ジミー・スヌーカ
ジミー・スヌーカ | |
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NWAミッドアトランティック時代(1981年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
ジミー "スーパーフライ" スヌーカ グレート・スヌーカ ラニ・ケアロハ |
本名 | ジェームズ・ライアー |
ニックネーム |
スーパーフライ 飛獣 褐色の野獣 |
身長 | 185cm |
体重 | 115kg(全盛時) |
誕生日 | 1943年5月18日(80歳) |
出身地 | フィジー |
トレーナー | ディーン・ホー |
デビュー | 1969年 |
ジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka、本名:James Reiher、1943年5月18日 - )は、フィジー出身のプロレスラー。跳躍力を活かしたハイフライ・ムーヴにより、スーパーフライ(Superfly)のニックネームを持つ。日本では「飛獣」なる異名が付けられた[1]。
娘のタミーナ・スヌーカ、養子のシム・スヌーカもプロレスラー。なお、第1次UWFに来日したジャック・スヌーカはジミー・スヌーカの弟を名乗ったが、単なるギミックで血縁関係はない。
来歴
ハワイでボディビルダーとして活動した後、1969年にアメリカ合衆国本土でプロレスラーとしてデビューし、太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)でキャリアを積む。デビュー当時はラニ・ケアロハ(Lani Kealoha)というリングネームだった。1971年9月にはインディアン・ギミックのグレート・スヌーカ(Great Snuka)として日本プロレスに初来日し、スニー・ワー・クラウドとのインディアン・コンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に出場した(同名義では1974年11月の全日本プロレスにも参戦)[1]。
その後、南洋の原住民スタイルに変身し、1974年2月19日にはPNWの本拠地オレゴン州ポートランドにてジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、時間切れ引き分けとなる[2]。これが飛躍につながり[1]、以降もブル・ラモス、ワイルド・アンガス、ジェシー・ベンチュラなどとの抗争を通し、PNWのフラッグシップ・タイトルだったNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を1977年まで通算6回獲得した[3]。
1970年代後半からはヒールのポジションでジム・クロケット・ジュニアのNWAミッドアトランティック地区を主戦場に、リック・フレアー、リッキー・スティムボートらとの抗争で一躍トップスターとなる。ミッドアトランティック地区ではポール・オーンドーフやレイ・スティーブンスと組んでタッグ戦線でも活躍、同地区認定のNWA世界タッグ王者となり[4]、フレアー&スティムボート、マスクド・スーパースター&ブラックジャック・マリガンなどの強豪チームと対戦した。
日本では1981年5月より全日本プロレスを主戦場とするようになり、リッキー・スティムボートとの抗争も日本マットで再現。同年6月11日にはジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に、10月6日にはブルーザー・ブロディと組んでジャイアント馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦ではブロディとのタッグチームでザ・ファンクスを破り優勝を果たした[5]。しかし、最終戦(12月13日、蔵前国技館)でセコンドを務め、試合に介入して優勝を援護したスタン・ハンセンがブロディと組むようになると、翌1982年4月にブロディと仲間割れ。10月にブロディ対スヌーカの遺恨試合が行われたが、スヌーカがWWFに定着し全日本プロレスを離脱したため両者の抗争アングルは立ち消えになった。
WWF(現・WWE)には1982年3月より登場。当初はNWA時代と同様にヒールであったが(マネージャーはキャプテン・ルー・アルバーノ)、当時のWWF王者ボブ・バックランドとの抗争を通し、一連のハイフライ・ムーヴにより観衆の喝采を集めベビーフェイスに転向。その後はバディ・ロジャースがマネージャー役に就くなど、一時はバックランドをも凌ぐ人気者となり、次期WWF王者の有力候補と噂された。
1983年10月17日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて行われたドン・ムラコとの金網マッチでは、金網最上段からのスーパーフライを敢行。この試合をリングサイド3列目で見ていたプロレスラー志望の大学生ミック・フォーリーは、これがきっかけで本気でレスラーになることを決めたという[6]。以降もWWFに定着し、1984年にビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートした全米侵攻にもベビーフェイスの主力として参加。ロディ・パイパーのインタビューコーナー『パイパーズ・ピット』への出演に端を発するパイパーとの抗争は、歴史的イベント『レッスルマニア』第1回大会への伏線ともなった。
1985年5月には当時WWFと提携関係にあった新日本プロレスに来日、IWGPリーグ戦へ出場した。同年11月のIWGPタッグ王座の初代王者チームを決めるタッグリーグ戦では、当時新日本へ参戦していたブロディとコンビを再結成し出場したが、外国人レスラーに王座を与えない新日本側の方針に反発してリーグ戦後の決勝戦を急遽キャンセルして帰国している(反発したのはブロディだけであり、スヌーカは巻き込まれただけだとする説が有力。その説を裏付けるように、後日坂口征二と和解した写真が各紙に掲載された)。
その間、アメリカでは1985年下期にWWFを離脱し、1986年よりAWAに参戦。AWAがWWFのレッスルマニアに対抗して開催したイベント "WrestleRock" ではタッグマッチでブロディとも対戦している(同イベントには当時のAWA世界ヘビー級王者スタン・ハンセンも出場)。1987年にはブロディとともに全日本プロレスに復帰、同年および翌1988年のブロディ死去後の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(1988年のパートナーはタイガーマスク)。
1989年よりWWFに復帰し、ベテランの中堅として1992年2月まで所属。1991年4月には、ジ・アンダーテイカーのレッスルマニア初戦の相手も務めた。その後はインディー団体を転戦しつつ、初期のECWへも参戦。1992年4月に初代ECW世界ヘビー級王者にも就いている[7]。1995年にはWARにボブ・バックランド、ミル・マスカラスと共に来日した。
1996年にWWF殿堂入りを果たし、2001年にはWCWにも出場。2004年にWWEとレジェンド契約を結び、折を見てストーリーラインに絡み、試合も行っている。WWE以外でも時折、インディー団体に参戦しているという。2009年4月のレッスルマニア25では、ロディ・パイパー&リッキー・スティムボートとレジェンド軍を結成し(セコンド役はリック・フレアー)、クリス・ジェリコとのハンディキャップ・エリミネーション・マッチを行った。
2015年9月1日に第三級殺人罪(殺人と過失致死容疑、英文ではthird-degree murder and involuntary manslaughter)で逮捕された[8]。1983年5月に交際していた女性がモーテルで意識不明となり、後に死亡した事件に関わったとされる(en:Jimmy Snuka#Nancy Argentino deathも参照)。その後、保釈金を支払い釈放されたが、WWEはホームページからスヌーカに関する情報を削除した。
得意技
- スーパーフライ(スーパーフライ・スプラッシュ)
- 基本的にはコーナーポスト最上段から繰り出されるが、試合中盤にスワンダイブ式で放たれることもあった。スヌーカの代名詞ともいえる技である。
- ダイビング・ヘッドバット
- 上記のスーパーフライはダイビング・ヘッドバットとして繰り出されることもあった。フォーム的にはダイナマイト・キッドのそれに近い。
- シュミット式バックブリーカー
- スーパーフライを放つ際の繋ぎ技として使用。
- フライング・クロス・ボディ
- この技も「飛獣」の異名の通り、豪快かつ美しいフォームから繰り出した。
- バックハンド・チョップ
- ミッドアトランティック地区では、同じくバックハンド・チョップを得意技としていたリッキー・スティムボートやリック・フレアーとのチョップの応酬も見られた。
- ヘッドバット
- ボボ・ブラジルのココバットのように、その場でジャンプして高い打点から打ち落とす。
- ジャンピング・ヒップ・アタック
- 打点の高さは、同じくこの技の第一人者とされたチャボ・ゲレロ・シニアをも上回った。
- リープ・フロッグ
- ロープワークの一種でロープの反動で返ってきた相手を開脚ジャンプでかわす見せ技。相手を正面から飛び越え、かわした反動で後方から戻ってきた相手をまたかわし、またその反動で正面から戻ってきた相手にバックハンド・チョップを決めて見得を切るという流れも得意にしていた。そのダイナミックなフォームはマスカラスのそれをも凌ぐ程のもので、鉄人ルー・テーズをして「グッド・ジョブ」と言わしめた。
獲得タイトル
- パシフィック・ノースウエスト・レスリング
- NWAオールスター・レスリング
- NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / ドン・レオ・ジョナサン)
- NWAビッグタイム・レスリング
- NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / ポール・オーンドーフ、レイ・スティーブンス)
- NWAナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / テリー・ゴディ)
- 両者は1981年にジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングでタッグを組んでおり[10]、パートナーのゴディに合わせスヌーカもテンガロンハットを被っていた。
- ECW世界ヘビー級王座:2回
- ECW世界TV王座:1回
- WWF Hall of Fame:1996年度(インダクターはドン・ムラコ)
脚注
- ^ a b c 『THE WRESTLER BEST 1000』P61(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1974”. Wrestling-Titles.com. 2012年3月15日閲覧。
- ^ “NWA Pacific Northwest Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月16日閲覧。
- ^ “NWA World Tag Team Title [Mid-Atlantic]”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月16日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Jimmy Snuka in 1981”. Wrestlingdata.com. 2015年4月27日閲覧。
- ^ Mick Foley "Have a Nice Day: A Tale of Blood and Sweatsocks" P33–34(2000年、Regan Books) ISBN 0061031011
- ^ “ECW World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月16日閲覧。
- ^ “日本でも活躍のレスラー、ジミー・スヌーカ 殺人と過失致死容疑で逮捕”. スポニチアネックス (スポーツニッポン新聞社). (2015年9月2日)
- ^ “WWE Yearly Results 1983”. The History of WWE. 2009年2月3日閲覧。
- ^ “NWA National Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月16日閲覧。