南京安全区国際委員会

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南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)は、南京難民区国際委員会ともいい、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、戦災で家を失い南京に流入してきた難民や、南京から避難できない貧しい市民などを救済するために、南京城内の一部に安全区(難民区)を設定した組織[1]。アメリカ人宣教師を中心とする15名ほどによって組織された。

略歴[編集]

メンバー[編集]

笠原 2005[4]による。

マイナー・シール・ベイツ
委員。中心メンバーで財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当。南京国際赤十字委員会委員[5]。金陵大学歴史学教授、博士。知日派で日本社会を分析した論稿も多く、妻と2人の息子は日本で避難生活を送る。中華民国政府顧問[6]
ジョージ・アシュモア・フィッチ
マネージャー役を担当。ニューヨークにあるYMCA国際委員会の書記。中国の青年をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。委員名簿に名前は載っていないが、安全区の管理責任者として活動した。
アーネスト・H・フォースター英語版
南京国際赤十字委員会書記。アメリカ聖公会伝道団宣教師。
ジェームズ・H・マッカラム英語版
南京国際赤十字委員会委員。連合キリスト教伝道団宣教師。
ジョン・G・マギー
委員。南京国際赤十字委員会委員長。アメリカ聖公会伝道団宣教師。16ミリフィルムのカメラで日本軍の暴行による負傷者や虐殺死体などの映像を撮影した。
ジョン・H・D・ラーベ
委員長。南京国際赤十字委員会委員。ジーメンス社南京支社の支配人。南京のナチス党支部長代理。1938年2月28日に南京を去りドイツに帰国するが、日本軍の暴虐を止めるよう訴えたことが当時の党の政策に反し、党の監視下に置かれる。
ルイス・S・C・スマイス英語版
書記。南京国際赤十字委員会委員。金陵大学社会学教授。南京戦およびその後の暴行による被害状況を調査し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。
エドワルト・スペルリング英語版
委員。ドイツ資本による上海保険会社の南京支店長。ナチス党員。日本兵の暴行を体を張って阻止し、難民区の“警察委員”といわれた。
ミニー・ヴォートリン
南京国際赤十字委員会委員。金陵女子文理学院教授。宣教師。学院に婦女子のための難民キャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。
ロバート・O・ウィルソン英語版
南京国際赤十字委員会委員。金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事し、続々と病院に運び込まれる負傷者の治療にあたった。

安全区[編集]

南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.85平方キロメートル[7]で、城内全域と比べたなら11%程度の広さにあたる[7]。安全区は何本かの通りに囲まれており、およそ六角形をしていた。その境界は各地に設置された標識によって明示された。丘陵地帯が接している南西側は山の稜線が境界とされた。

冨澤繁信によれば安全区の設置場所には中国人にとってもっと便利な場所があったが外国人の施設や邸宅が多くある地区が選ばれた理由には自分たちの財産保全も考慮したものと考えられる[8]

この地域は高級住宅街であり、本来の住民の一部はすでに市外への避難を済ませていた。また公共の建物が多かったことも難民の収容に向いていた。何より国際委員会のメンバーの居宅があるなど、彼らのホームグラウンドであった。中国軍の施設や陣地からも離れていたが、予定していた地域内の南西の山に陣地が設けられたため、陣地と隣接することになった。

この安全区内には難民のキャンプが多数成立し人口密集地となった。また、民間人から購入したり盗んだりした民服(便衣)に着替えた敗残兵までが安全区に逃げ込み、民間人と入り混じる結果となった。

冨澤繁信の主張する委員会の性質[編集]

安全区[9]に残留中国人を集めて戦争に中立な地帯としてその安全を保証し、かつ残留中国人を行政的に支配しようとした[7]

アメリカ人たちはドイツ人らを誘い、複数の国の国民の連合体が活動する外観を用意し、その名称も「国際委員会」として国際機関の国際的活動であるように見せてはいるが当時の国際連盟などの国際的に認められた機関がこの「国際委員会」を正式に認めたことはなく、委員会自身が自称したのみであった[10]。委員会は馬南京市長が南京を離れる際に委員会に南京の行政権、資金、警官を委ねたと主張したが、日本側はこの件に関する中国政府の日本に対する公式な働きかけと日本側の了解が欠如していることからその行政権委譲の正統性がないことを指摘すると委員会は主張を直ちに取り消し、現在の状況では委員会が南京の行政権を行使して治安を維持することが必要であることを力説した[10]

ここでいう現在の状況とは日本軍兵士が無法無秩序に、個別あるいは集団で、南京市民を虐待し、日本軍当局がこのことに何らの対策を出せない状況とされ、よって委員会が南京の行政権を主張する限り、委員会は日本軍兵士の暴行を引続き主張する必要があり、これが後に「南京事件」としてまとめられた[11]。日本軍は委員会のこのような活動を占領政策に違反するとして委員会の早期解体を望み、常に対立抗争の状態であった[12]

上海南市難民区と南京安全区[編集]

南京攻略戦に先立つ第二次上海事変では上海に住むフランス人のカトリック教会ジャッキーノ神父は南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画し、これを日中双方に提示し了承された。南市難民区はフランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束した[13]。この件は上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[14]

一方、南京安全区は南京大学の米国人教授たちにより上海南市難民区に倣って提案された[8]。南京安全区国際委員会が南京に中立地帯を設定し、南京市民を集中させ、その安全を戦禍から保護しようとした理由にはアメリカ人宣教師たちが中国における布教上の地位向上を求めていたことも含まれる。国際委員会の委員15人はアメリカ人7人、イギリス人4人、ドイツ人4人で構成され、アメリカ人宣教師が圧倒的な勢力を持ち、彼らは中国寄りの態度をとることにより布教上の地位を確保しようとして日本軍と争うことまであった[12]。委員長のラーベによると委員会の委員は、医師、教授などすべて宣教師であった[15]

冨澤繁信は安全区の設置場所には中国人にとってもっと便利な場所があったが外国人の施設や邸宅が多くある地区が選ばれた理由には自分たちの財産保全も考慮したものと考えている[8]。また、日本軍入城前までに国際委員会は残留していた南京住民20万人余りのほぼ全員を安全区に収容したため、安全区以外の場所には住民はほとんどいない状態となった[16]とも主張している。

脚注[編集]

  1. ^ 笠原 2005
  2. ^ 笠原 2005, p. 78
  3. ^ 笠原 2005, pp. 80-82
  4. ^ 笠原 2005, p. v-ix
  5. ^ 南京安全区国際委員と南京国際赤十字委員は日本大使館に提出した名簿では区別しているが、2つの委員会を届けるための形式的な処置で実際は本部も同じであり、肩書にかかわりなく共同して同じ活動をしていた。(笠原 2005, p. p.iii)
  6. ^ 水野 2006, p. 64
  7. ^ a b c 冨澤 2005, p. 10
  8. ^ a b c 冨澤 2005, p. 42
  9. ^ 冨澤は「南京安全地帯」と呼称する。
  10. ^ a b 冨澤 2005, p. 36
  11. ^ 冨澤 2005, pp. 36-37
  12. ^ a b 冨澤 2005, p. 37
  13. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月3日付朝刊 3面
  14. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月9日付朝刊 2面
  15. ^ 冨澤 2005, p. 44
  16. ^ 冨澤 2005, pp. 10-11

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]