谷寿夫

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谷寿夫

谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

陸士15期陸大24期(優等)。 栄典は正四位勲一等功五級。ロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバー(MVO)。

経歴[編集]

岡山県の農民出身。岡山中学校東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)を経て、陸軍士官学校(第15期歩兵科)、陸軍大学校(第24期)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第二次上海事変南京攻略戦に参加した。

第二次世界大戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。

年譜[編集]

南京事件の背景[編集]

1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。

動員担任官は上海派遣軍司令官(当時松井石根大将)であった。 11月2日動員完結が同軍司令官から、杉山陸軍大臣と参謀総長載仁親王大将へ報告された ([1]の史料番号1697、1698、1724、1701参照)

11月20日大本営設置。12月1日大本営参謀総長載仁親王大将から次の奉勅命令が、松井石根、新中支那方面軍司令官へ伝宣された。『大陸命第7号』「中支那方面軍戦闘序列」すなわち中支那方面軍の編成命令、『大陸命第8号』すなわち首都南京攻略命令である。この伝宣を受け、松井中支那方面軍司令官は麾下全軍へ南京進撃を命令した。

南京を防衛する蒋介石総統麾下中国軍の守備兵力は9万人、これに対して南京攻略戦に動員された日本軍攻撃兵力は12万人(戦時編制)であった[2]

南京攻略戦をおこなった軍司令官松井石根大将の中支那方面軍は、軍司令官朝香宮鳩彦王中将の上海派遣軍と、軍司令官柳川平助中将の第10軍との、2個軍で編成されていた。

これに独立野戦重砲兵旅団や、他師団の支隊(歩兵旅団レベルで指揮官は少将)などが加えられた。

以下の氏名の次にある、○印はGHQによる谷寿夫逮捕時(昭和21年2月)の生存者で、×印は死去していた者である。

中支那方面軍司令官 松井石根大将○ 参謀長 塚田攻少将×  参謀副長 武藤章大佐○

   上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦王中将○ 参謀長 飯沼守少将○   参謀副長 上村利道大佐○

    金沢第9師団吉住良輔中将○          参謀長 中川広大佐○

    京都第16師団中島今朝吾中将×(砲兵科)    参謀長 中沢三夫大佐○

     (以下略)

   第10軍司令官 柳川平助中将×(騎兵科) 参謀長 田辺盛武少将○

    熊本第6師団長 谷寿夫中将○  参謀長 下野一霍砲兵大佐○

    (下野の谷逮捕時の生存は井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306、で谷が証人として出頭許可を求めているので確認可能)[3]

    宇都宮第114師団末松茂治中将○  参謀長 磯田三郎砲兵大佐○

    久留米第18師団牛島貞雄中将○

     (以下略)

                       (砲兵や騎兵など兵科の記載がない者は歩兵科出身)


12月7日、国家元首、中華民国総統・蒋介石は南京から脱出した。

9日、松井石根軍司令官は、南京城内の数ケ所にへ降伏を勧告するビラを投下し、南京防衛司令官・唐生智へ降伏を勧告したが反応はなかった。

10日、松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令し、13日これを占領した。

南京防衛司令官・唐生智は中国守備軍へ徹底抗戦を叫びつつも、自分自身は12日南京城から逃亡していた。司令官・唐生智が徹底抗戦を叫んで逃亡したため、唐の下位の、南京に残った司令官は降伏文書調印が不可能になった。松井軍司令官は降伏文書を調印させるべき相手を失った。

もしも唐生智が首都南京から逃亡せず、降伏文書に調印したならば、中国軍は整然と投降し、捕虜としての保護を受け、後の「南京事件」は起きなかったであろうという指摘がある。

日本軍高等指揮官が明治初期、陸軍大学校でプロイセン・ドイツ軍からの招聘教官メッケルなどから学んだ基本戦略は、早期での敵国戦闘力の殲滅と、これによる戦争終結であった。その伝統を引き継ぎ、松井軍司令官ら高等指揮官の戦略は早期に中国守備軍を殲滅し、戦争を終結させることで一貫していたと考えられる。

そのため、司令官・唐生智が逃亡したため烏合の衆となった中国軍敗残兵・便衣兵へ松井軍司令官は掃討戦を遂行し、膨大な数の捕虜が生じた。

谷は南京軍事法廷で、南京事件を実行したのは、その上海派遣軍・朝香宮鳩彦王司令官麾下の、第16師団・中島今朝吾中将だとした。第16師団が南京城内の掃討を担当していた。

南京軍事法廷(裁判長石美瑜)と谷寿夫元第6師団長[編集]

太平洋戦争後軍事法廷がアジア各地に開廷された。

根拠法は、1945年9月24日太平洋地域米軍陸軍総司令部 “GHQ/AFPAC” 公布「戦争犯罪人裁判規程」“Regulations Governing the Trials of War Criminals”、および同年12月5日連合国軍最高司令官総司令部 “GHQ/SCAP” 公布「戦争犯罪被告人規程」“Regulations Governing the Trials of Accused War Criminals”であったとされる [4]

GHQは1945年9月9日戦犯容疑者逮捕命令の発令を開始し[5] 、翌年2月谷寿夫元第6師団長はGHQによって逮捕され、南京軍事法廷へ移送された。

以下は井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306) [6]、 にある南京軍事法廷の、1947年3月10日「国防部戦犯裁判軍事法廷の戦犯谷壽夫に対する判決書」からの引用である。

・谷寿夫元第6師団長の弁明

「(一)(谷の)部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、十二月二十一日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。犯罪行為調査表にも「中島」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。

( 二 ) (谷の)所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる」。(中略)「被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。そうすれば明瞭となろう。

( 三 ) 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である」

谷は、南京事件は、(一)のように、中島今朝吾 師団長の部隊が起こしたものだとし、第6師団の関与を否定した。但し、谷は南京事件があったことそのものは否定しなかった。

下野一霍砲兵大佐は、南京事件当時、谷師団長の参謀長であった。彼は谷の訴追(逮捕起訴)時も生存していた。谷は身の潔白のため、下野一霍参謀長の証人出廷を求めた。だが南京軍事法廷によって却下された。

南京軍事法廷判決[編集]

上記の谷の弁明に対して、判決では次のように宣告された[1]

「第一点について言えば、犯罪行為を共同で実行した者は、共同意志の範囲内で各自が犯罪行為の一部を分担し、互いに他人の行為を利用しもってその犯罪目的を達成しようとしたのであるから、発生したすべての結果に対して共同で責任を負わなければならない 。

被告は南京を共同で攻撃した高級将校であり、防衛軍の猛烈な抵抗にあった。そこで南京陥落後、中島・牛島・末松などの部隊と合流して各地区に分かれて侵入、大虐殺および強姦略奪、放火などの暴行をおこない、捕らわれた中国の軍人・民間人で殺害された者、三十万余りの多きに達したのである。

それは監督不行届きによる偶発事件とは明らかに異なるものである。まして当時南京に滞在していた外国人は、国際団体の名義で二十六年十二月十四日から二十一日まで、すなわち被告の部隊の南京駐留期間に前後一二回、日本軍当局と日本大使館にそれぞれ厳重な抗議をおこなっているのである。

そのうえ覚書のなかで日本軍の放火・殺人・強姦・略奪といった暴行、合計一一三件を付録につけ、日本軍が注意して部下を取り締まり、暴行の拡大を防止するように要請している。

しかるに被告等各軍事指導者は見ないふりをして、従来どおり兵を放任、暴虐をほしいままにさせておき、そのうえこともあろうにこの悲惨な虐殺都市の状況を映画フィルムや写真に撮り、戦績の表彰に利用しようとした。

共同攻撃した各軍事指導者が契約した意図に基づき、共同で兵を放ち、手分けして撹乱し、計画的で大規模な虐殺・放火・強姦・略奪をおこなったことは明白である。

被告の部隊は一〇日間だけ南京市の一角で虐殺などの行為を分担しただけだとしても、会戦の指導者と事前に連絡をとりあうという犯意をもち、相互に利用してその報復の目的を達したのである。

上述の説明により、発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者が共同で責任を負うべきものである。

犯罪行為調査表に「中島」の字が載せられているとか、被害者が日本軍の部隊番号を指摘できていないなどの言辞を口実として、どうして責任のがれをもくろむことができるであろうか。

まして南京市各地区の調査によれば、虐殺・強姦・略奪などの事件はおおかた被告部隊の南京駐留期間内 ( すなわち十二月十二日から同月二十一日まで ) に発生しているのであり、被告自身が認めているその担当地域である中華門一帯で放火・殺人・強姦・略奪にあった住民について調査可能な事件はすでに四五九件に達している」 。

「第二点について」「調査によれば被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎および柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などはひとしく南京を合同で攻撃した高級将校および参謀であり、計画的に実行された南京大虐殺事件では本来共犯容疑者である。

たとえそれら容疑者が法廷で被告のために期待する陳述をおこなったとしても私情からかばったものにほかならず、被告に有利な判決の根拠とするには難しい。いまなお被告(谷)がその容疑者らに法廷で証言するよう要請することに拘泥するのは、それにかこつけて引き延ばしをもくろんだことにほかならない」。

(「第三点について」省略)

「被告(谷)は作戦期間中凶暴残虐な手段をもって、兵を放任し捕虜および非戦闘員を虐殺し、ならびにほしいままに強姦・略奪・財産破壊などの暴行をおこなったことは、ハーグ陸戦法規[7]および戦時捕虜待遇条約の各規定に違反し、戦争犯罪および人道に反する罪を構成すべきものである」。

「方法と結果の関係については一回のものとして処断すべきである。また連続してほしいままにおこなった残虐行為は、犯罪意志の概括に基づき連続犯の例によって処罰を決めるべきである」。

「被告と合同攻撃の各軍事指導者は、率いた部隊が首都を陥れたのち、兵がほしいままに残虐行為をおこなうのをともに放任した」。上記の、通常の「戦争犯罪」とはB級戦犯、「人道に反する罪」とはC級戦犯のこと。

判決主文、「谷壽夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」(以上文献、井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306)[8]

谷はBC級戦犯として死刑とされ、銃殺刑に処せられた。

中国文1947年「3月10日,南京审判战犯军事法庭在判定战犯谷寿夫在南京大屠杀期间的犯罪事实,判决“谷寿夫在作战期间,共同纵兵屠杀俘虏及非战斗人员,并强奸、抢劫、破坏财产, 处死刑”」。

谷以外の次の3人へ南京軍事法廷で1947年12月18日判決が下された。日付は [9]

『百人斬り』競争として日中戦争当時新聞報道されていた、中島今朝吾第16師団第9連隊所属の野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉 [10]、および難民や捕虜など非戦闘員300人を斬殺したとして、谷寿夫第6師団の歩兵第45連隊中隊長だった田中軍吉陸軍大尉[11]が、BC級戦犯として死刑判決、銃殺 [12] [13]

軍司令官が開廷する軍事法廷での死刑判決の執行は、当地を管轄し統帥権を委託された連合軍軍司令官、南京軍事法廷では中華民国の統帥権を持っていた蒋介石総統の執行命令によるものだった。

1947年“4月25日蒋中正(蒋介石)批示:“既据讯证明确,原判依法从重处以死刑,尚无不当,应予照准”、“遵照执行”。すなわち、谷寿夫の処刑は蒋介石総統の執行命令によるものであった。“4月26日被处决于南京雨花台” [14]。 谷の銃殺刑執行日1947年4月26日当時64歳。 [15]

なお、東條英機板垣征四郎A級戦犯)や、松井石根B級戦犯)らの絞首刑は、1946 年1月19日『極東国際軍事裁判所条例』第17条によって、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー、アメリカ陸軍元帥の執行命令によっておこなわれた [16]史料(227)~(229)。絞首刑執行日1948 年12月23日巣鴨拘置所内。

再考[編集]

上記のように、南京軍事法廷は判決文で、南京事件で発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者、すなわち軍司令官と師団長が共同で責任を負うべきだとした。谷が証人として出廷許可を求めた下野一霍参謀長らも共犯容疑者とした。

だが実際には、生存していた牛島貞雄師団長、および下野一霍参謀長らは、南京軍事法廷へ訴追されなかった。

第16師団長中島今朝吾中将の上官であり、南京事件の原因をつくった疑いのある朝香宮鳩彦王中将は、南京軍事法廷でも全く名前が上がらず、不問とされた。その理由は、GHQは皇族の訴追をおこなわない方針だったからであったという。

南京事件の責任を負うべき谷の直接の上官、第10軍司令官柳川平助(騎兵科)中将と、南京事件を引き起こした者だと谷が主張した第16師団長中島今朝吾(砲兵科)中将は、ともに1945年死去していた。柳川平助は陸士第12期(卒業席次80番)であったため陸士第15期だった谷の上官であったが、陸軍大学校では谷と同じ第24期で、卒業席次3番だった谷に次いで席次4番の優等生であった(当時陸軍大学校では上位卒業席次6番までが優等生であった)。

一説に、師団長のうち谷だけが生存していたから南京事件の責任を一手に負わされたのだ、というものがある。だが南京軍事法廷で南京事件の共同責任者、および関与者とされた第18師団長牛島貞雄と第114師団長末松茂治も生存していたにもかかわらず訴追されなかった。

結局、誰を訴追するかは、日本本土で逮捕権のあったGHQの、訴追可能の決定によるものであったと考えられる。

谷の最上位の上官であった、中支那方面軍司令官松井石根大将は、南京軍事法廷ではなく、極東国際軍事裁判で起訴された。松井はA級戦犯の容疑では無罪とされたが、南京事件時の最高司令官だった責任を問われ、訴因第55項「違犯行為防止責任無視による法規違犯」(B級に含まれる)の犯罪的責任の罪で死刑判決を受け絞首刑となった。松井石根の判決文[17]

B級は通常の戦争犯罪、C級は「人道に対する罪」であった。A、B、C級戦犯の分類は[18]、左の原本[19](227)~(229)。東京極東国際軍事裁判では、ナチスドイツのホロコーストが該当したC級戦犯での訴追はなかった。

だが南京軍事法廷で谷は、南京事件の防止責任放棄のみならず(B級、通常の戦争犯罪)、関与者とされ(C級)、野田毅向井敏明田中軍吉ら下級将校3人と同様、BC級戦犯で死刑とされたのであった。南京軍事法廷と極東国際軍事裁判との、谷と松井への扱いの違いが見られる。

栄典[編集]

家族[編集]

谷の息子・隼夫は、陸士第49期、陸大第58期卒業、中支那北朝鮮駐屯第34軍参謀で、中佐であったが、1944年11月に戦死した。

著書[編集]

谷寿夫は陸軍大学校教官時代、陸大学生の教科書として『機密日露戦史』を著わした。本著には、当時存命だった元満州軍総司令部作戦課長松川敏胤大将などへ、直接谷教官が聴取した第一次史料がふくまれている。このため本著は今日でも日露戦争を研究する際最も重要な文献の一つとなっている。 しかしその一方で第三軍の旅順攻囲戦に対して、当時第四軍参謀長だった上原勇作元帥などから内容に対して史実に反するという意見(例・満州軍司令部は二〇三高地主攻説に当初より賛同していたかの様に書いているが史実は大山も児玉、松川らは終始第三軍と同じく要塞正面攻略を支持している)もあり、公平性に疑問がもたれるようにもなっておりこの書の史料価値について最近は疑問を唱える人も多い。

1966年(昭和41年)遺族らと原書房によって『機密日露戦史』初版が出版された。

脚注[編集]

  1. ^ 以下、邦訳は井上久士『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306による
  2. ^ 『官報』1939年3月27日 敍任及辭令
  3. ^ 『官報』1930年7月28日 敍任及辭令

参考文献[編集]