ミニー・ヴォートリン

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ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin、1886年9月27日 - 1941年5月14日)は、1937年の中華民国軍と大日本帝国軍との戦時下の南京安全区内に在った金陵女子文理学院で、女性を中心とした難民を保護し世話をしたアメリカ人宣教師。ミニーは通称で、正式な名前はウィルヘルミナ・ヴォートリン(Wilhelmina Vautrin)。当時の様子を日記として残しており、日記には幾度も、「日本女性や日本人に南京での現状を知って欲しい」との思いが述べてあり、それは日記の翻訳許可をした遺族の方々の思いでもある。

目次

略歴[編集]

1886年、アメリカ・イリノイ州の小さな村シカールで貧しい鍛冶屋の家庭に生まれた。6歳の時に母親が亡くなり、ヴォートリンは家事や畑仕事を手伝いながら弟の面倒を見た。学費と生活費を稼ぐ為に学業を中断しながらも、大学まで通った。高校卒業時に洗礼を受けていたキリスト教の海外伝道活動に関心を持ち、大学卒業と同時にアメリカの8つのプロテスタント教派が結成した連合キリスト伝道団に加入。

1912年、中華民国安徽省合肥に派遣。

1918年、連合キリスト教伝道団の1年間休暇制度に基づき帰米。

1919年、長老派代表のサーストンの熱心な招聘により、金陵女子文理学院教育係主任に任命され、再び中華民国へ。学校の設立等と共に、貧しい人々への生活力の増進の為の啓蒙教育普及に力を入れた。

1927年3月24日、北伐を掲げた蔣介石率いる国民革命軍が南京に進軍。当時南京に駐留していた10万を超える北洋軍閥を駆逐。1924年からの第一次国共合作による国民革命では、在華外国権益の回収・不平等条約撤廃を掲げていた為、南京駐留の日本人を含む外国人やその関連施設などが中華兵等に襲撃され、ヴォートリンも仲間と共にアメリカ軍艦に避難した。11年後に書き始めた日記には、毎年その日付の頃になると、その時の思い出を記した。

1937年、中華政府と軍の殆どと大勢の金持ち達が南京を捨てて他へ逃げた中、ヴォートリンは自ら南京滞留を希望。南京城内に設けた安全区国際委員会の一人として、主に女性子供の難民の収容所となった金陵女子文理学院にて避難民たちの世話をした。

1938年7月30日、中華民国国民党政府は、ヴォートリンの崇高な精神と勇気ある行動に対して勲章を授与し、感謝の意を表した。

1939年以降:彼女は続く戦乱に心を痛め続け、日記の記述が減少してミスタイプが出だし、鬱症状が現れ始めた。

1940年:日記の記述は更に減少。3月、上海でのキリスト教宗教教員者の大会に出席し、富裕層の中華女性達が全く戦渦の自国を顧ずに別世界である豪華で享楽的な生活を楽しむ姿を見て衝撃を受け、気持ちが錯乱してしまった。自らは命も人生も懸けて、戦禍の貧しい異国の難民達の為に精神的・肉体的過労状態を押しやっての真摯な献身を続けている。この件は彼女の抑鬱症状の引き金となり、南京に戻った彼女は極度の疲労感と無力感から、三週間も日記を書く事が出来なかった。

1940年3月30日:汪兆銘が国民政府樹立を南京で宣言した事も、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。

1940年4月14日:この日の「気力はもう消滅しそうだ」等の記述が最後の日記となった。難民収容所経営での過労と精神的疲労の蓄積から「中国伝道は失敗した」「生きているのが辛いからいっそのこと死んでしまいたい」と周囲に漏らすようになった。

1940年5月14日:金陵文理女学院の親友教師キャサリン・サザランドとマギー牧師が付き添って、精神治療の為に米国に帰国。一度、途上の汽船から飛込み自殺を図った。病院での検査結果は重い鬱病との事で、長期療養を受ける事となった。

1941年2月:睡眠薬自殺未遂。精神病院に再入院させ治療し、症状が回復したので社会復帰の為に金陵女学院理事会の仕事を手伝わせていた。

1941年5月14日:インディアナポリスの連合キリスト教伝道団の秘書のアパートで、突然ガス自殺を図り、55歳でこの世を去った。「私の中国伝道は不成功に終った」「不治の病に苦しむよりは死ぬ方がまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。ミシガン州にある彼女の墓石には「金陵永生」の漢字四文字が刻まれている。結婚も見送り親の死に目に会う事も断念しての、中華民国の人々の啓蒙と教育そして戦時下の避難民の保全に捧げた人生であった。南京郊外には、『金陵永世/MINNIE VAUTRIN/“GODDES OF MERCY”/MISSIONATY TO CHINA/28 YEARS/ 1886-1941』と記された墓碑が建てられている。

活動[編集]

教育[編集]

1912年中華民国政府の下、教団のミッションである教育施設の設立経営や、中華人の中でも特に貧しい生活を余儀なくされている人々への啓蒙活動に力を入れた。祖国に居る肉親の病状悪化の知らせに帰国を決めた時にも、中華民国側からの熱心な留任依頼にそのまま留まる事を決め、中華民国人の教育を続けた。大日本帝国軍が入った後の南京でも、難民の生活に少し目途が立ってくると早速、家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、貧困家庭の女性にも教育機会を与え、生活・労働・奉仕活動・宗教・裁縫・料理・菜園・家畜飼育・紡績・縫製などについての広範囲な女性教育に力を入れた。

難民救済[編集]

1937年12月から1938年の5月末にかけて、南京城内に設置された安全区内の金陵女子文理学院は戦渦の避難民の収容所の一つとなり、ヴォートリンは女性子供を中心とした避難所の維持管理を行った。身を寄せた女性避難民の数は最大で9,000人。難民の安全確保と生活の為に、生真面目で真摯な姿勢で数々の苦境に立ち向かい、委員会の他のメンバーや大日本帝国の軍人や領事らとの交渉も果敢に行い、兵士として連行された一般男性の確認と返還にも力を入れた。安全区解除後も、生活困難な難民達を引き続き収容して面倒を見続けた。彼女は常に中華国民の保護と安全確保に誠意を尽し、難民達から次々に報告される兵士達や匪賊などからの被害の話と、続く戦乱の拡散にもとても心を痛めていた。

報告書[編集]

ヴォートリンは、米国のキリスト教伝道団組織などの関係機関宛の報告書を提出している。その為、タイプ時にカーボン紙を用いてコピーを作成し、一部を報告として米国宛に送っている。その為、日記の記述は伝道活動の為の参考資料とする報告書的要素を持ち、配慮と正確を期する姿勢が見て取れる。

『ミニー・ヴォートリンの日記』[編集]

1937年8月12日から書かれ始め1940年4月14日まで、A4版用紙にタイプされた日記は全部で526頁となっている。1937年10月頃までは『From Day to Day at Ginling』と題された雑誌掲載企画の為の清書原稿である。その後の日記には、彼女自身のものと思われる加筆・修正の跡が見られ、他の人のものと見られる手書きの補注的書込みがなされている個所もある。

書籍・資料[編集]

日本語資料
日記全体の中から12月1日~3月31日を抜粋して全訳されている。その他の日付の概略を含む解説は、笠原十九司が書いている。笠原は、原文でローマ字表記されている中華民国の人々の名を、現地の研究員等との連携により確認し、漢字表記に正した。
原文『DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN 1937-1940』
イェール大学神学図書館では、「The Nanking Massacre Project」[1]のページが開設されており、『ミニー・ヴォートリン[2]の日記』の原文全文がマイクロフィルム化されたもの[3]が閲覧可能である。(その他、1937年の南京事件に関わった人々の資料や当時の多数の記録資料も提示されている。)

日記の内容[編集]

8月15日[編集]

日記では、ヴォートリンが難民達を集め、爆撃機が来た時の事等を話してからしばらく後、現実に爆撃機が来たらしく対空砲が射撃を開始し、その音が暫く続いた。彼女は多くの犠牲者が出たのではと心が痛んだ。

現場の状況に関する他の人達による情報では、前日の8月14日中華民国軍が上海全市に渡り爆撃を行い、ちょうど空爆被害が出た上海キャセイ・ホテルにエセル・ルーズヴェルト夫人が宿泊していたため、アメリカから当時空軍の指揮をしていた宋美齢に「即時盲爆を中止するように」との勧告が入った。翌8月15日、大日本帝国首相近江文麿内閣は、支那軍の暴挙に対して南京政府の反省を促す為に断固たる措置を取るとして、日中全面戦争への突入を宣言。松井石根大将を上海派遣軍の司令官に任命し、上海派遣への軍隊派遣を決定した。その流れで、8月15日に長崎から爆撃機が飛び、目標地である南京飛行場を爆撃したとの情報も在る。

大日本帝国軍、南京到着前[編集]

南京から遷都する人々や荷物が、故宮博物館の宝物も含めて次々と城内から運び出されて行く。

12月4日、AP特派員によると市の東方の多数の樹木が中国軍に伐採され、東門から湯山にかけては殆ど無人村となっている。

12月6日、中国軍は焦土作戦をやって村人を南京城内や北方に追い遣り、村を焼き払っている為、包容は総て無人村状態となり、明孝陵への道路沿いの樹木は伐採された。

12月7日、蒋介石達は午前4時に南京脱出。7時に下関方角から謎の砲声がした。難民が中国警察から立退きを命じられ、南門から安全区に入る。逆らえば家を焼払われ、スパイとみなされる。軍の作戦で孝陵衛が放火され、国営公園で樹木が多数伐採された。

12月8日夜、初めての避難民受入。多くは南門付近や市の南東部の人達。中国軍からの即時立退き命令に従わなければ、反逆者として銃殺され、計画を妨害すれば家が焼き払われる事もあるらしいと、女史は心を痛める。

12月9日、中国軍の清野作戦で、午後は北西以外の方角から煙が立ち昇り、南西隅の空全体を炎が照らしている。AP特派員が中国兵がガソリンを掛けて家に放火していたのを目撃。

12月10日、日本軍は光華門のすぐ近くまで迫り、市外周辺随所で火災。城壁のすぐ外側の貧しい人々の家が焼かれ、夜は西空が真赤に染まった。マギーによると、彼の邸宅は海の孤島状態とか。

12月11日、マギーは破壊を免れた下関の一部地域も今夜焼き払われるだろうとも言った。1927年の略奪時に破壊されたピアノは移動せずじまい。

12月12日、中国軍が終日安全区を通過し、夜の記者会見では、唐防衛司令官の統制力不足で城内殆どの場所で掠奪が行われているとの事。城壁外側の全家屋と内側の家屋多数をも焼払った事が役に立たずじまいなら、とんでもない誤算で、貧しい民衆のみが苦難を蒙るだけ。破壊せずに南京を引渡した方が良かったのでは。夜、娘が居る為に男性二人が、撤退して行く中国兵を怖がっている。市の南部と下関が燃えているのが見えた。西安事件から、丁度一年。

中国軍の退却前の状況は、『ラーベの日記』やニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者の記事などにも記されている。

大日本帝国軍南京入場[編集]

  • 一二月二〇日 月曜日
午後四時、ビッグ王といっしょにアメリカ大使館に行き、そこから日本大使館に連れて行ってもらった。ふたたび実情を伝え、使用人二人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。アチソン氏の料理人の話では、彼の父親が射殺されたが、死骸を埋葬するために家へ戻る勇気のある者がいない、というのである。[4]
  • 一二月二一日 月曜日
一時三〇分、アチソン氏の料理人といっしょにキャンパスの西の方角に向かった。料理人は、七五歳の父親が殺されたと聞いていたので、ぜひ確認したかったのだ。わたしたちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。老人の死骸を竹薮に引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護してもらうことを拒んでいた。[5]
  • 一月五日 水曜日
夜、男性がキャンパスに避難している娘に食べ物を差し入れたい、と言ってきた。ここには男性を入れることはできないというと、わたしにはいまは娘しか残っていない。三日前の夜、安全区内で妻が抵抗して大声を出したら、銃剣で胸を突き刺され、そのうえ、幼い子どもは窓から放り出されてしまった」と訴えた。[6]
  • 一月二四日 月曜日
大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきて、いましがた三人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。彼女といっしょに駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏速機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子学院に駆け込んだのだった。少女といっしょに学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内にはじめて侵入してきたさい、彼女の六七歳の父親と九歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。[7]
  • 二月二四日 木曜日
父親、母親、母方の祖母、それに乳呑み児の妹をみな日本兵に殺されたという少年が午後わたしに会いにきた。少年は彼等全員が殺されるところを目撃したそうだ。彼と盲目の女性は、金陵難民収容所のことを聞いてここへやってきたのだ。父親は人力車夫だった。[8]
  • 三月四日 金曜日
正午過ぎまもなく一七歳の避難民の少女がSuhu(蕪湖)からやってきた。そのかわいそうな女の子の話は、彼女の顔の表情に劣らず悲しい。日本軍が蕪湖に進入してきたとき、兵士たちが彼女の父親の店―父親は何か商いをしていた―に行ったというのだ。彼女の兄が兵士と同じように髪を短く刈り込んでいたため、父親、母親、兄、義理の妹、それに姉すべてが銃剣で刺し殺された。彼女は他の女の子八人ほどいっしょに二人の兵士に拉致され拘束された。彼女の生活は地獄だった。二週間ほど前に兵士は少女を南京の南門に連れてきた。他の兵士たちよりは親切は一人の将校が少女に、このキャンパスにくるように言ったのだ。わたしたちは少女に、寝具、洗面器、ご飯茶碗、箸を与えた。思うに、これが多くの家族の運命なのだ。[9]
  • 三月十七日 木曜日
きょうは三人の女性が農村地域からとぼとぼと歩いてやってきた。彼女たちの夫をみつけてくれないかと、わたしあての陳情書を持ってきたのだ。いちばん年下の女性が言うには、彼女の舅は殺され、夫は一二月二六日、登録したさいに連れ去られたまま、戻ってこず、おそらく戻ってくることはあるまい、というのだ。[10]
  • 三月二八日 月曜日
午後五時、女子学院の西の虎踞関路へ歩いて出かけた。マーガレット・トムソンのかつての料理人の母親がいまでも自分の小さな家の番をしているが、彼女は、怖くてそこには住む気になれない。彼女はわたしに、破壊の状況を見にその家へ行ってもらいたがっていた。扉の閂をはずし錠を開けるのに一〇分ぐらいかかった。内部は見るも哀れな光景だった。何もかもが乱雑になっていた。たくさんの家具が薪に使われていた。一二月の半ばごろのことだったが、長年彼女が連れ添ってきた夫が、お金はもっていないと言ったところ、家から引きずり出されて射殺されてしまった。[11]
  • 三月三〇日 水曜日
「寡婦の家」は門方(中国語で「門のそば」の意味)に、つまり南門の東にある。わたしたちは二股の小路に入ったあとまもなく、かつて避難民として二〇日間ほど金陵女子学院にいた胡老人と彼の妻に出会った。彼はわたしたちに、お茶を飲みに彼の家に寄って行くようしきりに勧めた。

(中略)

彼らはわたしたちに、ある庭師一家のことを話してくれた。彼らの家から遠くないところに住んでいて、一八人の家族のうち一六人を失ったという庭師だ。これ以外にも、ここで繰り返すにはあまりにも残酷な話もいくつかしてくれた。彼らが侵略者どもは畜生だと思うのも不思議ではない。[12]
  • 一九三八年五月(翻訳者によるダイジェスト)
五月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それにともなって、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようになった。

(中略)

杜という使用人は、徐洲の北西四五キロにある実家を破壊され、義母は日本兵に首を斬り落とされて殺害され、妻と子どもはどこかに逃げているはずだ、と何度も泣きながら悲劇を語った。
また、このころになると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになった。これらの家族には新たな悲劇が待ち受けていた。
常婆さんは、娘とともにヴォートリンを訪れ、こう語った。彼女の五三歳の息子は何年も結核を患っていて、妻も子どももいる。常婆さんのもう一人の三三歳の息子が精米所で働き、月五〇元の賃金を得ていた。彼にも妻と四人の子どもがいる。九人の常家族がこの三三歳の息子一人の稼ぎに頼って生活していた。この息子だけが仕事のために南京に残り、他の八人は長江北へ避難して数カ月を過ごした。持参したものをすべてつかい尽くして南京に戻ってきたら、この息子が日本兵に殺害されていたのである。一家の生活を支えていた息子が殺されてしまい、常家族の八人は、あすの糊口をしのぐのにも窮しているというのである。[13]
  • 一九三八年五月九日(翻訳者によるダイジェスト)
九日の夜一〇時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(五〇歳)の家に二人の兵士がやってきて、家の中に二人の嫁がいるのを見つけて、なかに入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。[14]

慰安所設置[編集]

12月24日金曜日の日記に慰安所の設置について記されている。

10時頃、ヴォートリンは彼女の執務室で中華民国人通訳を伴った大日本帝国軍事顧問と会見。避難民1万人の中から、売春婦100人の選別をする許可を得に来たとの事。兵士利用の許可慰安所開設により一般女性の被害が減るだろうとの話と、以後は女性を連行しないとの約束に、女史は選別を承知した。選別の間、軍事顧問は別の場所にあるヴォートリンの執務室で腰を掛けて待期。その間に、21人が仕事に就く事になった。話を聞き付けた少女達が人数確保への不安から次々と駆け付け、女史は「私が言って阻止出来るならば、そういう事にはならないはず」と答えるのが精一杯だった。

同じ時の記述が、『南京事件の日々The Diary of Rabe』12月26日にも記されている。ジョン・ラーベ達がよく知る上品な紅卍会の会員が、意外にも社会の暗部に通じていたようで、その彼が声を掛けると元売春婦だったらしい女の子達が進んで歩み出た、と記されている。

南京での慰安所に関しては、1938年1月中旬に南京から出た日本人記者が、既に慰安所が経営されているのを目撃している。

脚注[編集]

  1. ^ Nanking Massacre Project 1937年からの南京事件に関わったアメリカ宣教師を中心とした人々や、事件に関する文献や資料が閲覧できる。
  2. ^ Minnie Vautrin
  3. ^ 『DIARY OF WILHELMINA VAUTRIN 1937-1940』 (英語PDF資料Vautrin.pdf:33.81MB、全555ページ)From papers of Minnie Vautrin in Record Groups No. 8 & 11, and microfilm Ms 62. Microfilmed collection of Vautrin papers includes her diary (1937-1940), correspondence and newsclippings.
  4. ^ 「南京事件の日々」大月書店 P70
  5. ^ 「南京事件の日々」大月書店 P71
  6. ^ 「南京事件の日々」 P99
  7. ^ 「南京事件の日々」 P134
  8. ^ 「南京事件の日々」 P183
  9. ^ 「南京事件の日々」 P193
  10. ^ 「南京事件の日々」 P212
  11. ^ 「南京事件の日々」 P230
  12. ^ 「南京事件の日々」 P234
  13. ^ 「南京事件の日々」P241-242
  14. ^ 「南京事件の日々」 P243

関連項目[編集]


外部リンク[編集]