ドラえもん (1973年のテレビアニメ)

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ドラえもん
ジャンル ギャグアニメ
アニメ:ドラえもん
監督 上梨満雄(チーフディレクター)
音楽 越部信義
アニメーション制作 日本テレビ動画
製作 日本テレビ
日本テレビ動画
放送局 日本テレビ系列
放送期間 1973年4月1日 - 9月30日
話数 52話/26回(15分2話完結)
その他 完全な状態で現存するのは第18回、第20回~第26回のみ
ドラえもん
野比のび太
源静香
剛田武(ジャイアン)
骨川スネ夫
富田耕生(1 - 13回)→野沢雅子(14回以降)
太田淑子
恵比寿まさ子
肝付兼太
八代駿
テンプレート - ノート

ドラえもん』は、藤子・F・不二雄漫画ドラえもん』を原作とする日本テレビ動画制作のテレビアニメである。 『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。

  1. 1973年に放送されたシリーズ
  2. 1979年から2005年3月まで放送されたシリーズ
  3. 2005年4月から放送中のシリーズ

これらを区別する呼称は公式には発表されていない[注 1]。一方、アニメ誌では2005年4月より放送中のシリーズを『ドラえもん(新・第2期)』としている。ウィキペディアではそれにならい、1973年に放送されたシリーズを第1作、1979年より放送されているシリーズをまとめて第2作とする。また第2作において、1979年から2005年3月まで放送されたシリーズを第1期、2005年4月から放送中のシリーズを第2期とする。

本記事では第1作について記述する。

概要[編集]

ファンからは、その後放送されたテレビアニメと区別するために「旧ドラ」、「日テレ(NTV)版ドラえもん」、「日本テレビ版ドラえもん」、「ドラえもん(旧)」などと呼ばれることがある。

企画から放映まで[編集]

本作は日本テレビ動画渡邊清(別名・新倉雅美)らによって企画が立ち上げられた。渡邊は当初、硬派任侠物の『少年次郎長三国志』のアニメ化を切望したが、企画が頓挫[1]つなぎ番組として本作が放映されることになった経緯がある[1]。一方、当時『小学二年生』編集長だった小学館の井川浩は、新潟のアニメ制作会社が制作するテレビアニメの原作を推薦するよう日本テレビのプロデューサーから頼まれて人気の高かった『ドラえもん』と『かあさん星』(谷ゆきこ作)を推薦したことを証言しているほか、日本テレビプロデューサーだった川口晴年は、チーフプロデューサーの藤井賢祐が企画を提出した後に、読売新聞から派遣された専務が会議で日本テレビ動画で制作することを有無を言わさない形で決めたと証言している[2]

1972年手塚プロダクションを退社した真佐美ジュン(本作では本名の「下崎闊」名義で参加)は、日本テレビ動画制作のテレビアニメ『モンシェリCoCo』を手伝った(ただし、真佐美は製作側との金銭的トラブルにより放映当初に制作主任を降板している)。真佐美によると日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』の後作品として企画の1つに『ドラえもん』があり、1972年7月以前には『ドラえもん』の企画が既に存在していたという[1]

『ドラえもん』に企画が絞られた頃、中野サンプラザ近くの高級焼肉店で、同社日本テレビ版ドラえもんの制作担当を日本テレビ動画の佐々木一雄プロデューサーに依頼された。真佐美は原作を初めて見た際、子供たちに夢を与える内容で、真佐美はアニメの世界に入ってから常に「子供に夢のある作品を」という精神があった。真佐美と佐々木は「今後このスタジオから、将来のアニメ界を背負っていくような人材を育てていこう」と将来の夢を語り合い、快く協力することを約束。1972年11月に日本テレビ動画へ入社した。真佐美が演出を担当したパイロットフィルムのメインとなるヘリトンボで空を飛べるという、夢のシーンの紹介では、作画スタッフらも童心に返って一生懸命昼夜を問わず作り上げたシーンだったと述べている[1]

真佐美ジュンは、「当時『ドラえもん』をアニメ化するのは凄い冒険で、今でこそ国民的漫画だが、当時は単行本も出てないので、子供でも『ドラえもん』を読んでるのは学年誌を買ってもらってる一部の子供だけ。他の週刊漫画のアニメ化とはわけが違う」と述べている[1]

メインスタッフには旧虫プロダクション出身のメンバーが集い、アニメ制作は日本テレビ動画の東京および新潟スタジオ[注 2]と、幾つかのグロス請けスタジオがローテーションを組んでスタートした。チーフディレクターは上梨満雄であった。上梨を選んだ真佐美ジュンは、その理由として「一人の演出家が全体の流れを統一したほうが原作者の意向を反映出来るため。そして全体を任せられて、若手で力のある演出家を選びたかったから」と述べている[1]。しかし実際には原作者からの注文や要望はほとんどなかったとされ、上梨も最後まで原作者と会うことはなかった[4]

当初、ドラえもんの声は富田耕生が担当した。現在放送中のアニメ第2作とはイメージが異なるが、当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたことから、動物役なども多く演じていた富田に初めから配役するよう決めていたという[1]

現在放送中のアニメ第2作に比較して、色指定のコントラストは穏やかであった。これは、1973年当時のアニメの多くが一度35mmネガフィルムで撮影し、その後、16mmポジフィルムに転写してテレシネスコープで放映するという物だったのに対し、本作は直接16mmフィルムで撮影していたことにも起因する。キャラクターの声を担当した野沢雅子肝付兼太は本作をモノクロ作品だと記憶しているが、実際にはカラー作品である[注 3]

1973年4月1日、事前に制作されていたパイロットフィルムを流用し再構成した「出た!ドラえもんの巻」を第1話として放映が開始された[注 4]

放映開始後[編集]

半年間という当時としては比較的短期間の放送であったため、「不人気で打ち切り」という噂が一般化していたが、実際には元々2クールの放送契約であった[注 5]

低学年向けの雑誌に掲載された作品はページ数が少ない上にストーリー性が薄く、アニメ化すると尺が余ってしまうため、原作を元にしつつアニメオリジナルの要素を随所に入れていき、放送後半にはオリジナル要素がかなり増えたという[1]。当時は原作漫画の連載が開始されてから3年程度で、原作のストックも少なくすぐに使い終わり、放送が継続されていたとしたらオリジナルストーリー主体になっただろうと真佐美ジュンは証言している[1]。なお、原作不足のためテレビ用に書き起こしたオリジナル設定は原作者の承諾済みであったとされる。

小学生向けの原作で製作された本作は、対象年齢が低かったこともあり、当初は視聴率で苦戦したとされる[注 6]。番組は2クールの契約であったが、ある程度の視聴率が確保出来ればその後も継続するという契約であった。1クール終了間際に制作会議が招集され、日本テレビ側は視聴率10%を超えれば放送を継続するとした[1]

真佐美ジュンによると、放送2クール目に入ると、『小学五年生』、『小学六年生』での連載が開始されたこともあり、原作では数回しか登場しなかったアヒル型ロボット「ガチャ子」をレギュラー入りさせるなどスラップスティック要素を強調したという[1]。また、番組の対象年齢の引き上げと「世話好きなおじさん」然としたドラえもんの年齢イメージを下げることを目的に、ドラえもんの声を担当していた富田耕生を降板させ、2代目となる野沢雅子に交代するなどのテコ入れを図った[1]。これらのテコ入れの甲斐があもあり、徐々に視聴率も上がっていたと真佐美ジュンは述べている[1]。当時の制作スタッフは音声まで入った完成フィルムを惜しげもなく全面リテイクするなど、クオリティの向上には常に真摯に取り組んでいたという[1]。収益自体も黒字で、スタッフらは、千葉県房総半島にある日本テレビの保養所に招かれ豪華な接待を受け、3クール目に延長する予定もあったという[注 5]

「後半上昇した」とされていた視聴率について、安藤健二が初回放映時の関東地区におけるビデオリサーチのデータを調査した結果では、序盤の第1回、6回、8回で10%近い数値を記録した後、第11回から16回までが5 - 6%前後と低迷、その後第20回前後に上昇に転じるものの序盤の水準に届いた程度で、25回までは再び下落し、最終回で少し上がったものの、全26回で最高が9.1%と一度も10%を超えることはなく、平均が6.6%であった[6]。主演声優が交代した前半と後半を比較すると、前半の平均7.2%に対して後半は6.6%と従来の説とは反対に後半の方が低く、安藤は声優交代は「裏目に出たようだ」と評している[7]

突然の中断[編集]

2クール終了間際の1973年8月中頃、日本テレビ動画の実質的経営者(社長と自称)だった渡邊清(新倉雅美)が突然失踪した[注 7]。真佐美ジュンによると、失踪直前の8月初めに日本テレビから呼出しがあり、日本テレビのプロデューサーから「日本テレビ動画が消滅するという話が下請から出ている。それが本当なら下請側は死活問題なので、入金の保証があるまで納品しないという状況になっている。その話は本当か?」と聞かれ、真佐美は否定したが、「絶対に放送に穴はあけないでくれ」と日本テレビから釘を刺されたという。真佐美は下請側に対しても「もし何かあったら責任を取る」と言って説得しに回ったという[1]

その後経営を引き継いだ同社の会長(登記上の代表取締役だった、新潟総合テレビ役員の稲庭左武郎を指すとみられる[注 8])はアニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散したと真佐美ジュンは述べている[1]。解散について、真佐美ジュンは前身の東京テレビ動画時代からの赤字を本作で得た収益で補填できたことに加え、「その前にいろんなことをやられて懲り」た稲庭が、渡邊の失踪を機に「少しでも赤字が埋まったところで」解散したと述べている[11]。一方美術監督の川本征平は渡邊の失踪の理由を「次回作が決まらずに資金ショートしたからではないか」と安藤健二の取材に答えている[11]

会社の解散という混乱の中、同年9月30日放送の「さようならドラえもんの巻」を作り上げ最終話とし、半年で終了となった。最終回は自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をする姿を、未来の世界に帰ったドラえもんがタイムテレビで見守るところで物語が終わる[5][12]。最終回ラストのアイキャッチは「次回もお楽しみに」として終了させており、これは制作主任の真佐美による演出であった。これを疑問に思った制作進行の木沢富士夫に、真佐美は「こんな形で日本テレビ動画のドラえもんは終わってしまったがスタッフのみんなは、まだ続けたかった。もう1度日本テレビ動画で同じスタッフと一緒に『ドラえもん』の続編を製作したい思いを込め“次回をおたのしみ“にしたんだ。」と語り、意図を明かした。また番組最後の「おわり」のカットでドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていくシーンがあり、これにも続編製作の希望として「再会」の意味が込められている。ヒントに真佐美が昔見た映画で「無事に帰って来て」という願いが黄色いリボンで描写されていたことに由来する[1]

放映終了後[編集]

残された日本テレビ動画のスタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるために会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料やセル画のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという[13]。しかし、実際には、川本征平のように全く支払われなかった外注スタッフもおり、川本は日本テレビのプロデューサーに「制作費は既に日本テレビ動画に支払っているから、これ以上は払えない」と言われたという[13]。また、川本によると少なくとも日本テレビ動画が外注したアトリエローク(川本が主催)とスタジオじゃっくには最終2話分のギャラが未だに払われていない[13]。この件に関して「私の後任のプロデューサーは局と外注スタッフとの板ばさみになって非常に苦労された」という企画当初のプロデューサーである川口晴年の証言も存在する[13]

真佐美ジュンは最終回が放映された9月30日の夜、日本テレビ動画の解散に伴う社屋引き払いのためセル画や絵コンテなどの制作資料を、浦和市内の荒川河川敷で止むを得ず焼却処分したと証言している[5]。このような理由から、結果的に本作の資料は当時のスタッフが個人的に所有している一部のものを除いて、ほぼ現存しないとみられている。

様々な想いを馳せた設定集やセル画が目の前で燃えていったことを、真佐美は「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と、当時置かれた心境を回想している[5]。放送終了後も藤子・F・不二雄は後述する作品内容への評価とは別に、個々のスタッフの姿勢に対しては好意的であり、真佐美が放送終了後に藤子本人に会いに行った際には「是非またやろうよ」と言って握手してもらったと述べている[5]

日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した[1]

本作のフィルムは放送終了後も日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されることもあった[1]。再放送はテレビ朝日系でアニメ第2作の放送が開始される1979年までの5年余りの間に、日本テレビ平日朝の再放送枠『おーい!まんがだヨー』(関東ローカル)をはじめ、地方局などで比較的多く行われていた[14]

フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、散逸して行方不明になっていたと思われていたが、安藤健二の調査により1995年IMAGICAが横浜工場を閉鎖する際の在庫整理で後半16話分のネガフィルムが発見され、保管されていることが判明した[15]。ただし、日本テレビ動画の著作権の引継ぎ手が不明なため、宙に浮いた状態となっている[15](現存状況については後述)。

編成上、日曜夜7時枠は日本テレビ制作枠から読売テレビ制作枠に切り替えられ、元々月曜夜7時半に放送されていた「全日本歌謡選手権」が移動、空いた月曜夜7時半枠は一旦日本テレビ制作枠に変更し、木曜夜7時半に放送していた「ほんものは誰だ?!」が移動した。木曜夜7時半枠は夜8時に放送していた「木曜スペシャル」を枠拡大するように変更された。

なお日曜夜7時枠でアニメが放送されたのは、1968年4月7日から1969年9月まで放送された「ディズニーランド」以来だが、「ディズニーランド」は「海外作品」、「1時間番組」、「実写と併用」であったため、「国産」、「30分作品」、「オールアニメ」は「ドラえもん」が開局以来初めてであった。その後同枠では1989年に「シティーハンター3」、1991年に「シティーハンター'91」がそれぞれ放送されるが、いずれも読売テレビ制作作品であるため、日本テレビ制作作品は「ドラえもん」が唯一となった。

旧から新へ[編集]

その後、残されたスタッフは債権処理などに追われ、ついに日本テレビ動画が再建されることはなかった。

これに対し、テレビ朝日版のアニメ第1話は「未来の国からはるばると」という原作第1話のエピソードを避け、通常のエピソードの1本である『ゆめの町ノビタランド』とした。これが普通に本編から始まっている所からも、まるで第1作の続編を意識したかのような形がとられ、両者の間で受け渡しがあったかのような構図になっている。

本作の声優を担当した声優の一部は、シンエイ版にも主要人物を演じており、太田淑子はのび太からセワシ、小原乃梨子はのび太のママからのび太、肝付兼太はジャイアンからスネ夫。我成先生(のび太のクラス担任)を担当した加藤治は同じく先生を担当していた時期がある。劇場版では、富田耕生は『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』においてポセイドンを演じているほか、野沢雅子は『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』でログを、『ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』で少年のび助を演じた。また1983年の(シンエイ版)実写アニメ合成の特別番組『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』では、しゃべるひみつ道具キャラクター「なんでもナレーター」の声として登場している。また、野沢はシンエイ版のテーマ曲「ドラえもんのうた」「ドラえもん音頭」のキングレコード版カバー音源にてドラえもんの声を担当した(初出は1980年発売の2枚組オムニバスLP『最新アニメ主題歌ベスト28』K13A-71/2である)。

「封印」の状況とメディアでの扱い[編集]

現在では再放送はもとより、テレビ番組などで紹介されることはほとんどない(まれに紹介されても詳しい説明は全くない)。その理由と経緯については、安藤健二の著書『封印作品の憂鬱』において小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。

原作者の藤子・F・不二雄は本作の内容に否定的であったとされる[注 9](雑誌やムック本などのドラえもんの年表にも本作のことが掲載されていないケースが多い)。このアニメ化は、前記のように日本テレビのプロデューサーからの小学館への申し入れによって決まったとされ、当初藤子・F・不二雄は日本テレビから寄せられた依頼に応じて舞台となる街や野比家の設定に使う絵を制作会社に送ったりしたが、それに対する反応がまったくなかったと前記の井川浩は述べている[2]

その一方で、制作主任であった真佐美ジュンによると、藤子・F・不二雄との打ち合わせに関しては、当初は真佐美が喫茶店で当たっていたと証言しており、「原作者からの注文や要望は最後までなかった」と述べている[1]。その後、藤子・F・不二雄は次第に仕事の都合から出向いてまで打ち合わせを行える暇がなくなり、その際には当時藤子・F・不二雄と共に「藤子不二雄」として活動していたため、名義上は本作の原作者の一人だった藤子不二雄[注 10]と校正などの打ち合わせをしたという[1]。藤子・F・不二雄とのパイプ役には文芸担当の徳丸正夫が「演出的センスを持っていて人当たりがよく辛抱強い」という理由から「原作者との校閲係」に選ばれ、藤子・F・不二雄との「脚本」「絵コンテ」「キャラクター設定」「色指定の校閲」のパイプ役として打ち合わせにあたっていたという。徳丸正夫は打ち合わせをするため、24時間スタジオ・ゼロ[注 11]に待機して、空いた時間を使って藤子・F・不二雄と常に校閲を行っていたという[1]。これらの点は、井川浩ら「原作者や小学館とは没交渉のままアニメ制作が進められた」という小学館関係者の証言とは食い違っている。

放映中に制作会社が突然解散したことで残されたスタッフは債権処理などに追われた。そのためか「番組が打ち切られた報せが小学館に来なかった」と、井川浩は述べている[13][注 12]

当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという[20]。自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子・F・不二雄は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。

1979年、アニメ第2作1期が放送が開始された頃、7月から8月にかけて藤子・F・不二雄の故郷でもある富山県富山テレビフジテレビ系)で本作が再放送された[注 13]が、9回目の放送で打ち切られた[16]

元小学館専務の赤座登はこの件について、富山県での再放送の情報が小学館や藤子スタジオに入った時、藤子・F・不二雄は憤慨し、「私が作った原作のイメージと違うし、放送してほしくない。できたら何とかしてほしい」と述べ[21]、これを受けて小学館と藤子スタジオは日本テレビ版の契約書がない(作成していなかった)ことを確認し、「口頭契約は最初の放映の許諾にとどまる」という弁護士の見解を得てから、原作者の意向に沿って、小学館と藤子スタジオの連名で、放送中止を求める警告状を内容証明郵便で富山テレビに送ったと証言している[21]

一方、テレビ朝日元編成担当の高橋浩は自著で「旧作が再放送されると視聴者が混乱する恐れがあると判断したので、テレビ朝日は旧作の放送中止を小学館に申し出た。小学館はテレビ朝日の依頼に従い放送中止を求める警告状を内容証明郵便で富山テレビに送った。そのため、この再放送は9回目で打ち切られた。」と証言しており[22]、赤座証言の「藤子・F・不二雄本人が再放送に激怒して小学館に放送中止を依頼した」という内容とは食い違っている。

小学館プロダクション関係者は安藤の取材に「仮に『日テレ版』の露出があったところで(中略)現行の『ドラえもん』のイメージを損ねるマイナス露出でしかないんですよ。原作者や権利者サイドに特にメリットがないため、露出に向けて積極的に動くことはないでしょうね。基本的には触れてはいけないものという感じです」と述べ、安藤は「今のテレビ朝日版のイメージが唯一のもので、それ以外のものを出す必要はない」という「ビジネスの論理」の存在を指摘している[23]。また、それ以外の「封印」理由に「制作会社の解散から著作権の扱いが曖昧」のうえ「当時の資料が乏しいため公式でも内容を取り扱いにくい」という問題がある。

藤子プロおよび小学館が監修発刊したムック『ドラえ本3』(小学館、2000年)には写真入りで本作がわずかに解説されており、「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と紹介されている。また、藤子プロは本作についての詳細な情報を認知しておらず、「YouTubeに投稿されたオープニング映像しか見ていない」と証言しただけに留まっている[要出典]

こうした公式サイドによる本作を忌避する慣例的な見解や、雑な偽物のセル画[注 14]が出回る上、誤った情報や事実無根のデマ、資料の焼却、フィルムの散逸などから情報、露出の非常に乏しい作品となっていた。2000年代に入って元スタッフの真佐美ジュンが自らのWEBサイト上で正確な情報を公開するまでは誤った情報が公式に伝わっており、チーフディレクターが上梨満雄でなく大貫信夫とされていた[注 15]。なおスタッフ情報が間違って伝わっていた理由に日本テレビ動画が解散して当時のスタッフや状況の調査が困難になった末、1978年に杉山卓(元・虫プロダクション)が執筆した『テレビアニメ全集』(秋元文庫)において日本テレビ動画の前作品『モンシェリCoCo』のスタッフ情報を引用したためであろうと真佐美ジュンは述べている[1]

2004年末、日本テレビで放送されていた教養番組『特命リサーチ200X』において真佐美ジュンの所蔵している映像を放送する企画があったが、明確な理由が示されずにオンエアには至らなかった[24]

2006年には、藤子不二雄FCネオ・ユートピア会報誌43号(2006年12月発行、2009年08月改訂発行)にて本作の特集が行われ、チーフディレクターであった上梨満雄のインタビューや、真佐美が提供したオープニング絵コンテ、第1回スケジュール表、サブタイトルリスト、スタッフ・キャストデータ、作画設定資料、フィルムストーリー、中間報告書などの資料が掲載された。

真佐美ジュンは自身の所持するフィルムを元に無償での上映会を行っていたが、藤子プロから上映会を中止するよう要求された。真佐美側は「非営利」「無償」「無報酬」の上映会であれば、著作権者の許可を得ずに開催可能(著作権法第38条1項)であること、現在の作品自体の権利状況において上映に問題が無いことを訴えたが、結果的に両者の交渉は決裂してしまった[1]

2013年3月には野沢雅子が『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』のインタビューで実に40年ぶりに「ぼくドラえもん。」とドラえもんの声を演じている。

設定[編集]

本作のプロットは「笑いとペーソスあふれる人情ドタバタ喜劇」というものだった。

製作にあたり、ドラえもんの色を決めるのに、真佐美ジュンは『小学二年生』編集長の井川浩や『小学五年生』の坂本副編集長、『小学三年生』の上野編集者らと会い、原作者に修正など無いか見てもらうためのゲラを渡され、3色刷のカラーページを参考にして色指定を行ったという。原作の3色刷カラーページのドラえもんが青色であったので、青いドラえもんを何色か作り藤子Fの校閲を受け青色に決定した。しかし青色にしてしまったため、空の色と一緒になってしまい、作画スタッフは背景に雲を入れるなどして対処したという[1]

第1話「出た!ドラえもんの巻」には、相手の頭も体も弱くさせるクルクルパー光線銃という秘密兵器が登場している。第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」に改定を加えたものであり、原作の「クルパーでんぱ」と同様の効果を及ぼす。アニメ版ではガチャ子でなくドラえもんが使用した。後に真佐美は、今では放送不可能な名称だが、当時はまったく問題なかったと述べている[1]

真佐美ジュンは、スタッフに虫プロ出身者が多数在籍していたため、のび太が通う小学校の設定は虫プロ近くの小学校がモデルで、スネ夫の家は「明らかに手塚先生の自宅がイメージ」と述べている[25]

原作及び第2作との相違点[編集]

初期原作の設定やアニメオリジナル設定を用いているので、第2作以降とは異なる設定が複数存在する。

  • 当時の東京ムービー作品に通じる下町人情路線やスラップスティック要素が強い。
  • 本作の脚本を担当した鈴木良武は本作の方向性に、「何につけてもドラえもん頼みである原作のび太の性格に、もう少し自主性を持たせる少年にする方向で始めた番組」と明かしており、文芸担当の徳丸正夫や脚本陣が話し合い“自主性のあるのび太少年”の方向性を決定づけたという[26]。このことに関して「藤本先生としては原作の思い通りになっていないと感じていたんでしょうね。ただ、あの先生はそういうことをはっきり拒否しなかったから、僕らがそのまま勢いづいてやってしまった」と鈴木良武は原作とアニメに違いが生まれたことを認めている[26]。なお最終話のラストシーンでは、ドラえもんに頼らず転げ落ちながらも自転車の練習をする“自立したのび太”が見事に描かれている。
  • ドラえもん自体がトラブルメーカーで、のび太のために秘密兵器を出すものの、結局失敗してしまうというパターンが多く“保護者”という後年に出来上がったドラえもんの像と正反対なキャラクター像である。これは連載当初のドラえもんに顕著である。
  • 序盤は中年男性だった富田耕生がドラえもん声優を担当したこともあって、非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていた。担当声優が野沢雅子に代わって以降、原作の連載初期のような短気で自己主張が強く活発で好戦的な性格に変更され、近所の相撲大会や小学校のラジオ体操などの行事に参加したり、のび太と一緒にのび太の父親に海水浴に連れていくことを強請る描写があり、原作以上に子供らしい性格に描かれている。このように声優の性別が入れ替わるドラえもんの声変わりは、当時の視聴者に大きな衝撃を与えた。
  • 原作に5話だけ登場し、唐突に姿を消したガチャ子だが、アニメ化にあたり当時の原作数の少なさを補うために、レギュラーとして登場させたという。なおガチャ子は、野比家でなく源家に居候している。最終話では未来に帰らず、引き続き20世紀の源家に居残る。
  • 静香の家には、ボタ子という訛りが特徴的なお手伝いさんがいる。
  • ドラえもんに男の声優を採用して、“おじさん”というキャラクター像を持たせた点。
  • 富田耕生演じるドラえもんは秘密兵器を出す際、「あ~らよっ」と江戸弁でかけ声をかけていた。
  • のび太とジャイアンの普段着が赤色。
  • セワシがのび太と同じく眼鏡をかけている。
  • ひみつ道具の総称が「秘密兵器」。
  • タケコプターの名称がヘリトンボ(原作でも初期作品で使われていた)。
  • 小学校の名称は下町小学校。
  • のび太の担任の姓が我成(がなり)。
  • 本作ではドラえもんは21世紀から来た設定になっている(原作初期設定より)。
  • ジャイアンの母は故人であり、ジャイアンは父子家庭で育つ。
  • ジャイアンの父は体格が小柄で、人柄が良く息子思いの面が強調されていて、息子のためを思って無理をすることがある。腕力はとても弱い設定。名前は「小助」。雑貨屋「正直屋」を営む。元スタッフによると普段は乱暴者の剛田武の優しい一面をどうしたら表現できるかということで、このような剛田家の設定になったという。
  • 原作第1話から登場している「ジャイ子」は不在の設定。ちなみに、放映開始前後に「ドラミ」が原作に登場しているが本作には最後まで登場しなかった[27]
  • 小池さん」は登場しない。
  • れっきとした最終話が存在し、ドラえもんとの“別れ”が描かれている。

声の出演[編集]

所属事務所別では青二プロダクションテアトル・エコーが協力している。

その他ゲスト声優[編集]

スタッフ[編集]

※ ここでのスタッフ情報は日本テレビ動画の元スタッフである真佐美ジュンの記述に拠るものである。

  • 原作 - 藤子不二雄(小学館学習雑誌連載)
  • 企画 - 藤井賢祐(日本テレビ)[注 16]
  • プロデューサー - 川口晴年、米沢孝雄(日本テレビ)、佐々木一雄[注 17]
  • チーフディレクター - 上梨満雄[注 18]
  • 担当演出[注 19] - 岡迫和之、腰繁男
  • 脚本 - 山崎晴哉鈴木良武、井上知士、吉原幸栄、馬嶋満、園屁蔵士
  • 原画 - 日本テレビ動画新潟スタジオ、スタジオジョーク、上條修、竹市正勝、田中保、永樹たつひろ
  • 動画 - スタジオジョーク、秋山博雅、荒井政良志、岡山陽子、加藤輿治、楠田悟、滝波いつ子、八武崎好郎
  • 背景 - スタジオじゃっくアトリエローク、高野正道、西巻晶子、亀川尚子、平川やすし、細谷秋男、阿部行夫
  • 仕上 - 日本テレビ動画新潟スタジオ、江口マキ子、大橋啓子、黒田英里子、小林一幸、島崎あつ子、長村葉子
  • 仕上外注 - スタジオ古留美、狩野節子、若井喜治、石田康美、石田国松、石田ヤゴ、川上直子、中野則子、三宅敏博
  • 絵コンテ - 生頼昭憲、奥田誠二、吉川惣司、棚橋一徳、矢沢則夫、村田四郎、岡迫和之、石黒昇、腰繁男
  • 作画監督[注 20] - 鈴木満、村田四郎、宇田川一彦、生頼昭憲、白川忠志
  • 美術監督 - 鈴木森繁、川本征平
  • 撮影 - 菅谷正昭(株式会社 珊瑚礁)
  • 撮影監督 - 菅谷信行(株式会社 珊瑚礁)
  • 録音 - 番町スタジオ
  • 編集 - 西出栄子(スタジオ・ゼロ[注 21]
  • 現像 - 東洋現像所
  • 調整 - 田中英行
  • 効果 - 片岡陽三、小川勝男(E&Mプランニングセンター)
  • 文芸 - 徳丸正夫[注 22]
  • 選曲 - 宮下滋
  • 音楽 - 越部信義
  • 音響演出 - 近森啓祐
  • 音響制作 - E&Mプランニングセンター
  • 制作進行[注 23] - 木沢富士夫、小野忠、増田厚美、 山下一郎
  • 制作事務 - 増田一恵
  • 制作主任 - 下崎闊[注 24]
  • 制作 - 日本テレビ動画

主題歌[編集]

オープニングテーマ - 「ドラえもん」
歌 - 内藤はるみ劇団NLT / 作詞 - 藤子不二雄 / 作曲・編曲 - 越部信義
この曲を採用しているカラオケメーカーがある。曲名は「ドラえもん(旧)」という表記が用いられている。
なお、本放送時では音色とテンポがフルコーラス版と異なる。
エンディングテーマ - 「ドラえもんルンバ」
歌 - 内藤はるみ / 作詞 - 横山陽一 / 作曲・編曲 - 越部信義
クイーカの「合いの手」が多用されたルンバ風の曲。「ドラえもんのルンバ」と表記されることもある。
挿入歌
「あいしゅうのドラえもん」
歌 - 富田耕生 / 作詞 - 横山陽一 / 作曲 - 越部信義
「ドラえもん いん できしいらんど
歌 - コロムビアゆりかご会と劇団NLT / 作詞 - 藤子不二雄 / 作曲 - 越部信義
レコードは主題歌・挿入歌の4曲を収録したコンパクト盤が先行して発売、後に主題歌2曲入りのEP盤が発売された。主題歌2曲に関しては日本コロムビア続・テレビまんが主題歌のあゆみ』をはじめ、オムニバス盤CDなどにも収録されている。

各話リスト[編集]

サブタイトルクレジット部では、ドラえもんが四次元ポケットからボードを取り出した所で、ドラえもんのナレーションで「○○の巻。」と読み上げる。なおサブタイトルが「の巻」で構成されているのは、本作が唯一。

回数 放送日 サブタイトル (1) サブタイトル (2)
第1回 1973年
4月1日
出た! ドラえもんの巻 ペコペコバッタ大騒動の巻
第2回 4月8日 屋根の上のすてきな子の巻 のび太のご先祖さんの巻
第3回 4月15日 キューピットで好き好き作戦の巻 弱味をにぎれの巻
第4回 4月22日 ねずみに弱いねこもあるの巻 ガキ大将をやっつけろの巻
第5回 4月29日 おせじ鏡の巻 パパとママの結婚記念日の巻
第6回 5月6日 のろいのカメラの巻 宝くじ大当たり作戦の巻
第7回 5月13日 決闘! のび太とジャイアンの巻 私は誰でしょうの巻
第8回 5月20日 アベコンベ騒動の巻 お化け屋敷の謎の巻
第9回 5月27日 クイック・スロー大作戦の巻 のび太は雨男の巻
第10回 6月3日 ウルトラミキサーの巻 ねがい星流れ星の巻
第11回 6月10日 ふしぎなふろしきの巻 のび太のおばあちゃんの巻
第12回 6月17日 大リーグの赤バットの巻 男は力で勝負するの巻
第13回 6月24日 ガチャ子登場の巻 おしゃべりくちべにの巻
第14回 7月1日 すきすきカメラの巻 天の川でデイトしようの巻
第15回 7月8日 へんなロボットカーの巻 ニコニコせっけんの巻
第16回 7月15日 おれ署長のだいりの巻 さあ夏だ! スキーをやろうの巻
第17回 7月29日 成績表はいやだなあの巻 自分の影をつかまえろの巻
第18回 8月5日 潜水艦で海に行うの巻[28] くるったハラ時計の巻
第19回 8月12日 キャンプ騒動の巻 忘れな草って何だっけの巻
第20回 8月19日 クーラーパラソルの巻 いつでも日記の巻
第21回 8月26日 宿題お化けが出たの巻 お天気ボックスの巻
第22回 9月2日 ぼくに清き一票をの巻 まんが家修行の巻
第23回 9月9日 すてきなガールフレンドの巻 花いっぱい騒動の巻
第24回 9月16日 そっくりクレヨンの巻 静香の誕生日の巻
第25回 9月23日 宇宙飛行士になりたいの巻 まいごマゴマゴ大騒動の巻
第26回 9月30日 ネンドロン大騒動の巻 さようならドラえもんの巻

関東地区の平均視聴率は6.6%、最高視聴率は9.1%(ビデオリサーチ調べ)[6]

第16回と第17回の間の7月22日は、「オールスターゲーム・第2戦中継大阪球場。読売テレビ制作。枠は19:00 - 21:25)のため休止。

最終話「さようならドラえもんの巻」について[編集]

ストーリー
自転車に乗れないのにしずか達とサイクリングに行く約束をしたのび太。いつものようにドラえもんを頼ろうとしていたのだが、何故かドラえもんはのび太を冷たく突き放す。ドラえもんは、自分に頼りっきりなのび太の自立心を養うためにセワシと相談の結果未来へ帰ろうと考えていたのだが、何かと優しくしてくれるのび太にそれを言い出せないままだった。そこでガチャ子と一計を案じ、「ドラえもんの調子が悪くなった」という口実で未来に帰る事をのび太に告げた。のび太は泣き出してしまうが「ドラえもんを治すためなら我慢する」と言った。それを聞いて感動したドラえもんは真実を告げ、のび太もそれを受け入れてくれた。その後、仲間らと送別会を開いたドラえもんとのび太は、いつかの再会を誓い、最後の別れを告げた。
未来に帰った後、ドラえもんはセワシと共にタイムテレビを通して自転車に乗る練習をするのび太を温かく見守っていた。
解説
本エピソードの原作は、6巻収録の「さようなら、ドラえもん」ではなく、雑誌『小学四年生1972年3月号に掲載された「ドラえもんがいなくなっちゃう!?」(藤子・F・不二雄大全集第1巻収録)である。これは真佐美が提案したもので、真佐美が幼いころ、板金塗装会社に勤めていた父親を浦和駅まで迎えに行くために、自転車を練習した思い出と重なったからだという[5]

放送局[編集]

本放送[編集]

系列については放送当時のもの。

放送地域 放送局 放送期間 放送日時 放送系列 遅れ
関東広域圏 日本テレビ 1973年4月1日 - 9月30日 日曜 19:00 - 19:30 日本テレビ系列 制作局
北海道 札幌テレビ 同時ネット
青森県 青森放送
秋田県 秋田放送
山形県 山形放送
山梨県 山梨放送
富山県 北日本放送
福井県 福井放送
中京広域圏 中京テレビ
近畿広域圏 読売テレビ
山口県 山口放送
香川県 西日本放送[注 25]
愛媛県 南海放送
徳島県 四国放送
高知県 高知放送
福岡県 福岡放送
岩手県 テレビ岩手 日本テレビ系列
NETテレビ系列
宮城県 ミヤギテレビ
福島県 福島中央テレビ
鳥取県島根県 日本海テレビ
広島県 広島テレビ[注 26] 日本テレビ系列
フジテレビ系列
長崎県 テレビ長崎
熊本県 テレビ熊本 フジテレビ系列
日本テレビ系列
NETテレビ系列
大分県 テレビ大分
宮崎県 テレビ宮崎
鹿児島県 鹿児島テレビ
新潟県 新潟放送 1974年9月4日 - 10月11日 平日(帯放送) 17:00 - 17:30[29] TBS系列 本放送終了後に放送
沖縄県 琉球放送 放送時期不明 放送時間不明 遅れネット
静岡県 テレビ静岡 1975年4月17日‐不明] 木曜18:00 - 18:30 フジテレビ系列

石川県長野県岡山県佐賀県での放送状況は不明。

再放送[編集]

一部地域では、本放送時代とは別の局で放送されていたが、その局も記載する。

  • 日本テレビ 1974年3月27日 - 5月2日、1975年4月1日 - 5月6日
    • 1974年度 月曜~金曜 朝8時20分~8時55分→月曜~金曜 8時00分~8時30分(休止1回、全26話)
    • 1974年4月29日は「おめでとう天皇陛下」を放送。
    • 1975年度 月曜~金曜 8時00分~8時30分
  • 青森放送 1974年12月5日 - 1975年1月17日
    • 月曜~金曜 16時55分~17時25分(5回休止)
  • テレビ岩手 1975年1月5日 - 2月17日(5回休止)
    • 月曜~金曜 17時00分~17時30分
  • 福岡放送 1975年4月17日 - 5月22日
  • 読売テレビ 1975年5月12日 - 6月12日
    • 月曜~金曜 18時00分 - 18時30分、全25話。
    • 最終回は未放送。
  • 広島ホームテレビ(NETテレビ系列) 1975年5月22日 - 6月26日
  • 宮城テレビ 1975年7月9日 - 8月18日
    • 月曜~金曜 8時00分 - 8時30分、全25話。
    • 最終回は未放送、休止は4回。
    • 「パパとママの結婚記念日の巻」と「おせじ鏡の巻」が別の日に書いてあるなど、順番が混乱している。
  • 熊本放送(TBS系列) 1977年もしくは1978年
  • 富山テレビ(フジテレビ系列) 1979年7月24日 - 8月3日
    • 藤子F名義による小学館からの打ち切りを求める警告状が富山テレビに送られ、8月3日の第9回をもって強制的に打ち切られる。これ以降再放送は途絶える。
    • 1980年に日本テレビでのフィルム管理期間が終了。その後のフィルム管理先は一切不明。

現存映像[編集]

放送終了後、フィルムは制作局の日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていたが、日本テレビでの管理期間終了後に散逸したとされている。さらに、事実上の封印措置と制作会社の消滅という事象も重なり、現在はネガはもとよりコピーポジフィルム保管先も不明(或いは散逸)といえる状況である。

テレビアニメ作品の著作権は通常、制作プロダクションが保持することになっているが、制作会社である日本テレビ動画の消滅により本作の著作権は、不明瞭のままになっている。本作の印象から日本放送映画→東京テレビ動画→日本テレビ動画までの作品全ての版権が不明瞭になっていると誤解されることがあるが、日本テレビ動画作品にはビデオ化や再放送の行われた作品が多数存在するため、現在でも同社から作品の版権を引き継いで管理している者が存在するとみられる。

元スタッフの真佐美ジュンが個人的に保管している8話分のラッシュフィルムのほか、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA)に保管されている第18回、第20回 - 第26回のネガフィルムの現存が確認されている。真佐美の保管しているラッシュフィルムは、現像して上がってきたフィルムをリテイクした未放送の16ミリフィルムであり、実際の放送に使用されたものではない。

なお、IMAGICAでは、日本テレビ動画の前身にあたる東京テレビ動画が製作した劇場用作品の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』のネガフィルムも発見された。こちらは、2005年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映が行われたことがある。

1973年公開の山本晋也監督のピンク映画「ドキュメントポルノ 続・痴漢」(プリマ企画)では、開始後34分付近の男性医者がアパートの女性の住む部屋を覗くシーンで、背景のモノクロテレビの画面に本作の映像が写り込んでおり、動く映像を30秒ほど見ることができる。その後、裏番組の「マジンガーZ」にチャンネルが変えられている(音声は別録音されたと思われる「ワンサくん」のものを使用)。

現存が確認されているもの[15]
  • オープニング(※真佐美保管のものは音声・クレジットなしのラッシュフィルム、IMAGICA保管のものは音声・クレジットあり)
  • エンディング(※真佐美保管のものは第2回、IMAGICA保管のものは第18回、第20回 - 第26回)
  • パイロット版「出た!ドラえもんの巻」 - 真佐美保管
  • 第7話「ガキ大将をやっつけろの巻」(※無音のラッシュフィルム) - 真佐美保管
  • 第8話「ねずみに弱い猫もあるの巻」(※無音のラッシュフィルム) - 真佐美保管[注 27]
  • 第9話「おせじ鏡の巻」 - 真佐美保管
  • 第20話「ねがい星流れ星の巻」 - 真佐美保管
  • 第24話「男は力で勝負するの巻」 - 真佐美保管
  • 第35話「潜水艦で海へ行うの巻」 - 真佐美・IMAGICA保管
  • 第36話「くるったハラ時計の巻」 - 真佐美・IMAGICA保管
  • 第39話「クーラーパラソルの巻」 - IMAGICA保管
  • 第40話「いつでも日記の巻」 - IMAGICA保管
  • 第41話「宿題おばけが出たの巻」 - IMAGICA保管
  • 第42話「お天気ボックスの巻」 - 真佐美・IMAGICA保管
  • 第43話「ぼくに清き一票をの巻」 - IMAGICA保管
  • 第44話「まんが家修業の巻」 - IMAGICA保管
  • 第45話「すてきなガールフレンドの巻」 - IMAGICA保管
  • 第46話「花いっぱい騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 第47話「そっくりクレヨンの巻」 - IMAGICA保管
  • 第48話「静香の誕生日の巻」 - IMAGICA保管
  • 第49話「宇宙飛行士になりたいの巻」 - IMAGICA保管
  • 第50話「まいごマゴマゴ大騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 第51話「ネンドロン大騒動の巻」 - IMAGICA保管
  • 最終話「さようならドラえもんの巻」 - IMAGICA保管

本作前後の他の『ドラえもん』映像(企画を含む)[編集]

日本テレビ動画が『ドラえもん』を企画しなかったら、それまで多くの藤子アニメを製作した東京ムービーが『新オバケのQ太郎』の後番組として製作する可能性があったという[注 28]

日本テレビ動画が本作を企画した1972年には、ピー・プロダクションうしおそうじによるフジテレビをキー局とした、もう一つの『ドラえもん』の企画があったとされる。作者の藤子不二雄両人もピープロに訪れ「実写でやろう」と同意。この際にドラえもんの声優として挙がっていたのが、奇しくも大山のぶ代だった。大山の起用は、先にピープロ制作のアニメ『ハリスの旋風』での演技を見込まれてのことだった。既にドラえもんの着ぐるみまで試作されていたものの、この企画がどの程度具体化し、どの時点で頓挫したかについては不明[30]

本作終了後、1976年から江崎グリコの「アーモンドグリコ」の内箱にドラえもんや里中満智子のイラストが掲載されていたが、この時テレビCMに登場したドラえもんは、本作後期の野沢雅子が担当していた。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 2005年4月より放送中のシリーズのDVDは『NEW TV版 ドラえもん』というタイトルで発売されている。
  2. ^ 当時、日本テレビ動画は東京都中野区と元来の本拠だった新潟市にスタジオを構えていた。「東京に本社を移した」とされるが、安藤健二の調査では登記上は最後まで本社は新潟であった[3]
  3. ^ 同系列である『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』(2013年3月放送)でも伝えられた。
  4. ^ 第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」に改定を加えたもの。
  5. ^ a b MSN産経ニュース2009年1月12日の記事には、「3クール目への続行も決まりかけた」とある[5]
  6. ^ 放映当時、キー局の関東地区など民放4局マストバイ地域では裏番組として『マジンガーZ』(フジテレビ)や『アップダウンクイズ』(毎日放送制作・NETテレビ)などが放映されていた。一方、広島県や福岡県を除く九州各県など日本テレビ系とフジテレビ系をクロスネットとしていた地域では、『マジンガーZ』を遅れネット(または競合他局への放映譲渡)とした上で、本作を同時ネットしていた。なお本作でドラえもんを演じた富田耕生は、『マジンガーZ』でもレギュラーキャラクターであるドクターヘルとヌケ(ボスの子分)の二役を演じていた。
  7. ^ その後、渡邊はフィリピンに移住し、1986年5月に拳銃密輸で逮捕、送検されている。送検・起訴後の報道はなく、以後の消息などは不明[8]
  8. ^ 安藤健二の調査では、登記上の日本テレビ動画の代表取締役は稲庭で[3]吉川惣司は安藤の取材に対して稲庭を「会長だけどお金を出すだけ」と述べている[9]。真佐美も安藤の取材に対して「稲庭会長」と呼んでいる[10]
  9. ^ 生前、公の場で明確に本作を否定した発言はない[16]。ただし、後述の富山テレビでの再放映を知った際の反応のほか、第三者による証言として
    • 新旧両方の『ドラえもん』に関与した川本征平は「以前やったことは非常に悔いが残る」といったことは言われた[16]
    • 安藤健二の照会に対して藤子スタジオ代表取締役(当時)は「『本来のドラえもんの持ち味を出していない作品であり、作品のイメージとはかけ離れたものであった。海外の輸出用として制作されたアニメーションのようで、作者として気に入った作品ではなかった』と申しておりました」と文書で回答した[17]
    • シンエイ動画元社長の楠部三吉郎は、再アニメ化の許諾を得た頃に「『ドラえもん』だけは(引用者注:『オバケのQ太郎』や『パーマン』と違って)出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です」と言われた[18]大山のぶ代も本作の再アニメ化に対し「嫁に出し傷ついて帰って来た娘を再び世に出すのは嫌だ」と、難色を示す発言を藤子・F・不二雄から聞いたと夫の砂川啓介が記している[19]
    といったものがある。
  10. ^ 作品初期は、まだ藤子Fと藤子Aの作品ごとの分業が完全に確立しておらず、藤子Aとその関連スタッフも本作品に若干関わっていたとされる。
  11. ^ かつて藤子スタジオはスタジオ・ゼロのビル内に在所していた。
  12. ^ そのため、最終回後に発行された『小学四年生』1973年11月号掲載の『ドラえもん』の扉絵には「テレビ大人気放送ちゅう」とのあおり文句がある(安藤、1982年、p.63に該当ページの写真が掲載されている)。
  13. ^ 富山県では当時、アニメ第2作1期が放送されていなかった。1980年に入ってようやく北日本放送でネット開始された。
  14. ^ のび太がドラえもんに洗面器を渡している構図のセル画で、元スタッフの真佐美ジュン(下崎闊)は日本テレビ動画で使用されたセル画ではないと否定した。
  15. ^ 徳間書店の『TVアニメ25年史』(1988年)や文化庁の公式サイトには本作のスタッフ情報に正延宏三辻真先永樹凡人などの表記もあったが、後に関わっていなかったことが判明している。
  16. ^ 日本放送映画岡迫亘弘の証言によれば、藤井は東京テレビ動画(日本テレビ動画の前身)社長の渡邊清(別名・新倉雅美)からの贈与の見返りに仕事を与えていたが、それが日本テレビに発覚して東京テレビ動画への発注がなくなったという。また、日本テレビ動画が解散したのを最後に藤井は業界から姿を消している(後継のアニメ企画者は吉川斌が担当)。安藤は藤井を「故人」と記しているが、没年などは記載していない。
  17. ^ 日本テレビ動画のプロデューサーで『ドラえもん』の企画をテレビ局へ持ち込みセールスを行っていた中心人物。手塚プロダクションを退社した真佐美ジュンに制作主任を依頼してパイロット版を共に制作した。日本テレビ動画の解散後は故郷の仙台に帰って行ったという。
  18. ^ 演出を誰にするか真佐美ジュンは佐々木一雄と相談した結果、前作品『モンシェリCoCo』のスタッフをリストから外し、真佐美は虫プロの演出家であった上梨満雄を「作品に入り込むと妥協を許さない」という思いから佐々木に強く推薦したという。真佐美は上梨満雄の自宅に押しかけ、演出を引き受けてくれるよう何度も懇願し、「日本テレビ動画」で若手を育てようという将来の夢を語るなど幾度の交渉を経て上梨は説得に応じ、真佐美はチーフディレクターとして上梨を迎えたという。
  19. ^ 上梨満雄の演出助手を担当。
  20. ^ 交代で担当。
  21. ^ ネガの編集はスタジオ・ゼロで行い、ラッシュ作業は日本テレビ動画で行った。
  22. ^ 原作者とのパイプ役を担当。パイプ役にはプロデューサーの佐々木一雄が推薦したという。
  23. ^ 当初、制作進行は日本テレビ動画の木沢富士夫の一人だけで、1話を4週間で制作するには人材不足であった。そのため社員を新聞広告で募集して増田厚美、山下一郎、小野忠の3人を採用したという。採用した3人は日本テレビ動画の解散後にアニメの業界から去ったと真佐美ジュンは述べている。
  24. ^ 現場の最高責任者としてスケジュールの作成管理、スタッフの手配決定、外注の選択決定、単価の交渉など担当した。放送終了後、日本テレビ動画の解散による金銭トラブルに関して自ら責任を取り、アニメの業界から引退した。
  25. ^ 当時は香川県のみ放送対象エリア。まだ岡山県に進出していなかった。
  26. ^ フジテレビ系列で同時間帯の『マジンガーZ』は2日遅れの火曜18:00 - 18:30枠で放送した。
  27. ^ 決定稿台本(まんだらけ)は現存している。
  28. ^ 結果的には、北日本放送国際放映制作のテレビドラマ『ゲンコツの海』が『新オバケのQ太郎』の後番組となった。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 下記外部リンクにある真佐美ジュンのインタビューでそのように証言されている。
  2. ^ a b 安藤、2008年、pp.51 - 54
  3. ^ a b 安藤、2008年、p.56
  4. ^ 安藤、2008年、p.48
  5. ^ a b c d e f MSN産経ニュース2009年1月12日
  6. ^ a b 安藤、2008年、pp.18 - 19
  7. ^ 安藤、2008年、p.20
  8. ^ 安藤、2008年、pp.78-79
  9. ^ 安藤、2008年、p.75
  10. ^ 安藤、2008年、p.65
  11. ^ a b 安藤、2008年、pp.64 - 65。真佐美ジュンの証言内容はプロデューサーだった佐々木一雄からの伝聞という。
  12. ^ 安藤、2008年、pp.113 - 114
  13. ^ a b c d e 安藤、2008年、pp.61 - 63
  14. ^ 安藤、2008年、p.45。このページのリストでは後述の富山テレビの再放送以前に全国の8局で9回(日本テレビのみ2回)の再放映がおこなわれたことが示されている。
  15. ^ a b c 安藤、pp.29 - 32
  16. ^ a b c 安藤、2008年、pp.41 - 43
  17. ^ 安藤、2008年、pp.39 - 40
  18. ^ 楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』小学館、2014年、p.25
  19. ^ 砂川啓介『カミさんはドラえもん』双葉社、2001年
  20. ^ 安藤、2008年、p.97。この内容は当時藤子・F・不二雄のアシスタントだったえびはら武司の証言による。
  21. ^ a b 安藤、2008年、p.44 - 45。
  22. ^ 高橋浩『視聴率15%を保証します!』小学館〈小学館新書〉、2014年
  23. ^ 安藤、2008年、pp.37 - 38
  24. ^ 安藤、2008年、pp.27 - 28
  25. ^ MSN産経ニュース2009年1月11日
  26. ^ a b 安藤、2008年、pp.48 - 49
  27. ^ 日本コロムビアから発売された主題歌のレコード(SCS-515)のジャケットにはドラミも描かれている。
  28. ^ アニメ 旧ドラえもん大研究 旧ドラを観た
  29. ^ 北國新聞縮刷版 1974年9月および10月分より。なお当時、日本テレビ系列でもあった新潟総合テレビは本来の時間帯に日曜19:30枠の『マドモアゼル通り』などを30分先行ネットしていた。
  30. ^ 幻の「ドラえもん」アニメ企画書”. くだん書房. 2014年2月16日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

いずれも個人サイトである。

真佐美ジュン公式サイト
真佐美ジュンへのインタビューを含むもの(真佐美ジュン公式以外)
その他の関連サイト
日本テレビ 日曜19:00枠
【当番組まで日本テレビ制作枠】
前番組 番組名 次番組
ドラえもん
(第1作)
全日本歌謡選手権
【ここから読売テレビ制作枠】
【月曜19:30から移動】