ザ・バトル・オブ・チャイナ
| ザ・バトル・オブ・チャイナ | |
|---|---|
| The Battle of China | |
| 監督 | フランク・キャプラ アナトール・リトヴァク |
| 脚本 | ジュリアス・J・エプスタイン フィリップ・G・エプスタイン |
| 製作 | アナトール・リトヴァク |
| 音楽 | ディミトリ・ティオムキン |
| 撮影 | ロバート・フラハティ |
| 編集 | ウィリアム・ホーンベック |
| 配給 | of the Motion Pictures Industry |
| 公開 | |
| 上映時間 | 65分 |
| 製作国 | |
| 言語 | |
| 前作 | ザ・バトル・オブ・ロシア |
| 次作 | ウォー・カムズ・トゥー・アメリカ |
| AllRovi | |
| IMDb | |
『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(The Battle of China, 「中国の戦闘」の意)は、フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画 Why We Fight (「なぜ我々は戦うのか」の意)シリーズの6作目である。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。
戦争当事国の中華民国をはじめ、欧米や中華人民共和国などではニュースや報道番組において、現在でも日本軍による残虐行為の記録フィルムや記録写真として、これらの映画の一部が頻繁に使用されている。
目次 |
[編集] プロパガンダ映画 Why We Fight - なぜ我々は戦うのか
アメリカの第二次世界大戦参戦直後、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルはフランク・キャプラに対し、軍用教育映画シリーズの製作を要請した。キャプラは最初、畑違いの分野であることを理由に難色を示したが、マーシャルの説得に応じ、製作を引き受けた。
脚本は、当初ハリウッドの7人の作家チームが担当する予定だったが、キャプラは草稿の内容が共産主義的であるとして7人全員を解雇し、エプスタイン兄弟に一任することになった[1]。
映像については“敵の残虐性とアメリカの正当性を敵自身に証明させる”というキャプラの方針に基づき、枢軸国陣営(大日本帝国やドイツ、イタリア)で撮影された映像が集められ、見た者が枢軸国陣営に対する反感・憎悪を感じる形になるまで繰り返し編集がおこなわれた。
映画製作の主な目的は、第二次世界大戦参戦後もアメリカ国民の間で依然として根強かった孤立主義に対処することであった。この点を考慮し、1942年から1945年にかけて製作された7本のシリーズ映画には『Why We Fight (なぜ我々は戦うのか)』という共通のタイトルが付けられた。
『Why We Fight』シリーズはアメリカでは教育のため軍人に対し広く上映され、非常に多くの人間が視聴した最高傑作だとされている[2]。また、フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の吹替版も作成され、現地で上映された[3]。
内訳は、クレジットに通し番号の入っているのが次の7作である。(監督、制作年)
- 1 Prelude to War (Capra, 1942)
- 2 The Nazis Strike (Capra, Litvak, 1942)
- 3 Divide and Conquer (Capra, Litvak, 1943)
- 4 The Battle of Britain (Anthony Veiller, 1943)
- 5 The Battle of Russia (Capra, Litvak, 1943)
- 6 The Battle of China (Capra, Litvak, 1944)
- 7 War Comes to America (Litvak, 1945)
それに加えて同じくキャプラが監修した『チュニジアの勝利』(英国と共同制作)、『君の敵(味方)を知れ』シリーズも『Why We Fight』シリーズに加えられることがある。
- Tunisian Victory (Capra, 1943)
- Know Your Ally : Britain (Anthony Veiller, 1943)
- Know Your Enemy : Japan (Capra, Ivens, 1945)
- Know Your Enemy : Germany (Gottfried Reinhardt, 1945)
[編集] 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』
『ザ・バトル・オブ・チャイナ』は、このシリーズの6作目にあたり、シリーズ7作中で唯一、アジアにおける戦闘を題材にしたものである。1944年にアメリカで、一般に劇場公開された。数人の評論家から問題点(内容に誇張が多い・中国人自身の問題に全く触れていない)を指摘されたことにより、一時的に回収されたが再度上映され、戦争終結までに約400万人が観ることになった[4]。スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・ケネディは南京大虐殺は反日プロパガンダの中核となり、この映画はその顕著な一例であるとしている[5]。
[編集] 内容
本編の内容は、南京陥落後、「市民自らが掘らされた穴に落とされ、折り重なるように生き埋めにされるシーン」や、「殺された息子にすがり付き、泣き叫ぶ年老いた父親の姿」等が日本軍の残虐行為として編集されている。
[編集] 問題点
本作では「日本軍による銃殺刑のシーン」は、1927年に中国国民党が行った中国共産党員に対する虐殺の映像、1928年製作のソ連映画『上海ドキュメント(Шанхайский документ)』の映像が使われている。また、廃墟となった上海南駅(南京ではない)で幼児が泣くシーンでは王小亭が撮影したフィルムが使用されている(詳細については後述)ことなどが判明している。
[編集] 第二次世界大戦終結後における展開
[編集] 中華民国
[編集] 日本
- 日本国内において、『ザ・バトル・オブ・チャイナ』が知られるようになったのは、1981年(昭和56年)テレビ朝日の朝のワイドショー『溝口泰男モーニングショー』内で、中華人民共和国内で報道されている日本軍による残虐行為の記録フィルムとの名目で、作品の一部が放送されたのが切っ掛けであった。当時、この映像の真贋については論争となり、結果として、この映画の一部である事が判明するに至ったのだが、その結論については大きく報道されなかった。
- 1983年(昭和58年)公開のドキュメンタリー映画『東京裁判』では、本作の映像を使用して作成された中国のプロパガンダ映画『中国之怒吼』からの映像を使用。『これは南京事件を告発した中国側のフィルムである』との字幕を入れた上で引用されている。
[編集] その他
- 1987年(昭和62年)公開のイギリス・イタリア・中国の合作映画『ラスト・エンペラー』(アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞を受賞)でも、この映像が挿入され、世界各国に配給された。日本での初公開時には配給会社によりベルナルド・ベルトルッチ監督に無断でカットされたが、監督からの抗議により短期間で戻されて公開が続けられた[要出典]。テレビ朝日『日曜洋画劇場』1989年放送分ではカットせず、そのまま放送された[要出典]。
[編集] 劇中で使用されている映像について
映像の多くは、枢軸国陣営によって撮影された映画、ニュースフィルムを編集したものである。ただし、一部のシーンにはソ連・中華民国など、連合国陣営による映像が使用されている。
後ろ手を縛られて座らされる市民の後頭部を、次々と撃ち抜いて射殺する場面は、この映画における最も有名な虐殺のシーンであるが、これは、ヤコフ・モイセエヴィチ・ブリオフ監督による1928年製作の『上海ドキュメント』というソ連映画の一部[8]であり、1927年の蒋介石による共産党弾圧を糾弾する映像である。これがザ・バトル・オブ・チャイナでは国民党兵士とは分からないように映像の一部分がカットされ、トリミングされた上で、日本軍による虐殺シーンとして使われている[9]。さらにこのシーンは映画『ラスト・エンペラー』内でも、中華民国における日本軍の残虐行為として引用されている。
廃墟と化した駅のホーム上で、幼児が、一人泣いている有名な写真(LIFE1937年10月4日号誌上に掲載され全米で大きな反響を呼んだもの)も、この映画の一部として使用されている。映画には、写真が撮影された前後の状況も含まれていて、黒い中国服を着た人物が、線路を渡って幼児を救出してホームに一時座らせるまでと幼児を担架状のもので搬出するシーンが映っており、国内外を問わず、南京事件に関して主張する人々の多くが、何らかの形でこの映像の一部に触れている。
この写真について亜細亜大学教授の東中野修道はこれを著書の中で「あらゆるところで南京事件の写真として流用されており、プロパガンダ写真を作っている最中のものである」とした[10]。
同時に東中野は「南京事件があったかなかったかの検証ではなく、南京事件のものとされてきた写真を一枚ずつ検証してみた結果、南京事件の写真と言えるものは一枚もなかった」と研究の目的と結果を述べている[11]。
この映像の撮影者が王小亭であることが、松尾一郎や東中野の検証により発表されている[12][13]。
[編集] 映像の二次使用
日本でも長崎原爆資料館において、この映画からプリントされた写真が南京事件の写真として長らく展示されていた。市民団体等から捏造資料であるとの指摘を受け、当時の橋本龍太郎首相は写真の信憑性の調査を関係省庁に指示し、結果的に信憑性に乏しい写真とされ176カ所の展示を差し替えるに至った[14]。
また、ピースおおさかもこの幼児の撮影と同時に撮られた右記と同様の幼児写真(中國娃娃)を「上海爆撃、泣き叫ぶ子供」とのキャプションを付けて展示していたが、「爆撃後の市街に赤ん坊1人だけでいる姿が不自然」と判断して撤去をしている[15]。
また、中華人民共和国各所に点在している「抗日記念館」にも、これらの写真が必ず展示されており、この映画自体も上映されている。南京大虐殺紀念館でも「展示されていたが、信頼性の乏しいこの写真を含む3枚の提示を取りやめた」と2008年12月17日、産経新聞によって伝えられた[16][17]。
[編集] 脚注
- ^ エプスタイン兄弟はシリーズ7作品全ての脚本を執筆した。
- ^ リチャード・M.バーサム『ノンフィクション映像史』創樹社 1984年
- ^ ジョン・W・ダワー『人種偏見』p20
- ^ ジョン・W・ダワー『人種偏見』p21-22
- ^ 『諸君!』1998年8月号
- ^ Film network「上海ドキュメント」の紹介
- ^ この空爆は、日本では日本海軍が軍用の駅を爆破した戦果として報道された(『支那事変画報』朝日新聞社第4号)。爆撃前に上海で利用可能な鉄道駅は上海南駅のみとなっていたため、爆撃当時は避難民が多数詰め掛けており、死者は民間人のみ約170人であった(徐淑希編『日本人の戦争行為』)。
- ^ 田中秀雄著『映画に見る東アジアの近代』
- ^ 上海ドキュメント(ヤコフ・モイセエヴィチ・ブリオフ監督、1928年映像)の一部。 - YouTube
- ^ 『LIFE』誌ではこの幼児が上海南駅爆撃の民間人犠牲者のうちの1人であるとして、初出の掲載から撮影地が上海であることを説明しているが、戦後は撮影場所が上海南駅であることが忘れ去られ、南京事件の写真として使用されてきた。インターネット上にも、南京での虐殺行為もしくは関連行為として掲載しているものが見られる。例[1][2]
- ^ テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』2007年4月16日等にて発言
- ^ 東中野修道『南京事件「証拠写真」を検証する』
- ^ 『諸君!』平成14年4月号
- ^ 1996年6月25日、1999年8月19日産経新聞
- ^ 1998年9月26日産経新聞
- ^ 南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 MSN産経ニュース 2008年12月17日
- ^ なお、産経新聞の記事に対しては、南京大虐殺紀念館および朱成山館長が「2007年12月以前にすでに写真が撤去されておりリニューアル後に写真を入れ替えたことがない」「幼児の写真は、展示会『上海で殺戮行為の日本軍、南京に向かう』で使ったことはあるが、南京大虐殺そのものの展示で使ったことはない」という趣旨の反論をおこなっている。(侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館 公式サイト(中国語)、南京虐殺記念館「問題の写真、日中で異なる見解ある」 サーチナ・中国情報局 2008年12月21日、南京大虐殺記念館が産経新聞に反発「写真撤去はない」 サーチナ・中国情報局 2008年12月20日)
[編集] 参考文献
- ジョン・W・ダワー著・斎藤元一訳・猿谷要監修『人種偏見 - 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(TBSブリタニカ・1987年9月21日)
- 原題:War without Mercy: Race and Power in the Pacific War(Faber and Faber, 1986)
- 改題『容赦なき戦争 - 太平洋戦争における人種差別』(平凡社[平凡社ライブラリー]・2001年)