というものである[16]。しかしながら、合衆国政府は即時の攻撃準備については否定している。これはヨーロッパ3カ国、のいわゆるEU3カ国による濃縮活動停止協議中に、合衆国が濃縮活動を核兵器生産のためと主張したことに起因する[17]

2006年現在、合衆国はイランの隣国4カ国イラクトルコアフガニスタンパキスタンにきわめて大規模な軍事的プレゼンスないし数十年にわたる軍事協力の歴史をもつ。


ジョージ・W・ブッシュ大統領は2006年8月31日、ウラン濃縮停止要求に対するイランの抵抗には「結果が必要だ」とし、イスラエルとイランに支援されたヒズブッラーの戦争に見られるように「世界は現在、イランの過激な体制からの重大な脅威に直面している」と述べた[18]

対イラン戦術核兵器使用計画をめぐって[編集]

2005年3月、合衆国は非核保有国に対する先制攻撃予防戦争における核兵器の使用を含むドクトリンの改訂をおこなった。

同8月、元CIA職員フィリップ・ジラルディは、副大統領ディック・チェイニー戦略軍にさらなる9・11型のテロ攻撃があった際に発動する非常事態計画を準備するよう指示し……イランに対する通常兵器および戦略核を用いた大規模空爆を含む……現実に合衆国に対する直接のテロ行動に関わっているイランには無条件で……」と述べたとする。小型核兵器による攻撃の理由は、目標が装甲され地下深く非核弾頭での破壊が困難であるためである[19]


イランの核開発計画に関わる要因[編集]

2003年以来、合衆国はイランが核兵器開発を計画していると主張。これに対し、イランは核開発計画は発電のみを目的にしていると反論している。

2005年6月、合衆国国務長官コンドリーザ・ライスIAEA事務局長モハメド・エルバラダイについて、イランに対する姿勢をより強固にせねば、3期目の選出はないだろう」と述べている[20]。合衆国とイランはともに核拡散防止条約(NPT)関係国である。2005年5月の1ヵ月にわたる会議上、IAEAは核燃料およびその処理について報告が不十分であるとして、イランがNPT保障措置管理に違反していると発表している[21]。これに対し、NPT第4条では、非核兵器保有国に対して非軍事的原子力エネルギー開発の権利を認めており[22]、さらに合衆国および他の公認の核兵器保有国は第6条違反であるとする反発があった。第6条は核軍縮を定める規定であるが、2006年現在で核兵器保有国がそれを行っていないとするものである。

2003年から2006年初にかけて合衆国とイランの関係は逐次緊張を増した。この時期、IAEAによる核関連施設への査察が継続しており、これはイランが自発的に加盟したNPT追加条項に基づくものである。

2006年3月8日、合衆国およびEU3カ国代表は、イランが未濃縮六フッ化ウランの保有を指摘、十分な濃縮が行われれば最大10個の原子爆弾製造が可能であり、これは「安全保障理事会が行動すべき時」と声明を発表した[23]。ただし未濃縮ウランは、加圧水型原子炉ブーシェフル原子力発電所では使用できず、また濃縮がなければ原子爆弾にも使用できない。

合衆国・イラン間の緊張における石油その他戦略的諸要因[編集]

ステファン・ズーンズ共和党民主党とも、中東において合衆国の経済的戦略的構想に対し非協力的な産油国(すなわちイラン)を封じ込め、孤立させ、軍事的な威嚇への衝動があると述べている[24]

合衆国・イラン間で増大する緊張は、エネルギーにかかわる地政学的要因に起因するものであり、ほとんどの西洋世界のエネルギー的安全保障の将来にかかわる。これはすなわち最終的には、世界の1日の石油需要の40%が運ばれるホルムズ海峡の支配権に関わるためである[25]

この要因を持たないことにより、北朝鮮の核問題はイランほどには世界的な注意を引かなかったのである。

イランによるユーロ建石油取引市場開設計画[編集]

イランによる新たな国際石油先物取引市場の創設計画が複数の観測により確認されている。現在のところ公式の名称はないが、一般にイラン石油取引所と呼ばれており、取引は、現在すべての石油取引に用いられるドル建ではなくユーロ建ないしその他の通貨建で行われる見通しである。これを一部では米ドルを基軸とする国際通貨市場に重大な否定的影響をもたらすものとして懸念している。取引開始は2006年3月20日とされていたが、延期されている[26]

合衆国での選挙をめぐる要因[編集]

2005年11月、マイケル・クレアハンプシャー大学平和・世界安全保障学教授は、ジョージ・W・ブッシュ政権によるイラン攻撃への主な要因として、国内における政治的困難からの目をそらさせ、政権支持を増加させる欲求があると指摘している。2003年の合衆国によるイラク侵攻ではブッシュ政権に対する支持率はおよそ10%増加し、数か月後にもとの支持率に低下している[27]

イランでの選挙をめぐる要因[編集]

イラン・イスラーム共和国大統領マフムード・アフマディーネジャードによる発言は、イスラエル政府の言うように脅迫を目的としたイスラエル向きの発言である[28]のと同程度に、選挙を目的として国内に向けられた発言であるとアリー・アンサーリーのような専門家は解釈する[29]

宗教保守派マフムード・アフマディーネジャードは2005年、大統領に当選した。

2005年10月、マフムード・アフマディーネジャードは国内向け演説でアーヤトッラー・ホメイニーの「時のページから(イスラエルパレスチナにおいて)占めている体制は消滅すべきである」、パフラヴィー朝国家としてのソヴィエト連邦イラクにおけるサッダーム・フセインも同様であるとの発言に賛意を示した。

また2005年12月8日にはホロコーストを疑う発言をしている。さらに1週間後12月14日にも同様に文字通りホロコースト否認の発言をしている。これらの発言は一般にそのポピュリスト的な選挙基盤を意識したものとおもわれる。2005年の大統領選挙では第一回投票で19%の票を得ている。

マフムード・アフマディーネジャードファン・コールは、これらの発言は西洋のメディアによって誤訳され、イスラエルが「歴史のうえで拭われるべき(汚点)」との発言であって、パレスチナにおける民主主義を擁護したものに過ぎないと反論している。しかし、これが誤訳であったかどうかは別として、発言に対する国際的反応は非常に否定的なものであった。

エイジアン・エイジのスィーマ・ムスタファは、イスラエルとホロコーストをめぐるアフマディーネジャードの発言がイラン攻撃への名分として用いられていると論じる。

「(アフマディーネジャードを)悪魔扱いするキャンペーンは非常に効果的であった。実際、対イラン戦へのプロパガンダの重要要素としてアフマディーネジャードは組み入れられたのだ……」

また、この議論はEU3カ国代表マイケル・シーファーと合衆国国務次官ニコラス・バーンズが、国際連合安全保障理事会IAEA査察受け入れをイランに勧告するべきとして、デリーでジャーナリストに示したものである[30]

合衆国の中東民主化計画をめぐる要因[編集]

2003年のイラク侵攻後に大量破壊兵器が発見されなかったことが明らかになると、ジョージ・W・ブッシュは演説で、政権の目的は中東諸国に民主主義をもたらし、「イスラーム的ファシズム」に対抗することであると述べている。

反イラク戦争イラク世界法廷その他は、政権の上記のような説明に疑問を呈し、イラク占領におけるイラク学界に対する組織的策謀を指摘している。

『悪魔のゲーム—合衆国はいかにしてイスラーム原理主義を解きはなってしまったのか』(Devil's Game: How the United States Helped Unleash Fundamentalist Islam)の著者ロバート・ドレフュスは、合衆国による中東地域での諸活動は、「イスラーム的ファシズム」に対抗するどころか、かえってそれを助長しつづけている、と主張している[31]

合衆国によるイラン攻撃の可能性[編集]

CIA局員で、近東南アジア担当国家情報官として、2000年から2005年にかけてイランに関する国家情報推定National Intelligence Estimatesの作成を主導したポール・ピラーは、インタープレス・サービスに対して、この時期の国家情報推定について次のように発言している。

「明確に合衆国の攻撃に対するイランの恐怖をとりあげており、その恐怖と核兵器開発に対する欲求を関連づけている……この脅威、特に合衆国とイスラエルからの攻撃というイランの認識する脅威において、イランの核開発は攻撃の要因であるのみならず、逆にこの脅威がイランが核兵器開発に努力するかどうかの要因ともなっているのである」

また別の元CIA官僚エレン・ライプソンは「合衆国によるイラン攻撃への恐怖は、ながらくイラン関係国家情報推定における『基本的要素』であった」という[32]。2005年、合衆国は「イラン自由支援法」を可決した。これはイランで活動する人権NGOに数百万ドルの予算を充てるものであった。両国の一部政治家は同法を「イランに対する軍事力の使用について特定の禁止を含みはするが、戦争への布石である」と非難している[33]


2003年から2006年の合衆国によるイラン主権侵害の疑い[編集]

合衆国無人偵察機によるイラン領空侵犯の疑い[編集]

2003年以降、合衆国はイランの核開発計画に関する情報を収集するため、イラクから無人偵察機を飛ばした。伝えられるところではほとんど新情報を入手できなかったが[11]、イラン政府はこれを不法な主権侵害行為として正式に抗議している。合衆国のRQ-7 ShadowHermes UAVはイランに墜落している[11]


2006年対イラン制裁[編集]

合衆国はイランの核開発、およびイラン政府によるイラクにおけるシーア派民兵に対する後方支援および財政的支援を問題として、国際的制裁を呼びかけた。後者についてイラン政府はこれを否定している[34]。合衆国政府は2006年9月8日、合衆国金融機関関連の銀行を除いて、間接的取引を含めたイラン銀行との取引を禁ずる制裁を発動した。財務次官スチュアート・リービーの発表によれば、主要イラン国有銀行として、サーデラート・イラン銀行ヒズブッラーを含むテロ集団に対する資金移転を行った疑いがあるとされたためである。この時点ではイラン金融機関は合衆国の金融市場での直接の取引は禁止されたが、第三国を通じての取引は可能であった。その後サーデラート・イラン銀行による取引は第三国経由でも凍結されているが、リービーによればイランのその他の銀行に対しては適用されないとされている。右の制裁はイランおよびヒズブッラーに対するブッシュ政権の新たな努力であり、リービーは2001年以降、ヒズブッラー支配下の組織にサーデラート・イラン銀行を通じて、イランから直接に5000万ドル以上が流入しているとする。その上で、合衆国政府はイランとの取引を行わないようヨーロッパ諸銀行および金融機関を説得したいとしている[35]

2007年の合衆国による在イラク・イラン総領事館襲撃事件[編集]

1月12日、合衆国の武装部隊がイラクアルビールのイラン'総領事館'を襲撃し、5人のスタッフの身柄を拘束する事件が起こった。

報道によれば、合衆国部隊ははじめに建物周辺にヘリコプターで着陸、'領事館'のゲートを突破して警備員を武装解除、その後複数の文書および機材を没収して、5名の'領事館員'の身柄を拘束していずれかへと連れ去ったという。

周辺住民は外出することができなかったといい、外出した3人は逮捕された。取材に対し、外出した夫が部隊に逮捕されたと周辺住民の女性が確認している。

この事件について、ロシア外務省のミハイル・カミーニンは領事関係に関するウィーン条約違反であるとして非難している。また同地域を管轄するイラクのクルディスターン地域政府も衝撃と容認しがたい旨を表明している。一方、米国防総省のスポークスマン、ブライアン・ウィットマンは、当該建物は領事官や政府建物ではないと仏AFPに対して回答している。またイラク外相のホーシュヤール・ズィーバーリーは当該建物はイラン政府の認証を受けた政府機関であるが正式な接受を伴わない経過中のオフィス(リエゾンオフィス)であるとし、同条約36条違反には相当しないとした。

イラク関連木曜聴聞会では、デラウウェア選出民主党上院議員で、上院外交委員長をつとめるジョー・バイデンが、コンドリーザ・ライス国務長官に対し、ブッシュ政権には国境を越えての作戦権限はないと表明している。バイデンは次のように言う。「現在、大統領に対して与えられた権限は、イラクでの武力行使のそれであってイラク以外に対するものではない、と私は考える。このような行動には議会の承認が必要である。この点を強調しておきたい」と。

木曜朝、イラン外務省はイラク外務省に書簡を送付し、イラン・イラク関係へのブッシュ政権の干渉を停止させるよう依頼し、総領事館襲撃について抗議している。同書簡では「我らはイラク政府が先述の個人の自由の回復のため即刻処置を講じ、合衆国部隊のこのような手段を断罪するよう希望する。本件を追求し、逮捕者の解放に当たることはもとよりイラク政府およびイラク領クルディスターン自治政府当局の責任である」と述べられている。

イランからの関係修復の表明[編集]

イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している[36][37][38][39]。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している[40][41]

核開発問題[編集]

イランの核開発については、イラン政府は常に、イランの核開発は平和利用の原子力発電のためであり、軍事目的の核兵器を開発する意思は無いと主張している。しかし、国連安保理常任理事国であるアメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスの5か国の政府とドイツ政府は、イラン政府の主張は本音・真実ではなく、軍事目的の核兵器の開発のための偽装であるとの疑いを持ち、国連安保理は2006年12月、2007年3月、2008年3月にイランを制裁する決議を採択した。しかし、イラン政府は国連安保理の制裁決議は受け入れないと表明し、イランの平和利用目的の核開発は誰にも妨害させない、誰も妨害できないと主張している[42][43]。アメリカの国家情報会議(NIC National Intelligence Council)は、イランは2003年に核兵器の開発を中止しているので、アメリカ政府が主張するイランの核兵器開発疑惑は事実ではないと政府に報告した[44]


核エネルギー開発に関する非欧米の見方[編集]

欧米がこの問題や、その他の事柄でイランを極度に危険視してとりあげるのは、イランが欧米に依存しない、イスラムという価値観に基づく体制だからである、という見方がイランではある[45](下記の「イランの主張」参考)。 一方、日本ではイランが危険な国であるかのような論調があるが、アフマディネジャド大統領は一貫して核兵器を持つつもりは無いとし、「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対してはっきりと言い切っている(Newsweek誌2009年10月7日号)。その上で、アメリカの学生と大統領自身がニューヨークで交流するなど欧米に対して対話する努力を積極的に行い、アジア、南米、ヨーロッパなど様々な国のトップなどとも交流し、国内でも女性の閣僚指名(女性の権利の向上)などの画期的な改革を行うなど、様々な努力を行っている。また、イランは中国とも同盟を結んでいる。そのため、イランに理解を示す国々は日本ではあまり知られていないが数多くあり、イランが危険だから核エネルギー開発も阻止されなければならないという論理は決して世界共通とはいえなく、トルコブラジルベネズエラキューバエジプト、その他の非同盟諸国もイランの平和的核エネルギー開発を支持している。2009年10月にトルコのエルドアン首相はイランを訪れ、アフマディネジャド大統領と会談した際に「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとの姿勢を示した [46]。また、 非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択した[47]

2009年~2010年対イラン干渉[編集]

2009年のイランの反アフマディネジャド派の大規模なデモにはイギリス大使館の関係者が関与していたことが報道されているが[48]、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパのの財団・機関が関与していた事実があったとし、「ソフトな戦争」を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表している[49]。 その中で、担当次官は「こうした欧米の財団・機関は(イランの)体制転覆計画遂行のために「民間外交」「学術交流」「メディア交流」などを用いて、専門家や芸術家、大学教授、政治関係者、メディア関係者など、特定の社会階層の人々を誘惑・捕獲する計画を実行してきた。そうすることで、彼らは「ソフトな戦争」というアプローチの下、社会一般に影響を及ぼそうとしてきたのだ」と述べている。

大統領選挙後、日本の新聞でもアメリカがイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米Newsweek誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して「反体制派の力を強め、支配層内部に亀裂を広げるために行動すべきだ」、「(このイランの混乱のチャンスを利用すれば)イランが内政と外交の両面でかなり行儀のいい国になる-その可能性がある以上、リアリストもこのチャンスを逃すわけにいかないことは分かるはずだ」とイランへの内政干渉を完全に肯定し、イラク、アフガニスタン侵攻時にみられたのと同じく「西欧化」を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。 また、イランで民間人の交流もあまりないアメリカの人間がイラン国内で捕まる事件が起こっていることに関して、アフマディネジャド大統領は「イランの法を犯すなと助言してもらいたい」とアメリカのメディアに対して警告している[50]

2010年2月の31周年目のイランイスラム革命勝利記念日の行進には数千万人の体制派のイラン国民が参加し [51] 、同二月ハーメネイ師が「イランイスラム共和国は今年、覇権主義者との闘争(長年に渡る内政干渉と国際的な干渉)において、数十回目の勝利を遂げ、彼らを打ち負かした」と強調し、今年もイランは革命を守りぬいたことをその声明で述べた [52]

2010年2月23日、反体制派組織『ジョンドッラー英語版』(ペルシア語: جندالله‎、英語: Jundallah、「神の兵士」の意)の首領アブドルマーレク・リーギー英語版が逮捕された。会見にあたったヘイダル・モスレヒー情報相は「このテロリストは2008年6月から7月にかけて、ジブラルタル海峡を渡って欧州の某国に渡航、そこでイランで破壊活動をするようこの男に要請がなされた」と説明した。続けて情報相はリーギーが逮捕の24時間前にアフガニスタンの米軍基地にいたところを撮影した写真を示し、さらにアメリカによって提供された同テロリストの身分証明書ならびにパスポートを見せた上で、「われわれは米英ならびに覇権体制の諜報機関に警告する。テロリストへの支援はやめよ」と語った。[53]

2010年2月27日付、リーギーは米当局が彼の率いるテロ集団に対して、各種武器や爆弾、通信機器などを提供していたことを認めた。さらに「アメリカ中央情報局(CIA)の幹部らは、イランと敵対し、同国に対抗する能力をもった組織であれば、いかなる組織であれ、それを支援するという考えをもっている。アメリカが〔直接〕イランに対して軍事攻撃を仕掛けることは困難だからだ」とも語り、ドバイの米関係者らは彼に対し、「イラン問題こそ問題だ」と明言、アメリカは彼に、「今や問題はターリバーンでも、アル・カーイダでもない」と言ったという。[54]

イランの主張[編集]

また、上記と同じ声明の中で最高指導者ハーメネイー師は、「我々は覇権主義、支配体制、数カ国による世界征服に反対であり、それに立ち向かう。この数カ国の政府が、世界の運命をもて遊ぶのを許しはしない」と述べ(革命以前のイランはアメリカの傀儡を受けるパーレヴィ皇帝の圧制が敷かれていた)、イランに対する核問題、人権、民主主義に関する虚言や口実探しの最大の原因は、イラン国民の(彼らへの)抵抗と(体制への)断固とした立場にあるとし、「現在、アメリカは再度、過去と同様、自らの役人をペルシャ湾に送り込み、虚言を繰り返そうとしているが今やこのような言葉を信じる者は誰もいない。なぜならアメリカは、地域の国民の利益を考えたことはなく、その逆で、可能な限り、地域を自らの不当な利益の下で蹂みつけにしている」と述べた。さらに、本当に好戦的なのはアメリカであると強調し、「アメリカは、ペルシャ湾を兵器庫にし、イラクやアフガニスタンを攻撃し、パキスタンをも侵略している。このような状況の中で、イランイスラム共和国に対して虚言を浴びせている」と述べた [52]

2010年1月には、イラン政府が自国への欧米の干渉政策の理由を、さらに具体的に述べている。イランの情報省海外担当次官は、イラン国営通信とのインタビューの中で、米英をはじめとする覇権主義体制がイラン人民によるイスラーム革命に対してなぜ敵意を抱いているのかということについて、「この(イスラムの価値観に基づく)革命(体制)は、短期間のうちに世界中の大衆に認知され、歓迎を受けた。そのため、米英をはじめとする覇権体制の諜報機関による体制転覆計画の標的となってしまったのだ。彼らはイラン・イスラーム共和国に対して侵略的な「ソフトな体制転覆」(実際的な戦争などでない内政干渉など)計画を企てた。この目的を達成するために、これまでにかなりの額の予算が正式に認められ、割り当てられている。」と述べ、アメリカ、ヨーロッパの干渉についてのイラン政府の見方を示した[55]

対イラン制裁(2010年)[編集]

2010年2月16日、クリントン米国務長官は中東歴訪を終え帰国した。国連安保理による対イラン制裁の強化に向け、湾岸諸国の協力を取り付けるのが狙いとみられていた。カタールでは「イランは軍事独裁に向かっている」と発言、サウジアラビアなどでも同じような発言を繰り返した。オバマ政権は、政権発足以来対イラン外交の強化を方針としてきたが、一転して制裁などの強硬姿勢を前面に押し出している。[56]

2010年7月1日、オバマ政権はイランの金融・エネルギー部門と取引する企業への制裁強化を柱とする対イラン制裁法案に署名、同法は成立した。イランにガソリンを輸出する企業や、核開発にも関与する革命防衛隊と取引する金融機関への制裁を盛り込んでおり、米国の対イラン独自制裁としては史上最も厳しい内容である[57]

イランにおける著名なアメリカ人[編集]

読書案内[編集]

  • Friedman Alan, Spider's Web: The Secret History of how the White House Illegally Armed Iraq. New York, Bantam Books, 1993.
  • Jentleson Bruce, With friends like these: Reagan, Bush, and Saddam, 1982-1990. New York, W. W. Norton, 1994.
  • Phythian Mark, Arming Iraq: How the U.S. and Britain Secretly Built Saddam's War Machine. Boston, Northeastern University Press, 1997.
  • Morgan Shuster, The Strangling of Persia, ISBN 0-934211-06-X
  • US - Iran Economic and Political Relations Handbook (World Diplomatic and International Contacts Library), ISBN 0-7397-0759-0

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e See:
    • بررسی مناسبات ايران و آمريکا 1925 ميلادی -1851. سيدعلی موجانی. وزارت امورخارجه - دفتر مطالعات سياسی و بين المللی. چاپ اول : تهران 1375. موسسه چاپ و انتشارات وزارت امور خارجه
    • Link: 同書の書評(ペルシア語)
  2. ^ Zirinsky, M.P. (1992). “Imperial Power and dictatorship: Britain and the rise of Reza Shah 1921-1926”. International Journal of Middle Eastern Studies (24): 646. 
  3. ^
    • Foreign Office 371 16077 E2844 dated 8 June 1932.
    • The Memoirs of Anthony Eden are also explicit about Britain's role in putting Reza Khan in power.
  4. ^ Ansari, Ali M. (2003). Modern Iran since 1921. Longman. pp. 26-31. ISBN 0-582-35685-7. 
  5. ^ 山川出版社『詳説世界史』 第18章 現代の世界>世界経済の変容と南北問題>イスラム世界と石油危機
  6. ^ US Department of State. “Bureaus Offices Reporting Directly to the Secretary>Office of the Coordinator for Counterterrorism>Releases>State Sponsors of Terrorism”. 2008年7月10日閲覧。
  7. ^ Reagan, Ronald (1986年11月13日). “Address to the Nation on the Iran Arms and Contra Aid Controversy”. Ronald Reagan Presidential Library, National Archives and Records Administration. 2006年9月3日閲覧。
  8. ^ Bates, John D. (Presiding) (2003年9月). “Anne Dammarell et al. v. Islamic Republic of Iran ({{{1}}} (PDF))”. District of Columbia, U.S.: The United States District Court for the District of Columbia. 2006年9月21日閲覧。
  9. ^ CNN (2003年5月30日). “Iran responsible for 1983 Marine barracks bombing, judge rules” (英語). CNN. 2007年2月13日閲覧。
  10. ^ United States District Court for the District of Columbia (2006年12月22日). “Civil Action No. 00-2329 (RCL); Civil Action No. 01-2104 (RCL) ({{{1}}} (PDF))” (英語). 2007年2月13日閲覧。
  11. ^ a b c Linzer, Dafna (2005年2月13日). “U.S. Uses Drones to Probe Iran For Arms” (英語). Washington Post. 2007年2月13日閲覧。
  12. ^ Scott Tyson, Ann (2005-11-08おうrよう). “Iran Protests U.S. Aerial Drones” (英語). Washington Post. 2007年2月13日閲覧。
  13. ^ Office of the Coordinator for Counterterrorism (2006年4月28日). “U.S. State Department Country Reports on Terrorism of April 28, 2006”. Department of State. 2007年2月13日閲覧。
  14. ^ Office of the Coordinator for Counterterrorism (2006年4月28日). “Foreign Terrorist Organizations”. U.S. State Department Country Reports on Terrorism of April 28, 2006. Department of State. 2007年2月13日閲覧。
  15. ^ Crossette, Barbara (2000年9月1日). “For Iran's Visiting Legislators, A Useful, Low-Key Exchange ({{{1}}} (PDF))” (英語). New York Times. 2006年6月16日閲覧。
  16. ^ Wearing, Dave (2005年5月4日). “Blair's Next War” (英語). ZNet. 2006年6月16日閲覧。
  17. ^ Iran Must Abandon Nuclear Weapons Ambitions, Says U.S. Official”. Department of State (2006年5月22日). 2007年2月13日閲覧。
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  21. ^ Board of Governors, IAEA (2005年9月24日). “Implementation of the NPT Safeguards Agreement in the Islamic Republic of Iran: Resolution adopted on 24 September 2005 ({{{1}}} (PDF))” (英語). IAEA. 2007年2月13日閲覧。
  22. ^ The 2005 Review Conference of the Parties to the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons (NPT)” (英語, フランス語, ロシア語, スペイン語, アラビア語, 中国語). United Nations (2005年5月27日). 2007年2月13日閲覧。
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  24. ^ Zunes, Stephen (2005年8月31日). “The U.S. and Iran: Democracy, Terrorism, and Nuclear Weapons” (英語). ZNet. 2007年2月13日閲覧。
  25. ^ Maavak, Mathew (2006年2月7日). “Beware the Ides of March” (英語). Panoptic World. 2007年2月13日閲覧。
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  31. ^ Dreyfuss, Robert (2005年11月29日). “Political Islam vs. Democracy: The Bush Administration's Deadly Waltz with Shiite Theocrats in Iraq and Muslim Brotherhood Fanatics in Syria, Egypt, and Elsewhere” (英語). ZNet. 2007年2月18日閲覧。
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  35. ^ Xinhua (2006年9月9日). “U.S. imposes sanctions on Iranian bank” (英語). People's Daily English. 2007年2月13日閲覧。
  36. ^ 中日新聞 2008年2月17日版 イランのモシャイ副大統領は、「イランの最高指導者のハメネイ師が、アメリカとの関係回復がイランのためになるなら、私はそれを承認する最初の人物となると表明した」とハメネイ師の表明を引用して表明した。
  37. ^ 東京新聞 2008年2月15日版 イランのモシャイ副大統領は、「アメリカが中東への見方を変更し、イランの役割を理解し、イランに対する敵視政策を転換するなら、アメリカとの関係回復は可能である。」と表明した。
  38. ^ 毎日新聞 2008年2月25日版 イランのサマレハシェミ大統領上級顧問は、「相手国の立場を互いに尊重できるなら、イランはイスラエル以外の全ての国と友好的で平等の関係を形成する。アメリカがイランの立場を尊重するなら関係を修復する用意がある。イラン国民がアメリカとの関係修復を歓迎しない理由はない。」と表明した。
  39. ^ 読売新聞 2008年2月29日版 イランのアラグチ駐日大使は、「日本とイランは良好な関係を保ってきた、日本政府はアメリカ政府よりずっと、中東地域の現実や、地域でのイランの役割を熟知しているので、日本はアメリカにイランに対する敵視政策の変更を促す適任者である。アメリカが賢明な政策を取るよう、日本政府が助言することを期待する。」と表明した。
  40. ^ 毎日新聞 2008年2月29日版 アフマディーネジャード大統領は、「イラクのタラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善への協力する意向である。」と表明した。
  41. ^ 東京新聞 2008年2月29日版 イランのアフマディーネジャード大統領は、「3月2日に、1979年のイラン・イスラム革命後初めてイラクを訪問し、タラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善のための協力について協議する。」と表明した。
  42. ^ 毎日新聞、日本経済新聞 2008年2月28日版 イランの前核交渉担当外務次官だったアラグチ駐日大使は、「イラン政府は国際原子力機関(IAEA)に対して核問題の未解明部分について回答したので核問題は解決済みである、国連安保理が新たなイラン制裁決議案を採択した場合は対抗措置を取る。」と表明した
  43. ^ 読売新聞 2008年2月24日版 アフマディーネジャード大統領は、「国際原子力機関(IAEA)が2008年2月22日の報告書で、イランの核開発の軍事転用が確認されなかったと指摘したことを強調し、国連安保理が制裁決議をしてもイランにとって大きな影響は無いと主張し、イランに敵対的な行動をする国には、報復措置を取ると安保理常任理事国に警告した。」と表明した
  44. ^ 2007年12月4日 New York Times U.S. Finds Iran Halted Its Nuclear Arms Effort in 2003. A new assessment by American intelligence agencies released Monday concludes that Iran halted its nuclear weapons program in 2003 and that the program remains frozen, contradicting a judgment two years ago that Tehran was working relentlessly toward building a nuclear bomb.The conclusions of the new assessment are likely to reshape the final year of the Bush administration, which has made halting Iran’s nuclear program a cornerstone of its foreign policy.
  45. ^ Iran紙、2010年1月5日付
  46. ^ Newsweek誌2009年12月9日号
  47. ^ イランの核開発権利を確認 非同盟諸国首脳会議が閉幕” (日本語). 共同通信社 (2006年9月17日). 2010年9月15日閲覧。
  48. ^ Iran紙2009年8月9日付
  49. ^ Iran紙2010年1月5日付
  50. ^ Newsweek誌2009年10月7日号
  51. ^ 行進への数千万人の参加に対する感謝のメッセージ” (日本語). khamenei.ir (2010年2月11日). 2010年2月28日閲覧。
  52. ^ a b 「我々は、覇権主義と支配体制、数カ国による世界征服に反対である」” (日本語). khamenei.ir (2010年2月17日). 2010年2月28日閲覧。
  53. ^ 2010年02月24日付 Jam-e Jam紙
  54. ^ 2010年02月27日付 Jam-e Jam紙
  55. ^ Iran紙2010年1月5日付
  56. ^ “米国務長官:イランの「革命防衛隊」脅威を指摘”. 毎日新聞. (2010年2月17日). http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20100217k0000m030029000c.html 
  57. ^ “米のイラン制裁法成立、取引金融機関に制限”. 読売新聞. (2010年7月2日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100702-OYT1T00387.htm 2011年2月16日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]