南京事件 (1937年)

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南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。この事件については、事件の規模、存否を含めさまざまな論争が存在している(南京大虐殺論争)。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件、The rape of Nankingなど多様な呼称がある(後述)。

事件の概要と経緯

南京攻略戦

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。蒋介石12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智12月12日に逃亡した。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊を置いていった[1]。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。

南京入城までの両軍の動向

日本側

1937年11月、第二次上海事変に投入された松井石根司令官率いる上海派遣軍第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始し、12月13日に南京城に入城した。なお、当時の上海軍発表によると、南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、 我が方戦死八百、戦傷四千、 敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である[2]

中国(中華民国)側

1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。

11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、中国軍は総崩れとなった。

一般市民への被害

南京市内に掲示された親日的な市民の処刑を宣伝するポスター[3]
南京市内に設けられた避難民地区で日本軍衛生班により施療を受ける市民(日本側撮影、1937年12月20日[4]

日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。

1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の敗残兵・便衣兵の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)[5]

市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認できていないが、南京攻防戦では無差別に市民を虐殺する命令を受けたとする元兵士の証言がしばしば取り上げられる[6]。中国人側からは、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたとの証言が出ている[7]

松井石根司令官[8]畑俊六大将[9]阿南惟幾・陸軍省人事局長[10]岡村寧次大将[11]河辺虎四郎・参謀本部作戦課長[12]真崎甚三郎大将 [13]などの軍関係者も「強姦、略奪」行為があったことを認める発言をしている。

当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人はただの一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある[14]。当時南京に残留したアメリカ人牧師ジョン・マギーは東京裁判で「市民を殺害するその瞬間を目撃したのは一人の事件についてだけであった」と答え、ついで強姦の現場を二件見たと証言している。[15]マギー牧師が日本軍占領期間中の中華民国の南京で、南京事件の犠牲者・被害者を撮影した8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)がある。女性アメリカ人宣教師ミニー・ヴォートリンは「ミニー・ヴォートリン日記」として南京での惨状を書き残している。

投降者の殺害

南京市内の外交部庁舎に設置された野戦病院で日本軍衛生隊によって看護を受ける負傷した中国兵(日本側撮影、1937年12月20日[16]

中国軍は南京陥落後に撤退命令を出したが、南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そのため、正規兵も軍服を脱いで便衣兵となり逃走をはかったものがあった。

当時の国際法の観点では、便衣兵は正規の軍人としての交戦権を有しておらず、投降しても捕虜の待遇を受ける資格はなかった。占領地で交戦権をもたない敵兵や非戦闘員による敵対行為を取り締まるための軍律軍律会議はハーグ陸戦法規第三款42条以下で認められると解されており、スパイ行為や攻撃準備などの敵対行為(戦時反逆)は即決処分が可能であり、軍律および軍律会議は軍事行動であり戦争行為とされていた[17]

また、捕虜の待遇についても、俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)について、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[18]が、日本は署名のみで批准しておらず[19]、日中双方に捕虜の取り扱いに対する人道上における個別の合意もなかった。ただしこの場合でも批准のあるハーグ陸戦条約の定める捕虜に対する一般的な取り扱いに適法であったかが問われるが、捕虜に認定されるには、正規の軍人である必要があり、便衣兵は投降したゲリラとなり、その取り扱いは当事国の立法(直接には軍令)に従うことになる。これに対して、朝香宮鳩彦王の南京城入場を安全に完遂する目的で捕虜を殺害したという歴史的検証もある。[要出典]さらに事例の中で検証可能な数万人の殺害については当時の国際法や条約に照らしても不法殺害であるとする説[20]や、あるいは仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する行為であったとの主張もある[21]

日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたという指摘がある[22]

第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの投降者が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が投降者約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な殺害と数字については疑問視されている[23]。南京北部の下関では、投降者が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報と言われているものによれば、旅団命令によって投降者を殺害したことが記録されている[5]

外国メディアによる報道

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。

アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ英語版』や『ニューヨーク・タイムズ』、中華民国内では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として、それらが真実であるかのように報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出たものの、事件初期において殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたとして伝えられていた。戦時中のために無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった[5]

一方で、これらの報道にも反論がある。東中野らはこれらの根拠に乏しい虚偽報告がおこなわれた要因として、当時の中華民国政府からの多額の献金により、これらのマスコミが買収された可能性を主張している[24]

渡部昇一は、欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らず、それらに対する日本軍による掃討を「市民の殺害」と誤認した可能性があると主張している[25]。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[26]。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある[27]。また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[28]

『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン英語版通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した[29]

事件の背景について

南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海蘇州無錫嘉興杭州紹興常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[5]。支那派遣軍参謀として南京に派遣された昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王は日清戦争からの侮華思想(中国を下に見る思想)に原因があるのではないかと南京の総司令部で行われた教育講話で述べている[30]。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[31]

また、兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある[32]。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている[33]

中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

戦後の軍事裁判における扱い

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

「人道に対する罪」と訴因

ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[34]

東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[35]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[35]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[35]

このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。

東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[36][37]

論争

この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年日中歴史共同研究公表[38]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実体を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[39]

また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。

被害者数と事実在否について

2010年1月に公表された日中歴史共同研究によれば、中国側は南京軍事法廷の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依拠した犠牲者数を主張している[40]

日本国内においては産経新聞「蒋介石秘録」の40万人説を上限として[40]、数万人説[40]、数千人説、否定説などが存在する。

名称の種類と変遷

南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎洞富雄ら)[41]」「南京大残虐事件(洞富雄)[42]」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。

歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦[43]笠原十九司[44]ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが[45]、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している[46]

東京裁判
1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)[47]・殺戮と記述されている[48]。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawflly killed and murdered とされている[49]。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ[50]、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している。
1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」[51]英文「THE RAPE OF NANKING」[52]などと表記されている[53]
戦後の教科書における表記
敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)[54]。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された[55]
55年体制から1960年代まで
1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書攻撃が起こる[56]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[57][56]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており[58]、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
1956年に刊行された『世界歴史事典』[59]および、1961年の『アジア歴史事典』[60]などでは、「南京事件」で立項している[61]
1966年には毎日新聞記者五島広作下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した[62]
1970年代
国会では1971年(昭和46年)7月23日の第66回参議院外務委員会で西村関一により「南京虐殺事件」および「南京大虐殺事件」という表記が使用されている[63]
1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[64]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[65]
1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京大虐殺論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[66]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[67]を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[68]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[69]。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』[70]は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された[71]。一方で藤原彰本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している[72]
1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる[73]
第一次教科書問題と1980〜1990年代
1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」 を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書攻撃が起きる[74]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたことが報道され、中国との間で外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された。
歴史学者の秦郁彦が1986年には「南京事件」(中公新書)を発表。同書では「虐殺」の表記に関しては括弧を使用する[43]
アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II が話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
近年の動向
近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」[75][76]、帝国書院が「南京大虐殺」[77]、清水書院が「南京大虐殺事件」[78]山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[79][80]と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている。
2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
その他、井上久士小野賢二笠原十九司藤原彰吉田裕本多勝一渡辺春巳などが集まった研究会は「南京事件調査研究会」としている。

日本国外における表記

中国または中華民国[81]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking(Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。

Nanking Incident表記に関する日本国外での議論
アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグ英語版は、『アーカンソー・デモクラット=ガゼット英語版』2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した[82]

南京事件を扱った作品

小説
映画
漫画

脚注

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  1. ^ 高山正之 『白い人が仕掛けた黒い罠』[要ページ番号]
  2. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),156頁
  3. ^ 画報躍進之日本(東洋文化協会、昭和13年2月1日)
  4. ^ 『アサヒグラフ』 (朝日新聞社、昭和13年1月19日発行)
  5. ^ a b c d 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房[要ページ番号]
  6. ^ たとえば松岡環編著『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社、2002年、56-57頁、69頁、77頁、95頁、116頁、135頁、159-160頁、173頁、188頁、208頁、251頁、271頁、302頁、312-314頁、325頁、343-344頁。なおこの書籍においては証言者はプライバシー保護としてすべて仮名(かめい)で公表されている。おもな証言内容は、民間人と便衣兵の区別がつかないこと、共産党の支持が多い地域であること、戦闘行動をとることに男女幼長の違いがなかったことなどから、少なくない兵士が立地上危険な家屋を焼却する命令、怪しい行動を取る民間人と兵士を殺害をする命令を受けたといった内容である。
  7. ^ 新路口事件夏淑琴氏の名誉毀損の裁判
  8. ^ 花山信勝著 「方丈堂出版平和の発見」 p.229
  9. ^ みすず書房「現代史資料 続4 陸軍(畑俊六日誌)」畑俊六著 pp.120-121
  10. ^ 柏書房「現代歴史学と南京事件」笠原十九司/吉田裕=編 p.13
  11. ^ 原書房「岡村寧次大将史料(上)」岡村寧次著(上) pp.290-291
  12. ^ 時事通信社 「市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」河辺虎四郎 pp.153-154
  13. ^ 真崎甚三郎日記 pp.291-292 山川出版社
  14. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  15. ^ 藤原彰、森田俊男編『近現代史の真実は何か』大月書店, p.76-77
  16. ^ 『支那事変画報』第11集 (朝日新聞社、昭和13年1月27日発行)
  17. ^ 「近代日本に於る参審の伝統」石田清史(苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11)P.61、PDF-P.63[1]
  18. ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.[2]
  19. ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.[3]
  20. ^ (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1)※本文[4]※紹介(山田正行)[5]
  21. ^ 「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[6]
  22. ^ 例えば海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍中央部と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し【少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし】我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」のうち、【】部分をもって「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れたと指摘する。「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[7]脚注45.P.214(PDF-P.20)
  23. ^ 証言による「南京戦史」[リンク切れ]
  24. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  25. ^ 渡部昇一『昭和史』[要ページ番号]
  26. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  27. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  28. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  29. ^ 1938.1.4 NYタイムス「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。」
  30. ^ 新人物往来社・別冊歴史読本『太平洋戦争総決算』[要ページ番号]
  31. ^ 東中野・小林・福永 2005 [要ページ番号]
  32. ^ 大井満「仕組まれた“南京大虐殺”」[要ページ番号]
  33. ^ 文藝春秋』 1989年10月号[要ページ番号]
  34. ^ 日暮 2008 26頁・118頁
  35. ^ a b c 日暮 2008 113頁
  36. ^ 日暮 2008 116頁
  37. ^ 日暮 2002 [要ページ番号]
  38. ^ “日中歴史共同研究(概要)” (プレスリリース), 外務省, (2010年1月), http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 2010年7月28日閲覧。 
  39. ^ “日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア”. サーチナ. (2010年2月1日). http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0201&f=politics_0201_005.shtml 2010年7月28日閲覧。 
  40. ^ a b c 波多野澄雄; 庄司潤一郎. “日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 (PDF)”. 第1期「日中歴史共同研究」報告書 <近現代史>第2部 戦争の時代. 外務省. p. 7. 2012年6月25日閲覧。
  41. ^ 家永三郎『新日本史』(三省堂,1962年)や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年)
  42. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店,1985年。
  43. ^ a b 秦 1986
  44. ^ 笠原 1997
  45. ^ 笠原 2007 12頁・208頁 また「歴史学事典 7 戦争と外交」(弘文堂、2009年)笠原執筆記事においても同様の見解が記載
  46. ^ 笠原十九司参照
  47. ^ みなごろしにすること
  48. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[8]日本語 レファレンスコード A08071274100 で閲覧可能
  49. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[9]英文 A08071243700 で閲覧可能
  50. ^ 「磯谷、谷両氏南京へ」南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される(以下略)。
  51. ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[10] A08071307600 P.170
  52. ^ A級極東国際軍事裁判記録アジ歴[11]A08071272300 P.174
  53. ^ 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 昭和48年11月25日初版発行
  54. ^ 俵義文「南京大虐殺事件と歴史教科書問題」藤原彰『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』(青木書店、1998)所収、118頁
  55. ^ 俵前掲論文。[12]も参照。開隆堂の教科書「歴史的内容を主としたもの 下」1954では「(日本)軍が(南京)市民にひどい暴行を加えた」と記述。
  56. ^ a b 笠原 2007 101-103頁
  57. ^ 俵前掲論文。[13]
  58. ^ 『家永教科書裁判』日本評論社、1998年、167頁
  59. ^ 全10巻、平凡社,1956
  60. ^ 全10巻、平凡社,1961
  61. ^ 笠原 2007 102-103頁も参照
  62. ^ 笠原 2007 103頁
  63. ^ 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
  64. ^ 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
  65. ^ 笠原同書p109
  66. ^ 笠原同書p109
  67. ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。
  68. ^ 現代史出版会、1975年
  69. ^ 『決定版・南京大虐殺』徳間書店ほか
  70. ^ I,II.日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 ,1973年
  71. ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店,1985年。笠原 2007も参照。
  72. ^ 『南京事件を考える』大月書店、1987年
  73. ^ 堀尾輝久「教科書問題―家永訴訟に託すもの―」岩波書店、1992
  74. ^ 俵前掲論文。
  75. ^ 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社 2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330
  76. ^ 東京書籍2006年p.188
  77. ^ 帝国書院2006年
  78. ^ 清水書院2006年
  79. ^ 江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社 2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310
  80. ^ 日本文教出版2006年
  81. ^ 台北市にある国軍歴史文物館展示による
  82. ^ The charms of denial。同記事は[14]でも閲覧可能。2011年10月22日閲覧。

文献情報

関連項目

外部リンク